第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
六節 共産主義が人間の精神に齎したもの
「JI」89年9月号初出 ラファエル様メッセージ全文
「今テレビや新聞などのマスコミを最も賑わしているのは、
自民党政府新内閣発足と海部新首相の"対話と改革"に向けて着手のニュースと、
埼玉県に発生した一連の幼児誘拐殺人が、
どうやら同県近く東京都西多摩郡に住む印刷業経営者の息子(注。宮崎勤のこと)で、
自閉的な性格の青年によるものらしい。
しかし、一つの事件のみ青年が自白し、後は状況証拠のみの推測、分析、検証の繰り返しで、
残りの三件の立証はまだ出来ていない段階の報道です。
[現在殆ど物証が揃ってきているようです(九月一日)。]
まず後者について考えられるのは、女子高校生を誘拐、リンチ殺人の末、
コンクリート詰めにした共産党員の息子と、その遊び仲間で共犯者との共通性であり、
最近の全国に多発のウサギやネコなど弱い動物を惨殺するケースとの心理的関連です。
奇妙に男子で弱者の殺傷は殺人者自身がいじめられて、
その憤懣を下位の者に打(ぶ)つける場合が多く、
又、いじめられるタイプは内攻的で、ストレスの発散解消法を知らないか、出来ないから、
遂に究極的な破壊 ー 殺人又は幼児に等しい無抵抗な動物(ウサギなど)を殺して、
一時的な狂気の衝動を瞬時に発散、解消してしまう。
そういう精神症状が見られるのです。
社会の病的嗜好と歪みが作り出す、フロイト(モーセ様本体)に言わせれば、
"リビドーの発散"という現象でしょう。
人間社会に住むから、
このストレスは九九%対人関係の歪みやひずみから生まれ、蓄積されたものですが、
特に昨今のリベラル礼讃の傾向から"性の解放"といったスローガンで、
男性好みの過剰な興味本位の表現が、青少年から成人男女(老年も含め)に与える悪影響は、
つとに気持ちの余裕を失くし、殺伐とした病的な性格を作り上げております。
これは欧米のリベラル思想とその影響を受ける青少年や一般人にも言えることで、
(左翼的)マルクス・レーニン主義の信奉と実践に他ならないもの。
このような自由主義社会の人心の退廃と絶えざる闘争をかき立て、
内紛による家庭と国家の弱体化、崩壊を目指しているのです。
"性の解放"運動なるものは、人間の高等感情即ち情操の育成とは関わりなく、
大脳旧皮質の生命への執着が、
人間以外の動物や植物によってストレートに表現される
"弱肉強食"正にその生存競争の強化訓練とでも言えるでしょう。
"人間であることを放棄させる"運動でしかありません。
愚かの限りです。
リベラリズムの他の面 ― "女性解放"の動きは確かに良い面もあります。
男女共にそれぞれ性格の一長一短があり、
それを補い合う社会がバランスの取れた平和で健全な社会と成り得るからです。
その点から見て
今回の自民党の海部新内閣は老若男女混成の理想的な組織であり、
しかもそれぞれに有能で、経験と知識に欠ける閣僚は一人もいない。
知的レベルの高い智恵者の集まりと言えます。
スローガン通り、"対話と改革"を貫くならば、
土井たか子女史の偏見と独善による発言の"表紙が変わっただけで中身は同じ"
といった軽薄な内閣ではあり得ないでしょう。
天上の者は大いに期待しております。
私はもっと女性閣僚を増やしても良かったと思っております。
自民党の女性議員が、
他党の一点のみに固執して他に耳を貸さないヒステリックな女性議員に比して、
如何に性格、人格共に公正で寛容。旨みがあり、賢明であり、人間としても魅力ある人々か ー
いずれ判ることでしょう。
リベラル思想のタレント議員や左翼支持のニュースキャスター及び有名人(女性)などの
自己顕示過多の面が見られないことが、人間としての巾の広さに通ずるものがあり、
内面の魅力を増すものなのです。
土井たか子女史がマルクス・レーニン思想を信奉し、左翼を肯定し続ける限り、
彼女の偏狭で愚かな独善性と、良識的な人々に与える不快感は是正されないでしょう。
唯一の自由主義保守派である英国の女性首相、サッチャー女子を除いて、
他の女性首相は総て偏狭で、
国の繫栄と国民のあらゆる階層の自由と幸福を齎し得る能力は持ち合わせて居らず、
又、現在まで成功してはおりません。将来も同じです。
彼女等がマルクス・レーニン思想以上のものに目を向けず、又向ける能力がないからです。
衆院議員選直前にマスコミに報道された、一般人の"自民党が良い"とした意見に、
"めんどりが鳴くと国が滅びる"と言った人がありましたが、正にその通り。
自らの所信のみを強引に通し、力で他を押さえ付けようとする他党の態度は、
土井たか子氏も含め他党の女性議員に顕著で、彼女らが首相の地位を獲得するならば、
事の一面しか見えない視野の狭さにより、早晩国が滅びるのは動かし難い事実となるでしょう。
そのような女性に追随する男子も同様の性格、思考の持ち主。
国を滅ぼす為の黒幕か、愚かなめんどりの道具でしかないのです。」
"如何なる精神が共産主義を齎したか"
「生存」 1986年5月号掲載 ジェイアイ出版
「大石内蔵助とマルクス ー 新共産主義批判 ー」野沢健治(評論家)
(『知識』第35号より転載)
「史上未曽有の差別思想
マルクスの人間観の根本は、あえて露骨にいえば、
現代の"資本主義"体制下には「ブルジョアジー」と「プロレタリアート」という、
まったく質を異にする二種類の人間があり、
前者を絶滅し後者がすべてを独占的に支配しなければならない、という思想である。
"差別"に反対を唱えながら、これほど徹底した差別思想は史上類を見ない。
マルクスの構想した壮大な論理は、例のお決まりの陳腐な図式 ー
原始共同体、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会、社会主義社会、共産主義社会と、
歴史が必然的に発展するという唯物史観(註)自体も含めて、
単に上記の命題をもっともらしく合理化したものに過ぎない。
(原註。
周知のごとく、マルクス自身は、「アジア的古代封建的および近代ブルジョワ的生産様式」
(経済的批判序言)という、ごく漠然とした時代区分を示したに過ぎない。
それが大衆を瞞着する必要上、エンゲルス、カウツキー、レーニンなどの手を経るうちに
次第にもっともらしいものへと改作され、最後にスターリンがこれを不動の教義(ドグマ)とし、
宗教的な呪縛力を持つものに仕立てあげたことはあえて説明するまでもなかろう。原註終)
その証拠に、マルクスは『共産党宣言』の冒頭に
「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。
自由民と奴隷、都市貴族と平民、領主と農奴、ギルドの組合員と職人、
要するに圧制者と被圧制者は常にたがいに対立して、時には暗々のうちに、時には公然と、
不断の闘争を行ってきた云々」と、大見得を切りながら、
生涯をかけて曲がりなりにも科学的な根拠づけを行ったのは『資本論』だけ。
すなわち、収奪者たるブルジョアジーは不可避的に滅び、プロレタリアートが勝利する、
という"歴史的必然性"を証明するということだけであった。
これは何よりも彼の関心が、憎みても余りある「ブルジョアジー」に対して、
絶対に逃れえぬ死刑宣告をくだすことにしかなかったことの明白な証明である。
天才的なアジテーターであるとともに、不幸にもその才能とは真向から矛盾する
哲学者としての天分と虚栄心とを併せ持っていたマルクスは、
それ以上に手を伸ばせばたちまち論理が破綻し、馬脚をあらわすことをよく承知しており、
後世それを指弾されて笑いものにされる屈辱に、耐えられなかったのであろう。
なんとか人の目をごまかせそうな資本論、それも、第一巻出版するだけにとどめた。
そう解釈する以外に、彼が、厖大な草稿(経済学批判要綱)を
すでに一八五七年十月から五八年三月までの六ヵ月間に執筆し終わっていながら、
その後、一八六七年『資本論』第一巻を出版し、
さらに一八八三年に死去するまで十七年の長きにわたって、
その草稿を手もとに握りつぶしたまま墓場に行ったのか、説明がつきかねる。
このマルクスの矛盾をはからずも"止揚統一"したのがエンゲルス ー
哲学者としてはお世辞にも一流とは言いがたいが、
複雑な事象をいとも明快に単純化、神秘化して、
大衆に解説して煽動することにかけてはまさに天才的なジャーナリストであり戦略家。
マルクスの理論に従っていえば、
労働者から"余剰価値"をほしいままに搾取していた有能な実業家でもあったエンゲルスである。
革命家としてだけでなく、哲学者、科学者としての名声をも得たいと未練たっぷり、
両立しない二兎を追いかけていたマルクスとは異なり、
エンゲルスには「革命」というビジネスをいかに成功させるかという事にしか、
恐らくは関心がなかった。
そのためには、途方もない独創的な発想と総合の天分を持つこのマルクスを目玉商品として、
労組や新しがり屋のインテリに売りつければ、"資本主義"体制の命運もはやそれまでと、
ロマンチックな思いに胸をときめかせていたものと想像される。
けなげなエンゲルスは、残された彼にしか読めない悪筆のマルクスの『資本論』の草稿を
清書し編集するという難事業に取組むとともに、
マルクスが敬遠した資本主義以前の歴史発展の問題について、
モルガンを盾にとって『家族、私有財産および国家の起源』を書き、さらにさかのぼって、
『猿が人間化するにあたっての労働の役割』その他の諸論文をもって補完しさえした。
よく恥ずかし気もなしに … (もっとも、『猿が … 』の方は、
まさかこれがそのまま活字になるとは夢にも思わずに書きなぐった私的な覚え書を、
彼の熱狂的なファンが勝手に机の底から引っ張り出して公開したものであるが)。
これは一体、哲学なのか?
たとえば『家族…』の中の次のような文章を読者はどう思われるか?
【〖単婚はけっして個人的性愛の果実ではなかった …
それは、自然的条件にではなく経済的条件に、
つまり本源的な自然発生的な共同所有者にたいする私的所有の勝利にもとづく、
最初の家族形態であった。…
このように、一夫一婦制が歴史に登場するのは、けっして男女の和合としてではなく、
いわんや、その和合の最高形態としてではない。その反対である。
それが登場するのは、一方の性の他方の性の圧制としてであり、
それまで先史の全期をつうじて知られることのなかった両性の抗争宣言としてである。
一八四六年にマルクスと私が書いた古い未完の草稿には、つぎの一節が見出される。
「最初の分業は、子供を生むための男女の分業である」〗
〖そして今日、私はこれにつけ加えることができる。
歴史に現れる最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係の発展と合致し、
また最初の階級抑圧は、男性による女性の抑圧と合致する〗】
このあとに、「エンゲルス」という神聖な著名がなければ、
恐らく大抵の読者は、マルクスの神秘めかした逆説的表現を
おちょくったパロディーとしか思わないのではなかろうか?
(私が駒場の学生だった頃、名簿がアイウエオ順で、
「ノ」の次が「ハ」である事から席順がたまたま隣同志となって、
生物や物理の実験をペアを組んでやったことが縁となり、
ご存知、畑正憲ムツゴロウ氏の自称"親友"となり、
彼の企画で『現代寮生気質(かたぎ)』という駒場祭での創作諷刺劇の台本を書く役割を
引き受けたことがある。
当時の左翼の"革命の闘士"の大げさなアジ演説を皮肉って、
二人で腹をかかえて笑いころげながら、
「この重大なる危機にあたって、私は諸君に心から訴える。
諸君、我々の生活は実に苦しい。
十二円のクジラ・ソーテを買いかねて、三円の味噌汁をメシをのみくだす。
それにさえ困って、寮(量)から質への弁証法的転化を試みる者さえいる」
などと演説する場面を書き、大いに受けた記憶がある。
まさにそのたぐいの、学生のあくどいいたずらだとしか思われぬのではなかろうか?)
これはそもそも"哲学"なのか、"科学"なのか、ー
マルクス学者の諸先生にとくとお伺いしたいものである。どう好意的に見ても、
"天才的なアジビラ"だという以上の誉め言葉は与えがたいのではなかろうか。
同名の試験問題を出して、こんな答えを書く学生がいたら、
東大の哲学教授は一体何点を与えることか興味津々である。
浅くはあるが、どんな分野でも主だった専門文献をあっという間に読みこなし、
それに即座にいっぱしの洒落たコメントを書くことができたのだから、
エンゲルスの知能指数がとび抜けて高かったことは筆者も認める。
日本でいえばさしづめ"立花隆"というところか。
しかし、彼が書き残した論文はみなこのように(商売が忙しかったようだから
その点同情はするものの)、「哲学」とも「科学」とも分類しがたい
奇妙きてれつなエッセーないしアジテーションばかりなのである。
諷刺文学としてガリバー旅行記の左に並べるか、
『猿が…』などはさしずめSFの項目に置くぐらいの思案しか、愚昧なる筆者には思い浮かばない。
しかし、まさしく"実践的"には絶対な効果を発揮し、
世界各地で総計二億はくだらぬと推定されている大量で残忍無類の集団殺戮(ジェノサイド)
をもたらしたのだから、マルクスだけはフォイエルバッハの第十一テーゼ
(哲学者の責務は世界を認識することではなく、変革することだとするもの)に従って、
エンゲルスこそ真の哲学者だと、絶賛を惜しまないであろう。
とりわけ、上記のように、
マルクスの哲学者(さらには科学者)としての名声に傷がつかぬように、
エンゲルスは、貴族であったマルクスの妻イエニーが結構の際に連れて来た忠実なお手伝い、
ヘレーネ・デムートにマルクスが生ませた私生児をあえて自分の子だと認知したのと同様、
自分の子とは正面切っては認知したくない数数の思想の雑婚の産物である気恥ずかしい私生児を、
英雄的な犠牲的友情をもってあえて自分の著作として発表するという
道化役を買って出てくれたおかげで、
彼の終生の執念であった革命の方も、成功し過ぎるほどの成功を収め、
不世出の哲学者であるとともに史上最大の革命家でもありたいという、
まったく虫の良い矛盾した欲望を、"止揚統一"してくれた大恩人なのだから。
マルクスはエンゲルスに、どれほど大きな月桂樹を捧げても惜しいとは思わないであろうし、
また捧げる倫理的責任をエンゲルスに負っているといわなければならない。
実際、このエンゲルスを始め、彼に続くレーニン、スターリン、毛沢東、
金日成等々の一連のマルクス思想の継承者たちは、
実に実にこのフォイエルバッハの第十一テーゼに終生忠実であった。
彼らはすべて、世界を「認識」することなくして「変革」するという非理性的な
(ズバリ、非科学的と言ってもよい)蛮行を一片の妥協もなしに、無慈悲に強行したのだから。
マルクス思想の本質
「木はそれぞれ、その実でわかる」という。
彼等がその思想によって世界に何をもたらしたか、
その「実」を中心に据えて、マルクスの心中を逆投射してみれば、
マルクス思想の本質がありありと透けて見える。
マルクスは"資本主義"体制に絶対に逃れ出られぬように用意周到に罠を張りめぐらせた末、
寸分の情状酌量の余地も残さぬ死刑宣告をくだした。
そして、それ以上のこと(革命後に生まれて来ると彼のいう理想郷(ユートピア) ー
共産主義というものがいかなるものであり、またいかにして実現せしめるかという
最も肝心の問題を含めて)はなにもしなかった。 ー なぜか?
エンゲルスはあれほどの卓越した知能を持ちながら、
常識的立場から見るならば、ただすこぶる面白い諷刺文学とSFを書き残したのみで、
まじめな検討にあたいする哲学的業績も科学的業績も残さなかった。
マルクスが自己の哲学者としての名声を傷つけぬよう、きわめて用心深く抽象化した
「唯物史観」の「輪郭」を提示するにとどめた(経済学批判序言)のを、
エンゲルスは、もし意識的にあえてやったのではないとすれば、
まったくのおっちょこちょいと言うしかない強引なこじつけによって
それに具体的な「内容」を与えた。
しかし、それはしょせん検証可能性も反証可能性もない単なる虚構(つくりばなし)、ー
スコラ的形而上学に過ぎない、
こんなフィクションの創作にその貴重な全生涯を捧げる気にさせたものは一体なにか?
死刑宣告をくだし、それを「実践」して、そのあとなにもしないこと、ー
これをわれわれの普通の用語では「復讐」という。
そうしてあらゆる知謀をめぐらせて死刑上に引きずり込み、
用意周到にいかなる返答をしても死刑をまぬがれぬように論理と、
組み立てた判決書を突きつけること、ー
これを普通の用語では「謀略」と呼ぶ。
マルクス思想とは哲学でもなければ、科学でもない。
要するに単なる「復讐の謀略」であり、それをごまかすために、
その上に「科学」というレッテルを貼りつけただけのことなのである。
毒を毒だと言って飲ますばかはいない。
必ず薬だと信じ込ませて飲ませる。
深く物事を考えぬ者が最も容易に信じ込む魔力を備えた言葉 ー
それがまさに「科学」である。
マルクスとエンゲルスは、最も安全確実に思い込ませる
「科学」という名のラベルを貼った猛毒を、加害者にも被害者にも飲ませ、
その結果、二億もの人間が無意味に命を失った。
そしてあとには何もなかった。
これはこの思想形成のいきさつを追跡研究すれば、当然の話だと思う。
少なくともマルクスの関心の焦点は、
ちょうど大石内蔵助のように、ただ「復讐」(仇討ち)ということのみにあり、
極言すれば、その後のことは、彼にとってどうでもよかった。
彼が"資本主義"に対する死刑宣告をくだすことのみに全精力を集中し、
資本主義に代わる「永遠の楽園」である共産主義体制について、
ごく抽象的なこと以外何も書かなかったのは、俗説のように「唯物論」のゆえではなく、
彼がその後者について事実上、ほとんど関心がなかったため。
と言って語弊があるなら、復讐への執念があまりにも強く彼の心の全面を占領しつくし、
後者について考えるゆとりすらなかったためだ。
この建設性のまったく欠如した復讐の執念が、二億人の人命を奪うという悲劇のほか、
何も生み出さないという「実」をもたらしたのだ。
心理学徒の末席をけがす私には、そうとしか、解釈できないのである。
(原註。
ただしエンゲルスの方はどうもそうではないようだ。
若いころは熱心なクリスチャンであり、
経済的にも恵まれた環境に生まれた"お坊ちゃん"である彼は、
マルクスの怨念をロマンティシズムと誤解し、
うまうまと、マルクスが心の内深く秘めていた復讐の陰謀の手段として利用されただけと、
私はむしろ彼の純真な献身に同情と幾分の好意をさえ感じている。原註終)
"疎外"の極北に置かれたマルクス
では、二億に及ぶ大虐殺にまで発展して行ったマルクスの強烈で執拗な執念
(マルクス思想に触れる者は、理論自体よりも、
彼のすさまじい憎悪の炎に自分の心のうちに潜んでいる怨念が感染して、
物事をありのままに見る心のゆとりを失わせ、
何事をも憎しみと悪意をもって見るという病的な心の状態に変質されていく) ー
これは何が原因となって生じて来たものであろうか。
私は彼の生育歴を綿密に追跡、分析した結果、次のような結論に達した。
その怨念のルーツは、多くの学者が指摘しているようにまず間違いなく、
もっとも多感な幼児期と青年期の異常な環境と体験である。
周知のようにマルクスは一八一八年、ドイツのフランス国境に近い古都トリールに、
トリールきっての名門の教導職(ラビ)の家系に生まれた。
トリールは、フランス革命下の義勇軍の手によって一七九四年占領され、
一八〇一年には公式に権力を掌握したナポレオンの統治下に置かれるようになり、
自由・平等・博愛の精神に基づいてそれまでまったく人間扱いをされず、
まともな堅気(かたぎ)の職業に就くことさえ許されぬほどの差別を受け、
文字通りの不可触選民であったユダヤ人にも平等の市民権が与えられるようになった。
ユダヤ人の国家が滅亡して、離散の民(ディアスポラ)となってから
実に二千年近くも経ってからのことである。
マルクスの父ヘッシェルは、その恩恵に浴して、フランス本国のコブレンツ法科大学で学び、
一八一三年の春、すべての資格を取ってトリールで裁判所に勤務するかたわら、
弁護士をも開業するようになり、
翌一四年十一月にはヘンリエッタ・プレスブルクで華燭の典を挙げた。
ところが、何という歴史の皮肉か、ヘッシェルが大学を出たまさにその春、
ナポレオンは六十万の大軍を率いてのロシア大遠征が、
思いもかけぬ"冬将軍"の猛威の前に敗走につぐ敗走。
ついに全軍を置去りにしてただ数騎をもってパリに逃げ帰り、
その四月には退位に追いこまれエルバ島に流されてしまっていた。
翌十五年三月には彼の心酔者の支援のもとにエルバ島を脱出してパリに立ち帰り、
再起をはかったが、天運は彼を見離し、
六月十八日のワーテルローの決戦で戦いの機微を見誤って再び敗北。
今度はもっと遠いセント・ヘレナに流され、そこで死んだ。
トリールは再びプロイセンの統治下に置かれるようになり、
翌十六年早々、政府当局はドイツ連邦規約第十六条に基づき、
ユダヤ教徒を公職、ないしそれに準ずる職務から排除する方針を公けにし、
青くなったヘッシェルは、上司であったフォン・ゼーテに事情を訴え、
その布告に"当局の特別の許可がない限り"とあるのを唯一の頼みとして、
その特別の許可が得られるように懇願した。
フォン・ゼーテはヘッシェルの人柄を高く評価していたので、
配慮を請う推薦状を直接政府宛に書き送ったが、
法務大臣はすげなく例外を認めることを拒絶した。
そのため万策尽きついに生活のため断腸の思いでプロテスタントに改宗するのである。
さてこのトリールは、古代においては"北のローマ"と呼ばれたほどの、
政治の中枢部(コンスタンチヌス帝が居を構えたこともあるという)、
中世以後はもっとも主要な大司教区で、
宗教的な意味でやはり"北のローマ"の名に価いするカソリックの牙城であった。
マルクスの生まれた当時、一万二千から五千と推定される人口の九五%はカソリック。
それをプロイセンから派遣された三百人そこそこのよそ者である役人たちが支配し、
そのカソリックの底辺に、二百六十人ばかりの賤民 ー
ユダヤ人が蠢(うごめ)いていたのだ。
こういう人口構成の中で、
賤民の首領ともいうべきラビの名門の次男ヘッシェル(長男はラビ職を継いでいた)が、
こともあろうに彼らの最大の敵であるキリスト教徒にいわば"寝返る"結果となったのである。
すなわち、マルクスの父、ヘッシェルは、思いもかけぬ運命のいたずらによって、
賤民ユダヤの指導者の息子でありながら、
カソリックであるトリールの地元のほぼ全市民の宿敵である成り上がりのプロテスタント
という立場に立たざるをえないように二重に追いつめられたわけだ。
マルクスのあの激しい、それこそ"矛盾"のかたまりのような性格は、
このようにカソリックから憎まれ、ユダヤ人から改宗者(ころび)と呼ばれ、
プロテスタントからもさげすみの目で見られ、まさに四面楚歌、
自分の魂をゆだねうるなにものもなく、信じられる友もないという
異常な環境のもとに生まれ育ったことを抜きにしては、到底理解することはできまい。
しかも彼は、こともあろうに、この地方においては最大の名門と言っても過言ではない
フォン・ヴェストファーレン男爵の美しい令嬢であり、
年も四歳年上のイェニーに恋してしまったのだ。
このいきさつについてここでは語る紙面のゆとりはないが、
ボン大学からベルリン大学に移った頃の十九歳のマルクス書いた厖大な量の詩のうちの一つ ー
「絶望者の祈り」を読めば、彼の胸のうち深くに、どす黒く渦巻く
彼の絶望と、神への復讐の念の熾烈さが、何よりはっきりと読みとれるのではあるまいか?
絶望者の祈り(マルクスの詩)
神が俺に、運命の呪いと軛(くびき)だけを残して、
何から何までとりあげて、神の世界は、みんな、なくなっても、まだ一つだけ残っている。
それは、復讐だ!
俺は、自分自身に向かって、堂々と復讐したい。
高いところに君臨しているあの者に復讐したい。
俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、
俺の善そのものが、報いられないにしろ、それが何だ!
一つの国を俺は樹てたいんだ。
その頂きは、冷たくて巨大だ。
その砦は、超人的なもの凄さだ。
その指揮官は、陰欝な苦悩だ!
健やかな目で、下を見下ろす人間は、死人のように、蒼ざめて、後ずさりをするがいい。
盲目な死の息につかまれて、墓は、自分の幸福を、自分で埋葬するがいい。
高い氷の家から、至高者の電光が、つんざきでて、
俺の壁や部屋を砕いても懲りずに頑張って、また建て直すんだ。
(原註。
(この詩で、憎しみの対象を「神」とはっきり書いていることからも分るように、
ユダヤ人であるマルクスが無神論者である道理はない。
彼は神の存在を知りながら神を憎み、神を屠殺しようとした、
あえて名づけるなら「殺神論者」なのである。
原註終)
説明の必要はあるまい。この詩のうちに鮮明に表明されているように、
自分をいわれなく孤独と絶望のどん底に追い込んだ西欧キリスト教文明に対しての、
二千年に及ぶユダヤ人の苦悩と屈辱の歴史を、その背に負ったマルクスの、
骨髄に徹する怨念 ー
それを晴らすために、一生を賭けて書きおろした壮大な虚構(フィクション)、ー
それが『唯物史観』であり、『資本論』なのだ。
彼にとっての不幸はそれがあまりにも成功し過ぎたことであろう。
自分の捏造したまことしやかな歴史観を、
かくも多くの者がかくも熱烈に盲信し、二億に及ぶ全世界的な大虐殺の口火になろうとは、
マルクス自身夢想だにしていなかったのではなかろうか?
考えてみれば、彼もまた歴史の波に翻弄された
一人のあわれな道化師(ピエロ)だったのである。
吉良上野介はだれか?
復讐の一念に燃え、その後のことはまったく考えなかったという点においては、
(動機の高潔さにおいては天地の開きがあるが)
マルクスと大石内蔵助との間に著しい共通点がある。
だが、そのような、長年自分の胸に秘めて顔にさえ出さなかった
(注。これはサタン・ダビデの性格と一致するものであり、
憎しみが極まる、強靭な憎しみとは他の理解を拒絶し、復讐の成就することに徹する、
まるでハムレットが復讐の思いを悟られない為なら、道化(きちがい)に思われることを欲した、
復讐心とはそういうものなのかも知れません)根深い復讐の激情 ー
それをマルクスの心のうちに燃え立たせた直接の相手は一体誰だったのだろう?
大石がいる限り、吉良上野介もどこかにいるのでなければ、話の辻褄が合わない。
共産主義の元祖がマルクスであることは誰の目にも明らかである。
しかし、資本主義の元祖は一体だれか? ー
資本主義が明確な目的意識を持つイデオローグによって導かれて発展して来たものではなく、
自然発生的な形成物だけに、
それを推進せしめた強力な思想的指導者が誰であるかを突きとめることは難しい。
しかし、不可能ではない。
ズバリ言って、それはルターと並ぶ宗教改革の強力な推進者、ジャン・カルヴァンである。
私が言うのではない。マックス・ウェーバーがそう分析したのである。
ここにその問題のカルヴァンの聖書解釈を要約した
『ウェストミンスター信仰告白』の一節を引用してみよう。
第三章三項 神はその栄光を、顕さんとして自らの決断により、
或る人々 …… を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定したもうた。
四項 このように予定されている人間は、個別的かつ不変的に指定されており、
またその数もきわめて確実に限定されているので、
増し加えられることも、減らされることもできない。
五項 これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、
決して〔人間の側の〕信仰あるいは善き行為、或いはそのいずれかにおける堅忍 ……
を条件あるいは理由としてこれを為したもうたのではなく、
反ってすべて彼〔神〕の栄光に満ちた恩恵の讃美たらんがためである。
(太字部分は、原文では傍点によって著者が強調した箇所)
これらの、カルヴァンの著しく偏狭で理詰めな聖書解釈 ー
いわゆる「二重予定論」が、その当初の意図 ー
神の絶対性と恵みが価いなくして一方的に神の側から与えられたものであることを明らかにして、
神への服従と無条件的な恩恵への感謝と讃美の重要性を強調しようとした
カルヴァンの意図とは離れてひとり歩きし始め、
カルヴァンより一世紀後のカルヴィニストたちを不安と恐怖のパニック状態へと追い込んだ。
彼らは自分が「滅び」の側にではなく「救い」の側に予定されていることを
明確に確認せずにはいられない衝動(不安 ー 確認)へと駆り立てられた。
清教徒(ピューリタン)の主流を占めるこれらカルヴィニストたちは、
その確証を得んがために、ただひたすら神の意にかなう「職業労働」に全力を投入し、
それが成功するか否かで、自分がいずれの側に予定されているかを、
はっきりと確認したいと切望したのである。
そのため神の国建設の至上命令から思いをそらせる可能性のある、すべての情念
すべての情念(権力欲、財産、性欲、美的欲望等々、
容易に人間の心を魅了して自己目的化たらしめる恐れのあるもの)を否定し(世俗内禁欲)、
神の栄光を顕し、証(あか)しするために、瞬時も休むことなく心をこめて天職に専念し(勤勉)、
首尾一貫した天与の原理に基づく恒常的=合理的=方法的な「経営」精神で
家族、政治、天職のすべてを律していかねばならぬ(合理主義)と考えた。
また得られた利潤は浪費せず、生活に不可欠なもの以外は
ことごとく天職経営のために再投資して、社会のために貢献するとともに、
世俗的欲望に溺れて神より与えられた聖目的逸脱せぬように固く身を持する ー
こういう清教徒独特の生活態度こそが産業資本主義を生みだしたのだと、
マックス・ウェーバーは主張するのである。
カルヴァンの「二重予定論」には、このように近代的産業社会(いまでは情報化社会)
を生み出す強烈な衝撃をもたらしたというプラスの面があるとともに、
また大きなマイナスの面があった。
それは、あらかじめ神より選ばれた者でなければ何をしても救われぬという教理
(これはあきらかに聖書の誤読としか思われないが)である。
ルターは教会で聖餐(キリストの血と肉を意味するブドウ酒とパンを食する儀式)
に与るものはキリストを受け、それに信仰が伴えば救いを受けると説いたが、
カルヴァンは聖餐に与っても、あらかじめ滅びに定められた者はキリストの血肉はおろか、
救いを受けることさえもないというのである。
説教者も、聖礼典も、教会も、キリストさえも、「選ばれていない者」のためには役立たず、
また「選ばれているかどうか」を教えてくれさえもしないと彼は説いたのだ。
となればどういう結果になるか?
キリスト教を受け容れないユダヤ人をはじめ、すべての異教徒、無宗教の者は、
神が創造の時より滅びに定められているために、
キリストを信ずることができないという理屈になって来る。
彼らは聖餐に与ることさえしないのだから、もっとゆとりを持たせたルターの教義によっても、
救われる可能性は皆無だということになる。
産業資本家の中心勢力となった清教徒、なかんずくカルヴィニストは、
第一に、自分が「救い」のうちにはいっているかどうかを確認しなければならぬという
不安のために、他を顧みる心のゆとりがなく、
第二に、貧困に苦しむ労働者に対しても、あれは選ばれてない者ゆえ当然のことと、
冷然と放置しておくことができたのである。
神がこんなにも愛のない、気まぐれな存在だとしたら、
私だっていなくなってもらった方がいいと思う。
まして虐げられている者は神に殺意をさえ感じるであろう。
マルクスのような「殺神論者」が出て来ることは当然の話だと思う。
吉良上野介は地元の人々からは名君と慕われたほどの善政を行なった人だと聞く。
しかし彼は自分の言動が他人にどのような感情をよびおこすかということについては
まったく鈍感な男であり、
そのため、松の廊下で斬りつけられても、なぜ浅野内匠頭が激怒したのか理由が分らず、
"義士"たちによって首をはねられた上、末代まで、最大の憎まれ者の一人となってしまった。
カルヴァンの律法の権化のような硬直化した冷酷さ、
とくに自分の言動の信徒に及ぼす影響に対する鈍感さなどから見て、
吉良上野介(西欧に例をとればロベスピエール)と共通するところのある
軽度の情性欠落者だと思うのは、私だけだろうか?
怨念の対象化
結論を言おう。マルクスにあれほどのすさまじい怨念を抱かせた張本人は、
(本人はそんなことになろうとは夢にも思わなかっただろうが)
明らかにカルヴァンその人である。
フォイエルバッハが自己のうちにあって個を超越する
愛・理性・意志などの精神的特性(類的本質)を理想化して、
あたかも実在する者のように自己の外部対象化したのが「神」であると言ったのと同様、
カルヴァニズムがもたらした"資本主義"(実質的には清教徒)
の冷酷な反面だけをマルクスは典型化し、
「理念型」として対象化したものこそ「ブルジョアジー」という実体のない観念像であり、
またそれを打倒するものとしてほかならぬ自分自身を理想化して外に定立したものこそ
「プロレタリアート」という観念像である。
かく私は確信する。
マルクスは形式の上ではヘーゲルを倒立したが、内容面ではカルヴァニズムを倒立せしめた。
カルヴァンが神の選民だとした清教徒を代表とするクリスチャンは
「ブルジョアジー」の名のもとに絶対的に"滅び"に予定された者に転倒させられ実際に、
物理的に抹殺され、その代わりに「プロレタリアート」、ないしその前衛と称する
"選び"に予定された聖徒たちがいまや君臨して、悪虐無道の限りを尽くしている。
「目には目」、復讐者としてはどうしてもこのような立場を転倒させ、
無念を晴らすしかないのである。
それが捏造された「観念」であって実体でないことは、
あいつぐ逮捕、追放、亡命のために、幹部の欠落したペトログラードにあって、
ボリシェヴィキ(注。ロシア社会民主労働党。少数の革命家の主導する革命を主張。
ロシア革命の主導権を握り、後に共産党と改称)を責任をもって預かっていた
労働者出身のシュリャプニコフを、のちにスターリンが処刑して抹殺し、
宮本議長が頭のてっぺんから足の爪先まで労働者(プロレタリアート)そのものであった
小畑達夫氏に、根拠もない疑いをかけてリンチで扼殺したのを見ても、明らかであろう。
彼らは「プロレタリアート」の名において、
大部分の労働者出身の幹部を粛清し、大量の労働者を殺害し、抑圧し、搾取した。
彼らは、労働者を利用しただけで、それによって天下を取ったのは、
常に"資本家"よりも遥かに残忍な暴力的圧政者であった。なぜこんな奇妙なことが起こるのか。
また、彼らのとまったく相容れぬ事実が数知れず現れて来ても、
なお彼らが自分の誤りを訂正しないのは、なぜか。
マルクスの思想の最も基本的範疇である「ブルジョアジー」「プロレタリアート」という概念が、
そもそも現実の会社の従業員の数さえ上まわる厖大な数の株主や経営者、労働者と
何のかかわりもない捏造された観念であり、したがってその架空の観念の上に築かれた共産思想は、
まさしく地上とはなんの対応もない妄想症的な似而非(エセ)宗教だからなのである。
新しい健全な人間観の確立を‼
日教組の責任者たちは未だにマルクス思想が、復讐の意図をもって、
たくみに捏造した虚構(フィクション)であることに気づかずにいる。
しかしもともとが、建設的な動機から生まれた思想ではなく、
怨念を晴らすため欺瞞と暴力とをもって、
あらゆる伝統文化、道徳、宗教を破壊し尽くすことしか考えていない
詐欺、強盗、殺人のための暴力思想ゆえ、この思想の猛毒に侵された子供たちが、
手のつけられぬ家庭内暴力、構内暴力をふるうようになるのは、
上記の私の分析からすれば、当然過ぎるほど当然のことである。
したがって、教育改革の手始めはまず、マルクス主義がこうした狂暴で悪質な思想であり、
それを白紙に近い子供の心にたたき込むことは、
国家滅亡に追い込む許しがたい犯罪であることを自覚させることであろう。
(そのほかにも、家庭、受験制度など、
日本の教育の隘路(ネック)となっているいくつかの重要な問題点があるが、
ここではそれに触れる紙面の余裕がない。)
次には、従来の宗教の長短 ー
私はクリスチャンなので、マルクスをして復讐の鬼ならしめ、
マルクス主義を生み出させたことに関して、連帯責任を負っている過去のクリスチャンの、
思想的偏向と情性欠落を批判、克服しようとしているわけだが ー 、をよく検討し、
その長所(開祖の思想はおおむね長所の面が多いと思う)を生かし、
短所(その多くはあとから混入してきた不純な曲解である)を排除し、
現代の科学・技術・情報文明に適合するものへと、
それぞれの本質を保ちつつ再構成することである。
また、私の見るところ、
世界的に生き残った大宗教は相互補完的なところがあるように思われるので、
それぞれの宗教の教義担当者や研究者が、自己の宗教以外の思想や実践について
研究すらせずに自己の立場を固執し絶対化する傲慢さ、独善性を捨て、虚心坦懐に話し合い、
かくして得られた合意を教育基本法なり、指導要領のうちに盛り込む努力をすることだと思う。
すでに約束の枚数を、かなり超えているので、
私が日頃最も重要だと考えている二つの提案をするにとどめるが、
この二点が改善されるだけでも、日本の教育はずっと良くなると確信するものである。」
この論文の記載された如何なる本も現在入手することはまず不可能であり、
全文を記載することにしました。
この内容を知るのと知らぬとでは大違いであることは、
読まれた皆様には十分お解りだと思います。
この事実を知らされて尚、共産主義の言う善とは偽善であり、
偽善者へと導く悪魔の指針であることを悟らぬなら、
それこそ共産主義者の本性(石頭)を証明するものでしょう。
マルクスの神への憎しみとは、単に自分(の望み)を神が顧みてくれない、
例えば自分の欲しいものが与えられずに親に駄々をこねる子供のような、
自分には力なく、力ある者を動かすしかない、
動くまで困らせるしか為す術のない子供の苛立ちといったレベルではありません。
(神への)憎しみに苦しんでいるのではない、
憎しみが自分は犠牲者であるという自己肯定を支えている、
神への憎しみが、自分の復讐心を正当化する、
憎しみ(という力)だけが自分を生かすもと、憎しみだけを信じる心を育てたのでしょう。
奪い取られた自分達の国を奪い返す、
その為に、神の愛する民族から神の愛(によって与えられたもの)を奪い取る、
その代わりに自分達が与えられてきた憎しみを与える。
人の苦しみしか自分の力を認めることができない、
それだけしか自分に満足を齎す術がないのでしょう。
このような(悪魔の)心が、他の民族から国を奪い取る為に、
国を内部から崩壊させる、民族の魂を堕落に導く指針を与えるべく、
共産主義を作ったということです。
「慈悲と愛」80年1月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」82頁
「(悪魔の力を背景に事を企てたイランのホメイニに言及されて)
私達が彼の行動を見る時、この国(日本)にあって私達天上界に反逆し、
他を扇動する者に奇妙に一致した感情の上下が現れ、何かに駆り立てられるものの如く、
些細な論拠と論旨を振りかざして世の正義と秩序を乱し、省みない高ぶりと、
形勢が自らに有利とならないと悟る場合の一時的な平静の波があることを解します。
これは病的な性格の特徴でもあり、理性に基づいて行動しないタイプの人間が、
悪霊の支配下にあって示すパターンでもあるのです。
何ゆえ悪魔や悪霊の支配であると見るかは、
その歪められた感情が単に本人の世界のみで表現されるならば、
あのような激情が持続し、他の同様の性格を持つ人間
(若者の場合も情緒が不安定で病的になり易い)の異常性を
引き出すだけのエネルギーを持ち得ないからです。
この点から見て、悪魔や悪霊は扇動し、支配し易いタイプ ー
感情的な、無定見な、且つ情緒の欠乏せるものを選ぶということが明らかであり、
反面理性的で、真理に対して柔軟な姿勢を持つ性格は支配し得ないということがお判りでしょう。
勿論自らの意志で以て心の浄化を図る人間でなければなりませんが。」
尚、原文に記載された註解や注釈は(詳しく、厖大な為に)割愛させて頂きました。
著者の主張を裏付ける文献とその内容が主なものであり、註解を読まなくても、
天上界によって明らかにされた共産主義の本性を理解するだけの理性がある方なら、
著者の文章だけで充分に、その真意を理解し得るものと思われるものです。
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の許に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様