第四章 天上界の人びと
(九) イエス・キリストの章
私は、二千年前に、イスラエルのベツレヘムという町に生まれ、
キリスト教の聖書に録されている通り、人はかく生きるべしと、神と人との繋がりに於いて、
神々の愛から隣人への愛、人々の愛から全人類への愛へと広がる形で、
愛の尊さとそのあり方を説いて歩き、
その過程で又、科学的には無知であった人々に信仰の対象として
唯一絶対なる神ヤーウェ、即ちエホバを崇め、
又己の中にある神性、即ち善である所の人間性を、
天なる鏡に写された姿として、"天国は貴方がた一人一人の内にある"と述べました。
歴史に流れとして見ると、私の時に初めて、
ギリシャ哲学からインド哲学のなかで説かれた大自然の普遍的な性格や法則、
即ち、宇宙或いは仏教で梵(絶対者 = 宇宙の根源)と呼ばれるものと比較して、
個人或いは我(真実我 = 個人)を述べたものから、
個人個人の観点に立って、神を主観的・客観的に説くものに代わりましたが、
説き起こす所は同じでした。人間としてのあり方を詳しく説いたのです。
さて、その愛というのは、男女の愛や友愛の域を超えた神の愛、
アガペー(無償の愛 = 与えるのみの愛であり、報酬を求めぬ愛)なのです。
言わずともそれは、慈悲を伴うものでなければなりません。
"神は愛なり"と私が述べ、キリスト教は愛の教えであると、人々は信じていますが、
慈悲の心や、行いについて、譬えを通じてはっきり説いており、
又神の愛とは慈悲であり、愛でなければならないのです。
慈悲を伴わぬ愛は自己愛(自己に対する愛や欲望)の延長にしか過ぎません。
それは、相手に求める愛であって、与える愛ではないことはお解りでしょう。
自分を愛することは勿論大切です。
良い意味での自己愛、自らが持っている人間としての尊厳、神の子としての悟り、
そういうものを知って、隣人を己の如く愛せよ、と説いたのです。
それは奴隷が未だ用いられている時代で、人間の尊厳についての意識が低かったからです。
その次に説いた中で重要なことは、地上に神の国を作ることの必要性でした。
何故ならば、ご存知のようにその頃の人々は、
無知な者や闘いしか知らぬ武骨な者が多く、野蛮な行為を何とも思わず、
又学者は律法に縛られ、戒律で人を裁き、
神の心という計り難い、どのような者にも分け与える愛や、平和を求める柔和な心、
慈悲心と等しく、許す心、気持ちなどを知らぬものでした。
そのような人々が真の神の国、
即ち天国と同じ秩序と平和と調和と光で満たされた場所を地上に作るのは、
何と困難な問題でしたでしょう。
自分の心の中にある神と等しくなれる心、真我は善なる心であることなど、
振り返ってみたこともない人が多かったのです。
ですから私は神の国を作る為には、どのような人が相応しいかを悟らせる為に、
山上の垂訓と呼ばれるものを説きました。
心の貧しい人たちは幸いである。
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは幸いである。
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは幸いである。
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは幸いである。
彼らは飽き足りるようになるであろう。
憐れみ深い人たちは幸いである。
彼らは憐れみを受けるであろう。
心の清い人たちは幸いである。
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは幸いである。
天国は彼らのものである。
(マタイ福音書・第五章三節~十節)
心の貧しき者とは、謙譲なる心の持ち主で高ぶらぬ心、傲らぬ心を指します。
己を高しとする心や行為に天国はなく、天国を見ることも作ることも出来ないのです。
又、悲しみや苦しみ、悩みのある人は、人によって慰められなければ、
天国からの霊によって、又、導きによって救い出され、慰められるのです。
又、心の柔和な人、穏かな人は、地上に於ける良き支配者となり、
人の心を良く導く者となるであろう。
又、義に飢えかわいている者とは、正義を求める人で、
そのようなものはないと絶望していても、
きっと天も人も、その人を満ち足らせるだけの正義が地上にもあるということを、
その人に知らしめるでしょう。
憐れみの心を多く持つ人、これは慈悲の心から出るものです。
そして、その人が苦境に陥った時、人から憐れみを受けるでしょう。
そして心の清い人だけが、神を見ることが出来る、
即ち、自惚れや自我、増上慢、自己顕示、憎しみ、姦淫、平和を壊すもの、その他すべて、
人間として持っている隣人愛の齎すもの以外の感情を取り去らなければ、
天国からの使いも、神も見ることはないであろうと言ったのです。
平和をつくり出す人は勿論、地上に神の国を作るのです。
それ故、真の神の子と見做される資格があるのです。
又、正義の心を持ち、信念を持ち、正しい事の為に迫害を受けた人々、
キリスト教では多くの殉教者が出ましたが、それのみでなく、
他の正しい思想の為にも人から誤解を受け、迫害された人々はすべて、
天国に来るべき人であり、又、天国を代表する人達です。 ー
即ち、自己を犠牲にして、他に尽くす愛の心がそこに在るからなのです。
私が、律法に苦しめられ、愛を失い、罪の中に生き、
神に見放されようとしていたユダヤ人の為に、十字架につけられ、その罪の贖いとなり、
神の救いを人々に分かち与えた意味も、そこに在るのです。
又、「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きくその道は広い。
そして、そこから入っていく者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない。」
(マタイ福音書・第七章十三節 )
という言葉の中で、私は人間としての責任と義務を逃れ、好き勝手な生き方で、
他人に迷惑を掛け、或いは自分のことのみを考え、その欲望のままに、
放縦で堕落した人生を送ることを何とも思わぬような人には、
天国の門は閉ざされているであろうこと、
富める人が神の国に入ることは、ラクダが針の穴をくぐり抜けるよりも難しいと、
譬えにも申しました。
そして天国(神の国)に入る為、又地上に神の国を作る為には、
人は心を厳しく見つめ、己の生き方を反省し、
必要以上の欲望を持たず、執着を持たず、心を清く美しく保ち、
この世にありながら、神の心を備えた人でなければ、神の国に入れない。
又、それを地上に齎すことも出来ない、と申しました。
又、種蒔きの譬えで、良き言葉を聞いても、
その人の心が、それを理解するだけ良きものを持っていなければ、
喜んで受け入れても、土の薄い石地に蒔かれて根がない為に、
それを留めて育てられる心を持っていず、困難や迫害が来ると、躓き、
茨の地に落ちると世の心遣いと富の惑わしという茨が伸びて、実を結ばず、
その人の養いとならないであろう。その人の魂は豊かにはならないであろう。
道端に種が蒔かれれば、鳥が来て食べてしまう。
即ち、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを、奪い取って行く。
良き地に蒔かれて、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶように、
素直な心で、良き言葉に耳を傾け、それを自らの人生に役に立てなければ、
何にもならないことも説きました。
愛について私は、キリスト教を知らぬ人の為にそれを改めて説きましょう。
聖書に、パウロとソステネという人から、コリントにある教会の人々に出された手紙ですが、
コリント人への手紙と呼ばれるものがあります。
第十三章ですが、神の愛というものについてこれ以上よくは説明出来ないであろうと思われる程、
詳しく書かれてあります。
お読みになれば理解されるでしょう。即ち
「たとえ私が、人々の言葉や御使い達の言葉を語っても、
もし愛がなければ、私は、喧しい鐘や、騒がしい鐃鈸(にょうはち)と同じである。
たとえまた、私に予言をする力があり、あらゆる奥義と、あらゆる知識に通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、私は無に等しい。
たとえまた、私が、自分の全財産を人に施しても、
また、自分の体を焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、一切は無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また妬むことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、
自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない。
不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛は何時までも絶えることがない。
しかし、予言は廃れ、異言は止み、知識は廃れるであろう。
なぜなら、私達の知るところは一部分であり、予言するところも一部分に過ぎない。
全きものが来る時には、部分的なものは廃れる。
私達が幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、
また幼な子らしく考えていた。
しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった」
(コリント人への第一の手紙・第十三章一節~十一節)
「このように、何時までも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうち最も大いなるものは、愛である」 (同・十三節)
そして、この終わりの十三節に於て、伝道の期間を通じ、私が教えたすべてが、
集約されております。
何時までも存続するものは、信仰と希望と愛との三つであり、
その内で最も大いなるものは、愛である。
これは神と人との関係に於てだけでなく、人と人との間も、このようなものが保たれてこそ、
地上に平和が齎され、神の国と同じ、調和の中のユートピアが作られるのです。
私達は天上界にいても、貴方がたのことを思い、祈り、
守りの手を常に差し伸べているのです。
貴方がたが真の善き人々となり、私達の説く正法とは何かを悟り、
この乱れた世を秩序あるものとなし、人間として生まれた責任と、義務を果たし、
天上界よりの光と、太陽の光と恵みを、豊かに受け美しい自然を蘇らせ、
神の愛を持って、互いに幸福と平和を分かち合える人生を送る日が、
一日も早く来るように願っているのです。
「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。
神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、
御子によって、この世が救われるためである。
彼を信じる者は裁かれない。
信じない者は、既に裁かれている。
神の独り子の名を信じることをしないからである。
その裁きというのは、光がこの世に来たのに、
人々はその行いが悪いために、光よりも闇の方を愛したことである。
悪を行っている者はみな光を憎む。
そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない。
しかし、真理を行っている者は光に来る。
その人の行いの、神にあって為されたということが、明らかにされるためである」
(ヨハネ福音書・第三章十六節~二十一節)