「慈悲と愛」79年3月号 ②「正法を学ぶ人々の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
(現象テープ№11①からの転載)
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」37頁掲載)
私はミカエルです。
本日は正法を学ぶ方々の為に再びお話をしたいと思います。
今日は業(ごう)即ち仏教の教えでは前世の報い、
或いはこの世での善悪の所業について述べたものですが、
それについて誤った所を正し、正しい定義を与え、
正法を学ばれる方々の正しき指針としたいと思います。
業(ごう)即ちカルマは大別すれば、四種類あります。
第一のものは人間本来の本能に根差すものです。
第二は祖先伝来の気質や国民性から来るどうにもならない性格、考え方、
例えば日本人は一般に感情的で非理性的、思考の段階も浅く、深く突き詰めて考えないで、
直ぐ結論を出し、多分に好き嫌いによって事の選択、賛否の何れかを決めます。
要するに熟慮断行型でなく、浅く思考し、直ぐ付和雷同し、
非理論的で扇動に弱い所があるのです。
非個性的であり、正論か曲論か深く考えて選ばず、
世論の動く方へ押しやられ、又逆らいもしない。
これは過ちを正し、納得する迄その所信を問い、真理を受け入れるに吝(やぶさ)かでない、
という所謂"物の解る"とは正反対なのです。
感情に任せて事を定め、大勢に個人の意見を無視されても仕方がなく、
マスコミの好む方に押しやられる ー
それが従来の日本人のどうにもならぬカルマ(業)でした。
アメリカ人にはアメリカ人のカルマ(業)があり、
イギリス人にはイギリス人のカルマ(業)があります。
第三のカルマは両親から受け継いだもの、遺伝的な性格上の弱点、欠点であり、
環境的に周囲と協調しようとする過程で形作られてゆく性癖で、
社会生活の中で仕方がなく作られてしまう性格上の欠点などがあります。
第四のカルマは、これも第三と共通のものが多く、個人の性格上の弱点、欠点などです。
善悪に対する身の処し方が判断の目安となります。
仏教思想及び宗教思想では、個人の責任に呼びかけても、
人々の意識や知的水準が低い場合には、心掛けを変えることは出来ませんから、
前世の報いでこうなった、だから今生はその報いを来世に持ち越さぬよう一生懸命善事を為して、
その罪業の一つ一つ消してゆきなさいと説き、
それが行き過ぎて、先祖を祀らないからその報いで一家が病気勝ち、離散、事故に遭い、
不運な毎日を過ごさねばならないと言った
新興宗派に口実を与え、喰物にされるようなことになるのです。
人々の未知の世界への恐怖を搔き立てるのです。
これは原始宗教と同じ性質を持つものですね。
現代の科学的合理的な生活をする、少なくとも文明国に住む知的水準の高いあなた方が、
二千年前や三千年前の考えに退行し、前世があるから、来世があるから、
祭儀を完全に取り行わねばならない、
そうでなければ霊となった死者の機嫌を損じ、どんな報復を受けるかも知れないとか、
三次元で所謂カルマを無くしてゆかねば、来世に持ち越し、困った事になる、
といった幼児的考えは一切捨てて頂きたいのです。
こういった考えを迷信的と申します。
信仰の誤った道に迷い込んだ人々の形容詞ですね。
理性的、常識的に考える時、自己の責任に於て考え、行動をし、語り合い、
他に迷惑を掛けない、傷付けない、といった民主的な考え方を生活に採り入れる時に、
すべての人々がそう努めて生きる時、業だとか、カルマだとか、因縁或いは宿命といった他力的な、
原因が他から来たといった被支配的な考えは、出てこなくなるでしょう。
あなた方は神の前に平等であり、誰の奴隷でもなく、誰に従属するものでもないのです。
天災は仕方がないとしても人災は他から来るものではなく、自らが作り出すものです。
カルマや業や原罪などという本人がどうにもならぬような印象を与えるものを、
記憶に沁み込ませた悲観的な人生を生きるには止めましょう。
上手くゆかない。事故に遭った。病気になった。
これらはすべて、自らの工夫が足りない。知恵や注意が足りない。
詰り自分のやり方にどこか誠意や努力や知識や工夫が足りないのだと思って下さればよいのです。
これが二十世紀から二十一世紀に掛けての正法です。あなた方に与えられた正法なのです。
"運命"といった悲劇的な考えや言葉は用いず、
自分達が世界を創り出してゆく為に種々努力しなければならない。
"親の因果""前世の報い"などといった前世紀の遺物のような古めかしい考えは捨てて、
そういったものを餌(え)に信者を増やそうとする擬(まが)いものの宗教には動かされぬこと ー
又こういったことを非理性的な、他がそうするからしなければ、
といった無批判な人々に教えて上げて頂きたいのです。
愚かしい宗教思想はもうそろそろ切り捨てねばなりません。
文化生活と祖祖父母の宗教思想とはそぐわないものです。
そのようなものに惑わされていては、
何時まで経っても人間として精神の成長も知的開発も為されず、
魂の修業とは僧侶の修業だ位の知識と認識しか得られないのです。
天上界の求めるパニャ・パラミタとは、賢明な対人関係であり、
工夫に富む合理的な生活態度であり、感情に走らず理性的に物事を処する生き方であり、
賢者を範となし、徳を備え、正義と不義を弁(わきま)え、
善悪を識別する知能であり、人生哲学であり、
愛と慈悲の心より出ずる善我に根差した言葉と行いの全き人生の智慧を指すのです。
女も男もそのようにならねばなりません。
でなければ天上界の一員として資格を持ち、天の信頼し得る魂とはならないのです。
引き続く善霊の裏切りに私達は以前にも増した完成された人格を望みます。
このような魂の修業が面倒であるとする怠け者は、
天上界は必要としないことを改めて私はここに明らかに致したいと思います。
(一九七八年十月十六日)