第五章 ブッタの章
私ブッタ(仏陀)とは、
古来より釈迦牟尼仏、釈迦如来、阿弥陀如来、釈尊、如来などの通称で知られておりますが、
私が今日皆様、お子様をお持ちのお父様、お母様方にお話したいのは次のようなことなのです。
私が今から約二千五百六十年前に古代インドのコーサラ国の属国
(今のガンジス河の北方、ネパールという地域に当る)にあるカピラヴァーストという所に、
シャキャ族の王シュット・ダナーの王子として出生し、
ゴーダマ・シッタルーダーの名で、幼年から二十九歳の青年期までその城で
何不自由なく暮したある日、ふと人の一生の空しさ、生活の無意味さを悟り、
城を捨て肉親を捨て妻子を捨てて僧となり、苦行の末、
その苦行は心の安らぎを齎し人生の意義を悟らしめるものではないことに気付き、
その行を捨てました。
そして禅定を重ねた末に私の得たものは、
苦行僧の得る悟りより遥かに大きく、遥かに素晴らしい、
宇宙の摂理に従うあらゆる生命有るものも無きものも、
それらが生命と死という、或いは形有るものから形無きものへ、
大きな境界を経ても尚存在する ー
且つ永遠にその存在は消滅せず、絶えず宇宙の法則に従い生まれては死に、
死んでは生まれ変り、形作られては滅し、滅しては形作られ、
そして人間の生老病死というものも同じことを意味するものである、という真理を悟ったのです。
三十五歳になった年の五月でした。
即ち生老病死を超えた人間の一生とはかくあるべしという悟りを得たのです。
そして大宇宙、大自然の一環である人間に大自然との調和ということが
義務付けられていることも悟り、 調和の為に人としてなすべきことは、
大らかな宇宙の広さに立って、その大きさを心とし、
自然の流れ、水の流れにも似た自然の法則を掟とし、
流れくるもの流れ出ずるものをそのままに激情に心を乱されず、
感情の渦に巻き込まれて人と人との交わりに破壊を齎すことのないよう中道の道を歩むべきこと、
僧侶としては無論のこと、普通の人間としても人と人の交際に於て
心穏かに、中庸の徳を以て対すること、これが一番大切なことであり、中庸の心と共に
人の心を正しく判断し(正見)、
相手の求めるものを正しく受取り、理解し(正思)、
常に慈悲と愛の心で口から出る言葉を整える(正語)。
そのようにして対人関係を調整し(正進)、
延いては自分の生き方をそのように徳のある人として正し、
その徳を滲み出るものとして周りの人に与え、
それらの人々に良き感化を与えるように人生を送らねばならぬこと(正命)、
又善き心、善なる思いを以てすべてのことに当り、すべてのことを計り(正念)、
生計の道を立てる職業に於てもその精神を忘れず、
人の為になる、即ち人への奉仕の為に自分の人生、仕事はあること、を忘れず(正業)、
又それが正しく自分の人生に、生活に、対人関係に、仕事の上に生かされているか、
何か何処かで、誰かに対し誤りを犯さなかったか、
間違った態度で接しなかったかを一日の終りに、或いはその度毎に反省し、
その次からは再び同じことを繰り返さぬよう注意し、行動するよう自ら常に戒める(正定) ー
これを八正道(八つの正しい道)と申しますが、それを当時の人々に教えたのです。
当時と申しましても僅か二千五百年と少し前の
無知な人々の住む古代インドの国ではありましたが、
人の心は一つ、人の悟りは当時も今も変わらず、よく私の教え諭すことを理解し、
純真な心であるだけ、今のように複雑な社会の成り立ちと生活習慣、知識の氾濫、
宗教の特殊化と堕落、そして一方では万人が、悟りを得ても得なくとも仏になるという
行き過ぎた民衆中心の仏教思想などがありませんでしたから、
よく悟り、その教えを忠実に自分達の生活に生かして暮し、
平和な環境を作り出すことが出来たのです。
飢えの中にも災害の中にも八正道の心得は忘れず、確りと人々の心に刻み込まれていきました。
まことの謙譲さと人を敬う心、互いに相和する心を確りと自分のものとすることが出来たのです。
当時の人々の心を今の社会に持って来ることが出来れば、
この末法の世にどんなに救いを早めることが出来るでしょう。
そう私及び天上界は心を傷めつつ考えているのです。
又翻って思いを親子の関係に至らせますと、
現代は親無きが如く、子無きが如く振舞うのが常識であり、
現代的な非情な感覚を身に付けることが成人することであるかの如く考え違いをしている
若き世代、或いは子の親である中年層、又それに習って老人までもが
非情で冷酷な考え方を、子供であり、又子の親でもある、四、五十歳代の人々に押し付けたり、
互いが互いに不信の念で以て冷淡に接し、共に社会に勝手な人生を生きることが共存であると
思い違いをしている ー 。
これは現代のインドのみならず、古代のインド、中世のインド、の歴史を通じてあり得ない、
起こり得ないことなのです。
これは未だにカースト制度といって、国自体が四つの階級に分れ、
同じ階級に属する者同士以外には心の交流も、知識の交流も無い、
自由な人間であることも認められないという悪習が残っており、
しかしそれ故に家族制度の良きものも残されているからでしょう。
そして先程申しました非情の世代が世界中至る所に在るのが現代であり、
末法の世であると私達が申している世界なのです。
その為最後の裁きが天上界の手にて行われ、
私達一人一人がその結果を待たなければならなくなりました。
(法を犯した者の)すべてが罪に断じられて宣告を下され一人としてそれを免れることはない。
そのような恐ろしい神の怒りが下りました。
私の取り成しもイエス様の愛も、
すべてはこの裁きを過ぎて後にしか受け入れて頂けなくなったのです。
私の慈悲の教えは、主として王と僧侶と金持ちに向けたもので、
慈悲は一般に与える心、苦しみや悩み、病にある者を救い助ける心でしたが、
特に王というものは正法と慈悲に基づいて政治を行わねばならぬことを説きました。
社会の不平等で不当に苦しめられている人々がすべて、恵みと光と私の救いを得るべきであり、
在世の折にそう説くべきことを使命として与えられていましたが、
私の死後二千五百年の年月が経つ間に、
イエス様の罪の贖いにも関らず、人々がその慈悲の心を忘れ、
人種や階級による差別、貧富の差、王権の乱用、神主や僧侶の傲り高ぶりと、
堕落した世を堕落とも思わず生きる間に、この恐ろしい最後の審判がやって来たのです。
しかしこれも罪と徳の二つを秤にかけて裁く裁きなのですから、
恐怖のみを人類に与えるものではありません。
エル・ランティ様はそのような方ではないのです。
只罰しなければ悟らぬ、
そのように人々の心が盲いてしまったので、已むなく行われているのです。
私はこのことにつき、どのような取り成しも今は許されておりません。只待つばかりです。
すべての人が少しでも時が許す限り、心を浄め行いを正し、
この世にまだ生を持つ方は今までの生き方、考えの足りぬ所、誤っていた所を改め、
今から後の人生を出来得る限り徳高きものとなり、
行いが良ければ仏になるというような傲った考えは捨て、
謙虚な気持で勤めて頂きたいと願うのです。
子の親としてはその勤めとして、何を信じ何に従い、又徳とは何か、賞むべき人とは何かを、
子供達が幼い頃から教え導いてゆくことです。それは決して無駄なことではありません。
まず誤った宗教、誤った信仰という深い陥穽(落とし穴)に落ち込まないように、
充分気を付けて頂くことから始めて下さい。
誤った宗教が何ゆえ悪いかと申しますと、
真の崇める対象でないものを崇め、拝むという過ちを犯します。
そして一心不乱に頼みごと、願いごとを神頼みする訳ですから、
そこに執着心が根強く纏わり付き、
そしてその願いごとが叶えられる場合と叶えられない場合とが出来てきますと、
余計に何か神々や仏様の気に入るものを、と宗教者の求めるまま、財をはたき、
時を削いて気に入られる迄それに執着します。
そしてその宗教に憑いているのは気紛れで、
信者の幸せ、成功、健康などどうでもよい動物の霊や地獄の霊ですから、
あなた方の払った犠牲などを考えてはくれません。
その憑依した霊は、信者が不幸であれば、その信仰心、宗教生活が悪い、
と僧侶や神主や祭司に非難させます。
常識の域を超えて信者に犠牲を払わせ、
信者は益々何とかして神様や仏様の気に入られようと苦しみと不幸の中に在りながら、
その宗教宗派が自分に恵まれた人生を与えてくれる日があることを心の底では希望を持たぬのに、
表面では望み、執着し、離れられぬものとなってしまいます。
そういった人々の集まりが、神や仏が居られると言われる仏像や、
何かの象徴、仏壇でもよいのです、
石仏でも、しめ縄を繞(めぐ)らした古木でも、の囲りに一つの確固とした宗教を作ることになり、
神や仏の魂でなく、低い意識の死霊や動物霊や或いは地獄の怨霊が
人々の出世安泰を願う煩悩、欲心と相まって、
三次元に生きる人々を嘲笑いながら、聖域ではなく、不浄域を増やしてゆくのです。
神々や仏と崇めらるべき方々は天上に居られ、一人一人がその方々と心に於て繋がれ、
魂に於て交流があることを望んでいられます。
しかし地上の人々の心は天にではなく、何時も地上の事のみに惑わされ、
煩悩の内に生を終えてしまうのです。
そしてどうでもよい、魂の浄化の為には何の益にもならない宗教が蔓延るのです。
こういった迷いの度に、私達光の大指導霊や光の大天使や光の天使が、
地上に降りてはその誤りを正して歩かねばなりません。
何度正しても、直ぐ間違った宗教に惑わされ、正しき道を説いていた宗教宗派も代がかわり、
人が代わると、神主や僧侶としての精進と修行を第一にしなければならぬ戒めを忘れて、
この世の慣習と生活という俗的なことに心を奪われ、
神社への収入、寺の収入、利益、自分達の財の高、などを先に考えて事を計るようになるのです。
先に申したような不浄域はたいてい御利益宗教といって、新興の宗派に多く、
たいてい初代の教祖ですから、自分でいろいろな儀式や会則を作り、それを信者に強要致します。
しかし既成の仏教宗派でも、神道でも、不浄域を平気で作っている無責任な所もあります。
それは天上界に取っては迷惑この上もない寄生する蛆のようなもので、
早く滅さなければそれは濃い霧のようにみるみるうちに広がって、
神様や仏様方と三次元の人々を隔てるものとなるのです。
新興宗教が不浄域であることは祭司や教祖の心構えが悪いこともありますが、
魂の修業を説くだけではなく、人を集めて、人々の宗教心を喰い物にするからでしょう。
そして仏典や教典を解釈した素人が尤もらしいことを説き、
ちょっと霊的な啓示の真似事をします。
啓示のない人もいます。そしてその形式や儀式が尤もらしければ尤もらしいだけ、人は集まり、
その説く内容はどうでもよくなるのでしょう。
何々をすればこういった御利益がある、と言えば、悪いことにそれに乗じて、
悪の霊魂がこの教祖や祭司を助けてその言葉通りにしてくれます。
それもこの世の財、成功、病を癒すこと ー 必ずこの三つが宣伝の材料です。
そしてそれが百%叶えられなくともよいのです。
八十%でも五十%でも、たった一、二%でも何かこの世の常識を越えた霊的なものが示されると、
もうそこに信者が集まり、教祖が生神様となり、団体が出来上がるのです。
怪しげな宗派であればあるだけ、魔性のものが背後にいます。
そして信者の寄付集め、布施、会費を莫大な額に引き上げ、
働いた収入を、何に注ぎ込んでいるのか解らなくなるような生活にさせて、
巨額のものを献上しても祭司や教祖や会長は何も言いません。
只黙って受け取るだけで、そこには中庸が失われます。限度がなくなるのです。
そして宗派くずれのような団体も出来てきます。
日蓮宗には多くのそのような宗派が出来ました。
それはその宗派に属する人々が仏教の教えに反し、
中庸と八正道の心から遠ざかりアスラー(阿修羅)の境地で法を説いたからです。
心の波動が荒々しくなり、私の得た安らぎの涅槃の境地とは程遠いものとなりました。
日蓮上人が衆生の済度を説いた時には、民衆の側に立って権威に反する言論と活動、
を主として行いましたが、それはその時代に必要だったからです。
それを法華宗派やその分派が押さえ付けられていない現代に至る迄、
同じ姿勢を改めていないのです。
日蓮上人のみが衆生済度を唱えたのではありません。
私も衆生のすべてを救うことを望み、救いに至る境地を教え諭しました。
私の後に出た立派な、魂の救済を目指し人を導いた人々、世の為、人の為に尽くした人々、
そして真の仏となった人々も万民の救済を願ったのです。
日蓮宗では勤行(ごんぎょう)をし題目を唱えれば生命が漲り、即身仏となる ー
と教えますが、そう信じ説く方も、又それを学ぶ方も一人一人がもう一度私の説いた法を学び、
仏典を学んで頂きたいと思うのです。そうでないことを悟られるでしょう。
私の教えは多岐に亘り、宗教史のすべてを知らなければその真髄を知り、
会得することは出来ないとされていますが、そのようなことはありません。
僧侶の悟りについて何かの伝記を読めば、即ちそれが私の教えなのです。
決してその心の在り方は荒々しいものでもなく、宗派が富み栄える為のものでもありません。
僧侶が富み栄え、宗教家が贅沢な生活をするようには私は教えませんでした。
又この世の栄耀栄華を捨て、生きてゆくに足るだけのものがあたえられれば、
後は魂を清めること ー
それに専念することを教えました。在家の方も同じです。
暮らしに足るだけのものを得るならばそれで満足し、
後は精神的なものを求め、徳を高め、その徳を通じて人と交わる。
それが天に通じる道でもあるのです。
幸福とはこの世の財、名声、地位、権力、そのようなものからは決して生み出されません。
自然の美しさもそのようなものです。
決して余分なものを求めはしません。
生きるに足るだけのものを得、余ったものは足らぬ所に廻るのです。
そして華美に流れず、すべてのものは美しい。
その美しさを賞(め)で、嘆ずる心が無ければ、天上のものとなる波動は得られないでしょう。
ましてや人々が中程の良さを知るのならば、宗教家や神主や僧侶がそれを行わないのは邪道です。
恐らく人々が心と魂を忘れて財に仕えた為に、
宗教家が世俗に阿(おもね)て解脱の道を忘れたのでしょう。
しかし今はその穢れた想いを失くし、金銭とこの世の成功という俗的な執着を捨て、
自然の心に帰るという心境はどのようなものか、座して静かに考えてみて下さい。
貴方がたのお子様にその悟りを伝え、徳高き賢き世代に育てるということは、
即ち仏国土でありユートピアである世界を作る為に大きく貢献することになるのです。
宗教というものが、世の為にあるのか、どのような形が真のものであるか、
それは通り一辺の言葉で説明出来るものではありません。
心で感じ、静寂の中にその境地を保つものなのです。
如何に忙しく立ち働こうともその深き真理を忘れてはなりません。
そして内観(すべての事柄 ー 自分をも含めて一切 ー を客観的に考え、判断すること)
より出ずる智慧、それがどのように人生の危機に出合うとも切り抜けてゆく術を貴方がたに与え、
又心の余裕を与え、正しき判断力を与えるのです。
怒りや恨みやそねみ、嫉妬、競争心、虚栄、増上慢、冷酷さ、非人間的な心、忘恩の思い、
正邪を見抜けぬ盲目の心、表面のみの浅はかな思想と過激な行為に走ること ー
そのようなものと、この天上界に繋がる真の信仰とは両立しないのです。
出来るだけ人格を磨き、貴方がたの生活を通して子供達が立派な人となるよう導くのです。
特に導かなくとも貴方がたを真似て子供達は大きくなるものですが。
子供を産むということは責任のあることであり、何よりも大きな義務を伴います。
その子供達がすくすくと健やかに育ち、いろいろと智恵が備わり、賢き人となる。
それが我がことのように喜びとなる。
そういう親でなければ、天上の法に適い恵みに浴する人とは言えないのです。
そのことをよく心に刻み、毎日の生活にお子様の徳育と養育に於て、善悪の基準を確りと保ち、
天上より受ける恵みと守護をお子様に分かち与えて下さるよう、私ブッタは願っております。
最後の審判が終れば、天の光と恵みが降り注ぐ中に、
選ばれた人々の住むユートピアは目の前にあるということを覚えていて下さい。