「JI」83年2月号 「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」162頁掲載)

 今日は義人であり過ぎる故の偽我について考えてみましょう。
 自らに備わる徳の完全を求め、魂の研磨に励むことは良いことで、
天は怠惰で無節操な人よりもずっと有徳の人を喜びます。
 しかし度々私が説くように、あなた方は義に完全であって、
落度なき完璧な人格を持つよう努めるよりも、
人間性を学び、従って互いに寛容であろうと努め、
思い遣りという優しい気持ちを互いに注ぎ合う方が、
より幅のある、心にゆとりのある人物に成り得る
ことを、ここで確認しなければなりません。
 中庸の徳とはそれを言うのです。

 悪を許さぬ心は正しい心でありながら、そこに疑心暗鬼という偽我が忍び込む時、
病的に相手を悪と断じてしまう
こと。
 相手のすべての行動を善意と寛容で観ずに、狭量と悪意で観て結論を下してしまうこと
ー
悪いことにそれを正法者の間で行ってしまう傾向があるのを最近よく耳にします。
 そのような時、批判者は共に法を広めようとする同志であることを忘れているのでしょう。
 血祭りに上げられた人こそ災難。逃げ場もなく追い詰められます。
 
 この疑心暗鬼という偽我は往々にして義人で完全主義の人物が健康を害した時に度々現れ、
周囲を悩まします。
 正法者が追い詰めるのは共産主義という悪魔の思想であり、
手段を選ばず、社会の規約のすべてを破壊してその主義を他に押し付け、
自らの権力を得ようとする共産主義者であるべきであるのに、
少しでも弱点や欠点を見せた同志に猛然と飛び掛かり、攻撃を繰り返すのです。

 これを心理学者は被害妄想と呼びますが、そういった病的な心理状態に陥ると、
同志が忽ち仮想敵国に見えてくるのです。
 過労が原因となって健康を害し、精神的な不安を高め、疑い深くなる
ー
その時あなた方は充分に休養を取り、人の欠点も許せる寛容な心になった時、
初めて自分の精神は健康を取戻し、天の意に適う正法者の在り方に戻ったと考えて下さい。

 俗に"健全な精神は健全な身体に宿る"と言うではありませんか。
 共産主義者の好む総括の手段は、仲間である一人の人間を多数が批判し、吊るし上げ、
二度とその屈辱を味わいたくないと思わせる効果を狙うものです。

 しかし正法者は決してそうであってはなりません。
 それは弱い者いじめの心理と何ら変わらないからです。
 義人の陥る偽我は、不寛容の悪であることをよく心して頂きたいと思います。

                   (八十三年一月二十四日 口述筆記 千乃裕子)