第四部 天への思い
第四章 この世に神の国を

一節 この世に神の国を
 正法流布の目的は、
ユートピア(神の国)をこの世に作ることであると天上界は言明されております。
 その為にこの世に語り掛けられているのです。

 神の愛されるものへの、神を愛するものへの憎悪に、
美しい心を持つことの出来ぬ妬み心に、
神から、美しい心から愛されなかったことへの復讐心に、
自らの心を焼き尽くそうとも、自らをも滅し去ろうとも、
その憎しみの念を押し留める如何なる心も持たぬ悪霊

から安全であると、目に見えぬ悪霊など恐れぬに足りぬと、
悪霊の誘惑など屈しないと、人は己が力を過信するのでしょうか。
 悪に一歩も引くことのない善霊に神の精神を見出すことも出来ぬ
盲目に生きていることすら悟れぬ人間であるのに。


(注。
 地球を神から奪い取って地獄にする為なら、
それによって地球が滅びることになろうとも、
人を絶望に陥れる為なら、悪魔にとってすべてが足かせとなる天を滅ぼす為なら、
破壊の限りを尽くす悪魔の心を自らの心に宿した共産主義国家に跪かんとするものは、
国であろうと企業であろうと神の御怒りから逃れられる者など、
存在を許される者などいはしないのです。

 また、核兵器を保有すれば、敵国の核攻撃の抑止になると主張される方が多いですが、
それは権力の独裁者が、悪魔の憑依に屈しない善我(理性)を持つ限りに於てしか
成り立たないのです。
 抑止どころか侵略兵器として核を使用すると宣言したプーチンは、
真に悪魔に魂を渡した者です。
 これまで人類が惰眠を貪っても生き永らえてこれたのは、
常に天上界が悪魔と戦ってきたお陰ですが、
悪魔の子が目覚めて、神の子が眠りこけている内に、
このような状況を迎えてしまいました。
(国連に共産主義国が加盟して平和が齎される訳がないのです)

 悪魔に憑依されれば、同胞が、家族が犠牲になる苦しみを感じる愛も心(感受性)も、
悪魔の破壊衝動の、自分に従わない者への憎悪の念の前に蹴散らされるだけです。
 サタンに憑依されるとは救われた者の歓びに満たされる愛ではなく、
己が力の前に他が跪(ひざまず)く、
他を支配する自らの全能に、独善に満たされる独裁者に変えるのです。
 イエス様と共に生き、イエス様を通して現れた神の救いの業を、神の愛を、
神に生きるイエス様を、見て信じて愛したユダの心を悪魔の心に変えた、
同じ悪魔に従うことを知る故にパリサイ人に売り渡すことさえ出来たのです
悪魔に支配されるとはそのようなことです。

 それが理解されれば、そのような悪魔に魂を渡した者、
悪魔と共に善なるものを滅ぼし尽くそうとする邪念に抗し得るのは、
真に神を見出した(善に徹する)心、悪に屈しない、悪から逃げない心しかないのです。
 そのような独裁者を許さない心を国民が持つしかないのです。
 神を、善を愛する者が国を超えて繋がることで、平和をつかみ取らねばならないのです。
 真の宗教家(神の意志をそれと理解する神の智慧に、心に生きる者)や
(フランス革命や明治維新に立ち上がった、神の意志が臨んだ)真の革命者達によって
国が救われたのでした。

 国家が善を愛する心を摘み取ってしまう
(悪魔に従う宗教指導者(ロシア正教)が独裁者に跪く)なら、
悪魔の道を行く国は滅びることでしか再生の道は生まれないであろうし、
滅ぼさない限り、神に生きる他国が滅ぼされるのです。
 自分が滅びるまで破壊の限りを尽くす、
その邪念に支配された独裁者に、如何なるものが抑止し得ると思われるのでしょう。
 その国民が目覚めて、立ち上がるまで、如何なる国の者も、
独裁者の存続を許してはならないのです。注終)

 神の心を見出さねば、天上界と共に善我を貫く者とならなければ、
人類は悪魔の前に屈する、あらゆる善なる心を失うことになるのだと
天上界は伝えているのです。
 天の意志が伝えられたのに、その意志に神を認めることの出来なかった者が、
死後あの世で真実であったことを知らされてから悔やんでも遅いのです。
 自らの意志に生きられる人生は二度とないからです。

 真理(正法)を知らずとも、素直な心から真理に生きる心を養い得た魂は、
天上界に迎えられ、彼等の道を照らしてきた天の光(真理)を理解した善なる霊も、
真理に盲いた人生を後悔し善なる心に目覚めた
(善なる心を、神の思いを自覚出来なかった者も、
心の底に優しさを持つ者であったから目覚めることが出来たのです)霊もまた、
最後の救いの機会にこの世に降り立った神々と心を一つにして、
この世の人々に伝えようとされていることを、
彼等がその心を生きている時に持つことが出来ていたらとその思いの限りを伝えている、
そうでなかったら、この悪霊に満ちた、堕落への誘惑に満ち溢れたこの世に生きる人々は、
善なる心を見出すことが出来たでしょうか。

 人が神の心に目覚めずして、
天の思いも伝わらないことを知っての愛に賭けるしかない、
人を救うのは自らの神の心しかない、
人を神の心へと導く光は天の慈愛だけであるからです。

 私達の子孫が生まれて来るこの世が、神の国であるか、
それとも只悪霊となる為の地獄(※1)であるかは、
今この世に生きている者が負うべき責任なのです。
 人類は神の導きの内に自らを救わねばならない、
地球を、すべての生命を救わずして人類の未来はないのだと、
神自ら人類に呼び掛けられています。

 神々が幾ら心正しく、真理に生きる方であっても、
悪魔に負けたら天国は滅び、地球は地獄になっていたのです。
 死後、天の善霊に導かれた者は皆、現天上界の善霊達に迎えられ、
宗教の教義からかけ離れた真実の天国を理解しました。

※1注。
 残虐な犯罪の起きる度に、この世は地獄かと、地獄を見る思いにさせられます。
 そのように思う人も、地獄の存在する場所が、
実は人間の生きるこの地上であること、そして霊体も空気のように見えませんが、
物質としてこの世に存在しているとは思いもよらなかったのではないでしょうか。
(悪霊の憑依されると邪念の波動によって、穏かな心の波動を失い、
落ち着かない心になります。
 魔が差すと言われるように、己を見失わせます。
 波動も、想念も、霊体も物質です。
 故に物理的に心が変えられてしまい犯罪に引き込まれることになるのです。)
 
 地獄とは地下にあるものと思われて来ました。
 地獄に生きる悪霊とは、この世に執着する心です。
 そのような心しか育てることの出来なかった霊の世界が地獄なのです。

 霊も人間の心の条件反射しか持たない為、霊同士も互いに見えません。
 肉体が感受したもの(思考による刺戟も同様)しか、
神経細胞の機能することでしか心は作られて行かないのですから、
そのような心の働きが繰り返されれば、
肉体を通して知覚されたものだけを理解しようとする、信じようとする心になります。
 人間として生きた心のまま霊として生きようとします。

 この世では周りが善人に恵まれたお蔭で、我が儘な人格を育て、
善なる人格から何も学ぼうとしなかった人格を残した者は悪人の末路として
地獄(幽界)に落ちて行くか、天国から迎えに来てくれる人もない浮遊霊として
この世に彷徨うことになります。
 その地獄(幽界)は同じ我が儘な自分勝手な者だらけで、
この世にいた時のように我が儘に耳を傾けてくれるような善人など一人もいないのです。
 こんな孤独な地獄から逃れたい、自分の心を救う為なら、この世の善人がどうなろうと考えず、
愛に触れたい、自分の我が儘を満足させたいと憑依するのです。

 人は死後、自分の心に相応しい霊の世界に行くのですが、
周りには、その人と同様の心を持つ霊が集まるのです。
 例えば善なる心を持たないのに、己を価値ある者と、自分は天国に相応しいと自惚れた者が、
仮に天国に行ったとしても、彼の憧れを満足させるものではありません。
 只々己が魂の醜さのみが浮き上がり、
羞恥心に耐えられず、居たたまれない思いになるだけでしょう。

 己が魂の周りが心の醜い者ばかりなら、その人の心も同様であり、
憎しみに生きる心から救われることはありません。
 何故なら憎しみの条件反射しか持たない上に、

憎しみを刺激する者ばかりしか周りにいないからです。
 自分の魂に相応しい世界に行ってから、己が魂の堪え難き醜さを痛感しても遅いのです。
 天狗界の意識の者は、自分は天国に行くのが当然と思っているようですが、
彼等が自分を知ることが出来るのは、
天狗界に落ちて周りの魂の醜さを痛感する以外にないのです。
 そこからしか自分に向合っての魂の研磨は始まらないのです。
無論それすらも出来ぬ増上慢は悪霊の心です。

 周りが愛に満ちた心の美しい魂ばかりなら、その人が同じ美しい波動を持つからです。
 互いを生かそうとする愛が何時も心に満ちた霊達の世界です。
 霊は波動そのものであり、同じ波動の霊が互いを引き寄せ合い、
思いを伝え合い、理解し合うのです。善我に生きる霊の場合ですが。※1注終)

 一体、初めから知恵を持った存在(絶対神)を信じる者は、
知恵がどのようにして得られるものと考えているのでしょう。
 全く苦労も苦難も知らずに生きてきた者が、
悪による危険を感じることなくこれまで生きてきた者が、
知恵を求めずにはいられなくなった、そして神の智恵を得た、
そのような人がいて真に苦しみにある人を救ったというような話を
聞いたことがあるでしょうか。

 善なる思いからでも結果が悪となれば、それは善ではないと現天上界の聖霊は仰しゃいます。
 神は善なる心そのものであり、その善なる業も、悪魔によって悪の業に、
神を、善を求めた人々を悪なる心に導くものに利用されたら、それは善ではないと言われます。
 悪に利用されるような善であってはならない。
 神々の善ですらも悪との戦いを通して、悪に勝る善へと鍛えられていったのです。
  最初から完全なものを作り出すような知恵など存在しません(※2)。

※2注。
 同じ真理でも、人によって理解が異なります。
 理解する能力が違うからです。
 自らの善なる心の指標に据える者もいれば、
神の慈愛すらも伝わる善我を持たず、自己愛から拒み、
偽我にしか生きられない者もいます。
(宇宙を在らしめる)真理すらも反撥する心から、破滅に身を任す者もいるのです。
 その世界に生きながら、その世界を在らしめる完全なるもの
(宇宙の法則であり、その法則に従うよう心を律する神の法)に従わぬなら、
存続し得ないのです。
 この宇宙だけが完全であり、宇宙を在らしめる真理を見出し、従うことだけが、
自らを生かす知恵の表れなのです。

 神は宇宙です。
 その宇宙を神と考えずに、神が想像したと何ゆえ古代人は考えたのでしょう。
 どうして宇宙があるのか理解出来なかったからです。

(現天上界の聖霊の顕現を知った時、人間のような神がいたから人間が生まれたと、
宇宙を、人間を作った、神の愛から人間は生まれたと信じて安らぎを得たのでしょう。)
(宇宙を在らしめる)法則は理解されず、人間の持つ心も愛もない宇宙から
人間は生まれた(創造された)など理解の及ぶ所ではなかったでしょう。

 宇宙を在らしめるのが法則であることを理解し得ぬ現代人が、二千年前と変わらず今も、
創造神以外に神はいないと人類の進歩の足枷になっているのです。※2注終)

 善なる人々の中で悪を知らずに生きてきた者が、悪とは何か悪を許さぬ善とは何か、
そのような観念を持てるものと、悪を知らずに善を愛する知恵を持てるものと考えられますか?

(人間が他の動物から分かれ、知性を持ち、自然から半分独立した為に)
己で考えるが故に過ちを犯し、悪を犯してしまう"原罪"を持つに至った
(本能に突き動かされる動物は、立ち止まって善や悪について考えることはありません)、
それ故に善の方向へ向かわねばならないということ。
 悪の観念が生まれた故に善の観念が生まれたということ、
そして悪の裏付けのない善は存在しない
ともラファエル様は仰しゃっています。
 現象テープ№21 「原罪について」。】

 絶対神を善であるとするならば、絶対神は悪を何処に見出していたのでしょう。
 絶対神と共に悪魔も最初から存在していたと考えるのでしょうか?

(人類を創造されたとされる絶対神にとって)悪の観念に従い悪を為す者への怒りを、
悪の犠牲になった者への悲しみを経験する(人類の中に見る)前から、
絶対神自らの心の中に悪の観念を見出し、
己が心にある悪なる観念を憎む善への愛
(の観念、その愛もまだ注ぐべき対象を持たずして得た、
そしてその愛を注ぐ為に人類を神は創造したと信じられている)を持ったと言うのでしょうか。
 絶対神が心の中に作り上げた観念の世界に於て
(心の中で善と悪を戦わせての)得た知恵でこの世を、
人類を創造したということになるのでしょうか?
 体験を通して(痛い目に遭って)得たものからしか、
人は自らの知恵とすることが出来ないことを知る理性にとって理解不可能なことです。

 善と悪を考える理性を必要としない本能によって愛に、
幸せに生きる動物を愛することに満足できずに人類を創造したということでしょうか。
 絶対神は、自然の法則に従う本能を人類から取り去り、
代りに与えた理性(絶対神を理解することも出来ない)は人類に自由意思を齎したが故に、
神に程遠い未熟な理性故に、神の心には存在し得ぬ悪が現れたのでしょうか。
 人を生かそうとする絶対神の与えた自然の法則に神の善を見出さずとも、
神に従わずとも自由に好き勝手に生きられると、
人を破滅させんと言い寄る悪魔の本性を見抜くことも出来ぬような人類を
絶対神が創造されたと言うことなのでしょうか。
 これを絶対神の業と考える方はどうかしているのではないでしょうか。

 絶対神からにしろ、自然からにしろ、
人間の肉体は(どのように成長するかも)与えられたものですが、
心は生きて行く上で作られて行きます。
 少なくとも人類は、知識も善悪の判断力(即ち理性の働き)も何も持たずに生まれて来て、
何も考えなくても肉体は正常に成長しますが(勿論不慮の事故や薬害など無い場合です)、
心は学習如何によって如何様にもなります。
(健全な心に成長する者もあれば、
歪んだ性格となって愛を知ることなく一生を終える者もいるでしょう)

 たった一度の人生経験で善と悪を理解し、
どちらか一方の心に生きる決意を人間はしてきたのです。
 人間として生きることが善に生きる心も悪に生きる心も作るのです。
 それ以外に人間が善なる心を持った者は一人もいません。
 ブッタ様やイエス様以上の努力をされた者がいるでしょうか、
もしそのような方がいるなら彼等のような悟りを、神の心を得られたに違いありません。

 肉体を持たぬ絶対神がどのように善と悪を知る者となったか、
絶対神を信じない私には解りかねることですが、
人間として生きる上で、仮令自分に不利となっても
正しいと思うことを貫くことで善なる心を自らの心にした人間がいます。
 そしてそれ以外に善なる心を得ることなど出来ません。それが人間です。
 絶対神の善が、知恵なき人間が苦しみに喘ぎながら見出した善と
どうして同じ善であり得るのか。

 善に抗う悪がある限り、悪に勝つ善なる心である為には、
悪に欺かれる心を、悪に繋がる心を許してはならぬ故に、
常に善を心掛けねばならないのであり、
(悪が為されようと為されまいと)影響されることのない、
完全な状態であり続ける絶対的善(なるものを持つ存在)などあり得ません。

 人間が苦しみとする悪も、喜びとする愛も他から齎されたものです。
 故に自らの犠牲を厭わぬ他への愛が生まれるのです。
 人間は社会的にしか生きられない動物なのだから、
この世に神の国を作らねばならないのです。

 自分の命を失おうと、人を助けよう、
善を貫こうとする心以上の善なる心を私には理解出来ませんし、
その心を現天上界の神々が持つものであり、
人も神の心を持つことが出来ると語られた現天上界だけが
私の前に現れた霊であり、私の理解出来る神の心なのだから、
彼等の心を否定する、自らを神と名乗る者が他に存在しようとも、
その信者の心に信じるに足るものを見出すことは私には出来ないでしょう。

 真に善なる心は、善に対して謙虚である故に、
人の中に神の心を見ると宝物を見つけたように喜ぶ心です。
 天上界の神々が敬われるのは、天国がそのような心に生きる人々の世界だからです。
 イエス様が仰しゃったこの世を救うのは天の神々の計画であり、
個人(救い主)ではないのです。
 現天上界のすべての善霊の心は繋がっているからです。
 救い主(宗祖)を敬って天上界を顧みない人達は、天上界の善霊の心を知らないのです。
 ですから彼等のメッセージの伝える真理(善、愛、信義)に生きる者なら、
現天上界に真の神の心を見出せない筈がないのです。
 現天上界の神々の指導も、守護もなく、
僅か数十年の人生経験で現天上界の神々以上の善なる心を、愛を見出した者などいないのです。
 天の厳しい善の導きの中で、
サタンの誘惑を見抜く知恵と、苦難に屈しなかった精神と、神への信義を勝ち得た者以外に、
神々と同じ善我を持った者がいると考える者に真理(善)が理解されているとは思えません。

 現天上界の善に、愛に遠く及ばない者と知っても、
それでも彼等に近付こうとする彼等への愛を持てたのは、
彼等の導きであったことを信じられたからであり、
彼等の心に達することが出来ないのに、彼等を置いてそれ以上の存在を望む思いというのは、
悪魔の力が神に勝ると信じて、神の心を捨てた裏切り者の心と同じだと思うのです。


【七大天使がGLAを去り、現正法グループに移り、七大天使によって神の法が伝えられた、
また現正法グループの人々に法話を為された(現象)のに対して、
GLAの信者が、"天使などと正法はもっと大きいものです"、などと言い放ったそうですが、
ヤーウェ(エル・ランティ様)や七大天使が地球人類の神として
ブッタ様やイエス様を導かれたのは真実であることを、
ダビデの存在が、計画がイエス様の十字架であったことを理解されれば、
それが真実であると理解されれば、
現天上界以外に神は存在しないと理解するのが彼等と同じ理性であることの証となるのです。
 これが理解出来ない者は彼等の言う理性とは違う理性を持つ者なのです。
 彼等に勝る者であることを彼等に納得させ得るものがなければ、
彼等に勝る真の神ではあり得ない、少なくとも彼等が神であるとする根拠、
善を愛し、自らを神の子とする、神の心となる為に偽我を削る、
魂の研磨を掲げる彼等が納得するものがなければ、彼等の神の概念とは、異なる、
即ち彼等のいう偽りの神以外にないということでしょう。
 彼等に勝る真の神であることを認める資格があるのは、現天上界以外にないのです。
 現天上界を認めず、真の神は別にあると信じるあらゆる宗教は、
逆に現天上界を否定する教えを植え込まれてきたということに帰結するのです。
 現天上界が私達人類に勝る
(それは彼等の心に於てだけではなく、人類を守り、救おうとして来られた、
その行為によって神の御心を信じるということを人類に教えて来られた、
神を信じることに希望を見出させたことに優る救いはありません。
 信仰とはそれなくしてはあり得ないでしょう。
 それを為して来られたのが現天上界です)
ことを認める心なくして敬う気持ちなど生まれないのですから、
仮に七大天使に勝る存在が、真の神が居るとするならば、
私達が七大天使を敬った以上に、彼らは真の神を敬うことでしょう。
 彼らが悪と戦っていて、
共に悪と戦う善を持たぬ者をどうして七大天使が敬うことが出来るでしょうか。
 そのような者を神と敬うことがあり得るでしょうか。
 現代が末法であることを理解される人々の前に、現天上界は神であることを明かされました。
 そのような神の中に、神とは如何なる心かを知り得た者なら、
彼等が神と認めることのないような、神と名乗る者の中に見る如何なる心も、
本当の神、即ち現天上界の心の前に、真なるものの前に、
己を低くする、神に繋がる心を持たぬ者であることを知り拒絶すべきであるのは
言うまでもないことなのではないでしょうか。(2026.1)】

 現天上界の神々の心が善であるのは、悪を知り悪を憎む善に徹したからであり、
如何なる苦難に遭っても善なる(徳に生きる)心を貫くことが研磨と呼ばれる、
人の心を堕落から、善なる心の滅びから自らの魂を守り抜く唯一の生き方であると
彼等は語りました。
 悪に勝たぬ善であっては、そのようなものを善であると満足していては
天は生き残れなかったでしょう。

 悪に心を支配させぬ為には、悪に、悪に靡く心に鈍感であってはならないのです。
 善への愛の無い、悪を隠し持った偽善が見抜けないようでは、
真の善なる心ではないのです。
 悪が為され、悪を嫌う善が意識されるから、
その悪に負けない善を自らの心に在らしめんとするのです。
 悪が如何なるものか知らずして、どうやって悪を憎む善に徹することが出来るのでしょう。

 悪に勝るから善が存在し得るのです。
 悪が始まりなのです。
 何故なら、人間が動物から進化した際、自分の生存の為にのみ生きようとする心にあっても、
生命の意志である本能により自然の法に従い、自然の調和の内に生かされてきた心が、
自らの生きる知恵を得て、自然の法に従う本能から解き放たれた時

自己保存か、他を重んじる理性か、どちらであっても自らが選ぶ自由を得た
(己が意志に委ねられた)時、理性(神の心)を求めず、
他を思う心を顧みぬ自己保存の思いに、何よりも己を大切にする心に従った者には、
神を知る知恵を得られず(善霊の願いは伝わらず)、
美しい心に、神の心に出会っても心の清められることのない、
妬みや憎悪が悪魔から与えられる偽我が残されるのです
悪が生まれました。
 自己保存の本能(に従う自我意識)は、すべてを生かそうとする自然の法から、
自分を優先する自己愛に従うものへと変わりました。
 盲目の内に自然の法に従っていた自己保存の本能(に従う自我意識)は、
何よりも本能の欲求を欲望に従うことで満たされることを知ったからです。
 自己愛から自己肯定(自己の優位の為なら善も調和も顧みない)という偽我が生まれました。
 自己愛から自然の法を犯す己をも許す悪が生まれました。

 自然の法を犯した為、動物(人間の生きるに必要を超えて殺されました)が犠牲になりました。
 犠牲は動物に留まらず、同じ種である人類をも手を掛けていきました。
 自然の法は、悪(法を顧みぬ偽我)を抑えられず、
善(神の愛に生きる善我)だけが悪に立ち向かう、
滅ぼすまで悪と戦い続ける善無くば、自然の法によって齎された調和に、
人類は与ることが出来ないのです。
 何故なら、善(自然の存続する状態)にあって、初めて調和が齎されるからです。

 悪(共産主義)によって齎された闘争に生きる偽我は調和を求めません。
 支配を求めるからです。

 神の国を、神の善を受け入れることで、人の心から悪の芽を摘むのです。
 自然の法を蘇らせる神の法が、人の心に調和を齎すのです。 
 自己保存の本能は必要です。
 その本能が自己愛に留まらず、神の愛へと昇華させることで調和を得るでしょう。
 その指針が神の法である正法です。

 動物は悪を意識出来ないので善も意識されません。
 他を食する、他も自分を食べようとする、
それは必然(自然の法に従うということ)であるからです。
 だから生かされている間を懸命に生きることが彼等の意志なのです。
 人間のように神の法も知らず自らの判断基準で他を裁き、己を許す自由など知らないのです。

"創造神は存在しないということ"
 悪が始まりであった。
 法に背き、人(自分)に危害を加える人間の心が生まれたから、
大切なものを守ろうとする愛の現れる善なる心が、悪に負けぬ善が意識されたのです。
 故に悪を知らぬ善なる者など、
悪を知らず、悪を創造することなく(悪を創造したとすれば悪魔です)
善のみを創造し得た神など存在し得ないのであり、
自己保存に生きる動物にもなかった悪が、
自然の法を見失い、肉体の求めが満たされても、心の渇き続ける、求め続ける、
満たされることの知らぬ心(自らの心を制御する理性を育てることを知らぬ)人類が誕生した時、
初めて悪(自らが生きるに必要を超えて他を貪る、他の幸福を踏み躙る)が現れたのです。
 法に従う、知恵に生きる意志の理解出来ぬ、
破壊衝動に生きるを喜びとする偽我(悪霊の心)を知って、善(に生きる心)が現れたのです。
 悪の存在しなかった、自己保存の本能を持つ人類の存在しなかった、
宇宙の存在しなかった時から、善を知る創造神など、
真の神を理解出来ぬ蒙昧な人間の頭脳にしか存在し得ぬものです。

愛する対象が存在しない(創造神が人類を創造する以前)のに、
愛という観念を抱き、人類を創造することは不可能というのは、
神の愛を与えられた人間が、神への愛を捨て、悪魔を愛する、
神の与えた同じ愛であるとするなら
(対象ごとに変質するのは真の愛ではなく、不動な自己愛なのであり、
自己愛を満たすことの出来なくなった対象を愛さなくなったに過ぎません)、
愛した者を裏切る、死に追いやる、
そのような邪悪に克てぬような愛、裏切りを許容するような愛を、
神の愛と言うのは真に神を貶めるものです。

 愛にあって裏切りの邪心の生まれる、それを神の愛として人類を創造されたと、
神の人類の心に植え付けた愛をそのようなものと、
それを至高の徳と人類に信じさせようとされるのが神であると言うのでしょうか。
 信じるから愛であり、疑いの念を生むような思いは愛ではない、
そのような(偽りの)愛を人類に与えたのが神と言うなら、
神を詐称する悪魔以外にあり得ないのです。

 真の神は、最も大切な徳として、人類に伝えられたのが、愛と正義と信義でした。
 欲望から、自己保存から人を裏切る、真偽を捨てることの出来る者は
神の心を理解したことのない者でしょう。
 自己愛生きる者は、動物と同じ本能に生きています。
 自己保存に生きる本能(自己愛)しか知らぬ動物が同じ種の仲間を裏切ることはありません
(狡猾な知性を持たないからかも知れませんが、人間には愚劣な者でも人を裏切る者がいます)。

 それは、自然の法を逸脱した、法を犯すまで自己愛に生きた種あったかも知れませんが、
淘汰されたのです。
 今生き残っている種は、自然の法を犯すことのない、
法に生きる心(条件反射)を強化してきたのです。
 自然の法(自他の種を生かす)に適応する生き方を刻み込まれた本能
(それが種を永続させる知恵なのです)の内に、
そこにある愛に、優しさに満足する心に生きて来たからでしょう。

 動物にない人間の獲得した知性とは、
全て生まれてからの経験、学習を通して初めて精神(の働きを齎す大脳)が開発されるのであり、
それなくして判断力も、その基準となる善悪の知識も持ち得ない、
動物社会で育てば肉体上は人間であっても開発された頭脳は動物社会で学習したもの、
即ち動物の心(条件反射)しか持つことが出来ないのですから、
環境に適応しようとするのは全ての生物の持つ本能の力であり、
人間社会という環境に生きることに於てしか善悪の判断力にあっての善の選択
(自然、即ち全ての生き物の調和に於てしか人間社会の存続は出来ぬこと)も為し得ず、
また善に生きることに於てしか善なる心(神の心、真の神を知る心)は自らに現れないのです。
 その人間の内なる神の心に於てしか、神は認識されないのなら、
真の神も人間と同じ心でなければ、人間との心の接点を持ち得ないのではありませんか。
 経験することなく完全な善なる心を持った創造神など、
知恵の開発途上であった人類の想像の産物に過ぎません。

(人間に霊体が見えないように、人間として生きた霊体は人間の属性しか持たない為に、
霊体は霊体が見えない、肉体を持った人間しか見えないことが知らされましたが、
人間の霊体である神には人間が見えても、人間には神は見えないのが当然なのであると、
故に神は善なる心からしか生まれぬ善なる波動の力(それは熱意に他ならぬもの)
によって人の心に働きかける、
人の善なる心を目覚めさせるのは、神の愛(熱意)しかないのであり、
真に神の心に目覚めた者はそれが神によって為された業であることが直観されたのです。
 そのことを伝えた彼等は真の神であると直観されるのです。)

 何年にも亘って、私達は天上界高次元の聖霊からメッセージを受け取りました。
 多くの人々を前にして霊媒の声を通して、
その場に在します神々(元七大天使の方々、ブッタ様、イエス様)がメッセージを伝えられました。
 このような天上界の法を、真理を愛する心によって統治される世界、
天国をこの世にあって知ったのです。この世にあって神の国に生きたのです。
 二千年も前の時代に、この世に神の国の齎すことが出来ると信じたイエス様は、
神の国は近付いたと人々に述べ伝えられました。
 真の神の愛(人類を救わんとする神の御意志、天への道の指針)を知ることで、
人々が善なる心を取り戻すことを信じられたのです。

 天に導く真の光と地獄に誘おうとする偽りの光を見分けられるでしょうか。
 心の目覚めぬ者が真の光の道を歩めるでしょうか。
 闇に生きる、心の盲いた人々に光が、救いの手が伸べられていることを伝えられるのは
目覚めた者、光を証する者だけです。
 法灯になるとはそのことを言うのです。

 現代にあって、天の声を聞くことを知らない、聞こえない人々に、
その真実を伝える為に、悪霊に満ちた地獄(この世)に降り来って語り掛ける、
その為に如何なる犠牲を天に齎したか、その声に聞き従った人々に齎したか、
私達は知っています。
 そのようにして残されたのがこの天上界メッセージです。
 天上界は、伝えるべき法は伝えたと語られました。
 その法に生きる、法灯となる者が神の国を齎すのだと伝えられたのです。
 後は 、神の心に生きようとする人類に懸っているのです。
 神の国が齎される迄、神から授かった天の法、正法を伝え続けねばなりません。

「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」75頁

三次元の歪みを正しくし、人々の心を正しい方向に向けることのみが
地球に平和を齎す唯一の方法であり、且つそれ以外にはない
ことも改めて述べておきましょう。」

(注。
 世の中全体が堕落しているのに、
仮令政治家の責任が重いものであっても、一人政治家の堕落に罪を押し付け、
責任を負わせても世の中が、人々が正しくなることなどあり得ないでしょう。
 政治家の堕落を不正を声高に叫ぶ多くの人々が真に善を愛する人々なら、
ここまで政治家の堕落を許す世の中となるまで何をしていたと言われるのでしょう。

 多くを苦しめた政治家に比べ、たった一人の人間に罪を犯したに過ぎないからと、
人を不幸のどん底に陥れ、悔いぬ者の罪が軽いなどということは決してありません。
 政治家の所為にする者で、罪なき者が一人でもいるでしょうか。
 一人一人が責任を自覚することなしに人類が罪から自由になることはないのです。
 人類全体に罪が及ぶからです。

 偉大な指導者やメシヤによって人類が救われる、
そのような他力本願では人類が罪に生きる心を克己し得ないのです。
 人類全体が目覚めて行かなければ人類に救いはないと
ラファエル様の仰しゃるのはそこにあるのです。

 人類全体が堕落した中での、
それ等の人々によって選び出された者が、彼等に巣くう悪を持たぬ者であり、
彼等が自己保存からしがみ付く悪を知る者であり、
それが犠牲を伴うものであろうとも、人々に悪を知らしめ善に生きる心へと目覚めさせる、
そのようなことが望み得ると思われますか。

 神のメシヤにさえ人類は罪に生きる心を悔い改め、聞き従わなかった、
メシヤを真の指導者として迎え入れなかったではないですか。
 一人一人の正しい道を行かんとする心しか人類を救い得ないのだと
ラファエル様は仰しゃっているのです。注終)

〖備考
 権力を持たぬ者の悪を為すは、
欲望から、自らの満たされぬ思いから、自分よりも裕福な者への嫉みから、
力ある者に苦しめられた復讐から、その思いを満たそうとする時、自らの善なる心を、
自らの善なる心を、その心に注がれてきた愛を顧みる心を失ったが故に、悪が為された。
 悪を為さんが為に、己が善なる心を捨て悪なる心に生きるを望んで、悪を為したのではなかった。
 悪を為す力を、権力を得る欲望が、善を、善なる人々を苦しめたのではなかった。
 神を見出せぬ者が、悪に克つ善なき心が悪を為した。

 共産主義という悪魔の種が、悪魔の思いが人の心を支配して行く。
 憎しみ、怒りから、破壊への意志が、力が充溢する、
邪念に満ちた心故にその憎しみが、怒りがほとばしるは、
悪にあって憎しみに神を見失わず、神の愛を求める、神が愛される人々であり、
悪を拒む善なる心を破壊しないではいられぬ、
そのような神を神と知って、神の愛されるあらゆるものを踏み躙る、
神の国を憎むが故に、神に生きる者を踏み躙る地獄をこの世に齎そうとする、
憎しみを邪念を満たすことを喜びとする悪魔の心に生きる人類を育てた。
 人類を支配するのは悪魔の恐怖であって、
神の愛に支えられた優しさを、他を信じる心を破壊せずにはいられぬ、
悪魔の心がこの世を支配しようとしている。故に神が現れたのです。
 神を信じる人々が、神は全能であり、人類を想像されたのだから、
何時か悪魔の如き人々を滅ぼして下さると己が全能の神への盲信、
依存心から惰眠を貪っている間に、末法の世が現れたのです。

 神は、私達と同じ人間であった、人間が神に導かれて、神と同じ心を育てた。
 自ら育てる以外に人は神の心を持つことは出来ない、
神でさえそうであったことを告げられたのです。
 私達の心に神の心が目覚めたのなら、このように語られた神と共に立ち上がらねば、
自らの心から悪魔の種を抜き取り、神の善なる心に目覚め、善なる意志を持たねば、
人類は、この世は滅びると言われた、
彼等こそ唯一の真の神に他ならないことが、
自らがどちらに生きるか決断しないという選択の余地はない、
それを拒む者は真の神を拒み、内なる神に心を自ら捨てることであることが
理解されるであろうと思います。備考終〗

第四部 天への思い
第四章 この世に神の国を

二節 天上界は、人類が自らを救う為に、
  神へと進化する為に必要なことを全て伝え終えたと語られた

"私達の前に現れ、メッセージを伝え続けられた天上界が、
天上界に戻られる時を迎え、私達に告げた最後の言葉
「伝えるべきことは、私達はすべて伝えました」と仰しゃったことについて"

 (2026.5)

① サタンについて天上界の証された真実
 現天上界によって明らかにされたことの一つに、
これまで全く知らされていなかったサタンの人格があります。
 自らの偽善を以て善を貶める、真理に生きるものを破壊する力を以て真理を貶める、
サタンの心を見抜く知恵を持つ者はいなかった。

全能の神の前に、サタンなど恐れるに足りぬ、
神に守られているとの慢心からサタンの力を軽んじたにしても、
神の思いに応えようとする愛なきことに、神の思いを知らないでいる自らの心の虚ろに
苦しむことなく、神の子(人類ということ)の望みを叶えることが神の喜びであると教えられ、
神に自分の望みを神に語りかけるを以て自らの信仰に満足する。
 自らの神の心を見出し、神への愛に生きているならば、既に神の導きに生きている、
そのような神の救いを現わしている人を見ても、神を見出せぬままに滅びの道を行く者に、
最後の福音を神自ら与える為に、最後のメシヤとして現天上界が現れたのでした。
 最後の審判を以て人類を滅ぼそうとする悪を滅する、
その為に天上界は多大な犠牲を以て人類の目の前に救いの道を示されました。

 自ら神を偽る、天上界をも騙す、
そのような心を以てして、自らは天上界最高次元に存在することは相応しいと、
神々を前にして自分こそやがて神となるべきものと、
神々を亡き者とする心を隠し持って平然としていられたのがサタンであった。
 ダビデの心(かつてサタンであったが悔い改めて天上界に在ることを
エル・ランティ様に許されていたとのことですが)を天上界は知っていたのであり、
そのような中で天上界は人類の救いの為に、
この世だけではなく、天上界にあっても戦ってこられた。
 人の心を守り、神の心へと導いてこられた。
 その天上界の計画に常に横ヤリを入れてきたサタン・ダビデは、
その名目は試みを与える、神に選ばれた民族が神の救いに値するか、
また神の計画の実現の為に、神の代行者(人類の指導者)として、神の信頼を受けるに値するか、
試みる者とされてきました。
 そのサタンは、神々と同じく人の霊として何億年という時を、
人の心を弄ぶを喜びとし、如何にすれば人は神を、自らの神の心を見失い、
自らの悪に生きる心も解らなくなるまで自己愛に溺れて行くか、神をも軽んじるか。
 己を愛する余り、罪を明らかにする神をも憎み、サタンの心を受け入れるか。
 人の心を試みる、弄ぶ、人の心を操る術を自らのものにしてきたのがサタン・ダビデでした。

 そのサタン・ダビデは、
今生に於てヤーウェ=エホバ神(エル・ランティ様)の実の兄弟(双子の弟)として、
決して今生からサタンとして生きたのではなかったのですが
ミカエル様は、ダビデはアルツハイマー病
〖理性を司る前頭葉の脳細胞の死滅に伴い、本能に根差した欲望の、感情の力を制御出来なくなる、
その本性(深層意識に作られる。防衛機制といわれる自己保存の作り出した心の働き)〗
ではなかったかと仰しゃっています
自らの本性こそ己が本心(真我)とする、善悪を判断する理性の心(の働き)を失った心は、
神として愛される兄エル・ランティ様への嫉妬から、
エル・ランティ様に愛された、神への全き信仰を貫いた真の義人への迫害、
そして天国に迎えられたそれらの聖なる霊を消滅していった。
 そして、エル・ランティ様を、その子でもある神の七人の御使い達を
滅ぼす計画を抱き、神による救いの現れた今この現代にあって、
サタンはその力の全てを以て神の計画を破壊する、天上界を滅ぼそうとしたことを、
かつては真の神の心を自らの心としようと望んだ者がサタンの心へと堕落した事実を、
天上界は明らかにされました。

 自らの本性こそ己が本心(真我)とする、善悪を判断する理性の心(の働き)を失った心は、
神として愛される兄エル・ランティ様への嫉妬から
神の愛される、神への全き信仰を貫いた真の義人への迫害、
天国に迎えられたそれらの聖なる霊を消滅していった。
 そして、エル・ランティ様を、
その子でもある神の七人の御使い達を滅ぼす計画を実現させようとした。
 かつては神の心を自らの心と望んだ者がサタンの心へと堕落した事実を
天上界は明らかにされました。

(ダビデのような)科学知識を駆使し、
己の野望を実現しようとする異星人が地球を侵略しようとしたら、
今の地球人類はひとたまりもないとラファエル様は仰しゃいましたが、
天上界が人類を導き、神が与えられた教えの真意が正しく理解されてこなかった、
間違った解釈を信じてきたのはサタンの介入があったこと、
そのサタンがこれまで神に許されてきたのは、サタンがその本性を、その計画を隠す、
地獄の魔王ではなく、神々の一員であると天上界を信じさせたからでしたが、
現代に於て、サタンとして地獄の王として、天上界を、天上界の善なる心を滅ぼすべく、
天上界は悪から善を守るべく、死闘が起きたことを、
それによって多数(天上界の善霊の七割とのこと)の聖霊が亡くなったこと、
またサタン・ダビデをその配下の悪霊を全滅させたことを明らかにされました
(が、その後、共産主義者の死者はすべて悪霊化し、
今も天上界の平和が、この世に神の国が齎せないでいます)。

② 神、そしてサタンが人間の霊であることを証された真意
 新約聖書の中に第二の死について言及している箇所があることを、
天上界によって知らされましたが、天上界による消滅について、
二千年前にすでに聖書記者(パウロ自身か)に天上界は伝えていたのです。
 魂が物質であることを、消滅という神の行為の存在によって証明されるものと思います。

 天上界の証言(を基に、天上界によりその権威を与えられた真の先生等の解説)によれば、
魂という物質は、人間の肉体の一部であり、大脳(神経細胞)の働き(思考、意識作用)が、
肉体(神経細胞)の死後も神経細胞中の電子の働きが生前と変らずに、
霊魂の分子中に同じ機能を(感性の法則の下)維持する。
 その活動のエネルギーはその物質(素粒子)自体のエネルギー故に永遠に失われない。
 故に霊体は永遠の生命を持つものということです。
 霊についての詳細は、第一部 第七章に書いてあります。

 霊体とは、元々肉体の一部としてある、肉体の死と共に肉体から独立する分子組織である。
 肉体の死を迎えた時の人の心(人格、知能)が魂として残される。
 故にその人の一生に於て作られた心(の罪)をそのままに自我とした魂が裁かれることに、
何ら不正はないのです。
 如何に生きたか、その結果が魂です。
 自らの心を如何に育ててきたかが原因であり、神もサタンもその原因の齎した結果に過ぎない。
 神が働きかけようと、サタンが働きかけようと、如何なる心を受け入れたか、拒絶したか。
 それらの心が自分の心となったその原因は、自らの意志であった、
自らがそれを望んだからに他ならないのです。
 故に、ただ神様の言われたことだからとそれを為しさえすれば天国に行けるというのは、
間違った教義であり、神の齎された教えではありません。
 神と同じ判断を自ら行える理性を養う。
 その理性とは神の教えである徳への愛、愛に従うを以て養われるものです。
 それが天の導きの意味するものであると思います。

 人間の心は、神にもサタンにもなる。
 人を神に成らしめるのは、サタンに成らしめるのは、
神でもサタンでもない、一人の人間、その人自身に他ならない。
 天上界が、私達は人類を導くことしか出来ないと言われたのは、
天上界の、神の心を自らの心に生きることが、自らの心を救うことが出来る、
人を、この世を救っていくことが出来るからです。

 自らの内に神の心を育てる、神の心に立って望まれるのが神の国なら、
神の心を育てない者が、どうして神の国を知ることが、望むことが出来るでしょうか。
 神の心を育てることなき者の見出している、望んでいる国とは、
何千年と神が人類を導いて来た、人類に与えてきた文化に、宗教に、
国を守ろうとする祖国愛にすら真の愛を見ようとしない、
神の愛を拒絶するその自己愛の醜さを知る感受性さえも育てようとしない環境こそこの世であり、
サタンに支配されていると言われるのは尤もなことではないでしょうか。

 神を、神の心を育てることが出来るのは自分しかない。
 何故なら、神への愛を拒絶することが人に出来るからです。
 人の自由な意志を神は奪おうとされないからです。
 人の自由な意志の中でしか、神の愛は育たない、生きることが出来ないからです。
 神は人の神の心を養う為に愛を注ぐことしか出来ないと、そのように神は仰しゃるのです。

 神の心を育てるのも、サタンの心を育てるのも、人自らの意志です。
 神は全能の、万物創造の神なのではありません。
 人として生きた、自らの意志で神の心を育てられたのが神です。
 それを天上界は現第にあって初めて人類に証されたのです。
 それまで人類はそのような真実を知らされることはありませんでした。
 理解する心を持たなかったからです。

 そして神自ら人間の霊であったことを告げられたのは、
そのような神を信じ、敬う心を、神の信頼に応えるだけの善を愛する心を
人類は育てたと信じられるのは、天上界の人類への愛以外に考えられないのです。
 彼等のような心を、彼等は今生に於て育てることが出来たのは、
神の心を育てることの出来た国が、かつて(三億六千五百万年も昔に存在し、
そのような心に生きるが故に今もそこに存在し続けている)
この宇宙に存在し得たことを彼等の魂が証しているのです。
 それでも神の国と聞いて、嗤うような者を恐れるのでしょうか。
 神に導かれながら、神の心を悟れぬ人類の低劣に何故媚びようとするのでしょうか。
 そのような者の顔色を窺うのは、神の御心を思う心が全くない、神の世界に生きる意志もない、
低劣な世界に適応する、そのような心に生きようとしているのです。
 そのような世界を変えられないにしても、
そのような世界に依存しようとする自らの心を蹴散らす勇気を奮い起こす気力もないでは、
正法を学ぶ資格もないと思います。そうは思われませんか。

 神が人類の精神を成長させるべく与えた神の道の指針、神の与えた宗教を信じる者が、
神の思いを悟るべく精神へと成長させることが出来なかった。
 神の思いの伝わることなき心は、神への依存心に留まるべくサタンの甘言に、
誘いにをサタンと見抜くことも出来ずに従ってきたからです。

 現天上界の神々は、神の御意志に従う、その責務を全うすることに賭けられた元七大天使が、
彼等と共に戦う戦士へと育てる為に来たと仰しゃいました。
 その意志こそ彼等の善への愛、
自らを顧みず人類を救おうとされてきた彼等の愛であるからです。
 彼等が天を守ってきたのであり、
この世にあって人をサタンの惑わしから守り、天へと導いてきたのです。
 人の神への愛とは、私達の心を知っての神の私達に望まれる思いに、
その愛に応えようとするものです。
 その思いなき心に神への愛があるなどとどうして思えるのでしょう。

③ 天上界は、この世に神の国を、ユートピアを作る為に人類を導いてきた
 人の心は大脳の働き以外の何ものでもありませんから、
心は肉体に依存するものです。
 肉体が、大脳が損なわれれば、心も損なわれます。

 人の心を作るのは環境です。
 環境から受ける刺激で心が反応する、
同じ刺激を受け続け(る環境に生き)れば、如何に反応すれば苦しみを避けられるか、
安全であるか学習し、出した答えを、反応をくり返す。その条件反射が強化される。
 その行為に満足すれば、それから考えない、
人のそれぞれの心に、精神の成熟に応じた対応を考えようとしなくなります。
 自分に良ければその考えが正しいと判断する心が作られていきます。

 人の心を作る環境は、
愛を与えるものか、真の正義が守るものか、理性を育てる真理が人の心に生きるものか、否か。
 善き環境に順応する心を育てているか、
悪しき環境に反撥する、自らの良心(自らに宿る天上界の善霊の心)を知り、
生きる道が見つけられるか。

 現天上界よって伝えられた真実の前に、
現天上界を認めないあらゆる宗教を支配する神とは、
真の神を見失った信者に与えた、
人の心から真の神を知る知性を奪った、
サタンの拵えた虚構に過ぎぬものであることを、
真の神は、神に守られた者の知性の前に、
神の真実を齎された。
 それは人の魂である霊体とは、物質である。
 それを明らかにする存在こそ唯一の神であると証する現天上界
(真理を追及するその意志は合体した科学者を通して人類の知るものとなった)が現れたのです。

 永遠にその人自身となる魂とは、生前の心であり、その心が魂を定めるものである。
 その心を作るのは、この世であり、この世を如何に感受したか、
その条件反射が心であることは、
既に(天上界が指導された)心理学者等によって証明されたのが現代です。
 その時代を人類が迎えたが故に、天上界がこのような真実を明らかにされました。
 ですから人を苦しみから、悲しみから救う、人の神を信じる、神に生きる心を救う為に、
この世に神の国を作ろうとされるのが天上界の真の望みであることが
理解されない筈はないと思います。

 この世に神の、神の叡智の治める天国を作ろうとするのも、
サタンに支配された邪心から地獄を作ろうとするのも、同じ人の心です。
 何故人は天国を、地獄を作ろうとするのか。
 それは自らの心に天国を、地獄を作るのが人間であるからです。

 その人間の心を作るのは、この世の環境だけではない、
霊の世界からも影響を受ける、
その心から人の心に伝わる波動の力に於いてはこの世以上のものです。
 何故なら、霊はこの世の人の傍にあってその邪念の波動で侵す、
その人の心を同じ悪に染める、堕落していく、神に背いていくのを楽しむ。
 悪を行っているのは堕落した人自身の意志であるが、
支配欲が強い悪霊であると、人の心を支配(憑依)し
霊自らの意志通りに人を操ろうとする者も存在します
(そのような憑依霊は見つけ次第、天上界により消滅されます)。

 そして地獄とは、地下にあると信じられてきましたが、
真実はこの世に存在しているということです。
 この世を彷徨う、この世に執着する霊の波動は、執着心そのもの、
そのような波動を受ける人の心も執着心を強めることになります。
 この世への執着心()が、神の望まれる精神の解放を妨げるものであること、
人の心に自由を齎す、
自由の心にあって、真理に生きんとする神の心を、愛を見出すことが初めて出来る、
人の真の幸せを望まれる神の思いを見失わせているものが執着する心であることに
説明を要しないでしょう。

 この世を神の国とするとは、この世に生きる人々の心を、神の心へと育てるということです。
 この世に働き掛ける悪の波動を、地獄の霊を一掃しなければならない。
 それを実現させるのは、この世の人々自身の神の心なのです。
 この世から地獄の波動を一掃する神の心を持たないから、
神の波動がこの世に、人の心に伝わらないのです。

 天国が何故この世にないのか。この世に地獄があるのか。
 それは天国の霊を地獄の波動から守る為です。悪霊から魂を守る為です。
 この世にあって、人の神の心を守る為には、
天国の霊がその人につきっきりで守らなければならない。
 その為に、合体霊や守護霊達が天上界より遣わされているのです。 
 彼等の善なる波動が、悪霊の波動から人の心を守っているのです。
 しかし、この世の人々の多くは、この天上界から知らされた天の守護の事実を知らず、
彼等の思いなど伝わる善なる心(自らの良心)に立つことを知らず、
ただ自分の未熟な思いに、その為に生きる道しか教えられてこなかったのでしょう。

 神の御意志の伝わらぬ心には、神の国を作るどころか、望むこともないでしょう。
 神の思いの伝わった、神の御意志の理解出来たと思いながら、
神の国を作る意志が現れぬようでは、
自らを、神の心を救う望みに生きる意志さえ持てないでしょう。

 神の国を作るには、天上界の思いの伝わる世にしなければならない。
 神の国が作られるまで、人は神の国を作ろうとしなければならない。
 それしか今を生きる人を救う道はないのだと思います。
 神の国を作る意志だけが神の国を齎すことが出来る。
 神の国を作る意志の中にしか、神の心は生きないからです。
 神の国を、神の愛が正義が臨む世を求めぬ心に神の心がどうして生きていると思えるのか。

 神の心を育てようとする心と、神の国を望む心は同じ心に他ありません。
 天上界が神の国を作ろうとされてきた、それこそ神の御心であると思えないのでしょうか。
 神の国を望むのは、これから生まれてくる子供達の心を悪から守りたい、
(神の心を見失わせ、エゴイズム、ナルシシズムに溺れる心の内に)
心の破滅へと導く悪から救いたい、それが出来るのは、その為に生きる神の実在を、
その心を伝えたいと願うのが当然ではないですか。
 神の救いを求めながら、神の国を求めない、
そのような心の偽りを、虚栄を神が見抜けないとでも思われるのでしょうか。

 人類を神の心へと導いてきた、人の心から神の心を守る為に神の国を作ろうとされてきた、
それが真の神の御心であると、それが解らない者に、
同じ神の心に生きているとどうして思えるのか理解できません。

注。
 例えばノイローゼになるような職場であっても仕事を変えようとしない、
ついには自殺してしまうケースもあります。
 執着心というのは何もそれを手放したくないとの思いとは限りません。
 自殺してでも解放されたい、苦しみから逃げ出したいのに、
退職して心機一転、新しい職場で頑張ろうといった、
気持ちを切り替えることが出来なくするのが、
執着心という心に落ち込んだ時の恐ろしさではないでしょうか。
 そのようになるまで環境が、自分の心が常軌を逸脱していることに気付かないというのも
すでに健全な精神を失っているのです。
 例えば、そこが収入や評価の高い会社で、そこに勤めることで虚栄心が満たされていれば、
自分に適していないと思っていても、ずるずる深みにはまっていく、
執着心が健全な理性から来る判断を顧みるゆとりを奪って行くのではないでしょうか。

 恋愛感情なども必ずしも健全な精神によって現れる思いでもなく、
執着心から相手を自分のものにせずにはいられなくする、そのような心に愛などなく、
人を不幸にする場合が多々あることもよく知るところではないでしょうか。注終)

〖備考〗
 日常係わりのある人の中には、不快な思いをさせられる人が大なり小なりいて、
そういった人を避けることに苦心を強いられますが、
異常性格というのは、精神科の医者さえも治せません。
 精神異常をきたした心は二度と元には戻らないのです。
 そうならないような世の中を作ってゆくしかないのです。

 私達に出来ることは、そういう人間を生んできた社会を良くしていくしかない、
ユートピアを、神の国を作るということも、その方向性は全く同じです。
 その思いの向きは同じです。
 その為にはどうすればよいか、解決しようとする意志が、
(悪への誘惑に克てぬ人の心の弱さ、悪の認識の浅さへの理解、
悪を嫌う善への愛を育てる精神力等からなる)
知性が人間と天上界とに開きがある為に同じ理解に至らないのだと思います。

 愛なき優しさを知らぬ者が力を以て支配欲を満たす、力なき者はその支配から逃れられぬ、
そのような世の中を子孫に残したいと思わないでしょう。
 人を思い遣る優しい心を育ててほしいと思うでしょう。
 天上界が神の国を作ろうとしてきた心と何が違うでしょうか。
 天上界は本当の悪、人の心を悪に染めようとする、最早救いようのない(治しようのない)
極悪な狂人どもと戦ってこられたのです。
 悪と戦うことで人の善(の観念)を信じる心を守ってこられたのです。
 誰もが善を、幸福を求めますが、その為に、それを妨害しているもの
(人だけではない、人の心を悪にするもの、悪の観念、悪の観念を許す心)
を憎む心が、善を愛する心がない。
 人の善を守る為に悪と戦う信念が、勇気がないのです。
 だから現天上界の、神の思いが解らない、解ろうとしない。
 神の国を作るとは、それを妨害する悪と戦うことから逃げないということです。
 天上界の思いを知れば、
神の国を作らなければならないという天上界の御意志が理解されることでしょう。

 今を生きる人々にイエス様が語りかけられた神の愛の教えについて
 神の庇護の内にある、愛されているとの余裕から与えようとする、
そのような心から生まれるものが神の愛ではない。
 神の庇護に留まろうとする心から踏み出し、真の愛を与える神の心へと成長する意志なく、
何時までも神に愛されていたい、ただ自分を愛する心しかないことも理解することが出来ない、
その心を満たさんとする欲求が神を崇めさせているに過ぎない。それは真の神への愛ではない。
 真の神への愛とは、自らの心を神の心に近付ける、成長させるということです。

 愛は犠牲を厭わないとイエス様は仰しゃいました。真の愛は人の精神を成長させるものです。
 精神が成長するとは、自らの意志に生きようとすることです。
 自分の本当の心を知ることもなく、本心に背かせ、
偽りの(自己欺瞞の)心に支配されることも知らぬ心であってはならない、
真の善を知らない、善悪に盲目であれば偽りの善であることも解らずに、
善に生きていると自分を騙す、そうであってよいとは思わないでしょう。
 精神を成長させるとは、理性を育てること、
そして天上界は、あらゆる良き思いは理性から生まれるもの、
正義も、信義も、愛さえも理性である。
 神は理性である故に、神の愛は偽りの愛を許さない、
そのような心を自らに許さないのが神の心です。

 自らの心を神の心へと成長させる、
神に近付こうとすることが神への、真理への愛を育てるのです。
 自分を守ってもらうことを願うとは、
愛に生きる神の御意志こそ真の神として崇められるべきその神に対して、
己への愛を求める、自らを神に近付こうとする意志を捨てたが故に、
神の愛をも貪らずにはいられぬ心であることも解らない未熟な精神に留まる、
神の愛へと自己愛を昇華させることが出来ないのです。

 苦難に立ち向かえば、力及ばず、痛手を蒙って後悔の念に苦しむことも、
また善に生きる心を蔑む者に非難させる機会を与えることになるかも知れません。
 犠牲(責任)を強いられることが解っていても、逃げてはならないという心があるなら、
その本心を貫こうとする者もいるでしょう。
 親の慈愛の下に何の苦難の無くすくすくと育ったからと、
社会(世の中)には偽我達の誘惑や、支配力が待ち構えていることでしょう。
 そのような者達に、弱いものであっても愛を知った心を失う、
神の心を捨て去る、偽我に心を渡すような、道を誤るような精神に留めさせていてはならない、
故に神は善我を鍛える道を与えられるのです。
 苦難を、悪を前にして逃げない、立ち向かって行く心を自らの心とする為です。

 愛(に生きる心)は、犠牲を厭わない、
その先にある希望を愛は見出すことが出来るからです。
 人は神のように愛する心へと成長することが出来る。
 そのように成長させようと神が人に与えるものが神の愛に他ならない。
 神の愛だけがそれを為さしめる。
 神の愛は与えられている、それを受け止めてきたのか。
 神の御心を理解しようと望んできたのか、神の自分に注がれた思いに応えようとしてきたのか。
 神を求めてきたのか。神を求めるに、神が顧みられるに相応しい心であったのか。

 自己犠牲を厭う心とは自らの救われる、誰よりもまず自分の救われることを望む心であり、
人の苦しみを知って、救いたいという思いに従おうとするものではない。
 人を救いたいとの思いは、イエス様が仰しゃった、
苦しんでいる者からその重荷を軽んじてあげたい、代って背負ってあげたい(
との思いと同じであろうと思います。
 人を助けたいという心を自ら摘み取って、
自分さえ平和であれば自由であればいいという自己満足の為にあるのが人生である、
それを支える(貪られる)為に在るのが生き物であると考えるエゴイズム(自己中心主義)
を蹴散らす意志へと、人を愛へと駆り立てるものが、
苦しみから解放された、神への愛に立ち返ることの出来た人の喜びを自らの喜びとする、
それが神の心であると、イエス様がメッセージで伝えられたことであると思います。

注。
「希望と愛と光」82年2月号 ガブリエル様メッセージより
「天上界の神と呼ばれる私達も人間として生きてきた、
人間として生き、あなた方と同じような悩み、苦しみ、
欠点を、魂の研磨の末、削り取った努力と精神力、絶えざる自己への反省、凝視の故に、
"神"として存在するに相応しいのです。
 あなた方と同じように苦しまなかった者があなた方を理解出来ましょうか。
 イエス様が「神はあなたと共にあり」、
「重荷を負うてあげよう」と仰しゃったのはこういう所からなのです。

 これが理解出来ぬ人には、メシヤ信仰から抜け出すことも、
自分の偽我を発見することも出来ないでしょう。
 何故なら、神が何でも受け入れてくれる絶対者として存在するなら
自分は何も見えぬ幼児でよいからです。」注終)

⑤ 進化
 地球人類という種は進化を通して出現したものであることは、
進化論が理論に留まるものではなく化石などの証拠から十分立証されたものと
健全な精神()を持った多くの人々に確信を与えていますが、
実はそれが人間の健全な知性によって辿り着いた結論だけではない、
三億六千五百年前に地球を訪れた現天上界の人々が死後も霊となって地球に太陽系霊団を結成し、
地球に留まった彼等が、地球上に人類という種が出現するまでの過程を自ら目撃したことなのです。

 さらに素晴らしい事実は、地球以外の惑星に生まれた彼等も、
地球人類と同じ進化を辿った同じ種であったことです。
 この進化とは宇宙を貫く真理、
即ち宇宙の法の一部であるということを証明することになりました。
 進化を認められない人々とは、宇宙の法を理解する知恵を与えられなかった、
彼等の崇めてきた神が偽りのものであったことを証明しているのです。

注。
「JI」87年4月号初出 ラファエル様メッセージより
「精神の成長も健全の度合いも偏(ひとえ)に大脳の発達に依ること。
 又、それは良き正法者となる基準の物差しであり、研磨の目安、私達の規範であって、
あなた方にお教えしてきたものです。
 精神の成長なしに、良き社会も文明の発展も、世界の繁栄もありません。」

 そして大脳の開発なくしては、健全な精神を養うことは出来ない。
 精神を向上させる、人類という種に与えられた理性を開発出来ない。
 そして神の心、理性とは、神の智慧とは、
人間として生まれてから開発しなければならないということを証されました。
 動物にあって生まれる前から与えられている大脳の旧皮質の本能とは別のもの、
人生に於て獲得して行かなければ、決して得ることは出来ない、
どんなに良い遺伝を与えられた者も、自らの生きる環境次第で、環境に適応することで、
生かすことにも失うことにもなるということです。

 精神を向上させなければならない、神の愛もまた、
本能として与えられた自己保存に根差した自分への愛、
そして種への愛、同じ種に自分を見る、自分と同じ、自分の一部と認識される知性故に
自分への愛と同じ愛が種に注がれる、種への愛を昇華したもの、それが神の愛、
真の愛についての教えは、アガペーの愛としてギリシャで正法が伝えられた時から、
神より与えられた真理でした。
 そのアガペーの愛、神の愛は、理性である、理性とは、この世に生まれてきてから作られる。
 それが神の心である。そのような大脳の新皮質を、前頭葉を獲得したのが人類という種である。
 それを天上界は、人類は神の心を与えられて生まれてくると仰しゃったのでしょう。
 勿論その心に神の知恵を養う、神の人格へと向上させる為に天上界の与えら導きを、
真の天上界と信じて従う者だけが、彼等を神と知る知恵が与えられるということであると思います。

 これらの真実を知って、神が導いてこられた真理の道を知って、
自ら神の心を養うことで、神と同じ理性を持つ。
 神と同じ愛に正義に生きる故に、神と同じ判断をすることが出来る。
 神の人類に与え続けてきた教え、正法に生きる心を自分の心とすることが出来るのです。
 それが出来ない、そのような心を持てないということの意味することとは、
神に従わない心を自ら養ってきたということなのです。
 その心は、神から与えられたあらゆる良き思い、
神の救いを失おうとしている心であることも解らない、
それほど神の愛の伝わらない心に、
神を見失っていることも解らに心になっているということだと思います。
 神の心を育てようとしない限り、何時までも天上界がメッセージを伝えても意味がない、
そのような無意味なことをしていられるほど天上界は、この世は平和だと思わないでしょう。
 今まで天上界の伝えられたメッセージを学んで、
それでも神の心を自らの心としたい、
その為に与えられた天への道を生きようとの意志が現れないのでしょうか。
 自らが正法に生きる為には、まだ天上界は伝え足りていないと思われるのでしょうか。