「JI」87年9月号 「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」
         ラファエル様

 とかく正法者は天に尽くし、義の為に怒ることを知っていても、
対人間的なものとなると、かなりぎこちなく、非社交的であったり、
ユーモアを解せないほど生真面目であったり、
思い遣りの本質が何か把握出来ていない
人が多いように見受けます。

 それは一口に言って成長途上にある精神に他ならないものですが、
誠実であれば、非社交性や生真面目過ぎる所はまだ許し得るものです。
 しかし思い遣りは社交性と相通じるものがあり、
ユーモアも思い遣りの表現の一手段として必要な場合もあります。
 その心を会得し得ない、詰り打てば響くような水の流れの如き柔軟な心を持ち得ない人は、
エゴイズムの殻に閉じこもっている ー
他者の心を踏み躙っている生活をしていることになります。

 そして他者の心や存在を踏み躙ることが出来るのは愛がない ―
自らを愛する術も他を愛する術も知らない ー のです。
"愛は惜しみなく与える"というのが本質であり、奪うのは愛情ではないのです。
 愛は外に向かって発露される暖かい感情であり、
内に向かって他から得ようとする心はエゴイズムと自己保存の本能であり、
高次の精神ではない。勿論愛ではありません。


 厳密に言えば勿論、自らを愛することは愛情ではないけれども、
自分と同じように他者を守り、他者に与える行為は愛なのです。
 そしてペットや野生動物や小鳥への暖かい関心と優しい思い遣り。
 それは植物に対しても同じ、惜しみなく与える愛なのです。
 ペットやあらゆる動物、植物に自分の鬱憤をぶっつけたり、
存在を無視した一方的な愛情を注ぐことは幼児のすることであり、真の愛情ではありません。
 総ての生物(植物も生きてます)に対する愛の心とは何かを会得したならば、
人同士、親子の間にもどのような感情が存在すべきであるか理解出来るようになるでしょう。
 他を生かす心 ー 思い遣り ー 愛、それは同質の感情なのです。

 如何に学識があっても、正しくことの本質を見抜いても、
愛する心と方法を知らない人の精神はまだまだ未熟
であり、
個人としても社会人としても成長していないのです。
 そして又、自らを正しく健康に生かし、他に与え得る愛を持つことは
健全な社会を築く上に必要なことです。
 自己犠牲も大切であるけれども、自分が滅びては、

他を生かし支え続けること、社会に奉仕することも可能ではなくなるが故に、
自己保存も正しい形に於て必要なのです。
                 (八十七年八月十日 口述筆記 千乃裕子)


天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法