「JI」85年12月号 「十字架の真実」 ガブリエル様
 厳しい師でありながら、慈愛に満ちて、真に許されねばならぬ人の罪を赦し、
自らを神の前に贖罪の生け贄として捧げられたイエス様の生涯と死について、
思い出さずには居られないイエス様誕生の月十二月、
そして生誕の日クリスマスが再び近付いて来ました。
 それは偏(ひとえ)に栄光に満ちた誕生でありながら、
モーセ様によりエジプトの捕囚の民が救い出され、
乳と密の流れる地カナンへと導かれ、エジプトに代る定住の地を与えられつつも、
神の愛を忘れ去ったユダヤ人の贖罪として定められた生であったが為に、
私達天の者に取っては何時までも暗い悲しい思い出でしかありません。
 真実はそれが私達の心を救うものではなかったのです。

 この悲劇は天の父エホバ様の弟であり、サタン・ダビデと化した者が
巧みにエホバ様を説得し、計画した壮大なドラマに過ぎず、

つぶらな瞳の小さな羊や山羊や小鳩を、
無意味な供物(くもつ)や燔祭(はんさい)として殺し、
その血を流して肉体を持たぬ神に奉げると同じ結果しか齎しませんでした。

 しかも小羊などの肉は人々の糧になり得たかもしれませんが、
イエス様は何の糧になられたのでしょう?
 狂気の如く神への復帰を訴えるきっかけを与えるかもしれません。
 しかし象徴的にユダヤの主として神から民に与えられても、
民はこぞってそれを受け入れた訳でもなく、
神の側からは民の最も大切なメシヤを取り上げたことにより、

贖罪が行われたと解するのも良いでしょう。
 しかし民の側からは彼等の供物としての現実感は無かったのです。

 凡そ犠牲による、血を流す供物や燔祭の儀式は、
血の臭いに満ちた、常軌を逸した礼拝であり、
人の理性を狂わせてしまうものであることに目を向けてみて下さい。
 イスラエルの宗教の供物に伴う必然的な事柄が、
動物を殺して血を流すことであり、祭壇にその血を注ぎ、塗り付けることであり、
供物無しに礼拝は許されなかったという所に、
神の美名の下に悪魔的なものが厳存した点に注目して頂きたいのです。

 汝殺すなかれ"と戒められた天の父が、
犠牲を供物として殺し、血を流すのを聖なる儀式とされるのは、
正常な解釈では矛盾しているのです。

 慈愛に満ちた神が何故イエス様の殺人を黙認なさったか。
 血生臭い礼拝を喜ばれるとされたのは何故か?
 そこに私達が証した天の悲劇 ー
天王エホバの最も近き所にサタン・ダビデが居り、
しかも天王を自らの意に従わしめていたことが証明されるのです。
 私達が如何に天王に逆らえましょう。

 その為に神の光を求め、愛に従う人々が、
サタンの教えを身に着け、
流血を何とも思わない、
異端者を火刑にするキリスト教会や共産主義思想のキリスト者や、
聖戦を口にして好戦的なイスラム教徒を生み出すことになったのです。
 最早キリスト教の歴史は贖罪の意味さえ伴わない流血の歴史と化し、
イスラム教の歴史は戦いの歴史としてしか存在しなくなりました。

 イエス様の十字架の贖罪がある限り、それを信じる者を狂気の道から呼び戻し、
私達真の天が説く、良識的で正しい人生を歩ませるのは、不可能に近くなったのです。

 これはクリスマスが近付く度に、
私達が思い出さずには居られない暗い過去の物語であり、
彼等に救いがないという点に於て、希望のない未来でもあるのです。
        (八十五年十一月二十二日 口述筆記 千乃裕子)

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