「 JI 」82年11月号 「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」
          ミカエル大王様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」159頁掲載)

 今日は"姦淫するなかれ"という戒めについて、真の意義をお教えしたく思います。
 現正法は正しく私達天の法を介して、極端に走る思想や行為を戒めております。
 人間間の愛情が恋愛感情に発展する時も同様に、恋愛は自由であると思い違いをして、
愛の溢れるまま何等理性でそれを制する努力を為さぬらば、
それは一つの過ちとなり、悲劇で終わる場合が却って多いのです。
 未婚の者同士でも、社会には制約があり、その制約を踏み越えても互いが愛を失わず、
周囲もそれを暖かく理解し、受け入れるならば、誰も傷付くことはないでしょう。
 しかし現実は、男女の考えの相違や心理的な変化が、
自由な恋愛を何時も成功には終わらせないのです。

 互いを愛するならば傷付けぬこと。不幸にせぬこと。
 それをまず第一に考慮するものでなければ、愛とは言えず、

一時の遊び、好奇心、欲望の満足の対象としてしか相手を見ていないことになります。

 未婚の者の自由恋愛は"姦淫"とは言いません。
しかし何れかが既婚であるか、何れかが配偶者を持つ場合、
それは社会が許さぬものであり、お互いをより傷付け、
又、幸福な家庭を壊す場合は、二人のみでなく多くの人を不幸に突き落とすことになるのです。
 現正法はまず第一に"人の幸せを願い、思い遣ること"なのですから、
社会の制約が厳存し、お互いのみならず多くの人を傷付けるならば、
愛がたとえ心の中に芽生えたとしても、自分で厳しくそれを摘み取らねばならないのです。

 相手の幸せを願い、思い遣るならば、自らの愛と良心、善我に掛けて、
相手を傷付けることは出来ない筈です。

 その意識がなく、エゴイスティックな愛を強要する相手は、
勿論悪と見做し、斥ければ良いのです。
 どうしてもあなたへの愛を断ち切れない人は友人とすれば良いでしょう。
 人の幸せを奪う行為は盗みにも等しいものです。
 たとえ二人が合意しても、"第二の死"が裁きとして二人に与えられます。

 しかし私達は、一旦夫婦となるならば、如何なる理不尽な言動にも耐えて、
子供共々不幸と苦しみに喘ぐ生活を強制する相手と永遠に絆を断つなとは言いません。
 真の愛が通じぬ、人間として価値なき人格に繋がれて

共に地獄への道を歩む必要はないのです。
 如何なる場合も離婚を禁ずるという一部キリスト教宗派の戒律はサタンの束縛であり、
人の苦しみはサタンの喜びそのものであるからです。

備考1
 この天の戒めのメッセージが死刑判決の如き重みを以て受け取らねばならぬ人々が、
上流階級から下々に至るまで如何に多いことでしょう。

 何故神が戒めを与えて来られたのか。
 その知識があるないに関わらず戒めを踏み越えた人間は、
神の平和を自ら捨てて得た如何なるものも
自らの滅びを知る良心の絶望を拭い去ることの出来ぬものであることを
シェークスピアはその作品に明らかしました。

「ハムレット」の中に、父ハムレット王の弟(現王クローディアス)
に殺された父の仇を討とうと機会を窺っていた王子ハムレットが、
罪に苦しむクローディアスが神に懺悔している所を見付け、
復讐を遂げる絶好の機会を迎える場面(第三幕第三場)があります。

ハムレット「いまならやれるぞ、祈りの最中だ。
 やるか。やれば奴を天国に送りこみ、復讐は果される。
 待て、それでいいか。悪党が父を殺した。
 そのお返しに一人息子のこの俺が、その悪党天国に送る。
 これでは雇われ仕事だ。
 父上は、この世の欲にまみれ、あらゆる罪が五月の花と咲き誇るさなかに、
奴の手にかかって非業の死を遂げられた。
 神の裁きが如何なるものか、我々に知る由もないが、どう考えてみても軽いはずはない。
 それなのに、どうだ、復讐したと言えるか、
祈りに魂の汚れを清め、死出の旅路の用意()の出来ている奴を殺して?
ばかな! 剣よ、身を潜めて時を待て。」
(中略)
「何時でもいい、救いようのない罪業にうつつを抜かす時こそ、奴を突き落としてやる、
その踵が天を蹴り、その魂が地獄へと真っ逆さま、忽ち地獄のどす黒さに染まるように。」

シェイクスピアの合体霊であるラファエル様は、
父エル・ランティ(エホバ)様と(実弟のサタン)ダビデの関係を
ハムレット王と弟クローディアスに暗示させ、
王子ハムレットに神の御使いである彼等大天使達の思いを代弁させたかのようです。
悪人も善心に立ち返ることはある。
その時、その者は善人であると言えるでしょうか。
言えないのです。
善なる心に立って、生きなければ、悪に立ち向かうのでなければ。
そのように生きぬ者は又、必ず悪人に戻るのです。

 善なる心を持つことだけで満足してしまう者は、自我の存続が脅かされでもすれば、
立ち所に自己保存の偽我に生きようとする、
神の前に自分を棄てる(善を貫くという意味)ことはありません。 
 悪との戦いが苦しみを、不幸を齎しても、
決して善の心を見失わなかった者だけが善人なのです。

 悪の心へと誘惑するものに、心を許してはならないのです。
 悪なる心によって得たものを、
それに執着する心を棄て去った者が善に生きる者と言えるのです。

 ハムレット(悪と戦う天上界の思いでもある)は正義が顕れねばならない、
私怨を晴らすことでそれを妨げてはならぬとの思いから、
復讐のみに生きることを思い留まるのです。
 神の裁きから逃れられようのない罪の重さに、苦しみに耐え切れなくなったクローディアスは、
神の慈悲に縋ろうと、神の前に罪にまみれた心をさらけ出して告白します。

 クローディアス「この呪われた手が、兄の血にまみれて硬くこわばっていようと、
それを洗い清めて雪の白さにする恵みの雨が天にはないのか?
 人が天に祈るのは何の為か、一つは罪に落ちぬよう、
もう一つは罪に落ちた者が許されるよう祈る、そうではないか?
 とすれば天を仰ごう、殺した罪は過去のものだ。
 だがどう祈ればいい?
 "忌まわしい人殺しの罪を許し給え"?
 だめだ、それは。
 人殺しの罪を犯した結果、手に入れたものを今なお身に付けていて、 
王冠も、野心も、そして王妃(注。兄を殺して得た兄の妻)も、 
未だ手放さずにいて、その罪が許されようか?
(中略)
「ではどうすればいい? どうすれば?
 悔い改めれば、そう、悔い改めればすべては許される。
 だがもし悔い改めることが出来ぬとすれば?
 ああ、惨めな! 死のように黒いこの胸の内! 
 鳥もちにかかった小鳥同様、もがけばもがく程自由が失われる!
 力を貸し給え、天使たち! 
 やってみるぞ。曲げるのだ、固い膝を。
 鋼鉄の心も生まれたての赤子のように柔らかくなってくれ!

 このような悲痛な叫びを聞いても尚、
心の目覚めることのない、悪に身を委ねて得た罪の実を味わっていられる者は、
神の心を捨て去った者と天に思われても傷付くことのない偽我に生きているのでしょう。
 互いに姦淫を許す者は、内なる邪悪を隠し、相手に見せまいと
相手を騙す心にあって、気付かない、痛む良心がない。
 そしてそのような心に互いに惹かれ合う、
そのような心に互いを縛り合う欲望に生きる者には、
互いを自由にさせることを願い、ただ愛を大切にする信義で繋がろうとする、
真の幸福な関係に生きる世界(神の国)が存在するとは想像も出来ないことなのでしょう。

 これまで自分を信じてきた人々を忘れ去る。
 信義を裏切ることが悪徳であることすら知らないのです。
 人を傷付ける、裏切る偽我(悪を許す心)とは、
何も傷付けよう、裏切ろうと自ら邪悪を求めての行為だけではありません。
 そのような行為を行っていながら、気付くことがない、受けた者の苦しみが伝わらない、
慮る心がない、そのような悪の想念に支配された(悪徳にしか惹かれない)心も偽我なのです。
たとえ意識していなくとも、自分を信じてきた人の愛を踏み付けていながら、
それが解らぬ冷酷な心も、(自らの神の愛・善我をも踏み付ける)偽我なのです。

「正見」を理解していながら、心を正しく見ることが出来ないのは、
真理が如何なるものかを知りながら、真理に生きぬ者と同じ、
そのような徳(信義)に生きようとする心を持たぬ者と天が繋がることは決してありません。
 自己愛にしか生きられぬ、天の愛に背を向ける者です。

注。
 天の裁きが絶対であるというのは、
裁かれる人間の自己弁護によって天の判断が変る余地はない、
天の裁きを認めまいとする人間の弁明が如何なる心から来るものか、
天は知り過ぎる程知っておられます。
 死を前にして心を浄める、死出の支度を整えることの教えんとする所は、
生きている内に心を浄め得なかった、
神の愛を受け入れることのなかった魂を受け入れるような神ではないことを、
人は忘れ去って生きているからでしょう。

 死を前にして心を浄めればよいと、
そのようなことで清め得るものでないことは言うまでもないことです。
 悪を悪と認めることのなかった心に、悪に打ち克つ善なる心は持てない、
善なる心無く、清められた心など存在しないからです。

 神の光に己が偽我を明らかにされて、天に於て最も小さき(低き)者とされた時、
そのように生きてきた者に、天の裁きに素直に従う善なる心が残っているでしょうか。
 自らを正しとする増上慢が、
それまで現天上界を真に神と仰ぐべき方と理解していた正法者の心を、
悪魔の心に変えるものであることを、
天に背反した者達の存在によって知らされました。)備考1終

備考2
 容姿の綺麗な女優さんなどの不倫が取り沙汰されると、
容姿の美しさや、演じられた役柄や、見せかけの人間性に惑わされてきたことを覚れず、
不倫すらも躊躇しない心の表れを知るに及んでも尚、
内面への鈍感を己が心の寛大さと勘違いされているようですが、
「ドリアン・グレイの肖像」のように、もしその心根が容姿の上に現れたなら、
きっと正視するに耐えられないことでしょう。

 庇うことが善意と思っているのでしょうが、
そのような社会基準(風潮)が不倫(姦淫)を罪と認めようとしない誤った判断基準を与え、
罪を罪と思わないまま修正の効かない人格と成り、天に裁かれる者となれば、
罪を諭すことなく甘やかした社会(の偽善を後押しした人々)は、
天の法に背くという罪を人に犯させたことになるのです。
 天の法を知らなかったという理屈は通りません(「第二章 最後の審判」に詳述)。
 目に見えなくとも、心の美しさこそ、真にその者の人間性を示すものです。
 その人間の価値とすべきものです。

 目に美しいと映るから愛してきたのでしょう? 
 ならばその人の心が醜いものと解かろうとも、
見た目の美しさが変らないのだからこれからも愛して行けるのですか?
 容姿さえ美しければ、心など問わないと言うのなら、
寧ろ醜い心の方が居心地がいい人なのでしょう。

 自分とは何か、それに応えられるのは心以外にない、誰もそれを否定出来ないでしょう。
 あなたの心が苦しみから、悲しみから逃れられない時に、
あなたの上辺しか知らない、上辺だけで人を判断する人々の賞賛が、尊敬が
苦しみから逃れられぬあなたの心に何が伝わるでしょう。
 あなたの求めてきた人々の尊敬が愛が、あなた自身である心に何も伝わらない。
 人々があなたに寄せた愛も、自己愛から出た見せかけの愛に過ぎないことは、
解り過ぎる程あなたには解っているのです。
 偽りの愛が、あなた自身が軽んじてきた真実のあなたの心に響くものなど何もないことも
あなたには解っているのです。

 人々の心無い行為に苦しめられれば、法律で裁くことが、
法律で守られるように世の中を変えてゆくことが出来るでしょう。
 しかしあなたの心が自ら堕落して行く、真理に、神に背いて行く時、
あなたの心を救い得るものは何もないのです。
 真実の己とは、心以外にない、一人の例外もありません。
 どうすれば自分の心を(幸せな思いに)変えられるのか、
それどころか自分の心の真実の姿も解らない、
そのような心を自分自身で作ってきたことも、そうなった原因が、
すべて自分で望んでのこと、自分の意志でそうなったことすら理解出来ないでいる。
 心の目で見ないからです。見ようとしないから見えないのです。
 自分の心が美しくても人々は容姿の美しい人の方を愛する、
心が醜くても言動に表れなければ人に覚られない、本当にそうでしょうか。
 肉の目に美しく映るものが、それがあなた自身であると、
そのようなあなただから愛するという愛が、あなたの心を愛に留めるでしょうか、
愛を見出し、愛に生きる心へと変えるでしょうか。
 あなた自身が心を顧みずに、真の幸せを知ることが出来ると信じているのでしょうか。備考2終

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法