「慈悲と愛」81年2月号 「宗教の弊害について」 ミカエル大王様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」129頁掲載)

 政治の話題が続き、正法者も随分、政治を見る目を養うことが出来たようですので、
今日は正法のもう一つの課題、宗教の弊害についてお話ししましょう。
 最初は、如何な天上界高次の者が始めようとも、
時代が変れば、たとえ心を扱う宗教の分野でも、全面的に通用することが難しくなります。
 何故ならば、現在も残るような巨大な宗教組織の生まれた背景には、
その時代特有の歴史的な必然性があるからです。
 例えば民族の弾圧、為政者の無能、天災など、続く不幸に人間が耐えかねた時、
天の計画によって、その時代に応じた救世主を出し、
理性を失いかけた人々に安らぎと、再起の力、希望を与えたのです。

 最初の者達は皆、純粋で、高貴なる魂の持主が多く、
二代、三代と繁栄するにつれ堕落してゆきました。
 天上界は我が身を投げ出し、他人の幸せを天に祈り、人に尽す人にのみ助けを与えるからです。

 キリスト教は、その非科学性を信仰の深さと勘違いして、
四千年も前の人間の地球観を振り廻している宗教ですが、
情けないことに正法者は、その害が判っている筈でありながら、
キリスト教徒に強く進化論を否定されると自分までも、進化論は間違っているのであろうか、
と考えてしまうという気の弱さです。

 キリスト教徒に触れたことのある人なら、誰でもその非科学性と排他性に驚くでしょう。
 無論二つは個々には存在せず、非科学的である故に排他的であり、
排他的である故に非科学的なのです。
 そしてその論法の進め方は概ね、共産主義と似ており、
一つの思想や宗教に凝り固まると、こうも眼が見えなくなるのかと、
祈りのポーズとは裏腹に、狂信というものに恐ろしささえ感じる人もいるでしょう。

 彼等キリスト教徒は羊のように大人しく、天に祈りを奉げますが、その祈りは天に届きません。
 何故なら天の守護する者は、その時代に於て最善の務めを為し、
可能な限り、自分と環境を認識しようとする者なのです。
 又、そのような者でなければ、天の意図する計画の施行者足り得ないのです。
 この意味で狂信、盲信に安住するキリスト教徒は、神の名を語ることさえ許されない人々です。

 現代を生きるが故、現代の悩みを持ち、現代の方向を探らねばならない、
その為にはどうあるべきか。
 そして、天の守護すべき人物像を考えた時、自ずと正法者の姿が出てくるのです。

 今迄に送った魂についてのメッセージも、
あなた方が天の守護をどうしたら得られるか、といった問題に対する答えではなく、
どうしたら皆が幸せになれますか、という問いに対する答えなのです。
                  (八十一年一月九日 口述筆記 土田展子)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法