「慈悲と愛」79年11月号 「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」73頁掲載)

 昨年十一月より、この機関誌「慈悲と愛」を通じて私達天上界の者が、
直接三次元の多くの人々と入り交じり、種々正しい法の実際的な在り方を
手を取って指導する事が可能になってより、毎月のように取り上げて論ずべき問題が起り、
そして今更のようにその煩雑な問題の生起に私も内心驚き、且つ失望少なからざる所もあります。

 例えば、八月号から十月号迄三箇月掛けてあなた方に自然との共存、
生命の尊重の精神についてメッセージを通してお教えした積りでしたが、
マスコミの代表であるかの如き三大新聞の内、
サンケイ新聞の社会部は私達の取り上げた同じテーマに関して人権擁護の立場と主張を押し通し、
その権力に物を言わせて法改正にまで持ち込み、それに影響を受けて、
赤化の色濃い朝日新聞が何故か暫くは生命尊重論に傾きかけていたにも関らず、
身を翻してサンケイに和し、"人間社会はあくまで人間優先であるのが常識というものである"
と言わんばかりの世論や文化人の意見を紹介し出したのには驚きと失望しかありませんでした。

 かてて加えて神野寺のトラやパンダの死と密接に関係のあった動物園の園長までが、
二番目の犠牲者として世論の攻撃のやり玉に上がるのを避けて、
判ったような判らぬようなキツネ馬的感想を述べ、
又そう振舞わなければならぬように仕向けたこの国の国民感情というものが、
トラ射殺事件を巡ってのマスコミと世論の絡み合いに
鮮やかに浮彫りにされていたように感じられます。

 マスコミというのは、絶えず口煩い姑のような公正論と、正義の主張を為しつつ、
全体としての世論の流れを見ているようで実は正しく見ておらず、

何時の間にか世人を虚妄の世界に誘い、
自らも偏見と、囚われの世界から出ることは不可能であり、
しかもそれに気付いていないという、
それ自体が矛盾した尺取り虫の集団の如き役割しか果たしていないことが、
この事件を通じて歴然たるものでした。

 只一つ毎日新聞のみは、主として宗教問題を記事にしてきただけに良き面の影響を受けて、
慈愛の本質に触れ、視野も少しく広く、一貫して読者に安定感を与えるものでした。
 こういう避けがたいマスコミの弱点は、新聞記者の多くが、才あって識足らずの者が多く、
又記事とする対象が、世界を語ると雖も三次元の、一つの国の中で、
その国民としての利害関係の枠内に留まり、
従って視野が狭く時々刻々のニュースに対して世論の神経質な反応にどう訴え、
どう対処していくかという新聞、報道機関の在り方に必然的に左右されるものであるからでしょう。

 マスコミに関りを持つ学者も文化人も、
公私共に多忙な生活の中から同質のものとならざるを得ず、そしてどちらも影響し合って、
マイナス面はよりマイナスに、プラス面については個々に特色を持ち、新聞を読む限りに於て、
読者はガラクタ市で欲しい物を選ぶといった立場に置かれることを余儀なくされるのです。
 売り手が買い手の立場になって商品を集めてきたのではないのですから、
欲しい物が見当たらない場合もあるでしょう。

 一つの集団である社会に住む人間の適応性として見れば、
これが民主主義的自由社会に住む各人の処世術として仕方がないこととも見えます。
 特に波間に漂う一艘の小舟のような日本に於ては。

 しかし更に残念であったのは、こういったマスコミに影響されてかされずにか、
あなた方正法者の「集い」の一主宰が動物愛護を取り上げ、しかもその「集い」で出した結論が、
自然及び生物保護、生命尊重という私達の明確な主張と異なる甚だ中途半端なもので、
日本では一例としてこうだが、外国ならばもっと違った結論が出ただろうといった、
当らず障らずのものであったのです。

 これは恐らく主宰を含めてですが、私達のメッセージに含まれている深い真理
(勿論天国シリーズで既に打ち出してあるはっきりした思想であり、主張でもあるのです)
を見落としておられるのでしょうが、
それを今後あなた方正法者の戒めとして、ここに改めて問題として取り上げるのは、
すべて私達がメッセージ、或いは法話として機関誌に発表するものは、
あなた方の批評や再検討を待って、その中に説かれている真理を

再び三次元の偏見と誤謬に満ちた迷論や、
世論に媚びるような俗論に落としめんが為のものではないことを、
再認識して頂きたいからです。
 私達の述べる真理と同じ結論が出なければ、それは私達に誤りがあるのではなく、
却ってあなた方の正見・正思・正定に誤りがあって正しい真理に達したのではない、
ということを今後は弁えて頂きたいのです。

 何の為にあなた方は天国シリーズが神理であり唯一のものであると感動して
集まり来たったのかを思い出し、これら三巻の著書のどの箇所がそうであると感じて
「集い」を開くまでの熱意を持つに至ったのかを思い出して後、
私達に何を求めているのか、何を私達と共に為したいか心の整理をして頂きたい。
 只天の為に働くならば、私達が天上界の一員として迎えると安心するのは大間違いです。
 天上界の一員になるにはそれに相応しい人格と、思考、判断力を身に付けて頂かねばなりません。

 三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
 そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
 詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。
 又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
 
それが如何に容易に毀(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
 聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。

 あなた方が我が身を振り返って、
私達天上の者より優れた識見と判断力を備えていると考えられるならば大きな誤りです。
 私達が義というものの本質についてどのように験(ため)され、鍛えられ、
年月を通じて正しい判断力を備えるべく教育されてきたか、

あなた方にはお判りにならないでしょう。
 それなくして、巧妙な悪魔や悪霊に操られた人々のすり替えの理論や罠を見抜き、

三次元を正しく導き、或いは人の愚かさを教え、賢き道を歩ませることは出来ないのです。

 最近とみに正法者が、只穏和な事なかれ主義の善人であって、
意識の低い相手の一言の反論や反駁にさえ、
現正法の正しさの説明が満足に出来ない人々が多いということが明らかになってきており、
それ故に私達は、各「集い」の主宰に、正法の基礎のみを良く判るように易しく説くよう、
方針を変更した矢先のことでした。

 又主宰の心得というのも、
三月号の読者連絡の項に西澤様にお願いして発表して頂きましたが、
"天上界を信じる"ということが第一条件として挙げてあります。
 天上界を信じるということは、
私達の説く真理を真理と理解し得る智恵者でなければならないという意味です。

 "知識即ち智恵である"という考えに囚われてはなりません。
 世の多くの学者や文化人の考え方から見ても、知識は必ずしも智恵を齎すとは限らないのです。
 囚われのない心で"深く"考えること。
 少なくとも私達はそれを各主宰に要求しているのです。
 その為には勿論、私達の語る所を深く理解するべく努力して頂かねばなりません。

 その努力なくして三次元の側から安易な結論を下し、却って真理を歪めるようなことでは、
主宰としての自覚が充分でないと言わねばならないのです。
 私達は只人を導く権威を与えただけではないのです。
 如何に天の法を正しく学び、正しく人々に伝えるか、その責任と義務を同時に与えたのです。

 三次元の歪みを正しくし、人々の心を正しい方向に向けることのみが
地球に平和を齎す唯一の方法であり、且つそれ以外にはない
ことも改めて述べておきましょう。
 これは主宰のみならず、協力者、講師、延いては参加者であり、
正法者たらんと努める方々すべてに与えた義務即ち使命でもあるのです。

 これなくして
只正法者の輪に繋がれているが故に天に迎えられる特権は己の物と考える特権意識は、
愚かなクリスチャンと同じく、直ちに今日この場に於て捨てて頂きたいと思い、
又そう私はあなたに望みます。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法