「慈悲と愛」79年9月号 「再び動物愛護について」 パヌエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」66頁掲載)

 八月号のメッセージに関連する話題として一箇月遅れてしまいましたが、
八月四日土曜日に千葉県君津市に於て起った恐ろしい事件についても触れておかねばなりません。
 これは寺の住職に対する住民の反感から起ったことなのです。
 人間の感情に哀れな幼い動物が犠牲になりました。
 覚えていられる方も少なくないと思いますが、某真言宗の寺で観光用に住職が動物舎を作り、
次々と動物を飼育していました。
 いろいろな事があって飼い変え、最近は雌雄のトラを飼い、子供も十頭生れ、
生後一年ばかり経ったところでしたが、それが二日夜、
誰かの悪質な悪戯で動物舎のカギを開けられ、子トラが三頭共家人の気附かぬ間に外に出て、
一頭は直ぐ帰りましたが、残りの二頭は附近の山中を歩き廻ったらしく、
翌日から大騒ぎになって捜したのに帰って来ず、
遂に警察に助力を求めて大掛かりな捜索を始めました。

 そこ迄はよかったのですが、
トラと聞いて附近の住民は震え上がり、千葉県の警察は機動隊を結成し、
消防隊員を呼び、猟友会というハンター・クラブの会員に依頼して、
凡そ八百人の銃撃・捕獲部隊を動員した結果、オリに帰ろうとしてこの物々しい有様に驚き、
二日間何一つ口にせずに逃げ廻った空腹の、
しかも人に飼われていて獣性もまだ目覚めていない子トラを散弾で打ちました。
 メスを崖に追い詰めて射殺したのです。
 最初五米の至近距離で狙いをつけた時に子トラは逃げようともしなかったと、
仕留めた安藤某というハンターは得意気に語り、四人が同時に射ったのですが、
後で"大任を果たした"と祝杯を上げたとのことです。

 このトラを知っている近所の母親や子供達の
"殺さないで欲しい"という何人もの嘆願がありながら、
まるでオリの中の動物を殺すように追い詰め、発見時に住職に知らせもせず、
麻酔銃が二本あったそうですが使いもせず、誰も彼もが恐怖の余りに只、射殺に専念したのです。
 野生のトラでもなく、誰一人傷付けられた人は居なかったと言うのに。
 滑稽なことにトラではなく、クマンバチに刺されたハンターが呼吸困難を起こしたとのことです。
 オスは逃げたので弾が幸い当らず、しかし尚もオリに帰りそびれて
(飼主側の住民の非難に対する遠慮と、余りに多くの武器を携えた人々が歩き廻り、
足跡を探して廻ったが故に)、既に五日目を迎えました。
 その間、専門家の意見もあり、
殺さずに捕獲することを最後まで考えるべきであったと忠告を受け、
やっと計画を変更し、餌によってオリまで誘導する方針にしたとのことでした。
 そして七日には、しびれを切らした千葉市長が、
ハンターでも何でも出来るだけ動因して人海戦術で山狩りを行い、
射殺するように指令を出したのです。
 事情を知らず、トラは殺すべきだ、との単純な考えの持主なのでしょう。

 私達天上界の者にはただ言うべき言葉がありません。
 私に取ってはこれは功に逸(はや)り動物を殺すことに慣れた、
狂気のように動物を殺したがるハンター達の暴挙としか思えず、
動物についてほとんど無知である人々の、
ハンターだけが頼みになると考える軽挙妄動であるとしか思えないのです。

 動物が如何に大型の猛獣であっても、人間に飼われ、餌を貰い、子供である間は、
飼主は親に次いで信頼すべき人なのです。
 可愛がっている人であれば、飼主はその動物の性質をよく知っています。
 住民は他の動物のことで迷惑を掛けられたと興奮し、
寺側の言葉を信用せずに"早く殺せ"と警察に談じ込みますが、
しかし何も知らない子トラが住職への反感の為に殺されてもよいということは絶対にありません。
 非は一方的に人間の側にあるのですから。
 そして母親や父親、兄弟達の顔を見ることも出来ず、メスの小トラはその上に、
飼主や附近の可愛がってくれた子供達の愛情とハンターの殺意を区別出来なかったのです。
 この年齢では(人間にすれば中学生か高校の一年生位の)人間の子供の方が
自衛の本能を持っていたでしょう。

 飼主が居ることを知らなければ、その動物の性質が判らず、
人間が射殺するということもあります。
 しかし飼主が近くに待機していたのです。今度の場合は。
 愚かなことではありませんか。
 私達が動物を可愛がり、その生命を大切にしてやることが正法に適うことであると説明しても、
一般に精神的文化のレベルの低いこの国では、
動物の生殺与奪の権利は人間にあると思い違いをして、
人間の沽券に係わると内心思う人が多いでしょう。

 如何に大型の動物でも、野生であっても、無闇に人間を襲ったりはしないものです。
 小動物にとっても彼等が満腹である時は警戒すべき相手ではありません。
 ましてや人間は、このオリに帰れないトラに只食べさせる為だけに餌を撒き、
空腹にならないように配慮してやることが出来たのです。
 飼主が一番にそれをすべきでした。オリに帰す事ばかりを思い詰めずに。
 人数を集めて追い込めば大人しく逃げ帰るというものではありません。
 野生の強い動物はペット用の小動物より遥かに警戒心が強いのです。
 猛獣の習性もよく研究せず、トラを観光用にただ飼うのであれば、いっそ飼わぬ方がよいのです。

 里にエサを求めて降りてくるクマも、人間は殺すことしか考えない。
 自然破壊の為に、エサ場を失った鳥が、
群をなして人家の近くにやってくると殺すことが解決だと思う。
 日本はそういう所なのです。米国ではそういった場合に新しいエサ場に集団移動をさせ、
動物は麻酔銃で捕獲して移動するのです。これを動物の保護計画と言います。
 人命軽視の国であるソ連でさえ、小型のクマをペットのように飼い慣らして
サーカスで種々の芸をさせ、人間と融和しているとのこと。
 シュバイツアー博士は蚊を殺すことさえ潔(いさぎよ)しとされなかったのです。
 動物は、本能的に平和な心を持っていることや人間の愛情に応えるのに敏感であることを、
彼等(西洋人)は知っています。
 日本ではマヤ子という象の脚に鎖を付けて連れて廻り無残な死に方をさせました。
 インドでは鎖を付けずに象が歩くのです。
 象の習性を知らない日本では恐れつつ文化の象徴として、財産として飼いたがるのです。

 動物虐待の習慣や(医学の実験でも外国ではちゃんと麻酔を施してやります。
日本はそれ程の貧乏国ではありません。
 医科大学は多額の寄附を、一体何に費(つか)い切るのでしょうか。
 そういった所から医師の生命尊重の観念が薄れ始めるのでしょう)
 自然を大切にしない国民性を誇れるものと思うのは大間違いです。
 弱者を保護する気持ちのゆとりが出て来なければ、まだまだ人間と呼べません。
 頭に知識ばかり詰め込んでも、精神面は動物の一種であって
それ以上のものではないということを認識しなければならないのです。
 
 植物のようにものを言わぬし、鳴き声も立てない種ではなく、
動物は人間に身近なものを持っていることはお分りでしょう。
 そして精神は幼児以上のものにはなりません。
 その無邪気な動物を可愛がるということは、
親の、子に対する愛情と同じ無償の、保護者としての愛なのです。
 それによって人は心の潤いを学ぶのです。
 人は、自己のみを愛していては人格が円やかにもならず、深まりもしません。
 必ず他に愛を注ぐことが大切です。
 そして絶対の信頼を寄せる、裏切らない動物からの愛情は、

人の心に安心と落ち着きを与えるのです。

 何時か新聞に、一知識人の発言として
"愛を語りつつ、動物を愛することを知らぬは、愛とは何かを知らぬ人々である"
と報じてありました。
 これは意味深い言葉であり、自然との共存への第一歩と申さねばならぬ健全な考え方です。
 日本人がこれを学び得なかったならば、ひとたび国が赤化されるや、
カンボジアの赤色クメールと同じになるのです。愚かな国民性です。

 ペットにはしたいが、大形の動物は人が恐れるようであれば、まず殺してもよい。
 人間優先である。
 その情緒と愛情の欠如した所から
幼児を殺しても構わないという母親が作り出されてくるのです。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法