「慈悲と愛」79年8月号 「動物愛護について」 パヌエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」62頁掲載)

 私は「愛護」という言葉が嫌いです。人間の動物への恩恵といったニュアンスがあるからです。
 人間は「人類は万物の霊長である」と自分勝手に信じ込んでいますが、
一体どの辺りからそのような妄想を抱き始めたのでしょうか。
 人間には、発達した頭脳がある。文明がある。と威張ってみても、
それが真に自己の幸せに繋がっているとは言えません。
 欲を持ち執着を持ち、文明の副作用としての弊害はあり過ぎる程あるのです。

 動物は確かに高等な思考を持ちませんし、人間から見れば原始的な生活史であるでしょう。
 しかし比較的精神の束縛から自由でいられます。

 自由であるというのは幸せであるということです。
 短命ではあるが、自然界の中で幸せである動物に比べて、
束縛から逃れられない人間の一生はそんなに価値あるものでしょうか。

 自然の法則という神の目から見る時、人間は果たして「万物の霊長」と言い得るでしょうか。

 自分達ではどうすることも出来ぬほど人口の絶対数が増え、他生物の環境や資源まで侵し、
自分達の土地だと言いながら、住める限りの範囲、踏査出来るだけの領域は散々に荒して、
人間の衣食住さえ保障されていれば、動物や植物の〝種が絶滅寸前″などというニュースは
科学者、生物学者の問題だと考えるような狭い視野では、
自分達の置かれている立場は見えぬかも知れません。

 「人間はすべての不幸を取り除くことが出来る」とか、「無限の未来がある」ということを信じ、
「いざとなれば神様が何とかして下さる」、
或いは「人間にしか心が無い」と言うのは人間の特性のようです。
 その反面、自分より能力の劣る相手は、虐待してもよいし、殺してもよい。
 力こそが勝利であり正義であるということを誇示します。
 これはしかし動物界の法則であって、
人間で言えば二、三歳からせいぜい十歳位迄の子供の心理状態なのです。

 言葉を喋らない。四つ足だ。人間より下位にあり、劣れるものだ。
 というのが動植物を粗末に扱い、虐待する理由のようですが、
人間が私達天上界の者にとって忌むべき存在となるのは、
動植物と同じく強者が弱者の上に立つのはまだしも、
他を滅ぼすのに必然的な理由と目的がなくともそれに徹する時です。
 滅ぼす相手が人間であれ、動物であれ、只殺すことに喜びを覚えるのです。
 誰がそのような権利を与えたのでしょう。少なくとも私達天上の者ではありません。
 殺すこと、虐待することに喜びを覚えるのは、サタンの業以外の何ものでもないでしょう。

 動植物を滅ぼせば滅ぼしたで、結局は自分達の食するものや着るもの、住み家など、
詰りは衣食住に、響いてこざるを得ないのです。
 どのような形で響くかは、私が説明せずとも少し考えればお判りだと思います。
 又、刺戟しなければ動物達の大半は平和で友好的であるのに、
銃や罠を用いてその上にも屈従を強い、或いは殺害する人間の野蛮な習性は、
弱者へのいたわりや思い遣りの延長である、国内に於ては社会福祉問題を遅滞させ、
対国間に於ては強大国による弱小国への侵略・侵害といった形で現れるのです。
 不平を言えないもの、言えても報復出来ないものに対して
強者の権利を行使するほど卑怯な心はありません。
 神の目から見れば、人間より動植物の方がずっと生き残る価値があります。
 宇宙の法則を「生きる」ことに於て実践しているからです。
 人間はその上に寄生しているに過ぎません。
 現在はその寄生虫が大きくなり過ぎて、地球は正常な生活のリズムを狂わせられているのです。

 人類はどのようにして生きてきたのかもう一度考え直して見て下さい。文明のお蔭ですか?
 そうではない筈です。他の生物や植物、無機物などの存在の恩恵を蒙っている筈です。
 その事実を再確認して、絶えず新たに思い起こさねばなりません。

 全国民が僧侶を経験する筈の仏教国タイの政府が、難民を百十台ものトラックに満載し、
他のも方法があったであろうにカンボジアに強制送還し、
母国の国境を越えた所で全員が殺されたということを聞く時、
動物はこのような残虐非道なやり方はしないということを認識しなければなりません。
 寧ろ殺された難民が、これまでの人間に対する動物の立場であったということも。
 何度も言うようですが、神の目から見れば人間は決して特別なものではないのです。
 動物の内の一つの種にしか過ぎません。

 知らない方々、
小さな猫を見ても殺されそうな悲鳴を上げて石を打ちつけかねまじい愚かなご婦人方
(情けないことに子を持つ若い母親にこういった人が多いのです。
 その子供がどのような育ち方をするかは、火を見るより明らかです)にお教えしますが、
動物にも心があります。言葉もあります。
 動物に愛情を感じたことのない人、親身になって世話をしてやったことのない人や、
動物を「畜生」として人間以下に見做す宗教に毒されている人には判らないことですが。
 動物もそれを知っていて警戒心を持っています。
 野生のものほど手なずけるのには根気が要ります。
 その代わり信頼を得た時、動物ほど人間の優しさや愛情に敏感で繊細な心の表現をするものは、
人間の中にさえも数少ないことが判るでしょう。

 彼等は身体でそれを表現するのです。尻尾や目、耳、身体全体、そして鳴き声です。
 語彙というものを持たないのにどれだけ多くのことを表現することでしょうか。
 "愛らしい"というのは、
動物が人間に彼等の言葉を伝えようとする時のための形容詞であるかのようです。
 "純真な喜び"というのは彼等のためにあるかのようです。
 人間は自分達の子供からさえこのような素直さを奪うことの出来る、
唯一の非情な動物であることを反省しなければなりません。

 そのように、自分達を越えて他の動物や植物の性質、特質、生活史にも殆ど関心を持たず、
心の自由を持たず、人間同士の互いの我欲の為に幸せだと感じる余裕もない"種"が、
人間としての価値を持ち、真に"万物の霊長"と己を他に認識させるには、

何をなすべきでしょうか。
 どのように生きるべきでしょうか。私達は答えを何時も与えてきました。

 恐竜一億年。人類は地上に一体どれほど生存出来るでしょう。
 その歴史は何十万年しか経っていないのです。
 付け加えておきますが、天上界では動物達の哀れな生涯を経たものは菩薩界に住み、
誰にも二度と脅かされることなく平和に暮しております。
 動物にも生存権や平和に生きる権利があることを人間に教える為です。
 勿論人間一人一人にも生存権と平和に生きる権利があることは言うまでもありません。
 共産主義は自然の法則をあらゆる点に於て破壊し、踏み躙り、
ソ連という強大国の支援に勢いを得て、第三次大戦の危険をもはらみ、
"毒性を持つ赤潮"の如く世界に広がりつつありますが、
その大義名分は「搾取の絶滅」を目指すのであるとか。
 それならば宇宙の法則に従って人間が絶滅しなければなりません。
 人間自体も他生物から「搾取」し、植物から「搾取」して生きていることを忘れたのでしょうか。
 学んだことはないのでしょうか。たとえ人間間の搾取を絶滅したと思っても、
その次に自分達が自分達の作った政府や国家にとって「搾取」の対象となることを知らず、
又そのルールも無視するならば、国家全体が崩壊せざるを得ず、
彼等は地球上に於て法律に束縛されぬ暴徒の群にしか過ぎなくなるのです。

 他者への愛を忘れた宗教徒と、
人道を説く者、正道を唱える者を、ひたすら殺すことに喜びを覚え、
破壊することが正義だと、自分達の残虐非道なやり方を当然であるかのように振舞う
社会主義国家と共産主義者達 ー
私は恐竜が生存し、闘争を繰り返していた時代に
今直面しているような錯覚に陥らざるを得ないのです。