「慈悲と愛」79年7月号 ②「正法を学ぶ人々の為に③ 善我と偽我について」 ミカエル大王様
(現象テープ№12①からの転載)
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」56頁掲載)

 私はミカエルですが、今日は善我と偽我について詳しくお話ししたいと思います。
 まず善我というのは、善なるものについて深く追求し、
偽らざる善の心を披歴することを理想とする生活態度
をいいます。
 それは色々な意味を含み、色々な表現法がありますが、
「天国の扉」第三章"ある日の高校生クラスの討議より"の中で述べた善我の定義が、
自然であるがままの気取らぬ自己を感じ取るということに始まり、
偽らざる自己であり、また他と全面的に強調し、調和する心に終るということ。

 これは名人達人と言われる人の虚心坦懐の心情と相通ずるものがあるのです。
 即ち、善なる心という安定した曇りのない良心に支えられ、何ら心を乱すものなく、
流動的で如何なる人にもその心情を等しく合わせてゆく事が出来る、
水の流れにも似た心であり、少しも片寄ることも、歪むこともない。
 真理を常に求めて真理を学ぶことに喜びを見出す
心の余裕をも持つことの出来る精神のあり方なのです。
 正しきを喜び、自己の過ちを認め、悪びれず、
素直に正してゆく事の出来る、柔軟な心構えなのです。


 ところが善人であろうと欲し、その如く振る舞い語りながら、
己の非を問われたら忽ちにしてプライドと虚栄心が取って代り、
出来得る限り己を隠して欠点を見せまい、弱点を悟られまい、
過ちを知られまいと自己保存に専念する。

 そうなれば事の正否ではなく、只言い張り拒否し続けることによって相手が諦めるのを待つ、
相手の追及が終ればそれで自分は安全であるというこのような善人もあります。
 これは何と呼びましょうか、善人は善人でしょうが、愚か者であり小人なのです。
 そしてこれは善我と呼ぶには余りにも人間としての欠点を持ち過ぎた人です。
 これは偽我と呼ばねばなりません。自己保存という偽我です。
 霊界の意識です。

 又、如何にも善意に満ちておりながら、
何を於ても善行を人より以上に励み他に尽くすことが生き甲斐といった人もおります。
 人にも又、大きく宣伝します。
 自信を持って自分は悪い事はしたことがない、
良い事のみを為してきたとその善事を数え上げます。

 所謂、大変積極的な性格です。
 このような人に頼むと物事が大変はかどる、と思わせるような人です。
 ところがこのような人に何かを頼めば、何時もそれを過大に評価し、
感謝を繰返し言わねばならず、心の重荷となるような場合さえあります。
 剰(あまつさ)えこの人の行為は何時も感謝して受けねばならず、
少しでもそれを迷惑がったり拒否したりすると、大変気分を害するのです。

 このような人は善人でしょうか?

 善人どころかその反対で、大変押し付けがましい、他人の心や思いが目に入らぬ人であり、
自分の考えしか胸中にないのです。これこそ偽善者の代表と言わねばなりません。
 これは自己顕示という偽我なのです。
 これも霊界ですね。

 又、穏かで如何にも優しく善意そのものといった印象を与えるにも関らず、
人から真の愛情や友情を得られない人もいます。
 こういった人は、得てして完全主義者であり、如何に人に良い印象を与えるか、
善人であると言われる為にはどのように振舞えば良いか、
といったことにまで神経を使い計算して行動します。
 スターがファンに対して注意深く振舞うのに似ていますね。

 このような人は外見に注意を払う余り、肝心の人の心を見抜き、
人が何をしてほしいと願っているか悟ることが出来ないのです。
 詰り、表面は神経が細やかで言葉にも注意して
完全な人格者としての印象を与えようと望んでいるが、
自己を繕う余り、愛情に欠けてはならない他への思い遣り、
どうすれば他(ほか)の人を喜ばすことが出来るか、
幸せな思いを与えることが出来るかなどについては悟り得ないのです。
 そこ迄行き届かないといった方が解り易いでしょう。

 詰り、自己中心的で他人の事など考えていない人です。
 これも善人と言えません、暖かい思い遣りに欠けるからです。
 それに相応しく他(ほか)からの愛も友情も得ることは出来ないのです。
 これは偽我であって善我ではありません。エゴイズムという偽我です。
 我が儘勝手というのは、エゴイズムの派手な表れ方ですが、
冷たい性格で他人の気持ちが解らないのはエゴイズムの陰性の表れ方です。
 幽界か知識階級であれば神界の域を出ません。

 また善人であると自称し他にも強制的に認めさせる人もいます。
 おおよそ徳と名付けられる事はすべて行い、
如何なる法にも反せず細かい所まで正しいと思われ、語られることはすべて為している。
 完全な徳の持ち主で非難すべき所は少しもない、自分が正しく徳に適うことを為しており、
言葉に於ても行いに於ても非の打ち所がないが故に、他人の欠点やいたらない所が気になり、
叱らずにはいられない、
文句を言わずにいられない、このような人も勿論善人とは言えません。

 聖書では律法学者と呼び、一人で社会の掟と道徳を作っているような人で、
それがこの人の生き甲斐でもあるのです。
 しかしこれとて裏面から見れば、
自分の納得がいく形で自己の完全主義的傾向を満たす為に行うのであって、
他人の思惑や感情などどうでもよいのです。
 
詰り、自分が他からなじられる非がなければよい、欠点や弱点がなければよい、
といった自己中心的な自己保存的な気持ちを一歩も出ていない偽我なのです。

 少しでも過ちを為すと不安になる。
 机が少し曲って置いてあっても真直ぐに直さないと気になる。
 埃が少し溜まっていても気になる。
 すべてが完全な状態でないと気に入らない、強迫的な偽我なのです。
 神界の意識です。
 もう二つあります。

 それは人間としてありとあらゆる欲と灰汁(あく)を持ち、
不道徳なこと、人に嫌われるようなことも、
社会で成功する為、名誉を得る為、平気でやってきた人が、
成功と名誉を勝ち得た時に世評が急に気になり出し、
その醜い人間的な過去を世人に忘れさせる為に、やたらに善行を施す人がいます。
 何々に寄付、何々の養護といったことに必ずその名を連ね、目立つことをします。
 これは後ろめたい自分の良心をごまかす、自己欺瞞的なやり方で、
明らかに偽善者的な性格を持ちます。

 偽善者に共通の嘘を吐くことが平気で、
それが後には本当であるかのように錯覚してしまうような人です。
 自己欺瞞
という偽我です。
 霊界の次元です。

 終りにこれは善も為さず悪も為さずという人で、
大変に気が小さく、他人の評判が気になるのに、非常識的で、
爪に火を灯してもなりふり構わず倹約な生活を送りたい、詰り吝嗇家であって、
こういった人には善も悪もなく、
従って徳とは何か、人格とは何か、自由な魂とは何か、を知ることに永久に無縁であり、
只、気が済むように倹約して大金を貯めることを生き甲斐とする。
 これは善我ではなく偽我の塊りなのです。こういった人には平和も調和もユートピアも無縁です。
 勿論幽界の次元です。

 詰り自己の表れ方に於て、そこに自然な感情・愛情の流れを感じさせないもの、
ギクシャクと不自然な感情が本人を覆っているもの、真理や真実を受け入れず背を向けるもの、
これは偽我であり、
反面、自然で暖かく飾り気なく、装ったものなく開けっぴろげで、心から素直に笑うことの出来る、
信頼して間違いないと人に確信を与える、これを善我といい、
又、良心の曇りなきにより自由な魂ともいえるのです。
 ギリシャの自然哲学者に共通する心であり禅僧の悟りにも似た心でしょう。

 大自然の法側・成り立ちというのもこれに似ていて、
環境を形造る上に理想的なもののみが良しとされ、
理想の条件に合わないものはどんどん形を変え、姿を消してしまう。
 調和という円やかな流動する様相、そこにはバランスという大切な要素があります。
 自らの内なる生命のバランス、他とのバランス。
 己を生かし他を生かす、その規律の内になければ、
忽ち一つの環境を形造っていたもの全てが破壊され、
その中にあった生物は植物をも含めて、生存不能となってしまう。
 詰り、大自然そのものが歪みや不自然なバランスを好まずに

自己調整をするが如くに見えるのです。
 調和のとれた永続性を持つ自然環境は決してその中に余分な片寄り過ぎた要素を含みません。

 過度に過ぎず過少に過ぎず、自然の中に含まれる動植物の数のバランスさえ一定の数を保ち、
多く増え過ぎたものは天敵という自然の与えた自己調整法があります。
 詰り、過度に過ぎるものは調和のバランスを崩すものであり、
地均(なら)しをされねば常に流動する地球という惑星上に棲息出来ず、存在出来ないのです。

 恒星と惑星間の引力のバランスが崩れれば惑星の様相は一変します。
 その時、惑星上のあらゆる有機物、無機物はその釣り合いの数が変化します。
 従ってそれは生態に変化を及ぼし、
現在地球という惑星上に保たれている自然の法則と数の釣り合いは一度に変化し、
環境は破壊され、平衡を失うでしょう。
 このようにすべてに於て調和と過度に過ぎぬこと、詰り中庸が、自然と宇宙の法則であり、
延いてはその宇宙に含まれる有機物、無機物、そして生態の法則でなければならず、
又そうすることを余儀なくされてきたのです。

 これを広義に於ける善といい、人間に当てはめると、
同じような自然の法則に心身を従わせることになります。
 己の節制を図り、心のあり方を律すること。
 それが大自然の中の一環である人類の為すべき勤めであり、又責任でもあるのです。
 その自然と同じ心のあり方を狭義に於ける善我の解釈にも用いて、善我は自然の成り行き、
即ち自然の法則と同じようなものであると、そう「天国の扉」第三章で述べたのです。
 お解りになりましたでしょうか。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法