「慈悲と愛」79年6月号 「至高の徳」 ミカエル大王様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」46頁掲載)

 「天国の扉」第三章でちょっと触れましたが、
"愛"について再び皆様の理解を深めて頂きたく思います。
 国の体質に合うのでしょうか、
神道と相まって仏教系宗派の敷衍(ふえん)が大きい日本に於ては、
仏教の大義たる"慈悲"の解釈が
どうしても個人の神仏への信仰心に吸収されて一つの固定観念となり、
キリスト教で説く、即ち私達の提唱、提示する"愛"について
その要求される形が何であるか、判然としない人が多いのではないかと思います。

 過日ある高僧が"無慈悲の慈悲"の必要性を今日の教育、
子供の躾けに関し述べておられましたが、
ちょっとした理由で自殺や殺人に走る近頃の子供には耐える心、鍛える心、待つ心がない。
 それは両親も社会も自分達に対し、子供に対し、
慈悲を与え過ぎるからであるといった内容でした。
 学童期、思春期を問わず、日本ほど、
子供向けの漫画や雑誌に露骨で残酷なものを載せる国もないですが
(マスコミと作家が互いに堕落させ合って大人の興味を満足させているといった所でしょう)、
その他について言えば、なるほどその通りであろうと私も共感を覚えました。

 慈悲が甘やかしに通ずるものであっては、
教義に於て至高の徳とされる"慈悲の心"が正しい形で与えられることにならない。

 それが正しく与えられていないから受ける側も何の感動もなく、生涯を通じての心の糧、
魂の修業への指針とはならない
ということなのです。
 機関誌創刊号のメッセージに於てガブリエルが魂の研磨を説き、
そこから初めて"慈悲と愛の心"が湧き出てくる。それは魂の歌であり、泉である、
と述べておりますが、"慈悲"は厳しく己を研磨する心がなければ、己にも他にも益とならず、
又本当の〝慈悲″とは言えないのです。

 "衆生済度"とはあるがままの俗人を救うのではなく、
天に相応しい人格となす為に良き教えを万人に説き、心を清め、そして救うことなのです。

 自然界にある動物や植物は人間の如くに過度の破壊を求めず、従ってあるがままで救われる。
 同じ救いでもそれだけ大きな開きがあります。
 "衆生済度"を説くからには心を浄めず、天の意に沿わずとも救われるであろう、
というのは余りに身勝手な考え方と言わねばなりません。
 "どうでも良い"と言う人もいますが、心の底、意識の深層に於てはやはり救われること、
天に生かされることを願っているのです。私はそれを知っています。
 "慈悲"でさえもそのようですから"愛"も勿論その域を出るものではない。
 愛も甘やかしの愛であっては、自他共に有害無益となり、
尊敬や信頼を以て接する人格の成長を互いに望むことは出来ません。

 愛は罪をも宥すとされていますが"盗み"や"殺人"も余程の理由があって
そこまで追い詰められて不本意に為したのであれば、"法"情状酌量という温情を与えますが、
罰されることなく、何時も宥されるのであれば、世の中は犯罪に満ち満ちたものとなります。
 それを防ぐ為には慈愛は"法"に譲らねばなりません。
 そのように"罪"も神の国の一員たらんとする人々は原則として容認されざるものとなります。
 神の宥しにも限りがあるのです。
 反省と懺悔は愚か者のように繰り返せば良いというものではありません。
 少なければ少ない程良いのです。

 更に"罪"についてより詳しく語るならば
"罪"とは他人の生命、生活を脅かし、社会の調和を乱し、破壊するものを言い、
暴力、破壊の為の闘争もすべて罪です。
 三大新聞の一つに岡本某なる社会部の記者が、"大阪大学は保守化「反共」の傾向が著しく、
学生は主体性を失い、無気力化している。
 それは死を待つガン患者の如し"と堂々と書いていますが、
この保守化させた原因として挙げられた世界基督教統一教会を
私達は認め擁護するものではないにしても、
従来の集団の暴力を肯定する左翼運動のみが個人に主体性を与えるといった、
偏狭な意見が一部の教師や社会人によってしばしば吐かれるからこそ、
学生は判断に迷い、暴力や殺人を革新と取り違え"罪"を犯し続けるのです。
 主体性は創造に伴うものであって、

破壊にではないことを三次元で理解する者は少ないのでしょうか。

 "正義、正義"と理想、理念を掲げて、即短絡的な力に訴え、殺人、強奪、
破壊を正当化するイデオロギーは死者と闇の世界の使いであり、天と光の国の使いではありません。
 真理と天は社会の調和と秩序を擁護するものであり、
それを乱し破壊するものは全て"罪"なのです。
 
 再び"愛"に目を転ずるならば、"愛"は一部の楽天的なクリスチャンが解釈する如く、
"律法"と"罪の観念"を空しくするものではなく、
"慈悲"が"戒律"と"魂の修業"を離れては存在し得ないように、
"律法"を完成するものであることを私は何度も繰り返して皆様にお話したいのです。
 自己を厳しく戒め、法と戒律を当り前のことと、その如く生きようと志す人にでなければ、
真の価値ある"慈愛"の限界を知ることもなく、
思い遣りと甘やかしの違いさえも会得することはない
のです。

 中には私の厳しさに触れる時たじろぎ、疑いと恨みと反逆の言葉をさえ私に吐く人もいます。
 千乃様に対しても同じです。
 このような人は私の法の目で厳しく見詰める時、必ず何処かに何らかの形で自己を甘やかし、
悪いことには己にのみ甘く、他に厳しい人であったり、
他に甘やかしの言葉や賞賛のみを求めて生きていることが判ります。
 自己顕示と賞賛願望が清水に油を二、三滴流し込んだ時のように醜く浮いているのです。

 今の世は能力、実力主義と言われ、
技術や才能がなければそれが生活権を脅しかねない場合もあります。
 そういった中では自己を知ることが他と比べての優劣を知ることともなり、
それが自信に繋がる人は無意識に自己顕示の衝動を露わにします。
 しかし反面、自己を顕示し賞賛を求める人は幼児的な性格を持ち、
自分の技術や才能、果ては生き方にまで自信のない人なのです。
 子供が大人は自分に何を要求しているのか、果してこれは許されることか許されないことか、
ということを絶えず意識し、顔色を伺うようなものです。
 詰る所、精神的に"子供"であることは社会の甘やかしを求め、
その甘やかされた人生に於て善悪の基準がはっきりせず(社会はそれを与えないのですから)、
従って"罪の意識"も薄く、律法の厳しさを避けて通り、"慈悲と愛"の本質も解らず、
自己愛の余りに他者への愛も慈悲も理解せぬ盲目の人生を送ることになるのです。

 天の指針であり、イエス様の言葉である、
"幼な子の如き心を持て"というのは真理に対して素直な信頼の心であり
精神の怠惰から幼児に帰れという意味では決してないのです。
 自らを厳しく律するものであってこそ魂は良心の呵責から自由であり、
悩みを持ち苦しみにある隣人への真の愛と慈悲の心に目覚め、
無私の心で手を差し伸べる思い遣りと誠意が生まれてくるのです。

 魂の研磨を怠らず、互いに助け合うこと ー
それはこのような"律法と愛"、"戒律と慈悲"の中から自然に生まれるものであり、
天はそのような人々に惜しみなく正義の冠を与え、信義と愛で包むものなのです。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法