現象テープ№23 「心の美は」
 80年5月11日 ガブリエル様現象(霊媒 土田展子)

 私はガブリエルでございます。
 先程の話にもありましたように、様々な宗教が入り乱れて、
この世を救わんと立ち上がっております。
 今朝、ここへ来る時も、それをしみじみと感じて参りました。
 近くのホールでは、新興宗教が大集会を開いております。
 けれど、私達はそれに何も関知することがあってはならないのです。

 曾て人類が己の知性に対抗するものを、
その知性の暴虐さに歯止めをかけるものとして宗教を考え出しました。
 その産物として作られたのが神の概念でした。

 あなた方人類の歴史は、その神によって動かされてきたといっても過言ではありません。
 あなた方人類は、普段何気なく暮らしている時は、
"神が必要である。神の概念がなくては生きてゆけない。神が必要である。"
と悟ることは出来ません。
 ひとたび足元が揺らぎ、その生活が脅かされた時のみ、神に縋るのです。
 それだからこそ、新興宗教が生まれてきた理由でもあるのでしょうか。
 長い間の歴史の中で、人類は様々な人達によって、風俗によって、土地によって、
それは違いましたが、根源は一つのものでありました。
 そしてそれを齎した高橋信次という人が、方向を間違えた為に、
日本での正法流布が大変遅れてしまいました。それはあなた方、周知のことと存じます。

 他の宗教はあなた方に何を齎すでしょうか。
 宗教に求めてゆくものは、己の幸福、己の家族の幸福、自分自身の栄達、出世、
そのようなものの筈です。
 だが、私達があなた方に与えるものは、そのようなものではありません。寧ろその逆です。
 私達があなた方に与えるものは、艱難、苦難、様々な所謂、あなた方の言う、イヤな事です。
 そしてあなた方はそれによって何を得るか。
 苦しみによって、あなた方は何を得ることが出来るでしょうか。
 私達は苦労も知らずに、幸福の中で育ってきた人間がどのような人間になるかを、
よく知っております。
 あなた方も又、話の中ではそのように聞く筈です。苦労のない人間は実がない。
 そのように知っていながらも、あなた方は道に、茨のない道を求めます。
 それで良いのでしょうか。
 鍛えられぬダイヤは輝きません。
 正法を知っていて、私達は時々、正法者の中にも、
"私は正法をしているのに、何故幸せにならないのだろう。"
"何故、身体が健康にならないのだろう。"
 そういう人を、よく聞きます。
 私達はそういう人を見ると情けなくなるのです。

 あなた方は何の為に、正法に集ってきたのか。
 己の病気を治す為だったのか。家庭不和を直して貰う為だったのかと。

 私達はあなた方の家庭不和を直す為にやって来たのではありません。
 あなた方を賢くする為にやって来たのです。

 賢くなること。これがあなた方の、永遠のテーマなのです。
 
幸せは賢さからやって来ます。
 又、自由もそこから得られるものなのです。

 あなた方が愚か者であったならば、何の自由があるでしょうか。

 うち続く困難に負け、神にのみ救いを求め、苦しいことがあれば、直ぐ神様、神様と叫ぶ。
 その点を反省してほしいのです。


 だからあなた方はこれからの人生に於て、幸福な方向ばかりを求めないで下さい。
 寧ろ艱難の中に身を投ずることによって、幸せは齎されるでしょう。
 安穏とした、柔らかいベッドに包まれ、美味しい食べ物を食べる。
 このようなものが幸せであるのでしょうか。
 寧ろ、粗末なボロを着て、粗末なものを食べ、粗食に耐えて、
そして魂が研磨されていった人々を沢山知っています。私達もそうでした。
 特に若い人々にとってはそうです。

 先日、東京へ参りました時に、このような質問を受けました。
 私達が悪に負けてはならない。善に確り根付いていなければならない、と申しました。
 すると正法者の中から"悪に打ち克つとはどのようなことか解らない"
そのような質問を受けたことがありました。
 悪に打ち克つことが解らない、そう聞いた時、私達がどのような気持ちになったか、
あなた方にお分かりになるでしょうか。
 人類はここまで道を無くしてしまったのだろうか。
 悪に打ち克つということが、どういうことか分からない。
 愕然と致しました。
 悪に打ち克つとは、悪に染まってはならないということ。
 己自身に於て、楽な方向を選んではいけない
ということなのです。
 
 勿論、時と場所に応じてそれは様々に変えなければなりませんが、
悪に打ち克つとはどのようなことか、そのようなことを考えられないようではいけないのです。
 私達は悪に向って、口に角が立つように、
口に泡を飛ばし激論しろと言っているのではありません。
 寧ろ悪があなた方の前に立ち塞がった時に、上手によけてさり気なくかわす方法、
そして悪い者が論議を挑み掛けてきた時、賢くそれを打ち負かす方法を、知ってほしいのです。
 議論はどのようにするものか、お分かりでない人も多いと思います。
 それはあなた方自身で勉強してほしいのです。
 老いた者も若い者もすべて学ばなければなりません。

 歳を取った者は経験を経たので丸いが、若い者は角があり過ぎます。
 特に私達が教える所の、理性を持ちなさい、
何でも確かめてから検討しなさいという言葉の中に、
若い人々は時々間違って解釈する人がいるようです。
 そういった検討は、悪の方向に向けて為されなければならないのに、
何故か天国の方へ、奇蹟の方へ向けるのです。苦笑せざるを得ません。
 私達が、あなた方に何を言いたいのか。
 人類はこの世に於て何を学ばなければならないのか、今何をしなければならないのか。

 あなた方自身が、身が細っても、頭が賢くなければならないのです。
 私達は献金を要求致しません。あなた方に賢くなってほしいのです。
 その点を考えて下さい。
 幸福になるとは、賢くなること、自由になることです。
 自由になるとは、自分を解放しなければなりません。
 自分の心が地に縛り付けられている何か、それを解き放たなければならないのです。
 自分を不幸だと思う心、何によってそれが起因しているのか。

 それは自己保存にあります。
 考え方一つで不幸も幸福になります。


 他の宗教と正法とは何処が違うかということ、
詰り正法はあなた方に隣人の幸せを願えということなのです。
 自分自身の幸せを考えてはいけません。
 人の幸せを願えてのみの自分の幸せ、人の幸せがベースになっての自分の幸せなのです。
 人類はそれが出来るのです。


 究極に於ての幸せとはどのようなことを言うのか、ご存知でしょうか。
 隣人の幸せが己の幸せと取れる時に、どんなに幸せになれることか。
 良かったね、良かったねと心から言える時に、どんなに清々しい気持ちになれることか。
 経験したことのない者には、分らないでしょう。
 しかし、これ程気持ちのいいものはないのです。私達とて同じです。

 魂の研磨、魂の研磨と申しますが、私達でさえ、まだまだ覚束無いことです。
 目を閉じれば、こうして三億年の年月が甦ってきますが、その中に於てさえ、
私達はどれだけのことを学び、どれだけのことをやってきたのかと問われると、
少し答えに困ってしまうのです。魂の研磨とは、そのようなものです。

 私達が、何億年もの長い年月を耐えてこれたのも、
(ひとえ)に人の幸せを考えてきた為でした。
 無論、そうなる為には若干の苦労は要ります。
 あなた方は、人の苦労を知った時のみ、人の幸せを考えることが出来る。
 又、人の苦労を知る為には、自分も苦労しなければなりません。そのようなものです。

 
 考えてごらんなさい。
 自分が幸せになった時に、隣人が不幸ならば、
その幸福は果たしてあなた方の心の底から喜べるものでしょうか。
 そのような人間になってほしくないのです。
 お互いのことを思い遣り、お互いの心を理解し合い、

お互いのことを幸せになってほしいと願う心、
そういう心をユートピアを作る心と言います。

 ユートピア、ユートピアと言われてから久しいが、
本当にそれが成されることが出来るのは、あなた方、一人一人に於て、成されるのです。
 その一人一人の心が集まった時に、全体としてのユートピアが出来上がります。
 ユートピアとは、高度の科学文明が発達し、人類と程よく調和することではありません。
 寧ろ人と人とが調和し合うことなのです。
 人と人との調和とは、自分の幸せと人の幸せが一緒になる時、そういう時なのです。

 人の幸せを自分の幸せと受け取るようになる為には、かなりの自己研磨が必要です。
 修行が必要です。それはよく存じております。
 又、私達とあなた方との関係も、私達天があなた方より
一段上のもの、二段上のもの、正に所謂、神のようなものではないのです。
 同じ、人の幸せを願うという道を歩く、正法の道を歩くという者の、
一歩か二歩、先を進む者なのです。
 そして、あなた方を先輩として導いている者にしか過ぎません。
 あくまでも、あなた方は私達が手を差し伸べて救うものではなく、
あなた方は自分自身の力で上がってこなければ、いえ、前に進まなければならないのです。


 時には自分の性質に気が滅入り、膝を抱えて座り込んでしまう時もあるでしょう。
 しかし、座り込んでも解決にはならない、寧ろ青空の下に出て、
思いっきり空気を吸う方が解決になるのです。
 気が滅入って、自分が嫌になる時に、考え込んではいけません。
 考え込んでも解決にはならないからです。
 寧ろ表に出て、運動する方がいいのです。幸せとはそういうものです。
 悩みのない人間は、よく馬鹿の象徴のように言われますが、そうではありません。
 私達は、学もなく、名誉もなく、地位もなく、権威もないが、
しかし幸福で、自由で、賢明であった人間を沢山知っております。そういうものです。
 寧ろ権威や名誉や権力が、その人の賢明さを曇らせることが多々あるのです。
 私達は天を統合する者として名を挙げられていますが、
私達は何の名誉も、地位もありません。
 只、心の美しさという点でのみ、私達は計られるのです。
 心の美しさのみが、計られる社会。そういうものをユートピアと言うのです。


 あなた方はお互いに理解し合わなければなりません。
 しかし、一人で生きていくことは出来ません。
 悩みを解決するのは自分自身ですが、それを助けてくれるのは、あなた方の隣人なのです。
 良き友人は良き人格を作ります。
 一人では耐えていけないことも、友人となら耐えてゆけるでしょう。私達とてそうです。
 だからあなた方もそのようであってほしいのです。


 人の幸せを自分の幸せと受け取るようになる為には、
自分というものを意識し過ぎてはいけません。
 自分を意識しないでおくとは、どういうふうにいられることか。
 大変自由で、心地好いものです。
 私達は、生きている内から、そういうふうになれる人を沢山知っています。
 だから決して無理ではないのです。
 そういう人は、大変自由で、見ていてとても気持ちがいいものです。
 さて、自分を意識せずに、他人の幸せを考えるようになる為には、どうしたらいいのか。
 こればかりは、私達が幾ら言葉を尽して説明しても駄目です。
 何故ならそれはあなた方自身で解決していかねばならない、
自分自身で見つけていかねばならない問題だからです。
 あなた方は、一刻も早くその道を見つけて、幸せになれるように。
 流れる雲のように、透き通る空のように、又、生命の生まれた、
あの深い海のような人格になれるように願って、私の現象を終ります。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法