第三章 天使の章
(三) ラグエル大天使
私は律法を司るものであり、この巻に於ては『天国の扉』で明らかにしなかったこと、
即ち天上界に於ける法律というものもあるということを述べたいと思います。
時は今、最後の審判が行われつつあり、
地上界の皆様は如何なる形でそれが行われているのか、
又如何なる人々が裁きを免れるのか、
それを皆様への大いなる助言として、ここに述べたく思います。
まず、いろいろな形で最後の審判というものが
予知され、予言されてきたことは御存知の筈ですが、
この度新たに天上会議に於て議論の対象となり、決定要因となったものは、
人間が"神の裁き"というものを何か別世界の、自分達とは関係のない、
書物に録されてある事柄としてより以上のものとは考えていないということでした。
すべて災害が来てから、被害を被ってから対策を練るという、
楽天的で、ある面では怠惰であるとも言える心情で生きているのでしょう。
それはイエス・キリストの十字架の贖いにより、人類の原罪は赦された ー 罪は許された ー
従って多少の罪に生きても神は最早罰し給わない、という甘さから来ているのです(※)。
無関心であるとの証明になるかも知れません。
(※注。
罪と定める天の法も、法を施行する神も認めずに生きてきても、
神を思い知らされることがなかった、罰されることがなかったのに、
今になってそのように罰する神を信じろというのは真実ではないと、
自分に都合の良いように解釈されればそれが真実であると、
安心出来るものが自分にとって真実なのだと考える。
己が魂の行末を案じることの決してない甘さでもあるようです。)
遠き昔にあった事柄、起こったかも知れない単なる歴史上の一齣、二千年余の昔、
ユダヤという国に生まれた偉大な宗教家が、神と名乗る能力を持つ霊の啓示を受け、
恐れまた畏敬の念を持って、正しき行いと言葉とも見え、聞こえる説話をした。
人々は心を打たれ、その人に従い、そして悲劇が起こり、何故か解らぬまま、
彼等はその救世主と噂された人を失った。それもこの上もなく残酷な方法で。
そして人々は知らぬ間に神に赦しを与えられ、
幸せを享受して楽天的に暮らしてゆけることになり、
最早神の罰を恐れる必要もなくなった。
それが何であるか神は知らせ給わなかった。
神の叡知はそれを人間に当時は知らしめ給わなかった。
そして今、それが何であるかを私達は初めて貴方がたに明らかにしたいのです。
即ち、神、至高神、天上界の最高権威であるエホバであり、ヤーウェである、
エル・ランティ様は人類にイエス様の十字架上の死を通し、人類の罪の贖いを通して、
一つの取捨選択の自由をお与えになったのです。
善と悪との取捨選択の自由と、魂の成長の機会をお与えになったのです。
子が親から離れて巣立つように、人類はそれまでの又それからも犯すかも知れない罪を問われず、
罪があるならばそれを反省し、己を罰する心を神への詫(わ)びとして、
自由なる人間として良き生を選び、悔い改めの生涯に何か意義を与え、
人々に、己を十字架につけて、その隣人愛の証とする ー
それをエル・ランティ様は人々に範としてお示しになった。イエス・キリストの犠牲を通して。
しかしその後人類は何をなしたか。考えてみなければなりません。
歴史を通して人類の罪は再び贖うべくもなく深きものとなったのです。
そして一度(ひとたび)イエス・キリストが人類の為己の生命を捧げて、
神の前に犠牲(いけにえ)の仔羊となった。
が故に、その後人類が贖わねばならぬものは各々の生命で以てしかないのです。
人は人生に於けるその為してきたことの数々、善きにつけ、悪しきにつけ、
それらをすべて秤に掛け、残った重みのある方に於て裁きを待たねばならぬのです。
もはや貴方がたの為に生命を捨てて、罪を贖って下さる方は与えられてはおりません。
神の烈しい怒りも、厳しき裁きもすべて貴方がた自身で受けねばらぬのです。
緩衝地帯は何もない。
そして少数の善なる心の持ち主、敬虔なる心の持ち主、慈悲と愛溢るる人、を除いては、
邪な心の人、悪を育ててその悪について知らぬ人、
無知で自分勝手な人、怠惰な人、欲に溺れる人は、
その罪の為、又愚かしさの為、神の裁きを受けねばならぬのです。
それに相応しい罰を覚悟しなければなりません。
人間が生き延びる為ありとあらゆる手段に訴えて、
只生きるということの為だけにどれだけの代価を支払っても惜しくない、
そういった人は多くいます。
これは三次元の生命だけのことですが。
三次元の生命でさえこのように執着するのですから、
ましてや"永遠に生きる"ということがどのように素晴らしいものであるか、と夢に見、
それを只得る為に善行を為す。或いは神に従順である。
或いはキリスト教会、教団の喰物になる人も数知れぬ程です。それは哀れな人々です。
何が永遠の生命を得るに値する生き方であるかお解りになっていられない。
只そのことの為に言われた通りのことをする。
それでは神々はその人の人格を信頼することが出来ないのです。
人格をよしとする極め手にはならないのです。
それは何故か。
私達は天上界に於て、昨年五月よりベー・エルデのサタン、悪霊とその配下を交え、
何度も戦いを繰り返しました。
戦いの繰返しの中では、能力のあるサタンによる恐ろしい程の陰謀と術策の中で、
力は互角とも見え、勢力と数に於て、悪霊側が優勢と見えたことは幾度もありました。
その中で最後まで天上界の側に立ち、善霊として戦い抜いたものは幾名いたでしょうか。
初めの人数から見れば、約半数しかありませんでした。
勿論これはこの末法の世に至って起こった現象で、
それまではサタンも必死にはなっておりませんでした。
死闘などということはなかったのです。
それまでサタンとして知られていたルシファーも、
合体した天使ルシエルの働きかけで天上界の力に抗するほどの気概はありませんでした。
そしてベー・エルデのサタン滅びし後、残ったものは昔私達と共に泣き、共に喜び、共に苦しみ、
共に勝利と栄光を味わった人々が半数、新しき魂が半数でした。
正しい側に立ってサタン側と戦い永遠の生命を失い、真の死を迎えた方は多くいられます。
しかし悲しむべきことは、戦いの苦しさとその長い期間に善悪の判断がぐらつき、
サタン側に寝返り、天上界を裏切った人があるということです。
数の大小に関らず、これは驚くべきショッキングな事実でした。
あれ程魂の修業に明け暮れ、
魂の転生輪廻の過程で数え切れぬ良き物、良き悟りを得てきた人々が、
次元の高低を問わず、我々善なる霊の世界を裏切ったのです。
これは永遠の生命への執着でした。
サタンはその攻勢の大なること、その兵力の無限なること、
決して天上界を滅ぼさずんば止まぬことを宣言し、
そして善霊側は数がどんどん減っていました。
そしてサタンはその時自分に加担する者は、味方するものには、
"永遠の生命を与えよう"と申したのです。
善悪何れにも関らず永遠の生命(何か大変素晴らしく見えるもの)を約束された時、
三次元の多くの人は強く見える方に付き、弱く見える方を滅そうとするでしょう。
天上界の善霊も同じことをしたのです。
人間の魂である四次元の霊は天国にいながら、同じ愚かな心を持ちました。
それ故私達の戦いは一層苦しいものになり、一層長く続くものになったのです。
それはサタンとの最終的戦いが二月二日から十三日に亘って行われた時のことでした。
私達は初めて知りました。最後の審判に於て何を基準とすべきであるかを。
その基準とすべきは次のようなことなのです。
又これは今後、天上界(天国)に迎え入れられる基準にもなるでしょう。
最後の審判に於て与えられる永遠の生命は、如何に生きる人に与えられるものであるか、
又天国に迎え入れられる人とはどのような人であるか。
イエス様の山上の垂訓により証せられた人々による善人の基準を外れてはもちろん駄目です。
しかしそれ以上に光(善)を求めなければならないということです。
植物も動物も生き延びる為に太陽の光を求め、その光の当らぬものは死を迎える。
自然淘汰してしまう。
そのように人間もあらゆる事をして神の恵みと光を求めなければ、神は光を与え給わない。
恵みを与え給わない。
その恵み(永遠の生命)はしかし、太陽の光と同じく光が当る所におりさえすれば降り注ぎ、
与えられるものであり、自然に得られるものでもあります。
しかしこの光(善)は只求めるだけでは駄目なのです。
善の為に戦い、善なる心に徹すること。
それが如何に困難なことであるかは、密林の中の木々が曲がりくねって太陽の光を求め、
根はうねりにうねって水を求める。
それは死闘さながらのものを思わせます。
それ程"善に徹して生きる"ことは難しく、又天上界に迎え入れられるものも数少なし、
ということを私は皆様に改めてお知らせしたいのです。
この度天上界の戦いで出た半数の人の裏切りに加えて、
高橋信次氏の生前のあれ程の善行と徳行にも関らず、天上界に於て天上界を裏切り、
悪魔とも見える行為をなした。
それが天国の規約を一層厳しいものにし、永遠の生命を一層数少ないものにしました。
これはまた見方を変えれば、
人類が一つの大きな自然の法則に生きているということの証です。
苛酷な自然の中で動植物は適者生存を強いられ、
又それに従って生き、種族が残り、保存されてゆきます。
しかるに人類は、言わば今まで神の恵みと保護がありすぎて甘やかされ過ぎた、
と言っても過言ではないと思われます。
これからの天上界より与えられるものは"塩辛いパン"です。
水はそれぞれの心の中の"善なる心"。
自分で求めて得なければなりません。
そして"善なる世界"が、これから人間が生きていかなければならぬと与えられた所なのです。
"善"とは厳しい秤です。その秤に乗らないものは適者生存の法則から外れて、
三次元では日陰に(不幸に)生き、四次元では遂に生命を失うのです。
善人のみが天国に迎え入れられるのです。善人でない人には天国の門は開かれません。
"善人尚もて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや"というのはもう通用しなくなりました。
イエス様の罪の赦しの期間は終ったからです。ブッタ様の慈悲の光も届かなくなりました。
これは人類が余りに自然を冒瀆し、自己の悪なる心で自然の秩序を破壊した。
(これは人間社会の無秩序をも含めてです。)その為に償わねばならぬものなのです。
そして善悪を知る人類はその責任と義務に於て、罪と悪を容認してはならないのです。