これまでメッセージを読まれてきた方へ
 真理の言葉が心に入る時、真理を愛する心、真理に生きようとする心が目覚めるでしょう。
 神の言葉が伝わるのは、神への愛が伝えようとするからです。
 神の言葉に生きるとはそういうことでしょう。
 人の神の心に伝わるのは神の愛だけだと、そう思われませんか。

 私達にそうあってほしいという天上界の思いは、私達が救われること、
神と共に在ることが真の幸せと知る、自らの神の心を見出すことでしょう。
 それが解らないということは人の心に巣食う悪が、愚かさが何も解っていない、
知恵を育てることが出来なかった、そのような者からどうしてメッセージが伝わるのか。
 神から授けられたメッセージです。
 それを伝えんとする者がメッセージに生きる心を養うことが出来ずに
何が伝えられるのでしょうか。
 人が私達から受け取りたいと思う信頼を私達の心に見出せるでしょうか。

 ミカエル様は、理解することと悟ることは違うことを、
イエス様は、考えたこと、理解したことを書くことで深めることを教えられましたが

(自分は理解しているから書くまでもないと、何十年も正法を理解したつもりで来た人は、
何故自分の理解したことを人に伝えないでいられたのか、何故天上界と同じ思いを持たなかったのか、
自分が理解していることを書いてみればその訳を知るでしょう。
 天上界の思いが生きていない心に、天上界の伝えたメッセージは何も残されていないことを。
 あるのは自惚れだけであるのを)、
実際に自分が理解した内容を書いたものを見て、理解していると判断しているのではないのです。
 自分の心で理解したのではない、自分の心から溢れる思いではない、
天上界の思いの託された言葉に過ぎない、
その思いが理解されるまでは、只の言葉に過ぎないのです。

人の、天上界の悟られたことは、理解することしか出来ません。
 例えば苦難を苦難としか捉えられないのは、それを解決する道が解らないでいるからでしょう。
 それが正しいと信じられる道が見出せないでいることを、真理に目覚めていないことを、
自分の歩むべき道を見出すのは自分しかいないことを理解することなくして
悟りなどあり得ないでしょう。

 理解することと悟ることとは違うと言われるのは、
いかに生きるべきかという教えを理解しても、自ら歩み出すことのない者は、
歩むことを阻んでいる心が如何なるものなのか理解しても、
自らの心の問題として受け止めることがない者なのです。
 理解することと悟ることは違うという意味が理解されるのではないでしょうか。
 しかしそのような自分に諦めることなく、真理を、真理に生きることを求めて行けば、
必ず真理に目覚める、自らの歩む道を見出す、神の思いを感じる心を得ることが出来ると思います。
 神の思いを受け止める心なくして、悟りなど何の意味があるのかと私は思います。

その言葉を自分の思いにしなければならないのです。
 私達が神の心を持つまでは、天上界の思いは伝わらないのであり、
その心を持つ為には、天上界の伝えられた言葉からその思いを理解して行くしかないのです。
 天上界が私達に伝えようとする思いが理解されたなら、神々が見出した真理が理解されたなら、
神は自分に何を望まれるか知ることになるでしょう。
 自らの内にそれを望む心が育っているからです。
 正しい心を学んでゆけば正しい心が育ちます。
 悪の世界に適応しようとすれば悪の心が育つのと変わりません。
(自分を生かしたい思いは誰もが同じですが、自分を生かすことが、自分の幸せが目的の人は、
善悪が自分の都合で判断される。自己愛に縛られるからです。
 真の目的の為に自分を生かす、自分を手段として生かす時、
正しい目的を理解する心が生きるのです。正しい心とは真に自分を生かす心です。
 真の幸せは何か、自分に縛られることなく、自分も人も同じ事として考えることが出来る、
そういったことではないでしょうか。)

 天上界の方さえも解らなかった、考えなければ解らなかったと、
また天上界の方が何度も同じことを伝えるのは、
人々が悟っていないと見ているからとイエス様は語られましたが、
私達は天上界の語る言葉の意味が判っただけだったのではないでしょうか。

 本当に天上界の思いが伝わった、御意志が理解された者なら、
天上界と同じ心が生きているなら、同じ熱意を持つでしょう。
 天上界が何千年と悪魔と戦いながら善を守る熱意を失うことがなかったのに、
自分はメッセージを理解したと満足して熱意を失ったことにも気付かないなら、
神の心を失っているのです。
 天上界メッセージが理解される心というのは、
彼等の意志を持つ心であるということです。
 彼等のメッセージを理解するというのは、それが目的ではない、
彼等の心を自らの心にすることが目的なのであり、
メッセージを理解するというのは、手段に過ぎない、
メッセージを理解していなくとも神の愛に生きる素直な心を神は愛するのであり、
そのような心は神を、愛を、良心を裏切る心を持たない、
信義を以て繋がることが出来るからです。
 知識にだけ留まって自己満足する。
 神の言葉に生きる心を得られない、得ようとしないなら知識など何の意味もないでしょう。

正法を学ぶ目的は、(自分は悟った、理解したといった自己満足、自己肯定の根源である
自己愛を満足させる為ではなく、自らを縛るものであることを悟り、
自己愛、我執から自らを解放することであり)天上界の神々の心に近付くこと、
その心とは、神々の愛する真理に従う素直な心なのであり、
人自らの内に持つ神の心に目覚めた、善我(神の心)を自らの心と信じることが出来る、
神と共にあるとは、自らの神の心を信頼出来ること、神を信じる資格が自分にあると思うこと、
人に神を見出せば神の愛を以て繋がることが出来る、
自分を信じることが神を信じること、その逆も同じである、
大切に思う心にあれば、神を敬わずにいれらない己自身をも大切に思うのは当然なのであり、
自分に価値がないと、そういう心で自らをごまかす者が自分を犠牲にする、愛に生きることは不可能であり、
犠牲に見えるようなことでも、犠牲に思う心に、自己憐憫に勝るのが真の愛であると、
それが神の愛であると天上界は私達に伝えてきたのです。
 真の神に謙虚であると同時に、人の、また自らの内なる神の心に対しても謙虚である、
神の心を以て人に、神に繋がる、正法の目的とはそういったことであると思います。
 それなくして天の計画に参加する資格はないと思うのです。

 たかが数十年(大脳の萎縮の始まった高齢者でもない限り)の人生にあって、
真理を求める意志は、自分を救うという自己保存に根差した本能から来るものですから、
周りの環境によって摘み取られない限り、失うことはないのであり、
肉体に於て正しく成長するDNAを人類は獲得していますが、
DNAは旧皮質に本能を与えても、前頭葉という器には何も与えないのであり、
人が自らの意志で作らなければならない、作られるものである、
正しく育てれば正しい心が育つ、その逆も同じである。
 地球人類が皆理性を育てることが出来れば、理性をDNAに刻むことは出来なくても、
理性を育てようとする心の習性、心の条件反射はDNAとして獲得出来るでしょう。
 そのような条件反射を人類はまだ獲得していない、
現天上界の神々(地球外星人であります)が地球人類はまだ心の、
理性の進化を終えていないと言われるのはそういったことかも知れません
(脳細胞の細胞分裂が完了した時、人類という種の持ち得る脳細胞を人は獲得します。
 人が生まれる時には、脳細胞の数は完全であり、
あとは一生を懸けて前頭葉に於て理性を開発することに懸かっています。
 正しい心を育てるか、悪しき心を育てるか。
 育てようとしなければ、本能(自己愛)に支配されるか、
悪霊の介入も防ぐことなく、悪しき心の食い物にされるかしかないでしょう。

 神を愛するとは意志です。
 何時もそのような心があるなら意志など不要でしょう。
 失うものであり、そのような心を奪う心が生まれるから、
神の心を失わないように、神の御意志に生きる心を育てなければならないのです。
 真理とは神の心が見出したもの、真理を見出し真理に生きる者が神の心となるのです。
 神が言葉に託して伝えてきたものが真理です。
 神の思いが伝わったなら、その思いを受けるに、理解するに相応しい心を持とうとするでしょう。
 相応しい思いを神に返したいと思うでしょう。
 神に語りかける言葉を、思いを持てない、持とうとしない心が、
どうして神が語りかけた言葉を理解していると思えるのでしょう。
 神の思いに生きようとしないで、
どうして神の思いが伝わっていると思うのでしょう。

 神の心を育てるとは、神と同じ判断を導く理性を育てることであり、
善悪の基準を正しく理解する能力を要するのは当然でしょう。
 神の心を育てることが出来なければ、
己の為に生きる心、己に仕える心を、自分の為であるか否かが善悪の基準になる、
理性に、神の心に敵する心を育てることになることも、
社会・共産主義に根差した心を受け入れたこの世が
そのような心を求めていることも理解されるでしょう。

「天上界の秩序、正しさは、愛と義からなっています。
 愛と義は何処から来るのか。
 透徹した理性による判断力から来ます。
 理性は如何なるものか。
 正しく認識しよう、或いは理解しようという姿勢からなります。
 その姿勢の基本となるものは、
やはり人の幸せの為という愛、真理を通す為という義なのです。」

〖理性とは、愛と義からなると知らされて、それで納得出来たと思うことで終わらず、
何故そうなのか自分で説明出来た時に、初めて理解されたのであり
それでも悟ったことにはならない、
悟ったとは、その理解した心が、それまでの知恵なき、盲目の、
真理に背いてきた自らの内にある闇(無意識)の心
(本能を誤導し、偽我を拡大しようとする、悪霊の働きかける心)の領域に真理の光を当て、
理解したからと神々の悟りを自らのものにしたと自惚れる偽我を駆逐する時、
科学的表現をすれば、正しい心に於てのみ大脳の神経細胞が
(意識無意識に拘らず)働く条件反射を得た時、悟りに近いと言えるのかも知れません。
 悟りという言葉に執着すれば反って悟りから遠のくだけであるのは間違いないでしょう。
 悟りが如何なるものかは言えませんが、
真理を実践する者だけが悟ったという資格があるのではないでしょうか。
 実践し得ないなら、それは真理を悟っていない※a)と知るだけの知性を持たなければ、
サタンに覚者であると煽てられ堕落していった宗教家と同じ道を行くことになるでしょう。
それが出来ないなら、天上界の言われた言葉の意味が理解されたに過ぎない、
天上界が考えなければならないと言われるのは、
そういうことも含んでいるのではないでしょうか。〗

 ガブリエル様はこのように語られましたが、
愛と義に生きる真の神の心を知らされたのですから、
神の導きとは、愛と義に生きる神の心を育てる、
愛と義を求めて行くことであると理解されると思います。

※a注。
「こじれる人間関係 ー ドラマ的交流の分析」293頁、306頁 杉田峰康著 創元社
「防衛的交流とは、外界に適応して自分を生かしてゆく心のからくり ー 精神分析でいう防衛機制
による交流をいいます。
 防衛機制には、抑圧、反動形成、退行、投影、否定、取り入れ、同一化、合理化、取り消し、
感情分離、知性化、置き換え、昇華などがあります。」

知性化
 これは、上に述べた「分離」の一つのタイプで、感情の世界Child:子供の自我)から、
言葉や知性的概念の世界
Adult:大人の自我)に逃げ込むことによって、
不快な衝動や感情を避けようとする試みです。

 知性化も青年期に見られる典型的な防衛で、
親に対する不快な感情(敵意、性愛感情など)に直面するのが苦痛なため、
体制批判や哲学論争などを用いて、知的に説明してしまおうとする試みに見られます。
 もっとも、この種の知性化は、Parent:親の自我、A:大人の自我、C:子供の自我が
バランスよく発達、成長する上で、一時、必要なものといえましょう
(注。大人としての、親としての立場(境遇:環境)に立つことなくして、
そのような自我を成長させることの大切さを自覚することは難しいことと思います)。

 治療的に知性化が問題になるのは、この防衛が強すぎて、
感情的コミュニケーションが妨げられる場合です。

 一般に頭ではわかったようなことを言うが、さっぱり行動を起こそうとしないといわれる患者
(野党(左翼)のことか?)に、この機制が働いております。

 次に、知性化の例をいくつかあげましょう。
a 育児に携わる母親が、育児書で全てを割り切ろうとし、
 肝腎のスキンシップを与えるなどの実行が伴わない場合。
b 「ああ言えば、こう言う」式に、話が水掛け論になってしまい、
 結局、建設的な結果を齎さないような対話(やっぱり野党のことでした)。」

「こじれる人間関係 ー ドラマ的交流の分析」304頁 杉田峰康著 創元社
「(感情分離
 私どもは、自分にとって不快をもたらし、したがって受け入れ難い情動(C)を、
その他の精神内容()から切離して、無害なものにしょうとする場合があります。
 例えば、昔の苦しい体験を、今では笑いながら話す、などがその例です。
 このように不快を予防するために、
本来一体であるべき感情と観念とを絶縁させてしまう心の働きを「分離」
(または感情分離)といいます。

人の苦しみや天上界の苦労が理解出来ない、
愛が注がれることなく、満たされることなく、愛を求め続ける心に留まった未熟な精神故に、
人の思いを感受されない心が、
環境によって必然的に作られた者だけがそのような心になったのではない。
 自らの意志で感受性を遮断しようとする心を作り出すことの出来るのが人間であるということ。
 自分よりも苦しんでいる者を知っての、その苦しみを軽くすることが出来るが故に、
避けようとする心が現れ、その心を受け入れているのです。
 そのような心を偽我と呼んでいるのですが、
いろんな条件(環境)の下、またその人格に適した、
有効に働きかける偽我を人自ら作り出してきたものが防衛機制であることを
心理学は突き止めたのですが、
その心(自己愛)を克服する、偽我を削り落そうとする心が神の心(善我)であり、
嘗て神の心を伝え得た者は、神に導かれた者だけであり、彼は神を証し、神の愛を証した。
 その愛に生きた者だけが、真の神の愛を伝えることの出来ることを、
そのような者に神は愛を注がれることを知ったのではなかったでしょうか。
 人間の作り出した偽我、防衛機制という心の根源は、自己保存(自己愛)であり、
魂を得るものは、自らを棄てる者である、神の愛に従う者を、この世は滅ぼそうとするが、
彼等は人の肉体を滅ぼすことで、自らの魂を失う者であり、
神に従った魂だけを神は救うことを、イエス様は自らの生涯を以て証明されたことを
知らない筈はないのですが、心理学者も防衛機制を克服する神の愛までは知らないなら、
正法が伝えられたにも拘らず、心に伝わらないのが
魂を救うとは心を救うということ※b)、神を見失った心は、
永遠に神を知ることなき魂であるということも理解出来ないのが)
今を生きる人々の心であることを知る天上界の
今正法を伝えずにいられなかった思いが理解されるのではないでしょうか。

 分離は誰でも思春期に用いる防衛です。この時期には性欲が高まりますが、
実際の性行為によってこれを満足させる準備はできておりませんので、
この大きな不安を和らげるために性的な探求や空想にふけることになります。
 このように自分を不安にする衝動と接触するのを避けてしまうのが、
この防衛の特色です。
 何らかの理由で、この分離の機制を使う習慣が身につきますと、
行動面で「ジキルとハイド」式に分裂をきたすことがあります
(偽善者はこのようにして出来上るということですね)。
 医者には愛想よく、ぺこぺこ頭をさげるのに、
看護婦には手のひらを返したような態度に変わり、何かというと反発する患者などが、
その例です。
 この場合、患者は愛情と憎しみ、
信頼感と不信感といったプラス・マイナス両極の感情を持っているのですが、
誰かにプラスの感情を向けると、マイナスの感情はそれから切り離して、他の人に向けるのです。
 このような感情分離の過程には、かなり合理的な考え(A)が作用しています。
 次の例を参考にして、臨床場面における患者の分離機制を観察してみて下さい。

a 面接で、父親や治療者に対する気持ちについて聞くと、
 「まあ父を憎んでいると言えるでしょうね」とか、
 「私は先生を罵倒しているのですよ。おわかりですか」といった類のことを顔色一つ変えず、
 淡々と言ってのける患者。
b 心身症患者の一部には失感情(アレキシサイミア)的な人がおり、
 会話では、いつ、誰が、何をしたといった事実経過ばかりを話す。
  また、こちらの質問にだけ"機械的"に答えるので、
 面接の内容がいつしか無味乾燥なものになってゆく。
  また、その型も治療者から話しかける一方通行的なものになりやすい。
c 明らかに不快あるいは危険な内容の話を具体的に詳しく語る。
  例えば、幼時に自分が性的にいたずらされた経験、娘が交通事故で死んだ場面など。
d 何人もの女性と関係があると噂さされる男性が、最も好意をよせている女性に接近できずに、
プラトニックな感情にのみ留まっているような場合。」※a注終)

※b注。
 死後自我として存在する魂とは、今生に於ける心そのものなのですから、
今生にあって神を愛さなった心が、死後神を愛する魂となることはないのです。
 今生に於て神を愛し神の心に生きた者も、偽我の求めるままに生きた者も、
死後は皆天国に行くといった教えは、天上界に通用しない、
神に生きることを喜ばぬ心であった者は、天国に生きることを喜ばぬ魂に他ならない
のですから、
彼等が望んで行く世界は天国ではあり得ないのです。

 彼等にとって天国と思える世界は、彼等が今生に於て生きた
(彼等の心の作り出した)世界と同様の世界、
あの世における地獄(幽界)が彼等の心を受け入れ、
また自ら存在することが耐えられる世界(彼等にとっての天国)となるのです。

 この世は、善我に生きる者も、偽我に生きる者も各々の心を以て働きかけるものですが、
地獄に生きる魂は偽我なる魂しかいないのであり、そのような世界にあっては、
今生の時のように我儘(偽我)は通じない、偽我に返される心は偽我しかない、
互いを偽我で傷つけ合いう世界であり、
偽我の条件反射しか持たない以上、偽我に働き掛ける世界に自ら執着せざるをえない、
故に自らを地獄に縛り付けるのは己自身の偽我であって、神が地獄に落とすのではない、
人自ら望んで地獄に落ちると天上界が仰しゃったのはそういうことだと思います。

 人は死んだら皆天国に行くといった信仰が信じられたのは、
自分の子供は分け隔てなく愛する親のように、
人類を愛することが出来るのが神様であるといった思いからなのでしょうか。
本当の神様とは、人類を正しく育てようとする、
善を愛する心を育てることで、悪を求める心(内なる偽我)を知り、
自らの心から追い出すことを教え、導く方であることは聖書からも理解されることですが、
現天上界はメッセージを通して、よりはっきりと私達に伝えられたことでした。
 愚かな母親に見られる盲愛の如きは、
父性愛こそ神の愛であると証された天上界の教える真の愛とは全く相容れぬものであり、
愛は人を正しく育てようとする、その心にあって愛は理解され、
またその心からしか真の愛は生まれないからです。
 自然の愛が与える世界は調和であり、調和は法則に従う心によって維持されるものである。
 法則に従う心を失えば、調和の世界から淘汰される。
 調和に生きる心が自然の与える愛を喜びとする心が育つ、
神の法の教えるところも同様であり、種から生まれ種を残すを以て愛とする。
 愛の生きる道が種の存続を齎す法であり、自然は法に従う心を本能として種に与えたが故に、
生命が、愛が自然が調和の下に維持される。
 正法とはそれを理解し、人の道に生かそうとした人類という種にあって見出された、
人の生きるべき道、神の法なのです。
 ※b注終)(2026.2)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法