第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(一) 偽我の性格について
「JI」86年2月号初出 ラファエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」39頁
「偶然にも、新年号でノイローゼと正法についてお話ししたメッセージが印刷になる前に、
正法者の一人である木村忠孝様から精神科医として興味ある原稿が届きました。
ノイローゼと診断されて治療を受けている場合は、その人は一応社会から切り離されていますが、
木村様の説明される"病的性格"が一番世の中の歪みや崩壊を作り出している元凶なのです。
勿論述べられているような性格は病的、反正法的で天の求めるものではなく、
正法者としても迎え難い人物ですが、もしあなた方がそのような傾向にあるなら要注意。
心して改めて下さい。
共産主義者や社会主義者、又そういったマスコミが編集する映画やドラマ、テレビ番組が
いわゆる病的性格の人間作りを目指していることが、
木村様の分類を読まれると一層はっきりすると思います。
社会を病ませているのは他ならぬマルクス・レーニン主義者であり、
共産主義による世界制覇を信じ、殺人を容認する悪魔の超大国ソ連に精神的に支配されている、
病的性格の持主であり、集団なのです。
歪みや病的な生活習慣に慣れ親しんだ者が、共産主義の世界支配が実現した日から急に正常化し、
健康な精神生活に戻れる筈はなく、マルクス・レーニン主義を奉ずる者が自分達の無軌道な言動を、
主義主張の為の手段と考え、又公言するならば、
それは自己正当化の為の誤謬、謬説でしかないのです。
同志の言葉を信じて無法行為を当然と思い込む者は愚か者であるし、
放縦な生活に抵抗を感じなくなった者は既に心が病んでいるのです。
反体制的言動に生き甲斐を感じる者は精神的に未熟であって、一人前の社会人でないことを、
一般の人々は理解し、
クールな目でマルクス・レーニン主義を提唱、又はその精神に準じて行動する者を評し、
一線を引くべきであるとお教え致しましょう。
人々が同じ病に冒されない為に ー 。
自らを制する基準を持たぬ者は、正しい性格形成が行えず、徳とも無縁であるし、
幼児か病人のまま一生を終えることになるのです。
その様な者の説く理想など現実生活に役立つものではなく、虚構にしか過ぎません。
分析すればマルクス理論も一大虚構、妄説であるし、それに心酔する者は批判力を持たぬ幼児、
それを利用して主権を得ようとする者は精神的な病者に過ぎないということなのです。」
『社会に蔓延する心の病気』
「JI」86年2月号及び3月号初出 木村忠孝氏寄稿(抜粋)
「現代先進諸国の世界的現象として、砂漠化紛争等による飢餓状況の拡大のある一方、
過食等の誤った食生活に由来する病気、いわゆる習慣病、薬物アルコール中毒の増加と共に、
鬱病(精神科は勿論の事、内科外来に於ても、訪れる患者さんの10%は鬱病だと言われています)、
不明確な愁訴や緊張、ストレスによる病気の激増があります。
病気にならないまでも、社会に蔓延し、社会事情、
日常生活に重大な影響を及ぼしている病的性格について言及してみたいと考えます
(これらは学術的な分類ではなく、医学的には症状のない限り病的なものとされてはいませんが、
敢えて病的性格という表現を用いました)。
病的というのは、自分の精神的成長を阻み、自分にすら解らない様にしている防衛機制、
思考行動パターンのみ肥大している意味に於てです。
一、依存要求性格
① 何時も人を頼みとし、自分一人だけでは不安で自信がなく、
人のしてくれる事に愛情を以てその埋め合わせをして、安住するタイプ。
② 現実には何時も依存欲求が満たされることはないので、その分不満を持ち、
次々と要求が満たされる対象を求めて右往左往し、要求が満たされている間は、
その人を賞賛し御世辞も言い、他にも吹聴して回りますが、一旦自分の要求が叶わなくなると、
自分が被害者とばかりに今度は批難して回り、何時までも心から感謝することもなく、
人の気持ちも踏み躙ります。
③ 気持ちは何時も外を向いており、突き詰めて物事を考えることはせず、要求さえ満たされれば、
何処でも付和雷同し、好悪の感情に左右され、
自分の身を保証してくれる人や対象を一生探し求めるという忙しい性格。
④ 何時頃からか自分に対しての諦めと妥協が内面的に為されており、
実質的努力はせず(あるとすれば、お花お茶の稽古に毛の生えた程度)、
その為問題を処理して行く能力や創造性建設性に欠ける。
⑤ 人に対して細々とした世話や親切、人から言われた事だけはするが、
実はそれ以上の報酬を得んが為という利己的性格。
⑥ 一見か弱くありますが、世事に揉まれた図太い神経を持ち、嫉妬心も強く、
何時迄も人の足枷となる性格。
⑦ このタイプの人々には、最低事前に自分の出来ること、相手に出来ること、
して貰うことを明確にしておく必要があります。
二、ヒステリー性格
① ミカエル様がメッセージの中で詳しく述べられているので抜粋しますと、
『神経質で感情的で派手で、自己顕示が強く、虚栄心が強く、独創性に欠け、没個性的で、
人真似が上手く、人の中心になりたがる。
それでいて他人の気持ちなど解らず鈍感で、
しかも人を惹きつけるようなアクセントのある喋り方をする
非常にエゴイスティックな性格ですが、その上に依頼心強く動物的な恐怖が常に心に不安を齎し、
変化に耐えられず単純で付和雷同型で、自主的に行動することの出来ない、大変厄介な人格で、
こういった人々がどの国に於ても狂信・盲信宗派の中心となっています。
一口で言えばデリカシー(繊細さ)や感性の美しさ、情操の豊かさといったものとは縁遠い
人々であり、そしてまた、あらゆる犯罪に参与しているタイプでもあるのです。
虚言、盗み、殺人、謀略、破壊へと、
宗教的狂信から思想、イデオロギーの狂信者に至る迄の共通する一つの性格類型。』
(注。
政治家のヒステリー性格や自己顕示欲の顕れを、
熱意やリーダーシップと勘違いしている(謙虚を知る心に高慢な想念が伝われば
すぐ嫌悪感が起きるものですが)のか、
或いは真実を言う訳にはいかないのか、騙される方が悪いとでも思っているのか、
真実を伝えることよりも、国民の判断を彼らの望む方向へと誘導することが
偏向メディアの望みなのでしょう。注終)
② ミカエル様の言われる如く、大変厄介な性格で、医学上、もし或る身体症状があり、
その背景にヒステリー性格のある場合、それを加療するのは大変困難で、
ヒステリー性格が消失して、より調和された性格へと変ったという報告は聞いたことがありません。
アメーバの如く変化し(※)、話術に長け、話す言葉に妙な自信を持っているので、
判断力の無い人は嘘でも本当のように思い、コロッと騙されてしまいます。
(※注。
某慰安婦の証言などは正にそれです。
真に人の心を知る知性なき左傾メディアは被害者の訴え(虚言)を鵜呑みにし、
加害者と一方的に裁かれ、犠牲となった方の例が次に紹介されています。※注終)
③ 或る大学の臨床心理の教授が、
ヒステリー性格の女性と面接室(密室)にて催眠療法をしていたところ、
その女性から催眠中に犯されたと告訴され、マスコミも実情を知らずに煽り立てた為、
大学を解雇され遺書を残し自殺して自らの身の潔白を訴えたという事件がありました。
この性格の人に心情的に加担でもすれば、どのような事件でも起きる可能性があり、
ともかく特別の事情でもない限り心理的距離を置いておく事が肝要なタイプ。
(注。
罪を犯した者が(悪徳弁護士に助けられて)無罪を勝ち取り、
呵責を齎す良心を持たぬ悪党であることが暴かれたことも理解出来ぬ真の悪党以上に罪が重いのは、
無実の者に犯罪者の汚名を着せ、人の人生を破壊する者であることに
異存を持たれる方はいないと思います。
某国の自称慰安婦は、自己保存から、自分が大切にされることだけを望む心から、
人々が同情し大切にする犠牲者の姿を自らに見ようとする(自己投影)
自己への盲愛から、自分こそは犠牲者であると思い込んで行く、
自らを騙す(自己欺瞞)、良心に背く心(偽我)に支配された、悪霊と代ることのない魂です。
そのような犠牲者を疑うような冷酷な人間ではないと、
自らを善人と信じる(自己欺瞞)ことで自己愛を満たしている人々が
偽善者に騙されていることも悟れないのです。注終)
④ 当人は勝手に、舞台に上がり自分に酔い痴れているだけなので、その観客にならないようにし、
当人に賞賛や支援によって自信や活力、自己肯定のエネルギーを与えない事が大事です。
⑤ 意外と社会の中で、主要な地位にいたりしますので、鋭く見抜くことが肝要です。
三、強迫完全主義性格
① 何時も物事が整理整頓され、自分にとって完全でないと気が済まず、
帰宅して玄関の靴が揃えてないのを見ても腹の立つタイプ。
② このタイプの人は、打込める対象のある内は、一心不乱にそれに取り組み、
仕事にしても優れた成果を遂げ、他の賞賛もあり、社会的にも成功して、
落度の無い人との評判を受けます。
ところがそういう対象が無くなった時、又すべてを自分の制御下に置けない場合、
非常に不安が募り賞賛も無くなると、果てはその事の原因を外に求め、非難がましくなり、
被害妄想的考えに支配されるようになります。
③ 全てか無かの両極端な二者択一的な捉え方をする為、
柔軟性に欠け、内面的には何時も緊張があり
その為、より完全欲求が募りそれが何時か破綻して一気に厭世的になり易いタイプ。
④ 他の欠点や落度を見つけ出すに敏で、社会的事柄にも何時も腹が立ちますが、
それに対しての非難、不満は口に出さず、他人から見て完全でありたいが為抑圧し、
他の人にも自分と同様の完全や正しい言動を求め、現実的にはそうは成り得ないので、
抑圧したものが一度に爆発します。
⑤ 依存型と違って積極的で、問題処理能力や創造性はありますが、
頑固で情緒面での発達に欠け、感情的に鈍い所があり、思い遣りや共感能力に乏しい為、
多くの人と親しい暖かい親交が結べません。
⑥ 自己充足の為、窮々とし絶えず焦燥感があり、一見非常に精神的にも強く感じられますが、
非常に脆い面を持つ性格。
⑦ 自分が完全である為には、ともすればどのような事でもする可能性があります。
⑧ 無意識レベルに於て、自己の不完全さが強く意識されており、
非難や見せかけの短絡的方法により、それを補完しようとして躍起になっているタイプ。
それ故自分自身の事のみに忙しく、他を顧みる余裕がない。
(注。
保守与党のやることなすこと批判する左翼野党は、
相手の能力が低いことを明らかにさえすれば(勿論自分達の能力の高さを示すものなどなく、
相手を貶めることで自分達の賢さが証明されると考えているのです。
主張しさえすれば(真実として)通ると思っているのでしょう。
本当に子供の心理と変りません)、
自分達が優れていると思われるに違いないと信じる程のナルシシズムの内に生きたが故に
(幼児から全く精神が成長しなかったのでしょう)自らの短所、欠点を認める知恵も精神も
持つに至らなかった人達であり、彼等を支持した国民も同類です。
人間の心理を全く学ばなかったが故に、自らの心の卑しさも理解し得ず、
真の愛とは程遠い自己愛のみに生きる偽我の塊として
彼等に相応しい世界(地獄)をこの世に齎そうとしているのです。注終)
四、優越願望性格
① 物知り顔で自信に満ち、物々しい態度にある一方、過度な謙遜、わざとらしいへり下りがあり、
内面では他の人に対する傲慢や見下しのあるタイプ。
② 自分が特別視され、優越感に耽る事を好み、
自己愛を充足させる為には勉学に仕事に努力を惜しまない為、
社会的には重要な地位に就いている事も多い。
③ 自分の失敗や欠点を指摘されることを極端に嫌い、それに対しては、
無意識の内に得意の防衛機制である合理化(正当化)、転位(問題のすり替え)が為されており、
又自分より優れた人を自分を脅かす者として、屁理屈を並べて批判し、
自分よりも貶めようと努める。
④ 嫉妬心も強く、絶えず他との協調よりも優劣を問題とし、
競争意識が強く、権力、地位、肩書を欲し、自分の意のままに他をを動かす、
又動かせるのを無上の喜び、生き甲斐とする利己的性格。
⑤ 優越心を擽(くすぐ)られて、容易に騙されることもある。
⑥ 或る時には正義、公共の福祉の為、或る時には平和の為と、全体を思い遣る姿勢を示すが、
状況により自分が不利だと察すれば、内容がコロコロ変わり、
結局それは自らの優越心から発したものであることで、言論文化人と言われる者に多いタイプ。
このタイプには、相手の立脚点を衝くこと、
より平易な、日常的な言葉へと引き戻して行くことが、肝要だと思われます。
五、自虐的性格
① どういう訳か、罪業感を持ち、楽しむことの出来ないタイプで、
自分がどういう苦労苦難の道を歩んで来たかを、大袈裟に切々と話し、人の関心と同情を惹き、
その事でしか人との関係を保つことが出来ない。
② 無力でか弱い印象を与え、他人が"どうしても助けてあげたい"と思わせることに巧みで、
人は親切、介護、援助を与えるのですが
結局人に"自分は助けられない"のだとの思いに至らされ、
妙な罪悪感を感じさせられてしまいます。
その後に又自分への関心と、同情を寄せてくれる人を探すという悪循環が
無意識の内に行われるタイプ。
③ "自分は何と罪深くて、可哀想なのでしょう、生きるに価しない"と言いつつ、
巧みに人の愛情を要求するもので、自己を不幸な位置に置くことで、
自己保全欲求を満たすことに躍起になっているだけで、他人には勿論の事、
自分に対する信頼の全くない未熟な性格。
④ 85年4月号のメッセージの中で、ラファエル様が述べられているように、
心気症(客観的には器質的、機能的な身体的異常はないのに、
絶えず体の変調や症状を訴える神経症の一種で、次々と症状が多様に変化する)
という病気に逃げ込むタイプに見られる性格傾向で、
症状をとるだけでも治療上長期を要します。
⑤ 何か自分に困った事、嫌な事、不利な事があれば、すぐ泣いたり引っ込み思案になったりして、
人の同情心に訴えるタイプで泣き止んで笑顔になったとしても、
結局問題の解決にはどうでもよく、感情的に居心地さえ良ければ解決したと思い込むタイプ。
⑥ このタイプには、一応相手を受け入れた後、理知的な面を育むことが必要ですが、
一朝一夕に行かず、大変厄介です。
"なあなあ主義"日本的解決法は、幼児ならいざ知らず、百害あって一利無し。
六、分裂気質性格
① 人から離れて絶えず心理的距離を保ち、親しい交流を避けるタイプで、
風変わりな印象を与え、自分の世界に耽り、自分にとって興味のある事、
親しみのある事のみに没頭し、自己の平穏な世界を乱されるのを極端に嫌う。
② 稀にはこの性格傾向の人に、創造性豊かで人並み外れた偉業を成す方もあります。
③ 二、三人の人とは距離を置いて付き合いは有るのですが、
これらの人は只の意志の伝達役、翻訳者に過ぎません。
④ 心理的葛藤に対しては、何時も得意の防衛機制である知性化を用いて、
物事を怜悧に分別くさく処理して行きます。
⑤ 人との交流は、只の知的ゲームに過ぎず、冷酷、非情な面を持ち、
人と何かを分かち合うとか、共に何かを成し遂げて行くとかの共感、思い遣りが無く、
自分の事にのみ興味のあるタイプ。
⑥ ややもすれば、重篤な精神的破綻を来たし易い。
⑦ 非常に知的な人の場合、人を知的遊戯の道具としてしか見ておらず、
人の弱点もよく心得ており、社会に与える影響も甚大で、最も警戒を要す性格。
⑧ 主義や原理に親和性があり、冷酷、非情な面と相まって、
より人間的心情を無視した行動に走り易い。
(共産党員やシンパに多いタイプですね ー 。過激派も平和運動家も含めて。千乃 )
⑨ このタイプは、前記の行動に走る場合、言語レベルでの説得はまず無理で、
あらゆる手段を講じて戦う位の心構えが必要。
七、衝動(行動化)性格
① 前期の諸性格の、自分は守るが人の事はどうでもよいという傾向、
他の社会の諸病理が現代の未熟な青少年の自我に集約凝縮された形で投影されて、
形成されたとも言うべき性格。
② 一見、道理を弁え、感情もよくコントロールされているかの様に思えますが、
ちょっとした刺戟に、爆発的、破壊的行動を起こすタイプ。
③ 集団で行動するのを常とし、その内で退行的行事に明け暮れ、
そういう行動を通してしか他の人との関係が保てない。
④ 短絡的で熟慮に欠け、道徳、法律の範を容易に超え、本能的欲求の開放されたタイプ。
⑤ 忍耐に欠け、心理的葛藤を持ち堪(こた)えられず、
人や自らをも精神的にも肉体的にも傷付けたり、
人に迷惑を掛けたりすることで解消するという、
サディスティックな快感に酔うという獣的性格です。
好悪の感情に支配され、気分変動が激しい。
(いわゆる非行グループです。千乃 )
この他現代の青少年に特徴的なのは、両親の期待と当人の資質を度外視した、
両親の先回りによる画一的な人生設計の押し付けにより、
ロボット的な青少年が激増していることです。
ここで少し防衛(規制)について、触れてみたいと思います。
防衛とは、無意識的に感情的葛藤や不安から自分を守る為に、
精神内界で行われる一連の過程を意味します。
防衛が意識的に行われる事もありますが、本当の意味で深く影響を与えるのは、
無意識に行われる防衛なのです。
人間が成長して行く過程で、各自が自分に特有の防衛を反射的に行い、それが度重なりますと、
次第に性格特性の一部として染み付いてゆきます。
実際日常生活の中で、例えば炎症反応が生理的防衛反応として身体内で起こるように、
又、民主と自由を愛する国が、(人間を道具と化し、世界制覇の野望を持つ国から)
自国を守る為に防衛力が必要なように、防衛が一時的には必要ですが、
それが恒常的に過度に用いられるようになると、慢性の炎症が身体を病気に導くように、
精神病理的役割を果たすようになります。
こびり付いた防衛により形成された病的自我(誤った物事の感じ方、考え、認識等)が、
健全な感性、認識、情緒的発達や豊かさをも蝕んでゆきます。
前記の諸性格は防衛 ー 自己保存により、健康な自我発達不全、情緒発達不全を起こし、
物事の判断力、智恵、人への思い遣りや、慈愛の心が育ってないか、
バランスを欠いた状態であり、その意味に於て病的なのです。
精神的発達(意識の広がり、深み、豊かさ)が未熟であればある程、それに増して無意識的に、
自動反射的に慣れ親しんだ防衛を用いて、僅かな健康部分の働きさえも奪います。
それとは反対に精神的に発達している人は、健康な自我ばかりですので、
防衛の必要もその計らいも必要でなくなった状態で、邪魔なものが無いので、
どんどん健康な部分が余計なエネルギーの浪費無くして膨らみ、
豊かになってゆく一番効率の良い発達状態を言います。
これは身体のある部分に異常がありますと、炎症反応、免疫系、
ホルモン系等の身体正常化機能のすべてのエネルギーを総動員してそれに対応し、
もしその機能不全があるか、又は放置すれば全体を蝕むのに対し、
全く身体的に健康であれば益々それが充実し、
余分なエネルギーを殆ど使わずに済むのと同じ事です。
問題は自己の不完全な部分を何により補うかという事です。
或る人は病的な部分を直視し、それにメスを入れ、何が必要なのか、
又その実態を知り、切磋琢磨してそれを無くし、同時に健康な部分の増進、拡大を図るでしょうし、
或る人は一時しのぎの応急措置として短絡的手法にてごまかし、知らず知らず、
病的な部分が拡大するに任せるかも知れません。
前者の場合、メスを入れる為、一時的には苦痛が伴うかも知れませんが、
それは真に益になるものであり、喜ぶべきことだと考えます。病気が良くなるのですから。
自分の為になることをして妙に心が委縮してしまわず、正しい方法、道に触れるという事は、
心を安らかに豊かにする筈です。
前述の病的性格は後者にあたり、異常なことに心身共に健全な人と見做され、
社会の至る所で幅を利かし、「善良で思い遣りに溢れ、言葉少なき人々が片隅に置かれるという、
逆転した現象が今日起きています。」
又、残念な事に、これら病的性格の人々と馴れ合いの日常を送る事に終始してしまって居ります。
これは病的な部分を放置し、その増大を看過するという、
健康な部分にとっての脅威の増大に他なりません。
私達も天上界から見れば、病的性格の一端を必ずや何処かで担っており、或る時には避け、
或る時には智恵を働かし、時と所を選んで忠告、批判し合い、互に切磋琢磨し合うという広い心、
内科的な、又外科的な心が必要だと考えます。
又、善良に生きる人々に実害を及ぼす、及ぼしていることがあれば、
その時には断じて戦うという勇猛心を持ちつつ。
〖木村先生の仰しゃる意味は、悪霊や左翼に代表される統制や調和を憎み、
歪みや破壊を企んで人を不幸にして喜ぶという異常な性格で、
それを指摘する勇気が必要ということだと思いますが、
本当に性格的に周囲や家族に害を及ぼすのは、ヒステリー性格に加えて、
自閉的性格とノイローゼの人ですね! 変人(異常性格)もそうですが ー 。
何故実害があるかというと、四者に共通なのは強烈、不変のエゴイズム、自己中心的性格です。
エゴイズムとは自己優先、自分の感情優先、他者に無関心の性格タイプなので、
この四者は正法を根本的に理解出来ないのです。
何故なら、正法で説かれる"自立心"、"甘えを捨てて克己する"、
"他を思い遣り、相手の気持ちになって行動する"、"自己犠牲"、
"常識的な生活"そのどれを取っても、四者の性格には無く、採り入れ難い生活習慣、人生観で、
従ってまあ天上界とは縁があるとは言い難い性格だからです。
背反者の一人一人がこの類型に入ります。
そして又、こういった性格の人は、周囲を振り回すか、非協調的で重荷になり、
家族を不幸のどん底に陥れ、その点で、実害になります。千乃 〗
追記 防衛は人から批判非難されたり、自己愛欲求を否定されたり、
自分の思い通りに事が運ばない時などの心理的、感性的葛藤状況の下で、
一番その病的機能を発揮しますので、その時の自分の心理状態の移り変わりを見つめ、
自分の中に今何が起こっているかを直視し、その実態に気付く事よりすべては始まります。
それが健全な精神に至る第一歩です。
自分の中に不満、悪感情、不安、緊張などの感情が起こってきた時、
その時こそが一番大事な時なのです。それがどう処理されているかです。」
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(二) エゴイズム
「JI」84年12月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」46頁
「この私達の望まぬ"世の終わり"が来るとしても、一つだけお教え出来るのは、
それは既に私達の手を離れた宿命的なもので、
あなた方人類が、悪霊の好みに同調し、それを招くことによって起こるか、
天災として起こるかの何れかになるでしょう。
人災として起こるならば、
第三次世界大戦がソ連の手によって起こり、米国によるものでないのは、
好戦的で世界制覇の野望に燃えるソ連の在り方から推論し得る事柄です。
或いは共産国の手による大半の民族の虐殺、抹消の繰り返しが起こります。
(注。前大統領のトランプ氏を再び大統領に望む米国市民の声(本音)が伝えられましたが、
トランプ氏の大統領在任中は戦争がなかった、
トランプ氏はよその戦争の為に国民を犠牲にしないとありました。
トランプ氏とその支持者はまるで昔の民主党のようだ
(共和党と民主党は中身が入れ替わったのでは)と驚きましたが、
共産主義に、悪に対して立ち向かってこなかったツケが今日の現状を招いているのです。
今またその悪を放置しておくなら、
近い将来自分達がウクライナやアフガニスタンの国民と同じ地獄を味わうことになると
天上界は警告されていたのです。注終)
それを人類の手で防ぎ得るならば、末世の到来は遅れ、自然破壊に対して種々の策を講じ、
人類には少なくとも太陽系の衰退までの時間が与えられるでしょう。
その間に宇宙への移住を試みるであろうし、創意に富む人類はそれに成功するに違いありません。
私達天はそれをこそひたすら望んでいるのです。
(注。再び神の国に導かんと、六十万もの烏合の衆であるユダヤ民族を一つにする為に、
神はモーセ様に十戒を与え、彼等を導かんとする神の(善に徹する)御意志を
十戒を通して知らしめられました。
人類が宇宙へと移住するに備えて、善に徹する心を得て、人類を一つにせねばならぬ、
苦難の前に、邪悪な知性に生きる異星人に屈することなきよう天が導いていることを実感させる
ガブリエル様のお言葉であると思います。注終)
只末世、世の終わりを来たらせるもう一つの要因として、人々のエゴイズムがあります。
ソ連や共産国の野望や非道のみならば、それは世界の一部に限られ、
人類の生存を脅かすことはないでしょう。
しかし他の自由諸国の人々(あなた方を含め)が巧みに呼びかける
悪霊の如き共産主義思想のユートピア作りに賛同し、
企業を潰し、学問を歪め、国家と経済を崩壊させ、
自由思想や資本主義打倒への闘争と労働なき報酬(※)、
努力なき豊かさと道徳否定により犯罪を肯定し、
良心の責(せめ)なき人生を送ろうと望むならば、
当然の結果として世の終わりは来るのです。
国や社会というものは国民の協力や秩序なくしては保たれず、
諸国が崩壊と無法の巷と化し、共産政権による個人の破壊、
人命軽視が結果的に人類の破滅を招くのは火を見るよりも明かなことでしょう。」
〖※参考
カリール・ジブラン著「預言者」 至光社刊
「労働について」より(抜粋)
「あなたが働くのは、大地と、そして大地の心と、足並みをそろえるため。
怠け者は、季節にとっては他所者(よそもの)。
かれは生命の歩みから外れて行く。
生命の歩み、それは、威厳に満ちて、誇り高い服従のうちに無窮を目指して進んで行く。
労働しているとき、あなたは笛となり、
その笛の心は時のささやきを音楽に変えて行きます。
他(ほか)の者すべてが、ひとつ声で歌っているのに、
誰が、声も音(ね)も出ない葦(あし)でいられましょう。
労働は呪い、苦役は不運、ひとはそう言う。
しかし私は言いましょう。
労働するとき、あなたは大地の遥かな夢を担い、それを果たして行きます。
大地の夢が生まれたとき、あなたの分はもう定(き)まっていたのです。
労働して自分の糧を得てこそ、生きていることを愛することになります。
労働を通して生きることを愛する、それは生命のもっとも深い神秘に触れること。
しかし、もし苦しみの日に、「生まれて来たことは禍(わざわ)いだ。
肉体を養うことは額(ひたい)に記(しる)された呪いのせいだ」と言うなら、
私は答えます。「あなたの額の汗だけが、記された呪いを消し去れるのだ」と。
生きていることは闇だ、とは、あなたの聞いて来たこと。
あなた自身も疲れたとき、疲れた者が言う其の言葉を繰り返しています。
しかし私は言いましょう。
まことに生きることは闇。もし、そこに衝動がなければ。
そして衝動は盲目。そこに知識がなければ。
そしておよそ知識は空虚。そこに労働がなければ。
そして労働は虚しい。そこに愛がなければ。
愛をもって労働するとき、あなたは自分をつなぎとめる。
自分自身に、ひとに、そして神に。
愛をもって働くとは何か。
それは、心から縒(よ)り出した糸で布を織ること。
あなたの愛するひとがそれを身にまとうかのように。
また想いを込めて家を建てること。
あなたの愛するひとがそこに住まうかのように。
そして優しい心で種を播き、喜びに満ちて刈り入れること。
あなたの愛するひとがその実りを食べるかのように。
さらに、それはあなたのつくるすべてのものに、
自分自身の精神の息吹きを吹き込むこと。
そして天上の聖者たちが、まわりに立ち、あなたを見ているのを知っていること。
私はしばしば聞いた。あなたがたが譫言(うわごと)のように言うのを。
「大理石にかこまれて働く者、石に自分の魂の姿を刻む者は、土を耕す者より貴い」と。
また、「虹をとらえ、それをひとの姿にして画布に描く者は、
ひとの足の靴をつくる者に勝る」と。
しかし、私は言います。譫言でもなく、眠ってでもなく、真昼の目覚めのうちに。
風の声は選(え)り好みはせず、
小さな草葉にも、樫の大木にも同じように甘く語りかけるのです。
愛によって歌を甘美にする者、そのひとだけが本当に偉大。
労働、それは目に見えるようになった愛。
愛なしで、ただ嫌気だけで働くなら、
むしろ働くのをやめて神殿の門のわきに坐(すわ)り、
喜びをもって働く者に施しを乞いなさい。
なぜなら、心を込めずにパンを焼けば、出来上がるのは苦いパン。
それはひとの飢えを半分しか満たしません。
いやいやながらに葡萄を搾(しぼ)れば、
その吝嗇(りんしょく)が葡萄酒に毒を盛ります。
たとえ天使のように歌っても、歌うことを愛せないなら、
かえってその歌でひとの耳をふさぎ、
ささやきかけてくる朝と夕べの声をせきとめてしまうのです。」※参考終〗
「慈悲と愛」80年12月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」125頁
「悪意の嘘とは究極的には破壊を齎す有害なもので、他への思い遣りではなく、
自らの立場や利益や名誉、地位、財産を守る為には、他を傷付けても、陥れても、
それについては心を痛めないという、虚栄の心とエゴイズムの産物でしかないものです。
このような嘘からすべての悪が生まれ、世を破壊してゆくものです。
そしてこれこそが悪魔に魂を売る堕落への道、消滅への道へと導くものです。
抜き差しならぬ立場に立たされても、
自らを守る為の自己保存の嘘で言い逃れを計るのは止めましょう。
それを始めるや否や、あなた方は天から後じさり(後退)を始め、
遂には背反の曲がり角へと追い詰められてゆくのです。
すべての反逆者、消滅宣告者もこの道を辿りました。
よく心して毎日を過ごして下さい。」
「JI」82年8月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」154頁
「表面的な優しさは単に人前で身繕いをする社交的な言葉の遊びと同じで、
真に暖かい心の尺度とはなりません。
時には優しい言葉も苦しみ、悩んでいる人、愛を求めている人の救いにはなりますが、
真の優しさはやはり人間への深き理解に裏付けされたものでなければ、
人の心を癒すものとはならないのです。
微笑みがポーズであってはならない、
言葉が単に言葉で終るものであってはならないのです。
このような人は、いざという時は逃げて、あなたを救ってはくれません。
その優しい言葉の語る内容を分析し、突き詰めて考えていくと何か壁のような物にぶつかり、
何が目的なのか判らない。
迷路に入り込んでしまったり、会話から何も得る価値がなかったり、
逆にあなたの同情や賞賛を求める物であれば、
それはエゴイズム、ナルシシズムの変形に過ぎないのであり、
真に優しい思い遣りから出たものではないのです。
人の事を考えぬ冷たい心です。」
「あなたの隣人が思考と行動を束縛するような厳しさを持ち、
正しい方向も示さないような人であるならば、
それは、エゴイズムとナルシシズムから来る厳しさ、ぞんざいさ、冷たい心の表れです。
お判りになりましたか?
冷たい心とはエゴイズムの表れ。
そのような人は自己の偽我を指摘されると益々防衛的に冷たくなるのみ。
永久に天には来れぬ人。
知恵も、三次元の社会を漕ぎ抜ける知恵しか身に付きません。
言葉や動作の身繕いの巧みな人は、エゴイストであることを理解しておくべきです。」
「JI」85年1月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」47頁
「正法を学ぶ者も、正法誌を読む者でさえも、
何が世の終りを齎すのかを、現実に理解している人は少ないように思えます。
正法を現実逃避と、喪失しつつある自己と自己への信頼の回復の場としか把えていない
人々が多すぎるのです。
そういった人々の救い難い自己保身のエゴイズムの醜さが世を滅ぼすのです。」
昔、ある地域で在ったとされる「姥捨て山」の伝えるものは、
子孫(種)を残せなくなるようなことになっても、老人の延命を優先する
(その結果子孫は絶えるかもしれない)べきか、
それとも子孫の生命を守る為には老人は生命の執着を捨てるしか道が残されていないことを
受け入れるかの選択を余儀なくされる状況下の生き様とも言えるものですが、
勿論、現代の倫理観で裁ける訳がなく、
当時をその倫理観に従わせたとしたら、その後の世界は地獄になっていたであろうし、
その責任は誰も負いはしないものでしょう(左翼の姿勢です)。
この話から知ることが出来ることは、現代の一部の老人に見られる、
エゴを剥き出しにして自分の生き延びることだけを考える老人を見て育つ子供達と、
子供達を生かす為に、自分達の出来ることで役立とうと考える老人を見て育つ子供達と
どちらが人の望む成長を助けようとする、人の幸せを願う、
真に他を思い遣る心を持った人間になるかは明白だと思います。
子孫の生き延びることを、彼等の幸せを願うなら、
どのような心に生きる人間が地球を平和にして行けるのか考えないでいられる筈はないと思います。
"依存心について"
人から指示された通りにやって、うまく行かなくても自分の責任ではないと考える。
自己保身から自分に原因する欠点を認めることも出来ず、
何時までも進歩向上することはありません。
人に依存することは精神の自由の足枷であることを覚り、
成長を奪っている自己への執着(自己保存)を断ち切るのは、自らの精神に於てしかないのであり、
自らの責任の自覚が、自ら解決しようとの意志となり、解決に向けて知恵を、努力を尽くす。
それしか精神を向上させることは出来ないでしょう。
「過って改めないのを、過ちというのだ」と孔子様の言われたのは、
未熟な精神に留まっている者のことを言われたのでしょう。
天上界から真の宗教の齎された時代は、
イエス様が「天国の扉」で仰しゃったように、人々は理性に生きることを知らない、
神の心を知らぬ時代でした。
現代に生きる人々のように理性が如何なる心かを教育されるような時代ではありませんでした。
人生を通して学習する(大脳を開発する)ことでしか理性なる心は養われず、
生前に於て理性を養うことが出来なければ、
死後魂を得ても理性と呼ばれる心の働き(条件反射)を持つことは出来ない。
理性とは神々の心であり、理性を養うことが出来なかった者は永遠に神の心を知り得ない。
現天上界が現代に於いて初めて明らかにされた真実を、
二千年前の人々には理解不可能であったが故に、神は絶対神として人類を導いたのであり、
神は人々の心に愛を齎すことで、人が愛を信じる心を育て、
神の教えに従うことが出来たのです。
二千年に及ぶ、天と神を信じて従った人々によって、
人類は理性を知ることが出来たのです。
何故現代に於いて神々が人間であったことを証されたかは
メッセージに於て明らかにされていますが、
キリストの、神の犠牲を厭わぬ愛が与えられても神に依存する人類は
自らによって救おうとしなかったのであり、
このままでは人類は悪魔の導きに打ち克つことは出来ず、
永遠に神を、救いを失おうとしている故の神の証でした。
人類は自らの心の内に理性を、神の心を持つことが出来ることを知らしめる為に、
神とは理性(善我)を、そして理性の徹する精神力を培われた人間の霊であることを
明らかにされました。
最早人類は二千年前の神に依存したままで、平和に生きる時代は終わったのです。
サタンに支配された独裁者が地球をも滅ぼすことの出来る科学力を得ているからです。
人類が迷信に生きていた時代は、真理ではないが故に救われないにも拘らず、
悪魔に唆された宗教指導者は信者に信心が足りないからだと、
更に不幸に突き落としてきました。
しかし真理を理解し真理に救われた時、迷信を信じ込まされてきたことを知った時、
迷信を捨て去りました。
戦後、日本人が貧しい時代にあって、子供の養育から学校給食が必要とされたのであり、
人々を助け良き社会を築く為に国営放送が求められたのです。
しかし国家は国民とは別に存在するものではありません。
国家に社会に依存する者を支えるとは、
自らの力で生きている者が、自分だけではなく他者を助けるということです。
故に人は自らを救おうとする者でなければならないと言われてきたのでしょう。
人々が自らの力で生きねばならない、その手助けが真の福祉であることを、
また神の意志でもあることを、理解し得る時代になって尚、
国家に(即ち、自らの努力に生きる人々の税金に)頼る生き方は改めなければならないのです。
それが真にこの世に平和を齎す、平和を築いて行こうとする人の生き方であることを
天上界は伝えているのです。
戦後と変らず、学校給食〖まさかみんなが同じものを食べることが民主主義であると、
人の顔色を窺うのが協調性(自分の信じる真理が人の信じる真理と相容れぬなら、
偽りの真理を明らかにする真の真理を互いに見出そうとする心が、
相容れぬ違いに固執する心を乗り越えさせようとする、
それこそが真理を求める心であり、真理の下でこそ人の心を繋ぎ止めることが出来る、
その心の現れが協調性ではないでしょうか)であると、
人と違うことをするといじめられるのではないかと不安になるから、
同じことをさせようとしているのでしょうか、
善を信じることのできる強い信念を育てるのが教育ではないのでしょうか、
臆病を庇ってよいのはいじめられている時です。
何を履き違えているのでしょうか〗を、
(民放があるにも関わらず税金を投入してまで)国営放送を守らねば生きられない時代でしょうか。
そのようなものをみんなで支え合わなければ生きられぬ時代でしょうか。
自ら生きんとする者となる為に、それらのものを国家が全国民が支えるべきものでしょうか。
依存心を助長するものを、宗教をすら無くさねば、人類は自らを救おうとする心を、
善我を、即ち人を救いたいと願う神々と同じ心を得ることは出来ないと
天上界は教えられているのです。
そして依存心を克服出来ないできたのは、
依存心に付け入ろうとする、喰物にしようとする者がいるからであり、
そのような心に利用されるということは、
自らの神の心を見出だしていない、悪を見抜けない、
悪を拒めぬ弱い心であるということではないでしょうか。
神の心に立脚した一人一人によって、神の国は地上に作られるのだと天上界は仰しゃいました。
「三次元の歪みを正しくし、人々の心を正しい方向に向けることのみが
地球に平和を齎す唯一の方法であり、且つそれ以外にはない」ことを伝えられました。
国民一人一人が国家を作る、それが民主主義であり、
民主主義に生きることを自らの意志としたのが日本国民ではないですか。
独裁権力者の恐怖政治の前に、羊の如く従うしか生きる道のないような国民に
日本民族は落ちぶれ果てたのでしょうか。
NHK如きに受信料を強制されれば、従わぬ者は日本国民の資格を失うのでしょうか。
神から与えられた日本国民自らの有する自由を奪う権利をNHKに与えたのは
一体誰なのでしょうか。
それを日本国民が望んでいるのですか?
自らは権力に取付かれ、国民を従わせることがNHKの使命とでも信じているのでしょう。
権力に取りつかれた独裁国家の者と変りません。
NHKに受信料を払わぬ為なら、邪悪と手を切る為なら、
テレビを捨てる程度の犠牲を厭ってはならないと思いませんか。
権力者(NHKと共に権力を貪って来た自民党)に隷属を強いられる
(奴隷の如くに扱われている)己が姿を見出したなら、
真の日本国民は彼等ではない、日本国民を貶めている者に対して、
立ち上がる者が真の日本国民になるのだと自覚されたなら、真の正義に目覚めたのなら、
自らの意志さえあれば誰にでも出来る(ささやかな)正義、自己犠牲で、
(権力の亡者の)邪念で国民を地獄に縛り付けてきた鎖を断ち切ることが出来れば、
世はどうなるでしょう。
国民が堕落しようが視聴率さえ得られれば良いと、欲にまみれた、俗世間を守る為に
(悪魔からではなく)神から人々を引き離してきた"民放"を追い詰めることで、
(プラウダの如き権力の番犬)NHKを特権階級から、
彼等民放と同じ境遇に引きずり下ろすことが出来るかも知れません。
自らの細やかな犠牲も逃げるような者が、
悪魔に貢ぎながら受信料などと己が卑屈をごまかす者が、
ロシア国民は独裁権力に屈することなく自由な民主主義を勝ち取ることを願う、
などと言う者がいたら、底なしの恥知らずと思われることでしょう。
私達に出来るとしたら、
自分の意志さえあれば出来るような些細な正義でしかないかも知れませんが、
そこから始めるしかないのです。
悪魔の心に生きる彼等は、悪の種を植え込む為に、人々の精神を堕落させる為に、
神を見失わせ、悪魔に魂を繋ぎ止める為に、邪念を伝えているのです。
悪魔の誘惑に屈する精神へと貶められ嘲笑されていることを知ってそれでも
あなたの中の神の心は目覚めることが、立ち上がることが出来ないのでしょうか。
信者の献金を自分達への感謝からと当然のように教団幹部が受け取る、
その献金によって信者以上の贅沢を享受するを己が地位に相応しいと考える。
人の感謝を、好意を裏切っていることも悟れない、
しかも自分はその人々の上に立つべき者、導くに相応しい者と自惚れるまでに
精神が堕落するを恐れる気持ちさえも忘却している。
人をそこまで堕落させる原因が容認している体制の中にあるのであり、
またそのような体制を都合がよいと考えるエゴイズムの上に組織が安住しようとする、
そのような心が間違っていると判断する心なくして、
個々の行為の善悪が判断できる訳がありません。
善悪を認識する心を妨げる物を取り除くことこそ、真に為すべきことでしょう。
世を、人の心を救う為に結成されたのが宗教ならば。
世の為、人の為に作られた公共機関が、
すべての国民から受信料を強要して当然と考えるなど邪教の幹部以下です。
NHKの関係者は国民からの徴収を義務付けさせての自らを養う事を
不正と判断出来ぬようなエゴイズムに安住し、如何なる公正な報道が出来ると考えるのか。
このような体制を改めることすら出来ぬ組織に正義があろう筈がなく、
彼等の心が天上界に繋がるものでないことは言うまでもないでしょう。
"テレビは世間を堕落さることは出来るが、堕落を防ぐことは出来ない、
堕落に手を貸していると認めることがない"
「清らかな厭世」36頁 阿久悠著
"悪しきことも恥ずべきことも
テレビで騒いでくれりゃ
認められたってことよ"
「かつては社会に告知されることが、とても恐かった。
愚かなことが社会に知られることによって、悪しきこと恥ずかしきことになり、
とても顔向け出来ないと思うのが、常識人の感性であった。
子どもであれ、大人であれ、かつての人間は、
愚行も悪事も自分の大きさにそった限界を知っていて、ギリギリのところでピタッと停めた。
そこで停めている限りに於いては、
若いからとか、男だからとか、女だからという妙な思いやりで猶予を与えられた。
これが、大目に見て貰えるということである。
しかし、そのギリギリの限界 ー これは不思議なことに人によって違う ー を、
ちょっとでも超えた瞬間、手酷い仕置きを受ける。社会が許さないという風が吹く。
だから、小社会で通用する甘えが、大社会では全く通用しないことを自然に教えられ、
常識の恐さと必要性を同時に学んだのである。
それが全く逆バネで働くようになったのは、いつからであろうか。
小社会の悪が大社会で恥にもならず、お仕置きも受けなくなったのである。
やはり、テレビの時代になってからで、それも、ワイドショーという社会ネタを
拡大エンターテインメント化するようになってからである。
テレビも、はじめから面白がればいいというつもりではなく、
荒れた学校にしろ、積木くずしにしろ、年越し暴走族にしろ、公徳心なきファミリーにしろ、
また、プチ家出にしろ、援助交際にしろ、殺人ごっこにしろ、
警告や啓蒙のつもりはあったと思う。
今、社会にあること、傾向化しつつあること、これを見捨てていいものかと、
きっと思っている。だから、悲惨な実例をナレーション付き、音楽付きで劇的に見せる。
きっと現状の直視が未来を救うと意気込んでやるのだろうが、
結果、大抵の場合は逆効果になる。劇的が煽ったのだ。
「あれをやっちゃおしまいよ」と思ってくれるのが、常識人である。
しかし、現代で最も欠落している人の資質が、
この当たり前の感性だということを忘れてはならない。
くり返すが、劇的に見せることによって、現代人 ー あえて日本人とはいわないが ー
はその社会性に安心するのである。
テレビが取り上げたことによって、大きな社会に通用する悪事にバージョンアップし、
お墨付きを与えてしまうのである。
本来恐くてたまらない社会の目が、もっともっと恐がられていい筈のテレビ効果で、
堂々と認知されたと胸を張ることになる。
ゴミ屋敷の住人も騒音の隣人も、恥ずかしき例ではなく、
むしろ、注目された人として類似を呼ぶ。
「人のふり見て我がふり直せ」は、もう通用しない。
「あいつもやるなら、おれもやる」で、啓蒙は奨励になって、警告にはならないのだ。」
虚構の世界に心(条件反射)を養い、現実の世界を虚構の世界に合わせる、
虚構の世界の内に一生を、魂を終わらせる。
永遠に真実の世界、天上界から忘れ去られる、
それを恐ろしく思わなくなったら、永遠に目覚めることはない、
真理を判断し得る条件反射を獲得することなく神経細胞の死滅を迎えることになるのです。
テレビを捨てよ、光の世界に出よう。
"ナルシシズム(自己愛)について"
自分と同様の醜い心を人に見る時、その醜さをはっきり認識出来るのに、
自分の心がそうであることには中々気付けません。
自らがその心に立って(その心を当然のものと思って)いるので、
認識しようとする心が外にしか向かわない
(動物にとって自己保存を脅かす敵は外部にあって認識されるものだからですが)
心(条件反射)にのみ生きてきた者なら、自分を不幸にする敵が、
自らの内にある悪に生きようとする心だとは認め難いことであるかも知れません。
しかし、人の心を理解する時、自らの心を省みようとしさえすれば、
己自身を知ることは決して困難なことではない筈です。
それを妨げているのが自分を愛することを目的とする
(自らを愛せなくさせるものは認めまいとする)自己愛なのです。
理性に意識を向かわせない、自分本位に考えようとする心の働きである自己愛
(自己保存の本能)に盲従していることを知らなければなりません。
たとえ他人であろうと真に愛する価値のある者なら、
真の愛を持つ者なら愛そうとするでしょう。
愛する価値のある他よりも、価値なき己を優先するのが自己愛です。
自己愛が愛ではないというのは、人を真の愛に背かせての、
自分に執着させる思いを愛と呼んで自らを騙す、
エゴイズムとナルシシズムの偽我の塊に貶めるものであるからです。
真の愛は人を生かそうとする、
人を束縛させない、人が自由意志に生きることを望むものです。
自己愛は人を自分のものにしようとします。
真の愛は自己愛が偽りの愛であることを明らかにします。それ以外に愛はないからです。
自己愛は真の愛を受け入れぬ自己への執着心に過ぎないものです。
自己愛という言葉自体が虚偽なのです。
神の愛を理解出来ぬ未熟な精神も、
与えられる愛、神の愛の内に精神を成長させ得た者は、
神を愛を太陽の如く明らかに知った者は、
神の愛を信じる心を育てた者は、
神の愛に生きる喜びを知った者は、心の目覚めた者は、
自己愛に生きた心の虚しさから、
真の心へと導かれたことに感謝しないではいられないことでしょう。
「清らかな厭世」242頁 阿久悠著
"自分を愛し過ぎると
他人を見ることを忘れ
社会の迷い子になる"
「今の人はとにかく自分が好きである。自分のことが好きで好きでならない。
その上、自分さえあれば社会は成立すると考えているようである。
この羨ましいほどの自信は何であろうか。自分は何かによって支えられ、
誰かがあることで存在しているのだとは微塵も思っていないようである。
この尊大さは何なのか。
ぼくらの世代は、相当の自惚れ家であっても、
世の中が自分の都合で成立しているとは思わなかった。
そんな風に考えてみたいものだと身悶えたこともあるが、
ちょっと見渡しただけでも、自分の敵(かな)わない人、自分を助けてくれる人、
自分を心配してくれる人などが目に入って、自分という人間の大きさ ー 小ささか ー
を知るのであった。他人は凄いのだ。
そして、社会もまたなかなかに手強い仕掛けになっていた。
自分の思い通りにことが進むとはとても思えなくて、夢は夢、決して諦めることはないが、
それに接近するには何百のハードルをクリアしなければならないだろうと、
健気にも覚悟したものである。それが常識であった。
話を、今の人は自分が好きであるに戻す。
今の人も悩み多く、深く傷ついてもいるが、
何やらその根本が違っているように思えてならない。
つまり、根拠もなく可能性から出発している。
この世に不可能はない。地球はあなたのために回っているのよ、
という言葉を子守歌にして育ったように思われてならない。
それは過剰な愛情によるのか、それとも、ある種の教育放棄によるのか、
いいことだけを伝えて、ヌクヌク育てることが愛だと理解した結果の自信家に思える。
ぼくらは逆に不可能から教えられた。身を守る術、時に実際より大きく見せるが、
おおむねは力がつくまで小さく見せることを教えられた。
その比率を逆転していくことが成長で、
ほぼ自信と謙虚が五分五分で生きられると見極めた時、
親が子に対する教育の終わりであったと思う。
現代、傷つく子も、傷つける子も、
不可能の存在を教えられなかったことによる戸惑いと、挫折である。
嘴(くちばし)も小さく、爪も弱く、羽も生毛(うぶげ)のままのヒヨコの周辺から
不可能を排除し、大きなコンドルと錯覚させた自信家の今の子は、自己愛だけで生きる。
夢を描いた時、その夢に到達するためには何の才と技術が必要で、
接近を阻むものにはどういうものがあるか、
さらに、夢には距離があることを教えられていない子は、ただ直結を望む。
いきなり頂点を願う。自信家だから。
そして、他人がもしそれを評価しないと猛然と反撃し(注。背反者が正しくそうでした)、
時には社会そのものに仇(あだ)をなす行為を示し(注。それまで信じていた神が、
ただ自分の信じるようには自分を評価しなかったことの逆恨みから、
悪魔に魂を渡し、神に背反するという大罪をも恐れる心を失った)かねない。
子には、他人と不可能の教育から始めよう。」
"自己愛は、真に己を生かすものを見出した時、真の愛へと昇華される"
己自身を、己が愚かを知る知性を奪ってきたものが盲目の自己愛であると知り、
自己嫌悪の心にあって、それでも尚自己肯定に生き続ける自己愛こそ
精神の成長を奪うものと意識されるのではないでしょうか。
自暴自棄から神に愛される善なる心に生きることは出来ないと、望むことが出来ないと、
善を愛することの、悪に逆らうことの出来ぬ、真の己に生きんとの熱意すらない、
真実の己が姿を知っても尚、何の希望もないにも関わらず、
自己愛の微温湯に浸かるを耐え難いことと感じぬ、
絶望しかないのに絶望すら感じることが出来ない、
真理の種の育つ愛も光も注がれることのない世界に生きて来たからです。
不毛な心に生き続けるのは、死ぬまで支配し続けるのは、
ただ己が感情しか感じることのない条件反射しか持たぬ未熟な精神です。
そのような絶望から自らを救うことを望める心があるとすれば、
そのような心でも諦めないのは自分の心だから、
人の愛を信じる心に、人を愛する心に変えられるのは、
昇華させることが出来るのは心を支配している自己愛だけなのです。
真の救いが何であるか悟りさえすれば、自己愛こそが自らを救うものとなり得るのです。
自己愛ですら心を満たすことが出来たのですから、
真に素晴らしい心を知りさえすれば、そのような心を愛しさえすれば、
自らの心をそような心に変える真の愛を信じる自己を見出すことが、
そのような心を愛する自分を心から信じることが、
自己への不安から自らに執着せざるを得なかった、
無意識(盲目的)に自己保存に従う心(条件反射)の内に真理への愛を灯すことが出来た者は、
自意識から解放される、何ものにも捕われぬ自由な心の中に、
真に愛すべきものへの愛に満たされることでしょう。
真の愛に生きる人格へと成長することが出来るのです。
"自己保存について"
すべての人の心の中に在る自己保存という心(本能)を生かせるか否かは
理性に懸かっています。
本能を生かせない理性にあっては、本能を正しい方向に向けることがない、
ただ本能に従うことで満足する心に留まるならば、
理性に代わる悪(の霊)に導かれるしかない
(悪を拒絶する良心、理性を持たないのですから)。
良心に生きることを捨てれば、善我の破壊であり、永遠に偽我でしかない、
悪霊の世界に生きるしかないのです。
この世が人の自己保存(が社会悪の根源との認識を持つことなく)
から生まれる欲望によって社会が維持されているのだから、
それで生かされているのだからよいのだとする限り、
それを当然とする認識が世の中を支配する限り、
心を、魂を互いに思い遣る社会を齎すことは至難なのではないでしょうか。
しかし、この世に生きたすべての人々は、
やがては天の法の下に従わねば生存の許されない世界が待ち構えていることが
神によって明らかにされたのです。
その天の法に従う心をこの世で培うことが出来ないならば、
この世で幾ら力を持ち、人々を従い得た者も、天にあっては通用しませんし、
そのような心に生きる者にとっては、
神の心に生きる人々と共に生きるには耐え難い魂としてあり続けるしかないのです。
すべての人々が、真の価値(心が美しいこと、正しいこと、愛の中に生きる心であること)
を見出すこと、常に心の世界、魂の世界を真理の下に在らしめて来た
天の法(正法)に目覚めるなら、天の法の治める世界(天国)こそ
人が求めるべき世界であると理解出来るでしょう。理解しなければならないのです。
神々が、又天国にいる者が共に同じ人間であり、
彼等が悪意に満ちた、善への憎しみに満ちたこの世に生きる善男善女の心に
天の意志が善であることを明らかにされてこられたことを信じるなら、
この世に神の思いが、神の正義が現わされるものと信じられることでしょう。
善を信じ、善を求め、善に徹する意志を持った者なら、
必ず天の神々と心が繋がることを信じることが出来るでしょう。
"安楽に浸る心"
カリール・ジブラン著「預言者」 至光社刊
「家について」より(抜粋)
「家のなかに持っているのは何か。
戸を閉ざして、いったい何をしまい込んでいるのか。
平和を持っているか。あなたがたの力をあらわすあの静かな衝動、平和を。
思い出を持っているか。精神の高みに張り渡され、静かに光るアーチ、思い出を。
美を持っているか。木と石で造られたものから心を導き出し、
聖なる山に伴って行く美を。
私に告げよ。あなたがたの家にこれらのものがありますか。
それとも、あるのはただ安楽だけですか。
つまり、盗人のごとき、安楽への欲ですか。
それは、はじめは客として家にはいり、つぎには家の主(あるじ)になります。
やがてあなたがたを飼い馴らし、笞(むち)と棒を使いながら、
欲を集めて自分のあやつり人形をつくるのです。
絹の手袋をはめていても、その心は鉄。
子守歌であなたがたを寝かしつけます。
それも、寝床のそばに立って、肉の品位をおとしめ嗤(わら)うために。
健全な五官をもてあそんで、壊れやすい器(うつわ)のように真綿にくるみます。
まことに安楽への欲は、魂の情熱を殺し、やがて歯をむき出しながら、
魂の葬儀に加わる。
休息(安らぎ)にあって休息(安らぎ)を知らない、あなたがた空間の子らよ。
わなにかかるな、馴らされるな。
あなたがたの家は、錨(いかり)となるな、マストとなれ。
傷を隠すための派手な被(おお)いとならず、
目を護(まも)るための瞼(まぶた)となれ。
戸口をくぐろとして翼をたたむことなく、
かもいに打ち当てまいとして頭をかがめることもなく、
壁をくずすまいとして呼吸を止めることのないように。
死者によって生者にために造られた墓のなかに住むな。
どんなに立派で豪華であっても、家は所詮あなたがたの秘密も憧憬も守れません。
なぜなら、心にある無限なものは大空の栖(すみか)に住み、
その扉は朝靄(あさもや)、その窓は夜の歌、夜の沈黙なのですから。」
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(三) 偽りの愛
神の愛が人の心から邪悪な思いを、エゴイズムを削ぎ落し、天国へと導くものであると悟らず、
共産主義者は平等の名の下に、価値なき者にも平等に与えられるものと、
愚か者も等しく受け止め得るが如きものと、神の至高の愛を地に落としめますが、
真理を偽る悪魔の教え(共産主義)の前に理性を、良心を捨て去った者に、
真理への愛が育つことはありません。
「JI」83年8月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」171頁
「ある集いで新会員でしょうか、愛する価値のある者のみ愛せよ、
というメッセージは、学校教育の偏りを思わせる。
良く出来る生徒のみ偏愛する教師のようだ。
狭い考えではないかと、しきりに主宰の説明に反論しておりました。
知能レベルを問題にして、成績の良い生徒を喜ぶことと、
善意と智恵と天への信頼の度合いを問題とする、即ち道義の問題とは右と左の脳位の違いがあり、
ポイントを外れた反論であると説明しましょう。
親にとって子供はそれぞれ皆可愛いい。
しかし手に負えぬ子供を厳しく叱り、躾けることは親の義務であり、
子供にとっては親の盲愛よりも、叱られて良き社会人となるべき養分を与えられる方が良いことは、
賢明な人ならばよくお判りでしょう。
社会の基準を外れて、人の災いとなるような甘やかされた人格は、
社会に出て結局は世間から嫌われ、疎外されてしまうからです。
親の社会人の道義心が子供を叱り、躾ける理由であり、動機なのです。
教師も同じ。企業の雇用主もまた同じ。
そしてまた私達天上の者も同じ心を持ってあなた方を導いているのです。
それをしない、したがらない親も教師も雇用主も社会人としては欠陥を持ち、
その資格のない人格であるのは明らか(※)。
自らも社会への責任と義務を放棄しているのです。
天の善霊も同じ。
愛する価値のある者とは長上の智恵と助言を信頼して受け入れる、
向上心があり、善き心を持つ者を指します。
頑なで親や教師、その他あらゆる社会の秩序への復讐と破壊を企み、且つ
反省なき者を許し、放置しておく盲愛は、
左翼の教師が教える悪平等であり、悪の温床となる行為でしかありません。
迷える一匹の小羊を探せと私達は言いましたが、それは善良で力弱き者。
迷えるピラニアではないのです。」
(※注。
社会に於て上下関係が存在するにも関わらず、
上に立つ者に正しい指針を下の者に与える義務があるとは考えない
(自分を優位にする、他を苦しませる指針なら喜んで押し付ける者はいますが)、
自分を生かす正しい指針を上(良き先達、善我に生きる人々)から受け取ることの出来た者なら、
正しい指針に生きる者なら、それを正しいものと知るなら、
自らの生きる指針を人に伝えたいと思うでしょう。
その指針に生きる限りに於て自分は正しいのであり、
もし正しいと認められないとするなら、指針を否定せんとする者なのだから、
真に正しい指針を明らかに出来ねばならない筈です。
それをしない、出来ないならば、正しい指針であるが故に拒まずにはいられない、
偽我に生きる者であることを明らかにしているのです。
何故このような社会になったのでしょうか。
良き上下関係に於て初めて可能な真の教育、
そしてそれこそを目的とする義務教育の場から、
(日教組によって)道徳を、正しい心へと導く光を奪われたからです。
道徳とは何かを学ぶことは勿論、正しく導く者を求め従う心を養うべき時に、
与えられた生命を賢明に生きんとする
自然の恩恵である本能に生きる健全な精神を養うべき時に、
学ぶことが出来ず、悪い養分しか与えられないなら、
悪い心が養われるのは仕方がないのかも知れません。※注終)
「慈悲と愛」79年5月号初出 イエス様メッセージより
&「天上界メッセージ集」43頁
「天は何時も、人間を暖かく見守り、擁護するものではありません。厳しさもあるのです。
自分の子供を甘やかしてばかりいて、その子供がどのように立派な人間になれるでしょうか、
なれる訳はないのです。
子供を育てて行くには、時には厳しさも必要なのであり、ムチ打つこともまた必要なのです。
天上界は今そのことに気付き、最後の審判を行うことに定めたのです。」
「慈悲と愛」79年12月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」80頁
「古代ユダヤ人(びと)の信仰と智恵から出た言葉です。
ソロモン(エル・ランティ様本体)の箴言と言われています。
『子を懲らすことを、さし控えてはならない。むちで彼を打っても死ぬことはない。
もし、むちで彼を打ったならば、その命を陰府(よみ)から救うことが出来る。』
(箴言二三章十三節~十四節)」
"親の義務"
子を大切に思っているなら、悪を悪と思わないでいる子に、
心を痛めないではいられない筈です。
親に子への愛があるなら善を理解出来ぬ子を、悪から救おうとしない筈がないでしょう。
悪に打ち克つ善を教える為なら、悪を悪と思わぬ善に盲いた子の心を目覚めさせる為なら、
偽善者の批判などに屈することなく、子を鞭打つことも辞さぬ、強い愛を持たねばなりません、
偽りの愛に屈してはなりません。それが親の義務です。
間違っていることを認めない、人を傷付けてもそれが判らない、
人から同じことをされて傷ついても、
自分が人を傷付けた時には、そうと気付かない、決して認めようとしない、
そのような子供が、躾けられないままに人の親となって尚、それを悟らず、
己が子を同じように躾けることなく、人の心を救う真理も教えられず
(善の解らぬ者に、本当の愛が解る訳がありません)、
そのような親がたとえ子への無関心から暴力を子に振るうことがなくとも、
子を救おうとする愛のないことに何ら変りはないのです。
真の愛から出た行為ならば、必ず子の心を救うのです。
子の心に巣くう悪を懲らしめることが出来るのは愛だけです。
愛から出た懲らしめが、悪の心から出た暴力との違いが判らぬ者は、愛を貶めているのです。
子を悪から救う為に、子を掴んで離さない悪を張り倒すくらい何だと言うのですか。
子が善を信じる心を取り戻して尚、親の子を救わんが為に為した愛に、
何時までも心が癒えることがないなどあり得ないことでしょう。
【精神科の医者ですら、悪霊の憑依によるとは理解し得ず、
すべて本人の精神に原因を見出そうとするのですから、
何も知らぬ一般の人々にとって考えも及ばぬことでしょう。
悪霊の働き掛ける強い邪念の思いを物ともしない善なる精神を、
青少年の時代にはまだ養い得ていないばかりか、
最も霊の波動を感受し易いのもその時代なのです。
悪霊は人に悪を為さしめる、悪なる心に生きる世界を齎そうとします。
家庭を破壊し、人の心を荒んだものに変えようとするのです。
甘やかすことを寛容と履き違えてはなりません。
手遅れとなってから気付いても遅いのです。
どこまでも子を善導すること、子を悪の想念から、悪霊の支配から守る為には、
子の善なる心を導き育てるしかないのです。】
暴力を振るえば世間から叩かれるからと自己保身から
子への愛を躊躇(ためら)うようであってはならないのです。
愛を信じるなら、子を愛の知らぬ者にしたくないのなら、
左翼の偽善に、偽りの愛に怯(ひる)んではならないのです。
子の魂を救えないだけではない、子を人の魂を損ねる悪なる道に進もうとしていることすら
判らぬ者が親になれば子は不幸になっても仕方がありません。
そしてそれを助長させてきたのが左翼(メディアや日教組)であり、
人の心を(理解し得ぬ故に)問わず、暴力(革命はその最たるものであるのに)
はすべて悪であると力の前に委縮する魂を育て、
悪魔(に従う人々)の力の前に跪く者でありさえすれば、
暴力は振るわれないものと、力を恐れるに足らぬもの、
只従いさえすれば良いのだと思わせるのです。
(憲法九条を盲信する人々を見れば良く分かるでしょう。
自らの意志で立ちて歩めと言われた天上界の精神からは、
自らを悪の力に隷属することが身の安全と考える者は
魂に於いて滅んだ者、神の救いに値しない者であるとされる現天上界は、
聖書に示された神(天上界)と一貫して変らぬご性格であることがご理解頂けるでしょう。)
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(四) 不寛容
現象テープ№12 ①「正法を学ぶ人々の為に③ 善我と偽我について」より
79年2月1日 ミカエル大王様現象
&「慈悲と愛」79年7月号
&「天上界メッセージ集」58頁掲載
「善人であると自称し他にも強制的に認めさせる人もいます。
おおよそ徳と名付けられる事はすべて行い、如何なる法にも反せず細かい所まで正しいと思われ、
語られることはすべて為している。
完全な徳の持ち主で非難すべき所は少しもない、自分が正しく徳に適うことを為しており、
言葉に於ても行いに於ても非の打ち所がないが故に、他人の欠点やいたらない所が気になり、
叱らずにはいられない、文句を言わずにいられない、このような人も勿論善人とは言えません。
聖書では律法学者と呼び、一人で社会の掟と道徳を作っているような人で、
それがこの人の生き甲斐でもあるのです。
しかしこれとて裏面から見れば、
自分の納得がいく形で自己の完全主義的傾向を満たす為に行うのであって、
他人の思惑や感情などどうでもよいのです。
詰り、自分が他からなじられる非がなければよい、欠点や弱点がなければよい、
といった自己中心的な自己保存的な気持ちを一歩も出ていない偽我なのです。
少しでも過ちを為すと不安になる。
机が少し曲って置いてあっても真直ぐに直さないと気になる。埃が少し溜まっていても気になる。
すべてが完全な状態でないと気に入らない、強迫的な偽我なのです。」
「JI」83年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」162頁
「あなた方は、義に完全であって、落度なき完璧な人格を持つよう努めるよりも、
人間性を学び、従って互いに寛容であろうと努め、
思い遣りという優しい気持ちを互いに注ぎ合う方が、
より幅のある、心にゆとりのある人物になり得ることを、ここで確認しなければなりません。
中庸の徳とはそれを言うのです。
悪を許さぬ心は正しい心でありながら、そこに疑心暗鬼という偽我が忍び込む時、
病的に相手を悪と断じてしまうこと。
相手のすべての行動を善意と寛容で観ずに、狭量と悪意で観て結論を下してしまうこと。」
「義人の陥る偽我は、不寛容の悪であることをよく心して頂きたいと思います。」
「天国の扉(77年12月初版)」145頁 ラファエル様メッセージより
「しかし、良かれと願っても、人間間や社会に於ける歪みを正そうとすれば、
私達が悪霊と戦うように、時には人の心や社会に蔓延(はびこ)る悪の思いと
戦わなければならぬこともあるでしょう。
その場合にも、人間の崇高な精神である愛と慈悲に基づいた調和の心が根底になければ、
たとえ僅かな意見の食い違いも許し難く、互いの破壊を招くものとなるでしょう。
悪を憎み、正義の為に戦っている積りでも、寛容の心を忘れては、
徒(いたずら)に相手を傷付けるだけに終わるでしょう。
戦いと平和が相容れるものであるかどうかは、何時も大きな疑問を残してきました。
今、私が述べた事で、再びその疑問が浮かぶならば、天上界の尺度によれば、
悪の侵略の為に平和が脅かされるならば、正義の劔は取らなければならないと理解して下さい。
再び繰り返しますが、平和と調和は、言うべきことも言わずにお互いに甘い言葉を交し合って、
お互いの性格の不健全さも歪みもそのまま受け入れ、それが習慣になれば、
社会の歪みも黙認して個人個人がそれに合わせてしまう。
そうして、三次元の人間が十パーセントの意識と智恵が大半で
作り上げている社会がすべてであり、
地上のことのみが人生に於ける唯一の関心事になってしまう。
そう考えていられる方、そのように三次元の世界を理解していられる方があるとすれば、
それは正しい受け取り方ではなく、健全な判断ではないことを知って頂きたいのです。
寛容の心といっても、徒に許すことのみが社会に平和を齎すとは限りません。
悪と不正と不健全な考えをそのままにしておくことは、却って社会に混乱を招き、
精神の向上や文明の発展を遅らせるだけなのです。」
自らに於ても、他に於ても、悪に寛容であってはならない。
善が、調和が目的であり、
善我を見失った苦しみにある者には、善我から、寛容の心から対する。
反省なき者に慈悲を掛けることは、悪を助長することであり、
寛容であろうとするのは慈悲魔という悪であり、偽善に過ぎません。
「ヨハネによる福音書」第八章三節
「(イエス様がキリストでないことを示したいパリサイ人は、訴える口実を引き出す為に、
姦淫した女を捕まえてイエス様の前に連れ出します。
姦淫した者は、律法では石で打ち殺すことになっているが、
この女をどうすべきか答えさせようとします。
イエス様は応えてこう語りました。)
「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身を屈めて地面に物を書き続けられた。
(参考。
イエス様を罠に掛けんが為に、姦淫の女が必要となったのでしょう。
誘導されて罪を犯したところを女は取り押さえられました。
イエス様が地面に書き留めたのは、この人々の魂の犯して来た罪の数々であったと、
昔あるラジオ番組で松原正教授の語られたことが思い出されました。)
これを聞くと、彼等は年寄から始めて、一人一人出て行き、
遂に、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、
「女よ、みんなは何処にいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
「主よ、誰もございません」。
イエスは言われた、「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後は罪を犯さないように」。」
「JI」88年2月号 ガブリエル様メッセージ全文
「本誌十月号(一九八七年)から正法者間の不和と原因について、
例を挙げて忠告しておりますが、これも同時期に起こったらしく、
一人の世話役の規則無視を集いの主宰と他の世話役数名が責め立てて
とうとう正法への熱意を失わせてしまったという事件があったようです。
この集いは何時も問題が起こり、戒めてきましたが、
その近隣の集いメンバーが干渉しては内紛を起こさせた集いで、
その人物に耳を借さなければ良いのに、引きずられて自分達も影響されては、
同様の争いを起こしてお互いの(心を一つに立ち向かうべき真の敵を前に)
戦意を削いできました。
働きすぎ、栄養摂取が悪く不健康である。慢性の心身の疲れ ー
それらが相乗効果となり、神経が尖り、
普通は腹の立たないことにも無性に苛立ちが募る。寛容でなくなる。
正法者間の争いの大部分はそういった健康管理の不備に根差しているのは、
私もよく判っております。常にそのように助言してきました。
疲れている時は休み、どうしても限界を感じて、働きたくない時は、
テレビを観る、庭木の世話、ペットの世話、散歩、など気分転換を図り、
ストレスの解消をして下さい。歩紀柚衣さんもそのように書いています。
こういった人達は一体JI誌を読んでいるのでしょうか?
私達も編集には参加して、意見を出さなくても、
あなた方に役立つ内容のものを容認するようにしているのです。
JI誌は正法者の教材であり、参考書でもあるのです。
幾ら忙しいからと言って、私達のメッセージしか読まないのでは、
メッセージに直接書かないことは実行しないという生活方針になり、互いの足を引っ張り、
私達に背を向けさせる人をあなた方自身で産み出していることになります。
それでは幾ら熱心に流布に努めても何もなりません。
自分の健康管理も出来ないようでは自立した人格とは言えず、
天の一員となる資格も得られません。
規則に厳しいだけが正法者ではなく、常に慈悲と愛の心を忘れてはならないのです。
或る熱心な正法者が規則を破ったのは何が原因なのか、
せめてその集いの中に一人の寛容な心の持ち主があれば、
個人的に会って話し合い、その中から解決法を探り出し、
厳し過ぎる仲間を宥(なだ)めるだけの公正さを持って欲しいものです。
明らかに天に背き、法に背く人は糾弾すべきであっても、
小さなことを針小棒大に言い立てるのは、心身の疲れ以外に
嫉妬心という偽我に駆り立てられて一人の人を責めていると判断せざるを得なくなります。
悪霊も充分に働きかけているでしょう。
表面だけに捉われて正しい人の内面の悩みが見抜けないようでは、
正法者と呼ばれる資格はないと言えましょう。
私達に背を向けた知能高く、熱心な働き手であったその人と同じ失望を、
反って人民裁判のように裁いた集いの幹部の人々に、私自身が感ぜざるを得ません。
"つまらないことで、どうしてあのように責め合うのだろう。
責める側が人の躓(つまず)きになっているのが判らないのだろうか" ー
こう感じるのは、私のみでなく、
正しく正法を理解し、行っている人達が一様に口にした感想でもあるのです。
規則に反した人を責めるべきであるなら一人の人が直接会ってそうしなさい。
教師でさえ優れた子供を叱る時はそう配慮します。
子供が非行の故に人前で咎める時は、他の子供の影響を考えて、
正しい言葉で正しい叱り方をするよう心を配るでしょう。
闇雲に大勢で一人を責めるのはリンチと呼ぶべき無謀な行為であり、
良い結果は得られません。
正法の為に共に働く仲間を小さなことで追い立てるのは、八正道に沿った行為ではないのです。
心して今後はそのような内紛は起こさないようにして下さい。」
〖備考
コロナ禍で、マスクをしない者がいたとしましょう。
自分はマスクをしている(マスクの効果はさておき)ならば、
人がマスクをしていなくとも安全であるとします。
(マスクをする効果がなければ、人にマスクをしろと言えないでしょう)
しかし、周りの安全を脅かすことを、人を不快にすることを気に掛けないこと
(は、正しくないことは言うまでもないことです)が許せない、
だからマスクをしない者を非難しないではいられない(これは不寛容です)。
マスクをしない者がコロナに罹っているならば、明らかに悪ですが、
彼が何の病気にも罹っていないとしたら、どうなるでしょう。
単に人を思い遣る心のない者に過ぎないのではないですか。
そのような、人を不快にさせる者が許せない、非難せずにはいられない心は偽我なのです。
寧ろ、このような時代にマスクをしていなければ、
不寛容な人からどのような目に遭うか分からない故に、
又、マスクをしないことで感染して苦しむことを気遣って諭すのならば、
人も聞き入れるかも知れないですね。
その者がコロナに罹っているか否か判らない故に、
不快な思いから寛容の心を失ってしまったのかも知れませんが、
自分はマスクをしており安全が脅かされていないのに、
自分と同じ考え(社会常識、価値観)に従わないのが許せないのなら、
不寛容の偽我から来る感情であると思います。
(先のイエス様の話のように、
自らの善を誇る、受け入れようとしない者の悪を暴かずにはおれない、
そのような心に生きる愛のない正義は、正義と共にある善を愛する心を守るのではなく、
人自らの自我を守る為に武装する偽善に過ぎません。
偽善に生きる者は、欺瞞を見抜けない偽我であると覚ることも、
真理に向き合うことも出来ません。
悪に生きながら己が善を誇る偽善者という存在を知りながら、己が良心を盲信して、
悪に生きようとする、罪を犯そうとする偽我(悪魔の心)を隠し持つ人間の弱さを
他人事と高を括る、己を知ろうとしない者を導く悪魔に喜んで従う偽我を、
自らが内に持っていることを怖れることもありません。
人と対立すれば、相手が間違っていることを証明しようとする。
それで自分が正しいと証明されれば満足する。
裁く者も裁かれる者も、常に自分が正しいことが、
相手が間違っていることが証明されれば満足する、
そのような正義は神の正義ではない。
自らを問うことを知らない、ただ自分が守られさえすれば正しいと信じるに過ぎません。)
子トラが檻から出ただけで、射殺するようにマスコミが世論を誘導し、
権力を行使し、機動隊、ハンターを動員し、射殺する。
これほどの不寛容が理解出来ないのが現代を生きる日本国民です。
己が肉体の生命を大事に思う余りに、魂(善我)を損なっていることが判らなくなるのなら、
生命に執着する偽我に原因があるのであり、偽我にあって愛や正義や思い遣りを主張する時、
それは善我の持つそれらとは相反する偽善であることを、
真理の名の下に善我を騙し、自己保存(自己主張を通すことも)
の偽我に生きることに喜びを得ているのです。
人を思い遣っているつもりで、何の愛も寛容の精神もない、
人を攻撃することに喜びを見出す共産主義者の偽我と変る所がありません。備考終〗
"不寛容とは、自らは悪がない、罪を知らないとの自惚れから、
人の悪に、罪に苦しむ心に、憐れみの思いの生まれることのない、
罰する、虐げるを、正義と喜びとする非情な心の姿です"
義務を果たそうとしない他は咎めるが、自らは咎めることがない、
人には不寛容で、自らには寛容である者とは、寛容とは如何なる心か知らないのです。
寛容とは、人の中の善なる心への信頼です。
そのような心へ手を差し伸べるやさしさの表れです。
慈愛が注がれた心、善を滋養に育った心に善の思いが実るのであり(それが自然の摂理です)、
善への望みが善なる心の自然の思いであり、そこには自ら強いる思い
(自らの立場を守らんとの自己保存から来る義務感)はない、人に強いる思いがない、
人への信頼、愛を受け止める善なる心への信頼故に、人の善なる心に伝わるものです。
義務感で為すことが出来ても、愛は生まれません。
愛のない、人への思い(思い遣り)のない、人の心に届く思いのない行為に
虚しさを覚えない心は、真の愛が与えられたとしても、その愛に目覚めることのない心です。
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(五) 嫉妬心
「JI」83年9月号初出ラファエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」173頁
「今月は人間の心の中に一番根強く巣喰う偽我、嫉妬心について再びお話ししたいと思います。
それは競争心や向上心にも繋がるものですが、
動物の社会に見られる首位争いの表れでもあるのです。
人間も動物である以上、同じ動物的な本能が人間をボスの地位獲得に駆り立て、
往々にして本人が気付いていない場合に自制心を忘れて、
醜いまでの心情を行為として表すようになります。
背反の心も、私達や千乃様への反抗心も同じ。
他の人の持つ物を妬み、自分が首位の座を得たいと思う心に他ならないのです。
この嫉妬心は特に、相手と比べて自分が同等或いは、
自分の方が優れているのに不当にも下位に甘んじているという思い込みがある時、強く働き、
自身の勉学や技能を磨くことによらず、短絡的な方法 ー
即ち背反や反抗心、反撥する態度から失脚を願って悪口を触れ廻る。
時には殺人という暴力にも訴えて地位の交替を計るのです。
相手に落度が無い場合は嫉妬が動機と活力となり、自分を相手が不当に扱ったと考える時、
嫉妬の炎が復讐心に変わるのです。
このように嫉妬は破壊的要素を持ち、天のメンバーとなるならば常に自制しなければならない、
マイナスの感情です。天には受け入れられぬ感情です。
又"あのように優れたものを身に付けたい"、
"あのように智恵と判断力を備えられるように学びたい"と羨む心から、
競って向上する方がプラスになり、建設的要素を持ちます。
あなたの心の中に嫉妬心の存在を認めたならば、兎に角自身の向上の為に学びなさい。
その中にマイナスの感情は消失するでしょう。
他人を蹴落として上位に昇進をと望む心はあなた方の俗世間には通用しても、
私達には通らない考え方。
魂の研磨の妨げにしかなりません。
謙譲とは無縁の動物的な感情でしかありません。
嫉妬は誰もが持つ考えだから構わないのではないかと容認する意見は慈悲魔であり、
正法とは何かを知らない者です。」
(注。
優れた者を評価する社会だから、向上した者は報われると信じられるから、
人は努力することが目的に適った正しい生き方として迷うことなく生きられるのでしょう。
劣った者が優れた者を妬んで引き摺り下ろす、そのような者を受け入れるような社会では、
正直者がバカを見るような社会では、健全な心が養われる訳がありません。
偽善者であろうが多数が正義といえば如何なる手段も正当化されることを謳った社会、
共産主義は神の心に抗う悪魔の心に生きる社会であるということです。)
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(六) 姦淫
「JI」82年11月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」159頁
「今日は"姦淫するなかれ"という戒めについて、真の意義をお教えしたく思います。
現正法は正しく私達天の法を介して、極端に走る思想や行為を戒めております。
人間間の愛情が恋愛感情に発展する時も同様に、
恋愛は自由であると思い違いをして、
愛の溢れるまま何等理性でそれを制する努力を為さぬらば、
(注。
愛は理性であると天上界の伝えようとされる所はここにあります。
自らの愛が人に不幸を齎すならば、その愛は真の(理性の齎す)愛ではない、
それを悟れないならば、人は理性(神の心)に生きていないということです。)
それは一つの過ちとなり、悲劇で終わる場合が却って多いのです。
未婚の者同士でも、社会には制約があり、その制約を踏み越えても互いが愛を失わず、
周囲もそれを暖かく理解し、受け入れるならば、誰も傷付くことはないでしょう。
しかし現実は、男女の考えの相違や心理的な変化が、
自由な恋愛を何時も成功には終わらせないのです。
互いを愛するならば傷付けぬこと。不幸にせぬこと。
それをまず第一に考慮するものでなければ、愛とは言えず、
一時の遊び、好奇心、欲望の満足の対象としてしか相手を見ていないことになります。
未婚の者の自由恋愛は"姦淫"とは言いません。
しかし何れかが既婚であるか、何れかが配偶者を持つ場合、
それは社会が許さぬものであり、お互いをより傷付け、
又、幸福な家庭を壊す場合は、二人のみでなく多くの人を不幸に突き落とすことになるのです。
現正法はまず第一に"人の幸せを願い、思い遣ること"なのですから、
社会の制約が厳存し、お互いのみならず多くの人を傷付けるならば、
愛がたとえ心の中に芽生えたとしても、自分で厳しくそれを摘み取らねばならないのです。
相手の幸せを願い、思い遣るならば、自らの愛と良心、善我に掛けて、
相手を傷付けることは出来ない筈です。
その意識がなく、エゴイスティックな愛を強要する相手は、
勿論悪と見做し、斥ければ良いのです。
どうしてもあなたへの愛を断ち切れない人は友人とすれば良いでしょう。
人の幸せを奪う行為は盗みにも等しいものです。
たとえ二人が合意しても、"第二の死"が裁きとして二人に与えられます。
しかし私達は、一旦夫婦となるならば、如何なる理不尽な言動にも耐えて、
子供共々不幸と苦しみに喘ぐ生活を強制する相手と永遠に絆を断つなとは言いません。
真の愛が通じぬ、
人間として価値なき人格に繋がれて共に地獄への道を歩む必要はないのです。
如何なる場合も離婚を禁ずるという一部キリスト教宗派の戒律はサタンの束縛であり、
人の苦しみはサタンの喜びそのものであるからです。」
【備考1
この天の戒めのメッセージが死刑判決の如き重みを以て受け取らねばならぬ人々が、
上流階級から下々に至るまで如何に多いことでしょう。
何故神が戒めを与えて来られたのか。
その知識があるないに関わらず戒めを踏み越えた人間は、
神の平和を自ら捨てて得た如何なるものも
自らの滅びを知る良心の絶望を拭い去ることの出来ぬものであることを
シェークスピアはその作品に明らかしました。
「ハムレット」の中に、父ハムレット王の弟(現王クローディアス)
に殺された父の仇を討とうと機会を窺っていた王子ハムレットが、
罪に苦しむクローディアスが神に懺悔している所を見付け、
復讐を遂げる絶好の機会を迎える場面(第三幕第三場)があります。
ハムレット「いまならやれるぞ、祈りの最中だ。
やるか。やれば奴を天国に送りこみ、復讐は果される。
待て、それでいいか。悪党が父を殺した。
そのお返しに一人息子のこの俺が、その悪党を天国に送る。
これでは雇われ仕事だ。
父上は、この世の欲にまみれ、あらゆる罪が五月の花と咲き誇るさなかに、
奴の手にかかって非業の死を遂げられた。
神の裁きが如何なるものか、我々に知る由もないが、どう考えてみても軽いはずはない。
それなのに、どうだ、復讐したと言えるか、
祈りに魂の汚れを清め、死出の旅路の用意(※)の出来ている奴を殺して?
ばかな! 剣よ、身を潜めて時を待て。」
(中略)
「何時でもいい、救いようのない罪業にうつつを抜かす時こそ、奴を突き落としてやる、
その踵が天を蹴り、その魂が地獄へと真っ逆さま、忽ち地獄のどす黒さに染まるように。」
シェイクスピアの合体霊であるラファエル様は、
父エル・ランティ(神エホバ)様と実弟のダビデ(サタン)の関係を
ハムレット王と弟クローディアスに暗示させ、
王子ハムレットに神の御使いである彼等大天使達の思いを代弁させたかのようです。
悪人も善心に立ち返ることはある。
その時、その者は善人であると言えるでしょうか。
言えないのです。
善なる心に立って、生きなければ、悪に立ち向かうのでなければ。
そのように生きぬ者は又、必ず悪人に戻るのです。
善なる心を持つことだけで満足してしまう者は、自我の存続が脅かされでもすれば、
立ち所に自己保存の偽我に生きようとする、
神の前に自分を棄てること(自我への執着から離れ、真理に、神の法に従う、
神の御前に在って喜びとする善我に立ち返るということ)はありません。
悪との戦いが苦しみを、不幸を齎しても、
決して善の心を見失わなかった者だけが善人なのです。
悪の心へと誘惑するものに、心を許してはならないのです。
悪なる心によって得たものを、
それに執着する心を棄て去った者が善に生きる者と言えるのです。
ハムレット(悪と戦う天上界の思いでもある)は正義が顕れねばならない、
私怨を晴らすことでそれを妨げてはならぬとの思いから、
復讐のみに生きることを思い留まるのです。
神の裁きから逃れられようのない罪の重さに、苦しみに耐え切れなくなったクローディアスは、
神の慈悲に縋ろうと、神の前に罪にまみれた心をさらけ出して告白します。
クローディアス「この呪われた手が、兄の血にまみれて硬くこわばっていようと、
それを洗い清めて雪の白さにする恵みの雨が天にはないのか?
人が天に祈るのは何の為か、一つは罪に落ちぬよう、
もう一つは罪に落ちた者が許されるよう祈る、そうではないか?
とすれば天を仰ごう、殺した罪は過去のものだ。
だがどう祈ればいい?
"忌まわしい人殺しの罪を許し給え"?
だめだ、それは。
人殺しの罪を犯した結果、手に入れたものを今なお身に付けていて、
王冠も、野心も、そして王妃(注。兄を殺して得た兄の妻)も、
未だ手放さずにいて、その罪が許されようか? 」
(中略)
「ではどうすればいい? どうすれば?
悔い改めれば、そう、悔い改めればすべては許される。
だがもし悔い改めることが出来ぬとすれば?
ああ、惨めな! 死のように黒いこの胸の内!
鳥もちにかかった小鳥同様、もがけばもがく程自由が失われる!
力を貸し給え、天使たち!
やってみるぞ。曲げるのだ、固い膝を。
鋼鉄の心も生まれたての赤子のように柔らかくなってくれ!」
このような悲痛な叫びを聞いても尚、
心の目覚めることのない、悪に身を委ねて得た罪の実を味わっていられる者は、
神の心を捨て去った者と天に思われても傷付くことのない偽我に生きているのでしょう。
互いに姦淫を許す者は、内なる邪悪を隠し、相手に見せまいと
相手を騙す心にあって、気付かない、痛む良心がない。
そしてそのような心に互いに惹かれ合う、
そのような心に互いを縛り合う欲望に生きる者には、
互いを自由にさせることを願い、ただ愛を大切にする信義で繋がろうとする、
真の幸福な関係に生きる世界(神の国)が存在するとは想像も出来ないことなのでしょう。
これまで自分を信じてきた人々を忘れ去る。
信義を裏切ることが悪徳であることすら知らないのです。
人を傷付ける、裏切る偽我(悪を許す心)とは、
何も傷付けよう、裏切ろうと自ら邪悪を求めての行為だけではありません。
そのような行為を行っていながら、気付くことがない、受けた者の苦しみが伝わらない、
慮る心がない、そのような悪の想念に支配された(悪徳にしか惹かれない)心も偽我なのです。
たとえ意識していなくとも、自分を信じてきた人の愛を貶めながら、
それが解らぬ冷酷な心も、(自らの神の愛・善我をも踏み躙る)偽我なのです。
「正見」を理解していながら、心を正しく見ることが出来ないのは、
真理が如何なるものかを知りながら、真理に生きぬ者と同じ、
そのような徳(信義)に生きようとする心を持たぬ者と天が繋がることは決してありません。
自己愛にしか生きられぬ、天の愛に背を向ける者です。
(※注。
天の裁きが絶対であるというのは、
裁かれる人間の自己弁護によって天の判断が変る余地はない、
天の裁きを認めまいとする人間の弁明が如何なる心から来るものか、
天は知り過ぎる程知っておられます。
死を前にして心を浄める、死出の支度を整えることの教えんとする所は、
生きている内に心を浄め得なかった、
神の愛を受け入れることのなかった魂を受け入れるような神ではないことを、
人は忘れ去って生きているからでしょう。
死を前にして心を浄めればよいと、
そのようなことで清め得るものでないことは言うまでもないことです。
悪を悪と認めることのなかった心に、悪に打ち克つ善なる心は持てない、
善なる心無く、清められた心など存在しないからです。
神の光に己が偽我を明らかにされて、天に於て最も小さき(低き)者とされた時、
そのように生きてきた者に、天の裁きに素直に従う善なる心が残っているでしょうか。
自らを正しとする増上慢が、
それまで現天上界を真に神と仰ぐべき方と理解していた正法者の心を、
悪魔の心に変えるものであることを、
天に背反した者達の存在によって知らされました。)備考1終】
【備考2
容姿の綺麗な女優さんなどの不倫が取り沙汰されると、
容姿の美しさや、演じられた役柄や、見せかけの人間性に惑わされてきたことを覚れず、
不倫すらも躊躇しない心の表れを知るに及んでも尚、
内面への鈍感を己が心の寛大さと勘違いされているようですが、
「ドリアン・グレイの肖像」のように、もしその心根が容姿の上に現れたなら、
きっと正視するに耐えられないことでしょう。
庇うことが善意と思っているのでしょうが、
そのような社会基準(風潮)が不倫(姦淫)を罪と認めようとしない誤った判断基準を与え、
罪を罪と思わないまま修正の効かない人格と成り、天に裁かれる者となれば、
罪を諭すことなく甘やかした社会(の偽善を後押しした人々)は、
天の法に背くという罪を人に犯させたことになるのです。
天の法を知らなかったという理屈は通りません(「第二章 最後の審判」に詳述)。
目に見えなくとも、心の美しさこそ、真にその者の人間性を示すものです。
その人間の価値とすべきものです。
目に美しいと映るから愛してきたのでしょう?
ならばその人の心が醜いものと解かろうとも、
見た目の美しさが変らないのだからこれからも愛して行けるのですか?
容姿さえ美しければ、心など問わないと言うのなら、
寧ろ醜い心の方が居心地がいい人なのでしょう。
自分とは何か、それに応えられるのは心以外にない、誰もそれを否定出来ないでしょう。
あなたの心が苦しみから、悲しみから逃れられない時に、
あなたの上辺しか知らない、上辺だけで人を判断する人々の賞賛が、尊敬が
苦しみから逃れられぬあなたの心に何が伝わるでしょう。
あなたの求めてきた人々の尊敬が愛が、あなた自身である心に何も伝わらない。
人々があなたに寄せた愛も、自己愛から出た見せかけの愛に過ぎないことは、
解り過ぎる程あなたには解っているのです。
心に響くものなど何もないのが偽りの愛であることを、あなたは知っています。
人々の心無い行為に苦しめられれば、法律で裁くことが、
法律で守られるように世の中を変えてゆくことが出来るでしょう。
しかしあなたの心が自ら堕落して行く、真理に、神に背いて行く時、
あなたの心を救い得るものは何もないのです。
真実の己とは、心以外にない、一人の例外もありません。
どうすれば自分の心を(幸せな思いに)変えられるのか、
それどころか自分の心の真実の姿も解らない、
そのような心を自分自身で作ってきたことも、そうなった原因が、
すべて自分で望んでのこと、自分の意志でそうなったことすら理解出来ないでいる。
心の目で見ないからです。見ようとしないから見えないのです。
自分の心が美しくても人々は容姿の美しい人の方を愛する、
心が醜くても言動に表れなければ人に覚られない、本当にそうでしょうか。
肉の目に美しく映るものが、それがあなた自身であると、
そのようなあなただから愛するという愛が、あなたの心を愛に留めるでしょうか、
愛を見出し、愛に生きる心へと変えるでしょうか。
あなた自身が心を顧みずに、真の幸せを知ることが出来ると信じているのでしょうか。備考2終】
【備考3
不倫ですら第二の死が与えられるのが天の法ですから、
強姦(婦女暴行などとオブラートに包んで何が守れると考えるのか)
などは情状酌量の余地なしですが、
肉体に於てしか殺人は認められていないのがこの世の法ですから、
死刑にはならないでしょう。
しかし天の法に於て、極刑に値する罪(人の魂を殺すに等しい)であることを知るなら、
この世の法に於ても、即断罪とすべきなのです。
魂の存続が許されることの絶対にない者を、哀れに思う気持ちがあれば(なくても)、
一刻も早く解放(肉体の死に続き、天により魂は即時に消滅される)
してあげることだけが救いではないですか。
消滅と知った者を生き永らえさせるなど、拷問以外にないでしょう。
自らの破滅を齎すことも悟れぬ、
欲望を満たすことしか考えないエゴイストの情欲の火を消すことが出来るものがあるとすれば、
その罪の重さを知らしめる天の法の厳しさしかないのではありませんか。
魂の存在も確信出来ないこの世の法が人の心を、魂を犯すことに対して、
生ぬるい罰しか与えないから、
天の法を守らんとする、即ち人を悪に苦しめられることから守ろうとする
(また人が悪の観念に負け罪を犯す、
その者を愛してきた人々を裏切る、打ちのめす、絶望に追いやる、
たった一人の罪によって、多くの人々を地獄の苦しみに突き落とす、
そのような悪魔の支配から人々を救おうとする)
天の正義にまで善なる意識を高められることがなかったのがこの世の認識であり法なのです。
人に魂があることを、その魂を救おうとする神が、
その魂を破滅させんとする悪魔が存在することをこの世は知ろうとしない。
この世にあって己が魂を汚すだけなら罪に問われないかも知れませんが、
悪魔に支配された魂はこの世の人々を罪に導く、天の救いに抗う故に天の法を犯す者なのです。
この世の法を天の法に従わせることが、人類の真の救いとなるのです。備考3終】
〖参考
この姦淫についてのミカエル大王様のメッセージを読んでいた時、
ハムレットの物語の中のクローディアスの懺悔のシーンが何故か心に浮かびました。
どういう意味なのか解らず不思議に思って、
三十年以上昔に読んだきりのハムレットがまだ残ってたのでその箇所を見た時には、
とても驚きました。
このエッセンスはわかってから書いたものより、
解らず話が続かなくなってあれこれ考えてやっと解ったのが積り積って出来たのですが、
「あなた方が考えても考えても分からぬように、私達も考えなければ分からなかったのです。
考えなければ何も分からない。」、
「何かほしいと思うならば、求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。
門を叩きなさい。そうすれば開けて貰えるでしょう。
あなたが望むものは、すべて用意されており、
あなた方が質問するものは、そのまま答えとなって、弾き反ってくるでしょう。」と、
現天上界の神としてそのように語られたイエス様は、
今人類に働きかける紛れもない唯一の天上界の神である、
キリスト教も仏教も、現天上界が教え導いたものですが、
現天上界が今導いているのは、現正法を通してである
(如何なる宗教団体(指導者)も、人々(信者であろうとも)と直接に繫がることを望まれる
神の前に立ち塞がることは許さないことを、
神に背く宗教は悪魔に従う邪教と見做されることを伝えられています)
ことを証することが出来ればと、書くことにしました。参考終〗
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(七) 悪徳
「JI」81年3月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」132頁
「動物界にとって性の乱れはなく、近親相姦、乱婚と見えるものもすべては
何時襲われるとも知れない生命の危険の中での"種の存続"の智恵なのです。
それを動物と蔑むことは出来ません。
然るに保護された社会で、人間は互いに何を馴れ合って堕落を容認しているのか。
古代に於て人類は、家畜の如くそれを不要な快楽であるとは知りませんでした。
だから神は許し、教え導いたのです。
これだけ知性の開発された現代に於て、
まさか人々は種の存続の為に快楽を貪りたがっている筈はないでしょう。
それを許容させようとする社会の傾向並びに声を大にして誘惑的言辞を弄する左翼団体は、
マスコミも含めて逃れようのない罪です。
(注。
知名度の高い者であれ、関心の持たれている者であれ、精神が歪んでいる、
病んでいることが明らかな者の言動を以て
常識ある人々を刺激することで報道への注目を向けさせる、
自分達の提供できる得意な、俗的な話題に引き込むことで利益を得る、
低俗なメディアとして生き延びる、
そして人々の意識を神に、真理に向かうことを阻む、人々を低俗な意識に繋ぎ止める。
マスコミが悪霊に意識を支配されている証であり、悪魔の企みを実現しているのです。
人々の意識を堕落させ神に背かせる、悪魔の破壊行為であり、天の法を犯す者達です。注終)
極端になりつつある快楽的嗜好、傾向が愚行であり、
自然に反し、不要のものであることを知らぬ現代人に天は再び教えねばならないでしょうか。
ユーモアとそういった不健全な嗜好、傾向とは別物です。
動物に比べ、劣性であることの証明、即ち悪徳のもう一つは、殺戮嗜好、残虐嗜好です。
動物は身を守る為に戦い、生きて行く為だけに殺し、それを食う。
人間はそれを快楽視している自分に気付かない。快楽の為に動物を殺し、人を殺す。
古代人と同じく、現代の無知な人々(何を為すべきか、為さざるべきかも心得ていない)
に天は再び判り易い言葉で教えましょう。
"種の存続の為に ー 戦うを嘉しとし、快楽の為に殺すなかれ"。
"天は少しも人類を動物以上の優れた種とは見做していず、
動物界でも下等なレベルの生き様をしか生きぬ恥ずべき人間が増え過ぎている。"
"人よ、謙虚に自然を見習え"と。
キリスト教徒が頑なに"神は万物を創造し給うた"と主張し続けるならば、
神、即ち私達は劣性の種である人類を不要のものとして滅ぼし、或いは滅びに任すでしょう。
"神はすべてを与え、又、奪い給う"の言葉通りに。」
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
十節 偽我から生まれる観念
(八) 執着心
それまでの執着心が消えた時にそこにあるのは、
執着してきたものへの思いと、
その為に生きてきた人生を無にしたといった後悔や喪失感ではなく、
自由が何であるかを知る解放感であることを知るのは、
実際に執着心から解放されないと解らないことかも知れません。
愛着心に愛はありません。
自然の法に従う(自己保存の)本能に生きてきた動物は、無意識に法に従って来ました。
生きるに必要なものは常に(水も空気も光(熱)も、それらを養分として取り入れる機能も、
生きんとする意志(本能)さえも)自然から与えられるのであり、与えられずして得るものはなく、
本能に従う意識しか持ち得ない、本能に刺激されなければ意識されない、
それで生きて行けたからです。
人類が他の動物から進化し、自然からではなく自分によって得る者となった時、
無意識に本能に従うことから、自分に何を与えれば満足するかを意識するようになったのです。
自己愛を満たすものを与えるようになりました。
自己愛を満たす(欲望に生きる)、自己を意識し続ける心に、執着する心に変えるのです。
故に他を顧みぬ自らへの欲望に生きる限り、執着心の解かれることはなく、
思いをかける対象に自由を与えるという相手の望み、喜びを感じる余裕もなく、
心の通じ合うこともありません。
執着心から解放されれば、
執着心は人(対象)から幸せを奪うものと痛感されるものですが、
執着している人は苦しみから逃れようと、もがくほど執着してゆくのです。
対象を失いたくない、失えば不幸になるとの被害妄想に囚われるのでしょう。
偽我に生きれば、精神が病んでゆくのは仕方がないのです。
執着心がなくなった時の解放感を知れば、執着することで人は幸せを得ることはなく、
執着を離れることが人の求めるべき幸福への道という、
当たり前のことを受け入れさせなくしている執着心の恐ろしさを改めて感じることでしょう。
自由な心を得れば、人にも自由な心を見出して欲しいと願うでしょう。
自由を知り、真の喜びを知れば、人を縛り、従わせようといった支配欲や、
(執着の対象である)人の気持ちを顧みることなく、
自分の望んでいる姿が、その人のあるべき真の姿なのだと盲信し、
人に押し付けようとするエゴイズム、ナルシシズム(ご都合主義)の愚を覚れるでしょう。
執着心は自由を奪うものであると知っても、執着心を捨てられないのは不幸なことです。
正しく生きるとは、悪の力を弱め、善に生きる力を強くしてゆくものです。
正しい道を行けば、何時か必ず執着心から解放され、真の自由な心を得られるでしょう。
天上界はその道を示されています。
〖参考〗
"嫉妬心"
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 119頁
「犂牛(りぎゅう)の子」
子いわく、雍(よう)や南面(なんめん)せしむべしと。
仲弓(ちゅうきゅう)、子桑伯子(しそうはくし)を問う。
子いわく、可なり、簡(かん)なりと。
仲弓いわく、敬(けい)に居(お)りて簡を行い、
以(もっ)てその民に臨(のぞ)まば、また可ならずや。
簡に居りて簡を行わば、すなわち大簡(たいかん)なることなからんやと。
子いわく、雍の言(げん)しかりと。 ー 雍也(ようや)篇 ー
ある人いわく、雍や仁にして佞(ねい)ならずと。
子いわく、いずくんぞ佞を用(もち)いん。
人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てし、しばしば人に憎まる。
その仁なるを知らず。いずくんぞ佞を用いんと。 ー 公冶長(こうやちょう)篇 ー
子、仲弓をいう。いわく、犂牛(りぎゅう)の子、
騂(あか)くして且(か)角(つの)よくば、
用(もち)うることなからんと欲すといえども、
山川(さんせん)それこれを舎(す)てんやと。 ー 雍也(ようや)篇 ー
「仲弓(ちゅうきゅう)には仁君(じんくん)のふうがある。
南面(なんめん)して天下を治めることができよう」
孔子は、このごろ、仲弓に対して、そういった最高の賛辞をすら惜しまなくなった。
仲弓は寛仁大度(かんじんたいど)で、ものにこせつかない、
しかも、徳行に秀でた高弟(こうてい)の一人なので、
それがまるで当たっていないとはいえなかった。
しかし、それにしても、ほめようが少し大げさ過ぎはしないか、
といった気分は、門人(もんじん)たちのだれの胸にもあった。
仲弓自身にしても、なんとなくうしろめたかった、彼は孔子がかつて、
「(※1)道にかなった忠言(ちゅうげん)には正面から反対する者はない。
だがたいせつなことは過(あやま)ちを改めることだ。
婉曲(えんきょく)な言葉はだれの耳にも心地よく響く。
だがたいせつなことは、その真意(しんい)のあるところを探ることだ。
いい気になって真意を探ろうともせず、表面だけ従って過ちを改めようとしない者は、
まったく手のつけようがない」といったことを思い起こした。
孔子はあるいは、自分を「仁君のふうがあるとほめて、
その実、何かの欠点を婉曲に諷刺しているのではあるまいか。
そういえば、世間では、子桑伯子(しそうはくし)と自分とを、
同じ型の人物だと評しているそうだ。
子桑伯子は物にこせつかない、いい男だが、少し大ざっぱ過ぎるきらいがないでもない。
あるいは自分にもそんな欠点があるのではなかろうか。
自分だけでは、そんなことがないように気をつけているつもりではあるが。ー
彼はそんなことを考えて、ほめられたためにかえって不安になるのであった。
かといって、孔子に対して、
「そんな遠まわしをいわないで、もっとあからさまにいって下さい」ともいいかねた。
もし孔子に、諷刺の意志がないとすると、そんなことをいい出すのは、
礼を失することになるからである。
で、彼は、ある日、それとなく子桑伯子についての孔子の感想を求めてみた。
彼は、もし孔子に諷刺の意志があれば、
子桑伯子のことから、自然、話は自分の方に向いてくる、と思ったのである。
ところが、孔子の答えはきわめてあっさりしたものであった。
「あれもいい人物じゃ。大まかなところがあってね」
孔子の口ぶりには、子桑伯子と仲弓とを結びつけて考えてみようとする気ぶりさえなかった。
仲弓はちょっとあてがはずれた。そこで、彼はふみこんでたずねた。
「大まかも、大まかぶりだと思いますが …… 」
「うむ。で、お前さんはどうありたいと思うのじゃ」
「平素敬慎(けいしん)の心をもって万事を裁量(さいりょう)しつつ、
しかもことを行うには大まかでありたいと思います。
それが治民(ちみん)の要道ではありますまいか。
平素も大まかであり、ことを行うにも大まかであると、
とかく放慢(ほうまん)に流れがちだと思いますが …… 」
孔子は、黙ってうなずいたきりだった。仲弓はものたりなかった。
だが、仕方なしに、それで引き下がることにした。
ところが孔子は、あとで他の門人(もんじん)たちに仲弓の言(げん)を伝えて、
しきりに彼をほめた。そしてふたたびいった。
「やはり仲弓には仁君(じんくん)のふうがある」
仲弓はそれを聞いて、ひどく感激した。
しかし彼は、それでけっして安心するような人間ではなかった。
彼は、自分が孔子にいった言葉を裏切らないように、
ますます厳粛(げんしゅく)な自己省察(せいさつ)を行うことに務めた。
彼はかつて孔子に「仁」の意義をたずねたことがあったが、その時孔子は、
「(※2)足一歩門外に出たら、高貴の客が目の前にいるような気持でいるがよい。
人民に仕事を命ずる場合には、
宗廟(そうびょう)の祭典にでも奉仕するようなつもりでいるがよい。
そして自分の欲しないことを人に施さないように気をつけよ。
そしたら、邦(くに)に仕えても、家にあっても、
怨(うら)みをうけることがないであろう」と答えた。
仲弓は、孔子がこの言葉によって、
彼に「敬慎(けいしん)」と「寛恕(かんじょ)」の二徳を教えたものと解して、
「きっとご教訓を守りとおします」と誓ったものだ。
彼はその時の誓いを、今でもけっして忘れてはいない。
ほめられればほめられるほど、戒慎(かいしん)するところがなければならない、と、
彼はいつも心を引きしめているのである。
(注。
高次元が合体霊(生まれ変わり)であると聞かされて、
慢心するような者に高次元が合体している訳がなく、
悪霊に唆されて真に受けた者は、増上慢という偽我に蝕まれて行きました。
真に高次元の霊や名を残した立派な霊が合体していることを
天上界が人に伝えられるようなことがあるとすれば
(それを聞かされて慢心するような愚か者などにではなく)、
合体霊の善なる思いを謙虚に受け止め、反省し使命に目覚める時であり、
また悪霊からの艱難苦難に苦しんでいる者への励ましを要する時です。
天の思いに応える者との信頼に値するからに他ありません。
ここに語られた仲弓のような志が天上界高次元に繋がった心なのです。
たとえ彼のような者を悪霊が試みようとしても、
自分が信じられていると、その善意に応えようと、増々善に勤しむとなれば、
悪霊は立ち去り、善なる霊が増々力付けることになるのです。
高次元の生まれ変わりだと悪魔の甘言を真に受けて増上慢に堕したGLAの信者は、
如何なる心が天に生きる心であるか全く悟っていなかったのでしょう。注終)
ところで、彼にとって不幸なことには、彼の父は非常に身分の卑しい、
しかも素行(そこう)の修(おさ)まらない人であった。
で、門人たちの中には、彼が孔子にほめられるのを、快く思わないで、
とかく彼にけちをつけたがる者が多かった。
ある時など、一人の門人が、孔子に聞こえよがしに、
「仲弓もこのごろは仁者の列にはいったかしらないが、
残念なことには弁舌(べんぜつ)の才がない」などと放言した。
孔子は、むろんそれを聞きのがさなかった。彼はきっとなってその門人にいった。
「なに、弁舌? ー 弁など、どうでもいいではないか」
門人は、ちょっとうろたえた顔をしたが、すぐしゃあしゃあとなって答えた。
「でも、あの調子では、諸侯を説いたみたところで、相手にされないだろうと思います。
惜しいものです」
彼は、「惜しいものです」という言葉に、ばかに力を入れた、
それは心ある門人たちの顔をそむけさせるほど、変な響きをもっていた。
しかしなかには、にやにやしながら、孔子がどう答えるかを、
おもしろそうに待っているものもあった。
孔子は寒そうな顔をして、ちょっと目を伏せたが、
次の瞬間には、その目は鋭く輝いて、みんなを見回していた。
「口の達者なものは、とかくつまらんことを言いだすものじゃ。
出まかせにいろんなことをいっている内には、
けっこう世の中の憎まれ者になるだろう。
仲弓が仁者であるかどうかは私は知らない。
しかし彼は口だけは慎んでいるように見受ける。
いや、口が達者でなくても彼はしあわせじゃ。
誠実な人間には、口などどうでもいいことじゃでのう」
その場はそれですんだ。しかし仲弓に対する陰口はやはり絶えなかった。
いうことがなくなると、結局彼の身分がどうの、
父の素行がどうのという話になっていった。
むろん、そんな話は、今に始まったことではなかった。
実をいうと、孔子が仲弓を特に称揚(しょうよう)し出したのも、
その人物が実際優れているからではあったが、
なんとかして門人たちに彼の真価を知らせ、
彼の身分や父に関するうわさを話題にさせないようにしたいためであった。
ところが、結果はかえって反対の方向に向いていった。
孔子が彼をほめればほめるほど、彼の身分の卑しいことや、
彼の父の悪行(あくぎょう)が門人たちの陰口の種になるのだった。
(※3)孔子は暗然となった。彼は女子と小人(しょうじん)とが、
元来いかに御しがたいものであるかを、よく知っていた。
それは彼らが、親しんでやればつけ上がり、遠ざけると怨むからであった。
そして彼は、今や仲弓をほめることによって、
小人の心がいかに嫉妬心によって蝕まれているかを、まざまざと見せつけられた。
彼は考えた。
(小人がつけ上がるのも、怨むのも、また嫉妬心を起こすのも、
結局は自分だけはよく思われ、自分だけが愛されたいからだ。
悪の根元はなんといっても自分を愛し過ぎることにある。
この根本悪に目を覚(さ)まさせない限り、彼らはどうにもなるものではない)
(※4)むろん彼は、仲弓の問題にかかわりなく、
これまでにもその点に力を入れて門人たちを教育してきたのである。
彼が努(つと)めて、「利」について語ることを避け、
たまたまそれを語ることがあっても、つねに天命とか、
仁とかいうようなことと結びつけて話すように注意してきたのも、
そのためである。
また彼は、機会あるごとに、門人たちの我執を戒めた。
そして、「(※5)自己の意見にこだわって、無理強いにことを行ったり、
禁止したりするのは君子の道でない。
君子の行動を律するものは、ただ正義あるのみだ」と説き、
(※6)彼自身、細心の注意を払って、
臆断(おくだん)を去り、執着を断ち、固陋(ころう)を矯(た)め、
他との対立に陥(おちい)らぬように努めてきたものである。
だが、こうした彼の努力も、心境の幼稚な門人たちにはなんのききめもなかった。
彼らには、天命が何だか、仁が何だか、まだかいもく見当がついていなかった。
彼らは、ただ仲弓にいくらかでもけちをつけさえすれば、
自分たちが救われるような気がするのだった。
こんな種類の門人たちに対しては、さすがの孔子も手がつけられないので、
いくたびか絶望に似た気持ちにさえなるのであった。
しかし、ただ一人の門人でも見捨てるのは、けっして彼の本意ではなかった。
そして考えに考えた末、彼はついに一策を思いついた。
それは仲弓にけちをつけたがる門人たちを五、六名つれて、
郊外を散策することであった。
門人たちは、その日とくに孔子のお供を命ぜられたことを、非常に光栄に感じた。
彼らはいかにも得意らしく、喜々(きき)として孔子のあとに従った。
田圃(たんぼ)には、あちらにもこちらにも、
牛がせっせと土を耕(たがや)していた。たいていの牛は毛が斑(まだら)であった。
そして角が変にくねっていたり、左右の調和がとれていなかったりした。
孔子はそれらにいちいち注意深く視線を注いでいたが、
そのうちに彼は、一頭の赤毛の牛に目をとめた。
それはまだ若くて、つやつやと毛が陽(ひ)に光っていた。
角は十分伸びきってはいなかったが、左右とも、ふっくらと半円を描いて、
いかにも調(ととの)った格好をしていた。
孔子は、その牛の近くまで来ると、急に立ちどまって、門人たちにいった。
「みごとな牛じゃのう」
門人たちは、牛にはたいして興味がなかった。
しかし、孔子にそういわれて、仕方なしにその方に目をやった。
「あれなら、大丈夫祭壇の犠牲(いけにえ)になりそうじゃ」
門人たちは、孔子が犠牲(いけにえ)を探すために、
今日自分達を郊外に連れ出したのだと思った。で彼らは元気よく相づちをうち出した。
「なるほどみごとな牛でございます」
「まったく惜しいではございませんか。こうして田圃に働かせておくのは」
「この辺にちょっとこれだけの牛はみつかりますまい」
「お買い上げになるのでしたら、すぐあたってみましょうか」
孔子は、しかし、それには答えないで、また歩き出した。
そして独り言のようにいった。
「まったく珍しい牛じゃ。しかし血統(ちすじ)が悪くては物になるまい」
門人たちは顔を見合わせた。犠牲(いけにえ)にするには、
毛色が赤くて角がりっぱでさえあれば、それでいいとされている。
これまで牛の血統が問題にされた例(ためし)をきいたことがない。
なんで、孔子がそんなことをいい出したものだろう、と彼らは不思議に思った。
「血統など、どうでもいいではございませんか」とうとう一人がいった。
「かりに斑(まだら)牛の子であっても、天地山川の神々はおきらいにはされぬかの」
「大丈夫だと思います。本物がりっぱでありさえすれば」
「そうか。お前たちもそう信ずるのか。それでわしも安心じゃ」
門人たちは、また顔を見合わせた。彼らは孔子が何をいおうとしているのか、
さっぱり見当がつかなかったのである。
孔子は、それっきり黙々として歩きつづけた。
そしてものの半町(約五〇メートル)も行ったころ、ふと思い出したようにいった。
「それはそうと、仲弓はこのごろどうしているかね。
あれも斑牛の子で、神様のお気に召(め)さないといううわさも、
ちょいちょい聞くようじゃが。…… 」
門人たちは、三度顔を見合わせた。
しかし、彼らの視線は、今度はすぐばらばらになって、
めいめいに自分たちの足さきを見つめた。孔子はつづけた。
「しかし、お前たちのように、血統など問題にしない人があると知ったら、
彼も喜ぶにちがいない。わしもうれしい。……
(※7)いや君子というものは、
人の美点を助長して、けっして人の欠点に乗ずるようなことはしないものじゃ。
しかし世の中には、とかくそのあべこべをいこうとする小人が多くてのう(※)」
門人たちは、孔子について歩くのが、もうたまらないほど苦しくなってきた。
「ずいぶん歩いたようじゃ。そろそろ帰るとしようか」
孔子は踵(きびす)を返した。そして、赤毛の牛を指さしながら、ふたたびいった。
「みごとな牛じゃ。あれならきっと神様の思召(おぼしめ)しにかないそうじゃのう」
門人たちが、孔子のこうした教訓によって、
まじめに自己を反省する機縁(きえん)をつかみ得たかは、まだ疑問であった。
しかし、それ以来、仲弓の身分や、彼の父の素行が、
彼らの話題にのぼらなくなったことだけは確かである。
もっとも、このことは、仲弓自身にとっては、どうでもいいことであった。
彼はただ自らを戒慎(かいしん)することによって、
孔子の知遇(ちぐう)に応えればよかったのだから。
(※注。いじめに苦しんでいる人は、いじめている人たちの心は、
彼ら自身の心だけではなく、悪霊の心を受け入れたものであり、
そのような地獄から真に自分を救う道は、
そのような苦しみに耐えたからこそ見出されてきた、
苦難を克服へと導いてきた存在を、その思いを
自分の心に見出した喜び以外にないのだと、
その心を見出すまで、善を、悪に負けぬ善を愛する心を、
自らもその心を持つことができると信じて歩く以外にないのです。
自らを救えと天上界が言われた真意は、
必ず神に救われると信じる心こそ自らを救う、
その時まで注がれてきた天の思いを知る神の心に目覚めた心こそ
真に救われたことを知ることが出来るからだと思うのです)
※1 子いわく、法語(ほうご)の言(げん)は能(よ)く従うことなからんや、
これを改むるを貴(とうと)しと為す。
巽与(そんよ)の言は能く説(よろこ)ぶことなからんや、
これを繹(たず)ぬることを貴(とうと)しと為す。
説(よろこ)びて繹(たず)ねず、従いて改めずんば、
吾これをいかんともすることなきのみと。(子罕篇)
※2 仲弓仁を問う。
子いわく、門を出(い)でては大賓(たいひん)に見ゆるが如くし、
民を使うには大祭(たいさい)に承(う)くるが如くせよ。
己の欲せざる所は人に施すことなかれ。
邦(くに)に在りても怨みなく、家に在りても怨みなからんと。
仲弓いわく、雍不敏(ようふびん)なりといえども、
請(こ)うこの語を事(こと)とせんと。(顔淵篇)
※3 子いわく、唯(ただ)女子と小人とは養い難しと為す。
これを近づくればすなわち不遜なり。
これを遠ざくればすなわち怨むと。(陽貨篇)
※4 子罕(まれ)に利を言えば、
命(めい)と与(とも)にし、仁と与(とも)にす。(子罕編)
※5 子いわく、君子の天下におけるや、適(てき)なきなり。漠(ばく)なきなり。
義にこれ与(とも)に比(したが)うと。(里仁篇)
※6 子、四(し)を断つ。
意なく、必(ひつ)なく、固(こ)なく、我(が)なし。(子罕編)
※7 子いわく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず、
小人はこれに反すと。(顔淵篇)
"偽りの正義、偽りの愛"
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 194頁
「孔子と葉公(しょうこう)」
葉公(しょうこう)孔子に語りていわく、
わが党に躬(み)を直(なお)くする者あり。
その父羊を攘(ぬす)みて子(こ)これを証(しょう)すと。
孔子いわく、わが党の直き者はこれに異(こと)なり。
父は子のために隠し、子は父のために隠す。
直きことその中(うち)に在りと。 ー 子路篇 ー
葉公 沈諸梁(ちんしょりょう)は、孔子が門人たちを引きつれて、
自分の国にやって来てから、ひどく憂鬱になっている。
彼はまだ孔子に会っていない。実はあまり会いたくないのである。
というのは、葉(しょう)は国とはいうものの、
もともと楚(そ)の一地方でしかない。
しかるに、楚(そ)が侯国(こうこく)でありながら
王を僣称(せんしょう)しているのに倣(なら)って、
彼も自ら公(こう)と称することにしている。
孔子がそれをおもしろく思っていないのは明らかだし、
ひょっとしたら面と向かって何とかいい出すのかもしれない。
そう思うとまず気がひける。それに、第一、彼は先王(せんおう)の道などを
真剣に自分の国に用いようとする意志がない。迂遠(うえん)な道徳論なんか、
今の時勢では、実際政治のじゃまになるばかりだと考えている。
体裁(ていさい)だけの理屈なら、別に孔子に聞かなくても、
自分でも相当心得ているつもりだ。
孔子に会えば、どうせ正面からは反対のできないようなことを献策(けんさく)
されるだろうが、うっかり話に乗っていると、人民どもは耳が早いから、
それが、すぐにも実現するように思って、糠(ぬか)喜びをするかもしれない。
この糠喜びというやつが政治には何より毒だ。
子どもだって食べものを見せないうちは案外おとなしくしているが、
一度それを見せてから与えないと、まったく手に負えなくなるものだ。
なんでも人民どもは、孔子がやって来たと聞いただけで、
今にこの国の政治が善くなるだろう、などとうわさをしているそうだから、
いよいよ自分が会って政治上の指導でも受けたとなると、あとが思いやられる。
藪(やぶ)をつついて蛇を出すようなことは、まず控えた方が得策のようだ。
だが、あれほど評判の高い人が、わざわざこの国にやって来たというのに、
まるで知らん顔をするのも、なんだか気がとがめる。
もし人民に誠意を疑われでもしたら、結果はやはりおもしろくない。
それに隣国にたいする面目も、一応は考えてみなければならない。
万一隣国で、葉(しょう)は小国だから聖人を遇する道を知らないとか、
あるいは、孔子の方ですっかり見切りをつけて相手にしなかったとか、
うわさされたら、それこそ恥辱だ。
あるいは、そんなことが、将来外侮を受ける原因にならないものでもない。
もっとも、どこの国でも、喜んで孔子を迎えはしなかったようだ。
彼の郷国(きょうこく)の魯(ろ)ですら、一度は彼を重用しておきながら、
今ではまるで構いつけもしないという話だ。
あるいは聖人というのは名ばかりで、
実はたいしてさわぐほどの人物ではないのかもしれない。
もしそうだと、かえって会った方がいい。
会って化けの皮をひんむいてやれば、人民どもも安心するだろう。
そういえば、一つ腑(ふ)に落ちないことがある。
はじめて人の国に訪ねて来たら、いくら聖人でも、いや聖人ならなおさらのこと、
その国の君主に、まず自分の方から謁見(えっけん)を願い出るのが礼というものだ。
それだのに、門人の子路(しろ)なんかを、なんの用ともつかずによこしておいて、
まるで一国の君主を餌で釣るようなまねをしている。
国が小さいので軽く見ているのかもしれないが、
君主たるの資格は、国の大小にはかかわらないはずだ。
しかも、あの子路という奴が気にくわない。いやに傲然(ごうぜん)と構えて、
こちらから孔子の人物をたずねてみても、ろくに返事もしない。
なんでも、あとで孔子は、「(※1)寝食を忘れて精進(しょうじん)努力し、
ひたすらに道を楽しんで、老の将(まさ)にいたらんとするのも知らないでいる、
と答えたらよかったではないか」などといったそうだが、
そんなことをいうところをみると、いよいよ食わせ者のように思えてならない。
だが、それにしても ー と、彼の考えはまた逆もどりする。
彼は懸命に孔子を無視しようと努めてはみるが、努めれば努めるほど、
かえってまだ見ぬその姿が重々しく彼の胸を圧迫する。
彼は、自分の宮殿のまん前に、だしぬけに山ができて、
それが日ごとに大きくなっていくような気がしてならないのである。
重臣たちの中には、葉公が孔子を引見(いんけん)しないのを、
内心喜んでいる者もあった。しかし、彼らは口に出してそれをいおうとはしなかった。
まじめな重臣たちは、葉公の優柔不断を心配した。
そして、相手が偉すぎるので葉公も気おくれがしているのだろう、と察して、
それとなく彼を激励した。
しかし葉公にとっては、臣下からの激励は一種の侮辱でしかなかった。
彼は妙に反発した。(今に見ていろ、一ぺんで孔子をへこましてみせるから)
けれども、孔子をへこませるようなりっぱな政治上の意見は、
彼の頭の中のどこにも用意されていなかった。
そして、いらいらした気分で、十日、十五日とたってしまった。
そのうちに、まじめな重臣たちは、世間の思惑(おもわく)を考えて、
自分たちだけでも孔子に会っておいた方がいい、と考えた。
で、かわるがわる孔子の宿を訪ねて教えをうけた。
若い臣下たちや、まだ志(こころざし)を得ないでいる青年たちがそれに倣った。
またたく間に、孔子の門前は市(いち)をなすに至った。
そして彼の名声は日に日に高くなるばかりであった。
すべてこうしたことは、葉公にとって、ますます不利であった。
ついにだれということなく、「葉公はどうしても聖人に会えないような、
やましいことがあるのだ」というような声が、巷(ちまた)に聞こえてきた。
まじめな重臣たちは、放っておけないと思って、
流言(りゅうげん)を取り締まるとともに、思い切って葉公にもそのことをいった。
葉公はむろん不愉快に思った。そして、「勝手に孔子をたずねたお前たちこそ、
その責任を負うべきだ」といいたかった。しかし彼はむかつく胸をやっと押さえて、
孔子の人物について彼らの見るところを話させた。
彼は、一つでも孔子の欠点だと思われるようなことを、
彼らの言葉の間から見いだそうと試みたのである。
彼のこの試みは、しかし、徒労に終わった。
彼らは口を極めて孔子をほめそやすばかりであった。
(ばかな奴らだ)彼は心の中で、強いてそう思った。しかしそう思ったからといって、
それは、孔子との会見を正面から拒絶する理由には、どうしてもならなかった。
「お前たちが、それほどりっぱな人物だと思うなら、会ってみよう。
だが、わしと政治上の意見を戦わせて、もしわしが勝ったら、
今後は一人たりとも、孔子の門に出入りしてはならないぞ」
彼は、なんの自身もなかったが、そんな強がりをいって、
孔子との会見を承知してしまった。日取りは明日ということになった。
その晩の彼の苦心は実に惨憺たるものであった。彼の今日までの政治的体験から、
自ら省みて恥じないような業績を探し出すことは非常に困難であった。
ただ彼には一つだけ自信のもてることがあった。
それは、厳罰主義で臨んでいる結果、
法律が領内によく行われているということであった。
けれども、厳罰主義を人民がいやがっていることは、彼もよくよく承知しているので、
大っぴらにそれをいうわけにはいかなかった。できれば、厳罰主義のことをいわないで、
人民に遵法(じゅんぽう)の精神がみなぎっているようなふうに話す工夫はあるまいか、
と考えた。
ふと彼は、数ヵ月前、役人から受けた報告の中に、
非常に感ずべき事件のあったことを思い出した。
(そうだ、あれはまったく珍しい事件だった。あれならだれが聞いても、
人民に遵法の精神が横溢(おういつ)している結果だと思えるだろう。
なにしろ、親子の関係すら超越して、国法を守ろうとしたのだから)
彼は夜が明けると、係の役人を呼んで、
もう一度、事件の内容をくわしく書類によって調べさせた。
書類にはつぎのようなことが書いてあった。
「某(なにがし)は、隣家(りんか)から迷い込んで来た羊を、
そしらぬ顔をして自分のものにしてしまった。
しかし、その羊が隣家のものであるということを説明する材料は、
なにひとつなかった。そこで、この事件は、
隣家の者のいいがかりだということに決定するより仕方がなくなっていた。
ところが、某の息子が、わざわざ役所にやって来て、国法は曲げられません、
私は正直を愛します、といって、羊が迷い込んで来た当時の事情を詳しく申し立てた。
役所では、法律に従って厳重に横領者を罰するとともに、
息子には規定どおりの賞金を与えることにした」
葉公は、息子のいった、
「国法は曲げられません。私は正直を愛します」という言葉を、特に印象深く聞いた。
そして、幾度もそのことばを心の中でくり返しながら、孔子との会見の時刻を待った。
葉公が、孔子を一目見て、まず案外に思ったのは、その衰えた風貌であった。
六十を五つ六つもこしたかと思われるその顔は、日にやけて黒ずんでいた。
衣装もよれよれになっていて、いかにもみすぼらしかった。
それに物ごしの柔らかなところが、まったく彼の予想を裏切った。
彼は、自分だけが今まで張りきっていたのを、ばかばかしいとさえ思った。
で、急に軽い気持ちになって、口早(くちばや)にたずねた。
「(※2)せっかく、遠路この国にお立ち寄り下さいましたので、
今日は政道についてのお考えを承りたいと存じます」
孔子は、葉公のぺらぺらしたものの言い方を、心もとなさそうに聞いていたが、
しばらくの間をおいて、ゆっくりと答えた。
「ご領内の、近くに住む人民を心から喜ばしておあげなされ」
葉公はちくりと刺されたような気がした。しかし、どこの国に行っても、
同じようにこんなことをいっているのだろうと思うと、おかしくもあった。
「人民はみな喜んで生業を営んでおります。ことに都に近く住んでいる者どもは」
葉公は無造作に答えた。すると孔子はすかさずいった。
「さすれば、遠くの者は、公のふうを慕って、
どしどしお近くに居を移すでありましょうがな」
葉公は、むしろその反対に、自分の勢力の及ばない境外へ居を移すものが、
このごろ多いのを思い起こして、ぎょっとした。
そして、この老爺(ろうや)、相当にいろいろなことを知っているな、と思った。
「いや、これはおそれ入りました。
私の国はまだなかなかそこまではいっておりませんので、
今後はいっそう気をつけたいと存じております」
彼は正直にそう白状するより仕方がなかった。そして一刻も早く、
自分の思うつぼに話を引っぱりこんでいきたいと考えたので、すぐ話をついだ。
「(※3)ところで、政治というものは、民を喜ばすばかりが能ではなく、
民を正しくすることがなによりたいせつだと存じますが、
いかがなものでございましょうか」
「それはそのとおりです。政は正なりと申しますくらいで。……
もっとも、上に立つ者の方で何が正しいかをはっきり理解しておりませんと、
とんでもない結果になることもありますが …… 」
「私は人民を正しく導き得たという点では、相当の自信をもっております」
葉公はいかにも自信ありげに、きっぱりといった。
孔子は少しあきれたように、彼の顔を見ていたが、
「それはけっこうでございます。
もしそれが、ほんとうの意味でおできになりましたとすると、
まさしく堯舜(ぎょうしゅん)にも比ぶべき政治でございます」
葉公は、目玉をくるくるさした。
彼は孔子の言葉が大げさすぎたので、少し気味が悪かったのである。
孔子はにこにこしながら、
「お国の人民が、どんなふうに正しいか、
もしその一、二でもお聞かせ願えればしあわせに存じますが …… 」
葉公は、しめた、と思った。が、同時に、昨夜から考えておいた、
たった一つの例では足りないことになりはしないか、と心配もした。
で、彼はできるだけもったいをつけて、ゆっくりそれを話すことにした。
話の途中、孔子は幾度か眉(まゆ)をよせた。
葉公はそれを見るたびに、少しずつ自信を失っていった。
そして親を告発した息子に賞金を与えたことだけは、
どうしても、口にする勇気がなかった。
聞き終わって孔子はいった。
「お国の正しい人間というのはそのような種類の人間を指すのでございましょうか」
葉公は、もうその時は頭が血でいっぱいになっていた。
そしてやけ気味に椅子から立ち上がって叫んだ。
「彼は国法を曲げたくなかったのです。彼は父よりも正直を愛したのです」
(注。正直者と自惚れ、正直を自慢したがる性格だったのか、
それとも父親の暴力に耐え続けて来た哀れな子供が
このチャンスを逃すまいとの決死の行為であったのか)
「まあ、お掛けください」と、孔子は憐(あわれ)むように彼を見ながらいった。
「もしあなたが、まじめに政治のことをお考えになるなら、
落ち着いてひととおり私の申し上げることをお聞きください。
あなたは私に無理に勝とうとなさいます。それがいけません。
それで変な例などをお引きになるのです。
あなたは人民の正しいことをご主張なさるために、
ただいまのような例をお挙げになりましたが、実は二人の人民のうち、
一人は泥棒で、一人は訴人(そにん)であるということをお述べになったにすぎません」
葉公は、半(なか)ば口を開いたまま、ぐったり椅子に腰を下ろした。
「しかもその訴人というのは、肉親の父を訴えた人間です。
お国では、そんな人を正しいというかもしれませんが、
私の郷国(きょうこく)で正しい人間というのは、まるでそれとはちがっています。
父は子のために悪いことを隠してやり、子は父のために悪いことを隠してやる、
それが人間の本当の正直
(注。神の心に繋がる真の善に目覚めての、神の心にのみ素直に従うを正直という)
さだと、だれも彼もが信じきっています。
あなただって、無理に私に勝とうとなさるお心さえ取り除いて下されば、
きっと同じようなお考えにおなりだと存じますが …… 」
葉公は色青ざめて、瞼(まぶた)を神経質にふるわしていた。
「人間の正しさは、人間相互の愛を保護して育てていくことにあるのです。
法律も法律なるがゆえに正しいのではなく、それが人間と人間の関係を、
愛に満ちたものにすることができる限りにおいて、正しいのです。
このことをけっしてお忘れになってはなりません。
ことに、親子の愛は愛の中の愛であり、
人間界のいっさいのよきものを生み出す大本(おおもと)なのです。
それを法律の名によって、平気で蹂躙することを許すような国に、
正しい道が行われていよう道理はありません」
孔子の言葉は、一語より一語へと厳粛になっていった。
葉公はその権威にうたれて、うなだれてはいたが、
まだ心を虚しゅうして教えを受ける気にはなっていなかった。
彼の青ざめた顔のどこかに、
弱いながらも、いくらかの反抗心が閃(ひら)めいていた。
それというのも、彼は、
彼が今日までとってきた厳罰主義をやめたくなかったからである。
うっかり孔子の言葉に従って、厳罰主義をやめようものなら、
さっそく租税(そぜい)の取り立てにも困るだろうと、彼は心配したのである。
さっきから、葉公の人物に見切りをつけていた孔子は、
それ以上彼の説得に努めるのもむだだと思った。
会見はすぐ終わった。
孔子は彼がはいって来た時と同じような、わびしい姿をして、部屋を出た。
むろん彼は、部屋を出ると同時に、一刻も早く葉(しょう)の国を去って、
ふたたびさすらいの旅を始める決心をしていたのである。
※1 葉公(しょうこう)孔子を子路(しろ)に問う。子路対(こた)えず。
子いわく、女(なんじ)奚(なん)ぞいわざる、その人と為(な)りや、
憤(いきどおり)を発して食を忘れ、楽しみて以(もっ)て憂いを忘れ、
老(おい)のまさに至らんとするを知らず、爾(しか)いうと。(述而篇)
※2 葉公政(まつりごと)を問う。
子いわく、近き者は説(よろこ)び、遠き者は来(きた)ると。(子路篇)
※3 李康子(きこうし)政を孔子に問う。孔子対(こた)えていわく、政は正なり。
子帥(ひき)いるに正を以てせば、孰(たれ)かあえて正しからざらんと。(顔淵篇)
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様