第四章 天上界の人びと
(九) イエス・キリストの章
私は、二千年前に、イスラエルのベツレヘムという町に生まれ、
キリスト教の聖書に録されている通り、人はかく生きるべしと、神と人との繋がりに於いて、
神々の愛から隣人への愛、人々の愛から全人類への愛へと広がる形で、
愛の尊さとそのあり方を説いて歩き、
その過程で又、科学的には無知であった人々に信仰の対象として
唯一絶対なる神ヤーウェ、即ちエホバを崇め、
又己の中にある神性、即ち善である所の人間性を、
天なる鏡に写された姿として、"天国は貴方がた一人一人の内にある"と述べました。
歴史に流れとして見ると、私の時に初めて、
ギリシャ哲学からインド哲学のなかで説かれた大自然の普遍的な性格や法則、
即ち、宇宙或いは仏教で梵(絶対者 = 宇宙の根源)と呼ばれるものと比較して、
個人或いは我(真実我 = 個人)を述べたものから、
個人個人の観点に立って、神を主観的・客観的に説くものに代わりましたが、
説き起こす所は同じでした。人間としてのあり方を詳しく説いたのです。
さて、その愛というのは、男女の愛や友愛の域を超えた神の愛、
アガペー(無償の愛 = 与えるのみの愛であり、報酬を求めぬ愛)なのです。
言わずともそれは、慈悲を伴うものでなければなりません。
"神は愛なり"と私が述べ、キリスト教は愛の教えであると、人々は信じていますが、
慈悲の心や、行いについて、譬えを通じてはっきり説いており、
又神の愛とは慈悲であり、愛でなければならないのです。
慈悲を伴わぬ愛は自己愛(自己に対する愛や欲望)の延長にしか過ぎません。
それは、相手に求める愛であって、与える愛ではないことはお解りでしょう。
自分を愛することは勿論大切です。
良い意味での自己愛、自らが持っている人間としての尊厳、神の子としての悟り、
そういうものを知って、隣人を己の如く愛せよ、と説いたのです。
それは奴隷が未だ用いられている時代で、人間の尊厳についての意識が低かったからです。
その次に説いた中で重要なことは、地上に神の国を作ることの必要性でした。
何故ならば、ご存知のようにその頃の人々は、
無知な者や闘いしか知らぬ武骨な者が多く、野蛮な行為を何とも思わず、
又学者は律法に縛られ、戒律で人を裁き、
神の心という計り難い、どのような者にも分け与える愛や、平和を求める柔和な心、
慈悲心と等しく、許す心、気持ちなどを知らぬものでした。
そのような人々が真の神の国、
即ち天国と同じ秩序と平和と調和と光で満たされた場所を地上に作るのは、
何と困難な問題でしたでしょう。
自分の心の中にある神と等しくなれる心、真我は善なる心であることなど、
振り返ってみたこともない人が多かったのです。
ですから私は神の国を作る為には、どのような人が相応しいかを悟らせる為に、
山上の垂訓と呼ばれるものを説きました。
心の貧しい人たちは幸いである。
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは幸いである。
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは幸いである。
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは幸いである。
彼らは飽き足りるようになるであろう。
憐れみ深い人たちは幸いである。
彼らは憐れみを受けるであろう。
心の清い人たちは幸いである。
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは幸いである。
天国は彼らのものである。
(マタイ福音書・第五章三節~十節)
心の貧しき者とは、謙譲なる心の持ち主で高ぶらぬ心、傲らぬ心を指します。
己を高しとする心や行為に天国はなく、天国を見ることも作ることも出来ないのです。
又、悲しみや苦しみ、悩みのある人は、人によって慰められなければ、
天国からの霊によって、又、導きによって救い出され、慰められるのです。
又、心の柔和な人、穏かな人は、地上に於ける良き支配者となり、
人の心を良く導く者となるであろう。
又、義に飢えかわいている者とは、正義を求める人で、
そのようなものはないと絶望していても、
きっと天も人も、その人を満ち足らせるだけの正義が地上にもあるということを、
その人に知らしめるでしょう。
憐れみの心を多く持つ人、これは慈悲の心から出るものです。
そして、その人が苦境に陥った時、人から憐れみを受けるでしょう。
そして心の清い人だけが、神を見ることが出来る、
即ち、自惚れや自我、増上慢、自己顕示、憎しみ、姦淫、平和を壊すもの、その他すべて、
人間として持っている隣人愛の齎すもの以外の感情を取り去らなければ、
天国からの使いも、神も見ることはないであろうと言ったのです。
平和をつくり出す人は勿論、地上に神の国を作るのです。
それ故、真の神の子と見做される資格があるのです。
又、正義の心を持ち、信念を持ち、正しい事の為に迫害を受けた人々、
キリスト教では多くの殉教者が出ましたが、それのみでなく、
他の正しい思想の為にも人から誤解を受け、迫害された人々はすべて、
天国に来るべき人であり、又、天国を代表する人達です。 ー
即ち、自己を犠牲にして、他に尽くす愛の心がそこに在るからなのです。
私が、律法に苦しめられ、愛を失い、罪の中に生き、
神に見放されようとしていたユダヤ人の為に、十字架につけられ、その罪の贖いとなり、
神の救いを人々に分かち与えた意味も、そこに在るのです。
又、「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きくその道は広い。
そして、そこから入っていく者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない。」
(マタイ福音書・第七章十三節 )
という言葉の中で、私は人間としての責任と義務を逃れ、好き勝手な生き方で、
他人に迷惑を掛け、或いは自分のことのみを考え、その欲望のままに、
放縦で堕落した人生を送ることを何とも思わぬような人には、
天国の門は閉ざされているであろうこと、
富める人が神の国に入ることは、ラクダが針の穴をくぐり抜けるよりも難しいと、
譬えにも申しました。
そして天国(神の国)に入る為、又地上に神の国を作る為には、
人は心を厳しく見つめ、己の生き方を反省し、
必要以上の欲望を持たず、執着を持たず、心を清く美しく保ち、
この世にありながら、神の心を備えた人でなければ、神の国に入れない。
又、それを地上に齎すことも出来ない、と申しました。
又、種蒔きの譬えで、良き言葉を聞いても、
その人の心が、それを理解するだけ良きものを持っていなければ、
喜んで受け入れても、土の薄い石地に蒔かれて根がない為に、
それを留めて育てられる心を持っていず、困難や迫害が来ると、躓き、
茨の地に落ちると世の心遣いと富の惑わしという茨が伸びて、実を結ばず、
その人の養いとならないであろう。その人の魂は豊かにはならないであろう。
道端に種が蒔かれれば、鳥が来て食べてしまう。
即ち、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを、奪い取って行く。
良き地に蒔かれて、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶように、
素直な心で、良き言葉に耳を傾け、それを自らの人生に役に立てなければ、
何にもならないことも説きました。
愛について私は、キリスト教を知らぬ人の為にそれを改めて説きましょう。
聖書に、パウロとソステネという人から、コリントにある教会の人々に出された手紙ですが、
コリント人への手紙と呼ばれるものがあります。
第十三章ですが、神の愛というものについてこれ以上よくは説明出来ないであろうと思われる程、
詳しく書かれてあります。
お読みになれば理解されるでしょう。即ち
「たとえ私が、人々の言葉や御使い達の言葉を語っても、
もし愛がなければ、私は、喧しい鐘や、騒がしい鐃鈸(にょうはち)と同じである。
たとえまた、私に予言をする力があり、あらゆる奥義と、あらゆる知識に通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、私は無に等しい。
たとえまた、私が、自分の全財産を人に施しても、
また、自分の体を焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、一切は無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また妬むことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、
自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない。
不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛は何時までも絶えることがない。
しかし、予言は廃れ、異言は止み、知識は廃れるであろう。
なぜなら、私達の知るところは一部分であり、予言するところも一部分に過ぎない。
全きものが来る時には、部分的なものは廃れる。
私達が幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、
また幼な子らしく考えていた。
しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった」
(コリント人への第一の手紙・第十三章一節~十一節)
「このように、何時までも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうち最も大いなるものは、愛である」 (同・十三節)
そして、この終わりの十三節に於て、伝道の期間を通じ、私が教えたすべてが、
集約されております。
何時までも存続するものは、信仰と希望と愛との三つであり、
その内で最も大いなるものは、愛である。
これは神と人との関係に於てだけでなく、人と人との間も、このようなものが保たれてこそ、
地上に平和が齎され、神の国と同じ、調和の中のユートピアが作られるのです。
私達は天上界にいても、貴方がたのことを思い、祈り、
守りの手を常に差し伸べているのです。
貴方がたが真の善き人々となり、私達の説く正法とは何かを悟り、
この乱れた世を秩序あるものとなし、人間として生まれた責任と、義務を果たし、
天上界よりの光と、太陽の光と恵みを、豊かに受け美しい自然を蘇らせ、
神の愛を持って、互いに幸福と平和を分かち合える人生を送る日が、
一日も早く来るように願っているのです。
「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。
神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、
御子によって、この世が救われるためである。
彼を信じる者は裁かれない。
信じない者は、既に裁かれている。
神の独り子の名を信じることをしないからである。
その裁きというのは、光がこの世に来たのに、
人々はその行いが悪いために、光よりも闇の方を愛したことである。
悪を行っている者はみな光を憎む。
そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない。
しかし、真理を行っている者は光に来る。
その人の行いの、神にあって為されたということが、明らかにされるためである」
(ヨハネ福音書・第三章十六節~二十一節)
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の許に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様