第三部 神から授けられた正法
第三章 正法に生きる
 正法の悟りとは、実践とは、流布とは。

二節 正法の悟りとは、実践とは
現象テープ№18 「魂の研磨について」より
 80年2月10日 ガブリエル様現象
&「天上界メッセージ集・続」82頁

「八正道を行わなければならない、美しい心を持とう、清らかでいよう、
正しく見なければならない、言うことは簡単です。
 又、抽象的に並べる事なら誰でも出来ます。
 しかし、ここで大切なのは、今迄そういった美辞麗句が、あなた方の歴史の中で、
様々な人が言ってきたにも関らず少しも為されてはいないという事
※1
 それが一体何を意味しているのか。
 そういう抽象的な事ではもう間に合わないのです。
 あなた方個人の悟り、あなた方個人の考え方による悟り、あなた方自身の体験による悟り、
それが必要なのです
※2)。
 メシヤ信仰というものは、二千年前、三千年前、四千年前の人々が必要としたものであって、
今のあなた方に必要なものでしょうか。
 単に美辞麗句を並べるだけの宗教家なら、教科書を読む方がましなのです。
 今本当に、為さなければならないのは、実践による悟り、自分を厳しく見つめる事から出来る、
本当のものを見つめる力です。」

「現在の正法の使命は、あなた方個人個人の苦しみの解決もありますが、
それと同時に社会問題にも適用されなければならない。
 今迄の宗教で社会問題に即応出来るものであったでしょうか。無かった筈です。
 この正法はその意味で様々な広がりを持ち、無限の輝きを持つものです。
 あなた方一人一人、筋金入りの論客になって、世の中の不正を正してゆかなければなりません。
 それには勇気が要りますが、あなた方はそれを与えられているのです。

 社会がこうだからと言って諦めてはいけません。
 正法がそういうものから逃げる場であってはならないのです。
 寧ろ正法から始まるものでなければなりません。
 正法は自己満足であってはなりません。
 他人の幸せを願うもの、社会の調和を望むものでなければならないのです。
 その為には、うやむやに社会問題を扱ってはならないのです。
 現実的に即応出来るものでなければなりません。
 それは八正道や愛、慈悲といった、そういったものからの総合的な判断から生まれます。
 更に、八正道や愛、この抽象的な言葉を悟るにはあなた方の苦しい実践以外に無いのです。
 その為には、なるべく具体的な例を挙げて話し合ってゆきましょう。お教えましょう。
 それだからこそ、私達と一緒に、社会の調和へ踏み出してゆこうではありませんか。

 私達は思うのですが、本当に、もう本当に地球が滅びるかも知れない瀬戸際に、
どうして、あなた方人類はこんなにのんびりしていられるのだろうと、不思議で仕方がないのです。
どの問題を取ってみても、問題は複雑であり、深刻です。
 生態環境、或いは大国間の核武装競争、社会観の不安、社会意識の退行。
 どれを取ってみても溜息を吐かざるを得ません。
 それだからと言って逃げる事は、決して許されないのです。あなた方の社会なのですから。」

※1参考。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」189頁 (エピクテートスの『語録』より)
「羊はどんな草を食ったかを羊飼いに見せる為に、草を吐き出して見せることはない。
 飼料を消化して、乳を出すのだ。
 それと同じように、君は俗人に君の原理を示すべきではなくて、
本当にそれを消化した限りに於て、その原理から出てくる行為を示すべきである。」※1参考終)

※2注。
 私達の信じる神の教えが真理であることを示せるかは、
私達自身の生き方に懸かっているということです。

「天国の扉(77年12月初版)」166頁 イエス様メッセージより
「真理を行っている者は光に来る。
 その人の行いの、神によって為されたということが、明らかにされる為である。」
                   (ヨハネによる福音書・第三章二十一節)

「天国の扉(77年12月初版)」138頁 サリエル様メッセージより
「正法を実践することは、決して難しいことではありません。日常の生活の中で行うのですから。」

「希望と愛と光」82年7月号 ラグエル様メッセージ
&「天上界メッセージ集(84年7月初版)」226頁

「すべてに於て、真理を追及するに於て、汝自身を追及せぬという事は、理に合わないでしょう。
 自分自身を知らずして正法を学んだとて、それは何の役にも立ちはしません。
 あなたが悟り、あなたが正法を日々の生活の中に活用せずして、何が真理ですか。」

"新しい葡萄酒は新しい革袋に"というイエス様の譬えを知っていても、
クリスチャンは自分が古い革袋だとは認識する知恵を持ちません。
 今の世に働きかけられている生ける神の教え、真理を学ばず、
当時を生きる人々の思いに応えられようとされた、
今この時を生きられる神の愛を知らぬ人々が、今を生きる人々の思いも感受出来ぬ者が、
二千年前に神の言葉を語るイエス様を真似ただけで
イエス様の為したことと自らを同一視して満足し得る程度の者なのでしょう。
 二千年前の真理の伝えた本当の意味を理解していないということであり、
効き目の失った塩を、味の抜けた葡萄酒を、
今も通用する天国への切符であるかのように執着し、
真理に柔軟な思考を育てられなかったのです。

"自分自身を知らずして正法を学んだとて、それは何の役にも立ちはしません。"
と(ラグエル様の仰しゃるの)はそういうことです。※2注終)

〖備考
 宗教は、日常に、俗世に与らないものとすることで、
聖なることの証明になると思い違いをしております。
 この世を聖なるものへと、神の国に変えてこそ、神の意志が表れるのです。
 その為に人々の生きる真の道が世を切り開いてゆくのです。
 真理を悟らぬ宗教家は法衣を纏って語るだけで、真理に従って生きることが出来ません。
 人々も宗教の扱う世界は、魂はこの世と無縁と考えています。
 この世は彼等の魂の世界に不可侵であると、魂は神に委ねられたのだから、
死んだらこの世とは縁が切れて後は天国に行くのを当然と考える。
 今この世(の人々)を思い、働き掛けることが魂の研磨であることを悟らず、
神を見失った宗教に安住しています。

 俗世に生きる人々に神が語り掛けていると思わない、
祈りの場に、彼等の生きる教会にあってのみ神は語り掛けると思っているのでしょうか。
 しかし、真実は、日常に於て、善を裏切り悪に従ってはならぬ時に、善を貫くことで
(苦難に遭ったその時、真に神に従うか、悪魔に従うかの人生を、魂を決めるこの世にこそ)、
己が魂の真の姿が証されるのです。

 神の救いの手が差し伸べられるのは、この世に神の道を歩む者です。
 祈りの場で跪いても、魂の証にはなりません。
 神の目を意識するだけの余裕が心にある時に、悪に従わなかったからといって、
それで信義を、己が良心を証すものとは言えないのです。
 己が日常を切り開く、この世に天の正義を実現させようと教えぬ宗教は、
天の法を伝えるものではありません。
 真の天の法は、この世の中に働き掛けるものです。備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法