第四部 天への思い
第四章 この世に神の国を
正法流布の目的は、
ユートピア(神の国)をこの世に作ることであると天上界は言明されております。
その為にこの世に語り掛けられているのです。
神の愛されるものへの、神を愛するものへの憎悪に、
美しい心を持つことの出来ぬ妬み心に、
神から、美しい心から愛されなかったことへの復讐心に、
自らの心を焼き尽くそうとも、自らをも滅し去ろうとも、
その憎しみの念を押し留める如何なる心も持たぬ悪霊
から安全であると、目に見えぬ悪霊など恐れぬに足りぬと、
悪霊の誘惑など屈しないと、人は己が力を過信するのでしょうか。
悪に一歩も引くことのない善霊に神の精神を見出すことも出来ぬ
盲目に生きていることすら悟れぬ人間であるのに。
(注。
地球を神から奪い取って地獄にする為なら、
それによって地球が滅びることになろうとも、
人を絶望に陥れる為なら、悪魔にとってすべてが足かせとなる天を滅ぼす為なら、
破壊の限りを尽くす悪魔の心を自らの心に宿した共産主義国家に跪かんとするものは、
国であろうと企業であろうと神の御怒りから逃れられる者など、
存在を許される者などいはしないのです。
また、核兵器を保有すれば、敵国の核攻撃の抑止になると主張される方が多いですが、
それは権力の独裁者が、悪魔の憑依に屈しない善我(理性)を持つ限りに於てしか
成り立たないのです。
抑止どころか侵略兵器として核を使用すると宣言したプーチンは、
真に悪魔に魂を渡した者です。
これまで人類が惰眠を貪っても生き永らえてこれたのは、
常に天上界が悪魔と戦ってきたお陰ですが、
悪魔の子が目覚めて、神の子が眠りこけている内に、
このような状況を迎えてしまいました。
(国連に共産主義国が加盟して平和が齎される訳がないのです)
悪魔に憑依されれば、同胞が、家族が犠牲になる苦しみを感じる愛も心(感受性)も、
悪魔の破壊衝動の、自分に従わない者への憎悪の念の前に蹴散らされるだけです。
サタンに憑依されるとは【救われた者の歓びに満たされる愛ではなく、
己が力の前に他が跪(ひざまず)く、
他を支配する自らの全能に、独善に満たされる独裁者に変えるのです。
イエス様と共に生き、イエス様を通して現れた神の救いの業を、神の愛を、
神に生きるイエス様を、見て信じて愛したユダの心を悪魔の心に変えた、
同じ悪魔に従うことを知る故にパリサイ人に売り渡すことさえ出来たのです】、
悪魔に支配されるとはそのようなことです。
それが理解されれば、そのような悪魔に魂を渡した者、
悪魔と共に善なるものを滅ぼし尽くそうとする邪念に抗し得るのは、
真に神を見出した(善に徹する)心、悪に屈しない、悪から逃げない心しかないのです。
そのような独裁者を許さない心を国民が持つしかないのです。
神を、善を愛する者が国を超えて繋がることで、平和をつかみ取らねばならないのです。
真の宗教家(神の意志をそれと理解する神の智慧に、心に生きる者)や
(フランス革命や明治維新に立ち上がった、神の意志が臨んだ)真の革命者達によって
国が救われたのでした。
国家が善を愛する心を摘み取ってしまう
(悪魔に従う宗教指導者(ロシア正教)が独裁者に跪く)なら、
悪魔の道を行く国は滅びることでしか再生の道は生まれないであろうし、
滅ぼさない限り、神に生きる他国が滅ぼされるのです。
自分が滅びるまで破壊の限りを尽くす、
その邪念に支配された独裁者に、如何なるものが抑止し得ると思われるのでしょう。
その国民が目覚めて、立ち上がるまで、如何なる国の者も、
独裁者の存続を許してはならないのです。注終)
神の心を見出さねば、天上界と共に善我を貫く者とならなければ、
人類は悪魔の前に屈する、あらゆる善なる心を失うことになるのだと
天上界は伝えているのです。
天の意志が伝えられたのに、その意志に神を認めることの出来なかった者が、
死後あの世で真実であったことを知らされてから悔やんでも遅いのです。
自らの意志に生きられる人生は二度とないからです。
真理(正法)を知らずとも、素直な心から真理に生きる心を養い得た魂は、
天上界に迎えられ、彼等の道を照らしてきた天の光(真理)を理解した善なる霊も、
真理に盲いた人生を後悔し善なる心に目覚めた
(善なる心を、神の思いを自覚出来なかった者も、
心の底に優しさを持つ者であったから目覚めることが出来たのです)霊もまた、
最後の救いの機会にこの世に降り立った神々と心を一つにして、
この世の人々に伝えようとされていることを、
彼等がその心を生きている時に持つことが出来ていたらとその思いの限りを伝えている、
そうでなかったら、この悪霊に満ちた、堕落への誘惑に満ち溢れたこの世に生きる人々は、
善なる心を見出すことが出来たでしょうか。
人が神の心に目覚めずして、
天の思いも伝わらないことを知っての愛に賭けるしかない、
人を救うのは自らの神の心しかない、
人を神の心へと導く光は天の慈愛だけであるからです。
私達の子孫が生まれて来るこの世が、神の国であるか、
それとも只悪霊となる為の地獄(※1)であるかは、
今この世に生きている者が負うべき責任なのです。
人類は神の導きの内に自らを救わねばならない、
地球を、すべての生命を救わずして人類の未来はないのだと、
神自ら人類に呼び掛けられています。
神々が幾ら心正しく、真理に生きる方であっても、
悪魔に負けたら天国は滅び、地球は地獄になっていたのです。
死後、天の善霊に導かれた者は皆、現天上界の善霊達に迎えられ、
宗教の教義からかけ離れた真実の天国を理解しました。
(※1注。
残虐な犯罪の起きる度に、この世は地獄かと、地獄を見る思いにさせられます。
そのように思う人も、地獄の存在する場所が、
実は人間の生きるこの地上であること、そして霊体も空気のように見えませんが、
物質としてこの世に存在しているとは思いもよらなかったのではないでしょうか。
(悪霊の憑依されると邪念の波動によって、穏かな心の波動を失い、
落ち着かない心になります。
魔が差すと言われるように、己を見失わせます。
波動も、想念も、霊体も物質です。
故に物理的に心が変えられてしまい犯罪に引き込まれることになるのです。)
地獄とは地下にあるものと思われて来ました。
地獄に生きる悪霊とは、この世に執着する心です。
そのような心しか育てることの出来なかった霊の世界が地獄なのです。
霊も人間の心の条件反射しか持たない為、霊同士も互いに見えません。
肉体が感受したもの(思考による刺戟も同様)しか、
神経細胞の機能することでしか心は作られて行かないのですから、
そのような心の働きが繰り返されれば、
肉体を通して知覚されたものだけを理解しようとする、信じようとする心になります。
人間として生きた心のまま霊として生きようとします。
この世では周りが善人に恵まれたお蔭で、我が儘な人格を育て、
善なる人格から何も学ぼうとしなかった人格を残した者は悪人の末路として
地獄(幽界)に落ちて行くか、天国から迎えに来てくれる人もない浮遊霊として
この世に彷徨うことになります。
その地獄(幽界)は同じ我が儘な自分勝手な者だらけで、
この世にいた時のように我が儘に耳を傾けてくれるような善人など一人もいないのです。
こんな孤独な地獄から逃れたい、自分の心を救う為なら、この世の善人がどうなろうと考えず、
愛に触れたい、自分の我が儘を満足させたいと憑依するのです。
人は死後、自分の心に相応しい霊の世界に行くのですが、
周りには、その人と同様の心を持つ霊が集まるのです。
例えば善なる心を持たないのに、己を価値ある者と、自分は天国に相応しいと自惚れた者が、
仮に天国に行ったとしても、彼の憧れを満足させるものではありません。
只々己が魂の醜さのみが浮き上がり、
羞恥心に耐えられず、居たたまれない思いになるだけでしょう。
己が魂の周りが心の醜い者ばかりなら、その人の心も同様であり、
憎しみに生きる心から救われることはありません。
何故なら憎しみの条件反射しか持たない上に、
憎しみを刺激する者ばかりしか周りにいないからです。
自分の魂に相応しい世界に行ってから、己が魂の堪え難き醜さを痛感しても遅いのです。
天狗界の意識の者は、自分は天国に行くのが当然と思っているようですが、
彼等が自分を知ることが出来るのは、
天狗界に落ちて周りの魂の醜さを痛感する以外にないのです。
そこからしか自分に向合っての魂の研磨は始まらないのです。
無論それすらも出来ぬ増上慢は悪霊の心です。
周りが愛に満ちた心の美しい魂ばかりなら、その人が同じ美しい波動を持つからです。
互いを生かそうとする愛が何時も心に満ちた霊達の世界です。
霊は波動そのものであり、同じ波動の霊が互いを引き寄せ合い、
思いを伝え合い、理解し合うのです。善我に生きる霊の場合ですが。※1注終)
一体、初めから知恵を持った存在(絶対神)を信じる者は、
知恵がどのようにして得られるものと考えているのでしょう。
全く苦労も苦難も知らずに生きてきた者が、
悪による危険を感じることなくこれまで生きてきた者が、
知恵を求めずにはいられなくなった、そして神の智恵を得た、
そのような人がいて真に苦しみにある人を救ったというような話を
聞いたことがあるでしょうか。
善なる思いからでも結果が悪となれば、それは善ではないと現天上界の聖霊は仰しゃいます。
神は善なる心そのものであり、その善なる業も、悪魔によって悪の業に、
神を、善を求めた人々を悪なる心に導くものに利用されたら、それは善ではないと言われます。
悪に利用されるような善であってはならない。
神々の善ですらも悪との戦いを通して、悪に勝る善へと鍛えられていったのです。
最初から完全なものを作り出すような知恵など存在しません(※2)。
(※2注。
同じ真理でも、人によって理解が異なります。
理解する能力が違うからです。
自らの善なる心の指標に据える者もいれば、
神の慈愛すらも伝わる善我を持たず、自己愛から拒み、
偽我にしか生きられない者もいます。
(宇宙を在らしめる)真理すらも反撥する心から、破滅に身を任す者もいるのです。
その世界に生きながら、その世界を在らしめる完全なるもの
(宇宙の法則であり、その法則に従うよう心を律する神の法)に従わぬなら、
存続し得ないのです。
この宇宙だけが完全であり、宇宙を在らしめる真理を見出し、従うことだけが、
自らを生かす知恵の表れなのです。
神は宇宙です。
その宇宙を神と考えずに、神が想像したと何ゆえ古代人は考えたのでしょう。
どうして宇宙があるのか理解出来なかったからです。
(現天上界の聖霊の顕現を知った時、人間のような神がいたから人間が生まれたと、
宇宙を、人間を作った、神の愛から人間は生まれたと信じて安らぎを得たのでしょう。)
(宇宙を在らしめる)法則は理解されず、人間の持つ心も愛もない宇宙から
人間は生まれた(創造された)など理解の及ぶ所ではなかったでしょう。
宇宙を在らしめるのが法則であることを理解し得ぬ現代人が、二千年前と変わらず今も、
創造神以外に神はいないと人類の進歩の足枷になっているのです。※2注終)
善なる人々の中で悪を知らずに生きてきた者が、悪とは何か悪を許さぬ善とは何か、
そのような観念を持てるものと、悪を知らずに善を愛する知恵を持てるものと考えられますか?
【(人間が他の動物から分かれ、知性を持ち、自然から半分独立した為に)
己で考えるが故に過ちを犯し、悪を犯してしまう"原罪"を持つに至った
(本能に突き動かされる動物は、立ち止まって善や悪について考えることはありません)、
それ故に善の方向へ向かわねばならないということ。
悪の観念が生まれた故に善の観念が生まれたということ、
そして悪の裏付けのない善は存在しないともラファエル様は仰しゃっています。
現象テープ№21 「原罪について」。】
絶対神を善であるとするならば、絶対神は悪を何処に見出していたのでしょう。
絶対神と共に悪魔も最初から存在していたと考えるのでしょうか?
(人類を創造されたとされる絶対神にとって)悪の観念に従い悪を為す者への怒りを、
悪の犠牲になった者への悲しみを経験する(人類の中に見る)前から、
絶対神自らの心の中に悪の観念を見出し、
己が心にある悪なる観念を憎む善への愛
(の観念、その愛もまだ注ぐべき対象を持たずして得た、
そしてその愛を注ぐ為に人類を神は創造したと信じられている)を持ったと言うのでしょうか。
絶対神が心の中に作り上げた観念の世界に於て
(心の中で善と悪を戦わせての)得た知恵でこの世を、
人類を創造したということになるのでしょうか?
体験を通して(痛い目に遭って)得たものからしか、
人は自らの知恵とすることが出来ないことを知る理性にとって理解不可能なことです。
善と悪を考える理性を必要としない本能によって愛に、
幸せに生きる動物を愛することに満足できずに人類を創造したということでしょうか。
絶対神は、自然の法則に従う本能を人類から取り去り、
代りに与えた理性(絶対神を理解することも出来ない)は人類に自由意思を齎したが故に、
神に程遠い未熟な理性故に、神の心には存在し得ぬ悪が現れたのでしょうか。
人を生かそうとする絶対神の与えた自然の法則に神の善を見出さずとも、
神に従わずとも自由に好き勝手に生きられると、
人を破滅させんと言い寄る悪魔の本性を見抜くことも出来ぬような人類を
絶対神が創造されたと言うことなのでしょうか。
これを絶対神の業と考える方はどうかしているのではないでしょうか。
絶対神からにしろ、自然からにしろ、
人間の肉体は(どのように成長するかも)与えられたものですが、
心は生きて行く上で作られて行きます。
少なくとも人類は、知識も善悪の判断力(即ち理性の働き)も何も持たずに生まれて来て、
何も考えなくても肉体は正常に成長しますが(勿論不慮の事故や薬害など無い場合です)、
心は学習如何によって如何様にもなります。
(健全な心に成長する者もあれば、
歪んだ性格となって愛を知ることなく一生を終える者もいるでしょう)
たった一度の人生経験で善と悪を理解し、
どちらか一方の心に生きる決意を人間はしてきたのです。
人間として生きることが善に生きる心も悪に生きる心も作るのです。
それ以外に人間が善なる心を持った者は一人もいません。
ブッタ様やイエス様以上の努力をされた者がいるでしょうか、
もしそのような方がいるなら彼等のような悟りを、神の心を得られたに違いありません。
肉体を持たぬ絶対神がどのように善と悪を知る者となったか、
絶対神を信じない私には解りかねることですが、
人間として生きる上で、仮令自分に不利となっても
正しいと思うことを貫くことで善なる心を自らの心にした人間がいます。
そしてそれ以外に善なる心を得ることなど出来ません。それが人間です。
絶対神の善が、知恵なき人間が苦しみに喘ぎながら見出した善と
どうして同じ善であり得るのか。
善に抗う悪がある限り、悪に勝つ善なる心である為には、
悪に欺かれる心を、悪に繋がる心を許してはならぬ故に、
常に善を心掛けねばならないのであり、
(悪が為されようと為されまいと)影響されることのない、
完全な状態であり続ける絶対的善(なるものを持つ存在)などあり得ません。
人間が苦しみとする悪も、喜びとする愛も他から齎されたものです。
故に自らの犠牲を厭わぬ他への愛が生まれるのです。
人間は社会的にしか生きられない動物なのだから、
この世に神の国を作らねばならないのです。
自分の命を失おうと、人を助けよう、
善を貫こうとする心以上の善なる心を私には理解出来ませんし、
その心を現天上界の神々が持つものであり、
人も神の心を持つことが出来ると語られた現天上界だけが
私の前に現れた霊であり、私の理解出来る神の心なのだから、
彼等の心を否定する、自らを神と名乗る者が他に存在しようとも、
その信者の心に信じるに足るものを見出すことは私には出来ないでしょう。
真に善なる心は、善に対して謙虚である故に、
人の中に神の心を見ると宝物を見つけたように喜ぶ心です。
天上界の神々が敬われるのは、天国がそのような心に生きる人々の世界だからです。
イエス様が仰しゃったこの世を救うのは天の神々の計画であり、
個人(救い主)ではないのです。
現天上界のすべての善霊の心は繋がっているからです。
救い主(宗祖)を敬って天上界を顧みない人達は、天上界の善霊の心を知らないのです。
ですから彼等のメッセージの伝える真理(善、愛、信義)に生きる者なら、
現天上界に真の神の心を見出せない筈がないのです。
現天上界の神々の指導も、守護もなく、
僅か数十年の人生経験で現天上界の神々以上の善なる心を、愛を見出した者などいないのです。
天の厳しい善の導きの中で、
サタンの誘惑を見抜く知恵と、苦難に屈しなかった精神と、神への信義を勝ち得た者以外に、
神々と同じ善我を持った者がいると考える者に真理(善)が理解されているとは思えません。
現天上界の善に、愛に遠く及ばない者と知っても、
それでも彼等に近付こうとする彼等への愛を持てたのは、
彼等の導きであったことを信じられたからであり、
彼等の心に達することが出来ないのに、彼等を置いてそれ以上の存在を望む思いというのは、
悪魔の力が神に勝ると信じて、神の心を捨てた裏切り者の心と同じだと思うのです。
現天上界の神々の心が善であるのは、悪を知り悪を憎む善に徹したからであり、
如何なる苦難に遭っても善なる(徳に生きる)心を貫くことが研磨と呼ばれる、
人の心を堕落から、善なる心の滅びから自らの魂を守り抜く唯一の生き方であると
彼等は語りました。
悪に勝たぬ善であっては、そのようなものを善であると満足していては
天は生き残れなかったでしょう。
悪に心を支配させぬ為には、悪に、悪に靡く心に鈍感であってはならないのです。
善への愛の無い、悪を隠し持った偽善が見抜けないようでは、
真の善なる心ではないのです。
悪が為され、悪を嫌う善が意識されるから、
その悪に負けない善を自らの心に在らしめんとするのです。
悪が如何なるものか知らずして、どうやって悪を憎む善に徹することが出来るのでしょう。
悪に勝るから善が存在し得るのです。
悪が始まりなのです。
何故なら、人間が動物から進化した際、自分の生存の為にのみ生きようとする心にあっても、
生命の意志である本能により自然の法に従い、自然の調和の内に生かされてきた心が、
自らの生きる知恵を得て、自然の法に従う本能から解き放たれた時
【自己保存か、他を重んじる理性か、どちらであっても自らが選ぶ自由を得た
(己が意志に委ねられた)時、理性(神の心)を求めず、
他を思う心を顧みぬ自己保存の思いに、何よりも己を大切にする心に従った者には、
神を知る知恵を得られず(善霊の願いは伝わらず)、
美しい心に、神の心に出会っても心の清められることのない、
妬みや憎悪が悪魔から与えられる偽我が残されるのです】、
悪が生まれました。
自己保存の本能(に従う自我意識)は、すべてを生かそうとする自然の法から、
自分を優先する自己愛に従うものへと変わりました。
盲目の内に自然の法に従っていた自己保存の本能(に従う自我意識)は、
何よりも本能の欲求を欲望に従うことで満たされることを知ったからです。
自己愛から自己肯定(自己の優位の為なら善も調和も顧みない)という偽我が生まれました。
自己愛から自然の法を犯す己をも許す悪が生まれました。
自然の法を犯した為、動物(人間の生きるに必要を超えて殺されました)が犠牲になりました。
犠牲は動物に留まらず、同じ種である人類をも手を掛けていきました。
自然の法は、悪(法を顧みぬ偽我)を抑えられず、
善(神の愛に生きる善我)だけが悪に立ち向かう、
滅ぼすまで悪と戦い続ける善無くば、自然の法によって齎された調和に、
人類は与ることが出来ないのです。
何故なら、善(自然の存続する状態)にあって、初めて調和が齎されるからです。
悪(共産主義)によって齎された闘争に生きる偽我は調和を求めません。
支配を求めるからです。
神の国を、神の善を受け入れることで、人の心から悪の芽を摘むのです。
自然の法を蘇らせる神の法が、人の心に調和を齎すのです。
自己保存の本能は必要です。
その本能が自己愛に留まらず、神の愛へと昇華させることで調和を得るでしょう。
その指針が神の法である正法です。
動物は悪を意識出来ないので善も意識されません。
他を食する、他も自分を食べようとする、
それは必然(自然の法に従うということ)であるからです。
だから生かされている間を懸命に生きることが彼等の意志なのです。
人間のように神の法も知らず自らの判断基準で他を裁き、己を許す自由など知らないのです。
"創造神は存在しないということ"
悪が始まりであった。
法に背き、人(自分)に危害を加える人間の心が生まれたから、
大切なものを守ろうとする愛の現れる善なる心が、悪に負けぬ善が意識されたのです。
故に悪を知らぬ善なる者など、
悪を知らず、悪を創造することなく(悪を創造したとすれば悪魔です)
善のみを創造し得た神など存在し得ないのであり、
自己保存に生きる動物にもなかった悪が、
自然の法を見失い、肉体の求めが満たされても、心の渇き続ける、求め続ける、
満たされることの知らぬ心(自らの心を制御する理性を育てることを知らぬ)人類が誕生した時、
初めて悪(自らが生きるに必要を超えて他を貪る、他の幸福を踏み躙る)が現れたのです。
法に従う、知恵に生きる意志の理解出来ぬ、
破壊衝動に生きるを喜びとする偽我(悪霊の心)を知って、善(に生きる心)が現れたのです。
悪の存在しなかった、自己保存の本能を持つ人類の存在しなかった、
宇宙の存在しなかった時から、善を知る創造神など、
真の神を理解出来ぬ蒙昧な人間の頭脳にしか存在し得ぬものです。
動物にない人間の獲得した知性とは、
全て生まれてからの経験、学習を通して初めて精神(の働きを齎す大脳)が開発されるのであり、
それなくして判断力も、その基準となる善悪の知識も持ち得ない、
動物社会で育てば肉体上は人間であっても開発された頭脳は動物社会で学習したもの、
即ち動物の心(条件反射)しか持つことが出来ないのですから、
環境に適応しようとするのは全ての生物の持つ本能の力であり、
人間社会という環境に生きることに於てしか善悪の判断力にあっての善の選択
(自然、即ち全ての生き物の調和に於てしか人間社会の存続は出来ぬこと)も為し得ず、
また善に生きることに於てしか善なる心(神の心、真の神を知る心)は自らに現れないのです。
その人間の内なる神の心に於てしか、神は認識されないのなら、
真の神も人間と同じ心でなければ、人間との心の接点を持ち得ないのではありませんか。
経験することなく完全な善なる心を持った創造神など、
知恵の開発途上であった人類の想像の産物に過ぎません。
(人間に霊体が見えないように、人間として生きた霊体は人間の属性しか持たない為に、
霊体は霊体が見えない、肉体を持った人間しか見えないことが知らされましたが、
人間の霊体である神には人間が見えても、人間には神は見えないのが当然なのであると、
故に神は善なる心からしか生まれぬ善なる波動の力(それは熱意に他ならぬもの)
によって人の心に働きかける、
人の善なる心を目覚めさせるのは、神の愛(熱意)しかないのであり、
真に神の心に目覚めた者はそれが神によって為された業であることが直観されたのです。
そのことを伝えた彼等は真の神であると直観されるのです。)
何年にも亘って、私達は天上界高次元の聖霊からメッセージを受け取りました。
多くの人々を前にして霊媒の声を通して、
その場に在します神々(元七大天使の方々、ブッタ様、イエス様)がメッセージを伝えられました。
このような天上界の法を、真理を愛する心によって統治される世界、
天国をこの世にあって知ったのです。この世にあって神の国に生きたのです。
二千年も前の時代に、この世に神の国の齎すことが出来ると信じたイエス様は、
神の国は近付いたと人々に述べ伝えられました。
真の神の愛(人類を救わんとする神の御意志、天への道の指針)を知ることで、
人々が善なる心を取り戻すことを信じられたのです。
天に導く真の光と地獄に誘おうとする偽りの光を見分けられるでしょうか。
心の目覚めぬ者が真の光の道を歩めるでしょうか。
闇に生きる、心の盲いた人々に光が、救いの手が伸べられていることを伝えられるのは
目覚めた者、光を証する者だけです。
法灯になるとはそのことを言うのです。
現代にあって、天の声を聞くことを知らない、聞こえない人々に、
その真実を伝える為に、悪霊に満ちた地獄(この世)に降り来って語り掛ける、
その為に如何なる犠牲を天に齎したか、その声に聞き従った人々に齎したか、
私達は知っています。
そのようにして残されたのがこの天上界メッセージです。
天上界は、伝えるべき法は伝えたと語られました。
その法に生きる、法灯となる者が神の国を齎すのだと伝えられたのです。
後は 、神の心に生きようとする人類に懸っているのです。
神の国が齎される迄、神から授かった天の法、正法を伝え続けねばなりません。
「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」75頁
「三次元の歪みを正しくし、人々の心を正しい方向に向けることのみが
地球に平和を齎す唯一の方法であり、且つそれ以外にはないことも改めて述べておきましょう。」
(注。
世の中全体が堕落しているのに、
仮令政治家の責任が重いものであっても、一人政治家の堕落に罪を押し付け、
責任を負わせても世の中が、人々が正しくなることなどあり得ないでしょう。
政治家の堕落を不正を声高に叫ぶ多くの人々が真に善を愛する人々なら、
ここまで政治家の堕落を許す世の中となるまで何をしていたと言われるのでしょう。
多くを苦しめた政治家に比べ、たった一人の人間に罪を犯したに過ぎないからと、
人を不幸のどん底に陥れ、悔いぬ者の罪が軽いなどということは決してありません。
政治家の所為にする者で、罪なき者が一人でもいるでしょうか。
一人一人が責任を自覚することなしに人類が罪から自由になることはないのです。
人類全体に罪が及ぶからです。
偉大な指導者やメシヤによって人類が救われる、
そのような他力本願では人類が罪に生きる心を克己し得ないのです。
人類全体が目覚めて行かなければ人類に救いはないと
ラファエル様の仰しゃるのはそこにあるのです。
人類全体が堕落した中での、
それ等の人々によって選び出された者が、彼等に巣くう悪を持たぬ者であり、
彼等が自己保存からしがみ付く悪を知る者であり、
それが犠牲を伴うものであろうとも、人々に悪を知らしめ善に生きる心へと目覚めさせる、
そのようなことが望み得ると思われますか。
神のメシヤにさえ人類は罪に生きる心を悔い改め、聞き従わなかった、
メシヤを真の指導者として迎え入れなかったではないですか。
一人一人の正しい道を行かんとする心しか人類を救い得ないのだと
ラファエル様は仰しゃっているのです。注終)
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様