第四部 天への思い
第一章 天への信義

二節 天の声に聞き従う
「現象テープ欠番」より
 83年12月24日 イエス様現象

「あなた方一人一人の心の中に法を守るという、そして、法の下に結束し、又、
私達と共にユートピア建設を実現させようとする決意をお持ちの方々は
一体何人おられることでしょうか。
 魂の堕落というものは、己が身を安穏な所へ置くところから始まります。
 我が身をより困難な所に、又、
そして、より知恵と勇気とこの法を生きる糧として生きようとしていく人の中で、
私達はその方達を守護していく者であることをここに断言致します。

 法の如く生きようとする方々、あなた方は心を強くしなさい。
 そして、今あなた方がその持っている決意、
そして、その信念を悪に決して譲り渡すことのないよう私達の前で誓いなさい。
 私達は、その者達と共に今後又、歩いてゆくことをここに約束する者です。

 いい加減な形で、又、
その場しのぎの形で法を論ずるのは止めなさい。
法が汚れるだけです。
 私達天上界のものと
巷間で騒がれている偽正法的な論法と同一視されては天上界を侮辱するものです。」

現象テープ№21 「原罪について」より
 80年4月13日 ラファエル様現象

「すべての人が理解を持ち、正法を実践し、神聖に目覚めなければならないのです。
 それは古来の宗教で言われてきた神秘的な体験であってはなりません。
 何故ならば、宗教に依る神秘的な体験などは、直ぐに感動が薄れてしまいます。
 それはあなた方もよく経験することだと思うのです。
 神秘的な体験の次に来るもの、
それは真の自分は一体どのようなものであったかという目覚めなのです。
 人々はそれに当たった時、大変苦しみます。
 私は何と自分勝手な人間なのであろうかと … 。
 しかしその自分勝手な人間を、他人思いの人間に変えてゆくことが今の課題なのです。

 私達はよく子供にも美しい心でいなさい、立派でいなさいと言います。
 しかし美しい心と言われるものがどういう心なのか説明できますか。
 美しい心というのは他人の幸せを願う心です。
 不幸な人がいる時、或いは自分の愛している人がいる時、幸せになってほしい、
自分に望むように相手にも幸せを願うこと、それを美しい心と言います。
 それが今の世の中のように、あなた方の善の進化を妨げ、悪へと助長させる風潮が強い時程、
その発達が望まれます。

 美しい心 ー あなた方は他人の幸せを願う
(天上の波動と合う、神の想念が心に満ち溢れる)時に、
自分で何か清々しい一種独特の飛躍的な気持ちになるのを感じたことはないでしょうか。
 あると思います。
 その心を常に失わずにいてほしいのです。
 又それは思うだけであってはなりません。実行されなければならないのです。

 思うだけなら誰にも出来ます。
 しかし、もしあなた方が危惧に陥っているように、食べ物はなくなり、人口は増え、
正に地獄の世の中へとなった時に、そうなることは避けたいのですが、そのような時に、
自分も一つのパンが欲しい、そう思った時に隣の人にパンを分けてあげられる、
そういう心になって欲しいのです。

 あなた方は今日、家に帰ったら何を考えるか、今日ここで何を学んで帰ったか、
それぞれの胸に抱くことがあるでしょう。そういう心を大切にしてほしいのです。
 向上心とはそういうことを言います。
 そしてあなた方が常に人の幸せを願っていることを私達は望んで止まないのです。
 何よりも自分が立派になろう、きれいな心になろう(後回しに)することよりも、
(今を)きれいな心でいることを望むことです
 自分はこうなりたい、ああなりたいと願うよりも、まず自分がそういう心でいること、

何よりも、何時も何時も他人のことを願う人間であってほしいのです。
 そうすればあなた方は自ずと自己の性格の発展をも促していると気付く時があるでしょう。」

 ブッタ様が仰しゃったように、
"善我に、自我に目覚める"までが大変なのです。
 目覚めて動き出せば、そのように生きてゆけば、
自ずと精神も強められてゆくでしょう。
 何故大変なのでしょう。
 神様がやって下さる。
 自分なんかよりももっと立派な人がやってくれる。
 他人事なのです。
 自分は神の御意志を知る者と(なれたらではなく)なった以上、
神の御意志に生きる者であらねばならないのです。
 それが神を信じるということだと思います。

 天上界の教えを、思いを理解出来たから、
それで自分も天上界と同じ心を持てたと、天上界に愛されているとでも思うのでしょうか。
 その思いを為そうとする意志にならなければ、
それをしようとしない(今までと同じ)心に操られているだけだと思われませんか。
 正しい心が何であるか解っても自分のものに出来なくて何の意味があると思われますか。
 自分が間違っていたと本当に反省されたのなら、その反省が正しい心から現れたのなら、
間違いを生んだ心に在ることを許してきた、善なる心を見出せずにきたことを覚ったのなら、
正しいと思ったことを実行する心へと思いを強めて行くことが、
真の反省なのではないでしょうか。

 例えばあなたが天上界に愛されるような心になりたいと思ったとしても、
そのように思う今の心の内に、神の愛以上にこの世に求める思いを隠し持っているとしたら、
本当に神に愛されることを望むなら、
その思いに相容れぬ偽我に生きようとしていることが判らない訳がないのです。
 偽我を愛して偽我に生きて、神に愛される善我を持ちたいといった思いを抱くとすれば、
明らかに偽善であり、自己欺瞞の心に生きているのです。
 あのようになりたいという思いの表れは、
実はそれを望まぬ相反する醜い心を認めまいとする自己欺瞞
(自己肯定の安心感)に安住しているのです。
 真実の自分の心を知るには、今掴むことの出来る正しい心を逃してはならないのです。

 天上界がそうあってほしいという心から目を奪っているのが、
人から羨まれるを知る故に、あのようになりたい、なれたらという、
人の賞賛を求める心、自己愛を満たす為に生きる心です。
 天上界がそうあってほしいという心があなた自身の心に在るのであり、
在るが故にその心へと向かわせまいと、今のままに留まらせようと、
自己保存の心によって私達の心は飼い慣らされてきたのです。
 天上界の愛される心になれたらと、善を求める心であることに自己満足し、
自らに厳しい内なる神の心に従うことを拒んでいることを悟れないのです。


 選挙になると必ず、一人一人が投票に行かなければ、世の中を変えることは出来ないと
そのように言わずにいられぬ御仁が現れますが
(そういった方が神の御意志を知って、自ら行動を起こさずにはいられぬまで
神の思いを受け止めるだけの神への愛を持てるかどうか判りませんが)、
要するにそういうことです。
  誰を選んだらよいか迷うことはありません(偽りに騙されぬ知恵がなければなりませんが)。
 相手は真の神様です。皆さんが選ぶのではなく、選ばれたのです。
 政治家が国民の僕であることを望むならば、皆さんがまず神の僕であらねばなりません。
 皆さんが政治家に劣る者であっては、政治家が皆さんの僕となるなど不条理です。
 そうは思われませんか("汝らの義、学者・パリサイ人に勝らずば、
天国に入(い)ること能(あた)わず"とイエス様も仰しゃっております)。

 野党は、国家(与党)が国民への義務を怠っていることばかり論(あげつら)ってますが、
多くの国民の最も強い意志が国家の意志になる
〖独裁者も一国民であり、独裁者の意志に勝る意志を持つ
(強い力を持つ者に頼ろうと、依存しようとしない)国民がいなかったからに他ないでしょう〗
のだから、国家が国民にすべきなどと言うのではなく、
同胞に対して自ら為さんとする意志が最も多くの人々の意志となっての力が
与党に結実したのだから、
それが間違っていると思うなら、野党がそれに勝る意志を持たねば、
自らが何を為そうとするのか、その意志を同胞に働き掛けられないなら、
それは野党としてすら存在する価値はないと思います。
 一人一人が同胞への思いを持たぬ限り、世の中は変えられないでしょう。
 国家の批判をするだけで、与党に勝る意志を持てぬ者は政治家の資格はないのだから、
党を問わず、そのような者を選ぶ者にも非難する資格はないと思います。

 天上界は、世を救うのは救世主ではない、
一人一人が互いを認める善なる思いで繋がる時、世を変えて行くのだと、
神様が何とかして下さると安易な思いでは何時になってもユートピアは出来ないと
仰しゃいました。自分の国をよくしたいとの思いも同じではないでしょうか。

注。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」41頁
何かいいことをしようという気が起こったら、たとえそれがどんなに小さなものでも、
即刻その気持ちに従って、実行に移し、
折角の気持ちを変えないように、先へ延ばさないようにしなければならない。
ー 同様に悪いことをしたくなったら、直ちに心の中で抵抗しなければいけない。
 さもないと、いいことをしようという気持ちが次第に弱くなり、稀になると共に、
悪事に向かう気持ちの方は抵抗を受けない為に益々強く、頻繁に起こってくることになる。

 善悪何れに於ても先へ進むということは、我々が普通考えている以上に
小さなことから成り立っているもので、その両者のどちらが習慣になるかによって、
人はその生涯を決定的に勝ち得たり、或いは決定的に失う結果になるのである。」〗

 正法を、神の法を伝えようとされたのは天の愛であり、
神御自身から聞くという幸運を、愛を与えられながら、受け止めない、
愛に生きようとしないのはどうしてなのでしょう。
 神を見、神の声を聞き、神の在すこのメッセージの伝えられた場に
(何時如何なる時でも、神の声に耳を傾ける時、
今を生きられる神々の思いはその者と共にあります)、
天の愛に導かれて、たとえそれまでは相応しくない者であったとしても
神の愛を確かなものとひとたび感じ取った時から、
今迄がどうであろうと、神に応えたいとの思いを抱かずにはいられないでしょう。

(自らの内に神の心を見出した時、
その心に喜ばぬような者がいるでしょうか。
 清々しい神の心に立つ者は、
執着心から求めてきたものは、自らを苦しめてきただけであることを覚るでしょう。
 天から伝わる善の、愛の波動は、
自分に囚われ、苦しんできた空しさを思い知らせるでしょう。
 天の思いを素直に受け止める心は、
過去の愚かしい己への劣等感や卑屈さに甘んじる
歪められた精神、自意識、我執から解放されることでしょう。
 人を裁く心しか知らぬ者は、自らを高み(悪魔の心)に置くものと悟らぬ限り、
天の思いを感受する心とは一生無縁に終るでしょう。)

 今この時に神の思いを、
神の愛を感じられないような人間でありたくないと思うのなら、
自らの内に神の思いの伝わる神の心があると信じたなら、
今その心に立つ以外にない。
(それとも、その心を自らの心にすることを、
真の己自身になることを望まぬ何か理由でもあるのでしょうか。)
 己が魂の永遠に生きることを、己が未来をのみ思うような者に、
生ける神(の心)を受け止める時は今この時以外にないと、
今を神の心に生きようと努めぬ者に、
神の愛に生きる時の訪れることはないでしょう。

 自己愛に生きる己が心に何の価値があると思うのでしょう。
 そのような心であり続けねばならないことに耐えられますか。
 今正しい道に立つ心だけがその道の先に、
すべての善なる心が願い求めて来たユートピアの現れることを信じることが出来るのでしょう。
 正しい道を共に行く者同士以外に誰と正しい未来を築けるのでしょう。
 経験や知識の乏しい未熟な心であっても、天に目の向けられた、善を正義を抱いた心である限り、
正しい道を見出せるのであり、その道を歩くことなく正しい心の成長もあり得ないのです。
 常に最善を求め、尽す思いの中に、神の御意志が、
神の国(のあらゆる善き観念)が現れるのであり、
光(真理)に盲いた心に善きものが生れることはありません。

 愛を必要としているものに気付く心が愛の現れるに相応しい心なのであり、
愛に従うことを差し置いて他を優先させるものであってはならないのです。
 愛の為には如何なる困難にも屈しない時、愛を裏切らない心と言えるのであり、
愛に準ずる、愛に満ちた人々の心と繋がるのでしょう。
 今、心が愛に生きているなら、愛の生きる未来を作ってゆくでしょう。
 愛のない心の描く世界は、(今愛に生きていない者の)頭の中だけで作り出したイデオロギーと
同じで、愛することも、愛されることもない人々の心が齎す地獄しか出来ないでしょう。
注終)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法