第四部 天への思い
第一章 天への信義

"天への信義を問う"
「 JI 」82年6月号 ガブリエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」150頁

「魂の研磨について以前に私は皆様に種々お教えしましたが、
そのこととは別に今あなた方にお伝えしたいのは、
正法者と一口に言っても色々な人があり、自らの生命を惜しむあまり、
天の意に背こうとどうしようと、隣人に自分を保護し、安全を計るよう
頼んで廻るような人もおります。

 それも自分のやり方が拙くてそうなったのには何の反省もなく、
周囲の行動もストップして平然としているのです。
 そして又、周囲の頼まれた方もその人を庇うのが慈愛だと思い違いをして、
天への信義について問うことは少しもしない。
 却って私達にも同様にしてやってほしいと頼んでくるのです。

 私は皆様も御存知のように天上のメンバーとして一際厳しく、
人の愚かを一々指摘し教え導くようなことは余りやらず、
その為人が躓き、天王の叱責を受けるまで放置しておくのが常なのです。

 しかし目に余るこの愚かな正法者の行動を天は決して見逃しはしないと明言致しましょう。
 その人の意を容れて、個人の為に天への義務と信義を疎かにした隣人は、
何と私達に弁明しますか?
 流布活動の意義を忘れてしまったのですか?

 あなた方の私達への忠誠は、天の意志も計画も挫折させて平然とする程、
いい加減な浅薄なものなのですか?
 こういった人達の日頃の大言壮語は、只表面だけ天に諂
(へつら)う言葉にしか過ぎず、
何の誠意も真実もそこにはないのです。

 臆病なだけで次にどうすれば良いかという案も智恵もない。
 何時も私達にどうしたら良いかと聞きにくるばかり。依頼心しか育ってないのです。

 天の為に生命を棄てようと誓った正法者もおります。
 生命を棄てるのは厭だからと流布活動も出来なくなった人も居ります。
 そのどちらを私達は喜ぶと思いますか?
 よく考えてごらんなさい。

 私達は愚か者や臆病者を天に迎える為に地上に来たのではないのです。
 そのような者を迎えれば、悪霊との闘いに天は何時も苦杯を嘗
(な)めねばならず、
サタン・ダビデとの戦いと同じ経過を辿ることになるでしょう。
 私達は信頼できる天のメンバーが必要です。
 何時如何なる時も、その勇気と智恵と行動力に於て。

 これは女性の場合も同じです。
 素直であるなら、よく働くなら立派な正法者だと自惚れるのは本人の自惚れにしか過ぎず、
その人の愚かの故に正法活動に停滞を来し、
天に在っては悪霊の前に他のメンバーを危うくするような人は同じく、
正法者と自称する資格もなく、天に迎える人物ではないのです。

 繰り返して言いましょう。
 臆病で智恵なく行動力なきことは、
信義や正義や愛さえも自らの養分と成すことは出来ず、
従って天の求める徳を身に付けることは出来ないでしょう。

 それは、私達の無用とする宗教人、イデオロジストにも劣り、軍人や愛国者にも劣り、
国や世界の滅亡を来らすものであるからです。」


一節 真の神に帰れ
「慈悲と愛」81年1月号17頁初出
 千乃先生「正法者への伝言板」より

「世の中に歪みが少なく、正しい思想、教育、政治政党のみであれば、
私達は他教義、宗教宗派と同じく、のどかに美しい夢の世界を現実離れした言葉で語り、
音楽について語りましょう。
 しかし末法の世にそれを為すならば、それこそ現実逃避、
世界の混乱に背を向けた卑怯な処世術そのものとなるでしょう。
 世の乱れが激しければ激しい程、きれい事を並べるのは、
心の中で私達にはどうにも出来ない事柄だと投げてしまった無責任な態度なのです。
 厳しく自分の心の中を見つめ、正しく分析なされば、そういう答えしか出てきませんでしょう。

「善と正義と信義は三本の縒り合されたひもであり、
愛と信仰は、それによってもう二本加えたより丈夫なひも、というよりロープとなるものです。
 その様な幅広い人格を持とうとするならば、与えて貰うのを只受けて、
"万象万物すべてはお恵みだ。心が清まった。有難い"
という受身の姿勢では到底我慢出来ないでしょう。
 正義は歪みを嫌うもの。信義は卑劣な生き方を嫌うものです。善は悪心とは相容れません。
 愛は自らにも厳しく、他にも厳しい。自他を損なわない為に塩味を有するものです。

 信仰は天に己を合わせ信義で以て天と繋がる心。
 天は世の歪みを許しません。

 歪みや不正や卑怯なエゴイストを放置するような天は真の天ではなく、悪魔でしかないのです。
 悪魔はすべての人格の価値を嫌い、意識の向上と錬磨を阻み、
要領よく妥協して上手く泳ぎ廻る人間を喜び、その名誉心と虚栄心をくすぐります。
 それがお判りにならなければ、御利益宗教と正法の違い、

正法全体を把握することは不可能でしょう。

 世を是正するのに比喩を用いては世人は判りません。
 余りに虚偽とごまかしが横行しているので、ごまかしの理論に惑わされて知らぬ間に
カンボジアやフィンランドやアフガニスタンの二の舞を演じる様な国ならば、
正法は必要なく、神の言葉も要らないのです。
 天は愚かな人々を好まれないのですから。

 ブッタ様は古代インドのカースト制を改めさせようと人々を導かれました。
 イエス様は邪教と因襲と形式主義的祭司連を鋭く批判、
人の心の汚れと堕落を一掃しようとなさいました。
 モーセ様の十戒は人の愚かと罪を賢明な生活へと教え導くものでした。
 世直しとは世の歪みを正し、正道に戻そうとする動きです。
 正道を誤らせ、邪道へ引きずり込むものは世直しではなく破壊です。
 具体的に世事に即して教え導けぬ者は、
自らを供し、諸人の先頭に立って善事を為さぬ者は、
百万遍の読経と同じく、ミミズの戯言にしか過ぎません。
 現正法は神より与えられているものです。
 現在神々の居られぬ、自己の安泰のみを願う俗宗派と同列に置いて、
無思慮に批判の目を向けないで頂きたいものです。

「宗教団体など無くても生活に支障を来たさないのに、
何かの見栄の様に、タブーの様に宗教宗派とその眷族(けんぞく)を温存しておきたがるのは、
やはり宗教は精神の象徴、という様な錯覚が迷信的な固定観念となっているのでしょうね。

 宗教的な建物や雰囲気が無ければ精神活動も始められず、
神についても思い出すことも出来ない。
 良心もぐらついてばかり居る
ー 何という人格の怠惰と未熟さでしょうか。
 人間性が高尚な人格の熟成を示したのは古代ギリシャの一時期、
善志向の哲学が学問をリードした時期のみではありませんか。

 神を知ることと、僧職、宗派に隷属することとは全く別次元。別の世界であるのに。
 正法というのは堕落した宗教界を離れて、真の神に帰れ、という啓示なのです。

"今属している宗派、教義の何処が悪いのか、
納得出来れば(あなた方の主張される)神に従いましょう。"
という質問が大なり小なり私に届きますが、
神と宗教団体と両天秤に掛けて迷うとは、一体その人は何を求めているのか、私は判断に苦しみ、
何度も愚問が襲来すると堪忍袋の緒を切らしてしまいます。
 誤りは教義の細目にあるというのが絶対の理由ではなく、組織、教団の在り方なのですから。
 教義の誤りは『慈悲と愛』誌に充分説かれております。」

「先日もサンケイの取材で東大寺管長との談話が紹介されておりましたが、
大仏は偶像ではない、とどのような根拠があるのか確信しておりました。
 そもそも偶像とは木や石などで(など、ですから青銅でも銅でも同じ)作った像、とあります。
 古代ギリシャ、古代インド、古代エジプトでの礼拝の対象はこの偶像であって、
偶像崇拝が連綿と続くので、モーセ様の前に現れた生ける神ヤハウェ(エル・ランティ様)が、
像を拝むことを禁止されたのです。
 仏像は偶像ではない、というのはこじつけと言い逃れであって、
像を作って拝むから、祈祷文を結び付けたり、水を掛けたり、
お賽銭を賽銭箱に入れる手順を踏まねばならなくなったり、
多額の奉納をすれば願い事が叶うという錯覚を起こしたり、
段々とエスカレートして、迷信の対象となってしまうのです。
 こういった所が儀式、形式主義の誤りなのです
が、誰も敢てそれを指摘せず、
何故宗教法人に金銭がダブつき、大建築建立を容易に行えるのか、
その原因究明が出来ずにいるのです。
 現行のままの宗教組織団体を容認、再建など以ての他です。
 
神が禁じておられることを堂々と行って、神、仏について語る資格は一つもありません。

備考
 真なるものと偽なるものを見分けることの出来る真の知恵を得た者なら、
人類は神と共にあったことを信じる者なら、
偶像など目もくれないでしょう。
 偶像とは、神が心の盲いた人類の為に、目に見えぬ神の代りに崇める為に、
神が作った訳でもない、神の与り知らぬ物です。
 神を求めるならば、何の価値もない物です。

 神の思いが届かない所に私達の心がある故に、神の思いが解らないのなら、
私達の心を神の心へと近付けなければなりません。
 それが私達に出来る唯一のことであり、神を愛するということではないでしょうか。

 偶像崇拝をして、それで神を信じていると満足するのは、自己欺瞞です。
 しかも神はそのような神の心を知らぬが故に知っていたら偶像など作りません
作り得た偶像を、神ご自身の代りに崇拝することを忌み嫌っておられるのです
(至極尤もなことだと思います)

 生ける神の心を、神の愛を伝える繊細な波動を遮る偶像
物でなくとも、教義の押し付ける神の概念も同じです。
 真の神を見失っていることに気付かせないものを崇めるなら
神の与り知ることのない
偶像なのです。
を何ゆえ神を差し置いて求めるのか。
 人々に語り掛けられている神が何故、偶像を必要とされていると考えるのか。
悪魔ならいざ知らず神が偶像を通して人々に語り掛けるなど絶対にありません!
 彼等は神の語り掛ける声に聞き従うことを本当に望んでいるのでしょうか。
 真に神の思いに生きたいと望んでいる者が
何ゆえに本当の神に向き合おうとせずに沈黙の偶像を崇めるのか。
 偶像を崇めるなと言われた神の思いを考えたことがあるのでしょうか。

イエス様を十字架に付けた同じサタンが、人々に十字架を崇めさせているのです。
 サタンは、イエス様の様な自らを犠牲とすることが、
神が喜ばれる"神の愛"である(サタンが神の子を迫害する為の口実にしているのです)と、
信仰を十字架に縛り付けるのです、サタンが心を束縛しようとするのは、
人類から自立心を、自ら考える意志を奪う為です。
 人類が(サタンによって齎された)神の概念に縛られてきたことに、
自らの神の心、知恵に生きることに目覚めることなく、
サタンの支配下に生きるべきものであり続ける為なのです。
 人類を自ら考えさせず教義に盲目的に従う者とする、
神に依存させようとするのがサタンなのです。
 そして神に依存する者を神を偽るサタンが滅びに導き、神の思いを踏み躙るのです。

 真の信仰は自由な心からしか生まれません、
自由な心からしか神を見出すことが出来ないからです。
 神が喜ばれるのは犠牲を厭わぬ愛であって、犠牲が目的なのではありません。
 犠牲によって滅びることではなく、神の愛を見出して自らを救うことです。
 犠牲が、苦しめることが目的なのはサタンです。

 残酷な十字架の苦しみにも耐えた神への愛を、イエス様は伝えたかったのではありません。
 神を信じ、神の愛に生きる時、
悪(偽我)から、我執から自由な心(善我)を得ることを、
魂の解放を、人は神の救いにあることを伝える、神の救いの福音なのです。
 十字架はそれを踏み躙ろうとしたサタンの残酷以外の何物でもありません。
 天上界の神々は
イエス様の十字架に手を貸し、神を捨て悪魔に従った人類の残酷を感じることなく、
生贄(十字架)を欲したサタンの冷酷を悟ることなく、
己が憐憫の心に溺れ、十字架像を崇める信者の心に、真の愛が宿ることはない、
神の真の愛を理解することはないと見ておられるのです。
 真に天上界の伝えんとされる福音の理解を阻んでいるのが十字架なのだと、
天上界は仰しゃっているのです。
 真の神、天上界の聖霊が十字架を望んでいなかったと伝えられたのです。
 これでもまだ神の愛とは如何なるものであるのか理解することが出来ないのでしょうか。

 神を見出せないから、偶像崇拝をする。それで何が満たされるのでしょう。
 神が見出せたでしょうか。
 神を見出せなくて安心出来ないのなら、見出せるまで安心してはならないのです。
 目に見える偶像でごまかしてはならないのです。

 あなたは神を愛しているのではないのですか?
 その神の心が解らなくてどうして安心してしまうのですか。
 イエス様ですら、十字架を目の前にしての神の思いが伝わらなくなった時、
死ぬほど苦しまれてゲッセマネで祈ったのではないですか。
 沈黙する神の御心を理解された時、十字架を受け入れても、生命に代えても、
神の耐えられている思いに応えようとされたのではありませんか。

 本当に神を愛したいのなら、その愛に応えられてきた神の愛が分からないでいられる、
そのような愛でよいと思えるでしょうか?
 神の御心を知らねばならないのです。
 そしてそれ以上の知るべきことはなく、それ以上の喜びはありません。
 神の御心が解らないのは、私達が神から離れているからです。


"天に在る神々の意志と計画のみが人類を救う"
 偶像を崇めてはならないのは言うまでもなく、
真のメシヤを偶像視してもいけないとイエス様は語られています。

 ご自分を、そしてブッタ様もモーセ様もメシヤとして崇め奉ってはならない、
メシヤが個人である場合には人を救う神とはならない
(彼等が自らの内に神の心を見出したのは、
天の導きがあったからであることは忘れようもないことだからです。
 何故なら彼等は今、その神々の一人として、彼等を導いた神々と共に、
自らの生命を賭けて私達を救おうとされているからです)、
天に在る神々の意志と計画のみが人類を救うからである
とイエス様は『天国の証』で証されています。

 ユダヤ教徒であろうとキリスト教徒であろうと、自らの心から神の心を締め出しておきながら、
モーセ様を、イエス様を信じると言う信者
(己が宗教を信じる者だけが救われる、他の宗教を信じる者は救われないのが当然と考える、
神の愛を踏み付けて自己愛に生きている)を天上界が信じられるとでも思っているのでしょうか。
 イエス様が仰しゃっている天上界の御意志がこの世を救うことを悟らぬ者が、
己が宗祖を崇拝して、天上界(すべての聖霊)の御意志(想い)を感受出来ぬ
尊大な心(偽我)が己であることを悟らぬ者が、
天に信用されるなどあり得ぬことです。備考終

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法