第三部 神から授けられた正法
第四章 神の法
「JI」82年12月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」160頁
「正法とは天の美しさを伝える以上に徳の厳しさによって導かれねばならぬ神の法であること。
神の法であるが故に、そこには微塵も軽々しく、且つ俗的で、
視野の狭い考えが存在してはならぬこと。
天が未来を語る時、それは常に永遠に連なる善と正義の予見が存在していること ー
それらをまず心に深く留めて、自らの洞察を養い、過ちを防ぐ努力をして頂きたいと思います。」
「慈悲と愛」79年12月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」79頁
「常に真の物と偽の物とを見分けるべく心を落ち着けて深く考え、
天の法は何れであるか、何れに於ける天の証が真の物であるか、
ブッタ様の法、イエス様の法の真髄が統合された正しい流れは、何れに於いて説かれ、
且つそれよりも新しく、精神を豊かにする価値を持つ法が説かれ(ねばならなかった。
そのことも解って貰えない為に、ラファエル様がこのように語り掛けられました。)ているか、
文明の持てるすべての知識と先人の智恵を照し合わせて判断すべく、心に問うて確信を得て下さい。
生半可な知識では判り得ぬものです。あなた方正法者の中の智者に問うて学んで下さい。」
神の与えられる法とは、神自らが従われている法です。
神ご自身が従うべきものとされてきたものです。
(神は御自分に従えと仰しゃっているのではない、
すべての生き物を生かしめている法に、自らを救う為に従うように、
強制ではなく、人自ら神の心に目覚める、真の愛、万物への愛に目覚めるように
導いてこられたのです。)
神の法を差し置いて、従うべき如何なる法がありましょう。
宗教ならば内容如何を問わず、信じる自由を保障するという法(※1)は、
神からのものではありません。
偽りの神を信じる自由を保障することは、神への背信行為です。
真か偽か判断出来ない為に宗教を平等に扱うならば、
すべての宗教に法人と認めてはなりません、邪教を法で守ってはならないのです。
悪に利用されるだけです。
盲いて滅びようとしている人類が目覚めて救いの道を見出すことを神は願われているのです。
信仰の自由は守らねばならぬからと、
盲いた者に悪魔と同列に扱われて神が喜ばれるとでも思っているのでしょうか。
宗教は、宗教に従事する者は特別だから、
特別扱いされることを当然と考えているのでしょうか。
彼等は本当に神を敬っているのか。
本当の神を敬っているのか。
真の神は、高慢を戒められたのではなかったのか。
神を敬う心を失ったら、もう宗教家でも何でもありません。
常に神を敬う心に生きる、天の光の下にあろうと望むならば、
神の光を、慈悲を求める心ならば、
神を戴くべき高みに己を置くことが出来る筈はないのです。
特別扱いに甘んじることから、堕落が始まるのです。
己を特別と思うことが既に堕落しているのです。
【庶民が救われると、自分も神の子になれると信じることが出来る為には、
彼等を導く宗教家が人として生きる上での苦しみに耐え、克服した者、自分が救われたように、
庶民の救われる為の手助けをしたいとの熱意を持った者でなければならないのは当然でしょう。
そのような者が初めて宗教家になり得るのです。
自らを庶民に秀でる者と見做しているような者を天は必要とされません。
人が神の子になるとは、
そのような神の心を誰もが持っている、
その心に立ち返ることで神の子となるのです。
人が神の子になるとは、
真の神を神であると知る心に目覚めることです。
宗教家は大切な神の子を預けられた者です。
神にその信頼を受ける、それ以上に誉とすべきことがあるでしょうか。
神の信頼を得て、神の愛に満たされた心が、
神の愛以外に何も望むものはないことを知る貧しき心(謙虚な心)にある者が、
自らを高しとする(自らを特別な者と自惚れる)心を抱くことなどあり得ないのです。】
そんなことも解らなくなってしまった、善我を見失ってしまった者が、
堕落の道にある者をどうやって正道に導くことが出来るというのでしょう。
盲目(めしい)が盲目を導くとはこのことです。
彼等が宗教家を名乗るなど、以ての外です。
信仰の自由とは、唯一の天へと導く道へ、何処から入るか
(真の神の与えられたどの宗教から入るか) の自由であって、
信じることが赦される(認められる)神は唯一の方です。
(天の国に、神と共に、生きるに相応しい心を世に明らかにする、
世に働きかける者が天への道を歩む者です。
宗教はその入口に過ぎません。正しい道に足を踏み入れたに過ぎないのです。
知識を得ただけで心を磨くことのない者は、
教団という組織に居ることは出来ても天国に入ることは出来ません。
天国に相応しい心を持つ者が、磨かれた魂のみが天国に入るのです。
宗教の導きによって神を、真理を信じた時、天への道に踏み出したのです。
善なる心(で世に働きかける)を貫いた魂のみが天国に迎えられるのです。
如何にして善なる心を見出すか、善なる心を貫くか、
正法を通して明らかにされました。
天国に招く神々の思いが初めて証されたのです。)
法は罪を罰する為にあるのに、天の法はこの世に属さないからと、
法の守護者(神)に背く行為を許容する法であってはならないのです。
人間の良心は神から来ているのです。
神の与えられた良心に逆らい、己が良心の痛むことがない、
そのようなことを許してはならないのです。
この世の人々が神と悪魔のどちらに従っているのか見分けが付かないからと、
神も悪魔も信じるのは自由であるという者が神の裁きから自由である訳がないのです。
天国の法を成り立たせているのは、どこまでも善です。
そして善を愛する者しか天国は受け入れません。
神から与えられた善の上にこの世の法を築こうと為されてきましたが、
この世の物差しで神の御心を測る偽善が悪の心を生かすものとなっています。
神の法は、良心を生かしめるもの、良心に目覚めさせるものです。
この世の法を、神の法・正法に従うものにしなければなりません。
それがこの世に神の国を築くことに他ならないのです。
(※1注。
如何なる宗教や思想でも信じることを許すのが真の自由なのではありません。
それは真の自由に生きんとする善なる心を失わせるものです。
「JI」84年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」184頁
「理性を働かせて、科学的に冷静な目で事象に対処することが文明人の智恵であり、
迷信や盲信、はたまた狂信的な人格とは異なるあり方であると、私達は幾度お教えしたことか。
しかし理性と科学的な判断力を培えない現代の日本の教育法では、
そこで育った若い正法者も、共産主義者や年長の宗教的人格と同じく、
迷妄の域を出ない人が多いのは止むを得ないかも知れません。
すべては左翼である日教組の為した破壊現象であるとしても、日教組を排除する智恵なき親と、
老獪(ろうかい)なマスコミの洗脳活動の狭間(はざま)にあって、
自由な国に住みつつも、子供達や若者は既に社会主義の犠牲になってしまったのでしょう。
民主主義という虚名の下に、弊害のみと知りつつ、
誤った思想の教育団体や政治・宗教・文化団体を擁護しなければならぬ民主政治の仕組みは、
自由競争と人格の錬磨の場を与えてはくれてもその利点に関しては
時に疑いの念が湧くのを防ぐべくもなく、最近は焦慮することしばしばです。」
政治家を選ぶことが出来るのは選挙権を持つ者だけです。
その資格を持つ者は国民であるが故に、
政治家にとって国民は神様(この世的な表現に於いてですが)ということになります。
しかし政治家は国民でなければその資格が与えられないのですから、
神様の立場である国民から自ら国民の僕である政治家になろうというのであれば、
真に自己犠牲的な精神の持主でなければ出来ないように思うのですが
(最も能力のある者として選ばれるスポーツ界の(国民の)代表のように、
選挙で選ばれるということも、誰よりも優秀であると国民に認められたという意味の代表だと
当選された代表の皆さんは思われているのでしょうか?)、
その能力が認められた者が大臣などになっているのでもないようです。
各派閥から派閥の力関係に相応しい大臣の椅子が振り分けられていたとしても、
相応しい能力を持つことが前提条件とされるのは言うまでもないことと思うのですが、
それも人を見る目のある者が組織の長に選ばれる、
真の民主主義が貫かれてこそ為し得るのでしょう。
どのような立場に於てもその役目を自覚して為そうとする者でなければ、
如何なる世界にあっても(その能力は)認めれることはなく、
政治家も選挙で思い知ることになればまだ救いはあるのでしょうが、
日本国民が自ら勝ち取ったものが民主主義の精神という訳ではないので
(左翼などは民主主義と言っても中身は全くの共産主義でしょう)、
到底民主主義者とは思われないような者も選ばれるのが
現代の(発展途上の?)民主主義と呼ばれるもののようです。※1注終)
「慈悲と愛」79年4月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」40頁
「しかしあくまで私達天上界の見解は、
真に民主主義の原理を生かし得るものは自由主義思想の中に於てであり、
人身、内心、言論、表現、学問、等の自由を保障し、
人間が神の前に平等に有する権利は、国家に先立つもの(※2)であり、自由たるべきものとし、
如何にプロレタリアートが数に於てその権利が保障される社会が
真の民主主義政治形態であると(誤導)し、
国民の選出した機関であるソビエトへの権力集中をマルクス主義が唱えたとて、
その原理の優劣のみを盾に取り、しかるが故にソ連は世界を支配し、
その侵略的態度を正当化するものとはなり得ないことを改めて説かねばならないのです。」
「天の奇蹟・上巻(天上界への質問と解答)」ラファエル様解答より
「勿論この聖典(旧約・新約聖書)を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠のもの(※2)であって、
私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると
理解して頂かねばなりません。」
(※2注。
「アンティゴネーの決意」江藤淳著 産経新聞平成九年五月五日掲載 「月に一度」120頁
「(前略)いうまでもなく『アンティゴネー』とは、
国禁に背いて戦死した兄の屍(しかばね)を手厚く葬り、
その廉(かど)によって石牢に生き埋めにされ、
自ら縊(くび)れて死んだテーバイの王女アンティゴネーの悲劇である。
オイディプース王の二人の息子のうち、弟のエテオクレースはテーバイの王になっていたが、
王位を弟に奪われた兄のポリュネイケースが、復讐のためにアルゴスの軍勢を糾合し、
テーバイの市門に押し寄せてくる。
凄惨な激戦の結果、兄弟は共に刺し違えて戦死する。
そのあとを継いでテーバイの王となったのは、二人の叔父に当たるクレオーンであった。
クレオーン王は直ちに勅令を発し、
テーバイの七つの門を守り抜いたエテオクレースは最高の礼を以て葬るが、
不義に与した反逆者ポリュネイケースの遺体は野ざらしにし、
烏や禿鷹のついばむままにせよと厳命した。
これに背いた者は、石打ちの刑に処するというのである。
ところでオイディプース王には、刺し違えて死んだ兄弟のほかに二人の王女がいた。
姉がイスメネー、妹がアンティゴネーである。
アンティゴネーは、王の厳命とはいえ戦死したのは自分の血を分けた兄弟である。
弟が義戦を戦ったからといって栄誉を以て葬られ、
兄が不義の戦いに与したという理由で野ざらしにされるのは納得できない。
「お姉様、お手をお貸しください。
ポリュネイケースの屍に礼を尽くして葬りましょう」と訴える。
王命には抗えないと、イスメネーがそれを拒むと、
アンティゴネーは、それならもう頼まない、自分一人で兄を葬り、
死罪になることも厭(いと)わないと、決意を告げる。
「生きている人の気に入られようとしても、時間はあまりにも短い。
でも死者を愛する者は、永劫の時間の中で愛するのです。私はそこに行きましょう。
お望みなら生きておいでなさい。生きて、最も神聖な神々の法に背きなさい」
やがて登場し、国禁の絶対を説くクレオーンに対して、アンティゴネーは昂然と言う。
「そんな禁令は神の思(おぼ)し召しではありません。
冥界の神々とともにある正義は、そんな法を認めていません。
あなたの勅令には、どこにも記されず、
変えられもしない神々の法を無効にする力などありません。
あなたは只の人間で、勅令は昨日今日のものですもの。
神々の法は永遠で、人間にはその起源すら確かめられないのです」
ここでアンティゴネーのいう「神々の法」「冥界の正義」とは、過去現在、宗教宗派、
勝者敗者の別や習俗の違いを超えた人間の死者を悼む心情にほかならない。
殊に「義戦」か否かに拘らず、戦死者は手厚く葬らねばならず、
いかなる国法といえどもこれを妨げることはできないというのである。
去る四月二日、最高裁判所大法廷が下した
いわゆる「愛媛県玉串訴訟」に対する違憲判決の報道に接したとき、
私がとっさに思い浮かべたのはここに紹介した『アンティゴネー』の一節であった。
先の大戦は連合国側の「義戦」であり、敗戦国日本の戦死者は、
そちら側から見れば不義の戦いに斃(たお)れたポリュネイケース同様に、
追悼に値しないというのかも知れない。
そして、「義戦」の勝者アメリカが書いて与えた
現行憲法第二十条が「政教分離」の原則を謳っている以上、
愛媛県が靖国神社春季例大祭のために支出した玉串料十六万六千円は、
当然違憲ということになるのかも知れない。
だが、そのとき、私の脳裡で最高裁大法廷の多数判決を支持した十三人の裁判官が、
俄にクレオーン王の末流に変貌したことだけは記して置かなければならない。
現行憲法の禁令のごときは、人の、それも外国人の定めた「昨日今日」の法令ではないか。
ソポクレース以来、
自国の戦死者を、威儀を正し最高の儀礼を以て追悼することを禁じられた国民が、
この地上のどこにあっただろうか。
国人よ、誰に謝罪するより前にこのことを嘆け。そして、決して屈するな。」
政治が宗教(団体に隷属する人々)に支配されてはならないように、
政治が悪(魔)に支配されてはならないのは言うまでもありません。
愛のない政治は悪そのもの、
共産主義に支配された政治です。
政教分離でさえあれば良いと、愛を顧みる心を忘れるようなら、
この国は充分、共産主義に洗脳されているのです。
米国に押し付けられた現憲法は、
ニューディール(共産主義者)によるものだからです。※2注終)
〖備考
天上界は、あのような人間になりたくないといった、
軽蔑すべき人間であったとしても軽蔑してはならないと言われます。
何故なのかと考えた時、そこには人を哀れむ、気の毒に思う気持ち ー
人を助けたい心から来る、
助けたくとも自分に助ける力が無い為の苦しみを伴う哀れみを知る心を持っているか
問われているように思います。
人を裁いていることすら気付かないでいる、
そのような心は、罪に巻き込まれる環境にいた者が単に自分ではなかったに過ぎないことさえ
考えられない者なのでしょう。
周りの悪や苦難によって罪に追い込まれる。
悪を憎む良心を持つ者であっても逃れられぬ世界に生きざるを得なかった者もいるかも知れません。
何等同情する心がない為に理解せず、
罪を犯したのは、その者の悪なる心だと独善的に裁くことに躊躇する、
人の心を顧みる優しさを持たない者が、裁かれるべき罪を宿す心を克服した者なのでしょうか。
罪に負ける心に打ち克った者が、罪の力に苦しむ者を助けられる者が、
救おうとせずに裁こうとするでしょうか。
罪に苦しむ人の前に立つ資格がある者とは、
裁こうとする心ではなく、救おうとする心を人が見出せる者、善なる心に立つ者と信じられる者です。
罪に苦しむ心を何とも思わないような者に、人を裁く資格がある訳がないのです。
人が罪を償う、心の中の悪に向き合う勇気を人に与え得るのは、信義に生きる者だけです。
人を信じようとしない者は、その人の前に立つべきではありません。
人を裁くことが出来るのは、神の法だけです。
神の法に依って人は生かされることを知る者が、
人の心の善と悪を正しく捉えることが出来るのです。
罪の力から、偽我から逃れられない彼等が、
もし正法を知っていたならこのようにならなかったかも知れない、
善我こそ真の己として生きることが出来たかも知れない。
正法を知らされながら、人に伝えたい、知ってもらいたいという思いもない者に、
人を裁く資格があるでしょうか。
慈悲を与えるに値しない者に、
慈悲を与えるのは慈悲魔という偽我であると天上界は教えられました。
慈悲を与えるべき価値が人にあるか否かは相手の心を理解しなければなりませんが、
それも私達に慈悲心があってのこと、私達が神の心に在らねば何の意味があるというのでしょう。
人を軽蔑する心は、偽我から来るのであり、偽我に立つ者に人を裁く資格はありません。
慈悲という徳は真に人を生かす、人が自らを救おうと、生きようとする善我
(神と共に在ることを信じることの出来る心)へと導くものです。
慈悲を与えられて、慈悲を知り、
慈悲に応えようとする心に立ち返らずして天の心に繋がることはないのであり、
慈悲に背く心に留まる者に尚も慈悲を与えるならば、
人はその心を認められたものとしか解さないのであり、
彼等の偽我を肯定するという、
邪心を助ける慈悲の名を借りた魔性のものに過ぎないことを知らされました。
正法を知って尚、神の道を拒み、悪魔の道を選んだなら、
その者は自ら神の心を捨て去り、悪魔の心を己が心に選び取った者。
善に、神に敵する悪として扱えばよいのです(※3)。
(※3注。
「JI」88年4月号 ラファエル様メッセージより
「厳しさと愛と、正しさと慈悲とは区別が付けにくいものです。
定義付けするよりも、寧ろやはり健全な生活、精神のあり方と、
天と地との調和を求める方向に一人一人が努力し、
協力する事を善しとし、それから外れるものを是正する。
努力も協力もせず、破壊と破滅を齎そうとする者、社会の秩序を乱し、
神の法(モーセ様の十戒)に背く者は厳しく対し、悔いて改めるなら許す。
そのような心構えでいるならば、何を是とし、何を非とするかがよく見えて来ると思います。
共産主義思想もこの点に於て、世界の秩序を喜ばずに、
民族と国家と家庭を否定し、国民と国を守る軍隊を否定し、
社会の体制を根本から忽(ゆるがせ)にする不穏な主義である限り、
天は容認することはありません。」※3注終)備考終〗
神の法とは、この世が滅びるまで、
一点一画も廃れることはないとイエス様が仰しゃったものです。
天のすべての聖霊が、神の法に生き、この世に齎そうとされてこられたものです。
救世主が人類を救うのではない、天のすべての聖霊が心を一つにする救いの意志、天の計画が
人類を救うのだとイエス様は仰しゃいました。
神の救いの思いが一つとなるのは、すべての聖霊が神の法に生きる心であるからです。
人自らを救わんとする者を天は助けると言われた天の救いとは、天への道を歩むとは、
人が神の法に生きることに他ならないのです。
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様