第二部 神と人類の交流
第二章 天上界と聖書

二節 聖書について
「天の奇蹟 上巻(80年10月初版)」102頁
 著者(岩間先生)の質問へのラファエル様による解答より
聖書は一般に三次元で知られているように、一民族の歴史でもあり宗教書でもあります。
 又、神と人との契約の履行が如何に正確に為されたかを述べ、
それを神と人との大いなる絆と互いへの信仰即ち信義の証として、
神を信ずる者同士の心の支えともし慰めともしてきた書です。

 旧約新約を通じて貫かれた神の愛と、人の神への絶対的信仰が
読む者、信ずる者の力となり、励ましともなってきた証言の記録でもあるのです。

 神という超人的力を備えた人格神に、如何なる時も救われるという希望を持ち事を為す時、
人は父親に守られた子供のように日頃出来ぬこともやる勇気が出ます。
 聖書は正にその勇気を得た子供の日記でもあるでしょう。

 又、預言者や、神に選ばれた者をして、人の見えぬ未来を予言させ、
信じ難い奇蹟を行わせる超人的(三次元で可能でない事を可能にするという点で)力を持つ
(旧約の時代には"超自然的力"と考えられていた)神への信仰は、
人類の幼児の如き純真な驚きを伴う"力への信仰心"であり、超能力への信仰でもあるでしょう。

 神の救いと奇蹟に満ちた聖書がかくも長く人類の注目を浴び、
二千年いや四千年の昔のヘブル人の祖アブラハムと同じ深さと強さの信仰を
かき立てる動因でもあるのです。
 今述べたように、聖書とその背景にある神即ち私達の代表する天上界への信仰と固執は
他ならぬ"力"への信仰です。
 従ってこれが必ずしも理性に基づくものでなくても良く、
多少常識を超え、科学の約束事を逸脱した物語の羅列であっても、
芝居じみた訓話(旧約に顕著)であっても、
科学者をも含めて充分に理性的な人々にも抵抗なく受け入れられ、
人生のすべてをキリスト教信仰に徹することを可能にするのです。

 特にイエス様への信仰は、キリスト教学者の説によれば
"原罪無き処女懐胎により産まれられた原罪無く、穢れ無く、
無垢な救い主イエスの贖いの小羊としての死"及び、超自然の力を以て死から生を呼び戻した
偉大なる神への新たなる信頼とその神を戴く誇りの形を取り、
旧約時代にもいや増して強くキリスト者を神に結び付けることともなったのでしょう。
 信仰は理性に基づくものではない。
 それが故に又、最も過激思想と見られる共産主義に
キリスト者の転向或いは左翼思想のキリスト者がかなり見出され、
矛盾無く闘争運動に身を投じるといったことも起こり得るのです。


 キリスト教は財産共有制を歓迎する立場にあり、
信仰の為の死を喜ぶという共通な要素を持つからでしょう。
 勿論この聖典を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠のものであって、私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると

理解して頂かねばなりません。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法