第二部 神と人類の交流
第二章 現天上界と聖書

一節 現天上界と聖書との繋りについて
「慈悲と愛」79年7月号初出 千乃先生解説全文
聖書は単なる宗教書ではなく、メソポタミア北方のハランを故郷とするセム系のアラム人で、
後に神よりイスラエルと命名された一民族の歴史でもあり、しかも
神との契約により神の律法を守ることがその歴史の中心となった事が証されている書である。

 この一民族の神が一大宗教となり、世界に広まって熱心な信者を獲得したのは、
背後に聖霊が働き、かつまた自然信仰や偶像崇拝を神ヤハウェ(ヤーウェ = エホバ)
との約束を果たす為に徹底して廃し、唯一神信仰としての純粋性を貫いたことにもよる。
 迫害に耐え、苦難を乗り越えて変らぬヤハウェ信仰と教義の精神性が、
異民族延いては世界各国の共感を得たことと、
何よりもイエス・キリストによって確立された神の愛と罪の宥しが、
人生の苦悩の中を歩む人々に、他宗教では味わ得ぬ偉大な神への信頼と安心感を与え、
かつ見えぬながらもヤハウェは、"父"としての人格神である所から
親愛の情を覚えることにあったとも言えよう。

 まず旧約聖書の旧約とは旧い契約を表す。
 それはアブラハムを族長とする一族がシュメール人の偶像文化に彩られた華やかな文明に
融け込めず、前二十世紀前半に潤沢の地・理想の地であったメソポタミアを後に、
神との契約により約束されたカナンに移住したことを指し、これが最初の契約。

 それにも関わらず、彼等は住み慣れぬ地で飢饉に遭い、
更にエジプトに移住しなければならなかった。
 奴隷に売られたアブラハムの曾孫ヨセフが、神の加護によって宰相となり、
その為カナンはエジプトの干渉を免れたのもこの時期である。
 その後、一世紀以上を経て、百五十年間、上エジプトを支配していたヒクソス人
(イスラエル人と同じセム系の一族)が、被支配国エジプトの王の治世が変わって放逐され、
その結果その地に定着していたヘブル人は国の奴隷となり、以来、
種々の苛酷な労働や不公平な扱いに、甘んじなければならなくなった。
 曾てシュメール人の社会でも優遇といえる程のものはなかった、
しかし自由な遊牧の民としての精神を持つヘブル人は、
エジプトに於ける最初の隷属に耐えかねて日々を過ごしていた。
 偶像崇拝に馴染まぬアブラハムの信仰厚き心を神は良しとされ、
カナンの地に移住せしめられたのであるから、
同じく偶像崇拝に生きるエジプトを嫌い、
イスラエル民族(ヘブル人)をその苦難から救い出されるのは当然のことであろう。

 ここにモーセという、ヘブル人でありながら数奇な運命によりエジプトの王宮で王子として育ち、
しかし民族意識がその血に流れていた者が前十三世紀後半に現れ、
エジプトを離れてシナイの荒野で羊を飼う内に神の召命を受けた。
 そしてエジプトのパロの下に苦しむヘブル人を救い出し、
アブラハムの約束の地カナンへ、再び連れ帰るべく使命を与えられた。
 神との約束を守り、モーセは兄アロンと共にヘブル人を連れ出し、
出エジプト記に劇的に記されているが、終始神の奇跡が彼等を追手から救った。
 奴隷の生活から飢えと渇きの砂漠へと、
間もなく不満と反逆を繰り返し始めた人々を連れて荒野を放浪する内に、
カナンへの侵入に備え、烏合の民であるヘブル人を団結して行動させる為、
神はモーセを通して十戒を与えられた。
 その中で神ヤハウェ(この時初めてその名が知らされる)は変わらず彼等の神であり、
そして神の戒めを守ることをその条件とした。

 これを「シナイ契約」と言い、正にこの時この場に於てイスラエルの宗教が発祥したのであり、
神は自然神ではなく、人格神であることをはっきりとモーセとヘブル人の前に示され、
神と人とが互いに選び合い約束を交わし、倫理的に結び付いたのであり、
それ迄の世界のどこにもなかった新しい宗派の出現となった。

 モーセも、カナン定着を可能ならしめたその後継者ヨシュアも死に、
前十世紀に至ってそれ迄宗教的精神的指導者である預言者や士師を通じて
宗教的部族連合を形成していたヘブル人は、カナンの先住民との争いに王を必要とし、
預言者サムエルを通して神に命を受けた士師サウルが初代の王となって、統一軍事国家が誕生する。

 次いでやはり神に選ばれ、第二代目の王として、
初めてイスラエルを一大強国とならしめた名君ダビデ王が南北イスラエルの統治を実現、
その実子ソロモン王(エル・ランティ様本体)によってこの国に事実上の繁栄が齎された。
 その後の王政は、ソロモン王の死後、
近隣国との争いからメソポタミア地方に興亡する強大国とエジプトの支配に揺れ遂に、
バビロニアへの三度に亘る捕囚で王国は分裂、滅亡した。
 これは神の助言を容れなかったイスラエル、
祖国滅亡を憂う預言者の言葉を無視したイスラエルの民に下された、神ヤハウェの罰であった。

 しかしバビロニアに於て神は再び苦難のイスラエルを宥し、
預言者を通じて救世主への希望を与えられた。
 ソロモン王の死後の激動の五百年でもあり、旧約聖書の完成期でもあった。
 そしてアブラハムから二千年を経て、神の約束されたメシヤ、イエス・キリストの誕生となる。
 ここに神は新しい契約をイスラエルと結ばれたのであった。
 即ち神の愛により、
メシヤであるイエス・キリストの愛と義を通して

全人類に律法主義と争いと殺し合うことの愚かしさを教え、
隣人愛と自己犠牲(アガペー)による平和への指針が与えられた。

 これを新約と言う。
 しかしイスラエルは再び、目に見えるものしか見ず、
救い主イエスにあのダビデ王の強国の再現を欲したが故に、
神の御意志(みこころ)を悟ることなく、
イエス・キリストを認めぬ祭儀と律法のユダヤ教徒と、
キリストを信じ、魂の救いを目指すキリスト教徒に二分されてしまった。
 その後キリスト教が真の神により与えられた宗教として世界に浸透してゆき、
キリストを十字架に付け、キリスト教徒迫害に支配者に手を貸したユダヤ人は、
近年に於てキリスト教国の迫害を受け、蔑視の世代を歩むこととなった。
 これは神の与え給うた再度の罰である。
 しかしアブラハムからモーセを通して与えられた選民としての民族の誇りが、
第二次大戦中の悲惨と苦渋と迫害に屈せず、シオニズム運動の貫徹により失った祖国を取戻し、
イスラエルの四千年の試練と苦難の歴史は大戦後ようやくにして一つの区切りを見た。

 彼等は神に祈るが、
その歴史を通して神の大きな愛と罰と宥しとが与えられたのであることを知らない、
盲目の民である ー 。

 私がこのように、
今迄の聖書学者が述べたことのない神とイスラエルの両者の立場をはっきりと書けるのは、
聖書に収められたイスラエル民族の苦難の歴史を通して、
変わらぬ愛と信義と正義を示されたヤハウェ(ヤーウェ = エホバ)神その人と、
その御使いとして聖書の各所に現れる天使達、特にミカエル、ガブリエル等の大天使方が、
現天上界、即ち太陽系霊団の高次元の神々を代表するものとして、
今私に過去を語り、証されている
からなのです。
 終りに、聖書と初めてこの度目を通した詳しい解説書により、
私が既に編纂した天国シリーズに多くの類似点を見出したことが、
現天上界と聖書に現れる神との同一性を立証するものであることを、
その類似点の列記と共に喜びを以て述べさせて頂きたいのです。
 真理は今人類の前に呈示されていると。

一、「エル」はセム系の人々の間で「神」、「神性」を表し、それが用いられていること。
二、遊牧民を導く戦闘的で合理的・倫理的精神を特色とする神ヤハウェは、
 現天上界の説かれる精神と質を同じくする。

三、偶像崇拝を極端に嫌われること。
四、王政を築く迄は徹底した神権政治であり、ヤハウェは王と呼ばれたこと。
  現天上界は最高位の方を王とし、四次元と三次元を治めていられる。
五、最後の審判に先立ち、神と悪魔の終末的大決戦が黙示録に於て預言され、
 現実に一昨年(1977年)から昨年にかけてその戦いが行われ、その後最後の審判となった
六、旧約聖書の創世記の中でバビロニア地方の物語がノアの大洪水物語として描かれ、
 そこに神の証として虹が約束されている。
  現在奇跡の虹が続出していること。
七、天使即ち神の御使いが、アブラハムに現れた三人の天使(実はミカエル、ラファエル、ウリエル)
 以来数知れず旧約聖書に現れ、預言者には必ずヤハウェの御使いが語り掛け、民を導かせてきた。
  私達正法者も天使の顕現によって天上界を知り、且つ神の御計画を知った。
  今も王位を継がれたミカエル様他、元大天使方が、変わらず導いていて下さる。
八、新約聖書に記述されている異言(習わぬ言葉を語ること)を語らせられる。
九、当時の習慣として、戦争は軍事的行動であると共に宗教的行為でもあった。
  それは、部族神によって導かれた「聖戦」であった。
 (これは十字軍、ジャンヌ・ダルクの戦いに受け継がれている)
  イスラエルの民にとってヤハウェは「いくさびと」であり、
 戦争は「ヤハウェの戦い」と呼ばれ、敵はヤハウェの敵であって、絶滅されねばならなかった。
  占領された町の住民や家畜は悉く殺され、神の所有物として神聖視された戦利品を
 個人が私物化すると、その者は一族と共に火刑に処せられた。
  これは聖書では「聖絶」とか「滅ぼされるべきもの」と記述されている。
  同じような事から悪霊の支配を受けている書物や、
 天上界に背く者及びその一族も共に背くならば、「焼く」或いは「消滅」が行われる。


  イスラエル人の習慣はあながち神の指示によるものではなく、
 曾ての荒野に住む遊牧民として、また燔祭などに慣れていることから、
 「殺す」行為にあまり抵抗はなかった。
 (注。善霊の、若しくは悪霊の働きを受けて、強い意志を持つに至った人々の間に於ては、)
  正邪いずれも生命を賭けて戦うことが通念であり、
 そこに神から与えられる戒律には必ず「殺すなかれ」の条項が加えられる所以でもあり、
 悪霊(サタン)は「消滅」される迄天に背き続けることを覚えた。
  従って天上界に於ける戦いは、神と悪魔の終末的大決戦に於て、
 善霊と悪霊相互間に永遠の生命を絶つ壮絶なものであったろうことは想像するに難くない。
  同時に三次元と四次元は常に交流しつつ存在するのであって、
 互いの影響を免れ得ないことの証明でもある。
  霊の世界は天上界と雖
(いえど)も、
 人間の霊の集まりであり人間の属性を備えていることは否めない事実である。
十、ダビデ王の第二子ソロモンが王位継承をして後、神殿を建て、そこを祈りの家となした。
  そして最初に奉げた祈りは「ソロモンの献堂の祈り」と言われ、
 主の名によって祈る祈りは異邦人でも聞かれるが故に、
 全地全民族が主ヤハウェを信じるようになることが求められた。
  これがイエス・キリストに受け継がれ、キリスト教の神髄となった。
  イスラエルの宗教はこのようにして、モーセ以来世界宣教の宗教であった。
  今、正法は世界に流布されることを天上界より求められている。

「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」160頁
 著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より

「イエス様の誕生に備えて、人々を神の国の使徒となるべく心の備えとなさしめたことは元より、
エル・ランティ(ヤーウェ = エホバ)様の御意志を汲み、
何よりも神の選民であるユダヤの民の存在を危くし、神の聖なる城であるエルサレムの町を、
ローマの堕落した文化と虐殺によって帝国支配を強いた時代に、
ローマに忠実で、より残虐な血の粛清による支配を徹したユダヤ王ヘロデの足元に
踏み躙らせるに忍びず (すべてはサタン・ダビデの陰謀によるものであるだけに尚更)、
多くの信仰篤き人を通じ預言と警告を発し、勇気ある者を奮い立たせて、
神の祝福された平和で自由なユダヤの国を取り戻すべく、努力に努力を重ねました。
 が、サタン・ダビデの悪の扇動は、
虐殺と焼き討ちで人の住まぬ荒野と化した町を"平和"とした
ローマの非道な支配の形で熾烈を極め、遂に紀元66年には反ローマの大反乱が起き、
全ユダヤ対ローマ軍のユダヤ戦争に発展しました。
 しかしそれも77年、エルサレム攻城戦で最後の一兵まで滅され、
60年後の第二ユダヤ戦争も135年に全滅の後終結して、
ユダヤの民は再び離散、流浪の民となったのです。

 ハスモン家の祭司、老マッタテアと息子達により
(最初のユダヤの対シリア独立運動 = )マカベア戦争に勝利を得てハスモン王家となったが、
後に専制王の代となり、
それに抗し、批判の声を大にした故に処刑されたハシディームの人々、
及び第一、第二ユダヤ戦争に参加したエッセネ派の人々は、
サタン・ダビデの暗躍による侵略者や自国の専横非道な支配層への

隷従と屈辱を拒否し、自由と独立と民族の存亡を賭けた時代に生きた殉教者達であり、
神と民に生命を捧げた正義の戦士であったのです。
 ダニエル書、エノク書など、黙示文書を通じてのミカエル様他、
大天使の予言は真にユダヤ民族への警告と励ましでありました。
 今まさにユダヤの後裔としての日本の民
に、
私達が総力を挙げて世界の終りを警告していると同様に
ー 。」

注。
「天の奇蹟 中巻(82年9月初版)」293頁
 著者(岩間先生)の質問へのミカエル大王様による解答より
「(モーセ様の人となりについての岩間先生の質問に対して)
 モーセ様は背の高い方でしたから立ち姿に威厳があり、指導者としての寛容を備えた方でした。
 謙譲な方でもありましたから、私達は尊敬の念を持って接しておりました。
 イエス様の方は若いだけに気性が激しく、ねじ曲がった心の者の怒りや復讐心を招き、
サタン・ダビデが巧みにそれを利用し、扇動してあの悲劇を生ぜしめたのです。
 又、その民を弁護する点(天の意に応える一心の中にも、
天の思いに理解の及ばぬ民を庇うことをモーセ様は忘れなかったこと)に於ては、
現在の
(集いの)主宰達を思い起こさせるものがあります。
  モーセ様をイエス様を導かれた天の聖霊でなくしては語り得ない、
私達が彼等ユダヤ人の後裔でなくば聞き得なかったことでした。注終)

〖備考
 ユダヤ民族は神の導きに従った時、神の民となり、神の民となったが故に、
神のものを奪いサタンのもの(支配下)とすることを、神を愛する心を堕落させることを、
喜びとするサタンの標的となりました。
 ユダヤ民族は、神にとって人類の救いを齎すべく神の心と一つとなる
(真の幸福はそこに見出される)べく定められた、神の心に最も近くにあった民族であり、
その救いを、愛を破壊するサタンの思いを受け入れた者は、
神の救いを計画を破壊し、自らの神の心を破壊してゆきました。

 常に神は(この世に神の国を作る為に)今を生きる人々に働き掛けられました。
 その働きの内にあって、生ける神の心に触れ、
その愛を自らの内に見出した人々と神は共にありました。
 その歴史を理解しその歴史が神の国の建設の為のものであり、
その使命を担ってこの世に来たことを、今を生きるとはその為にあることを
思い出さねばならないのです。
 神の民であることを望むならば。
 今、神が人々に問うていることは、神の御意志を理解し得る神の心に人自らが立ち返り、
聖霊と共に、心を一つにして生きることを選ぶか否かなのです。
 曾て神に従ったすべての善霊が共に神の国を作ろうと、その思いを伝えているのです。
 彼等の思いが今も生きて伝えられてきたから、私達は神を信じる心を失わずにこれたのです。
 その事を現天上界ははっきり伝えられたのですから、
私達は目の前にある道が神の導こうとされている道であることを知り得るのです。
 その道を拒んだ時、人はサタンの道を行くのであり、
光を失えば、道を、生きるという意味を失くすのです。

 ユダヤ民族は神を見失い、サタンの(天上界を、善なる観念を破壊せんが為の)導きで、
民族の苦難の歴史を通して植え込まれた人類(他民族)への復讐への思いから共産主義を生み、
人々の心をサタンに従う邪悪とすべく呪い(悪魔のイデオロギー)を撒き散らし、
この世の人々を(そしてユダヤ民族自らも)地獄に突き落としたのです。
 ユダヤ民族は真の神を見出さない限り、救いに与る道を歩むことは出来ないでしょう。
 ユダヤ民族自らが蒔いた悪の種を摘み取り、
神が齎された福音、真理の種を蒔く者とならない限り、
神の心を自らのものとした者のみ許される神の国に入ることは決してないでしょう。
(ユダヤ民族の犯した神への罪を贖うにはどうすべきかについて、
第一部 第一章 七節 (二) サ タンの犯罪 で考えてみました。)

 神の国に迎えられる基準は、心の美しさ、神の教えに生きることを喜びとする、
善を愛する者であり、この世に於て、如何なる民族に属するかは、
何ら考慮されるものではありません。
 また、神の国をこの世に齎す天の理念を受け入れることが可能な、
現在この世にある政治形態は民主主義(勿論天上界が導かれたもの)のみであり、
共産主義(サタンに導かれたもの)の理念は、天上界に対立する(為に作られた)ものであり、
共産主義を突き進めば地獄をこの世に齎すものです。
 天上界メッセージに明らかにされていますが、
天に繋がる良心に生きる者は、それが真実であることを既に理解しております
(共産主義者が良心に背く者であることもまた明白な事実です)。

 天の真理に従うことを拒む者が、如何なる民族であれ、国民であれ
天の救いに与ることはありません。備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法