第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)

五節 イデオロギーの狂信者
「慈悲と愛」79年8月号29頁初出 千乃先生「愛を知らず」より
&「エルロイ(83年5月初版)」268頁 

「現代の共産主義者、左翼思想の人々がそのイデオロギーを最高の理念と信じ込んでいるならば、
その人々は程度の差こそあれ乱を好み、平和を嫌い、黒を白と言い替えるのについて良心が痛まず、 
人格的に高尚でなく(詰り人格の向上を望まない)、実はかなり非論理的で、
俯瞰的思考が不得手な単純人間の集団ではないでしょうか。

 マルクス・エンゲルスやサルトルの考えた図式や思考過程を青写真のように写し取って、
その通りに幾ら語り尽くし、行動の限りを為しても、
それは所詮レールの上を何処までも走る列車の如しであって、主体性の欠片も無いのです。

 人間とは記憶力のみ秀れていて、難解な書や理論を頭に叩き込んでも、
創造性に於て主体性を持ち、建設的でなければ、
大脳の三パーセントしか用いていないと天上界は語られます。
 詰り判断、推理力はゼロに等しいということです


 これだけマルクス理論が歪められてしまう迄、内部からの是正が叫ばれなかったことは、
即批判力欠如型の優等生が、習い覚えた理論を正確無比に繰り返してきた歴史であり、
実証ではないでしょうか。

 如何なる思想、如何なる哲学、主義主張であっても、
宗教でさえ、特定の国に於て歴史の特殊条件下に発生し、
マルクス・エンゲルスの時代にはキリスト教の価値を認めながらも、
教義や啓示の解釈の非合理性に対する批判も高まり、
権威主義的キリスト教の歴史と基盤を踏まえてそこから脱皮する風潮があり、無神論的唯物思考も、
近代科学の発展、産業革命による工業化の過程で生じてきた資本家と労働者の種々の問題も絡み、
観念論哲学がより一層科学的、合理的へと派生していったのであるし、
エンゲルスの革命思想は別として、
その時代や社会構造を科学的に分析するマルクス理論が出ても不思議ではないのです。

 それをすべて一から十まで、この科学文明の合理化され改善された社会に持ち込み、
些細な事に目くじらを立てて、
却って社会の合理的仕組みを破壊することになっているのに気付いていない。

 科学的、世界主義的、民主的、ヒューマニズム、と
既に世界に確立されているものを唱い文句に
革命、詰り既成社会の破壊をのみ目指すのは、
全く時代錯誤も甚だしいのではないでしょうか。


 彼等の言う所による帝国主義的全体主義的(実は世論を纏めるのに大変苦労している国ですが)
資本主義国家である米国では、共産主義者でない一般市民が身障者の福祉、貧民救済、
反戦運動などを行っているのです。

 何千年も何百年も前の祭儀の習慣や用語を、そのまま強行する宗教教義も共産主義思想も、
少しも進歩しない人間の精神面の象徴としか思えません。
 そしてイデオロギー批判を禁じられ、批判力を麻痺させてしまった多くの国の共産党員は、
恰(あたか)もソ連国籍の者である如くにソ連に盲従し、忠誠を尽くすのです。

 言ってみれば、中庸を外れた過激思想に過ぎない"革命思想"というものは、
はしかの様に一過性のものであれば、国を救い、改善することも可能であるかも知れないが
(フランスや日本の明治維新のように)、 
それが延々と何時果てるとも知れぬ肺病の様なものにしてしまうならば、 
自由という医学知識を持たない国民は 
只悲惨と死への恐怖と希望のない日々を迎えなければならないのです。

 マルクスが余りにも理想的な革命理論の基礎を打ち立てた(彼はそう意識してはいなかったが)
からといって、エンゲルスの当時の社会批判まで無批判に受け入れる人々は、 
無批判であるが故に幼児的で、幼児的であるが故に、
理想論が利用されているに過ぎないのであって、
独裁主義的、侵略主義的、軍国主義的、帝国主義的、全体主義的にならざるを得ない
社会主義国家という巨大な力に圧し潰されて、精神的支配を受け、
喜びの代わりに恐怖の半生を過ごさざるを得なくなるのです。

 人間の精神に取って自由の喪失と批判を禁じられる(誤りであると判っていてもです。
正しい法を批判しそれを歪曲することは、却って精神の後退と荒廃を招きますが)、 詰り
思考力の活動を阻止され抑圧されること程、恐ろしいものはないということ ー 
それが人間としての死であることを同志は教えてくれないのです。

 民主主義の政治理念に第一義として唱われている
個人の自由なくして何の民主主義でしょうか。
 キリストは愛を説き、
キリストに従った幼児である人達は同じ精神支配であっても恐怖ではなく喜びを得た。
 そしてマルクスやエンゲルスは愛を強調しなかったという只そのことの為に、
社会主義国家に住む国民は自由を失ったのです。」

注。
"理に適った思考が脳を開く"
「清らかな厭世(2007年10月出版)」64頁 阿久悠著
"問題と答をワンセットで
 いくら完璧に記憶しても
 想像力は生まれない"
「風が吹けば桶屋が喜ぶ」という言葉がある。「桶屋が儲かる」ともいう。
 さて、風の一吹きから桶屋の欣喜雀躍まで、どういう連想で繋ぐか、これ、一つの推理である。
 条件と結果を提出しておいて、途中の展開は自由、
とにかく、突風と桶屋の大繁盛が論理的に繋がると満点という問題の出し方をしたら、
きっと子供たちの脳は開く。

 こんなことを考えるのも、ある世代から下の日本人の想像力のなさと、
短絡的行為を危ぶむからである。
 どういうことかというと、問題と答がワンセットになる記憶が勉強だと信じた結果が、
襞のない思考になっているのではないかと思えるからである。
 それは、「風が吹けば桶屋が喜ぶ」を丸暗記して、
問題から結果へのプロセスを省略したのと同じである。

 勉強とは、問題でも答えでもなく、その入口から出口までをどう辿ったかである。
 この暗闇の中での出口への推理を重大なことと考えなくなったため、想像力が欠如した。
 問題と答をワンセットで記憶し、それ以外は間違いだと教えられた子どもたちは、
答えが記憶通りにならないと、ヒステリーを起こす。時には問題自体を破壊する。
 他に答えがあるかもしれないとも、別のアプローチが存在するとも考えないのである。

 それが、その後の子どもたちの生き方を支配していると、思えてならない。
 子どもたちが、問題よりも答よりも、解くこと、推理することに価値があると考え、
また、そのように大人が教えていたら、少なくとも短絡の悲劇だけはなくなる。
 そして、間違いなく社会の中での、他人に対しての成熟度に繋がる。

「風が吹けば桶屋が喜ぶ」を解釈するつもりはない。目的でもない。
 しかし、風に始まって桶屋が喜ぶで終るまでに、
砂ぼこり、目病み、三味線弾き、猫、鼠と連動していき、そして、猫がいなくなって鼠が増え、
その鼠が桶をかじりまくり、桶屋が商売繁盛という双六(すごろく)が作られているのである。
 これを、鼠と問えば桶屋と答える式に勉強しても何にもならないということである。

 さて、ぼくはかなり前に、子どもたちがせめてもう三語、
自分の思いを伝える言葉を持っていたら、人を刺したり殺したり、
また、自分自身を傷つけることもないだろうと書いたことがある。
 会話のラリーが途絶え、「てめえ」「うるせえ」「知るか」と逆上する前に、
もう三つ、出来れば五つ、見失った答に代わる言葉を持っていたら、
状況も、大きくいえば人生も変わるはずである。
 推理とは謎解きだけではなく、迷うことを楽しみに変えることでもある。
 答が出ないことに苛立つのではなく、その謎の深さとつきあうことである。
 この習慣がたぶん子どもたちを救う。

「清らかな厭世」92頁 阿久悠著
"人間の評価を
 二つ以上の条件で考える
 すると心豊かになる"(抜粋)
「あの人は金儲けは下手だけど、立派な人です」とか、
「あの人は成績は悪いけど、頭はいい人です」とか、
「あの人は流行には無頓着だけど、お洒落な人です」とか、
「あの人は不実だけど、心のやさしい人です」とか、
人間の価値を二つ以上の条件で評価しようということである。
「金儲けは下手」「成績は悪い」「流行に無頓着」「不実だ」だけを見て、
「立派」「頭はいい」「お洒落」「やさしい」という下の句を、
誰も考えなくなったことが、諸悪の根源だと思っている。

"日本の偏向教育の成果"
「JI」84年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」184頁

理性を働かせて、科学的に冷静な目で事象に対処することが文明人の智恵であり、
迷信や盲信、はたまた狂信的な人格とは異なるあり方である
と、私達は幾度お教えしたことか。
 しかし理性と科学的な判断力を培えない現代の日本の教育法では、
そこで育った若い正法者も、共産主義者や年長の宗教的人格と同じく、
迷妄の域を出ない人が多いのは止むを得ないかも知れません。

 すべては左翼である日教組の為した破壊現象であるとしても、日教組を排除する智恵なき親と、
老獪(ろうかい)なマスコミの洗脳活動の狭間(はざま)にあって、
自由な国に住みつつも、子供達や若者は既に社会主義の犠牲になってしまったのでしょう。

 民主主義という虚名の下に、弊害のみと知りつつ、
誤った思想の教育団体や政治・宗教・文化団体を擁護しなければならぬ民主政治の仕組みは、
自由競争と人格の錬磨の場を与えてはくれてもその利点に関しては
時に疑いの念が湧くのを防ぐべくもなく、最近は焦慮することしばしばです。」注終)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法