第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
一節 共産主義者とそのシンパ
(一) 神の心から見た共産主義者の心象
「慈悲と愛」83年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」164頁
「人は美しい物よりも醜悪を好み、正しい物よりも偽りの言葉や企みを良しとするのは何ゆえか。
恐らく美しさも正しさも知らぬ環境に育った者が醜く偽りに満ちた対象をしか与えられず、
より良き物を求める本能も育たず、暗く悲しい世界 ー 即ち人の地獄を作る故でしょう。
共産主義教育を受けた者は"良心"を捨て去ることをのみ学び、
その"良心"は陽光を求める自然界の生命の仕組みであることを学ばず、
"自由"とはその陽光を求めて如何なる方向へも幹を伸ばし、地下には養分の水を求めて根を張る、
"生きることを許された自由"を言うのであることを知らず、
"生きる為に互いを抹殺し合う自由"のみ与えられた、光なき世界に住む者。
哀れな歪み育った密林の住人なのです。
サタンの支配する暗黒の黄泉の世界です。
あなた方正法者も、正法に接することを喜ぶ読者も、決して彼等の地獄や密林が、
自らの美しい自然と"自由"に満ちた光溢れる天の国と
(心の中であろうと、実生活であろうとそれは同じ事)
引き換えるに足る物と錯覚を起こしてはなりません。
地獄とは正に社会主義国の、虐げられた、
"罰されることを恐れ、それを逃れる為にのみ我が身の行く末を思う世界"なのです。
サタンの配下である(共産主義者であり、科学者であり、文化人の)
密林の腹黒き使者の偽りの言葉や夢を信じる時、
あなた方はすべて良き物を失うのです。
社会主義者とてあなたの真の友ではありません。
彼等は世の秩序や調和された社会を"権力"と罵り、
それを破壊することが正義だと思い込んでいるからです。
憎しみや怒りは共産主義者のそれと同じく、"光"とは何の関りもない、
悪魔の意志、"闇"から出る物です。
(注。
某民族の生き甲斐とする"恨"なる感情も、
その出所はあらゆる偽我(悪魔に繋ぎ止める心)に共通するナルシシズム
(神よりも自分を中心に考える心)であることを覚らず、
恨みを晴らそうとする、憎しみが成就するまで、
憎むべき対象がその報いで不幸になったと納得するまで恨み続ける
(憎くて仕様がない日本から出ようともしないのは、
そのような心から離れたくないからとしか結論し得ないでしょう)、
彼等は永遠に地獄に繋げられた魂として生きることを自ら望んでいるのです。
避けて通ることが無難でしょう。注終)
それをよくよくあなたの友人や知人に話して聞かせて下さい。
社会主義国の現状が彼等の言葉をすべて空しく、偽りの積重ねにしてしまうと。
宗教界の半分は既に彼等の術中に陥り、天と神を見失ったことも ー 。」
「JI」85年1月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」47頁
「社会・共産主義化諸国の悲劇の歴史。
それらを理解しながら蜘蛛の網に捕えられた虫のように、自らを解き放てない人間の知性は、
人類という種の滅びを暗示するかのように見えます。
多くの善霊が殺され悪霊の跳梁する天の反映でもありながら、
世の終りが避けるベくもなく忍び寄る現実と、
それを来たらせるのは偏(ひとえ)に人類の無知と無自覚と無思慮な支配欲であると、
如何にすれば覚らせ得るのか。
善を喜ばず、悪に走る人類の業と言うべきでしょうか。
人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ないと、
あなた方は果たして理解しているのでしょうか。」
「慈悲と愛」80年4月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」98頁
「親左翼の人々やマスコミに対して自由を愛するあなた方は何を為すべきか。」
「インドシナ難民の潔癖とイスラム教徒の頑固さを以て、
あらゆる共産主義思想家、活動家及び、亡国論、反国家論に過ぎない"非武装中立"論者である
社会主義者の非をなじり、その諸活動を阻止しなければならないのです。
何ゆえか。
彼等は人心、思想、言論の真の自由を失うことについて無関心で、
彼等の信奉するものこそ、世界制覇の力の源であると信じ、
意識するとせざるとに関らず支配欲、権力欲に駆り立てられているのです。
何ゆえにか。
彼等は自由社会に於ては言論を半ば統制された状態に押し込められ、
彼等自身の偏った人心と思想の自由を充分に見出し得ないからです。
彼等は狭い周囲としか語らわず、
無批判に吸収するものは彼等のイデオロギーに関するものに限定し、
従って切り売りする知識と思想と言葉は単一偏向性を持ち、
彼等はかくして自由世界に住める身であっても自ずからと
同志の人心、思想、言論の統制をしてしまうのです。
自由である真の祖国は異国であり、彼等は常に反体制側に在ることを意識しているのです。
そういう生き方に慣れ、且つ慣らされている彼等は、
その自由こそ資本主義社会のみにあるのであり、
共産・社会主義体制にもあるとの考えは一切誤りである
と言われても真にその非を認めず、認めたくない彼等は、
体制樹立と主権奪回にあらゆる策を練り、智恵を絞るのは、当然過ぎるほど当然の現れでしょう。
登山家はなぜ山に登るのか。そこに山があるからだ、というのと同じ単純な発想で、
彼等は自由社会が在るからその放逐に専念するのです。
それでは何故彼等は既存の社会主義国に住まないか。
そこに彼等の世界を覇する支配欲が存在し、
戦いの勝者となる為にのみ権力闘争と名付けるものが、現存する所以です。
如何に理を以てしても説得し得ぬ彼等は、
イラン国民の如く信念に関して狂信、盲信のエネルギーを内在し、
平静を装うとも、抑圧された集団ヒステリー的病的心理が厳存するのは、
客観的に彼等の動向と論陣を分析してみればはっきりと判るはずです。
即ち理論でも理屈でもなく、感情が彼等の活力及び持続力となっているのです。
イデオロギーを固持する為の感情的武具と表現するならば、
彼等は脅迫的に完全主義的にその路線に人々を従わせようとする結果、
論戦の生じる所は枝葉末節に拘るものであったり、非現実論を持ち出したり、
相手の持論や論拠を自分達のものであるかの如くすり替えたり、
挙足取りであったり、実に愚劣で幼稚な論戦にしか発展し得ないものなのです。
常に二者択一であったり、彼等のものか相手のものか、
基本的には協調点がなく、譲る所もなく、歩み寄りもない。」
「JI」85年4月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」51頁
「人生の充実感は、平和時の殺人や略奪を容認する共産主義者には味わうことの出来ぬものです。
彼等は本能というものが生きる為の智恵であって、
欲望を追及する手段ではないことに気付いていない ー
実は本能に欠ける、性格破綻者であり、哀れな敗者 ー
愚か者の集団なのです。
(注。左翼(メディア)の人々は、消滅されるその時まで、
彼等の生きる地獄で阿鼻叫喚(にしか聞こえぬ)し続けるしかない魂です。
消滅なさる天上界の方が彼等を哀れと思われるのは、
彼等が悪魔にそのような思考の型をはめられていることさえ悟れぬ知恵なき故であり、
それを明らかにする光を、真理を与えられて尚、
神の愛を拒絶せずにはいられぬ救いなき魂の絶望故であり、
哀れと思われても躊躇なく彼等を滅する、
善に撤する神の御意志に生きられる聖なる霊であるからです。
神を偽る悪魔の偽善を見抜く知恵なき、
悪の力の前に自らの悪(自己保存)にさえ打ち克つ善なる心のあるか定かでない、
悪魔の甘言も見抜くどころか、おだてに乗せられるのが私達人間の姿であると、
神の愛を見失った、自己愛に溺れる魂を哀れと思うは、
真の愛を人に抱いてきた魂だけに許されることであると、
真の神の心(善に徹するが故に齎されるものが真の慈悲)を知った者なら、
高慢に陥ることなきよう自らを戒めるべきであろうと思います。)
愚か者は自分を救うことも他を救うことも出来ません。
その様な人生の敗者になりたくなければ、
左翼の虚偽を鋭く見抜き、知性の低さを嫌って避けて通るべきです。
気付かぬ人には忠告してあげるべきですね。
人生の喜びは共産主義の世界には存在しないことを ー 。」
「JI」86年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」39頁
「社会を病ませているのは他ならぬマルクス・レーニン主義者であり、
共産主義による世界制覇を信じ、殺人を容認する悪魔の超大国ソ連
(注。今もロシアに引継がれている)に精神的に支配されている、
病的性格の持主であり、集団なのです。
歪みや病的な生活習慣に慣れ親しんだ者が、共産主義の世界支配が実現した日から急に正常化し、
健康な精神生活に戻れる筈はなく、マルクス・レーニン主義を奉ずる者が自分達の無軌道な言動を、
主義主張の為の手段と考え、又、公言するならば、
それは自己正当化の為の誤謬、謬説でしかないのです。
同志の言葉を信じて無法行為を当然と思い込む者は愚か者であるし、
放縦な生活に抵抗を感じなくなった者は既に心が病んでいるのです。
反体制的言動に生き甲斐を感じる者は精神的に未熟であって、
一人前の社会人ではないことを、一般の人々は理解し、
クールな目でマルクス・レーニン主義を提唱、又はその精神に準じて行動する者を評し、
一線を引くべきであるとお教え致しましょう。
人々が同じ病に冒されない為に ー 。
自らを制する基準を持たぬ者は、正しい性格形成が行えず、徳とも無縁であるし、
幼児か病人のまま一生を終えることになるのです。
その様な者の説く理想など現実生活に役立つものではなく、虚構にしか過ぎません。
分析すればマルクス理論も一大虚構、盲説であるし、それに心酔する者は批判力を持たぬ幼児、
それを利用して主権を得ようとする者は精神的な病者に過ぎないということなのです。」
「JI」90年5月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」161頁
「ユダヤ民族以外のあらゆる民族の破滅を願って
人への憎しみと共に練り上げたマルクスとエンゲルスの合作、
共産主義理論には人間愛などあろう筈はなく、殺意と破壊の意図しか込められていないが故に、
それを「万人の自由と自主を望む」などと勘違いして信奉し、
家庭と体制と国家の崩壊に向けて、あらゆる破壊を試みた結果であるのに、
左翼評論家の詭弁として、 "マルクスの思想に基づく実験は袋小路に入り、
崩壊と再建(ペレストロイカ)の過程にある"に過ぎないから、
思想、言論の自由に基づき、日本人による"マッカーシズム(赤狩り)を戒めるべきだ"
との論調が台頭しているのは
頑迷と言うよりも、あれほどの史上に類を見ないイデオロギー殺人や破壊を何とも思っていない
人間愛欠如の性格を垣間見て、悪霊の予備軍として、肌寒いものを覚えました。
日本人と言わず、かくも頑迷な左傾論者や心情左翼の学者や文化人、
そしてマスコミ関係者は西側の自由先進諸国に(反体制論者が西側では殺害を免れてきた故に)
数多く居り、そして正にこの人々が間接的に、
共産圏や政権の国々の半数若しくは三分の二以上の人口の破壊に手を貸し、
殺人幇助(ほうじょ)とも言うべき罪を犯してきたにも関らずです!
米国のマッカーシズムや日本のそれが何時、
現実的に危険思想(注。共産主義のことです)を戒める以上に、
イデオロギーによる殺人やあらゆる反体制的な破壊を推奨し、教唆しましたか?
それをしたのはマルクス・レーニン主義者であり、それを支援した人々のみです!
マッカーシズムが最大の悪のように書き立て、中傷したのは左翼勢力なのです。」
「机上の空論と権力欲に取り憑かれた彼等に取っては、太陽も自然の恵みも、
ましてや中国の民主化のリーダーである柴玲さんと封従総氏の夫妻が逃避行三百日の後、
無事に西側に脱出し、香港のテレビインタビューで
『民主化の犠牲者のことを思い、自由への道は非常に困難で(現在の中共では)遠いが、
その実現の為に努力する。民主化万歳。自由万歳 … 今はこれしか言えない』
と語った万感こもごものその思い、夫妻の固い絆、
そして無残にも殺され続けた数多の共産政権の犠牲者への人間愛 ー
それを理解することなど、到底出来ないでしょう。
神が不在である国と人に取っては、権威への野望しか人生の目的がないのです。
しかもサタンと同質の極限の悪心しか有していない人々です。」
「JI」92年1月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」202頁
「人としての良心を捨て、何をしてもイデオロギーの為には許されるとしたレーニン自身、
明らかに自己の暴挙、非法を正当化した偽我の塊であるし、
それに準ずるすべてのマルクス・レーニン信奉者も、
知能が未発達或いは歪められて異常性格者であると言えます。
天の法や正義、ましてや平和をユートピアとする者とは何の関りも無いのです。
そういった者(神を恐れず、人も恐れない心情の持主であり、
犯罪者よりも自己の犯すあらゆる罪を正当化してしまう人格欠損者)
に社会の一員としての権利を与えることすら、人間の社会としては大いなる誤謬であり、
愚かしさの限りであることをまず、人は認識しなければなりません。
神はこれら共産主義者は、切り捨てる裁きと消滅の対象としか見てはおりません。
この者達の為すことをよく見るべきです。
彼等の行為こそ偽我そのもの。偽我とも言えないほど低劣な心情であり、悪の心なのですから。
しかし、偽我とは己の為す悪の行為、悪の思いを正当化する(所謂天の背反者が何時も行う行為)
のみならず、虚栄心や劣等感を隠す為の虚言、ごまかしもあります。
他に軽んじられない為と、競争心や虚栄心で己を拡大してみせる行為で、
他には被害は与えられない(左翼や背反者の嫉妬心並びに報復的な衝動は考慮しないとしても)
けれども不愉快なもの。
それは自他に何の益も齎さず、正法者である限り、止めるべきものです。
次に、段階的に正法者の中で、
より危険な人格の表れとして、自己を厳しく研磨する試みを怠った者に顕著な、
言わばレベルの低い自己防衛の行為ですが
(左翼の性格破綻に次ぐもの、背反に繋がる心情として非常に危険な傾向です)、
人を説得し、自己の主張に従わせようとするに虚言と詭弁を用いる ー
これほど拙劣で未熟なものはありません。
更に、それが天から他を離反させる為の手段となるならば、
それのみで充分断罪の対象となります。」
「JI」90年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「私達はあなた方とあなた方の家族も含み、
全人類の幸福の為に悪魔の王国がこれ以上蔓延るのを阻止する為に、
天と地の協力を願ってきたし、今後もそう求めているのです。
とかく目先のことに囚われ、楽な方にとばかり考えるのは無理からぬことです。
しかし、それが自己愛に限定された生き方で、
国家や人類のことに関しては、"誰かに任せておけば勝手にやるだろう"式の考え方では、
日本民族は滅亡するしかないのです。
市民の無自覚で無責任な生き方が、国を滅ぼしてしまった例は、
過去に遡(さかのぼ)るまでもなく、
共産政権に国の政治を明け渡してしまった国々の総てに共通する所です。」
如何なる主義であろうと人を正しい方向へと導くものなら、
人を生かそうとする心から齎されたものなら、
多少の誤りにその存在を認めぬほど天上界は狭量ではないでしょう。
しかし、ユダヤ民族が他の民族を支配する為に、他の民族の国家を、人間性を破壊せんが為に
齎そうとしてきたものがマルクス主義であることが明らかにされて尚、
それを認めない歪んだ精神、ましてそのように導く者を、天上界は断罪にすると言明されるのは、
真の天上界であることの証明するものであり、
(共産主義を信じるか否かに関わらず、自分達の宗教を信じている者は救われると考えているのか)
宗教団体が共産主義の邪悪に立ち向かうことのないことからも、
如何なる宗教の存続も容認しない、
宗教の愚かを気付かせ、宗教から解放することが神の救いであると言われる唯一の存在、
現天上界こそが真の神であることを証明しているのです。
第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
一節 共産主義者とそのシンパ
(二) 共産主義者の真実
① マルクス主義は「ユダヤ民族解放」のための虚構仮説だった
ユダヤ民族から共産主義が生まれたのは何故か。
彼等は「自由」と「平等」を齎すものと「革命」の名の下に、
君主制を転覆させていったのであり、日本を戦争へと追いやったのも、
天皇制を破壊する為であったことが明らかにされました。
日本国憲法を作ったのも彼等であり、
米国を世界大戦に参戦させたルーズベルトも彼等と同じ意志
(ヨーロッパのユダヤ民族をドイツから守る為に米国民の犠牲を強いる)
を持つ者として選ばれた大統領でした。
革命に、戦争によって君主制の破壊された後、彼等によって作られた民主主義
(という名の社会・共産主義)国家に齎された「自由」、「平等」とは如何なるものであったか。
(他に合わせられての)平等にあって(能力を伸ばす、他に勝る能力を持つ)自由はあり得ない、
平等は人の自由を奪うものであり、
そのように強制する者と、強制される者が平等ではあり得ない、
力ゆえに持とうとする者は、他の力を生かすのではない、
他から力を奪い取る、支配することを目的としているからです。
真の自由は、真理に生きる自由しかない、
肉体も心も生かそうとするのが真理なのだから、
真理に背かせようとする思い、思想は、
真理(を齎す者)に抗う意志に依るのだから、
真理に生きる自由とは、真理の生かされるを妨げる者を許さない、
そのような者から真理を守る為に戦うこと、
それが真理に生きる自由です。
真理に生きる能力は、人が平等に持つものではない、
その能力の開発に払われた努力に応じて、真理に生きる自由(能力)が等しく齎されるのです。
ユダヤ民族が、「自由」と「平等」を彼等以外の民族に信じさせ、
その君主を引きずり降ろして、彼等に何を齎したか。
国を持たぬユダヤ民族が、その国にあってその民族と変らぬ「自由」と「平等」が齎される、
それが(自由と平等に生きる)民主主義であると信じさせただけであり、
その国民と同じ自由を求めたが、
ユダヤ民族の信じる神の前に、他の民族が平等であることを望んだのではない。
他の民族による君主を滅ぼし、
その国の民族でなくとも権力を持つ資格は平等にある、能力次第である、
その能力を与えられたのが神の選民と信じ、
それを可能にする為に、神の選民以外の民族を獣に堕落させる、
「自由」と「平等」の生きる民主主義(※)と受け入れさせた
"共産主義"の本質であったのです。
天上界は常に個(人)を重視すると仰しゃいました。
人が神に従うとは、自らの神の心の意志に聞き従うということに他ならないのです、
自らの神の心に目覚めぬ者は、偽りの神も見抜けずに従う者だからです。
この世に神の国を齎す為に、神はユダヤ民族を導かれた。
神の信ずるに値する心へと、神自ら導き育てられた。
神の信頼に生きる心を失った者は、ユダヤ民族であろうと、
それは肉(種)に於いてユダヤ民族に属するに過ぎず、
魂に於て神の認める民に属するものではありません。
(※注。
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」114頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「民主主義とは何ら実体のない虚構概念(※文末)
我々が日本の戦後改革の支柱としたのは、「自由」「平等」であり、
それのコーディネーターとしての「民主主義」という言葉であった。
ここで大切なことは、「自由」「平等」はそれぞれ一つの確たる概念であるが、
「民主主義」という言葉は単なる言葉に過ぎず、何ら具体的概念ではないということである。
我々の言う「民主主義」は古代ギリシャ時代にいわれた「デモクラシー」とは
何の関係もないものであることをご説明申し上げねばならない。
我々の言う「民主主義」とは、
「自由」と「平等」の非両立性をカバーするための結節後にすぎず、何ら実体のないものである。
日本人の皆様はお気づきだろうか。
日本国憲法に「自由」「平等」という言葉は、
というより概念は、ふんだんに盛り込まれているが、
「民主主義」という言葉は一語も発見できないのである。
しかるに、今日日本で幅を利かせている「民主主義」は人為的なものである。
それは宿命的ともいえる被圧迫民族としての歴史を歩んできたユダヤ民族が自己の解放、
もっと正確に言うならば立場の逆転のために、
当時の未成熟社会大多数を占める不満分子を
自己の至上目的への協力者として翼下に集めるために創作した言葉と理解した方が早い。
その際、その形態が多少似ているということからか、
ギリシャ時代のデモクラシーという言葉を拝借したものにすぎない。
(注。天上界の齎そうとして来た民主主義と左翼の言っている民主主義とは
全く異なるものであるということでしょう。)
ユダヤ民族はデモクラシーという言葉に大変な役目を果たさせているのである。
それは「自由」と「平等」という絶対に相容れない矛盾概念の
コーディネーターとしての役目である。
「自由」「平等」のスローガンがユダヤ民族にとって
実に有力な自己解放のための武器であったわけであるが、
この両概念は実は決して両立しない矛盾概念であるということを
最初から知っていたわけでは決してない。しかし、後になってそれに気づいた。
そして、その両者をさも矛盾しない概念であるかの如く装うために、
デモクラシーという言葉を利用することを考えついたわけである。二元論の応用である。
※注終)
"虚構仮説を信用させる為に用いた論法"
資本主義社会は階級闘争の渦中にある一段階に過ぎない
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」189頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「マルクスの夢は学者になることであった。
そのようなマルクスのことである、単なる予言者では決して満足できなかっただろう。
注文によって先ず『共産党宣言』の虚構ハイポセシス(Hypothesis 仮説)を構築したが、
この単純な仮説でも満足できない。そこで『経済学批判』を書くのであるが、
その第一の目的は現状の変革をより有機的に信じ込ませることである。
現状、つまり資本主義たるものを共産主義に変革せよと使嗾(しそう:けしかける)
するだけでは充分な説得力あるものとはいえないと考えたわけである。
そのためには資本主義を固定したもの、静止したものと考えられてはまずい。
これを流動的なもの、必然的に変わる流れの中の一時期であると説くことが有効である。
そのために考えたのが「社会発展段階説」なるものである。
原始共産社会→古代奴隷制社会→封建社会→資本主義社会→共産主義社会というものである。
『資本論』で用いている言葉でいえば"変態"ということになる。
これはユダヤ神話のパターンである。最初に調和を保った神代の時代があり、
これが異教徒により崩されたが最後にまた調和の保たれた自己だけの時代に至るというものである。
これをマルクスは、原始共産制社会と最後の共産主義社会の間に
三つの階級闘争のある社会を挟んで「社会科学」として売り出したものである。
これだと資本主義社会は階級闘争の渦中にある一段階として映り、流動的に映る。
したがって、変革は必然と説得しやすい。
ここでちょっとインターナショナルについて触れておこう。
このインターナショナルというのはユダヤ人の横の連帯のことであり、
日本語でいう「国際」という観念とは根本的に異なる。
ユダヤ人は国家を持たなかったのだからインターナショナルあるのみである。
国家をもった民族がいう「国際」とは次元が違うのである。
ただし、マルクス主義の建前論を盲信する人々は、
「プロレタリア国際主義」という虚構を信じてユダヤ人と国家を否定して
階級間の横の串刺しの方が国家より優先すると考えている。
これが虚妄であることは中ソ対立、中越戦争を見れば明白なことである。」
帝国主義諸国の戦争は不可避である
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」170頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「レーニンというと、革命家と誰もが考えるだろう。
しかし実際は、煽戦家(せんせんか:戦いを煽る人)というべきだろう。
レーニンといえば「帝国主義論」である。
あの「帝国主義論」というのは、本人も認めている如く、
ホブソンの「帝国主義」の盗作とでもいうべきものであると思われる。
しかし問題はそんなところにあるのではない。全文の中のただ一行、
「帝国主義諸国の戦争は不可避である」という点に注目しさえすればよい。
レーニンが「帝国主義論」を書いた目的はただこの一点にあるのである。
その目的は、戦争というものがユダヤ民族の解放事業に最も有効な手段である
ということにつきる。
十九世紀のマルクスの持ち出した内部抗争による国家の転覆という手段よりも、
ずっと手っ取り早い手段が戦争なのである。
戦争で国家が疲弊したどさくさが一番の変革、
解放事業のチャンスであるということである。
日本の戦後改革もこのパターンである。」
第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
一節 共産主義者とそのシンパ
(二) 共産主義者の真実
② 第二次世界大戦に導いたニューディーラーの目的は国家転覆
その1 君主制を破壊せよ
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」28頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「マルクス主義というものは、
ユダヤ人が自己の民族的解放事業のための道具として編み出した虚構論理なのである。
マルクス主義の国家論はご存知のように、(ユダヤ民族以外の)国家とは破壊、
転覆すべきものであるということを根本原理としているものである。
国家というものがあるためにユダヤ人は過去幾千年、
迫害、虐殺をくり返されていたものである。
自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、
国家というものを転覆することが唯一の方法であったのだ。
つまり、それによりユダヤ人が権力と財産 ー
後にこれは生産手段という社会科学的用語にかえられたが ー
を奪取することによってのみ解放されるということである。
これがマルクス主義の根本原理なのであるが、
この国家の破壊という大事業の前に最も邪魔になるのが君主制という制度であったのだ。
そのため特に、君主制の打倒ということが最大の目的となったわけである。
今世紀に入ってからは、第一次大戦時に、ヨーロッパの主な三つの王冠、
ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーにおける君主制の打倒に成功したのであった。
さて後に残された有力な君主制は、東洋の一角に燦然と輝く日本の天皇制だったのだ。
ユダヤ人は、これの打倒に全精力を注ぐことになったわけである。
ただここで、日本人は一つの疑問をおもちになることと思う。
ヨーロッパでは各国でユダヤ人が王政のもとに苦しんでいたのであるから
これらを打倒するのは分かるが、
では何故にユダヤ人のいない日本で天皇制を打倒しなければならないのかという疑問であろう。
ユダヤ人の単純な教条主義的思考なのか、
君主制と名のつくものはすべて敵であるとする単純な発想からくる過ちなのか。
答えは否である。このことは日本人はいまだほとんどご存知ないだろうが、
ユダヤ人には天皇制を打倒する理由があったのである。」
第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
一節 共産主義者とそのシンパ
(二) 共産主義者の真実
② 第二次世界大戦に導いたニューディーラーの目的は国家転覆
その2 天皇を屠れ
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」30頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「美濃部達吉の「天皇機関説」はユダヤ人が吹き込んだ
さて、日本の天皇制打倒のための最大の攻勢は
ゲオルグ・イエリネックによって始められたのである。
彼はワイマール時代ドイツの法学界を牛耳っていたユダヤ人である。
マルクスの時代は、国家の破壊は階級闘争という虚構理論によるものを主力としていた。
しかし今世紀に入ってからは、マルクス式にいえば、上部構造よりの破壊を考えついたのである。
つまり、法理論により国家機能を弱体化させることである。
特に君主制を骨抜きにする作戦である。
(注。君主への信頼よりも、神への愛よりも、自分を優先する心に国民が堕落すれば、
そのような者を唆して社会を崩壊させる、
崩壊した社会(倫理)を、堕落した心を醜いとさえ感じない心を育てる。
そのような社会に、人間の本性(獣性)に適応しようとする。
愛や思い遣りよりも、自分の為に奪うことを、
それを可能にする力を、力の支配する世界を信じる、
地獄を愛する心へと堕落させるものです。注終)
このために利用されたのが美濃部達吉である。
イエリネックは美濃部達吉に巧妙に天皇制破壊、弱体化の戦術を授けたのである。」
「イエリネックの狙いとするところは、
「国家」という観念を去勢し、それに代わって「社会」という観念を導入するにある。」
「イエリネックの役割は「上部構造」より国家の解体へ向かうことであった。
つまり、法理論を活用することである。
この目的のために利用されたのが、美濃部達吉である。
例の「天皇機関説」がそれである。」
「美濃部は、イエリネックの Organ というドイツ語を単純に「機関」と訳してしまった。」
「一般には、天皇即国家であったのを、天皇は国家の一機関にすぎない
というふうに天皇を格下げしたものであると考えられるようになった。」
「ユダヤ人のいう Organ は具体的にいうと、
支配階級が被支配階級を抑圧、搾取する手段、道具という意味である。
美濃部が「機関」と短絡思考でやってしまったお蔭で、
かなり意味あいの異なるものとなってしまった。
天皇は国民を抑圧する手段であるとする宣伝は、かなりぼかされた。
君民共治は、日本の天皇と国民の間にのみ存在する理想的政治形態である。
これがある限り、日本の共産主義化は困難と判断したユダヤ勢力は、
「天皇制」を絶対悪として宣伝し始めたのである。
戦前はコミンテルンを通じて大々的に「天皇制」打倒のキャンペーンをした。
コミンテルンの日本出張所として誕生した日本共産党に
「天皇制」打倒を至上命令として実践させた。」
(注。
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」261頁
「日本への原爆投下は、一九四四年九月十八日、
ルーズベルトの私邸でルーズベルトとチャーチルの間で決定されている。(ハイドパーク協定)
チャーチルが反対したかどうかはつまびらかでないが、
とにかくルーズベルトが最終決断している。
戦後しばしば日本への原爆投下について、
これはソ連の進出に対する牽制であるといった理由付けが行われているが、
これは全くのウソである。その証拠を示そう。
広島へ原爆を投下したB29の腹に書かれてあったあまり見なれぬ二語である。
Enola Gay がそれである。
(尚、原文に記載されている、
Enola Gayがイディッシュ語であることについての解説は割愛しました)
さて Enola Gay の意味であるが、「天皇を屠(ほふ)れ(切り殺せ)」がそれである。
ユダヤ勢力が君主制を国家破壊のため非常に重要な第一段階と考えていることは再三触れたが、
日本の「天皇制」は第一次大戦でロシア、ドイツ、オーストリー・ハンガリーの三大王冠を射落した後
残るは日本の「天皇制」であったことも触れたが、いよいよ最後の目的を達しようとするわけである。
戦局の行方は問題ではなかった。君主制廃止への最後の攻撃である。
ただし、これは天皇を直接宮城攻撃によって抹殺するという意味では勿論ないが、
いずれにせよ、これがユダヤ勢力の筋書通り運ばれたという事実はこれで証明される。」注終)
「今日に至るも日本共産党が「天皇制」打倒、「天皇制」絶対悪論を振り回しているのは、
そのためなのである。
以上のように我々は戦前天皇制の打倒を至高目的としていたのであるが、
戦後天皇制が類例のない偉大なものであることを初めて知るに及んで、
天皇制存続を図ったわけである。
この時には天皇制廃止論者が周りに多く、大変苦労したものである。
ここでの我々の努力を評価して頂ければ光栄である。
戦後史の解説書などでしばしばいわれている天皇制存続の理由、
「占領政策のため利用する目的で存続させた」といったことが
如何に認識不足かということをお分かり頂けると信ずる。
日本共産党はいまだに天皇制を絶対悪と信じている。
国会の開会式に天皇が臨席される時に共産党議員が欠席するのは、
その現われといってよいだろう。」
第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
一節 共産主義者とそのシンパ
(二) 共産主義者の真実
③ 日本を共産化する為にニューディーラーが用いた手段について
"マルクスの階級闘争史観とユダヤ人の善悪二元論で
絶対善(共産主義)の勝利を盲信させる"
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」156頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「戦後の日本の混乱に最大の責任があるのはマルクス主義である。
マルクス主義の害毒といった場合、普通は表面に現れたもの、
例えば安保闘争の如きものとしか捉えず、日本共産党の民主連合政府綱領を見て、
革命というマルクス主義の現実的脅威はなくなったと考えるかも知れない。
だが、問題はそんな生易しいものではない。
というのは、マルクス主義とは単なる「革命理論」ではないということである。
マルクス主義の戦後における影響の最たるものは、
この稿でとり上げる戦後の病理、虚妄性、日本歴史の真の構築を阻む
跛行(はこう)性をつくり出したということにあるといわねばならない。
これらを具体的にいうと、国家・民族意識、愛国心の去勢、
道徳観の失墜、拝金主義の培養、家族制度の崩壊、その他、
戦前の日本が世界に誇った冠絶した長所を失墜せしめたことにあろう。
マルクス主義はこの病理の精神的支柱になっているのである。
これは根拠のないことではない。
何故ならば、日本共産党は戦前の日本の長所をすべて「絶対悪」として否定するものである。
そして、日本共産党はマルクス主義を唯一絶対の世界観として信奉する政党である。
戦後の病理のすべてがマルクス主義と密接な関係があることはわかったが、
これらはただ単に散在していただけではこれほどの影響を及ぼせたかどうか疑わしい。
それにはやはりこれらをひとまとめにパックして、
しかも日本国民に強制する力を持った何ものかがなければならない。
それがアメリカ占領軍のニューディール派であり、
その所産である日本国憲法とその擁護者としての日本共産党なのである。」
ー 日本共産党の用いた論法 ー
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」66頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「二元論的思考が戦後の日本にどれだけ影響を及ぼしているかを垣間みてみよう。
先ず、ジャーナリズムに責任のある、「保守」対「革新」の虚構がある。
最近はだいぶこの虚構も色あせてきたようで、
ジャーナリズムも当初の能書きに反する「中道」というものを導入しなければならなくなった。
次に、日本共産党のいう「大企業」と「国民」というパターンがある。
これはブルジョアジーとプロレタリアートを置き換えるものにすぎないが、
マルクス主義の階級闘争論そのものが二元論によって支えられているのであるから、
当然のことであろう。
「資本主義」と「社会主義」あるいは「共産主義」、これも二元論の典型である。
唯物史観に立つ人々は、これが二元論的思考とは考えにくいかも知れない。」
(中略)
「日本共産党が現在も存在していること自体、二元論のおかげなのである。
それはどういうことかというと、
後述するごとくマルクス主義の唯物史観は虚構仮説なのである。
しからば、本来、日本共産党の存在根拠はないのである。
しかるに何故日本に今日でも存在可能なのかというと、
二元論の押し付けによるわけである。
論理的には二元論により無から有を生じるのである。
大企業、自民党政府といったものを絶対悪として設定する。
そうすると当然、その対応物として絶対善というものが浮上してくることになる。
本来、虚構の上に立つ妖怪にすぎないものでも、
こういう二元論的手法を用いることにより自己を具現化できるわけである。
絶対善とは勿論、日本共産党のことである。
つまり、あるものを極点に設定すると、その対極点というものが自然に設定されることになる。
(右翼なる観念も共産主義者が、自分達が善玉であると信じさせる、
その為に対極する悪玉として右翼なる存在をでっち上げたものです。)
これはあくまで極点でなければならない。
しかも、中間というものは絶対にないとしなければ意味がない。
そうすれば、おのずと対極点というものが浮上してくることになるわけである。
論理的に無から有を生じさせる唯一の方法がこれなのである。
この場合、最も効果的なのは「極点」に倫理的色彩を加味することである。
つまり「善玉」と「悪玉」とすることである。
これは第一に大衆にも分かり易いのである。
日本共産党はすべてこの二元論を自由に駆使することにより、
自己存在を顕在化しているのである。」
(中略)
「次に、日本共産党が選挙の時などに必ず持ち出す二元論は
「大企業からもっと税金をとれ」といった類の大企業性悪説である。
この世の中、大企業さえなければすこぶる幸福であるといった類の論法である。
唯物史観が虚構であれば、日本共産党の存在根拠は根こそぎ無くなる。
それでは飯の食いあげである。
したがって仮想悪玉をしつらえ自分をその対応物として顕在化させる。
まこと上手い方法ではないか。
これは勿論唯物史観の階級闘争史観の応用であることはいうまでもない。
今日の日本の政治的混乱の原因は一にかかってこの二元論的思考にその原因がある、
ということを理解してもらいたいのである。
平等の概念も、二元論に立脚して初めて問題提起されるものである。
自然の摂理として平等など決してあり得ない。
だからこそ「理想」、つまり「現実」でないからこそ人々の心を誘うものである。
これは理想と現実という二元論に立脚して、初めて提起される概念である。」
(中略)
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」188頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「日本共産党が安保悪玉論にしがみつくのは何故か
日本共産党が日米安保条約を目の敵にするのは単に、
悪玉=資本主義国の戦争要因云々の問題だけではないのである。
現状変革をその唯一の存在根拠とするはずの日本共産党にとって、
この安保条約は皮肉なことに、なくてはならない存在なのである。
自己の建前上の存在根拠を「社会の変革」に求めてきた彼等だが、
変革のための絶対条件たる「絶対的貧困化」への条件を失った後に残されたのは
もう一つの変革のための条件、民族的支配・被支配の関係である。
これこそマルクスがマルクス主義を構築した真の目的であることは既に明らかになっているが、
この民族的支配・被支配の関係は逆転する以外に解決する方法はないことは確かである。
日本共産党は安保条約によって現在の日本が
アメリカに半ば占領されている従属国であるかの如く主張しているが、
それによって彼等は「独立」の必要性をたえず説きつづけることができる。
先般もテレビ番組で、在韓米軍の撤退問題で、
上田耕一郎氏はそれがアジアの緊張を激化するものであると説いていたが、
緊張が緩和されると例の白黒イメージの二極分化論が崩れるわけである。
これが崩れると、日米安保条約に対して振り上げた拳の処置に困る。
皮肉なことに、日米安保条約は
日本共産党の存在理由を持続させるための必要不可欠の要素なのである。」
ー 東京裁判の用いた論法 ー
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」90頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「東京裁判によって持ち込まれたマルクス主義の階級闘争史観は、
この裁判に続く日本国憲法の持ち込みによって
日本国民の価値観を一八〇度転換させるまでの大きな影響を及ぼすことになった。
東京裁判の本質はマルクス主義の唯物史観における「階級闘争論」の持ち込みにこそある。
この二元論の持ち込みにより、
以後、日本の内部は収拾のつかないような内戦状態に陥ることになったのである。
もともとこれを持ち込んだ勢力の目的とするところは、
唯物史観にある如く国家を内部闘争により破壊、転覆させることにあるのであるから、
当然の帰結であるといえよう。
東京裁判は先ずそのような思考パターンを植えつける目的に利用されたものであり、
それに続く日本国憲法の持ち込みにより階級闘争史観という二値論理に
市民権を与えてしまったということができるであろう。
それでは、東京裁判によって演出された二元論的思考の植え込み、
階級闘争史観の設定の現実を見てみよう。
その方法は、日本国民を二極分化させることから始まる。
即ち、マルクス主義の階級闘争史観は、
すべての歴史は支配階級と被支配階級の間における階級闘争
の歴史であると主張するものであるのはご承知の通りであるが、
この論法を持ち込むのである。
今度の戦争は日本の支配階級、「天皇制軍国主義者」の起こしたものであり、
被支配階級である大多数の日本国民に責任はない、否、むしろ被害者である、
一握りの天皇制軍国主義者にだまされていたのである、とする二極分化論である。
この論法はかつて北京を訪れた日本の各層の人々に
故周恩来首相が常に口にしていた論法と同じであることからも、
これがマルクス主義の階級闘争史観であることはご理解頂けると思う。
この勢力はマルクス主義を自己の目的のため手段、道具として利用する勢力である。
日本の戦後支配の出発点において早速、
自己が創造したマルクス主義という虚構仮説を持ち込んだのであった。
これは実に有効な手段、道具として役立ったのである。
その第一は、自己の戦争責任の免責である。
自己が火の粉をかぶる前に、その責任を日本の「支配階級」、
すなわち「天皇制軍国主義者」に転嫁することに成功している。
しかも、以後自分達に追及の手がのびることのないよう、
一般日本国民に対しては一見寛大とも錯覚させる被害者意識を植え付ける
(従軍慰安婦を陰で煽っているメディアも同類の仕業であることはもうご存知でしょう)
ことが可能なわけである。
つまり前述した故周恩来首相のたびたびの言の如く、
責任はあげて「天皇制軍国主義者」にある、日本国民に責任はない、
否むしろ日本国民は被害者である、とする論法である。
こういわれると、日本国民は戦争責任者の追及はすでに終わったと錯覚する。
それというのも、日本国民が免責されているのであるから、
この論法は耳ざわりのいいことこの上ない。
かくて、日本国民は以後すっかり戦争責任は一握りの「天皇制軍国主義者」にあるとの
との論を植え付けられ、真の責任者の追及を放棄したのである。
マルクス主義というものは、これを手段として有効に利用するものと、
逆にこれに利用されるものとの二者があるのである。
前者が後述するニューディーラーであり、後者が日本共産党である。
ニューディーラーは実に巧妙に階級闘争史観を駆使し
自己の戦争責任の免責に成功したかに見えた。
果たしてそううまく事が運ぶものであろうか。
ここにこの勢力の予想だにしなかった事態が起こるのである。
この勢力の駆使するのは正真正銘のマルクス主義の唯物史観(※)に基づく
階級闘争史観である。
(※注。
「マルクス主義者に唯物史観を信仰させるのに最大の力あるのは、二元論の強要である。」
「結果として唯物論を否応なしに選択させられ、これをすべての土台として考えさせられる。
しかも二極分化を強制する。つまり、如何なる時でも中間というものの存在を認めない。
元来、哲学的には唯物論と観念論は二者択一云々の問題ではない。
原点においてすでに二元論的思考に陥っているわけである。
当然の帰結として唯物論絶対優先ということに導かれる。
その結果、社会的存在が意識を決定するというテーゼをつくる。
したがって、戦争も革命も物質的、経済的要因によってのみ引き起こされるものであるという
絶対論に導かれる。
これがマルクス主義の最も肝要な点であることである。
原点からしてこの調子だから、以後経験科学の実証など考えたくもなくなるのであろう。
また、こういう盲目的な二者択一を強制できるのは宗教的呪縛力にはありえない
ということも真理であろう。
「日本人に謝りたい(169頁)」
"人間の意識から独立した物質的、客観的条件により歴史は動かされる"のは、
"社会の必然的な発展法則"によると考えるのが唯物史観のようですが、
そのような法則を信じる彼等の理解とは、
その法則に従わないものは存在しない、故に人の心も物質である、
唯物史観が正しいと判断されるのは法則によるということなのでしょう。
リンゴが落ちるように、人の心が堕ちるのも法則である、
法則に従っていれば正しいとされるなら、
人の心を、努力を、善悪を問わないで、
同じ法則が働いているだから、結果の違いに価値が理解されない、
同じ価値しか認めず、結果の平等が平等なのだと共産主義者が判断するのは
仕方がないことなのでしょう。
それが法則であることを理解し従うか否か(共産主義に、宗教に従うか否か)
それが善か悪かを定めるものなのでしょう。
善悪の判断力、理性などの人間自らが培う能力などの価値は理解されない、
共産主義が、唯物史観が正しいことを理解するのが、
"社会の必然的な発展法則"に動かされた者であり、
法則に従わぬ者は法則の圏外に追放されるということなのでしょう。
自然の法則に徳を見出す理性を養う、
自らの意志でその為に、真理の、神の道を生きるのが神の教えなら、
法則に従いさえすればよい、法則に疑問を持つ意志は許されない、
支配されることが法則に生きるということになれば、
本能だけに生きる蟻や蜜蜂と同レベルに人間を捉えているのであり、
これを考えた者は勿論自分がそのような人間に属する者とは絶対に考えていない。
自分達は支配者であり、支配されるべき人類にする為に人類を共産主義者にする、
共産主義者の心を支配する法則、自ら従う本能として作られたものが唯物史観という
虚構の論理です。
※注終)
その証拠をあげてみよう。
それは日本共産党が戦前から主張していた講座派史観とピタリと一致することである。
もともとこの勢力こそ、マルクスに変革のための虚構ハイポセシス
(hypothesis 仮説、議論の前提)の構築を依頼した張本人なのである。
さて、この勢力が東京裁判へ持ち込んだマルクス主義の階級闘争史観が
戦前からの日本共産党の講座派史観とピタリと一致するということから、
当然のことながら日本共産党がこと東京裁判の結論に飛びついて来たわけである。
日本共産党の講座派史観からすれば、
よくぞ我々のやるべきことを代行してくれたといいたいところであろう。
かくて、GHQの前で赤旗を振り、「万歳」を叫ぶことになる。
ところが、前述の勢力は日本共産党という協力者が現れたためにそれに足を引っぱられ、
東京裁判でまんまと成功したかに見えた
自己の戦争責任の免責を危うくされる破目に陥るのである。
この勢力の構築した虚構仮説を自己絶対化することをその存在理由としている日本共産党は、
忠実に戦争責任を「天皇制軍国主義者」であると主張している。
ところが日本共産党が世界観と仰ぐ唯物史観によると、
戦争の原因はその社会体制の中に存する経済的要因より起こると説く。」
(中略)
「もう一度整理すると、日本共産党が東京裁判の結論に両手を挙げて賛意を表したために、
唯物史観の論理(戦争の原因は資本主義故であり、共産化すれば戦争は起きない)上から
「天皇制軍国主義者」が戦争の全責任という彼らの狙い
(共産化の為なら、天皇制を君主制を破壊する、その為の戦争は正当化される)は揺らいできた。
このことは、東京裁判そのものに対しても打撃であろう。
少なくとも、日本共産党の講座派史観と全く同じ論法を東京裁判に持ち込んだこの勢力は、
今日、自己も無関係とは、言っておれまい。」
(中略)
「この階級闘争もさることながら、より大きい病巣は宗教性の呪縛であろう。
前述の東京裁判式の論法は、善玉・悪玉論理をはぐくむことになる。
戦争責任はあげて一握りの支配階級たる天皇制軍国主義者にある、
大部分の国民はむしろその被害者であるとする論法は、
先ず第一に戦争責任者を国外に求めることを忘れさせる効果をもつ。
また、これにより旧敵国がいかにも雅量のある物分りのいい寛大な存在に映り、
以後の占領政策をやり易くする効果をもつ。
しかしこれらよりも大切なことは、
支配階級というものは常に悪玉であるとする思潮が生じることである。
それに対して自分達は被害者、すなわち善玉なのだと信じ込ませる作用をもつ。
ここにユダヤ教的善玉・悪玉の二値論理が持ち込まれることとなる。
こうして、悪玉、すなわち「天皇制軍国主義者」に「支配」された戦前の日本は
すべて悪であるとする観念が生じる。
逆に自分達を被害者=善玉と規定してくれたアメリカ占領軍の以後の政策を
すべて善と感じるであろう。
さらに、支配階級というのは常に悪玉であると教え込まれると、
戦後の政権担当政党も支配階級の代弁者であるから当然悪玉である。
故に、これにことごとく反対することは善玉の崇高な使命であると信じ込まされることになる。
今日みる如く政権担当政府のやることには何でも反対する思潮は、
このようにして東京裁判を通して巧妙に持ち込まれたのである。」
(野党は与党のすることに反対するだけで、
国民の為になる政策を自ら実行しようとしないと批判されることがありますが、
彼等は政治の場で闘争する為に送りこまれた闘争家であって政治家ではないのです。
闘争家に政治をしろと言うのが無理なのです。そのような者を国民が選んだだけです。)
ー 日本国憲法に用いた論法 ー
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」126頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「日本の戦後占領体制はユダヤ人の君臨しないワイマール体制
「ワイマール憲法と日本国憲法は、
イデオロギー性については全くといっていいほど同じものである。
しかるにただ一点、ワイマール憲法下のドイツと日本国憲法下の戦後日本とでは
根本的に異なる点がある。
それは、ワイマール憲法下のドイツは
直接ユダヤ勢力が君臨するものであったということである。
日本にはユダヤ人は存在しない。ワイマール体制というのは、
少数民族たるユダヤ人が権力を初めて握った時代であるということである。
一方、戦後日本では一時期占領軍(これを事実上支配していたのはユダヤ勢力 ー
もっとはっきりいえばニューディール派)というものがオールマイティであったが、
これは日本国内に永久に存在する勢力ではない。
いわば国際的ユダヤ勢力である。占領が終れば、引き上げざるを得ない。
そこにケーディス以下の焦慮(焦って苛立つこと)があったわけである。
だが現実には自分達は引き揚げても、
己のエピゴーネン(亜流・継承者)を養成して残していった。
それが日本共産党である。
このエピゴーネンは真に忠実に主人のために働き、
戦後三十余年たった今日でもケーディスの心配を吹き飛ばすかの如く
日本国憲法には一指だに触れさせていないのである。
第九条のルーツ ー マルクス主義国家論
第九条の「戦争の放棄」という言葉の意味するところは「武装解除」に外ならない。
マルクス主義国家論にみる如く、国家を転覆させるのを至上目的とするなら、
国家破壊の最大の障害物となるのは軍隊であり警察力である。
したがって戦争反対、平和に名を借りて「軍縮」を唱え始めたのも、
第一次世界大戦後のユダヤ勢力に外ならない。
軍縮という耳ざわりのいい言葉だが、これの狙いとするところは、
列強への武装解除への第一歩でしかない。
かくの如くしてユダヤ勢力は第一次世界大戦後列強の武装解除を目指して
あらゆる蠢動(しゅんどう)を始めたのである。
シカゴのユダヤ人弁護士ソロモン・レーヴィンソンはその中心人物であった。
また、国際連盟なるものも創設されたが、これの本質はユダヤの世界政府に外ならない。
この国際連盟が力を入れたことは軍縮と労働運動の強化であった。
これはマルクス主義の階級闘争論の各国への持ち込みに外ならない。
このユダヤ世界政府たる国際連盟は満州問題で日本と真向から衝突し、
松岡全権の劇的脱退により世界連盟から単なる欧州連盟に下落し、崩壊する。
国際連盟の詳しいことを記するのがこの章の目的ではないが、
要するに国際連盟の掲げるスローガンは列強の武装解除と階級闘争の持ち込みによる
国家弱体化であった。
すなわち、マルクス主義国家の実践である。
日本国憲法第九条のルーツはこのへんに求めなければならない。
この他ケロッグ・ブリアン条約も同様なユダヤ人による
列強の武装解除を目的としたものであることはいうまでもない。」
"日本国を内部崩壊へと導く為に日本人を劣化させること"
ー 日本国憲法(※文末)の内容について ー
平和憲法(この言葉の使われた時代が如何に偽善に満ちたものであったか)
を守らねばならないと進歩的(平和憲法に並ぶ偽善者の代名詞)文化人の主張を
左傾メディアは伝えていますが、戦争をしたがっている(右翼である)日本人は、
憲法に逆らえないから、戦争が起きないという理屈になりますが、
力で以て支配してくる者に対して、力以外に抵抗する手段がなくても、
(支配者の力は許しても)力で自らを守ってはならないと彼等は言っているのです。
彼等の言う平和は、支配する者への抵抗は平和の敵であると言っているのです。
平和憲法を守れと言う彼等の信じる平和とは、共産主義の支配下に生きるということであり、
共産主義に、共産主義の砦である平和憲法に抗う者が滅されることが平和なのです。
共産主義者から人間の尊厳を、神の心に生きる自由を守らなければならないのです。
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」120頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「全文を貫く被害者意識
日本国憲法を通読して先ず感じられることは、
この憲法の作者がもつところの強烈な被害者意識であろう。
それは被圧迫民族が差別、迫害という暗い長い歴史のトンネルから
やっと陽の当たる場所へ出た時の解放感、
あるいは極度の怯えから解き放たれた時の安堵感の如きもの
とでも表現すれば足りるであろうか。
しかるに、日本民族の如き二千年の歴史を通じて他民族からいわれのない差別、
迫害を蒙ることなく太平の夢をむさぼってきた民族には、
この底流に流れるが如き被害者意識からくるところの、
もろもろの最低限の自己保存のための血の出るような叫びは
俄(にわ)かには理解できないものである。
このような日本民族が醒めた眼でクールにこの憲法を読んだ場合、
先ず何よりもそのプリミティブ(原始的、素朴)な内容に愕然とせざるを得ないであろう。
一口にいえば、この憲法に盛り込まれているもろもろの「権利」と称するものは
被圧迫民族の自己生存のための最低限の欲求にすぎないものである
(このような思いを自分の境遇に当て嵌めて同感する日本人というのは、
被害妄想的なナルシストに思えます)。
しかるに、終戦直後この憲法が公布された時点でこれを手にした多くの日本人は、
このプリミティブな憲法の内容にある種の共感を覚えたのではないか
と思われるフシがないでもない。
たとえそれが自忘自失の虚無感に襲われていた過渡期における現象であったにしても、
何故に共感を覚えたのか … 。
しかもその共感が今日まで、或る程度人々の意識の中に生き続けているのではないか
という意見が少なくない。
何故に、他民族の被圧迫意識、被害者意識が日本人の意識の中に共感を呼ぶのだろうか。
その答えは、前述の東京裁判によってもたらされた戦争責任の
二極分化論からくる結着に求められよう。
戦争に限らず戦前からのあらゆる苦しみはすべて「天皇制軍国主義者」のせいである。
彼等は憎むべき加害者である。
一方、大多数の国民は彼等一握りの「天皇制軍国主義者」の「暴政」の被害者であると
(結論する東京裁判の価値基準なる)二値論理は、
当時としては多くの国民に非常に耳ざわりのいいものと聞こえたかも知れない。
東京裁判によって持ち込まれたマルクス主義階級闘争史観は、
まことにこの裁判の主人公のために有効に働いていたかの如くである。
そうであれば、被害者意識を植え付けられ、虚無状態にあった多くの国民は次なるもの、
日本国憲法の内容にある種の共感を感じたのもあるいは無理からぬ話かも知れない。
それから三十余年の歳月が流れた今日、覚醒した眼で皮相的にみれば、
日本人がごく当り前で極めてプリミティブな事柄を、
単に美辞麗句に包んで順不同に羅列してあるにすぎないと感じるこの憲法の内容は
仔細に検討する時、以下にみる如く、
その深奥部に隠されている毒牙、真理に逆行することにより
"人間の純度"を落とすという副作用が随所に発見されて慄然とせずにはおれないであろう。」
「新約聖書 マタイ伝福音書第七章九節」
「汝等のうち、誰(たれ)かその子パンを求めんに石を与え、魚(うお)を求めんに蛇を与えんや。
然(さ)らば、汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与ふるを知る。
まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。
然らば凡(すべ)て人に為(せ)られんと思ふことは、人にも亦(また)その如くせよ。
これは律法(おきて)なり、預言者なり。」
ユダヤ教徒である彼等がキリストの教えを学んでいようとは思いませんが、
復讐すべき存在としか考えていないであろうキリスト教徒や異民族に対する彼等の考え
(自分の欲しないものを人に与えることで、自分の欲するものを得ようとすること)
とイエス様の教え(自分にとって喜びであるものを、
人にとってもそれは喜びであると信じて与えること)と正しく正反対であることがわかります。
一方が神なら一方は悪魔である、これこそ真の善悪二元論というものではないでしょうか。
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」136頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
男女平等の悪影響
「第二十四条、ここでまた「平等」を吹き込んでいる。
今度は男女間に拡大しようというわけである。
この「男女平等」は戦後真に大きな悪影響を及ぼしていることは周知の通りである。
もともと第二十四条は男女同権といっておらず夫婦同権を謳っているだけなのだが、
これがマスコミその他によって男女同権にまで知らぬまに拡大されてしまった。
人間は自然の摂理として両性は全く異なった天分をもたされているに拘らず、
これを単純に平等に扱おうというわけである。
これは自然の摂理に対する冒瀆である。
この問題に関しては先例がある。
それはロシア・クーデターの後ユダヤ勢力は
ソ連においていわゆる「婦人国有」政策を押しつけている。
これはどういうことかというと、
生殖作用の成熟した年齢より四十二歳までの女は男に対して肉の要求を拒むことができない、
而して生まれた子供は家庭の手をわずらわさず国家が引き取って養育するというものである。
女は家庭に縛られることなく一定の夫に貞操を守る義務がなく、
子供は国家が養育してくれるのであるから母として世話する必要もなく、
労働に男と同権で参加できるというものである。
今日、ソ連で女が男と全く同様の重労働に精出しているのはこの名残りである。
婦人国有の如きアナクロニズム、というより極端な動物回帰政策は
さすがに日本では当時のニューディーラーの強権をもってしてもできなかったのであるが、
姦通罪を外すことにより巧妙に性風俗の低下に拍車をかけ、
家族制度の破棄を加速化したのである。
本来、夫婦同権とすれば家庭的に相譲らざる二人の権力者が出来、
その調和を乱し家族制度の破壊に導くことができるとする考えがあったのであろうか。
第一章でも述べた如く、このため昔からユダヤ人の間では医師、
弁護士になることがすすめられていたのである。
これは社会的存在によるものではなく、
これら二つの職業が家庭内秘密にタッチする機会のすこぶる大きいものであり、
これが家族制度の破壊のため有力な武器となるという計算づくのことであったのだ。
家庭内の調和が乱れると、核家族化現象も促進されよう。
子は親の面倒を見なくなる。」
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」41頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「日本では戦後、ニューディール派の改革で姦通罪というものが外されてしまった。
これも家庭の不和を増長させる重大な要素であると考えられ、
家族制度の破壊を狙ったものであると私は考える。
ユダヤ人の社会では、現在でも姦通ということはまずあり得ないのである。
十戒において厳に禁ぜられているからである。
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」139頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「ユダヤ人が日本国憲法に吹き込んだものとユダヤ人の日常生活にあるものとは、
真に正反対である。
しからば、どちらが本来的に真理にのっとったものか、推して知るべしであろう。
日本国憲法がそんなに理想的な優れたものだったら、
何故イスラエル憲法に同様の内容を組み込まないのだろうか。
(注。神に罰される行為であることを知っての、
そのような魂の堕落へと日本国民を誘導したのであり、
それこそ神の許されざる悪魔の業であるとも思わなかったとすれば、
共産主義を利用したユダヤ人はエゴイズムの塊であり、
悪魔に支配されるがままの、良心の抜け殻、既に魂の滅んだ者でしょう。
注終)」
"ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための憲法
によって日本人にユダヤ人の世界観(闘争史観)における
支配者から加えられた苦しみを植え付けること、
また世界を共産化させる為、国家を、支配者を打ち倒す被支配者へと駆り立てること"
日本国憲法を作成したニューディーラーにとって、
ユダヤ人の住むことのなき、原住民が如何なる民族なるものか眼中になかった
ことがよくわかります。
ユダヤ人の思うように思わない民族の立場を考えることなどよりも、
彼らの思うようになるのが(敗戦国なのだから)当然であると考えていたのでしょう。
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」128頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「基本的人権は被害者意識の発露
これからいよいよ各条項別に検討していこう。
まず第一条の基本的人権の問題について述べよう。
この「基本的人権」という言葉からまず読み取れることは、
被害者意識から出発した概念ということである。
長年、差別、迫害されてきたユダヤ人の血の出るような要求であったのだ。
第十二条の「自由の保障」と第十四条の「平等」については、
これこそ憲法作成者の主眼目であるので別に述べる。
第十三条における「個人として尊重される」というのは、
個人主義思想の導入が目的であることは論を待たない。
個人主義というものは国家崩壊の第一歩と考えられているものであり、
特に君主制打倒の捷径(しょうけい)であると考えられている。
これは第十二条の「自由」と密接に関係ある問題である。
また第一条の基本的人権とも関係あるものである。
個人主義に自由をプラスし無限大に追及させればどういう結果になるか、
国家内部の不統一、混乱を助長するものであることは説明の要はあるまい。
第十三条は訳語が正確でないようだが、
「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とあるが、
これは「生存権と自由権及び幸福の追求」とする方が
この作者ユダヤ人の意を忠実に表現していると思う。
この訳文だと「生命に対する権利」といことだが、
これだと生命という言葉から人為的な加害行為は除かれているように聞こえる。
不可抗力な事故による死、あるいは寿命に関するものの如くに聞こえる。
ユダヤ人作者がここで考えているのは、
そのような「生命」の危険、寿命といった非人為的原因によるものではなく、
明らかに人為的要因による「いのち」のことである。
つまり、虐殺をくり返してきた過去の歴史、その被害者たるユダヤ民族にとっては、
「生存権」こそ最も切実な望みであった。
日本語としても、「生命の権利」というのはおかしいであろう。
その問題はそれとして、日本へそのようなものを持ち込んでもピンと来ない。
次にある「幸福追求」という言葉もトートロジー(同義語反復、類語反復)である。
何も言っていないに等しい。
ところがユダヤ人にとってこれすら充分に、否、
全くといっていいくらい追及できなかった過去の歴史がある。
(中略)
日本国憲法にはユダヤ人の願いが込められている
第十八条に移る。
「何人も、いかなる奴隷的拘束もうけない。」
マルクスはメシア思想をパターンとして
唯物史観という虚構ハイポセシス(Hypothesis 検証されるべき仮説)を構築したが、
「経済学批判」の中で社会段階発展説なるものを創造し、その中で原始共産制社会から
初めて階級闘争社会としての古代奴隷制社会というものを捏造している。
このような社会がなかったわけではないが、日本の歴史には全くない。
また欧州ではスカンジナビア諸国の歴史にも皆無である。
むしろ最近のカンボジアあたりこそ原始共産制社会と古代奴隷制社会の混合したものと
いえまいか(ポルポト政権のことを言っているのでしょう)。
「奴隷的」というからには必ずしも奴隷制社会のことではないというかも知れないが、
ユダヤ人はこれほど同様な扱いを受けていたわけである。
第十九条は広い意味の「自由」の中に含まれるものだが、
特に思想の自由というのは元来は宗教思想の自由からきているものであり、
十九世紀以後なら当然マルクス主義信仰の自由も入るわけであろう。
「良心の自由」とはもっともらしいが、これもユダヤ思想の善玉・悪玉理論の結果である。
ここでいう「良心」とは、ユダヤ人が「善」と考えることに他ならない。
信教の自由も然り
第二十条は、ユダヤ人にとっては死活問題である。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。
これはワイマール憲法のまる写しであり、これの意味するところは
ワイマール政権下のドイツにおけるユダヤ人の権利に関係している。
つまり、当時のドイツで一%にすぎないユダヤ人がドイツ人と同等の権利を確保、
維持するためには「国教」があってはならないとしているのである。
国教ということになると、どうしても九九%のドイツ人の宗教である
キリスト教がその地位を得るのは当然すぎるほど当然である。
しかしユダヤ人としては、それだけはなんとしても抑えなければならない。
より勢力が強くなれば、あるいはロシア革命の如く完全に権力を奪取すれば別であるが、
ワイマール政権の当時の力関係からすれば、両方の宗教を五分の力関係に置くのが関の山であろう。
これでも過去よりはましであることはいうまでもない。
こんなものを教条主義的に日本に持ち込むのはユダヤ人の知的水準の低さ示す以外の何物でもない。
しかるに日本では、これに捉われて首相の靖国神社参拝が議論されるのであるが、
その度にユダヤ人としてはずかしい思いをする。
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」。
この問題について一言するならば、
問題はすべてキリスト教、ユダヤ教等のもつ極端な排他性にある。
八紘一宇の思想を基調とする神道、あまない(和)を基調にする仏教とは
自ずと次元が異なるものである。
憲法に持ち込まれたこの条項は、ユダヤ教のもつ排他性のしからしむるところである。
排他性のない高度に理性的な日本の宗教界に本能的、
動物的な他の宗教が強引に割り込み宗教の次元を下げていることに他ならない。
この点は、日本の宗教問題の専門家に一日も早く神道と他宗教の次元の相違を論理的に解明し、
他宗教の妨害行為を断固排撃してもらいたい。
第二十一条では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」
としている。
集会の自由は、ユダヤ人の示威のために必要であったのだ。結社の自由も同様である。
その他出版の自由はマルクスも盛んに力説していたものである。
言論の自由にいたっては世界の圧倒的大多数の情報機関を握るユダヤ勢力にとっては
飯の種に関係することである。
「通信の秘密の不可侵」の規定も同様である。
第二十二条「居住、移転及び職業選択の自由」の項であるが、
日本ではこのようなことが問題となったことはないといってよい。
一方ユダヤ人にとって、これは大問題である。
ゲットーに閉じ込められ移転の自由もなく、
職業といえば金貸しの如き"賎業"しか許されなかった
ユダヤ人の切実な要求であることはすぐ分かるはずである。
また、外国移住の自由というのはユダヤ人にとっては苦い経験がある。
それはユダヤ人であるコロンブスがせっかくアメリカ大陸を発見しておきながら、
欧州各国在住のユダヤ人に国外移転の自由がなかったために、
これをむざむざアングロサクソンに奪われたことである。
第二十三条「学問の自由」である。
アインシュタインはドイツの大学に入れてもらえず、
やむなくチューリッヒ工科大学へ入ったのである。
マルクスも大学に残れなかったので、変革の仮説を創造することになる。
この学問の自由ということではマルクスが最もいいサンプルを提供してくれる。
マルクスは学問の道に進みたかったのだがユダヤ人であるためその願いが叶えられず、
遂に「予言者」で終わることとなった。」
(※文末注。
"民主主義について"思うこと
神は愛するに値する者を愛すると言われましたが、
神の信頼されるのは、愛されるのは、美しい心
(善への愛が生きている心、邪悪に、悪徳に惹かれない心、神への信義に生きる心)だからです。
神がこの世に齎そうとされた民主主義とは、
如何なる者も平等とされるのは、何を言われるのでしょう。
如何なる生き物にも等しく注がれる陽光のように譬えられる神の慈悲も、
陽光を、水分を得るところにたどり着くことが出来ないならば生きては行けません。
神の慈悲も、それを受けようとする心にたどり着くことが出来なければ、
神の愛を知ることの出来ぬ心に終わってしまうことを天上界は教えられました。
等しく与えられる自然の恵みのように、如何なる者にも受けるべきと神の与えられる慈悲を、
人から取り上げる。
慈悲を受けるべき心に非情な仕打ちを与える、
この世にあって神の如くに振舞おうとする権力者、如何なる者にもその力の前に服従させる、
そのような世の中に、悪魔の力を得た一人の前に、神の救おうとする人類が屈してはならない、
民主主義とは、悪魔の力からの解放であって、神の心に生きるか否かは、一人一人にかかっている。
自ら神に生きるを望まぬ者に、民主主義など、悪魔の力の前には風前の灯火に過ぎぬものでしょう。
他人の悪(の犠牲にならない)からの自由であることを願うだけの、
神の善を、己が悪を知ろうとしない者が、理想の世と信じた、
それが民主主義の名を冠した世の中でしょう。
共産主義に生きる地獄をも彼等は民主主義と呼んでいる、神の心と無縁の世界でもあるのです。
善に生きることも、悪に生きることも、人を生かすことも、人を束縛することも、
すべて一人一人に責任が在るというのが民主主義でしょう。
その自覚なき者が自分の望む通りに生きる資格が与えられているのが民主主義の世の中であると、
そのように教える者は、人を堕落へと導く似非教育者(日教組)であり、
民主主義を堕落の手段に変えてきた者達です。
嘗ては(神の意志に生きた)賢王による善政による文化、理性の育成が齎され、
(悪魔の意志に生きた)愚かな独裁者の恐怖政治の前に、
その力に従うを喜びとする獣の心の前に、屈するしかなかった、
常に生命を脅かされての自己保存の心に生きる術しか学ぶことのなかった人類に、
神の心、理性を神は齎された。
今もその獣の心に生きる共産主義者も民主主義を語っている、
誰からも強制されずに己が獣の心に生きるを民主主義と誇っている。
己が心の自由に生きる、その心が獣の心であるか、神の愛であるか、
その心の齎す世が、共産主義の地獄であるか、神の愛の国であるか。
民主主義には、人を善に導く力もなければ、悪に抵抗する力も何もないのです。
民主主義が人の心に善を、悪を呼び起こす力など何もないのです。
社会の法によって表現されるものにしか過ぎないのではないでしょうか。
"日本国憲法について"思うこと
人類が今生きているのは、生き残っているのは必然性があった、
他の生物の存在した時代にはまだ人類は誕生していない、
人類という種の誕生すべき必然性がその後に起きたからです。
人類が食する動植物があったから神が創造されたのか、
食することが可能になる為に猿が人間に進化したかはさておき、
生存するに適した能力を持つことが出来た種だけが存続してきたのであり、
そこに存在する法則は何も変わっていない、
新しく獲得した能力が遺伝されなければ、滅びているのであり、
如何なる生物も細胞からなり、細胞が分裂して個体へと成長するのであり、
遺伝の情報もすべて細胞であることに変わりはない、
あらゆる生命の存続は、不変の自然の法則に従う能力を維持することに懸かっている。
環境が変化すれば適応する能力を持ったものだけが生存することが出来る。
悪に生きる心と善に生きる心の死闘も、
生き残るのは必然性があるからであるとラファエル様が仰しゃっていますが、
善を滅ぼそうと進化した悪に対して、悪の力の弱点を把握する知恵を、
抑える力を持つ善へと進化できなければ善は滅びるのです。
現日本国憲法を守れと、進化させないようにしているのは、
現憲法の善の能力のない故に、蔓延って来た悪が、憲法の善の進化を押さえつけているのであり、
善に生きようとする国民を押さえつける為の憲法を維持させているということです。
現憲法を悪が善を支配する手段として利用しているのであり、
現憲法の存続が、悪の蔓延る必然性を与えているのでしょう。
現憲法は、敗戦国故に日本人に押しつけられた法です。
戦勝国の人々が、自らその法に生きるを喜びとする、
(敗戦国の)人々への信頼心からの(戦勝国の)愛を信じる心を育てたい、
その心に生きる法と信じ、敗戦国の人々の心を救うと信じ、願って齎された法であると
思われるのですか?
戦勝国に逆らえない精神へと、彼等に従ってさえいれば守ってくれると、平和でいられると、
正しく奴隷の精神へと変えられてきた、その為の指針を与えるのが現憲法なのではありませんか。
私達は自分達の憲法を作る自由まで奪われている訳ではありません。
(この憲法に従ってさえいれば、悪に立ち上がることなき、
堕落する精神への指針としてあてがわせた憲法の偽善を超えて行く善へと
(敗戦国であるべき、共産主義者であるべき)精神が成長するなど考えられなかったからでしょう。)
しかし、自分達の憲法を作ろうとしない、
作ろうとする日本人を許さない日本人(共産主義者)がいたのです。
現憲法に従順に従うことを示さないではいられない精神に生きているからでしょう。
自分の意志で生きる、それが自由の精神なのではないですか、
それを拒否し、従っていれば守って貰える、それを平和と思っているのでしょう、
精神の繋がれて何が平和であると思えるのか、精神の安楽死を平和と思っているのか。
自らの内に真理を見出したのなら、真理に生きるを望む神の心を見出したのなら、
その道を行くのが自由な精神に生きるということではないですか。
人に従わせる、人の自らの信じる心に生きんとするを許さない、
それが悪魔の心であるのは、神の心を知るならよくご存じでしょう。
人の精神の成長を喜ばれるのが神の心であることを。
神(の正義)を信じる心(信義)は、精神の成長なくしては持ち得ぬ、
強制によって持つことは出来ないものであることを。
左翼は平和憲法を守れというのは、
彼等の邪悪な心を育てたのが現憲法に他ならないからでしょう。
彼等は共産主義に支配されることは、絶対神を信じる心と同様に、
絶対なるものに繋がれることでしか安心出来ぬ未熟な精神だからです。
精神の自由にあって、真理が見出されるものであると、
真理に生きるとは、そのような心を自ら育てるしかない、それを望む己の心一つにかかっている、
そのようなものを共産主義者は信じることが出来ない、
自らを守ってくれるのは絶対なるものしかない、依存する(縋る)心しかないからです。
共産主義者は、国民を守れとは言いますが、国を守れとは言いません。
国を破壊しようとしているのが共産党です。
(彼等がジョン・レノンのイマジンを応援歌にしているのは、
国境を失くせば、世界をユートピア(共産主義国家)に出来ると信じているのでしょう)
※文末注終)
"ニューディーラー(米国民であるユダヤ人共産主義者)の本性(エゴイズム)"
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」221頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「『アメリカ人としての限り、私はどんなユダヤ人にしても真のアメリカ人になっているとともに
シオニスト運動の熱心な同志となっていることの矛盾、
不可能を承認せずにおれないユダヤ人の政治生活が完全に回復され、
ユダヤ国家の再建されることを望んでそのために苦心して努力するということは、
アメリカ市民としての義務を犠牲にして初めて可能なのであって、
ユダヤ人のうちには善良なアメリカ市民たることを揚言(声を大にして言うこと)
している者もいるが、彼等がユダヤ民族の大望に優先権を帰する以上、
在在国への忠誠を全うすることができるはずもない』
ヤコブ・シフがユダヤ神学校校長ソロモン・シェヒテルに宛てた書簡
「ニューヨーク・サン紙(一九〇七年九月四日付)」掲載
ここでいっていることは、一言でいえば、
ユダヤ人はアメリカの国益を何ら顧慮しない、先ずユダヤ人として生きるのである、
ということに他ならない。
(注。ユダヤ人国家を建設する為なら、他民族の国家を破壊し、奪い取ることは正当化される。
そうでありながら姦淫を犯した者を石打で処刑することが正義であると信じる、
その偽善を認められないのが、共産主義を信じるユダヤ人です。
郷に入っては郷に従うという言葉は、タルムードにはないのでしょう。注終)」
「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」246頁 モルデカイ・モーゼ著 沢口企画
「第二次大戦勃発後、ルーズベルトは在米日系人を隔離収容所へ入れた。
このことに対しては最近、カーター大統領が正式に謝罪したが、
ルーズベルトはこれら日系人に対してアメリカへの忠誠を強引に誓わせようとした。
それに対して日系人は、市民権を与えることが先決であると反論した。
全く当然の論理である。
一方、ルーズベルト・グループのユダヤ人達は、途中移民でも皆市民権を獲得しながら、
兵役につこうとしなかった。」
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- エッセンス・目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義者とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 二節 国家を破壊する共産主義
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 三節 共産主義に洗脳されたイスラム教は、宗教とは名ばかりのテロである
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 四節 共産主義の本質
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 五節 イデオロギーの狂信者
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 六節 イデオロギーと精神
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 七節 共産主義(悪魔のイデオロギー)誕生の背景
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の許に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様