第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
四節 正義(悪に立ち向かう)
現象テープ№28 「自己犠牲について」より
80年9月14日 ミカエル大王様現象
&「エルバーラム」45頁
「謙虚さ、素直さと申し上げるものでも、何に対して謙虚、或いは素直でなければならないのか。
人に対してそうなるのではありません。
神に対して、天上界に対して、或いは真理と呼ばれるものに対して謙虚でなければならない、
素直でなければならないのです。
そうであってこそ初めて、悪に対して拒否反応を示す事が出来、拒絶する事が出来、
戦う事が出来るのです。」
「慈悲と愛」80年3月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」96頁
「目には目、歯には歯を、と言うのは、決して字義通りに解釈すべきものではなく、
奴隷として卑屈な生き方を強いられてきたイスラエルの民に自己を守る強さを教え、
心理的に奴隷であることからの解放を目指したものなのです。
聖戦もその延長でした。
日本の国民も同じであり、正法者も例外ではありません。
善人が悪に屈従し、賢者が愚者に跪き、正義が暴力に屈することのないよう、
自由と平和と国を守る為に、立ち上がり、勇気を持って侵略者と戦い、
排さなければならないのです。
その為に、何をなすべきか、何を語るべきか、
国民の一人一人がこの期に及んではっきりと自覚し、行動に移さねばならないでしょう。」
「慈悲と愛」80年9月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」116頁
「私達天の者は何故勤めが厳しいか。
何故行いが正しくなければいけないのか。
それは常に悪に対して強くなければならないからです。
機関誌にも書かれていました通り、
悪に負けるということは、悪に負ける条件反射の結果なのです。
たえず悪に囲まれ悪に慣らされていたならば、その人は悪に染まってしまう。
如何に善の心を持とうとしてもそれは無理なのです。
常に善の方を向き、善の心を持っていなければなりません。
抽象的な言い方ですが、それは自分自身の悟りの中に於てしか分からないのです。」
「JI」82年5月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」149頁
「世の諸悪を一掃することが天の召命であるならば、あなたの心の中の悪を憎み、
天の聖戦に加わる決意と、それを第一義とし、且つあなた一個人の責任に於ても、
それを成し得る勇気がなければ正法者と呼ぶことは出来ず、
又、私達も天に迎えようと思っておりません。」
「慈悲と愛」81年1月号初出 ラグエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」128頁
「悪に対して無防備、無抵抗で、神の裁きを待つ、というのでは、
何時までも地上に神の国の平和は来ないでしょう。
神が裁いて下さる、と安易に問題を考えてはならないのです。」
〖備考1
【「希望と幸福(ヒルティの言葉)」29頁
善への勇気こそ、どのような人生に於ても一番大切なことであり、
その点ではどんなに恵まれた人生も例外をなすものではない。
既にヨハネの黙示録(二一の八)に言われているように、
臆病者は、善の存在とその可能性を信じない者と全く同じ範疇に属するものである。
人間は弱い者であるということをどんなに引き合いに出しても、
そういう人には何の足しになるものではなく、またその言い訳になりものでもない。
何故なら、神は、たとえ力弱くとも神を信じて神に呼びかける者に対しては、
力を与えることを約束されているのであり、
悪のこの世の権力を打ち負かし、これを克服するために必要な力を
自分で持っている者は誰一人いないからである。
神の力は、真剣にそれを求めようと願いさえすれば、
力弱き者に於てこそ最大の威力を示すのである。
しかし求めることこそ肝心なことなのだ。
もしあなたが、自分にその力がないと言われるなら、私はあなたに次のように答えよう、
「あなたはその為に要求される代価、即ち、総ての神に逆らうもの、
享楽的なものを誠実に完全に棄てるという犠牲を、払おうとしなかったのだから、
あなたには神の力を求めようとする勇気がなかった訳であり、
従ってあなたには元々神の力を得ようとする気がなかったのだ」と。】備考1終〗
"不寛容の悪(偽我)に陥らぬ為に"
「JI」83年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」162頁
「あなた方は、義に完全であって、落度なき完璧な人格を持つよう努めるよりも、
人間性を学び、従って互いに寛容であろうと努め、
思い遣りという優しい気持ちを互いに注ぎ合う方が、
より幅のある、心にゆとりのある人物になり得ることを、ここで確認しなければなりません。
中庸の徳とはそれを言うのです。
悪を許さぬ心は正しい心でありながら、そこに疑心暗鬼という偽我が忍び込む時、
病的に相手を悪と断じてしまうこと。
相手のすべての行動を善意と寛容で観ずに、狭量と悪意で観て結論を下してしまうこと。」
「義人の陥る偽我は、不寛容の悪であることをよく心して頂きたいと思います。」
"善と正義"
善とは人の幸せを願う、善なる心に生きること。
その善なる心からの積りでも、人の心を思い遣ることを忘れ、
人の善なる心を傷付ける、苦しめるものなら偽善であり、
人の心の痛みも、原因が自分であることも覚れないなら、
善我からの行為ではないのです。
真の善なる心(善我)に導く指標が正義(真理)なのです。
常に善に生きることで、偽善(悪)に騙されない、悪に出し抜かれない、
悪に打ち克つ正義を覚る知恵を育てるのです。
天の(導かれる)道を歩めば、天の善なる思いが、為すべき正義が何か、
自ずと明らかとなる善我(神の心)に在ることに気付くでしょう。
現象テープ№23 「心の美は」より
80年5月11日 ガブリエル様現象
「先日、東京へ参りました時に、このような質問を受けました。
私達が悪に負けてはならない。善に確り根付いていなければならない、と申しました。
すると正法者の中から"悪に打ち克つとはどのようなことか解らない"
そのような質問を受けたことがありました。
悪に打ち克つことが解らない、そう聞いた時、私達がどのような気持ちになったか、
あなた方にお分かりになるでしょうか。
人類はここまで道を無くしてしまったのだろうか。
悪に打ち克つということが、どういうことか分からない(※1)。
愕然と致しました。
悪に打ち克つとは、悪に染まってはならないということ。
己自身に於て、楽な方向を選んではいけないということなのです。
勿論、時と場所に応じてそれは様々に変えなければなりませんが、
悪に打ち克つとはどのようなことか。
そのようなことを考えられないようではいけないのです。」
悪を知っても、己が良心に立とうとしない。
苦しい立場に追い込まれた時に、
人の弱みに(苦境から救うものの如く)付け入る悪の誘惑に、
悪に靡く、堕落(精神が弛緩)して行くことに気付かない。
己が良心の危機が解らず、誘惑であることを悟らず、悪に心を明け渡す。
良心を、善を守るということが悪と戦うことを意味することが解らない。
己が心が病んでいようと、悪霊に憑依されていようとそれが覚れない、
このような者はどうすれば救われるのでしょう。
悪が判らないと思っていられることが、
悪に向き合いたくない、善に生きたくない思いから来ているのです。
自分の心を救うのは自分しかいないのです。
悪であることが判断されて尚、
その悪に対して善である為にはどうあればいいか考えないでいられるなら、
自分の身に降りかからりさえしなければよいと、悪を許容しているのです。
善に生きんと悪に向き合う、悪に勝とうとする意志は、精神の成長を促した筈です。
精神が未熟のまま生きて来たのであり、
悪に向き合おうとしなかった、
偽我であることも解らないまま、偽我の心に生きて苦しむこともなかった、
悪を明らかとする善なる心を求めてこなかったのでしょう。
(これほど愚かしい質問を、この場におわします神に直接問えるというのは、
健全な精神を持った人には考えられないことに思います。)
(※1注。
"何故善を求めねなばならないか"
悪から自らの心を守ることが出来るのは善を求める心だけであるから。
善なる心なき者は人を苦しめるのが悪であることすら理解する知恵がない。
何ゆえ善なる心を持たぬ者は悪なる心になってしまうのか。
自己保存の心から、人の思いを顧みぬ、自分の幸せだけを神に求める時、
自己保存の心を満足させようとするのは、善霊ではなく悪霊だけです。
自己保存の心が満たされる、
その心に喜びを覚える心は悪霊の思いに他ならないのです。
自己保存の心が間違っているのではありません。
自己保存の本能から、人の心は育ち始めるからです。
大脳を開発する、高等感情(徳に生きる心)を獲得する、
人の思いを感じる感受性を育てる、
人を思い遣る心(の働き)を獲得する ー ことが出来ない、
人が苦しんでいようと自己愛の温もりから踏み出そうとしない、
自己保存の心に留まる、心の成長するとはどういうことか理解出来ない、
目覚めぬまま救われることのない魂です。
人間は動物に見られる自然の法(真理)に従う心を失ったが、
真理を見失ったが故の心の虚しさに苦しむが故に、
全ての生き物を生かす法を理解しようとする、真理を求めようとする、
他の思いに勝って真理に生きようと意識することが出来るのは人間だけです。
その為にはどう生きるか、
その思いから意識を逸らそうとする、自ら望んで堕落しようと、破滅しようとする、
そのような思い(悪霊の邪念)にも抗えないのが人間です。
そしてそのような心を自らのみか人にも齎そうとする悪霊を憎み、
人を邪念から守ろうとする思いを持つのも人間(である善霊)です。
動物のように自己保存に生きるしかないのではなく、
人は理性を育てる大脳を与えられながら、それを育てることが出来ぬならば、
自然の与えた他との調和(の心)から彷徨い出ることのない、
足ることを知る理性へと昇華させないなら、
自己保存の本能は、他から奪っても自己保存を満たそうとする、
自分の為にのみ生きんとする欲望、自己愛に利用されることになります。
"何故善を求めねなばならないか"、当然のことと済ましていたことが、意識された時、
解っていなかったから意識(自覚)されなかったと思い知ることになりますが、
意識されないでいるということが問題なのであり、
意識されることを妨げているものがあった、善よりも他に心が向いている
(イエス様の仰しゃった"この世への思い煩い")、それを意識されていたなら、
それが善を求める心の働きであることは容易に自覚されたことでしょう。
善に生きる願いが本心なら、その思いを知らないとは、己自身を知らぬということです。
善を行うことが、どうして己自身を知ることになるのか。
本当の望みを奪われていることを知らぬ者が、己を知っている訳がないのです。
もし善を行うことが本当の望みでないのなら、
神の思いに従うことを望まないのが本心であるということです。
あなたが神を望んでいるつもりなら、その心を満たす者は、神を詐称する悪魔に過ぎません。
神の光が齎される時、本当の心が明らかにされた偽善者が神を憎む悪魔の心に変った、
それが真の善を、神の心を拒みながら虚栄心に生きていることも悟らぬ偽善者の末路であることは、
イエス様がこの世に生きて証された時から、今も変らぬ
(成長することの出来なかった)人間の心なのです。
※1注終)
"然(しか)り然り、否(いな)否といへ、
之(これ)に過(す)ぐるは、悪より出(い)づるなり"
自分の心を知ろうとしない者が、人の関心を得ようと自らを(飾って)語る自己愛に浸る。
人の善なる心を信じる心なき、神の思いを顧みることなき者が、
人に罪を認めさる、人の自我(自己愛)を踏み付けるずにはおれぬ
(独裁者からいじめっ子に至るまで変わることなき幼児的(未熟な)精神です(※2)、
人を貶めることに喜びを見出す、獲物を狙うが如き獣の心に駆り立てられる。
天上界が私達に、自分の悪い心も隠さずに
(天への素直な心から)語ってほしいと言われたのは、
天上界が私達の心を知ることが出来ないからではなく、天上界と同じ心を私達に持ってほしい、
自分の悪い心に目を背けることのない神の心に立ってほしい思いからです。
自らの悪に目を背けることをごまかす為に、
人の悪なる心を裁こうとする(それは自分が善なる心だからと信じる)、
人を見下すことで高ぶりを覚える、己を高しとする心に満たされるような
(偽我に安住する)人間であってはならないことを教えられているのです。
(※2注。
「JI」90年10月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「(サダム・フセインの人格に言及されて)こういった横紙破りの独裁型は社会主義国に共通で、
しかもマルクスがリーダーの条件にしたように、
貧農の出であり、教育はイデオロギーの洗脳以外あまり受けていない。
共通して情緒に欠け、
前思春期までの子供の残酷さをそのまま持っている性格の人物であるようです。
こういった情緒欠如型の人間は、自分以外の人間の感情も痛みもまるで判らず、
だから次々と平気で拷問や大量虐殺を行えるのです。
中国の文化大革命もカンボジアのポル・ポト政権も同じ。
直接射殺しなくても、収容所で拷問死させるのも餓死させるのも同じ。
そういった独裁政治は、ベトナム、北朝鮮、アフリカの社会主義政権と、
総てはマルクス・レーニンの非人道性に遡るのです。
貧農の出であるから、勿論、
裕福な者や、インテリ階級への偏見と嫉妬を自らの活力として生き、
広範囲の学問や教養を身に付けている訳でもなく、先人の精神から学ぼうとする姿勢もなく、
ましてや哲学にも人生にもまるで無関心であること。
大脳の前頭葉部位の未発達は野望を遂げる以外に用いることのなかった為であり、
良心の麻痺した理性は無感覚となり、
自らを弁護し、口実を駆使して
あらゆる悪行を正当化してしまう雄弁にのみ働かせ、
誇大妄想にも似た大義名分を振り回す人物です。
サダム・フセインやホメイニの如き人物は、
"神の掟"の第一の戒め"汝殺すなかれ"を平気で破り、人殺しの人生を送るにも関らず、
国民や部下には貧しさと飢えからパンを盗んだだけで手を切り落とす。
無防備な国を侵攻し、非武装の国民を殺す。
そのような施政は、神の前に通ずる筈がありません。
彼等は悪魔の思想に共感し、悪魔に仕えているだけです。」※2注終
〖備考2
誰もが正義を愛し、自分は正しいと信じているようですが、
その正義も神の法に適っており自らを神の法の前に律してきた者であってこそ初めて、
その正義に抗う他の主張する正義が、
神の徳を、愛する心を妬む、悪魔の心(偽我)から来たものであると、
神の正義に背く正義は、名ばかりの偽りのもの、
偽善に過ぎぬものであることを明らかにすることが出来るのです。
真理を求めることなく主張される正義は、
自己肯定から自己を守ろうとの思いから来ているのであり、
自分の間違いを明らかにするものは、神の正義であろうと受け入れ難いものでしょう。
神は真理を伝える為に現代に現れたのです。
真の神の齎された真理に目覚める時、人は自らの神の心に立って真理を行うことが、
悪に打ち克って真の正義を明らかにすることが出来るのです。
天上界が善を愛する人々の心を守る為に、
善なる心を滅ぼそうとする悪魔と戦ってきたことを、
常に神の法に適った正義に徹することの出来る神の心(善我)を貫く為に、
魂の研磨を訴えられてきたことが理解されるのです。備考2終〗
"傍観者は良心の呵責から偽善者にならざるをえないということ"
現象テープ№18 「魂の研磨について」より
80年2月10日 ガブリエル様現象
「社会がこうだからと言って諦めてはいけません。
正法がそういうものから逃げる場であってはならないのです。
寧ろ正法から始まるものでなければなりません。
正法は自己満足であってはなりません。
他人の幸せを願うもの、社会の調和を望むものでなければならないのです。
その為には、うやむやに社会問題を扱ってはならないのです。
現実的に即応出来るものでなければなりません。
それは八正道や愛、慈悲といった、そういったものからの総合的な判断から生まれます。
更に、八正道や愛、この抽象的な言葉を悟るにはあなた方の苦しい実践以外に無いのです。
その為には、なるべく具体的な例を挙げて話し合ってゆきましょう。お教えましょう。
それだからこそ、私達と一緒に、社会の調和へ踏み出してゆこうではありませんか。
私達は思うのですが、本当に、もう本当に地球が滅びるかも知れない瀬戸際に、
どうして、あなた方人類はこんなにのんびりしていられるのだろうと、不思議で仕方がないのです。
どの問題を取ってみても、問題は複雑であり、深刻です。
生態環境、或いは大国間の核武装競争、社会観の不安、社会意識の退行。
どれを取ってみても溜息を吐かざるを得ません。
それだからと言って逃げる事は、決して許されないのです。あなた方の社会なのですから。」
"さあ、大変だ、何とかしなければ!
自分の本心を見失う高ぶりは愛から来るものではないということ"
「慈悲と愛」80年11月号 ガブリエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」123頁
「人類の生存について、或いは既成の思想、宗教、道徳について、
何らかの危機感を抱いて生きている人は多いでしょう。
あからさまに危機だから改心せよと宣告する宗教教祖も多いでしょうし、
あなた方の中にもじっとしておれぬ思いの人もおりましょう。
ですが、まだまだあなた方のように恵まれた環境の中に於て、危機を語るのを見ると、
井の中の蛙大海を知らず、と呟(つぶや)かざるを得ません。
さあ、人類の危機だ、私が何とかしなければ、と立ち上がる教祖、それに続く信者を見ると、
平凡な生活の中で変った刺戟を求めて集まった、
実際の救済とは縁もゆかりもない現実逃避の人間達だと思います。
実際に危機が訪れようとしているのは事実ですが、
天変地異が起こり、人間の獣性のみが蔓延るような本物の終末が訪れた時、
まず最初にいなくなるのは、信者の上にあぐらをかいている諸教祖でしょう。
あなた方の中に、使命感を抱いている人が恐らく沢山いるでしょう。
ですが、その使命感が天から来たか、それとも自己の現実に対する逃避か、
見分けることが大切です。
それによって、悪霊に操られ、結果的に天に反する言動に走ることも防げるからです。
まず終末が来そうだ、人々は怯(おび)え、互いに疑い合っている。
その時あなたはどうするか。
人々の前に立ち、指導者の如く振舞おうと思いますか。
自分の先行きのことより、家族や友人、知人はどうしているだろうか、
彼等は大丈夫だろうか、と咄嗟(とっさ)に考えますか。
正しい使命感の芽生えは愛が始まりを告げます。
前者の如き人は諸教祖の二番煎じであるに過ぎず、後者が天から来る使命感なのです。
天の使命というのはとても地道で、現実に即応したものであり、
決して夢の如きぼんやりしたものではないのです。そして誰もが持つべきものなのです。
世を変えてゆくのは一人の偉大な万能のメシヤではなく、
「こうしたい」と望む一人一人の全人類なのです。」
"地球人類が全員焦ってどうするのですか?
考えることを忘れてしまってはならないということ"
「 JI 」82年2月号 ラファエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」145頁
「柔軟な心についてお話ししましょう。
何ものにも囚われない心とはどういう意味を持つものでしょうか。
今あなたが自分の心を覗いてみて、どういう心になっていますか。
何ものにも囚われないというのは、放縦や身勝手な心とは違います。
厚かましさや傍若無人さを言うのでもありません。
あなたは無理に優しくなろう、強くなろう、厳しくなろう、善くなろうとしていませんか。
無理に、というのは、訳も解らずにしなければならぬから、という心から来ています。
これは偽我 ー 本当の自分の気持ちでない気持ち ー に繋がる心です。
何故無理をするのでしょう。無理は続けると苦しくなります。
正法に縛られているのは無理に"正法者"になろうとした人達です。
無理して苦しんだ挙句、挫折するか、立ち直るかは、正法を続けている動機によります。
自己の完成のみを願う人は挫折するか、偽我を大きくするだけで、
ユートピアを願って正法を続けている人は過ちに気付くのです。
無理して良き人になろうとする人は向上心というよりも偽我が先立っているのです。
果して善行や義行は無理して行うものでしょうか。
心からそうしたいと思い、行うもので、
そういった心が天へと通じ、人の中へと繋がるのです。
何ものにも囚われぬ心は無理せず努力し続けます。各々人により程度も速さも違うのです。
無理を続けていけば、心は硬くなり、判断もなくなります。
焦らずやってゆくことです。焦るのもまた偽我へと繋がっていくのです。
ではどうすればよいのか、と思われるでしょう。
誰でもこのような世界の状態では焦るのは無理ないと言うでしょう。
ですが、まずせねばならぬのは焦るよりも考えることです。
地球人類が全員焦ってどうしますか。
考えるのが大切なのです。
何を行うにしても、常にどの方法が一番良いか考えることです。
柔軟な心とはそういうものです。」
"傍観者は良心の呵責から偽善者にならざるをえないということ"の
〖参考〗
(嘗ては、世を救う熱意なき故であるとは悟らず、
世の暗愚から離れるを知恵と思い違いし、自らを賢者(隠士)との高みに置き、
この世の悪と戦う善を見出すことなく、魂の研磨なく、
精神の弛緩(堕落)するがままに委ねた時、
その心を傍観者のそれであると悟ることが出来なかった ー ということ)
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 206頁
「渡し場」
長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)耦(なら)びて耕(たがや)す。
孔子これを過(よ)ぎり、子路をして津(しん)を問わしむ。
長沮いわく、かの輿(よ)を執(と)る者は誰(たれ)と為すと。
子路いわく、孔丘(こうきゅう)と為すと。
いわく、これ魯(ろ)の孔丘かと。いわく、これなりと。
いわく、こればらば津(しん)を知らんと。
桀溺に問う。
桀溺いわく、子(し)は誰と為すと。
いわく、仲由(ちゅうゆう)と為すと。
いわく、これ魯の孔丘の徒(と)かと。
対(こた)えていわく、しかりと。
いわく、滔滔(とうとう)たる者、天下皆これなり。
しかるを誰(たれ)と以(とも)にかこれを易(か)えん。
且つ而(なんじ)その人を辟(さ)くるの士(し)に従うに若(し)かんやと。
耰(ゆう)して輟(や)まず。
子路行きて以(もっ)て告ぐ。
夫子(ふうし)憮然(ぶぜん)としていわく、
鳥獣とは与(とも)に群(ぐん)を同じくすべからず。
吾(われ)この人の徒と与(とも)にするにあらずして、誰と与にかせん。
天下道あらば、丘(きゅう)与(あずか)り易(か)えざるなりと。
ー 微子(びし)篇 ー
春はまだ寒かった。傾きかけた日が、おりおりかげって、
野づらは明るくなったり、暗くなったりしていた。
葉公(しょうこう)に見切りをつけて、楚(そ)から蔡(さい)に引き返す孔子の心は、
いくぶん寂しかった。
彼は車にゆられながら、目を閉じては、じっと考えに沈んだ。
手綱(たずな)を執っている子路は、
もう小半時(こはんとき)[約一時間]近くも黙りこくっている。
他の弟子たちもずいぶん疲れたらしく、
三、四町[約三〇〇 ~ 四○○メートル]もおくれて、
黄色い土ぼこりの中を、とぼとぼ足を引きずっている。
「しばらく休むことにしたら、どうじゃ」
孔子は、思い出したように車の中から顔をつき出して、一行の様子を眺めながら、
子路にいった。
「はあ ー 」
子路は、生返事をした。そして車は相変わらず、かたりことりと軋(きし)りつづけた。
「みんなもだいぶ疲れているようではないか」
と、孔子は軽く子路をたしなめるような口調でいった。
「もうすぐ渡し場だと思います」
子路はめんどくさそうな顔をして、ぶっきらぼうに答えた。孔子もそれきり黙ってしまった。
それから十五、六分もたったころ、子路は急に自分でぴたりと車を止めた。
孔子は、渡し場に着いたのかと思って、顔を出してみたが、そうではなかった。
道が二つに分かれている。子路は手綱を握ったまま腕を組んで、じっと前方を見つめている。
「どうしたのじゃ、 …… 休むのか」
孔子は半身(はんしん)を車から乗り出していった。
「渡し場に行く道はどっちだか、考えているところです」
孔子は微笑した。そして武骨な子路の後ろ姿を黙って見ていた。
しかし、子路はいつまでたっても、木像のように動かなかった。
「考えたら道がわかるかね」
孔子はふとそんな皮肉をいった。このごろ、子路に対してだけは、
おりおりこうした皮肉が、軽く彼の口を滑(すべ)るのである。
子路の顔には、しかし、いつものとおりの反応が現れなかった。
彼はやはり前方をにらんだまま、反抗するように答えた。
「わかります。わかると思います」
孔子はもう微笑しなかった。彼は、子路が心になにか迷いをもっている時、
いつも自分に無愛想になる癖をよく知っていた。
(子路は、渡し場に行く道のことだけを考えているのではない)
孔子はそう思った。そして、子路が何を迷っているかも、ほぼ見当がついた。
(子路としては無理もない。彼は、寂しく旅をつづけるには、
弟子たちの中でも一番不似合いな男なのだ)
しかし、孔子は口に出してはなんともいわなかった。
彼は、憐れむような目をしばらく子路の横顔に注いでいたが、
やがて目を転じて、道の付近を見回した。左手に墓地らしい小高い丘があって、
すぐその手前に、二人の農夫がせっせと土をいじっている。
道から一町[約一〇○メートル]とは隔たっていない。
彼は急ににこにこしながら子路にいった。
「考えているより、たずねた方が早くないかね。ほら、あそこに人がいる」
「はあ ー 」
子路は、やっと孔子の方をふり向いた。彼は孔子に何をいわれたのか、
はっきりしなかったかのように、きょとんとした顔をしている。
「すぐ行って、渡し場をたずねておいで、手綱はわしが握っている」
「恐れ入ります」
子路は、いかにも狼狽(うろた)えたように、何度も頭を下げた。
そして、孔子の手に手綱を渡すと。大急ぎで、二人の農夫のところに走り出した。
その後ろ姿がなんとなくおかしかった。孔子はしかし笑わなかった。
彼は、胸の底になにかしみじみとしたものを感じながら、子路から目を放さなかった。
「おうい」
と、子路は、まだ七、八間(けん)[約一三 ~ 一四メートル]も手前に突っ立って、
大声で農夫を呼んだ。
農夫は、しかし、顔をあげなかった。
子路は仕方なしに、さらに二、三間[約四 ~ 五メートル]進んで声をかけた。
しかし二人ともふり向いてみようともしない。
車の中からこの光景を見ていた孔子は、ただの百姓ではないらしいと思った。
そして子路の無作法な様子が少し気がかりになってきた。
(もし例の隠士(いんし)だと、子路は少し手こずるかもしれない)
彼はそう思った。が同時に、子路との間に取り交わされる問答を想像して、
これはちょっとおもしろそうだ、とも思った。
子路がどんな顔をして帰って来るのか、心配なような、待ち遠しいような気持になって、
彼は相変わらず子路の様子を眺めていた。
子路の方では、農夫たちがまるで彼の声など耳にも入らぬようなふうなので、
ひどく癪(しゃく)に障(さわ)っていた。
彼は、それでも、仕方なしに二人のすぐそばまでやって来た。
そしてどなりつけるような声でいった。
「おい、これほど呼んでいるのに聞こえないのか」
背のひょろ長い方の農夫が、顔をあげて、じろりと子路を見た。
そして変に嘲(あざけ)るような笑いをもらしたかと思うと、
またすぐ下を向いてしまった。
三、四丁[約九~一二メートル]髯(ひげ)を垂らした、五十格好(かっこう)の、
どこかに気品のある顔である。それは長沮(ちょうそ)という隠士(いんし)であった。
子路は、この時はじめて、これはしまった、と思った。
で、少し照れながら、急にていねいにいった。
「いや、これは失礼。…… 実は渡し場に行く道がわからなかったものですから …… 」
すると、また長沮が顔をあげて子路を見た。今度はあまり皮肉な顔はしていなかった。
しかし、返事をする代わりに、道路の方を見やって、そこに孔子の車を見つけると、
もう一度うさんくさそうに子路の顔を見た。
「渡し場の方に行きたいのですが …… 」
と、子路は少し小腰(こごし)をかがめながら、ふたたびたずねた。
「あれはだれですかい。あの車の上で手綱(たづな)をとっているのは」
子路は、自分の問いには答えないで、すましきって、
そんなことをあべこべにたずね出した相手の横着さに、腹が立ったが、
つとめてていねいに答えた。
「あれは孔丘(こうきゅう)という方です」
「孔丘というと、魯の孔丘のことですかい」
「そうです」
「じゃあ、渡し場ぐらい知っていそうなものだ。
年がら年中、方々をうろついている男だもの」
そういって、長沮は、すぐ腰をこごめて鍬(くわ)を動かしはじめた。
そして、それっきり子路が何をいっても、唖(おし)のように黙ってしまった。
子路はあっけにとられた。
この間、もう一人の農夫 ー これは桀溺(けつでき)というずんぐりした男だった ー は、
あたりに何が起こっているのか、まるで知らないかのようなふうをして耕された土に、
せっせと種を蒔いていた。
子路は、長沮にくらべると、この方が少しは人が善さそうだと思った。
で、その方に近づいて行って、もう一度渡し場に行く道をたずねた。
「なに、渡し場じゃと …… 」
桀溺は顔も上げないで答えた。
「ええ、渡し場に行くんですが、右に行ったものでしょうか、それとも左に …… 」
「右でも左でも、自分の好きな方に行くさ」
「どちらからでも同じでしょうか」
「同じじゃない」
桀溺は、そういってひょいと顔をあげた。赧(あか)ら顔で、目が小さくて、
髯はちょっぴりしか生えていない。長沮より年は三つ四つ下らしい。
「同じじゃないよ」
彼はもう一度そういって、にっこり笑った。
小さな目が肉に埋もれてしまって、大きな皺(しわ)のように見える。
子路は何が何やらわからなかった。彼は怒ることも笑うこともできなかった。
すると桀溺は、急に笑いやめて、まじまじと子路の顔を見ながらいった。
「お前さんはいったいだれだね」
「仲由(ちゅうゆう)という者です」
子路は素直に自分の名を告げた。
「仲由? そしてなにかい、やっぱり魯の孔丘の仲間だというわけかね」
「そうです。門人の一人です」
「ふふふ ー 」
桀溺はだしぬけに笑い出した。それは菎蒻玉(こんにゃくだま)が振動して、
その割れ目から湯気を吹き出すような笑い方だった。
子路は、孔子の門人だと答えたのを笑われたので、さすがにきっとなった。
しかし、相手は子路の様子など気にもとめていないかのように、
そっぽを向きながらいった。
「孔丘のお仲間じゃ、渡し場がわからないのも無理はない。気の毒なことじゃ」
子路はとうとうがまんしきれなくなって、腕まくりし出した。
「おっと仲由(ちゅうゆう)さんとやら、それがいけない。
そう腕まくりをしてみたところで、物事はかたがつくものではない。
それよりか、お前さんはいったい今の世の中をどう考えていなさる?」
子路はせっかくまくり上げた両腕を、だらりと下げて、目をぱちくりさせた。
「どこもここも、どろどろの沼みたいになっているのが、今の世の中じゃないかね。
え、仲由さん」
「そうです。なしかにそうです。だから …… 」
「だから渡し場を探していると、おいいかね。そりゃもう、ようわかっとる。
だが、どの渡し場も気に入らないのが、お前さんの先生ではないかね」
子路は、相手が孔子を冷かしそうになったので、また両腕に力を入れた。
しかし、彼は心の中で、相手のいうことになにかしら共鳴を感じた。
うまいことをいう男だな、と思った。
そして、内々(ないない)自分が孔子に対して抱いている不平を、
この男の口をとおして聞いてみたいような衝動に駆られた。
彼は力(りき)みながら相手の顔を見つめた。
「沼に船を浮かべてはみたいが、泥水のとばっちりをかぶるのはいやだ、というんじゃ、
お前さんの先生も、少々虫がよすぎはしまいかね。
今どき、どこをうろついたって、満足な渡し場なんか、見つかりゃしないよ。
わかるかね、仲由さん。どうせ今の世の中が泥水の洪水みたいなものだとわかったら、
なるだけ洪水の来ない山の手に避けているのが一等だよ。
洪水だ、洪水だ、とわめきたてて、自分で泥水のそばまで行っちゃ、
逃げ回っているなんて、それもおかしな話さ。だいいち、みっともないじゃないかね」
子路は、半(なか)ば感心したような、半ば憤慨したような、変な顔をして突っ立っていた。
「おや、そのお顔はどうなすったい。
孔丘の仲間だけあって、お前さんも、よっぽど悟りの悪い人間らしいね。
そう世の中に未練があっては、話がしにくいが、しかし五十歩百歩ということもある。
あの殿様もいやだ、この殿様もいやだというところを、ちょいと一つ飛び越して、
この世の中全体に、見切りをつけてみる気にはなれないものかね。
気楽に高みの見物ができて、そりゃいいものだぜ。わっはっはっ」
と、子路は非常に真剣な顔をして、何かいおとした。
だが、桀溺はもうその時には、その円い尻をくるりと子路に向けて、
せっせと種を蒔いていた。
そして、それっきり、子路がなんおいおうと一言も返事をしなかった。
子路は、なぜか、もう腹が立たなかった。
彼は、これまでにも、なんどか隠士(いんし)に出会ったことがあったが、
今日ほど愚弄されたことはなかった。肝心の渡し場は教えてもらえないし、
おまけに孔子も自分も、まるで台なしにくさされてしまったので、ふだんの彼なら、
黙って引き下がれないところであった。
しかし、今日の彼は、妙にしんみりとなってしまったのである。
隠士たちの物を茶化すような態度には、彼もさすがに好意を持てなかった。
しかし、彼らがいかにも自由で、平安で、徹底しているらしいのに、彼は強く心を打たれた。
孔子の持たない、ある高いものを彼らは持っているのだ、とさえ彼には思えたのである。
彼は黙って踵(きびす)を返した。
彼は歩(ほ)を移しながら孔子の車を見た。
そしてその中にしょんぼりと座っている孔子を想像した時、彼の眼がしらが急に熱くなった。
彼は存分に孔子を詰(なじ)りたいような気持ちにさえなった。
そしていっさんに車のところに走りつけた。
おくれていた門人たちは、すでに車の周囲に集まって、何かしきりに孔子と話していた。
彼らは子路が走って来るのを見ると、話をやめていっせいに子路の方に顔を向けた。
子路は、しかし、彼らのだれの顔も見なかった。
彼は乱暴に彼らを押しのけて、いきなり車の窓枠(まどわく)に両手をかけた。
孔子は微笑しながら、
「どうしたのじゃ、えらく隙(ひま)どったではないか」
子路は、しかし、口がきけなかった。彼はなんども拳(こぶし)で荒っぽく目をこすって、
ただ息をはずませていた。
「隠士らしかったね」
孔子は、子路の心を落ちつかせるように、ゆったりといった。
「そうです。隠士でした。偉い隠士でした」
子路は爆発するような声でそういって、孔子の顔をまともに見た。
孔子の顔は静かで晴れやかだった。それは子路がまったく予期しない顔だった。
彼はもっとみじめな顔を車の中に見いだすはずだったのである。
彼はあてがはずれたような気がした。
「ほう、それはよかった。そしてどんな話をしてきたかね」
孔子にそういわれて、子路はすっかり出鼻を挫(くじ)かれてしまった。
存分に自分の意見を交えて、孔子の反省を求めるつもりでいたのだが、
もうそれどころではなかった。やっと事実を報告するのが、彼には精いっぱいだった。
孔子は目を閉じ、門人たちは目を見張って、子路の話をきいた。
ひととおり話がすむと、門人たちは、いい合したように顔を見合わせた。
それから、いかにも不安そうな目つきをして、めいめいに、そっと孔子の顔をのぞいた。
孔子はやはり目をとじたまま、しばらく考えに沈んでいたようであったが、
深い吐息を一つもらすと、子路の方を向いていった。
「それで、渡し場に行く道は、どちらにするかね」
子路はぎくりとした。
荘厳な殿堂の中で、神聖な審問を受けているような気がして、棒のように突っ立った。
「わしは人間の歩く道を歩きたい。人間といっしょでないと、わしの気が落ちつかないのじゃ」
と、孔子は子路から他の門人たちに視線を転じながらいった。
「山野(さんや)に放吟(ほうぎん)し、鳥獣を友とするのも、
なるほど一つの生き方であるかもしれない(※3)。しかし、わしにはまねのできないことじゃ。
わしには、それが卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならないのじゃ。
わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえのように歩いてみたい。
つまり、人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい、というのがわしの心からの願いじゃ。
そこにわしの喜びもあれば、安心もある。
子路の話では、隠士たちは、こう濁った世の中では未練がない、といっているそうじゃが、
わしにいわせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんでみたいのじゃ。
正しい道が行われている世の中なら、
今ごろわしも、こうあくせくと旅を続けていはしまい(※4)」
門人たちは、静まりかえって、孔子の言葉に耳を傾けた。
子路の目には、いつの間にか涙がいっぱいたまっていた。
彼は、その目を幾度(いくたび)かしばたたいて、孔子の顔をまじまじとうちまもった。
暮れの近い光の中で、人生の苦難を抱きしめて澄みきっている聖者の姿を、
彼は今こそはっきりと見ることができたのである。
「先生、私は先生に対してもったいないことを考えておりました」
子路は、顔をまともに孔子に向けたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
孔子は、それに答える代わりに、車の窓から手綱を子路に渡した。
そしてみんなを顧みながら、朗(ほが)らかにいった。
「子路の好きな方に行ってもらおう。まちがっていたら、もう一度引きかえすまでのことじゃ」
みんなが思わず笑いだした。子路も赤い目をしながら笑った。
ちょうどその時、二人の隠士は、鍬を杖にして、一心にこちらを眺めていた。
子路には、それがあたかも二つの案山子(かかし)のように思えてならなかった。
彼はうれしいような、寂しいような気分になって、孔子の車を動かしはじめた。
どこかで鴉(からす)が嘲(あざけ)るように鳴いた。」
(※3注。
「 JI 」81年5月号 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」134頁
「神は、天上界は、義人は、聖人は怒らず、批判しない、と考えてはいませんか。
善は悪と相容れぬ故に怒るのです。批判するのです。
正しきを知る故に異を唱え、厳しさを以て接するのです。
善も悪もない、善も悪になり、悪も善になる、だから罰するのはおかしい、と言うものは、
その悪に泣かされ、踏み躙られ、殺された者を知らぬだけなのです。
何があっても怒らず、乱されず、心を平静に保つのが正しいと考えてはいませんか。
世を捨て、一人山間に隠居する仙人ならそれも良いでしょう。
山紫水明に詩を吟じ、露を食べ、姿を消す術に身をやつす、
そんな生き方なら、そのような心も持つでしょう。
しかし、あなた方は、俗世に生きているのです。
仕事を持ち、家族を養い、明日を思い、今日を暮らす人間です。
社会に生きるが故に、平凡ではあっても、人類史の一頁、片端に生きるあなた方なのです。
一人では決して生きては居ません。
目に見えるもの、見えぬもの、総てによって生き、生かされているのです。
それならば、少しでも良い社会を作ってゆくことが、課題になる筈です。
その為には悪いことは悪い、美しいものは守る、正しいことは貫く、
そんな姿勢が大切なのです。
必然的に、正しくないものには厳しくするのが、自然な生き方と言えるのではありませんか。
批判をすると、何か円満さに欠ける人格であるかのように思われ勝ちですが、
批判出来ぬ人は悪や不義に対して鈍いだけなのです。
鈍いというのは気が付かぬという事であり、自分もその中に浸っている、
容認しているのだと言えるでしょう。
社会悪と妥協し、そして社会浄化には関心のない人です。
あなたはどうですか。」※3終)
(※4注。
「慈悲と愛」1981年2月号 「土田展子 豆ニュース」より
「精神面で宗教が頼りにならず、社会面でもマルクス、ケインズが古典となった現代。
新論理が模索される今。
いやな時代だと言うけど、いやな時代が来るとしたら、まだ先のことだと思います。
あなたはキリスト教的に「終末だ」と厭世気分になっていますか?
正法者であれば、腕のふるい所、と反対に元気一杯、闘志満々になっていますよね。
何が生まれるにしても、良いものが生まれる時は、それなりの痛みがあるものです。
(そうそう、その通り!千乃)いやな時代、大いに歓迎しようではありませんか。
いやな時代を取って返して良い時代を創るだなんてことは、
そうそう誰にでも出来るものじゃありません。誇りに思わなければ。
反対に悪いものが生まれるのは楽で苦労のない精神が弛緩した時代からです。
(これは至言です。楽な生活をエサに資本主義の堕落をはかる陰謀家は、
共産党、社会党の諸君以外にはありませんよねえ ー 千乃 一月十日)」※4終)
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様