第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
二節 真理
「JI」85年2月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」49頁
「私達は"善"を語る時に、それを"真理"と同一視しております。
真理を離れた善は誤った道を選び、人を誤らせ、世界の滅びを招きます。
そうなれば、それは善ではなくなります。」
「私達は真理をのみ語り、明かす為にあなた方の前に現れたのです。
従って真理以外のものを正しいとする訳には行かず、
真理に照らして善とはならぬものを善と呼ぶ訳には行かないのです。
誤った結果を齎すものは寧ろ偽善と呼ぶべきでしょう。」
自らを救い、人を救うものとは何か、人が求め、見出し、伝えられてきたものが
真理と呼ばれるものでした。
真の救いとは、苦しみからの解放、心を縛る想念、
(悪霊によってこの世に齎されてきた、悪しき思想、教義によって育った、
真理の目覚めを妨げ、真理に背かせる、獣性の解放によって齎される)邪念に打ち克つ
善を愛する心、徳に生きる心に目覚めることです。
何故神は真理(神の法)を齎してこられたか。
真理のみが人の心に生きて善なる心へと導くもの、
真理に目覚めた心だけが(人の心を破滅へと導く)邪悪の種(悪しき思想、教義)を見抜き、
真理のみを自らの心とすることが出来る、
その心だけが、その心に生きる者の思いを正しく受け止めることが出来る、
その心を人に見出す時、それこそが真理であると、
善に生きる心を満たすものが、その心によって伝えられたものが真理であると、
天上界は伝えてこられました。
真理に目覚めた心だけが真理の光、神の慈愛に心を向けることが出来るのであり、
魂の救いを、神の国への導きを信じる希望に生きることが出来るのです。
真理のみが真に神の心に生きる、
人を生かそうとする善なる思いを心とすることが出来る、
救われたことを知る心とは善なる思いに満ちた心だけです。
邪念に生きるを喜びとし、人に自らを誇ろうとする心、人の賞賛を喜びとする心、
そのような人々に何ら評価されるものを持たず、
神への愛に、神に生きる者への信頼に満足する心、
神の愛を信義を見出した心だけが平和であり、
それを見失わせるものは全て人を絶望へと導くと知る心であり、
善を信じ、愛する心とは、それらの思いに生かされるを知る心故に、
神の人を生かそうとの思いが、真の愛故に伝わるのであり、
その愛故に神の心と悟ることが出来るのだと思います。
真理を見出した心のみが、神に、人に、善なる心によって、信義によって
繋がることが出来るのでしょう。
"真理の道"
真の心(忠)を開く者の、溢れ出る神の愛(恕)に生きる、
真理の道とはそれであると神は語られた。
「慈悲と愛」78年11月創刊号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」18頁
「慈悲と愛は如何なる世にも善に徹し、徳に親しみ、賢者となる時自然に解るのです。
魂が堕落を許されぬ環境に於て、神の光を感じ、
清々しく悪の心を容れぬ浄められた良心に於て、人と対する時、
心からなる誠意と善と思い遣りが湧き出てきます。
何の躊躇もなく、何が正しく、何が誤りであるか見抜き、指摘することが出来ます。
それは魂の歌であり泉なのです。
そして人の世の汚れに染まぬ心を持ち、自然の美しさに触れ、
鳥や動物の無邪気なそして自然の摂理に適った生活を目にする時、
又それらへの限りなき慈しみの心が溢れ出てくるのです。
神の恵みとはこのことであるかと悟り、
天上の大いなる慈悲と愛をしみじみと感じるでしょう。」
「現代訳 論語(里仁第四の十五)」下村湖人訳
孔子(ガブリエル様本体)がいわれた。
「参(しん)よ、私の道はただ一つの原理で貫かれているのだ」
曾(ラファエル様本体)先生がこたえられた。ー
「さようでございます」
孔子はそういって室を出て行かれた。
すると、ほかの門人たちが曾先生にたずねた。ー
「今のはなんのことでしょう」
曾(そう)先生はこたえていわれた。ー
「先生の道は忠恕(ちゅうじょ)の一語につきるのです」
(原注。
忠恕:忠は自分の真心に訴えること、恕は自分の心を他におし及ぼすことで、
真心(忠)からの同情による愛の実践という意。仁というに近い。)
真心を表す言葉を、心の中心、忠と表現したのではないでしょうか。
"目覚めた者について"
「新約聖書 コリント前書 第十三章十節~十二節」
「全き者の来らん時は全からぬもの廃(すた)らん。
われ童子(わらべ)の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、
論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。
今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧(おぼろ)なり。
然(さ)れど、かの時には顔を対(あは)せて相見ん。
今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が(神に)知られたる如く全く知るべし。」
"目覚めぬ者について"
「天国の証(78年8月初版)」77頁 ラファエル様メッセージより
「如何に論旨が通り、語られていることが首尾一貫して立派であり、真理が大きいものであろうと、
読者の意識の高さにより、また悪霊、サタンの暗示と誘導により、
必ずしも正しきものを正しいと人は判断出来ぬことが明らかになったのです。」
"彼等は見ても見ず、聞いても聞かず、悟ることがない"
と聖書の伝えることは、今も変わることがなく、
"その心は偽我である(あなたの求めている善我ではない)"
と私達の善我に語り掛けて来られた天上界の言葉は天への指針であり、
その言葉に神の御心を見出す自らの神の心が目覚め、
天への道に導くものと信じ、真理の生きんとする意志が生まれることがないならば、
悪い者が来て心から神の蒔いた善き種を奪い取ってゆくと聖書は伝えているのであり、
真理の種が奪われるとは、真理を生きる神の心を、
悪魔に繋がれた鎖を断ち切る(真理を望む)心を失うということです。
"真理に目覚める心とは"
現象テープ№28 「自己犠牲について」より
80年9月14日 ミカエル大王様現象
&「エルバーラム」45頁
「謙虚さ、素直さと申し上げるものでも、何に対して謙虚、或いは素直でなければならないのか。
人に対してそうなるのではありません。
神に対して、天上界に対して、或いは真理と呼ばれるものに対して謙虚でなければならない、
素直でなければならないのです。
そうであってこそ初めて、悪に対して拒否反応を示す事が出来、拒絶する事が出来、
戦う事が出来るのです。」
"真理の生きる心とは"
「天国の扉(77年12月初版)」163頁 イエス様メッセージより
「種蒔きの譬えで、良き言葉(真理)を聞いても、
その人の心が、それを理解するだけ良きものを持っていなければ
(注。真理を理解するだけの良き心を持たぬ者がいるということです。
たとえ良き素質を持って生まれてきた人も、
悪に生きる人々の中で育てば、
悪に染まり善を理解する心は養われないのです)、
喜んで受け入れても、土の薄い石地に蒔かれて根がないために(※1)、
それを留めて育てる心を持っていず、
困難や迫害が来ると、躓き、
茨の地に落ちると、世の心遣いと富の惑わしという茨が伸びて、実を結ばず、
その人の養いとならないであろう。その人の魂は豊かにはならないであろう。
道端に種が蒔かれれば、鳥が来て食べてしまう。
即ち悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを、奪い取って行く。
良き地に蒔かれて、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶように、素直な心で、良き言葉に耳を傾け、
それを自らの人生に役に立てなければ、何にもならないことも説きました。」
(※1注。
「マタイによる福音書(第一三章5~6節)」
「ほかの種は土の薄い石地に落ちた。
そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
"心の闇を明らかにする言葉(警句)が人を目覚めさせる"
〖参考
「清らかな厭世」阿久悠著 "はじめに"より
「たとえば、こういう比喩だと危機感が伝わるであろうか。
土を休ませることなく痩せに痩せさせた畑に蒔かれた種子、
当然のことに成長の栄養もなく、結実の精気もなく、
ヒョロリとした茎と萎びた葉が風にそよいでいるさま。
そして、やがて、「今」を過ぎた「明日」に枯れることを承知している植物。
それが若者たちの意識から見えてくる姿である。
なぜこのように人を育てる畑は痩せたか。
そこで、アフォリズムに戻る。言葉である。
大人たちが英知と生への実感で造り出した言葉が、
たとえば、畑の栄養分になっていたと考えると、
為さなければならないことがわかってくるだろう。
今の大人たちが、三十代か四十代か、それとも五十代であるか、ぼくと同じ六十代か、
言葉を語ることに臆病になり、卑怯にも沈黙の道を選んだために、
本来飛翔すべき、オリジナリティに満ちた格言、箴言、警句を命絶えさせてしまった。
今、言葉がない。誰も言葉を使わない。
どのように饒舌に語彙数を積み重ねても、心を通過しないものは言葉とは呼ばない。
カラオケで歌詞を目で追いながら歌う人は、目と口の距離しか言葉はとどまらず、
頭も心も通過していないのと同じである。
警句にならない言葉は、美意識とも神との契約とも全く無縁の伝達記号である。
政治が悪ければ躊躇なく政治家を取り替えればいい。
経済が悪ければ、経営者を総意で交代させればいい。大抵のものは代役がきく。
ただし、ぼくら民族の子どもたちは替えられない。
とすると虚無の心に警句を吹き込むぐらいの努力は全大人がすべきである。」参考終〗
法灯の火種を消してはならないとガブリエル様は仰しゃいましたが、
正法を知って一時使命感に燃えたのも束の間、流布活動の熱意も冷めてしまい、
今ではすっかり火種も消えてしまった人もいます。
我を忘れるほどの熱意が冷めた時、
心の芯に消すことの出来ない火種を、揺るぎない信念を持っているか、
真の己を知るとは、
そのような者であることを望んでいるのが本心であることを知ることから始まります。
勿論それを知ってそう在ることが出来ないと諦めるようでは、
本心ではなかったということです。
そのような心では真理を自分のものにすることは出来ないでしょう。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」15頁秋山英夫編訳
「正しい内的進歩の生ずる仕方には、常に三段階がある。
第一段階は熱狂で、枯柴でも燃やすように、
猛烈にパチパチいって高い火柱を立てる炎々たる焔である。
第二段階は、その烈しい燃焼が幾らか消えて、冷却した状態で、
往々、それがつい先頃まで焔と燃えていた同一人であるとは
どうにも信ぜられないことがある。
第三段階は、絶えず燃えている炭火の灼熱が、
静かではあるが、しかし変りなく、そして確実な暖気を拡げるのに似ている。
そこでは最早どのような動揺も変転もなく、
その心地よい働きは誰の目にも明らかである。
人間の精神が何か偉大な事柄でこの最後の段階に到達すると、内面的には平和と呼ばれ、
外に向かっては偉力と呼ばれる、あの活動的な平静を人間精神は獲得するのである。」※1注終)
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」29頁
「人生が明らかにその終りに傾いている今、私はたといそれがどのような種類の享楽であろうと、
この世の美であろうと、名誉であろうと、芸術・学問・教養であろうと、
いやそればかりか全存在の活動や目的でさえも、
この人生が持っているありとあらゆる所謂宝や価値が、如何に重要でないものであり、
従ってどちらかと言えば真剣に追及するには値しないものに思われるということを、
私はあなたに十分にお伝えすることは出来ません。
ただ一つの例外は、善に対する愛と、人間のまことです。
一切の地上のものが夢に沈む前に、人生の最後の自覚的瞬間に、
「何と言っても私は結局、善を愛し、悪を軽蔑してきた。
そして私に与えられた善良な人々にまことを尽くしてきた」
と考えることの出来る人だけが、真実に生きてきた人なのです。
そのような人だけが過ぎ去った跡を顧みて、どのような未来へ向かってでも、
たとい ー そういうことがあり得るとすれば ー 未来なき未来へ向かってすらも、
心安らかに赴くことが出来るのです。」
ヒルティにとって真理とは、誰の心にも伝わる真心であり、
真を愛する者への尽きることのない善意であり、
人生の最後にあって、後悔の念のない清々しい、素直な心から、
人々への信頼と共に残していった言葉、
聞く者の誰もが彼のように真理に生きたいと、
人の心を目覚めさせるものこそ、本当の真理であると思われませんか。
「現代訳 論語(里仁第四の八)」下村湖人訳
「朝に真実の道を聞き得たら、夕には死んでも思い残すことはない」
〖備考1
孔子様は肉体の生命を引き換えにしてでも真理を知ることを望まれました。
真理が何であるか、真理を知り得ないことを苦しく思う心であるが故に、
真理を知ることが心の救いであったのです。
この世の与えるものが満たし得ない心を人は持っているのです。
それに応える真なるものをこの世(悪に生きる魂)は与えない、
却って偽りの真理が心に根を張り、悪を求める、悪を喜ぶ魂を作っています。
何が正しいか間違っているか、正しく判断する力を養うことも、
善を愛する心も育てられない。
罪を犯した者を罰することしか出来ません。
善に生きる心を育てようとせずに、悪に罪に生きる者を罰しさえすれば、
この世は、人の心は正しくなると思うのでしょうか。
偽りの真理の満たし得ぬ心が、
人を苦しめる悪を憎む善なる心が、
助けを求める心に応えずにいられぬ心が、
人の苦しみに同情する優しさに生きる心が、
真の救いである真理を見出していったのです。備考1終〗
真理を見出すとは、飢えが満たされたり、病が癒されたりして、
一時的な満足で終るようなものではありません。
真理を見出せずに終っても、その道に生きたことを後悔しない、
そのような思いを他の思い(この世への煩い)に優って持ち得ないで、
闇の中から真理を見つけ出した、心に感じ取った者がいたという話を聞いたことはありません。
【文学では(ディケンズの「クリスマス・キャロル」など)ありますが、
回心というのは聖霊の働き掛け(恩寵)がなければ起こり得ません。
そのような条件反射を起こす要因を自らの内に持たないからです。
聖霊が人の心に入る、彼等聖霊の想念と同じ思いを人の心に起こすのです。
彼等と同じ善の心を、その心に生きる意志を、その心に湧き上がる愛を、
そして一度それを感じたら二度と忘れることのない清々しい心を知るのです。
現象テープ№21 「原罪について」より
80年4月13日 ラファエル様現象
「美しい心 ー あなた方は他人の幸せを願う
(天上の波動と合う、神の想念が心に満ち溢れる)時に、
自分で何か清々しい一種独特の飛躍的な気持ちになるのを感じたことはないでしょうか。
あると思います。
その心を常に失わずにいてほしいのです。
又それは思うだけであってはなりません。実行されなければならないのです。」
彼等が離れれば、その清々しい思いを維持することは出来ませんが、
ただ天の仕事の多忙故に聖霊が私達から離れたのではなく、
聖霊がその思いを、神の心を人自ら心に起こさせることを可能せしめる条件反射を、
人の心に開発することが出来たが故に、
あとは人が聖霊の心を自らの心とするしかないのであり、
揺るぎない神の心を、善の意志を自らのものとする為には、
自らに課す魂の研磨しかないのであり、
真に人を天へと導く為に、彼等は私達を突き放すのだと、
メッセージでミカエル大王様が伝えられています。
これほどの愛と智慧を証されて、
それでも神の心を求める熱意が現れないとしたら、望まないとしたら、
その人は神の心とは相容れぬ心に、神の思いの伝わらぬ心に満たされている、
執着しているからに他ならないでしょう。
善に生きていた人が、堕落するのは容易いのに、
人が善人になろうと望んでも悪に弱い心を克服出来ないのは何故なのでしょう。
自己保存という本能が生きる力の根源なのですから、
その力に勝る善なる意志、真理に生きる意志を持ち続けなければ、
自己保存という引力から自由な精神に生きることは出来ないからです。
そのような真理に生きんとする意志を失えば、
本能の力に盲従し自分の為だけに生きるなら、
真理に生きんとする精神は衰退するしかないのです。
本能という無意識の心だけを持って人は生まれたのであり、
人が本能以上の心に目覚めるとは、真理を、徳を悟り、そのような心に生きるべきことを悟ること。
人の心を生命に執着させる、自分以外への意識を奪うのが本能なら、
真理、即ち執着や欲望から精神が解放されることで、自分のことを忘れる、
人の幸せを望む思いが生まれた者は、それが自らを思う心の虚しさを知らしめるのみならず、
真に人の求めるべきものが何かを、そしてその喜びが愛以外に齎し得ぬものであると知る時、
それが真の人間の姿であると、
無意識の自己保存という本能によって継がれてきた生命の齎した果実が、愛に生き愛に死ぬ時、
更に豊かな精神の実りを齎すとイエス様が言われた真実を理解されることと思います。
天上界の神々ですら愛の意志を持ち続ける為に、
魂を常に研磨することを忘れないと言われたことの意味することであると思います。】
少なくとも、真理を悟ってから尚、
真理に生きることを二の次にした者は一人としていないことは疑いようのないことです。
神の御意志に従うことを望んでいながら、為すべき善が解っていながら、
自己保存から、我執からそれが出来ないことに苦しむことがないのなら、
神が語り掛けようとも耳を傾けることなく、贋物に決まっていると、
騙されぬ己が賢明を疑うことのない世の人々の傲慢を苦しく思うことがないのなら、
真理に従うことに喜びを知る心(善我)を持たないのであり、真理など何の意味も無いのです。
真理とは、真の望みを知り生きようとする心から自由を奪っている偽我
(真理に、神の愛に従うことを拒む心)からの解放を齎すものに他なりません。
闇(邪悪)の真実の姿を明らかにする光なのです。
光に、真理に、神に目を背ける者のことを自ら堕ちて行く者と言うのです。
【真理の前に師も弟子もない(弟子が師から学ぶだけではなく、
師も弟子から学ぶ者でなければならないとミカエル様は仰しゃいました)、
真理に生きられた賢者や覚者を、天への使命を果された信義を貫かれた真の義人を、
正法を志す者の先輩と考えて彼等を継ぐ者となればよいのですと
ガブリエル様は仰しゃいましたが、
互いを心から敬う思いの前に、己を高しとする心は存在し得ないということです。
相手を敬う心が無くて先生と呼ぶ者にも、呼ばれる者にも、
互いに真理に向って切磋琢磨し合う関係を作り出すことはありません。】
「現代訳 論語(衛霊公第十五の三十五)」下村湖人訳
【「仁の道にかけては、先生にも譲(ゆず)る必要はない」
*謙譲の点においても先生に譲らぬ、ということを忘れると、
この言葉は厳しく強いだけに危険でないとはいえない。】
イエス様は「私が与える水(神の教え・真理)を飲む者は、
何時までも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人の内で泉となり、
永遠の命に至る水が湧き上がるであろう」
と仰しゃいました。
神の真理とはそのようなものを言うのだと教えられました。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」137頁
「憂悶の深く食い入る鋭い鋤の刃(神の教えを齎してきた天の善なる意志)が、
我々の心に絶えず後から生えてくる外皮(真理を拒む偽我)を常に新たに剥ぎ取らねばまらない。
こうして初めて、永遠の真理の新しい実り豊かな種子(※2)が我々の心に落ちて、
そこに根を下ろし得るのである。
こういう経験を経ないでは、我々は、真に人生の根底にある本当に真実なものに対して、
何時までも無感覚のままに留まるであろう。」
(※2注。
真理が古びることはありません。
この世に慣れ親しむ心が真理を感受する心を鈍らせているのです。
地の塩も効き目を失う譬えのように、真理に生きんとする心を失った者には、
真理は只の言葉に過ぎないのです。
新しい実り豊かな種子とは、正に永遠の神の法、正法であり、
人の心に働き掛ける、生きた、真の真理が、
生ける真の神から齎されるとヒルティは言われているのです。
神の御意志を伝えられているとしか思えない至言です。※2注終)
左傾メディアの中にも善良な者はいるでしょう。
共産主義者でない者もいるでしょう。
共産主義を擁護するような悪に染まった人々と共にあって、
真理を愛する心が、悪を嫌悪しないなどあり得ないのです。
善なる心を持った者も、邪心に満ちた環境に生きれば悪に染まってしまうと、
天上界が仰しゃっているのです。
善なる心を生かすことの出来ぬ環境に適応すれば、悪なる心にならざるを得ないのです。
"真理に生かされることで人は真理を知り、自ら真理に生きる者となる"
神(の心)を知る者は、神の生きられる真理が現れる謙虚な心を知るのであり、
謙虚な心のみ、真理は働き掛けてきたのです(※3)。
謙虚な心とは、尊ぶべきものを見出し、
そしてその価値(人の心に及ぼす徳)を知る心を培った者のみが持つのです。
(※3注。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」61頁
「高慢は常に相当量の愚かさと結び付いている。
高慢は常に破滅の一歩手前で現れる。
高慢になる人は、もう勝負に負けているのだ。
そういう人は破滅に近付いているのだと見て間違いない。
神が我々を見捨て給うと直ぐ、
我々の心は驕り高ぶる(謙虚な心は神の恩寵である)。」
素直な心とは、何歳になっても真理が現れると喜びに変る心です。
真理だけを感じ取る、真理に生きてきた心がそこに在るからです。
偽りの教義故に高慢でいられるような心には真理を受け止めることは出来ません。
立場の弱い者を見つけると、真理の言葉を以て(悪用して)、
人の神を求める心の扉をこじ開けて、偽りの真理で穢れなき心を悪に染めようとしますが、
真理を知らなくとも素直な心、高慢を知らぬ心を悪魔の心に変えることは出来ません。
真に素直な心は天上に愛されている、天の心と繫がっているからです。
〖備考2
天上界メッセージが真実であると理解するだけの、
今目覚めねば救い得ぬ故の最後の審判による
善なる人々の魂の救いを理解するだけの理性を持ちながら、
天上界の思いを自らの意志として生きようとしないならば、
これほど天を失望させるものはないのではないでしょうか。
例えば仕事を通じて人との関わりに責任を自覚する、
人に対してどうありたいか答えを求めるなら、
自己欺瞞でない客観的な基準を求めずにはいられないでしょう。
仕事を通しても真理を顧みずエゴを通すことで生きてきた者が、
仕事は人生を楽しむために、裕福な生活をする為にあると信じ込んできた、
そのような考えは、人に勝つことだけが、
人よりも自分を優位に置くことが人生の勝者であると、
そのように生きた者が、人生の終わりになって自分の赴く世界への不安から、
自分を正しいと言い聞かせることで安心しようとあがくのです。
何億という魂が神の心を永遠に理解出来ないでいるのです。
人生がこの世的な目的以上に価値あるものを理解出来ない、
それ以上の人生の価値を見出さねば、何時までも人の欲と結びついた悪が、
人を、この世を地獄にしていることさえ認められないでしょう。
真理に生きる生き方があることは知識としては持っているかも知れません。
宗教を信じて全財産を教団に奪われた人々がそうだと、
そんな生き方に何の価値もないと、それで納得しているのかも知れません。
しかし真理に生きることに価値があると思う心が間違っているのではない。
真理を、善を求める心を、神の御心を愛そうとする心を正しく導こうとする者もいれば、
神に救われるべき人を絶望に突き落とすことを喜びとする邪悪に生きる者がいる。
人の善意は、人を信じる心は騙しやすいからと、
彼等の熱意を利用すれば利益を得られると考える邪心を学ぶことのなかったが故に、
魂を破滅に導かれた者は哀れであり、
そのような邪教に群がる社会だからこそ、そのような社会の、欲望の齎す楽しみに、
心が蝕まれない訳にはいかないことを悟らなければならないと思います。
この世の与えるものだけを求める心を、本心の望みと信じ込んできた魂、
欲望の飢えを満たす為には、自らの意志で生きることが出来ても、
真理に、正義に飢え渇くことのない魂は、
神の思いを知っても、自らの思いとすることが出来ないということでしょう。
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、
然るに汝らの天の父は、これを養ひたまう。」とイエス様は仰しゃいましたが、
お金がなければ手に入らないと、お金によってのみ齎されるものと、
そのような人間の作った社会にだけ生きている、
それ以外の、人間社会を支えているもっと大きな世界の存在など
神様の治める世界であるから人間の考えることではないと、
そう信じるのが信仰と考えているのでしょうか、
自然の恩恵がなければ人類は、地球上の生物は滅びる道理は知っていても、
自然(神)の恩恵は尽きることがないと、
当たり前に思っているのかも知れません。
生き物にとって自然の恩恵にのみ生きての自由であり、
自然の中に生まれて死んでゆく、
それ以外の世界など知らないから幸せなのかもしれません。
人間はそのような自由を失ったことも、何故失ったかも考えることなく、
自然を、神を、魂を顧みぬ人間の社会の道(法)に、人間の宗教に生きて、
魂の存在も、魂を養うことも、自分が如何なる魂であるかも知らない、
知らねばならないと天上界が言われる理由も知ろうとしない。
そのような魂であることに不安さえ感じない。
「まづ神の国と義とを求めよ、
然(さ)らば凡(すべ)てこれらの物は汝らに加へらるべし(※)。」
神の国と義を求める心が真理に満たされるということです。
真理に満たされているから、真理に、即ち真に生きているから、
たとえ食べものに飢えようとも心が飢えることがない、
そのような心は執着の力から自由である、
神(真理)に生きる魂とはそういうものなのではないでしょうか。
「真理に生きる魂は、渇くことがない」とイエス様は仰しゃいました。
「君子もむろん窮することがある。しかし、窮してもとりみださない」
と孔子様は仰しゃいました。
たとえ力及ばず、真理の道に絶えようとも、
真理の道を見失うことはない、
真理への揺るぎない信頼に生きているからだと言われているのです。
真理に生きた先達による、
真理に生きんとする人々に残された天への指針に変りはありません。
(※参考。
「マタイ伝福音書 第六章二四節~三三節」
「汝ら神と富とに兼事(かねつか)ふること能(あた)はず。
この故に我なんぢらに告ぐ、何を食(くら)ひ、
何を飲まんと生命(いのち)のことを思ひ煩(わづら)ひ、
何を著(き)んと体のことを思ひ煩ふな。
生命は糧にまさり、体は衣に勝るならずや。
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、
然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。
汝らは之よりも遥(はるか)に優るる者ならずや。
汝らの中(うち)たれか思ひ煩ひてその生命を寸陰(すんいん)も延べ得んや。
又なにゆゑ衣(ころも)のことを思ひ煩ふや。
野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。
然れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、
その服装(よそほひ)この花の一つにも及(し)かざりき。
今日ありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装(よそほ)ひ給へば、
まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
さらば何を食(くら)ひ、何を飲み、何を著(き)んとて思ひ煩ふな。
是(これ)みな異邦人の切に求むる所なり。
汝らの天の父は凡(すべ)てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。
まづ神の国と神の義を求めよ、然(さ)らば、凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。」
※参考終)
備考2終〗
"真理を憎む者"
「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。
神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、
御子によって、この世が救われるためである。
彼を信じる者は裁かれない。
信じない者は、既に裁かれている。
神の独り子の名を信じることをしないからである。
その裁きというのは、光がこの世に来たのに、
人々はその行いが悪いために、光よりも闇の方を愛したことである。
悪を行っている者はみな光を憎む。
そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない。
しかし、真理を行っている者は光に来る。
その人の行いの、神にあって為されたということが、明らかにされるためである」
「ヨハネによる福音書 第3章16節」
「『もし私が来て彼等に語らなかったならば、彼等は罪を犯さないで済んだであろう。
しかし今となっては、彼等には、その罪について言い逃れる道がない。
私を憎む者は、私の父をも憎む。
もし、他の誰もしなかったような業を、私が彼等の間でしなかったならば、
彼等は罪を犯さないで済んだであろう。
しかし事実、彼等は私と私の父とを見て、憎んだのである。』」
「ヨハネによる福音書 第15章22節」
"高慢な(己を高しとする)心は何処から来るのか"
謙虚な心だけが真理を見出し、真理に生きてきた賢者の心に繋がる。
己を高しと慢心する心は、高ぶった心は、悪霊の心と繫がり、
義人の心の支えである真理にさえ嫉妬し、
真理に邪念の洗い流されることもない、
真理に生きる真我を見出すことはない。
邪念に侵された者は悉く滅びながら、
邪念は滅びることなく新たに人々を侵してゆく。
人間は死んだら無となるのだから、神の存在など作り話に決まっている、
肉体を失えば残るものは何もない、共産主義者はそのように言います。
死後の世界から伝わるものが皆無なら、
神も、真理もない、死後の世界を、神を信じる者を盲信と決めつけてることで、
今のままでよいと安心することが出来るのでしょう。
あの世なる世界から、何ら人の心に伝わるものが、予感されることがないのに、
神が、魂が存在するのではないかとどうして思えたでしょう、
それも大昔の互いに交流のない多くの民族が
どうして神の、魂の存在を信じるようになったのでしょう。
動物は、死後について考えることは出来ません。
目に見えぬ魂として存在してもそれが自己であるとは認識出来るでしょうか。
人類が神を、魂を信じてきたのは、
善霊が人間に合体して神の、善霊の存在を信じるように意識に働き掛けてきた為であることが
彼等自身によって証されたのです。
動物は自然の法の存在など理解出来ませんが、
法に生きる知恵があるから、心を損なうことがないから幸せなのでしょう。
未来への安心は、子どもを愛する心に表れているのではないでしょうか。
人間も動物であるのに、自然の中にしか生きられないのに、法に生きられない、
何故なら人間は生まれてからの学習によってしか知恵を得ることが出来なくなってしまった、
しかしその学習が出来るのも人間だけであり、
その為に動物にはない広大な大脳皮質を獲得したのも人間だけです。
神を見出すことなく、如何なる覚者の語る真理も信じることの出来ぬことに、
虚しさを覚えずして真理を求める心の生まれることはなかったのです。
何故虚しく感じるのか。
それは真理に生きる心がありながら真理を見出せないからです。
神が絶対神なら神によって人類は神を知ったことでしょう。
真理に目覚めた者しか神を見出せなかったのです。
人の心から神の心が生まれたのであり、神の心へと歩んだ道が真理に他ならない、
真理の道を歩むということは神に心を向けるということ、
神に向けられた心に神の思いが注がれる、
光に心を向ける者だけが光に生きる心を育てることが出来る、
太陽は如何なる植物にも光を与えられるのではない、
植物自らが光を求めるから光を養分にすることが出来るのでしょう。
共産主義者の言う、神も魂もない、肉体の死で人格も消え去ると
彼等は信じているようですが、何故彼等はそれに虚しさを感じないのか。
悪霊は、無論魂の存在も神の存在も知っている、
その悪霊が人間の心を侵しているのです。
悪霊の邪念に満たされた心は、
神を魂を信じる者は自分の人生を宗教組織に奪われているのだと、
死後どころか今生の生命すら奪われた者だと嘲っているのでしょう。
あの世を信じたばかりにこの世も奪われたのが神を、宗教を信じる者だと。
悪霊の邪念に満たされた心は、神の慈悲さえ与るに値しないと裁かれることへの、
神の怒り(消滅)への恐れすら感じることなき心故に、
神が意識されない心に生きているのです。
悪霊の邪念に心の目覚めを奪われてしまったのです。
生命を愛おしむ心を育てられなかったのです。
人を愛する心がないだけではない、自らを愛する心もないのです。
自己への執着心を愛と思っているのです。
自分を愛する心が神の愛へと昇華されると天上界の言われましたが、
生命の大切さを覚らぬ者は自らへの愛すら宿ることなき者です。
あるのは欲望(※)に生きる心、自己に執着する心であり、
愛の持つ優しさなど微塵もありません。
偽我といわれる、善我の念に反撥心しか起きぬ心なのです。
悪霊の心は生命を愛おしむ心を理解出来ないのです。
神の真の愛に反撥する、邪念に支配されるが故に、神による消滅さえも恐れることなく、
自らの魂を焼き尽くすまで神への憎しみから解放されることはないのです。
悪霊の邪念に支配された共産主義者の、
死後の世界はない、死ねば無となると平然としていられる心とは、
かつての仲間さえ粛清する冷酷な心に表れています。
生命を愛おしむ心を、悪霊の邪念に生きた為に育てることもなかった人達です。
その虚しさから賢者が見出してきた真理に一生気付かないで虚無の内に生き続ける、
この世を生きることに如何なる目的があるかも考えられず、ただ生きる為に生きている、
心を満たすものを何も感じない、
それが神を、真理を見出せないことから来る虚しさであると悟ることが出来ないからと、
多くの善霊の誰一人としてそのような者を憐れまれることなく、救いに導こうとする者もなく、
天上界の誰一人心痛めることなく、滅ぶに任せているなどあり得ぬことです。
彼が悪魔を神と信じて生きる者でも、
悪魔に魂を渡した者でもなければの話ですが。
共産主義者は何故神の心が理解されなかったか。
神を憎み神を呪った時、マルクスは悪魔の心を自らの心とし、
悪魔の望み通りに神の存在を滅し去ろうとしたのです。
共産主義に込められた呪いは、人類に神を捨てさせる、人の内なる神の心を滅ぼし、
その代りに、悪魔の導きに従い、人の内なる獣の心を目覚めさせたのです。
目に見える物質のみを信じさせる
(目に見えぬ神は信じる価値がない、物質である人間にとって何の価値もない)、
人は物質のみに生きる(目に見えるもの以外に反射することなき心となる)、
この世に生きるのが、物質であるのが人間である
(天国など人間の生きる世界ではない、人間は霊ではない、
霊が存在したとしても人間の与り知らぬものである)。
共産主義者は、何故愛の理解されない不毛な心に育ったのか。
神の真理にあってのみ人は生きる、
神を、真理を見失う心は虚無である、
神により消滅されるということの意味することは、
己の存在そのものが無であるということ、
それが恐ろしいとも感じぬまで心の病んだことも知らない、
天にまで届く神への愛も、神の伝える真も響くことのない、
悪魔の残忍な思いだけを受け止めた心故に、
共産主義に従わぬ者に残虐の限りを尽くせたのでしょう。
彼等が人の罪を暴かずにはいられない、人を罪に定めずにはいられないのは、
悪を憎むからではない、ただそれが自らの善であることの証明となると信じるからです。
自らの心に向き合う、自らの悪を認める、人に裁かれることを恐れる心が、
自己保存のナルシシズムに守られて生きるしか出来ぬ心が、
自らを善であると、誰からも非難されることを許さぬ自己防衛の唯一の術(すべ)が、
人の悪を裁くことなのです。
(神に裁かれる)自らを知ることの恐れから逃れようとする心です。
(※注。
〖参考〗
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 79頁
「申棖(しんとう)の欲」
子いわく、吾(われ)未だ剛(ごう)なる者を見ずと。
ある人対(こた)えていわく、申棖(しんとう)ありと。
子いわく、棖や欲あり。いずくんぞ剛(ごう)なるを得んと。
ー 公冶長(こうやちょう)篇 ー
(前略)
「金銭が欲しいばかりが欲ではない。欲はさまざまな形で現れる。
申棖(孔子門下の一人)が負けぎらいで我執が強いのもその一つじゃ。
欲というのは、理非の弁(わきま)えもなく、
人に克(か)とうとする私心(ししん)を指していうのじゃ。
天理に従って金をためるのは欲ではない。
これに反して、かりに金には冷淡でも、私情にかられて人と争えば、
それはまさしく欲というものじゃ。
申棖は欲がきつい。あんなに欲がきつくては、剛(つよ)いとはいえまい。」
門人たちは、欲というものがそんなものなら、
なるほど申棖は欲がきついにちがいない、と思った。
しかし、なぜ剛いといえないのかは、まだはっきりしなかった。
で、不思議そうな顔をして、孔子を見守った。
「わからぬかの」と、孔子は嘆息(たんそく)するようにいった。
「剛(つよ)いというのは、人に克つことではなくて、己に克つことじゃ。
すなおに天理に従って、どんな難儀な目にあっても、安らかな心を持ちつづけることじゃ」
門人たちは、いっせいに頭を下げた。
すると孔子は笑いながらいった。
「しかし、お前たちはまだまだ申棖に学ぶがいい。
申棖があんなにがんばるのも、金や権勢のためではなくて、天理を求めるためなのだから」
門人たちは、きわどいところで、自分たちの急所をつかれたような気がした。
彼らはいくたびかおたがいに顔を見合わせた。
そして、きまりの悪そうな顔をして、こそこそと孔子の部屋を退(ひ)いた。」※注終)
"真理を齎す者"
「マタイによる福音書 第一〇章 三四節」
「地上に平和を齎す為に私が来たと思うな。平和ではなく、劔を投げ込む為に来たのである。」
現象テープ№23「心の美は」より
80年5月11日ガブリエル様現象
「私達は時々、正法者の中にも、
"私は正法をしているのに、何故幸せにならないのだろう。"
"何故、身体が健康にならないのだろう。"
そういう人を、よく聞きます。
私達はそういう人を見ると情けなくなるのです。
あなた方は何の為に、正法に集って来たのか。
己の病気を治す為だったのか。家庭不和を直して貰う為だったのかと。
私達はあなた方の家庭不和を直す為にやって来たのではありません。
あなた方を賢くする為にやって来たのです。」
〖参考〗
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 143頁
「天の木鐸(ぼくたく)」
儀(ぎ)の封人(ほうじん)見(まみ)えんことを請(こ)う。
いわく、君子のここに至るや、吾未(いま)だかつて見(まみ)ゆることを得ずんば
あらざるなりと、従者これを見(まみ)えしむ。
出でていわく、二三(にさん)子(し)何ぞ喪(うしな)うことを患(うれ)えんや。
天下の道なきや久(ひさ)し。天まさに夫子(ふうし)を以て木鐸と為さんとすと。
ー 八佾(はちいつ)篇 ー
「実はその、これが私のただ一つの道楽でございましてな、……
いや、道楽などと申しては、まことに失礼でございますが、
正直のところ、そのような楽しみがあればこそ、
こうして関所勤めなどさせていただいておりますような次第で、はい」
儀(ぎ)の関守(せきもり)は、もう七十年近い老人である。
彼は、是が非でも、じかに孔子に面会させてもらうつもりで、
その宿所(しゅくしょ)に門人の冉有(ぜんゆう)をたずねて、
曲がった腰をたたきながら、しきりにまくしたてていた。
それは、孔子が魯の大司寇(だいしこう)をやめて、定公(ていこう)十三年、
五十五歳の時、はじめて諸国遍歴の旅に出たばかりのところであった。ー
儀は魯の国境に接した衛の一都邑(とゆう)である。
「それで、もうどのくらいお勤めです」
冉由は、関守を孔子に会わせたくなかった。
孔子の相手は諸侯か、さもなくば大夫(たいふ)である。
いちいち小役人などに面談させていては、きりがない。
それに、なんといっても、孔子は今や落魄(らくはく)の身である。
衛の国にはいったしょっぱなから、よぼよぼの関守役人などを相手にしたとあっては、
いよいよ孔子の威厳にかかわる。
われわれ門人としても、あまりいい気持ちのものではない。
この際は、世間に軽く見られるのが、なによりもいけないことだ。
なるたけどっしりと構えるに限る。そう考えて、彼は話を他の方にそらそうと努めた。
「もう、かれこれ、四十年ほどにもなりましょうかな」
と、関守は、ぐっと腰をのばして、いかにも得意そうに答えた。
「四十年!」
冉由(ぜんゆう)もさすがに驚かされた。
「いや、楽しみなものでございますよ。こうして関守をしていますおかげで、
いろいろのお方にお目にかかれますのでな」
「なるほど …… 」
冉由は気のない返事をした。
「それでも、最初のうちは慣れないせいで、惜しいと思うお方を、
ずいぶん取り逃がしたものでございます。
しかし、もうこのごろでは、すっかりこつがわかりましてな、
これはとにらんだお方なら、一人残らずお目にかかれているのでございます。
これがまあ、長年勤めた関守の役得というものでございましょうかな」
冉由は少し腹が立って来て、天井をにらんだまま、返事をしなかった。
「それはもう、先生のお疲れのことは、よう存じております。
で、ほんのちょいと、二言三言お言葉をかけてくださる間だけでよろしゅうございます。
どうも、お通りがかりにちらとお顔を拝しただけでは、この老爺が落ちつきませんでな。
それに、孔子先生といえば、これまで私がお目にかかりましたお偉い方が、
総がかりでお向かいになっても及ばないほど、お偉い方のようにお察し致しております。
場合によっては、これを思い出に、私は、関守を打ち留めにしようか、
とさえ思っているくらいでございます」
冉由は少し気をよくした。しかしまだ取り次ぐ気にはなれなかった。
「いや、今すぐと申すわけではございません。
明日のお立ちまでにちょいとお目にかかることができれば結構でございます。
なあに、私は、お待ちする分には、夜徹(よどお)しでも構わないのでございます。
よくこれまでにも、そういうことがありましたでな、はい」
冉由は思わず吹き出してしまった。関守はすかさず、
「お願いができるでございましょうか」
と、いかにも心配そうな顔を、冉由の前につき出した。
「お伝えするだけは致してみましょう」
冉由はとうとう立ち上がった。
「まことにありがとう存じます。
なあに、お伝えさえいただけば、間違いなくお会い下さることと存じます。
なるほどこれまでに、四の五のとおっしゃるお方もなかったではございませんが、
それはたいてい、お供の方のお指し金か、
さもなくば、ご本人があまりお偉くないお方の場合でありましてな。
多少でも人間の世の中のことがおわかりの方なら、
下賤の者や老人の心を、よくくんでくださるものでございます」
冉由はあきれて、運びかけた足をとどめると、関守の顔を穴のあくほど見た。
関守は、しかし、その瞬間ひょいと窓の方に目をそらして、大きく腰を伸ばした。
そして、いかにもひょうきんに、
「やれやれ、これでお願いがかないましたわい」
冉由は、立ち止まったまま二、三度首を振った。
そして、しばらくなにか思案するようだったが、
そのまま、思いきったように奥にはいって行った。
ものの五、六分もたつと、彼は仏頂面をして戻って来た。そしてごく無愛想に、
「おあいくださるそうです」
そういって彼は、次の部屋にいた若い門人を呼んで、奥に案内するようにいいつけた。
関守は、これまでの熱心さにも似ず、冉由の顔を見もしないで、
「そうですか、それはそれは」
といいながらのそのそと部屋を出て行った。
冉由は苦笑しながらそのあとを見送ると、椅子に腰を下ろして腕組みをした。
(やはり取り次いだのがいけなかったのだ。
取り次げば会おうとおっしゃるのが、先生のいつもの流儀だのに、
ついあの老爺にしてやられてしまった。それにしても、先生も少し軽率じゃないかな。
あれほどお会いになってはいけないというのに、いやそれはおもしろそうな人物だ、
とおっしゃる。おもしろいもおもしろくないも、たかが関所役人ではないか。
それに四十年もそんな仕事にこびりついているというのだから、たいてい知れている。
これから諸侯を相手に活動なさろうというやさきに、
あんな老爺に会ってどうなさるおつもりなんだろう。
今ごろはあの老爺、きっと、さっきのように煮ても焼いても食えないようなことを、
ぺらぺらしゃべっているだろうと思うが、あんな気狂いじみた老人を相手にされたんでは、
先生も結局自らを辱(はずか)しめることになるばかりだ。
それにつけても、魯の大司寇(だいしこう)でおられたころのことが思い出される。
ああしたりっぱな官職についてさえおられれば、
こんな辱しめ受けられることもなかったろう。
愚痴なようだが、やはり野には下りたくないものだ。
道を楽しむのなんのといっても、官職を離れたが最後、世間の評価はすぐ変わってくる。
それが世の中というものだ。だから先生にもよほど自重してもらわないと、
さきざきどんなみじめなことになるか知れたものではない。
とにかく、今日(きょう)自分があの老爺を取り次いだのは失敗だった)
彼がそんなこと考えているうちに、用たしに出ていた門人たちが四、五人、
どやどやと帰って来た。
彼は待ちかねていたように、すぐ事実を彼らに話した、そして、
「ありのままを話したら、先生もまさか会おうとはおっしゃるまい、
と思ったのだが、ぼくの見込みちがいだった」
と、いかにも残念そうにつけ加えた。
「(※1)そりゃ先生は、自分が人に知られることよりは、
人を知ることに、いつも心を用いられているからね」
と、一人がしたり顔にいった。
「なあに、先生のことだ、まさかそんな奴に恥をかかされるようなこともあるまい」
と、他の一人が事もなげにいった。
「それはそうさ。しかし、そんな人間にお会いになったということ自体が、
先生の値打ちを下げることになりはしないかね」
と、またある者がいった。
「ぼくが心配するのもその点だ」
と、冉由はまた腕組みをして、ため息をついた。
みんなもそれには同感だった。
彼らは、自分たちの値打ちまでが下がっていくような気がしてならなかったのである。
「その老爺の君に対する態度はどうだった。
教えを乞おうというようなふうは、ちっとも見えなかったかね」
と、一人が冉由にたずねた。
「そんなふうには鵜(う)の毛ほどもなかった。
いや、かえってぼくを愚弄しているとしか思えなかったね」
「先生が大司寇でいられたころは、下っぱの役人の目には、
われわれもひとかどの先生に映っていたものだがね」
「実際だ」
みんなは憮然とした。
しばらく沈黙がつづいた。
その沈黙の中から、しだいに足音が近づいて、しずかに部屋の戸があいた。関守である。
みんなは不快な目をいっぱいに彼の顔に注いだ。
彼は、しかし、にこにこしながら彼らに近づいて、
「ほう、みなさん孔先生のお弟子でいらっしゃいますかな」
と、小腰(こごし)をかがめながらいった。そして冉由の方を見て、
「さきほどは誠にありがとうございました。
いや、今日という今日は、この老爺も嬉しゅうてなりません。
これで長生きをしたかいがあったというものでございます。
そりゃ、これまでにもずいぶんりっぱなお方にお目にかかりましたが、
孔先生にくらべると、まるで月とすっぽんでございますよ。
ちょいとお目にかかりましただけで、この胸がすうっとするではありませんか。
だんだんお話しを承っておりますうちに、私もすっかり頭が下がりましてな。
もう私の方から、なにもいうことはありませなんだ。
いや、この老爺、これまでなかなか負けん気が強うございましてな、
たいていのお方には一理屈こねてみないと承知がならないのでございます。
ところが今日という今日は、まるで子どもになったような気がいたしました。
これでうんと若返りができましたわい。
こう若返ったところで、すうっと死ねたら、どんなにしあわせでございましょうな。
なにしろ、この節のような、めちゃくちゃな世の中を見せつけられて、
しかめっつらをしながら死んでいくんでは、やりきれませんからな」
冉由も、他の門人たちも、あっけにとられて、老人の顔を見守った。
老人は平気でしゃべりつづけた。
「ときに、あなたがたはいい先生についたものでございますな、
若いころから、あんな先生について学問ができますりゃ、
生きているのがいやだなんていう気には、金輪際なりませんよ。
それはなるほど、こうしてあてもなくついて歩かっしゃるうちには、
心細い気がなさることもおありじゃろ。なにしろ、まだみなさんお若いでな。
だが先生の値打ち、
…… いや、値打ちなどと申してはもったいのうございますかな、
……ええと、その、先生のほんとうの魂、つまり先生の心の奥の奥におある、
あの憂(うれ)いも、惑(まど)いも、懼(おそ)れもない尊い魂にしんみりふれて、
存分にその味を嚙(か)み出すには、ともどもに難儀をするに限りますよ。
あなたがたのうちに、万が一にも、先生が魯の大司寇をおやめになったことで、
気を落としていなさる方がありましたら、それこそ罰(ばち)が当たりましょう」
老人の顔は、次第に紅潮してきた。
門人たちもそれにつりこまれて、いつとはなしに居ずまいをただした。
「それに第一、 」
と、老人はせまるように、一歩門人たちの方に近づいて、
「先生を魯の国だけに閉じこめて、役人などさしておくのは、
もったいないと思いませぬかな」
門人たちはおたがいに顔を見合わせた。だれも返事をする者がなかった。
すると老人の声が、急にどなりつけるように、彼らの耳に落ちて来た。
「先生は、あなたがたの立身出世のために、
生まれておいでになったお方ではありませぬぞ!」
部屋じゅうが石のように固くなった。
老人は少し前こごみになって、顔をつき出していたが、
その目が異様に光って、じっと冉由の顔を見つめていた。
冉由は、その固い空気の中を、もがくようにして、なにかいおうとした。
すると老人は急ににっこり笑って手を振った。
「いや、これはつい大声をたててすみませなんだ。
それはもう、あなたがたが、先生のお身の上を心から気にかけていなさることは、
この老爺の目にもよくわかりますわい。
だが、天下にこう道がすたれては、
先生にでも難儀をしていただくより手がござりますまい。
いわば、それが先生に下された天命じゃでな。
それはそうと、この衛の国では、なにかというとお上(かみ)からお布告(ふれ)が出て、
そのたんびに、木鐸(ぼくたく)という変な鈴をがらがら鳴らして歩きますが、
まさか魯の国ではそんなばかばかしいまねはなさるまいな。
あんなものはただやかましいだけで、なんの役にも立つことじゃありません。
なにぶんお上(かみ)がお上でございますからな。
私はこれまであの音をきくたびに、いつも思いましたよ。
もし天のお声を伝えてくれる木鐸というものがあったら、とな」
彼はそこで探るように門人たちの顔を見回していたが、ふたたび厳粛な顔になっていった。
「おわかりですかい。あなたがたの先生こそ、これからその天の木鐸おなりだということを」
また沈黙がつづいた。老人は門人たちにひょこひょこ頭を下げて、
「いや、これは長いことおしゃべりをいたしました。
では、おたっしゃで旅をつづけてなさりませ」
そういうと彼はのそのそと部屋を出て行った。
門人たちは身じろぎもしないで、彼の後ろ姿を見送っていたが、彼が戸の外に消えると、
冉由は急に目がさめたように立ち上がって、あたふたと孔子の部屋に出かけて行った。
※1 子いわく、人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うと。(学而篇)
"真理に生きる者"
〖参考〗
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 160頁
「竈(そう)に媚びよ」
王孫賈(おうそんか)問いていわく、その奥(おう)に媚(こ)びんよりは、
むしろ竈(そう)に媚びよとは、何の謂(いい)ぞやと。子いわく、しからず。
子いわく、しからず。罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所なきなりと。
ー 八佾(はちいつ)篇 ー
孔子は、一日も早く衛(えい)の国を去りたいと思った。
それは、霊公(れいこう)が彼に対して、粟(ぞく)六万を贈るほどの好意を示したのも、
単に君主としての体面を飾るためであって、
政治の上に少しでも彼の意見を反映させようとする、
まじめな考えからではない、と見て取ったからである。
加うるに、公の夫人南子(なんし)は乱倫の女であった。
彼女の日々の生活を見聞することは、道に生きんとする孔子の、
とうてい忍びざるところであった。ただ、衛にはすでに多くの門人ができていた。
魯は彼の郷国だけに、門人の数も非常に多かったが、魯についで多いのは衛であった。
彼は、これらの門人たちのことを思うと、むぞうさにはこの国を去りかねたのである。
彼は、以前にも、ほんのわずかの間ではあったが、一度衛に遊んだことがあった。
それは、彼が魯の大司寇(だいしこう)を辞めた直後であった。
その後、鄭(てい)に行き、陳(ちん)に行き、ふたたび衛に戻って来たのであるが、
彼はそうした遊歴の間に、いやというほど諸侯の心情のあさましさを見せつけられた。
で、彼の心境は、いたずらに明君を求めて放浪するよりは、
静かに子弟の教育に専念したい、というふうに傾き掛けていたのである。
現に彼は、陳にいた時、
「(※1)一日も早く郷里の魯に帰って、理想に燃えている純真な青年たちの顔が見たい。
彼らはまだ中道を歩むことを知らないが、よく導いてさえいけば、どんなにでも伸びる。
あさましい諸侯などを相手にしているより、どれだけいいかしれない」
といった感想を、しみじみともらしたくらいである。
衛の門人たちも、彼の心をひきつける点において、
魯の門人たちと少しも変わるところがなかった。
霊公の無道と一夫人南子の乱倫とに濁らされた空気は、彼にとって、
いかにも息苦しかったが、若い門人たちと詩書礼楽を談じ、
政治の理想を論じていると、彼は少しも異境にあるような気がしなかった。
彼はこうした境地において、
いたるところに彼の故郷を見いだすことができたのである。
こうした彼は、衛を去る決心をしてからも、長い間門人たちを相手に日を送っていた。
ちょうどわれわれが、旅に出る前に、子どもたちを抱き上げて頬ずりするように、
彼は彼の門人たちの心を、その大きな胸の中に抱きとって、
仁の光に浸らせようと努めていたのである。
(※2)門人の一人に王孫賈(おうそんか)がいた。
門人とはいっても、衛の大夫(たいふ)で軍政を司(つかさど)る身分であった。
霊公の無道にもかかわらず、国が亡びないのは、彼の軍政と、
仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ)の外交と、祝駝(しゅくだ)の祭祀(さいし)があるためだ、
と孔子もほめていたほどの人物である。
王孫賈が、孔子をいつまでも衛にとどめておきたがっていたのは、いうまでもない。
彼は考えた。
(孔子は内心衛にとどまりたがっている。
ただ霊公がひどく彼を煙たがっているので、孔子としては、近づこうにも近づけないのだ。
ここは一つ、自分が仲にはいって、なんとかうまくまとめねばなるまい。
しかし霊公を説き落とすのはなかなかである。
やはり、孔子の方から進んで接近するようにしむけるよりしかたがない
説くに道をもって動きやすいようにしてやれば、孔子もそう意地を張らないだろう。
しかし、今すぐ霊公にぶっつかれといっても、それは無理である。
かりにぶっつかったにしたところで、結果はかえって藪蛇だ。
この際は、ひとまず大夫としての自分を扶(たす)けてもらい、
その実績をいやでも霊公に見せてやるようにした方がよい。
目前に実績があがりさえすれば、霊公も今までのように敬遠ばかりしておれまいし、
孔子の方だって、実際問題に即して霊公を説くことができるであろう)
そう考えて、ある日、他の門人たちのいない時刻を見計らって、孔子の宿に車を走らせた。
道々、彼は、この計画がうまくいった場合の立場を、心に描いてみた。
(自分は、孔子というすばらしい背景をもって、これから仕事をやっていく、
民衆の信望がしだいに自分に集まってくる。
さすがの霊公も、それに押されて行いを慎むようになる。
民衆はますます自分の徳をたたえる。
そのうちに、いよいよ孔子を正式に採用してもらって、直接枢機(すうき)に参画させる。
そうなると政治はますますよくなる。しかし孔子はけっして功を争うような人ではなく、
しかも自分に対しては心から感謝するであろうから、
いっさいの功を自分に譲ってくれるに相違ない。
だが、自分はその名誉をけっして独占してはならない。
仲(ちゅう)・祝(しゅく)の二大夫(たいふ)に対しては、
あくまで謙譲の徳を守って、恨みを買わないように努めねばならぬ。
その結果、自分の声誉(せいよ)が彼ら以下に下ることは、けっしてない。
否、かえって …… )
と、彼は万人に敬愛されている自分の姿を想像して、目を細くした。
そして次の瞬間に、ふと彼の頭に浮かんだのは、
帝(みかど)堯(ぎょう)が舜(しゅん)を挙げてその位を譲ったという、
すばらしい古代の歴史であった。
もしその時、彼の車が、凸凹(でこぼこ)道にさしかかって、
彼の尻をいやというほど突き上げなかったなら、
彼の空想は、彼自身と舜とをどんなふうに結び付けたか、知れたものではなかった。
幸か、不幸か、彼は尻を突き上げられて、にわかに自分にかえった。そして思わず、
「あっ、これはいけない!」
と叫んだ。御者はそれを聞くと、少し馬の手綱をしめながら、
「このごろは、人民どもが、道の修繕を怠けておりまして」
といった。しかし、王孫賈の心は、まったく別のことに支配されていた。
彼は古代帝王の禅譲にまで発展した自分の連想を、急いでもみ消そうとして、
しきりに胸のあたりをなでていたのである。
((※3)こんな空想を抱いたままで、孔子の前に出たら、それこそなにもかもおしまいだ。
彼はすぐ相手の心を見すかしてしまうのだから。ついこの間も、彼はわれわれに対して、
人間というものは、どんなに自分を隠そうとしても、見る人が見ると、すぐ正体を現すものだ、
といって、人物の鑑識法を教えてくれたが、聞いていてうす気味が悪かった。
彼の鑑識法というのは、人の行為やその動機を見るとともに、その人の心の落ちつきどころ、
つまり、何を真に楽しみ、何に心が安(やす)んじているかを見よ、と言うのだが、
彼は相手のほんのちょっとした目の動きかたからでも、すぐそれを見ぬいてしまうのだから、
たまらない。とにかく、孔子の前に出るには、私心は絶対禁物だ)
そう考えて、彼は彼の途方もない空想を、やっと払いのけることができたが、
さて、空想からさめてみると、今度はあべこべに、ちょうど深酒を飲んだ翌朝のような、
変な寂しい気分になってしまった。
そして自分はいったい何をしようとしているんだ、
自分の計画そのものが、元来、非常識きわまることではあるまいか、と心配し始めた。
(孔子は、直接霊公に仕えるのではなくて、一大夫の政治顧問になるんだと聞かされたら、
はたしてどんな顔をするだろう。
しかも、その大夫というのは自分だ。孔子にとっては、一門人に過ぎないこの自分だ)
彼は車の中でいらいらし出した。もっとよく考えてからにすればよかった、と後悔した。
しかし、いまさら引き返すのも変である。
あらかじめ孔子と時間まで打ち合わせてあるのだから。
道には凸凹がなくなった。車がいやに早く走るような気がする。
なにかほかの用件にしてしまおうか、とも考えてみたが、
それもとっさには名案が浮かばない。
とうとう車は孔子の宿の門前まで来てしまった。
宿というのは、子路の義兄に当たる顔讎由(がんしゅうゆ)という人の家である。
浮かぬ顔をして、彼は車を下りた。
出迎えの人のあいさつを聞くのが、彼にはたまらなく煩わしかった。
しかし、顔を横にそむけたり、悄然と首垂(うなだ)れたりするのは、
大夫にふさわしい姿勢ではなかったので、彼は門をくぐると、
視線を屋根の上に注いで、まっすぐ歩いた。
厨房の屋根と思われるあたりから、黄色い煙が昇っているのが、彼の目についた。
彼はその煙を見ると、なんということなしに、竈(かまど)を連想した。
ところで、彼が竈を連想したということは、
彼にとって、なんという幸運なことであったろう!
(しめた!)
と、彼は心の中で叫んだ。
天の啓示というのは、実際こんな場合のことをいうのかもしれない。
彼は煙を見て竈を連想した瞬間、
彼を現在の苦境から救い出すのにもっとも都合のいい一つのことわざを、
なんの努力もなしに思い浮かべることができたのである。そのことわざというのは、
「奥(おう)に媚びんよりは、むしろ竈(そう)に媚びよ」
というのであった。
奥(おう)というのは、部屋の西南隅(ぐう)で、中国の家で最高の祭祀を行う場所である。
しかし特別な祭神(さいじん)というものはない。
竈は、戸の神、土の神、門の神、道路の神と相(あい)並んで、五祀(ごし)の祭典の後、
その尸(かたしろ)を迎えて形式的な祭りをなすに過ぎない。
王孫賈がこのことわざを思い浮かべて喜んだのは、
奥(おう)はあたかも霊公に相当し、竈(そう)は自分に相当すると思ったからである。
彼は、そしらぬ顔をして、このことわざについて孔子の批判を求め、
もし孔子が、場合によっては竈(そう)に媚びることも許されていい、
という意見であるならば、率直に自分の胸中を披瀝(ひれき)して具体的な話をしようし、
さもなくば、その問題はまったくふれないで帰ろうという考えなのである。
(窮(きゅう)すれば通ず、とはよくいったものだ)
彼は孔子の部屋にはいる前にそう思った。
孔子はなにか瞑想にふけっていたようだったが、
王孫賈が来たのを知ると、立って彼を迎えた。
「お寂しくしていられましょう」
王孫賈は座につきながらいった。
それは、孔子がまだ浪々(ろうろう)の身でいるのに対して、
挨拶のつもりだったのである。
「私の門人に顔回という青年がいますが、どんなに窮迫しても、
なにか深く心に楽しむところがあるように見受けられます」
孔子は顔回にことよせて自分の心境を語った。
王孫賈はいささか顔を赤くした。それでも、
「霊公は、絶対に先生をお用いにならないお考えではけっしてありません。
ただいろいろ事情が複雑しておりますために、延び延びになっているような次第で …… 」
と、やはり彼の話は、孔子の士官の問題にこびりついた。
彼は例のことわざを持ち出すには、ひとまず話題をまったく他の方面にそらした方がよい、
とは思ったが、それがどうもうまくいかなかった。
孔子の方で都合よく話題をそらしてくれても、
彼の話はともするとその方にもどりがちであった。
彼はしかし、とうとう機会をつかまえた。それは二人の対話がちょっととぎれた時であった。
彼は急に思い出したかのように孔子にたずねた。
「先生、私は若いころ、奥(おう)に媚びんよりはむしろ竈(そう)に媚びよ、
ということわざを聞かされるごとに、あまり愉快な感銘を受けませんでしたが、
このごろ政治の実際にたずさわってみますと、
これにも一面の真理が含まれているように思えてなりません。間違っていましょうか」
孔子はちょっと眉をひそめた。それから相手の顔を穴のあくほど見つめた。
そしてかすかに微笑をもらしながらいった。
「爪の垢ほどの真理も含まれてはいますまい」
王孫賈は、孔子の否定的な答えを十分予期してはいたものの、孔子の態度や言葉つきに、
いつもに似ぬ辛辣を感じて、氷室(ひむろ)にでも投げ込まれたように、身をすくめた。
孔子は、居ずまいを正して言葉をつづけた。
「われわれは、ただ天道に背くことを懼(おそ)るべきです。
罪を天に獲(え)てはどこにも禱るところはありません。
それは、天がいっさいの支配者であり、真理の母だからです」
王孫賈は殊勝(しゅしょう)らしくうなずいた。
しかし心の底では、孔子が仕官を求めていながら、方便ということを知らないのを、
少しもどかしく思った。
(芸がないにも程(ほど)がある。こんな調子では、どうも当分見込みはないだろう)
そう思って、彼はいい加減にきりあげようとした。すると孔子は念を押すようにいった。
「竈(そう)に媚びないばかりでなく、奥(おう)にも媚びないのが君子の道です。
君子の道はただ一つしかありません」
孫賈も、そうまでいわれて、孔子の真意を悟らない男ではなかった。
やはり、自分の心をはっきりと見とおしていたのだ。
そう思うと彼は、羞恥(しゅうち)と失望とで、ぶるぶるふるえた。
しかし、彼が真に孔子の人物の高さを知ることができたのは、この時であった。
そして、このことがあってから間もなく、晉(しん)の国の趙簡子(ちょうかんし)が、
孔子を迎えるために、わざわざ衛の国に使者を遣わした時、
彼は国境まで孔子を見送って、一語でも多くその教えをうけることに努めた。
※1 子陳(ちん)に在りていわく、帰らんか、帰らんか。
吾が党の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)にして、
斐然(ひぜん)として章を成す。
これを裁(さい)するゆえんを知らずと。(公冶長篇)
※2 子、衛の霊公の無道なるをいう。
康子(こうし)いわく、それ是(かく)の如くば、奚(なん)ぞ喪(うしな)わざると。
孔子いわく、仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ)は賓客(ひんかく)を治め、
祝駝(しゅくだ)は宗廟(そうびょう)を治め、王孫賈は軍旅(ぐんりょ)を治む。
それ是(かく)の如し、奚(なん)ぞそれを喪わんと。(憲問篇)
※3 子いわく、その以(な)す所を視(み)、その由(よ)る所を観(み)、
その安んずる所を察(さっ)せば、人いずくんぞ廋(かく)さんや、
人いずくんぞ廋さんやと。(為政篇)
「現代訳 論語(季氏第十六の一一)」下村湖人訳
「孔子が言われた。
『善を見ては、取り逃がすのを恐れるようにそれを追及し、
悪を見ては、熱湯に手を入れるのを恐れるようにそれを避ける。
そういう言葉を私は聞いたことがあるし、また現にそういう人物を見たこともある。
しかし、世に用いられないでも初一念を貫き、正義の実現に精進して、道の徹底を期する、
というようなことは、言葉では聞いたことがあるが、
まだ実際にそういう人を見たことがない』」
そのような者は、そのような人格を愛する者に、何時か必ず見出されます。
何時の時代も、神に導かれる者は同じ道を歩むからです。
現象テープ№27 「正法流布について」
80年8月11日 ガブリエル様現象より
「(前略)
流布の活動は地味ですが、それだけに私達の見る目も大きいのです。
派手な仕事よりも、地味な仕事をするものの方を私達は重く見ます。
派手な仕事ならば誰にでも出来るのです(注。この世的な欲望が満たされるからです)。
ですが正法の流布活動、ビラ撒きや書店開拓ということは、
誰にでも出来ることではありません。
それは、天上界と正法に対する信頼が絶対な者のみが出来るのです。
一件や二件、失敗したからといって何のことがありましょうか。
心が挫けそうになった時は、イエス様のことを思いなさい、ブッタ様のことを思いなさい。
あなた達の偉大な先輩なのです。あの方達を、メシヤとして崇める必要はないのです。
正法者とはそのようなものです。
あなた方の先輩だと思えばいいのです。
(注。天上界は、ブッタ様に、イエス様に働きかけられたように
私達にその思いを伝えられているのです。
「JI」84年4月号 ミカエル大王様メッセージより
「あなた方を含め、全人類をモーセ様出エジプト以来、イエス様ご誕生の時より更に、
どれだけ私達天があなた方に愛の手を差し伸べ、救いの言葉を掛け、
あなた方迷える人類の虚ろな心に悲しみの涙を流したことか。」
「マタイによる福音書 第一三章一七節」
「あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、
あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、
またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」
現象テープ№10 ① 78年7月10日 ミカエル大王様現象
「今生に於ける正法流布の目的は、
人々をして迷信から合理的思考へと導き出し、徹底的に霊の世界と三次元との関り合いに於て、
不明の点を明らかにし、即ち私達天上の者の知る限りの真実と真理を与え、
宗教という有名無実の、却って人々の魂の修業の妨げとなり、神についての知識を迷妄に導く
宗派・団体を解散させ、この世から去らせるものです、この世から消え失せさせるものです。」
天へと繫がる真理の道を神自ら伝え聞いたのです。
ブッタ様やイエス様が与えられたように私達にも神の愛が与えられているのだから、
私達が彼らに続くことが出来ない筈がないのだと、彼らの思いが伝わらなくなったら、
今を生きる人々が彼らの思いを受け入れられなくなったら、
この世はサタンに支配されるしかないのだから、
天上界は私達の隣人愛に懸けているのだと言われました。注終)
先人達は、偉大な足跡を残してゆきました。
そしてあなた方も今、その足跡を記そうとしているのです。
今はまだ、それが解らないかも知れませんが、時が経てば必ず解るでしょう。
今、あなた方は無駄な事をしているのではないか、このビラ撒きは失敗なのではないか、
と思うことがあるかも知れません、ですがその一歩一歩こそが大切なのです。
小さな一歩は大きな一歩になるのです。地味な仕事を続けなさい。
そうすれば必ず広まるでしょう。
それは私達が確信を持って言えるのです。
巨額の金を投じ、沢山の人を動員した宗教ほど早く滅びます。そのようなものなのです。
寧ろたった一人で始め、そして、第一代の教祖が死んだ時には信者が少数に過ぎなかったが、
その後に広まるというケースが多いのです。
私達の、これは宗教ではありませんが、そのように肝に銘じて置いて下さい。
今は解らなくとも、必ず解る時がやって来ます。それはあなた方に於てもそうです。
今以上に、天国シリーズが正しかった、天の存在は間違いないと悟る日が必ず来るでしょう。
誰の心の中にも天上界と私達が存在するように、
私達の中にも、あなた方一人一人が存在しているのです。
あなた方は、敵の迫害に遭い、言葉のつぶてを投げられようとも、私達が傍らにいます。
あなた方は決して一人ではないのです。覚えて置いて下さい。
又、正法者同志もそうであらねばなりません。
私達が、あなた方に対して接するように、
あなた方も正法者同志、暖かく接し合わなければなりません。
私達は時に厳しい言葉を言い、叱咤しますが、それは愛に他ならないのです。
それは、叱られたあなたに対する信頼と、人類全体に対する愛情があるからです。
あなた方一人一人に依って、人類に広められてゆくのですから、
あなた一人を叱ることに依って、人類全体を目覚めさせることにもなるでしょう。
そういうものです。
それでは、これで現象を終わりたく思います。流布活動頑張って下さい。私達も頑張ります。
どうも有難うございました。」
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様