第一部 天の教え
第四章 天上界に愛される人格

二節 自己犠牲を厭わぬ、人への思いに溢れる美しい心
現象テープ№28 「自己犠牲について」全文
 80年9月14日 ミカエル大王様現象
&「エルバーラム」43頁

「私はミカエルでございます。今日は自己犠牲についてお話ししたく思います。
 数ある人間の行為の中で何が最も美しいか、何が最も天の波動に合うか、御存知でしょうか。
 それは裏に自己賛美の無い自己犠牲です。

 裏に自己賛美の無い自己犠牲とは、どのようなものを言うのか。
 たとえて申し上げるならば、去年のクリスマスにイエス様が仰しゃったように、
自分が如何なる苦難に置かれた時であっても、他に尽す心を忘れない、
その心から出る行動なのです。
 お解りでしょうか。

 今迄の人類の歴史の中でも、そのような人は数少なかったのです。
 自己犠牲をする人はありました。
 だが、その人々は、裏に自己賛美の心を隠し持っていたのです。
 キリスト教徒の中にもそのような人が沢山あり、
自己犠牲のその後に必ず祈りを捧げました"神様、どうも有難うございます"。
 そのような祈りを私達はどれ程聞いた事でしょうか。
 キリスト教徒だけではなく、仏教徒に於ても、そのような祈りは聞きました。

 だが、そのような祈りは、自己犠牲の中でも下劣なものであり、
私達はその者の心の中に自己満足しか読み取る事は出来ませんでした。
 更に、そのような者の祈りの中には何が含まれているか。
 それは、真に反省すべき点を天に向かって言うのではなくて、人に対しても言う事の出来る、
自分の恥ずかしくない所だけを述べる祈りでありました。

 そういう心は、あなた方の中にも、身に覚えがあると思います。
 真に神を信じる者ならば、自分の恥ずかしい点をも私達に対して、
言う者でなければならないのです。

(注。
 聖霊は私達の心の中に入ることで、
また私達と共に生きて来た合体霊、守護霊の証言によって、
私達の心を知ることが出来ますが、
天上界に自分の悪い心も隠そうとせずに言える者になってほしいと言われるのは、
人の内なる神の心に語りかけて来た神を前にして、
自らの善なる心を捨て去り、真の神を騙すほどの悪を更に加えようとする、
真実の自分の心に向き合おうとしない、自分を知ろうとしない心は、
悪を隠そうとする心を育てる、心を悪に染めることになることを
教えられているのではないでしょうか。

 悪を隠し持とうとする心とは、そのような悪を愛する心がそこに在るのであり、
悪を明らかにする神が、真なるものが現れる時、
神を憎む心へと人を変えることを教えられているのだと思います。注終)

 更に自己犠牲とは、神に対する素直さ、謙虚さを必要とします。
 謙虚さ、素直さと申し上げるものでも、何に対して謙虚、或いは素直でなければならないのか。
 人に対してそうなるのではありません。
 神に対して、天上界に対して、或いは真理と呼ばれるものに対して謙虚でなければならない、
素直でなければならないのです。
 そうであってこそ初めて、悪に対して拒否反応を示す事が出来、拒絶する事が出来、
戦う事が出来るのです。

 お解りですか。
 自己犠牲のない人間は、存在価値はありません。人間としての価値を持たないのです。

 日々、安穏に暮らして、正法を学び、自己満足を得る者で終わるならば、
あなた方は、神界以上の悟りは得られないでしょう。

 私達はあなた方に、人に対して尽くす事が出来る者、
自分の不幸を顧みず、自分の逆境を顧みず、人に尽す者になってほしいのです。
 これからは、それが要求されるでしょう。
 繁栄を終えた後には、やがて破壊の時、新たなる再建の時がやって来ます。
 その時に際して、あなた方に必要とされるものは何でしょうか。
 それは自分の逆境を顧みる事なく突き進む事の出来る勇気
それによってのみ齎される自己犠牲なのです。
 あなた方の中に果たして何人の人、何人の者がその勇気を持つ事が出来るでしょう。
 そして、その勇気を持つ事が出来る者は、真に人間の良き理性、良き知性といったものに対して、
立脚出来た者を言うのでしょう。
"己の中にある神を信ぜよ"と言うのは、この事を言うのです。

 人間が七十年、八十年生きるとして、様々なことが起こるでしょう。
 平和があり、戦争があり、破壊の時があり、又、建設の時がある。
 個々の人生に於ても、幾多の悲しみがあり、数多の喜びがあるでしょう。
 その中で、同じ時代を生きる人間にとっても、苦難が愚痴の種にしかならぬ人間もあれば、
悟りへの進歩となる人間もあるでしょう。
 悟りとは、どのような事を言うのか。
 それは一人一人が考えなければなりません。
 私達があなた方に向かって、これこれのような物であると提示出来るものではないのです。
 何故ならば、各々に於て体験の型が違い、理性の違いがあり、知性の違いがあるからです。
 それは上下を付けられるものではないのですが、やはり程度といったものがあるからです。
 あなた方が真に強い人間になりたいと思い、そして正法者になりたいと思い、
天上の善霊の仲間になりたいと思うならば、まず、明日から自己犠牲を試みなさい。
 手を汚すことを厭う人間に進歩はありません。恐れることなく、突き進めばいいのです。
 それでは、短いようですがこれで、私の話を終わります。どうも有難うございました。」

「JI」84年5月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」185頁

「正法の為に生命を賭して奉仕される方もあります。
 集いの主宰でありながら、千乃裕子の多忙と病身を気遣って、ご自分の病状を語らず、
黙って癌で逝かれた方もおります。
 その美しいお心には天上の者の魂が宿り、そうあらねばならぬながら、胸を打たれ、
頭が下がる思いです。
 勿論、話して頂き、助言をさせて頂く方が私も喜び、
集いも貴重なリーダーを失わずに済むのです。

 しかし私も数え切れぬ美しい魂を、多く多く失いました。
 悪魔とその配下の為に、

不本意に失ってはならぬ人々を次から次と失い断腸の思いをしました。
 正法の為に生命を捧げられた方達を含め、

改めて善を抹殺する悪の邪心に怒りを覚えるのです。
 サタン・ダビデといい、イデオロギーの相違だけで人を虐殺して何も感じぬ悪魔の思想、
共産主義とそれを擁護するテレビや新聞などのマスコミ、
悪魔の支配するソ連との友好をのみ是とする政党といい、天とは何の関りもない人々です。


 天は社会の破壊を導く者として一切彼等を切り離し、
この世に於ては地獄に陥ち、苦しみつつ破滅するがままに任せる決意を新たに致します。

 他のあらゆる社会主義と同じ、邪心と野望の為に左翼の同志が裏切り合い、
苦しめ、殺し合うのです。
 社会主義者自身が不幸に常住し、滅し合います。
 そして四次元に於ては私達の裁きを受け、消滅され、魂は残らないのです。
 只この世に於て地獄の世界に生きるだけの人生を、
共産主義や社会主義は味わうことになります。
 天を裏切った多くの人々と共に、希望も喜びも無い人生です。
 それ故に、あなた方正法者や正法に共鳴する読者の方々は、
如何に無理解な御両親や世間と対していようと、
天に通ずる希望と喜びを得て日々を送ることが出来るのです。
 神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか?
 滅びと消滅を約されて生きる身となれば、絶望しかないのではありませんか?

 その為に私達天を偽物と断じなければ、自らの安らぎを覚えぬ程の不安を感じ、
天に背く者も、無視する者も等しく、千乃裕子を介して現れ、語りかける神 ー
即ち私達を悪霊や偽物と中傷して廻るのです。
 神に愛される人格として生きる道は厳しい。
 しかし、永遠の喜びの為に天はあなた方を厳しく導き、育てるのです。


現象テープ№31 「天上界による質疑応答(天上界の見解)」より
81年9月10日 ガブリエル様現象
&「エルバーラム」87頁

正法の意味とは何なのか。意味は一つしかありません。ユートピアを作る事以外にないのです。
 ユートピアというと大変な作業ですが、しかし、あなた方が自分の幸せを願うのと同じように、
又、他人の幸福をも願う心、そういう気持ちで生きていってほしいのです。
 確かに自分の事を置いて他人の事を考えるのは難しい事です。
 しかし、自己犠牲を私達は言いますが、
自己犠牲をする場合、自分が犠牲になっていると考えてはいけないのです。
 それはもう、天上の行為ではありません。
 犠牲となるのではないのです。
 自らそういう心に溢れ出て、何とかしてあげたいと思う気持ち、
溢れ出る気持ちを真の自己犠牲と言います。

 やってあげなければ仕方がない、そういう気持ちは自己犠牲とは言いません。
 自己欺瞞と言うのです。


「JI」84年1月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」178頁

「天が共に居り、共に働けるのは、強い精神を持ち、柔軟な思考力・判断力を有する、
しかも自己を犠牲にして惜しまぬ人格以外にはないのです。

現象テープ№29 「イエス様クリスマス・メッセージ『愛と信仰』」より
 80年12月21日 イエス様現象
&「エルバーラム」27頁

愛は犠牲を厭いません。
 又その犠牲の結果が何であろうとも、愛は恨むことをしません。妬むことをしません。
 悔やむことをしません。焦ることもないのです。
 あなた方の身が貧しい時に、あなた方が人に与えた愛が撥ね付けられたり、
又は逆恨みされたりした時に、その時にあなた方の心の中に起こった葛藤、

私達はそれを深く悲しみます。

 愛はどのような犠牲でも厭わないのです。
 この意味で、愛はすべてを超え得ると言うことが出来るのです。
 愛は何ものをも超えることが出来ます。

〖備考
 天上界の美しい澄んだ心がどういうものであるのか知ることが出来て、
自分の心を隠さず証すことが出来れば、どんなに心が軽くなるでしょうか。
 それだけ天を信じられる者は、何と幸せなことでしょうか。

 神々の心を知らされて、その心を愛そうとする心が生まれたのです。
 そのような愛が生まれたから、その心に相応しい、その心に生きる為に、
彼等の生き方に倣おうとするのは真に自然のことです。
 天上界の方々が、自分の為ではなく人の為に生きる者になってほしいと願う時、
私達に幸せになることを願ってのことであって、
犠牲を強いる心など微塵もないことは言うまでもないことです。
 そのような犠牲と思われる心に勝るものが、神の愛であるからです。

 天上界が、愛とは自己犠牲を厭わないものと言われるのは、
苦しんでいる者、助けを求めている者を知った時、
自らの心に現れる自己保存への思いに克てない者であってはならない、
助けたいという思いを自ら捨て去るような冷酷な心を齎す自己愛に
克てない者であってはならないということです。

 
彼等が望んでいることは、私達が神の愛を見出して、神の愛に生きて、
真の幸福を知ることなのです
 天への道を行く者を迫害し、神の道を行く者は幸福になれないと神の愛に背かせ、
堕落への道に誘おうとするのは、悪魔に他ならないのですから。

 破滅させんが為の迫害と、善我を貫く精神を鍛えんが為に神が与える苦難と
見分けられねばならないのです。
 神の御心を理解しなければならないというのはそういうことです()。

(人が自ら見出した真の愛に生きることを願うが故に、
自らの意志によらずば人は愛に生き得ぬ故に、神は強制されないのです。
 イエス様は自らの意志で十字架の道を逃げなかった故に、
自らの犠牲を厭わぬ神の愛故に、人は神の愛を知ったのです。
 神を十字架に付けた人類の罪に生きる心を知ったのです。
 真に人の心を救うのは、神の愛以外にないのだから、
自己保存の思いを乗り越えることが出来るのは、
愛に生きんとする自らの意志以外にない故に、
神は私達の心に彼等と同じ、彼等の思いの伝わる神の心があることを、
それを今伝えようとする彼等こそ真の神であることを信じて、
神の心に目覚めるように訴えるのです。)

 只自分が救われたいという自己保存(偽我)を持ちながら、そのような心にしがみ付きながら、
自分が救われることよりも、人が救われるように、人を生かそうとする正法を行えば、
自分の本心に偽って、自分を正法に従わせようとすれば、
自己犠牲を強いられているとの思いが募っていくでしょう。

 偽我に生きる者は、自己保存の本能に意識を支配されている、自己に執着しているのであり、
それが自由を奪う鎖であると認識することが出来ません。 
 その鎖を解き放ち自己保存という本能から自由を得た者が、
善我(理性)に、愛に生きることが出来るのでしょう。
 自己保存(我執)に盲従し、自己喪失という強迫観念に怯える者の目には、
自己犠牲としか映らない、犠牲を強いるものと見做すことで、今のままで良いとする、
自己欺瞞の内に安心を求めるのでしょう。

 自らを顧みぬ真の愛を拒絶する偽我(自己愛)に生きている者にとって、
自分(偽我)を顧みない真の愛に従うことは、偽我にとっての犠牲(偽我犠牲)なのであって、
善我、内なる神の心にとっては、
(自由な心から自分の意志で愛に従う)真の解放を知る喜びに他ならないものです。

 愛は犠牲を強いるものであると、自己保身の心(偽我)にあればそう思うでしょう。
 しかしそのような心に留まる者は、真の愛を知ることは決してありません。
 真の愛が心にあれば、人が愛を必要としている時に、自己愛に生きれば苦しくなるのです。
 真の愛こそ己(の善を愛する心)に自由を齎すものと判ることでしょう。
 真の愛が自己愛に生きようとする者の偽我を顧みなくする、棄て去ろうとするのです。
 それを恐れる偽我(に生きる者)が、人を善我に生きようとさせる真の愛を、
人に犠牲を強いるものとしか思えないのは、偽我にとって当然のことなのでしょう。

 天上界の方の仰しゃることが厳しいのは、
神となられるまで正しい道を歩む厳しさに負けなかった彼等の精神力の、
愛の強さの表れに他ならないからです。
 そのような思いを自分のものにせねば、天への道を歩き続けることは難しいことだからです。

注。
 神を見失った人類が、救いの希望を、真の信仰を取り戻せるのは、
人類の罪を贖う救い主の犠牲しかないと天王エホバ様を信じさせたのは
弟の(サタン)ダビデであったことが天により証されました。
 愛する子を十字架に掛けても人類を救いたいとの思いが、神の御心であると、
神の愛であるとキリスト教徒は信じてきたのです。

 自らを犠牲にするとの思い(自意識)から真の愛が生まれるとの理解は、
人の精神を歪めて行くのではないでしょうか。

(自己保存(自己愛)の引力圏に留まる心は、
常に自己愛の、自分を優先しようとする心の働きを受け続ける中で、
そのような自己愛に屈することなく、善我に立脚し、
神の愛を自らの意志と自覚する、貫くことで自己愛という心から脱出する、
神の愛に生きる、神の差し伸べる手に自らの手を繋ぐことが出来るのではないでしょうか。)

 真の愛は人を生かそうとする、その熱意が犠牲を乗り越えて行く
(独裁者が民に犠牲を強いるが如くに、宗教を貶めんが為に信者に強いるのが自己犠牲であると、
堕落に生きる者に悪魔が言わしめた、
宗教は、神は、信者に自己犠牲を強いるものと思わせたのであり、
真に自己を生かす愛を見出した者に、
自己犠牲という観念は、人を自己愛に縛りつける為の、
悪魔に植え込まれた欺瞞であることが解る)のです。

 我執から自由になった心が、人の幸せを
(自分と同じように人も真の自由を得て、真の愛に生きてほしいと)願うのであり、
(犠牲を厭わぬ真の愛なのか自己欺瞞なのかと思い悩むような)
自意識に縛られた心から真の愛は生まれません。


 自然から自己保存という本能を与えられたから、自分を大切にする思いを持てたのです。 
 大切にする思いこそ愛の生命です。
 無条件に愛し得る自分から、(自分に喜びを齎してくれるから)大切と見做すものを愛する、
価値観によって愛すべきものだから愛するという、
自分を幸せにする条件に適った愛(自己愛の延長)が他へと向けられます。
 そのような自分本位の愛が他の幸せのみを望む真の愛へと、
人類は昇華させることが出来ると天上界は語られたのです。

 天上界の教えから学んだことですが、
自己保存という本能は、すべての動物と等しく大脳の旧皮質にあり、
理性(神の心、神の愛)は前頭葉という新皮質にあり、理性は遺伝されることなく、
生まれてからの学習を通じて大脳を開発しない限り得ることの出来ないものであったのです。

 そして天上界の人類への信頼と共に伝えられた素晴らしい教えの一つに、
天上界の聖霊(神々)は人間であったこと、人間として生きる過程で学習、
(知恵に生きた)経験によって自己愛(本能)を乗り越える神の愛(理性)を獲得された。
 その愛に生きる時、欲望に、自分の為に、他よりも自分を大切と他の犠牲を顧みない、
あらゆる自分本位の思いが、真の愛の前に色褪せてゆく、
何も得ることがなくとも、何を以てしても齎し得ない清々しい、
自由な心を得ることが出来ることを、真の愛を知った者に、
愛なくば一切が虚しいと言わしめてきたのです。

 同じ人間として生きて真の愛を見出した彼等が、
地球人類に真の幸せとは何か、それを見出せなくしている原因とは何か、
それも心の成長なくしては理解されぬ故に、人の一生のみならず、人類の歴史を通じて導かれた、
そして神の法を理解するまでに人類が成長された
(と同時に、地球を滅ぼし得るほどの破壊を求める邪悪と、
真の神に背くまでに己を神とする増上慢と、知能を人類は得た)今、
神の法を神(天上界)自ら伝えられたのです。
 これまで天上界が伝えられてきたにも関らず、
何故人類が神の愛を見出し、神の愛に生きられずに来たかも。

 神の心を、神の愛を歪めて伝える者(悪魔)が存在し、そのような悪魔を悪魔と見抜けず、
歪められた宗教によって悪魔に導かれ、真の神の思いの理解出来ぬ、
邪教に洗脳されて真理を悟る知恵を育てられなかった信者が、
今この世を救う為に人類が悟らねばならない、神の伝えんとされる真理を阻んでいるのです。
 イエス様を拒絶したパリサイ人のように。

 十字架という残酷を、愛する神の子に課す、
そのような神の犠牲によって初めて人類は罪に生きた心を悔いることになると、
サタン・ダビデは兄エホバ神に人類の救いを説得しました。
(罪深い人類が救いに与る為に、
神への供物を必要とする悪魔に歪められた教義に生きるユダヤ教徒を救う為に、)
神の子を生け贄としてでも神のユダヤ教徒を救わんとする思いが
伝わらない筈がない、あってはならないのだからと。
 必ずユダヤ教徒は神の心に目覚め、イエス様の教えに神の御意志を見出すに違いない。
その為にダビデ(サタン)は、
兄エル・ランティ様(ヤーウェ=エホバ神)への協力を誓ったことでしょう。
 エル・ランティ様はダビデの心を疑われなかった、
人類が神に救われることを、神と共に生きる幸せを望んでいることを疑われなかったように


 犠牲によって人々が真の愛の尊さに目覚めると、
イエス様が十字架に耐えられた愛を、自分も耐えられると思う程の愛に突然目覚めると、
愛がそのようなものと言われて、
自らに持ち得た(と思うような心が謙譲に生きる心でしょうか)者がいるでしょうか。
 もしイエス様の十字架に真の愛を見た者なら、
天の光はその人に己が偽我を知らしめるでしょう。
 己が心は真の愛を宿す神の心に程遠い、罪に生きる偽我を知って打ちのめされることでしょう。
(己が偽我をすら克服出来ぬ者が、
神の愛に生きることが出来ると自惚れる心こそ偽我そのものであり、
サタンの甘言の偽りも悟れず、愚かしい一生に終るのです。)

 偽我を一掃する善我に徹することで自己への思いから、
周りへの目が開かれ、神の愛に生きるようになって行くのでしょう。
 自己愛を乗り越えるとは、
大切に思う心はそのままに、自己へと向けてきた思いを他へと向ける、
その為には自らを苦難に追い込もうとも、
愛に生きんとする自らを信頼し、他を大切にする思いを失わぬことです。

 自分よりも他を大切に思えるのは何故か。
 真の愛は、愛に生きる者から対象(外)へと向かうものだからです。
 自らに向かう愛は、自己保身から苦難を避けるでしょう。
 他に向かう愛だから、
真の愛は如何なるものにも屈することを許さず貫こうとするものとなり、
真の愛を見出した者にすべてに勝るものが愛であると言われてきたのでしょう。
 真の愛は他へ注ごうとされるものです。
 他の幸せを願うものだからです。

 
 イエス様の真の愛を犠牲としか見ない眼(偽我)にあっては、
神の愛を見出すことはありません。
 偽我から真の愛は生まれません。

 強いられて従う心(偽我)に立っての、自らを偽っての愛を、偽善を為し得ても、
人を、己自身をも幸せにする、心を自由にする
(愛に従って悔いることのない)ことは出来ません。
 愛を強いれば、真の愛が生まれる自由な精神を人から奪ってしまうのではないでしょうか。

そのような愛を神の愛として人類が受け入れるか、ダビデは人類を試みに掛けようと、
高貴な魂故に犠牲を顧みぬ真の神の愛が如何なるものか、
人類に突きつけたかったのかも知れません。

"真に高貴なる魂の愛を、受ける価値なき者を救う為に自らを捨て去る真の愛に、
その価値なき者であるあなた達が応えられると思うのか。
 真の神の愛を知った時、己への愛に盲いて真の神の愛を憎んだあなた達が、
自らを捨て去る真の愛を自分のものに出来ると思っているのか"

(己への愛に盲いて神の道を見失った人類を救わんとする神の愛を、
サタンは嘲笑ったのでした。)

 堕落への本性を捨てきれぬ人類を知りつくしてのダビデの誘惑に
克つ力を持った者など(偽我に屈することなく善我を貫いた者以外に)存在しなかった、
彼等の邪悪な心に取って救いとは、神ではなく、悪魔によって齎されるものであると
人類に知らしめんが為に、
そのような人類が神の犠牲によって救い得るものであるとエホバ神に信じさせ、
真に高貴なる魂の愛を人類に突きつけたのではないでしょうか。

 神の愛を知った者が、自己愛を克服しようとするのです。
 真に自由な心(神の心)を知る時、自己愛が自分を縛る心であることを覚らせるからです。
 自由な精神とは(真に価値ある生き方とは何かを、そのような生き方を求める神の心を、
顧みようとしない心を言うのではありません)、
自由な精神を奪う我執に打ち克った心を言うのです。

 真の愛は犠牲によってもたらされるとの考えは、精神の解放を齎すより、
(原罪の如くに)人の精神を縛ることで、神を、真の幸福を見失うことになり
何故なら、犠牲を強いられたと思う心は、真の愛を失っているのであり、
犠牲を超えていく心に生きるのが真の愛だからです。
 犠牲を強いる者は、真の愛を信じることのない者です
)、
決して聖霊の望まれるものではなかったのです。

 十字架という残酷な犠牲から、真の愛が人の心に生まれると神に信じさせようなど
悪魔の冷酷がなければ思いもよらぬものであると天の聖霊は証されたのです。
 サタン・ダビデの悪魔の心を、人類は神の心と信じてきたのです。
 そのような人類の心は神を求めながら悪魔と繋がり、
悪魔の齎した共産主義を受け入れた時、悪魔に魂を渡したのです。注終)備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法