第一部 天の教え
第四章 天上界に愛される人格
一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
(一) 調和を齎す柔軟な精神、素直な心
「天国の扉(77年12月初版)」225頁 千乃先生の解説より
「何よりも正法で大切なことは、心を丸く大きく保つことなのです。
何か失敗したり、上手く行かないことで悩んだり、人生には必ず心の悩みが付き纏います。
しかし、それでしぼんではいけません。
ゴム風船の様にフワフワと弾力を持って自分の心の中に憩いの
(優しい寛容な思いに立ち返る)場を作って、生きてゆかなければならないのです。
それが処世術でもあり、善なる心の外見だと考えて下されば良いのです。」
「天国の扉(77年12月初版)」139頁 ラファエル大天使様メッセージより
「私はラファエルでございます。
私も、ミカエル大天使長の下で働く六人の大天使の内の一人として、
芸術、文学、歴史学を司っております。
そして同じく、魂の修行の為に何人かに生まれ変ってまいりました。
十五世紀に、レオナルド・ダ・ビンチとして生まれ、
本来、人間が目指してゆかなければならないのは
万能で平均された理想の人間であると教えたのです。
十五世紀に、私は画家ラファエロとして生まれ、天上界の様子や人々の姿を描きました。
そして、十六世紀には、私はシェークスピアとして生まれ、
人間の生き方について深く追求しました。」
「それらの内に描かれている人々の人間像は、円満さを強調したものや、鬱病的なものや、
躁病的な人間や、偏執的な性格や、明るく拘らない性格や、種々様々で、
レオナルド・ダ・ビンチの理想像とは違い、
多角度から人間を分析し描くことに興味を持っていました。
私の人間観といってもよいでしょう。
特に『ベニスの商人』のヒロインであるポーシャの役柄に於て、その性格を分析すると、
あらゆる両極端な性格が一つになって、却って円満な性格を形作り、
複雑なそして愛すべき人間像を表現することになったのです。
その性格はあなた方の中にあるものと同じ、或いは、多く共通したものだということを
私の説明を読めば、きっと理解されるでしょう。
そして、この本に説かれている、私達天上界の者に愛され容認される性格について、
この章を読むことにより、皆様は人間というものの複雑な性格とその表現の幅広さに
共感を覚えられ、少なからず安心されるのではないだろうかと思うのです。
天上界が愛する、又、好む性格とは、禁欲的で、清教徒的なものでは決してない、
ということを皆様に理解して頂きたいのです。
即ち、私が敢てシェークスピアの作品について語るのは、
それが天上界の良しとするものだという事なのです。
ポーシャによって代表される性格とは、
ある時は天衣無縫で捉え難く思える時もあれば、
淑女のように礼儀正しく事を弁え、
正義を説くに理性的で冷静で鉄の如き意志を持つ如く見えるかと思えば、
人間愛に裏付けられた慈悲の尊さを説く者であったり、
無謀な程の大胆な発言をするかと思えば、
それは細心に計算された賢明さの表れであったり、
厳しく理論を展開するかと思えば、ユーモアで聞く者の心を柔げたり、
喜怒哀楽を生き生きと表現し、決して自由な弾力性を持った心を失わず、
明るく、自己を想像力と表現力と創造力に於て、決して形式によって束縛せず、
しかし奔放にではなく、権威の前に畏縮せず、卑屈にならず、のびのびと振舞う。
そのような性格なのです。
その中に多くの互いに相反する性格が柔げ合って、偏りを防ぎ、
表面には円満なものとして現れる(※)。
それは人間でなければ持つことの出来ない複雑な、しかも健全な精神なのです。」
(※注。
性格の中に相反する力がぶつかり合って行き詰まっている状態を
交流分析ではインパスというそうですが、
相反する性格が互いに柔げ合って円満な性格を作るとラファエル様が言われる所は、
精神を開発し、色々な心を自らに養うことで、相手の気持ちが理解されるようになるのであり、
だからこそ相手の為を思う気持ちが持てるのであり、
相手の心に相応しい思いを返すことが出来る柔軟な心の働きについてです。
相反するからと言って打ち消し合う対立概念のことを言っているのではありません。
例えば人の幸せを考える神の愛と、自分の幸せだけを考えようとする自己愛を比べてみますと、
人の幸せを考える神の愛は、自らへの執着心を奪い、自由な精神を幸せを齎す、
自分の幸せを考えない心以上に幸せに生きている心はないことを、
人よりも自分の幸せを望む自己愛は、我執は、
却って自分の精神を縛るものであることを天上界は教えられましたが、
人が神の愛(真理)に立てば、己の善は他にとっても善になりますが、
人が自己愛に立てば、己の善は他にとって悪になります。
自分にとって善のつもりで行っていても、人にとって悪が為されていることになる、
自分にとって善を為す為に、人に対して悪を為す、そのような善は真理ではありません。
真理が、愛が、正義が如何なるものか知っていても、
誰に向けられた心に立つかで、与えられるべきが奪われることにもなります。
優しさは、真に人を生かし救うものであって、
本人が望んでいようとも間違った道を許すならば人を破滅させることになります。
善である為に自らに厳しく出来ない者にも、人の悪を悪と見抜くことは出来るでしょう。
しかし自らの内にある悪を憎む善を持たぬ者が、
人の悪を言うのは人を救いたいからではない、
人の悪を明らかにする自らの善を誇る高慢な思いしかないのです。
真理に生きる心を育てるには、真理を示す指標だけでなく、
真理に反する指標も見逃さぬ精神へと磨かねばならないのです。
慈悲は厳しく己を練磨する心が無ければ、己にも他にも益とならず、
又本当の慈悲とは言えない(ミカエル様)、
善に生きることのない者の偽善に騙されるような、
悪が現れているのに悪が見抜けぬような善であってはならない、
内なる悪を許容するような善は偽善であり、自らを騙す心は内なる神の心を滅する者。
極端を避ける中道とは、中道に生きる心とは、善に生きる心であり、
悪と善の間が中道なのではないとラファエル様は教えて下さいました。
中道(に生きる心)を見失わせるものが極端であり、
中道(にあって心に見出される良き思い)を見失うから、
欲望を、邪念を満たす為に、
憎しみ、怒りのエネルギーに自らを焼き尽くそうともその思いを満たす為に、
自らの精神が破滅するまで求め続ける、
邪念から自らを救う善なる心を失わせ、
精神の果て(極端)まで突き進むことになるのです。
善なる心が中道というのは、両極端の真ん中という意味ではありません。
心の中心にあるものが善なる心である、善なる心から広がろうとする思いが愛、
他へと向けられる、他の心の中心に届くものは愛以外にないということです。※注終)
「JI」83年7月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」169頁
「〖(行動に於て)偉人と(心に於て)聖人君子と
(真理を、神を見る心の目を開かんとする)哲学者と(ほとんどの人間の代表としての)凡人〗
四人が四様の生き方、タイプは天の法、正法に当てはめるとどうなると思われますか?
私達の求める正法者、天上界の一員となるには、これら四様を併せ持つことが望まれるのです。
賢者たることを最大の目標とし、凡庸も偉大も天分も、聖人も君子も、
一つに偏らず、あなた方の人格に併せ持つよう努力して頂きたい。
至難の業であるかも知れないですが、一箇所に留まらず、進化する精神とはそれを言います。」
〖備考1
〖備考1
神々がそれを私達に望まれるのは、神々がそうであるからに他ならないからだとは思うのですが、
彼等の中に凡庸な人格が潜んでいると言われて、皆様は納得出来るでしょうか?
偽我を削り落とした故に神々と呼ぶに相応しい人格の内に尚、凡庸が存在するという、
更に神々がそのような凡庸を併せ持つことを望まれると言われる。
己の内に凡庸を見つめる厳しい目があり、
己を高しとする慢心(凡人の心)に堕さない心に如何なる凡庸があるというのでしょう。
善人であっても、偽善を見抜けぬ者もいるでしょう。愚かを悟らぬ者は善人と言えるでしょうか。
(真理を愛さず、真理に生きぬ己を愛する、真理(光)なき心に真の己を知ること能わず、
そのような者の理解する真理など、人の心に生きることなき真理など無に等しいと教えられました。
真理とは何か知らずとも、真理の生きている心こそ神に愛される、
神の愛に生きていないことも悟れぬ心が、真理に生きる者と自らが証するその高慢こそ、
神の真理を憎む悪魔の邪念に侵された心です。)
自らの心に神の愛があれば、四様の心(即ち、真の神が働きかけることの出来た心)
は生かされるべき心、真理に生きることが出来る心だということでしょうか。
偉人や聖人の心の中に同居している凡庸とは、何を指しているのでしょうか。
又、偉人や聖人である為に、役に立つ、必要である凡庸とは
どのようなものを言うのでしょう。
本人が偉人や聖人であると思っても、実際にそのような者は、まず居ません。
そのように思う者は、凡庸とは何か、己が凡庸を悟れぬ者です。
凡庸を知るには凡庸であってはならないからです。
どんな人間であれ、凡庸さから人間の一生が始まった
(悪を覚らず善に生きるとは何かを知らなかった、真理に盲いていた時期があった、
初めから真理に目覚めて生まれてくるような者などいない)のだから、精神の成長によって、
本能の自己愛から理性の神の愛に昇華されるのだと天上界が仰しゃるのだから、
精神が弛緩すれば、元の理性を失った状態に、
自己保存の本能に従う、己の為に生きる偽我に戻るのです。
状況を正しく認識し、適応しようとすることが知恵の働きです。
天上界の求められる人格(真理に素直に従う心)は、決して偉人や聖人や哲学者(言うまでもない凡人)
の一つで納まり切らないものだと言うことです。
何故なら、社会の、人々の中で私達が必要とされる人格は、
常に変らぬ一つの人格である訳ではないからです。
最適な対処が取れる、良き環境を作り出そうと、自分という固定観念に縛られることのない、
知恵の、真理の前に己を投げ出せる者が、知恵の要請に柔軟に対応出来る者が真の賢者です。
四様の心を理解するだけではなく、
その心が必要とされる時に、その心に徹しなければならない。
そして徹することが出来るのは、調和の下に人々を、それらの心を繋ぐことが出来るのは、
人を生かさんとする愛に生きる心、自由な精神の表れに他ならないからです。
本能と理性のバランスを執ることの大切さを知らされましたが、
本能から来る求めに心が従う時、その求めが必要であることを理解しなければならない、
その理解が、本能の働きを大切にする心が、
健全な精神を維持する上で必要だということです。
本能を大切にしない心が、欲望に蝕まれて行くのです。
本能の求めは、必要が生じるから現れるのです。
必要は意志によるのではない、必要が生じてから意志が生まれるのです。
そのような心が現れた時、その心に従いさえすれば良い訳ではありません。
人間は動物社会に生きているのではないのですから。
その心を生かしながら、人間社会を生きねばならない、
その為に理性によって本能が導かれなければならないのです。
本能を正しく生かせず、人間関係を破壊することも省みない欲望に飲み込まれるならば、
自我は破滅するしかありません。
本能を生かせずして生存し得る生物はいません。
いろんな環境の、状況の下にあってそれぞれに応じた心が発生します。
そのような条件反射を持つからです。
その心に盲目に従うのではなく、善我に立脚して、
そのような心を正しく導かねばならないのです。
【精神分析学に交流分析というものがありますが、
人間関係に於て、相手を生かす為に、自分はどうあるべきかを考え、
その立場から相手に対処するように自らを律する、
良き人間関係を作って行く、人間関係からあるべき自分を見出そうとするのです。
(ユートピアに繋がってゆく意識の持ち方です。)
例えば、子供に向かって真理とは、法とはといった哲学を語っても埒が明かないように、
理性の未熟な子供にも、理性を目覚めさせるものを真なるものと認める大人にも、
正しい法を示すことが出来る時、真に理解した者であり、
ブッタ様が言われた人を見て法を説け
(それが出来ない者は法を理解していない)と言うことだと思います。
(現代の人類の知る科学知識を超えた知識を持たれていた現天上界の神々が、
やがては彼等の真理である正法を理解するまでに人類を導く為に、
紀元前の人類に与えた真理の指針が宗教(神の概念)でした。
当時の人々が理解でき、人類の知性を育て得る指針を与えることが、
正法を理解したと慢心している人々に出来るでしょうか。
子供にも理解出来る、更にそのように理解した思考力を硬直、停滞させることなく、
天の光に伸びて行く柔軟な知性へと導き育てる指針を与えることが出来るでしょうか。
宗教がこのように堕落したのは、
何時の時代も人の心から獣性を解放し、あらゆる邪心を育てるべくサタンが働き掛けてきた、
悪魔の種を植え込まれてきたからです。
しかし悪魔の誘惑(甘言)の前に、神の愛を捨てたのは己自身に他ならなかったのです。
彼等が神の心に生きていたら悪魔の邪念も感じずに甘言に乗ずる愚かに堕さなかったでしょう。
真の神に心が向いていれば、悪魔に煽てられて自らを高くし、
善我(謙虚な、素直な心)を失うことはなかったのです。
交流分析とは人は自らの内に九つの階層と喩えられた心を持つと天上界の仰しゃった、
心の認識に通じる学問ですから参考にされると良いかと思います。】
子供のいじめなども、教師、親、子供が自らの立場からしか考えられない、
それ以外の立場を(自分には関係ないと)理解しようとしてこなかった者には、
互いの問題として解決への協調を求める心を養えなかったのであり、
様々な立場、考えを理解する心なくしては、己自身の心の調和を齎すことも
不可能なのではないでしょうか。
何故なら私達の心には、子供の(自由な思いに心奪われ、人の思いの響かない)心も、
大人(教師)の(ルールや常識に納まりさえすれば、
社会に抑えつけられ萎縮した心であろうと、心の成長が如何なるものか関心さえ持たぬとも、
社会に適応さえすればそれを理性とする)心もあれば、
真の親の愛を貫かれた天上界の方々のような心もあれば、
どのように導けば、心を成長させられるか学ぶことなく、
子が自分の思うように従いさえすれば満足するような、
自分の立場しか考えない、その立場を守ることに執着し、
子供の柔軟な精神へと成長するを妨げるような親もいます。
社会通念からは、大人と、親と見られても、
その立場としての責任を自覚するだけの精神を育てられず、
エゴイズムに、ナルシシズムに生きる者に、
他を生かす思いからの自らの置かれた立場に相応しい責任を自覚することなど出来ません。
時には、偉人のように大胆、且つ勇敢であることが求められる、
堕落への誘惑に遭おうとも、聖人の如き潔癖を貫く者でなければならない、
人を不幸へと導く、愚かな人生観に溢れるこの世にあって、盲目であってはならない、
哲学者のように真理を、真の道を求める者であらねばならない。
そのような岐路を誤ってはならぬ状況にあって、
正しく見、正しく考える者である為に、如何なる人格であろうとも、
賢者でなければ、愚かに堕するしかない、
状況を正しく認識し正しい方向を求めんとする心こそ求めるべき善我であって、
自己肯定に自己満足に安住する偽我であってはならないのであり、
これでいいという満足に留まることで精神の弛緩を招いてはならないことを
教えられたのではないでしょうか。
私達の心は九つの層から成り立っていると喩えられたのは、
私達(自我、自意識)が私達の心のどの層に立つかで、
天国の波動であろうと地獄の波動であろうと同じ心の層に伝わる、
どのような自我にあるかで、愛が生まれた心は優しさに満たされ、
また愛を顧みない憎しみの力に自分を失った心は憎悪の念に支配されるのです。
地獄から天国に亙るそれぞれの波長が、
人の精神力に勝る力で、一方的にその人の心に働き掛け続けると
強制的にその思いに、その波長に合うように変えることが出来るといういうことです。
その波長を受けた心は、その波長の伝える心に変えられてしまうのです。
そうでなければ、悪魔の憑依も起きないし、
天上から(と直観される)伝わり来る清々しい神の愛を感じる、
執着心から解放される、といったことも起きないでしょう。
【九次元の神の思いを、五次元(霊界の俗人の)心で聞いて理解した積りでいるのは、
真理を理解しても真理に生きていないことを自覚出来ないでいる者と変りません。
神の思いだけが伝わるのではなく、
この世にいる悪霊が人の心を操ろうと邪念を以て働き掛けているのです。
九次元(の周波数)の波動から伝わる神の思いを自らの思いと受け止める者は、
己自身が神の心(善我)に導かれた者だけです。
喩えて言えば、あらゆる心を受信するチャンネル(周波数)を心は持つのであり、
その人の自我の状態、その心の波動に応じた霊の世界に繫がる、
その霊の世界が働きかけてくるのです。
彼等の意志に従う者を求めているからです。
善我に立脚していれば、偽我の波動を受ければ嫌悪感から善我を強く意識しますが、
偽我に生きる者は、偽我が刺戟されて自らの内に邪念が現れるのです。
この世の社会(霊界)の心(価値観や感受性)
に生きるのを常識とする心しか理解しようとしない、
精神の成長とは何かも省みることのない者には、
霊界の意識しか伝わらず、その世界を全てとしか認識出来ない精神(魂)にとって、
それを満たす世界は霊界(俗世間)しかないからです。
神の与えるものを受け取る心(精神)を持とうと、
開発しようとしなかった心が自ら望んだ世界が霊界(の意識)だからです。】
天の思いが意識されないのは、そのような波動とは程遠い毎日への思い煩い(の想念)
に縛られて(その心への執着心(条件反射)を断ち切れないで)来たからでしょう。
天上(善我)からの想念は、波長の細かい周波数の多い波動であると教えられましたが、
そのような波動の伝え得る心とは、
細やかな(繊細な)感受性のみ理解し得る理性(至高の徳)であると理解された時、
だからこそ同じ善我なる心の人々にしか天の思いが伝わらないと言われたことが
真実であると理解されたのでした。
内なる偽我に気付かぬは、偽我なる心を肯定する心に立っているからであり、
人の偽我を裁く心とは、人を否定する心に立つが故の判断に過ぎません。
神の、真の善を信じ、求める心を見出せず、人の善意を信じる心を持たない(※)、
(※注。
「JI」83年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「人を信じることとは、優しい心と同じ、寛容な態度でその全人格、言葉や行いを受け入れ、
又、正しい方向に向く迄待つことです。
勿論、忠告をして後待つので、その人の反省すべき点を指摘せずに待つことは無意味です。
(中略)
又、人を信じるとは、疑いながらその言葉を聞くのではなく、
真直ぐな心で受け入れることなのです。
これは正法を知り、学ぶ者として心しておかねばならぬことです。
人が偽りを言い、欺こうとする時、それに気付くのは遅くても構いません。
他の証言を得、あらゆる点から見て、あなたに真実を語らぬと分析的に証明し得た時、
初めてあなたはその者を悪と断じ拒否すれば良いのです。
その場合には毅然として譲らずに。関係を断つことに未練を残さずに。
それ迄はお互いの善我を信じ、許し合いましょう。それがアガペーの愛です。」※注終)
真の善によって生かされる心を養うことなく、
悪霊の憑依を許すような病んだ精神にしか生きられない人達なのでしょう。
自覚出来ないでいる偽我(罪)が潜んでいることを懼れよと言われた、
天上界の戒められた思いが理解されるのではないでしょうか。
理性より感情に心(自我)の従う者は、
外(他)からの波動に同調した感情が自らの心に湧き上がると、
簡単にその感情に飲み込まれてしまう、
時には憑依(その人に勝る精神力を持つ霊が働きかけた場合)され、
取り返しのつかないようなことをしてしまう。
私達が己自身と意識される自我が、己を見失うことなく善を求め続ける善我にあれば、
私達の心に浮かび上がる悪しき思いが、単なる思い付きではなく
心の底に地獄を求める邪念が潜んでいる故であることを知るでしょう
悪霊の働き掛ける心が私達の心(潜在意識)に在るのです。
自らが善の(愛の)波動を発する主体であると意識(心の条件反射)し続けるならば、
人々が何を求め、神が何を与えようとしているか理解し、
善の意識から互いに働き掛けることで、意識を強化して行けるでしょう。
凡人の思いを理解しても、その心に立つ自我は知恵に生きる、
常に善なる心から意識する、考える善我でなければなりません。
何故なら四様の心を併せ持つとは、
如何なる心の者に対しても、その心を生かそうとの思いを抱けるのは、
その心に立つ者ではない、自分がその心に立てば、自己保存から執着するのであり、
執着した心に、(自分を忘れ)人の立場を思い遣ることは出来ないのであり、
真に四様の心を理解するとは、自分(の心)に執着しないから、
人に見出された心を自らの内に生かすことが出来るのであり、
(執着心とは、自意識という心に支配される、自分にしか関心が向かない心であり、
執着心を自意識を感じない精神の解放、自由に、
人からの愛の優しさに喜びを見出すことが出来ない、
人を顧みようとしない自己愛に縛られた冷酷な心とは、
人の愛の注がれることのなかった、
自らを愛することしか学ぶことのなかった心なのでしょう)
人への愛に生きる心、神の心、高次の心を見出してゆく、
それが善我の糧であり、心の喜びとする思い(愛)へと昇華される、
そのような心に生きることが、魂の研磨と言われる精神の成長へと導くのでしょう。
人それぞれに立場、その人の担った役割に違いがあります。
それらの役割が、自らを役立てようとする思いが社会にとって、
人の調和にとって必要であり、それが生きるのは、人を生かそうとする心だけです。
自分の出来ないことを為す者への理解、感謝の思いが互いを生かすのでしょう。
その心とは何か、そのような心が解らなくては、
人類を導いてこられた、神の愛さえも解らないかも知れません。
その解らせないできた心が、私達の心に巣食っているのです。
自分の立場を優位に置く、立場を守る、
己を高くする心は、人を、人の立場を軽んじる、
その心は全て自己保存の心に根差しています。
自分の立場が危ぶまれる時、人を陥れることも辞さない心です。
神を見失った心、神の愛の伝わることなき心とは、自己への盲愛であり、
自己に執着させる為に、悪魔は人の自己保存の本能を脅かすのです。
能力の高い者、人格の優れた者、人に愛される心と比べられることを恐れ、
嫉妬から人を貶める、悪魔の心を受け入れるのです。
愛を信じる心を失えば、調和を失い、社会は破壊へと導かれるのです。
高次の心、神の愛を見出すことで、
それぞれの立場、役割から自覚された責任感への理解、
人への思いが現れるのであり、それを互いに大切にする心が調和を生むのだと、
ラファエル様は言われているのだと思います。
高次の心を、神の愛を見出せなくしているものとは、
自我と意識される心以外の心を人に理解させなくしているものとは、
自己保存から来る執着心なのです。
自分はこういう人間なのだ、
人に認めさせようとしている心とは、
そのような自分でいたいという執着心に過ぎないのです。
執着心(の中身)は自己保存という本能であり、
人と何の違いもない(人に誇れるものなど何もない)、
自然によって等しく与えられたものに過ぎないのです。
それすら悟れない愚昧に留めるのが、神の愛に抗う悪霊と同じ心に縛られた、
ナルシシズム、エゴイズムに生きる思いなのです。
自らが培ってきた、自分のことだけを思い悩む、自分のことばかり考える心、
自意識によって苦しめられてきたのは本当の自分の心なのです。
自らを救えとはこの心であり、その心こそが自らの心、
知らねばならない己とは、本当の自分の心(真我)を顧みずにきた、
邪念に生きる偽我です。
執着心から解放された自由な心とは、自意識からの解放であり、
真理に目覚めた心だけが知る高等感情とは、愛とは、自然を貫く生命とは、
与え続ける心であり、与えられたものが与えるものとなり、
それに依らずば自然は生き続けられなかったのであり、
自然の与える生命に生かされた心の表れが与える心ならば、
自然の与える良きものを喜びとせず、自然の恩恵を、神の救いを喜びとする心
(貧しき心、欲を持たぬ心に、神の愛を満たす)を嫌悪する
(嫉妬、嫉み、憎しみを糧とする)偽我(悪を愛する心)を育てるのです。
多くの天上界メッセージを心に刻んできた者が、
進むべき方向の指標が見出せないでいる、
善なる指標、善悪の判断基準に盲いた心が岐路にあって迷う時、
(例えばラジオから伝わる声であろうと、
その内容から同じ今を生きる者と判断されるように、)
記憶に埋もれたメッセージが、今を生きる者が自分に語りかけているように
心に伝わってきたこともあったのではないでしょうか。
心が善霊の波長に合えば、天上の思いが伝わると聞いたことですが、
それも善霊の思いがあってこそです。
彼等のように私達の真理を求める心が本物
(その心の波動が証明するのですが)となった時、必ず彼等の心に伝わります。
私達の心は、人生で関わってきた人々の記憶はあっても、
その思いが心に生きる程に理解したでしょうか、
その思いを大切にする心へと生きてきたでしょうか。
"あなた方の心に私達が生きているように、私達の心にもあなた方が生きている"
とガブリエル様の仰しゃったのは、同じ心に生きていればこそ、
人の心が生きた人格として心に生きることを、
そういった心を人は育てることが出来ることを教えられたのだと思います。
人を生かす思いが愛である、神の心に盲いて偽我に生きる心を明らかにする光であり、
神の心へと人を導かんとする意志こそ神の愛です。
神の心を知らず、己が心の偽我に生きるを知らぬ人の、
内なる神の心に伝わる、目覚めさせるは、神の愛しかないのであり、
神の愛があれば、人々に見出される(四様なる心と例えられたそれぞれの)
心を理解し生かそうとの思いは、自らの内にも四様の心を育てることが出来るでしょう。
四様の心が生きていれば、そのような人に対して
自然に優しい思いから接してゆけるのではないでしょうか。
人は自らの生きる環境に適応する、
人よりも自らを優位に置こうとする自己保存に心を作られるのであり、
そのような心から人々の調和を願い求める心へと昇華させるのは、
自意識に縛られた自我が本当の自分ではないと(自覚し)、
それぞれの(四様の)心が自らの内に生きる柔軟な心であり、
すべての心を調和へと導く先にある心こそ、真の自我であり、
あらゆる心が互いを生かす目標とすべき心、人の心の中心にある神の心なのだと思います。
四様なる心を形成する
(凡庸な心であれば、神の心を知らない為に、悪なる歪んだ世界に反撥する善がなく、
自己保存から適応する為に自らの心を歪めざるを得なかった)
背景への理解が、その心に生きる人々への真の理解へと繋がる。
あらゆる心を感受する心に見出されるものが、
総ての心を生かすことを願う心、愛に生きる理性を育てるのでしょう。
一つの心しか持たない心故に執着せざるを得ない自己保存から
真理へと目を向けることが出来るのであり、
我執を解かれた心が神の愛を見出して行けるのであり、
人々を神の心の下に調和へと導くことが出来るのではないでしょうか。
備考1終〗
「JI」80年1月号21頁初出 千乃先生の解説より
「天上界とは世界の平和を願ってその歪みを正し、
第三者の立場に立っての是正のみを正法として提唱、指導するものではないのです。
正法には過去に於ける宗教団体化したもののすべての歴史が包括され、
集積され、今日に至ったのです。」
「すべての理想の人生の指針が(正法の)教義に含まれています。
宗教宗派を否定してもこれらの教えを、哲学を否定するのではなく、
全体の総合としてその完成されたものを、
現在の科学的見地から自然科学との一致点を見出し、統合し、
より理想化された豊熟なる生活観、人生観として人々の生活に採り入れるべく
世界に提示されようとしているのです。
科学と宗教は一致するものであり一つの源から出るものである。
それが故に二つの大河はチグリス・ユーフラテス河のように
遂には一大本流として合流しなければならない。
そして両河の齎した肥沃な緑の平原は人類の文明であり、
それは破壊されてはならないものなのです。
そこに更に高度の文明と豊饒が齎される為に。
宗教を廃し、天を否定して科学を取るのではなく、
神を知り、宗教により培われた心を忘れず科学文明に生き、合理的且つ賢明な世代を生きる。
すべての者の理想として、未来の指針としてそれが私達に与えられているのです。
政治思想も正法を基盤として大きく修正されねばなりません。
でなければ言行一致の理想の世界は、生まれるべくもないのです。」
現象テープ№18 「魂の研磨について」より
80年2月10日 ガブリエル様現象
&「天上界メッセージ集・続」82頁
「二千年前の宗教は、二千年前の生活水準、二千年前の知識水準、
二千年前の状況によって語られたものでした。
今のあなた方に、二千年前のものを適用しても少々のズレがあるのは仕方ないのです。
寧ろあなた方に必要なのは、それら過去に失ったものを取捨選択して、
いいものだけを取り出す事。
わざわざ二千年前に為された生活形態を、現在に適用する必要は全くないのです。」
(同じ意味合いを持つ"温故知新"の言葉で知られる孔子様は、
合体霊であるガブリエル様の意識を真我と自覚し、天の意志を実現されました。)
「慈悲と愛」81年2月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」130頁
「天の守護する者は、その時代に於て最善の務めを為し、
可能な限り、自分と環境を認識しようとする者なのです。
又、そのような者でなければ、天の意図する計画の施行者たり得ないのです。」
「JI」83年1月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」161頁
「あなた方へのメッセージは常に何らかの教訓を含み、
私達の世界へ招じ入れる為の道を示すものであることは、既に解って居られると思います。
一人一人の心をより良く精錬し、この世の苦難をも味わって、
磨かれた、強く、且つ弾性に富む魂を自らの財産としてほしいと、何時も願っているからです。
又、そういった人を天のメンバーとして望んでいるのです。」
「JI」81年7月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」138頁
「あなた方自身の心の内を省みた時、少しの曇りもない状態が続くことがありますか。
恐らくないでしょう。浮かんでは消え、消えては浮かぶ偽我に悪戦苦闘している筈です。
何故悪戦苦闘するのか、出来るのか、それは正しきものを知るからです。
これを魂の研磨と言います。
ユートピアもこれと同じです。
社会の規範、常識が正法となることを言うのです。
狭い範囲しか見えず、限られたものしか分からない現身(うつしみ)故に、
判断の誤りもあるでしょう。
そういった時に、正しい方向に修正出来る健全な状態なのです。
正に、現正法とは、この意味でユートピアです。」
「現代訳 論語(衛霊公第十五の二九)」下村湖人訳
【「過って改めないのを、過ちというのだ」
*論語の全篇を通じて、孔子はしばしば過ちを改めることの必要と、その価値を説いている。
しかし、過ってはならぬとは一度も説いていない。これは注目すべきである。】
天上界の愛される素直な心は、自己保存、自己防衛の心の働きを齎す自己愛に勝る真理への愛
(自らの過ちを明らかにする善に、真理に生きようとする思い)によって、
自らの過ちを認める素直な心を育てることが出来るのです。
自分の過ちを認めまいと、自我をまもろうとの自己愛から、
人からの非難を恐れての、謝れといわれて謝るのは唯の自己欺瞞であり、
人の許そうとする心に偽りの自分を見せる、人の善意を騙そうとする偽善であり、
偽我(善我に反撥する心)です。
ただ過ちを犯した自分を守りたい、それだけの心で謝ることは、更に過ちを犯しているのです。
自分の過ちを受け入れる素直な心を顧みることが出来ない、しようとしない者の、
自分を偽っての反省や謝罪は、何の価値もありません。
自分は謝ったのだから、それで許さない方が悪いと心の中ででも考えるなら
真理を理解することなく、永遠に真理に無縁の世界(地獄)にしか生きられないでしょう。
素直な心なくしては、善に見える行為を行っても、良心の糧にならず、
偽善であると認めることの出来ぬ自己愛に生きる偽我を拡大させるだけでしょう。
現象テープ№36 「消滅について」より
81年12月27日 ガブリエル様現象
「消滅とは如何なる人がそれに値するのか。どのようなことをした時それに値するのか。
お話ししましょう。
天上界に刃向う者、天上界の気に入らぬ者、そういった感情的な評価で
消滅を決めるものではないのです。
人それぞれに性格があり、人格があります。
人それぞれの生き方というものがあります。
天上界はそういったものを認めないものではないのです。
どういったものが消滅に値するのか。
ユートピアを作る為に妨げになる者を消滅にするのです。
人を惑わせた、讒言した、その為に正法活動が滞った、そのような時に消滅に値するのです。
正法の仕事は二つに分かれます。
一つは、あなた方人間自身の、あなた方自身の繋がりです。
美しい交流を生み出さなければなりません。
もう一つは何か。もう一つはそれに立脚するユートピア建設です。
どちらが切り離されても成立しません。
ですが人間側のこと、詰りあなた方側のことで、
私達はあなた方の仲間を消滅に値するとして宣告などはしません。
それはあなた方自身で解決すべき問題だからです。
あなた方自身のことは、あなた方で解決しなければならない。
だから私達は消滅を宣告するにしても、その人自身の人格では決めはしないのです。
人格がまだ整わない人は、修行をすれば宜しい。そういったことなのです。」
現象テープ№7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」より
77年12月1日 ミカエル大天使長様現象
「あらゆる人々を感動し、そして共鳴させるためには、それなりの豊かな人間性が必要ですし、
その為には何よりも自分に素直になることが一番です。
自分に素直になること、いえ自分にだけでなくすべての場合に素直になることが、
悟りに於て一番の早道であり、素直になることをしなければ、
どのような賢い頭脳を持っていても、どのように沢山のものを知っていても、
悟ることは最早無理であろうことを知って置いて下さい。
あなた方(高校生)の年代から素直な美しい心が失われている人を
何人も私は見て知っています。
ですが、何時の時代になっても、いくつになっても
素直さというものは持っていなくてはなりません。
そうでなければ、あなた方は人生に於ての敗北者となってしまうでしょう。」
〖備考2
"周りから求められた人格として受け止め(理解し)、
調和を求め自らを作った人格に素直に生きられるなら、
それが自分らしく生きることであり、真に自由な人生である"
「清らかな厭世(2007年10月出版)」50頁 阿久悠著
"らしくを否定し
もどきに憧れて
とうとう顔無しになった"
「「らしい」とか「らしく」という言葉を使うことが、
あたかも反社会的行為であるかのように責められた時代がある。
責められ責められて、この言葉を必要とした時には、
周囲を窺い、もう一度口の中で反芻した後に発したものである。
男らしく、女らしく、夫らしく、妻らしく、
という使い方の時に多くの批判が生まれたものだが、
世の中にはこの他にも、先生らしくもあれば学生らしくもあり、
政治家らしく、宗教家らしくという立場を規制するものもある。
それらのすべてに於いて、
「らしい」「らしく」が憚られるようにいつの間にかなって、それは便乗ではないか、
そもそも「らしい」「らしく」を正義の許(もと)に規制した人の最初の気持ちと、
どこかで違ってしまったところがあるのではないかと思った。
「らしくあれ」「らしく振る舞え」は、女性に対して行動を規制した、
ある種の都合のよいモデルと解釈すると、
「とんでもない、何故にらしくあらねばならぬか」と、
らしくからの解放こそが自由と考えてももっともだと思える。
どうやら日本に於けるある時代、
女性に対しての「らしい」「らしく」は禁縛であり呪縛であり、
男性の「らしい」「らしく」は権利であり誇りであると思われていたらしい。
その解釈だけで区切ってしまうと、これは打破し改めるべき悪習であるが、
これだけで区切っていいものであろうか。
被害的立場のそれと加害的立場のそれは、真反対と思われるが、
たとえば、ぼく、男の子であったぼくに与えられた「らしい」と「らしく」は、
決して特権ではなく、最低の倫理を守れという厳しい義務であったのである。
さて、らしさからの解放が功を奏して数十年、
それなりの平等感を持ち合うということにはなったが、そのドサクサ紛れに、
世の中から完全に「らしい」と「らしく」がなくなってしまったのである。
政治家らしい人、役人らしい人、教員らしい人、医師らしい人、警官らしい人など、
絶対そうであって貰わなければならない人も、
「私らも人間ですから、怠けもします、遊びもします、金も欲しがります」と、
倫理という義務を放棄するようになった。
社会には、そのように見える人がいて貰わなくては困る。
みんながらしさを捨てることは顔無しになることなのである。
そして、もっとも困るのは、社会人らしい人の消失である。社会で顔無しになる。
面前で誰かがハレンチきわまる不幸に遭遇していても、らしさを発揮する人はめったにいない。
ひたすら見えない人になろうとする。」
理性的に生きるべきとの思いから、人間らしく生きるという言葉も、
人間に相応しくない考えであると否定するのでしょうか。
「らしく」ないことが、何事にも囚われない、自由な精神であると思うのでしょうか。
為さねばならぬ時に、互いの協力が求められる時、
人にとって最も力の発揮されることを為すのが、全体にとって有益であれば、
それを為すべきであると思うことでしょう。
その力が性別からくる長所、短所に一致したものなら、
自らの性別に合致した長所を発揮すべきであり、
それが一般的な性別にも合致するものなら、
男は男らしく、女は女らしくあることに、反撥する思いを抱く者は、
単に人の求めに応じたくない、エゴイズムの心に縛られているだけではないでしょうか。
男女平等は、人間の価値が性別によって異なるという考えが、
良き人間関係の妨げになることを明らかにする、
それは性別の違いによらず、人間の、
人間の為に社会に生きる上で認識せねばならぬことであって、
男女の特性の違いを認めないということではありません。
自分が持たず、他(異性)が持つ、その逆もあり、
故に補い合うことで、どちらも持たぬ者であったのがどちらも持つ者になる、
故に平等であり、真に平等を齎すのは違いを認めぬことではなく、
認めた上で、持たぬ自分を生かす他の大切さを理解し、
また求める者に与えられることの出来る自分であることに気付くことで、
自分を大切に思うように、他を大切に思う心が育って行くのではないでしょうか。備考2終〗
(「天上界メッセージ・集成Ⅱ巻」に収録しました
「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」、
「JI」82年2月号「柔軟な心について」、
「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」もご覧下さい。)
第一部 天の教え
第四章 天上界に愛される人格
一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
(二) その教えから真の神(天上界)であると知る者
「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
「人間として三次元で過ごされているあなた方は益々己の善我を強め、その心を浄化させ、
社会悪、 道徳に反する諸悪を憎み、正義とは何かをもう一度考え、
その基盤に立ってのみの信義と愛を貫き、慈悲を与え、
そして神(天上界)の守りと愛への信仰が互いへの同じ質の信頼感と変るよう
努めて頂きたいのです(※1)。
事の善悪、是非、真実と虚偽、(それらの判断を誤らせる)
おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。
何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、
自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬ(真理、善の観念を愛する神の心とは相容れぬ)ものだからです。
人間的な欲望、虚栄の心、自己顕示、競争心、名誉欲、支配欲、権勢欲、所有欲、
金銭に対する執着の心 ー 。」
(※1注。
神への思いを人に向けよ。
人類の神への思いを真のものと神は受け止められたからこそ、
その愛を、思いを人に対しても持てることを
(それを為してこられた神が同じ人間であったのだから)、
また人間であることを証された神々(の生きる真理)への
思いの失われることはないと信じられての、
人類への信頼と希望をエル・ランティ様は語られました。
この思いが通じない、絶対神でなければ神と認めないクリスチャンは
どのような心に生きているのでしょう。※1注終)
〖備考
神々の大切にされる徳の観念を自らの心の指針として生きようと、
天への道を歩もうとする者を神々(聖霊)は愛されるのですから、
神が愛される彼等の徳を認め、彼等に倣おうとする謙虚さすら持ち合わさぬ者は、
神に愛されません。
誰をも平等に愛するのが神だと言う者の愛とは、
愛を受ける者の価値を問わない愛とは、
受ける者の心の中に何の価値も見出すことが出来ない、
善なる心へと働きかけることの出来ない、
人の心を目覚めさせることの出来ない、
真の愛と自己愛の違いの理解出来ない、
自ら価値ある者と振舞う虚栄に生きる心に空しさも感じることのない鈍き心にあって、
真の愛が伝えられて尚、偽りの愛の内に生きていることの悟れぬ愚か者の抱く
己が心から何処にも伝わることのない、伝わる価値のない思いです。
幾ら美々しく言葉で飾り立てても心の糧にならない、生命を持たない愛です。
神に愛されるに値する者とは、神の愛を、神の思いを受け入れる者です。
神の愛を受け入れるとは、神の教えを受け入れることです。
神の教えとは、友の為に己が命をも顧みぬ愛を心とせよということ、それが神の愛であり、
神が人類を救い得る唯一のものと心に掛けてこられた思いです。
神は平等に人を愛すると言う者は、この神の御心を理解した上で、
神の愛を望んでいるのでしょうか。
神の愛を求めながら、愛に生きようとしない、そのような心に神の愛は何の役にも立ちません。
神を知っても(存在を認めても)神を敬うことを知らないのなら、
神の戒めが私達の救いへの導き(天への道標)であるとどうして悟れるでしょう。
神の善が解らず、如何なる善が人を救えると考えているのでしょう。
神の愛を、法を真に理解する者なら、
神がそれを伝えようとした思いも受け取っているのです。
その思いを受け取って自らの思いとならないようでは、
そのような者が神の愛を、法を人に語って何が伝わるというのでしょう。
神から愛が与えられようと、神が眼前に現れようと、神の心に繋がることが出来ない心に、
何が理解されるというのでしょう。
自らを救えなければ、人にとって真理であろうと、何の意味があるのでしょう。
自らを救う真理を見出せぬ者が、
真理と言われるものの知識を人に誇ることに何の意味があるのでしょう。
誰も救えぬものを真理と言うのは偽善であり、
真の救いを人から奪ってきた似非宗教家と変りません。
愛は、人の心を思い遣る気持ちから、理解しようとするものです。神への愛も同じです。
神の御心を思い遣ろうとしない者に、神への愛などありません。
愛されることでその愛に応えようとする愛を生むのは、真の愛だけです。
人が愛されることで、愛されるに値する者へと変えることの出来るものが愛ならば、
その愛を受けながら、愛に心を動かされることのない、
未来永劫そのような愛に応えることの知らぬ冷酷な心に生きるしかない絶望を知ったら、
神に救いを求めたであろうし、神も憐れまれたでしょう。
それすらもない高慢な者が愛されるに値しない者と言われて、神の言われる愛に疑いを持つ。
彼等の心は、神の愛を求めていないのに、
神に認められないことに傷付く自我(偽我)を守ろうとするのです。
自分を認めぬ神は、神ではないという思いを隠し持つからこそ、
神が言われることに納得がいかないと平然と言えるのです。
神が語り掛け、救おうとされる善我(神の心)を見出すことの決してない者達です。
神の望まれるような人間になろうと努力する者、
神のご意志に応えようとする者が多く愛されるのは当然でしょう。
イエス様も(神様のように)多く愛する者は
(清められているのであり、罪の力から救われているのだから)、神に許されている
(愛されている)と言われました(※2)。
人の幸せを願う愛に満ちた心だけが変らぬ幸福であり続ける、
そのような愛は自らの苦難や苦しみを乗り越えてゆくからです。
その先にある神の国を、その聖なる霊に魂の招きを見るからです。
そのような者は、愛に従おうとしない者から虐げられようとも、裏切られようとも、
悪に屈しない善を、憎しみに心を明け渡さぬ愛を信じる心を失うことはないと言う
天上界の信念が伝わるのです。
彼等がそのように生きてきたことを私達が信じたのは、
彼等の心と共にあったからだと判るのです。
真の愛は愛するに値する者のみ愛する(※3)ものであると天上界は言われるのは、
神の愛に生きぬ者であってはならない、私達に神の心を見出すことを願われてのことです。
ひとたび愛を志したのなら、真に愛の必要な者に目を閉ざし、
真の愛よりも自己愛に動かれるような心を許してはいけないのです。
天上界の愛を受けるに値する者だけが与えられるというのは、
天の愛を生かすことの出来る者だけしか受け止めることが出来ないからです。
悪を愛する者が真理を聞いても、自らの心の悪を認めることが出来ないのです。
自らを守る為に、自己を正当化する為に、真理を捻じ曲げるのです。
真理が正しく伝わる、素直な心で真理を聞くことの出来る者に、
神の教えを知るに相応しい者にのみ神は語りかけられます。
(注。
「天国の証」初版(たま出版発行)にのみ掲載282頁
「大天使方のお詫び 一九七八年四月
私達天上界がこの紙面を借りて改めてお詫び致さねばならぬことがあり、
私ラファエル大天使が代表として、それをここに記述します。
それは『天国の扉』(未来の幸せをめざして)に種々の細かな疑問となる箇所が
(本体、分身表の人名、年代などに過ぎませんが)、読者及び関係者のご指摘を受けましたので、
個々に御返事致しておりますが、その理由を明らかにしたいと思います。
訂正の上、今度は正確に細かく分類した表がこの章に載せてあります。
それらの喰い違いや疑問は正しい御指摘ですが著者千乃裕子様の責任となるものではないのです。
なぜならば、それは故意に天上界の意志によって千乃様が見落とされるよう、
調べる時間が無く、体力も無い状態におさせ申した故のものでした。
手伝った高校生もギリギリの時間的余裕しか与えられません極限の状態でした。
それはエル・ランティ様の御意志で、私達七大天使にそう計るよう要求なされたことなのです。
即ち、どれだけの方々が細部に拘(こだわ)らず、
理論の上からは完全であるこの正法解説の書が改正された理論ゆえに、
三次元で受け入れ難いかも知れない。
しかしいろいろな奇跡もまた証されているのであるから、
これより目覚め、使命を感じる方々は真の法灯となるべき方々であり、
その細部のあまり重要でない誤りに拘り、
これを悪霊或いは三次元の頭脳から出たものであると結論付ける方々は、
正法を説く資格のない方々であること。
天上界はその方達の協力を必要としないことを明らかにするための試みでした。
これは天上界の計画の一部であり、千乃裕子様に責任は無いことを重ねて申し上げます。
そして改めて、私達七大天使ならびにエル・ランティ様のお詫びを申し伝えるものです。」
注終)
神に愛されるに相応しい者が愛されると言われることも同じです。
神の愛を歪める者に、自己愛を満たす為に神の愛を求める者に神の愛は与えられません。
悪に生きる者に善なるものが与えられればどうなるでしょう。
(「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。
恐らく彼等はそれを足で踏み付け、向き直ってあなた方に噛み付いてくるであろう。」
とイエス様も仰しゃっています。)
悪なる者に善なるものが働きかければ、
自己保存から悪なる心を守らんとする悪なる行為が現れるのだから、
悪しき者に善なるものを与えないのは、寧ろ天上界の御慈悲と言うべきものでしょう。
その天上界の慈悲にも値しない者に罰が与えられるのです。
それは悪しき者の犠牲になった者への天の愛を明らかにする為のものに他ありません。
(※2注。
「ルカによる福音書」7章40~50節より
『そこでイエスは彼に向って言われた、「シモン(ペテロ)、あなたに言うことがある」。
彼は「先生、仰しゃって下さい」と言った。
イエスが言われた、
「ある金貸しに金を借りた人が二人いたが、一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ借りていた。
ところが、返すことが出来なかったので、彼は二人とも許してやった。
この二人の内で、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
シモンが答えて言った、「多く許して貰った方だと思います」。
イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、
「この女を見ないか。
私があなたの家に入って来た時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。
ところが、この女は涙で私の足を濡らし、髪の毛で拭いてくれた。
あなたは私に接吻をしてくれなかったが、
彼女は私が家に入った時から、私の足に接吻をして止まなかった。
あなたは私の頭に油を塗ってくれなかったが、彼女は私の足に香油を塗ってくれた。
それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪は許されているのである。
少しだけ許された者は、少しだけしか愛さない」。
そして女に、「あなたの罪は許された」と言われた。
すると同席の者達が心の中で言い始めた、
「罪を許すことさえするこの人は、一体、何者だろう」。
しかし、イエスは女に向って言われた、
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。』※2注終)備考終〗
(※3注。
"無条件に与える慈悲とは、偽りの慈悲である"
ー 慈悲を掛けるに値しない者に慈悲を掛け、
その為に人の成長を奪っていることが解らないのは、
真に人の救われることを願う愛がないからです。
愛のない偽りの慈悲に溺れる者を慈悲魔と言います。 -
「希望と愛と光」81年9月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集(初版)」207頁
「慈悲は憐みの心から来るものですが、それは重さや暗い涙を伴うものであってはなりません。
慈悲魔と呼ばれる執着は人を最も愚かにします。
奪うのみの愛が不安定な心から来るなら、
無差別の慈悲は優しい心からというよりも弱い心から来るものです。
心弱さも又、自らに支柱無き故にそうなるのでしょう。
慈悲を掛け過ぎるのは、貪欲に人の愛情を貪る姿の裏の形に過ぎません。出所は同じなのです。
あなたは、支柱がありますか。人を信じる事が出来ていますか。」
現象テープ№33 「慈悲について」より
81年9月13日 ガブリエル様現象
「"奪うのみの愛が不安定な心から来るのなならば、
無差別の慈悲は優しい心からというよりは、弱い心から来るのです。"
ここはどうお考えになりますか。
"心弱さも又、自らの支柱無き故にそうなるのでしょう。"とあります。
私達は何千年もの人間の歴史の中で、こういった善人を数多く見て来ました。
何故彼等は慈悲魔と呼ばれ、他人から踏付けにされても、人に慈悲を掛ける事を厭わなかったか。
何故そうせずにはいられなかったか。
慈悲を掛けるに値しない者にまで慈悲を掛けてしまう事が、どうして止めれなかったか。
お解りになるでしょうか。
どうしても慈悲を掛けずには居られなかった。その人の弱い心を見て、助けざるを得なかった。
或いは、その人が自分で怠けているから、そういった状況になった時に於てさえ、
助けざるを得なかった。
それはどういう気持ちを言うのでしょうか。
苦しみに対して免疫がないのです。
苦しみに対して耐えることを知らないからです。
耐えることを厭うが故に、慈悲魔になってしまったのでした。
確かにかわいそうな人を見た時、どういう原因で、その人がそうなったのであれ、
簡単に慈悲を掛ける方が、本当に簡単です。
しかし、そうしてはならないのは、どういう意味か。
相手の成長を願うならば、安易に慈悲を掛けるものではないのです。
あくまでも、その人が自分で考え、自分で立直り、
自分で生きるようにしなければならないからです。
慈悲魔が最も愚かと言われるのは、そういう意味からです。
人を最も愚かにするのは、こういうところから来るのです。」※3注終)
〖備考
天上界は、真理を、平和をその破壊者から守る為に、
天上界と共に闘ってきた多くの善霊を、また善なる人々を失った、
悪の犠牲になったことを証されました。
その苦しみと悪への怒りを私達に語りました。
愛は愛するに値する者にのみ与えられる、
真理を、真理に生きることを渇望する者にのみ真理は明らかにされる、
そのような者だけが愛に、真理に生きることが出来るからであると。
神の愛に生きる為ではなく、自己愛を満たす為に神から愛を求める者に与えることは
愛を貶めることである。
偽りの愛が神の愛の如くに人に信じられれば、偽りの神が神のように人に信じられる、
そのような偽我を育てるからです。
また、善霊によって悪霊の憑依から(善なる心を)守られてきながら、
善なる心に目覚めることのなかった人々は、
天上界の善霊と悪霊の戦いのはざまで、悪魔が勝利すると信じた、
彼等に与することになる善を愛する心のない人々をも守らんとされた、
その為に善霊の多くが命を擲(なげう)った天上界が、真理を求める者に真理は与えられる、
真理を、真理に生きる者を裏切る者に真理を与えてはならない、
真理の価値を貶める、真理に命を懸けた者を辱める、嘲笑う悪魔に与するような者に対して、
聖なるものを与えてはならないと仰った天上界の思いをご理解されることでしょう。備考〗
"交流分析から見た正法的考察"
人は、子供に始まり大人となり、親へと成長していきますが、
必ずしもそれに相応しい精神へと成長するとは限りません。
自らをどのような立場の者と認識し、その立場を守ろうとの心から、
他を正しく認識しようとせず、
自分の都合の良いようにその者(の立場)を認めさせようとする、
立場の弱い者がそれに合わせようとする、
そうすれば無難に交流(人付き合い)が出来る、
それは単に処世術であり、
自己保存の心で生きるに過ぎない、心の成長に与しないものです。
周りの状況に適応する為に、自分がどうあれば有利か、
自分を守れるか、生き易く生きられるか、
その心の働きは本当の自分、人を生かし自分を生かす真理に生きる自我(真我)ではなく、
自己保存の本能に支配されているに過ぎない、時には悪であろうと顧みない、
本能は自分を守れば善であり、他にとっての善であるかなど考えられないものです。
自らの内にありながら意識されることなく、
心に働き掛ける自己保存という偽我に気付くことは、
善我を見出すことなく生きてきた者に望み得ないように思います。
(偽我とはそもそも自己保存、自分に都合の良いように考える心なのであり、
それが誤りであると認識するには、偽我を明らかにするのは善我しかないのです)
交流分析の教える自我の状態は、人の置かれた立場によって現れは違いますが、
人との交流は、その人間関係に相応しい、
自分の置かれた立場に相応しい自我(子供か、大人か、親か)であろうとするのが、
周りの状況や相手の立場を理解し、応えようとする心に立つ故に、
あるべき自分の姿を見出すことが出来る、健全な人間関係が齎されるという考えです。
子供の自我では、自由気ままな心と、大人に従順であろうとする
(自らの思いを抑えようとする)心が環境によって作られることを教えます。
親の自我では、母性的な保護的な心と、父性的な批判的な心があることを教えます。
子を思わぬ者が、あるべき親として自分を見つめることは出来ません。
子も親も相手を受け止められずば、自らのあるべき立場が理解されることはない。
人として生まれてきた以上、家族の関係を通して人格が作られるのであり、
子と親の関係から学ばねば
(親を見て子の人格が作られるのであり、子への責任の自覚なく親の人格は育たない)、
関係の中でしか、人に認められるに於てしか、人は他に生かされての自分の自覚も、
あるべき自分を見出す意志も育たないのだから、
相手から見た自分、真に己を知る客観性を会得することは、
理性を開発することはないのです。
親と子も、神と人類の関係も同様です。
親の心、親の愛を持てない者に、神の心、神の愛は理解し得ないでしょう。
大人とは、相手を大人として対する平等の意識を持つ者であり、
人の価値は自他に於て区別されるものではない、
そこから互いを生かそうとする、互いに共有されるべき真の愛が生まれるのであり、
己を他に優越すると見る自己愛は、大人の精神への成長を奪う、
人を幼児の意識に留めるものです。
互いを同じ社会に生きる者として、相手を生かす社会を築くものとしての自覚が、
社会人、大人の意識でしょう。
その社会に共存する如何なる民族、国家も同じ社会人である相手に対して同じ責任を負う者、
即ち社会を維持する法を守る、法を破壊する者から社会を守ること、
それが真の社会人であり、真の良識に生きる神の国を齎す、神の民としての自覚です。
自らの置かれた立場の自覚される、親であれ、子であれ、
必然的に自らはその関係に従うものとなりますが、
大人とは良き社会を求める、自らは良き社会人となるを求める心に立つ、
社会あっての自分であるとの認識を持つことが、真の大人の自覚を齎すのでしょう。
社会との関係に生きるとは、社会人となるとは、
社会に対する責任を自ら担うということです。
大人とは理性に生きる者、理性が良き社会を作るのであり、
社会(環境)に適応しようとする本能は、
社会が正しいものなら、自らの内に良心を育てることになります。
ユートピアとは、正法が常識となる社会と言われます。
神の法とは自然の法から見出されたもの、
他を生かすことで調和が、生命の永続が齎される、
神の法を見出さずば、自己愛を超える真の愛に生きる心を育てることは出来ない。
真の愛に生きる心がユートピアを作る、
人の幸せを望む心が、人の心から邪念を、偽我を摘み取る、
平和に生きる神の国を作ることは出来る。
善を求めぬ心は、自己愛から自分さえ良ければいいというエゴイズムを生むのであり、
その心を許せば、この世に地獄を齎すことになるのです。
"神の愛される心"
己が善を誇るは善なる心を知らぬ者なり。
善なる心に生きるは、人の救われるを願う者なり。
神の救いを信じるは、神の心に目覚めた者なり。
神の御心に繫がるを知る時、真の救いを知るからである。
神の心に目覚めずして、人自らを救うに能わず。
人を神の心へと導くは、真の神の愛のみなり。
善なる心とは神の愛に生きる心のみなり。
神を見出す心なくして、人神に祈る心を知らず。
真の愛の向かうは、神の御心なり、
自らに愛を注がれた心の神なるを知るからである。
"神の忌み嫌われる心"
「JI」93年1月号 ガブリエル様メッセージより
「人が言葉のみならずその行為(おこない)によって判断されるのは、
正法者であるなしに関らず、この世に於ても人格の向上、魂の研磨を旨とする人にとって、
当たり前すぎるほど当たり前です。
言い換えれば、天に於ても同様に、
言葉を飾り、人前でのみ高潔な人格者の如く振舞い、
天の求める召命や使命を果たそうとする勇気も意志もないのでは、
それはパリサイ人と言われる類でしかなく、私達天の最も忌む人物でしかありません。」
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様