第一部 天の教え
第三章 善我(神の心)を見失わない為に

一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
 自分が最も苦しい時に、それでも自らを顧みぬ人を思い遣る思いこそ
真の愛であることを天上界は教えられます。

 突然ヨブの如き苦難に遭い、守ってくれなかったと神を疑い、神から受けた愛を忘れる。
 この世が苦難を与えたが、神への愛を捨てたのは自らの意志なのに。
 この世が、神への愛を捨てれば幸福を返そうと言ったから捨てたのではない。
 この世の幸福を神が奪ったのだと、神をそのように考えているからです。
 この世の幸福を神が与えてくれていたと考えていたから、
神を愛してきただけだったのではないでしょうか。

この世の教える幸福が真のものなら、神の国をこの世に作ることなど語られないでしょう。
 人を幸福へと駆り立てた先にこの世の与える幸福が真我を満たすものであると思われますか。
 自分だけの幸福に浸る者は魂を堕落させ、
艱難、苦難にあっても自分よりも他を思い遣る者は魂を磨くと、
それが天上界の伝える真理であり、その為に天上界の与えるものは、
艱難と苦難だけであると教えられました。

 神が自分を愛さなくなったことが許せない。
 神の愛とは与えることだと考えるから。
 神は堕落などは与えないのに。
 神が救おうとされていることを理解していたのではなかったでしょうか。
 苦しみにあって、神の愛を信じていた時の思いを忘れる。
 自分に余裕がある、裕福な時だけ、神を顧みることが、神を信じることが、
愛を与えることが出来る。
 そのような愛は神の愛ではありません。
 何も持たぬ者が神への思いにだけ生きようとする時、神の愛に満たされるのだと、
愛以外のなにものも満たすことの出来ぬ神の心を人は得ているのだと、天上界は仰しゃいます。


現象テープ№29 クリスマス・メッセージ「愛と信仰」より
 80年12月21日 イエス様現象
&「エルバーラム」31頁

艱難、苦難がやって来て、その時に私達の言葉を忘れるようでは何にもなりません。

「寧ろあなた方の身の内が苦しい時に、私達の言葉を思い出して下さい。」

現象テープ№7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」② 全文
 77年12月1日 イエス様現象

「私はまずあなた方に向って、労(ねぎら)いの言葉と慰安の言葉を掛けてあげたい。
 しかし、それは今あなた方には必要ないと思います。
 何故ならば苦しいことがあってこそ、後に来る楽しさが解ることであり、
悲しさが解ってからこそうれしさが解るものだからです(※1)。

 私は、キリスト教、仏教、そしてユダヤ教、そして高橋信次先生の創設されたGLAまでもが
崩壊し去った時に、天上界の者と同じように大きな打撃を受けていました。
 ですが、そのような裏切り、又は敗北ということを経験してもあなた方のような素直な魂の、
そして善我とは何かということを知っている魂が、地上に存在する限り、私達も存在します。

 もし、地球上の人類が、あなた方のような人類を失ってしまったならば、
私達は最早太陽系にいる必要はないのです。
 私達は人類を、あなた方を善の方向に導いてゆき、
あなた方の為に正法を実行しようと呼び掛けをしているのです。
 ですから、そういう応じない人間が多い場合は、
私達は最早あなた方を見捨て去るを得ません。

 しかし、この正法の本の出版を契機に、眼前は開かれました。
 ミカエル大天使長の言われるところの、天へと伸びている道とは、
この本の中に全て啓示されており、あなた方もこの本を読めば、
今まで納得出来なかったことが納得出来るように思います。

 これからは、あなた方も幾度か辛いことに会うことが多いでしょう。
 どんな苦難に遭っても、決して素直な心を失わずに、きれいな心を失わずにいるということが、
最後には勝利に繋がるということをあなた方に知って貰いたい為です。

 もし、あなた方がその苦難に負けて、悪の方向に善我を失った方向に走ってしまうならば、
あなた方は人生の敗北者となってしまうでしょう。

 曾て私はパウロやペテロにも同じようなことを申しました。
 そして彼等は忠実に私の教えを守って、キリスト教を世界に広めていってくれましたが、
そのことも今ではすっかり無と化したようです。
 何故ならば、キリスト教は、私の言いたかった本来の意味を失い、
戒律だけの、儀式だけの宗教となってしまいました。
 そのことはあなた方も、目で見て耳で聞いてご存知のことと思います。

 内村鑑三の言うように、キリストなる大岩は決して崩れ去りはしません。
 同じように正法という不滅の岩は、何時までも何時までも人々の心に燃え続けなければなりません。
 永遠という言葉は、正法の上にのみある言葉で、仏教でいう諸行無常という言葉も、正法という、
人々の心に不変の倫理には当てはまらないようです。
 物質はすべて輪廻を繰り返していますが、正法だけは何億年、何千万年の彼方から続いて、
何時までも何時までも不変なのです。

 ですから、あなた方もこれからどんどんと解明されてゆく科学の中に於ての正法を、
より科学的に証明してゆくということを、あなた方に私は期待します。
 私やブッタ様やモーセ様、そして高橋信次先生にしても、
科学と宗教の一致ということが、まだ一つ成功しませんでしたが、
あなた方の代に於ては、「天国の扉」でもう八分通り成功したように、
あと二分があなた方の双肩に掛かっているのです。
 ですから、私はあなた方になるべく多くの本を読み、なるべく多くの知識を頭に詰め込み、
そしてなるべく多くの人々の心に触れていってほしいと思います。
 正法を理解する為には、一般常識だけでなく、物理、地学、化学、生物、といったように科学、
或いは数学も重要な域を占めており、それらをはっきり理解しなければ、
正法ということを完全に理解することは恐らく無理ではなかろうかと思います。
 ブッタ様の時代にはそのようなことはありませんでしたが、今あなた方の世界に於ては、
科学的なことを抜きにして悟るといことは恐らく無理であろうかと思います。

 これらは心のあり方と同時に、宗教と科学の一致ということも含めて、
努めて一般に知らせねばなりません。
 今、「天国の扉」が出版されて、その契機が開かれた今、
あなた方は宗教と科学の一致ということを強く世間に、
世の中の人々の心に焼き付けて行ってほしいと思います。

 私達は肉体を持ちません。
 ですから、それが出来るのはあなた方だけであり、
私達の声を聞くことが出来るのもあなた方だけなのです。
 世の中に霊媒や霊能者はたくさんいますが、私達の言葉をそのまま受け取り、
私達の意志をそのまま世の中に伝えて行くのは、あなた方しかいないからです。
 それは、あなた方はマスコミや周りの人々を通じて良く分っていると思います。

 私達が望んでいるのは、新興宗教の確立ではなく、世の中の人すべての幸せなのです。
 世の中の人すべての幸せは、簡単に来るものではありません。
 寧ろ、世の中の人がすべて幸せになるには、私が言いましたように、
誰でもその人の主になりたい者は、その人の僕になりなさいということは、
このことにも当てはまるのです。
 
ですから、あなた方はこれから決して人の上に立とう、
或いは人より、より良い立場に立とうということは決して考えてはいけません。
 そこから私達の言う堕落が始まるのです。
 あなた方は常に人よりも貧しい立場にいなさい。
 あなた方は人よりも貧しいなりをしていなさい。
 何時までも何時までも心を貧しく持つことが、
あなた方の魂を美しく持つことの一つでもあるのです。
 私達の言う意味が解って貰えたでしょうか。

 それでは私のメッセージをこれで終わります。」

※1注。
〖参考〗
 カリール・ジブラン著「預言者」 至光社刊
 「喜びと悲しみについて」より(抜粋)

「あなたの喜びは悲しみの素顔。
 笑いの込みあげてくる井戸は、しばしば涙で溢れています。
 そういうことなのです。
 悲しみがあなたの存在を抉(えぐ)れば、
抉られたところにそれだけ喜びを貯えることが出来ます。
 あなたが葡萄酒を受ける杯は、
まさに陶工の竈(かまど)で焼かれたあの杯ではありませんか。
 あなたの心を慰める楽器、リュートは、
元は小刀(こがたな)でくり抜かれたあの木ではありませんか。

 嬉しい時には、自分の心の奥を覗き込んでごらんなさい。
 すると見つけるに違いありません。
 曾ては悲しみの原因(もと)となっていたものが、今は喜びの原因になっているのを。
 悲しくて仕方のない時も、心の奥を覗き込んでごらんなさい。
 すると気付くに違いありません。
 曾ては喜びであったことの為に、今は泣いているのだ、と。

 あなた方の誰かが言います。「喜びは悲しみに勝る」と。
 すると或る人が言います。「いや、悲しみの方こそ」と。
 しかし私は言います。喜びも悲しみも分けることは出来ません。
 両方とも連れ添って来て、一方があなたと食卓に着いている時、忘れてはなりません。
 もう一方はあなたの床に眠って待っているのです。

 まことにあなたは秤のようです。
 悲しみと喜びの間に懸かっていて、空(から)の時にだけ静止し、平衡を保ちます。
 宝の持ち主が、自分の金と銀を量ろうとあなたを持ち上げる時、
 あなたの喜びも悲しみもあがりおりせざるを得ないのです。」※1注終)

現象テープ№23 「心の美は」より
 80年5月11日 ガブリエル様現象

「打ち続く苦難に負け、(自らの工夫は考えず)神にのみ救いを求め、
苦しいことがあれば、直ぐ神様、神様と叫ぶ。
 その点を反省してほしいのです(※2)。

※2注。
 苦しい時に神様にお縋(すが)りすれば、救って下さるという宗教の教える救いとは、
神を信じる者を、神は守って下さる、神への依存を信仰と呼ぶことで、
現実は神に依存するのではなく
周りの人々に依存しているに過ぎないことも自覚することが出来ない。
 精神の成長の為に自らに厳しく出来ないのは、
人に迷惑をかけている、苦しめていることの理解出来ぬ自己愛だけの、
他に対しての冷酷な心、
愛の注がれることのなかった成長することのなかった精神故であり、
真に己を知るのは、自らに注がれてきた神の愛を知る時、
自らの誇ってきた愛が自分の為の愛、
誰の心にも伝わることのない偽りの愛に生きていたのであり、
神への信仰心も、自らを愛する如くに、神は自分を愛してくれていると盲信し、
神の愛を自己愛と同レベルに理解していたことを知ることでしょう。
 彼の心が作り出した、彼の心にのみ生きるに過ぎぬ虚像が
彼の精神を超えることはあり得ないのです。
 神に依存した心とは、未熟な精神に相応しく、
神は自分を愛されると信じられるのであり、
自分への盲愛を、自分に注がれている神の愛と思うのは、
依存心を満足させる為に自己愛の作り出した虚像が神だからです。
 ※2注終)

 だからあなた方は、これからの人生において、幸福な方向ばかりを求めないで下さい。
 寧ろ艱難の中に身を投ずることによって、幸せは齎されるでしょう。
 安穏とした、柔らかいベッドに包まれ、美味しい食べ物を食べる。
 このようなものが幸せであるのでしょうか。
 寧ろ粗末なボロを着て、粗末な物を食べ、粗食に耐えて、
そして魂が研磨されていった人々を、たくさん知っています。私達もそうでした(※3)。」

※3注。
 天上界の方々が転生される際は、真理を求めて生きねばならぬ厳しい環境を、
魂が研磨される環境を求められたということです。
 又、厳しい環境に生きる者は、苦難に負けない為に真理を、
神を見出そうとするからです(※4)。
 人々がこの世に求めるもの、この世が良いものと認めるものは、人の心を堕落させるものであり、
そのような人々の求めに応えようとするのは、人の堕落を楽しむ悪霊だからです。

 心を、魂を顧みさせようとする何かを、この世が提供したでしょうか。
 裕福な者、幸運を得た者が神に愛されているから与えられているのだと自惚れるのなら、
彼等の思う神は、現天上界の神々とは何の関係もない存在です。※3注終)

※4注。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」138頁
 あなたを神に追いやる苦難のほうが、あなたを神から遠ざける歓楽よりも好ましい
という場合には、あなたは正しい道にいるのだ。

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」16頁
『あなた(この世)が私を卑しめる時、あなた(この世)は、私を偉大にしてくれるのだ。』
この言葉は単に一般的な慣用句であるばかりでなく、
人生の経験に照らして全く間違いのないところである。
 真に善い偉大なことでも、その始まりは小さいものなのだ。そうでない場合は稀だ。
 しかも大概まだその上に、ある種の軽蔑や屈辱がこれに先立つ。
 だから我々は叩かれたり卑しめられたりするということから、
寧ろ確実にそのことが上手く運ぶと推測出来ることは、
ちょうど春の嵐によって春が近いことを推測するのに似ている。
 もし、あなたが屈辱のうちに後からそれだけ一層多くの善いことを
恵もうと目論んでおられる神の手を認めて、屈辱を甘受することが出来るならば、
あなたは一歩大きく前進したことになるのだ。
(ヒルティでさえ、このような目に遭い、苦難を通して鍛えられた信仰から、
このように人々の心に伝わる思いが生まれたのです。)

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」39頁
 我々が苦悩と悪戦苦闘している最中には、
ありとあらゆる慰めが根も葉もないことに思われ出してきて、
どんな慰めでも到底この苦痛を紛らわすには不十分であると見たり、
或いは又そんなものは、自分で同じ苦しみを嘗めたことのない人達の言う戯言だと
思ったりすることがあるものだ。
 これは事実そうである場合もあろうが、又そうでない場合もあろう。
 しかし君がそんなふうに考えるなら、
君自身及び君の家族の為には、最早我慢する気もなく、又我慢出来ないことでも、
もう一度、神の栄光の為に耐え忍んでみようと試みられるが良い。

「君がほとんど絶望(希望を失うとは、神を見失うことであり、
自らの神の心を殺すような罪を犯した者でない限り、神を信じる心を忘れないこと。
 神への信仰を捨てた心を救うことは神にも出来ないことだから。
 信仰を強制することも、勿論奪うことも神は為されないのです。
 神は人の意志を何よりも尊ばれるからです)に駆り立てられ、
我と我が身に乱暴にも手を加えて自殺しようとしたり、
或いは何か他の軽率な悪行へと誘惑される場合には、決してそのようなことをしないで、
まず君の神に心を打ち明けるが良い。
 そうすれば熾天使(セラピム)や知天使(ケルビム)が与え得る以上の栄光を
神に与えることになろう。
 病気の時でも、悲しい時でも、或いは死に近付いた時、神の約束を信じることは、
取りも直さず主を讃えることなのだ。」(とあるキリスト教説教者)

 この世からおさらばしたいが山々の時に、尚且つこの世で神に栄光を与え、
神の為に生きようとすることは、あらゆる人生の使命のうちで最高のものである。

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」135頁
(同じ苦しみでも見方によっては正反対の解釈が為されることに触れて(※5))
 人間をその最高の展開に近付けるものこそ、幸福と呼ぶべきだとする見方である。
 この見方をすれば、同じ理由から、
苦悩の時こそ人間を最高の境地に近付ける最大の作用を持っているのだから、
やはり一種の幸福だったのだ、という結論に達する。※4注終)

〖備考
 たとえ苦しみから解放されても、苦しみを与えた者の邪悪を喜ぶ心への怒り、憎しみは
忘れられるものでもないでしょう。
 悪なる観念への怒りは、善の観念(への愛)から来るのであり、
人を善なる心に留めるものですが、
人への憎しみは、愛を失うが故に執着となって心を鎖で縛って行きます。

 悪を憎むのがいけないのではなく、それは感情の働きであり、健全な心の働きですが、
その感情に縛りつけられたまま、何故そうなっているのか、何故そうなるのか、そうさせるのかを追求
(それが正法であり、理性に立脚した心の働きです)することなく、
悪を悪と認識する自らの判断力に満足するだけなら、更なる精神の成長はないのです。
 真に悪を憎む心とは、人の心に根を張り人の心を破滅に導く悪の観念を許さない心なのです。

 善の観念という(真理の)種は、神の愛によって撒かれ、育つものであり、
善の観念が意志となった心を善我というのです。

 悪の観念という種は、
(人を思いやる暖かい思い、愛の善の観念の宿る美しい心、
喜びの内に真理に素直に生きる心への嫉妬の思いに駆られる、
我執にナルシシズムに生きることしか理解し得ぬ己が自我を脅かす)
神の心から来るあらゆる良き思いへの憎悪によって、蒔かれ、育つものであり、
悪の観念が意志となった心を偽我というのです。
 善の観念が育つとは、悪の観念に勝る善を理解する心を得たということです。
 真に善を理解する心は、悪の観念
※6を摘み取り、心から捨て去る意志(力)を得た心です。

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」116頁
「人生の幸福は、困難が少ないとか、或いは全くないということにあるのではなくて、
その困難を全て立派に輝かしく克服することにあるのだ。
お前が克服したあらゆる罪の精(スピリット)は、
力に変って、お前の中へ入ってくる。
(とある牧師)」」

「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
「事の善悪、是非、真実と虚偽、(それらの判断を誤らせる)
おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。

 何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、
自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬ(真理、善の観念を愛する神の心とは相容れぬ)ものだからです。
 人間的な欲望、虚栄の心、自己顕示、競争心、名誉欲、支配欲、権勢欲、所有欲、
金銭に対する執着の心 ー 。」

※6注。
 罪を憎んで人を憎まずと言われる真意は、
人を憎む前に、罪を憎め、(人の心を侵す)悪の観念を憎め、
悪の種を植え込む悪霊を憎めということではないでしょうか。

 行為を生むのはその心です。その心を満たす、意志へと育てるものが観念であり、
その観念を伝える者、植え込む者の思いが伝わるのです。
 伝わるのは思いであって言葉ではありません。
 言葉など植え込まれた思いによってどのようにも解釈されるからです。

 罪を犯した者を裁く法とは、善を、人の善に生きる心を守る、
それが罪を犯させない、罪によって人を犠牲にさせない為にあるのです。
 罪を犯すとは、自らの善を滅ぼす悪に、自らの心を染めたのです。
 罪の犠牲にならないようにするには、罪に負けない、善の思いに生きる心だけです。

 善を愛する心を育てるものが、善の観念であり、
神の心に生きる者にのみ伝わった神の愛によって為された徳を見て、
人は徳を生むのは善の観念であると知ったのではないでしょうか。
 何故罪を見て、罪を生むのは悪の観念であり、
神によって撒かれた善の種(人に愛を与える心)を奪い取るほどの悪意を持つ、
愛を貪る冷酷な心へと、悪の観念(悪の種)を植え込む悪魔の邪念が
どうして悟れないのでしょう。
 悪魔と言えば笑われるとでも思っているのでしょうか。
 笑っている人々が神に生きているとでも思われるのでしょうか。※6注終)

 苦しみにある人が何時もいるのだから、
この世に生きる限り、心に愛があれば苦しみを感じないでいられる訳には行かないのであり、
この世に神の国を、神の愛を齎そうとすれば、
神の愛される者への嫉みから、美しい心に邪念を、優しい心に悲しみを齎そうと、
悪霊から邪念を受けることでしょう。

 邪念を撥ね退ける善に徹する心を自らのものにする為にはどうすればよいか。
 悪霊にとって真に耐え難い美しい心、神に愛される心、
神の光に生きる神の意志の臨む心に、悪霊は手を出せません。
 それ故に誘惑するのです。
 光に背を向ける、堕落する、邪念を心とした時、善への愛を失うのです。

 神に近付くとは自らの心が神の心へと成長して行くということです、
そのような進化が可能な種であることを神が証されているのです。
 自らの心を邪悪から守るのは、自らの善なる心しかないのであり、
悪に立ち向かう勇気なのです。
 人々を悪の前に立ち上がらせてきたのは、自らの内に神の心を見出した者、
真の神に生きた、神の御意志に勇気を得た人々です。

 天上界が、理解することと悟ることは違うと仰しゃるのは、
真理を理解したのに、真理に生きることが出来ないでいる
(理解だけなら偽我に生きる者にも出来るのです)のは、
真理に生きることを拒んでいるからだと、
自らが偽我(欲望を、この世の価値に執着する心を満たす為)
に生きていることを認めることの出来ないのは自己愛に支配されているからだと、
自らの心の真実を知り、偽我と戦う、真理に生きる善我を自らの内に見出した者
(善我、心の目覚めた者の理解)を悟ったというのではないでしょうか。
 真理とは何か理解したつもりで、偽りの光、虚栄に生きていることが判らない、
偽我に目覚め、善我に盲いた心に生きている。
 偽我に目塞ぎ、神の国に生きる霊(魂)の心、善我に目覚めた者が、
神の法灯となり、神の光なきこの世にあって神の心に生きる。
 闇に働き掛ける邪念に屈することなく真理の光を齎す者を、
真の覚者というのではないでしょうか。備考終〗

〖参考〗
 カリール・ジブラン著「預言者」 至光社刊
 「苦しみについて」より(抜粋)

苦しみ、それは、あなたの理解を被(おお)っている殻(から)が壊れること。
 果実の芯
(しん)が陽に触れるためには、
まずその核
(たね)が壊れねばならないように、あなたも苦しみを知らねばなりません。

 あなたの日々の生活に起こるさまざまな奇跡へのおどろき、
それを心に常に生き生きと保てたなら、
苦しみも喜びにおとらず不思議に溢れていることがわかるでしょう。

 田畑の面(おもて)を過ぎて行く季節を、いつも自然に受けとめてきたように、
心の季節をもあなたがたがそのまま受けとめられたなら。
 苦しみの冬を通しても、晴朗さをもって目をみはっていられたなら。

 苦しみの多くは自ら選んだもの。
 それは、あなたがた自身のなかの、うちなる薬師
(くすし)が、
病んでいる自分を癒そうとして盛った苦い苦い一服。
 それゆえに、この薬師を信じなさい。
 そしてその薬を沈黙と静穏のうちに飲みほしなさい。
 なぜなら、その手がどんなに耐えがたく、厳しくても、
「見えない方
(かた)」の優しい手で導かれているのですから。
 そのもたらす杯
(さかずき)がどんなにあなたがたの唇を焼こうとも、
「陶工である方」がご自分の聖なる涙でしめらせた土でつくられているのですから。

"憂い(心配や気掛り)の効用"
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」39頁
「人の生涯に憂い(心配や気掛り)の伴わないことはあり得ない。
 憂いと共にありながら、それどころか往々に幾多の憂いを持ちながら、
しかも憂いなしに生活して行くこと、これこそ我々の修得すべき生活の技術なのだ。
 我々は三つの本質的な理由から憂いを持つ必要がある。
 
 第一の理由は、傲慢・軽薄にならない為に、である。
 憂いは、時計の進行を正しく調節する振り子みたいなものなのだ。
 第二は、他人に対して同情の心を持つことが出来る為に、である。
 余りに裕福で普通の心配事のないような人は、とかく利己主義者(エゴイスト)になる。
 こういう連中は、心配事で顔も蒼ざめているような人を見ても、最早同情もせず、
何か不当な存在、自分達ののんびりした快適さを邪魔するもの位にしか感ぜず、
それどころか、却って心(しん)からそういう人達を憎むようなことにもなりかねないのだ。
 最後に第三の理由として、憂いこそ、
我々に神を信じて、その助けを求めることを力強く教えてくれるからである。
 何故なら、我々の願いを聞き入れて、その結果我々を憂いから解放することこそ、
唯一の確実な神の証明であり、キリスト教の真理であることを実際に証拠立てるものだからだ。
 それ故、悪い日が却ってよいのだ。
 もし悪い日がなかったら、大概の人は決して真面目な考えに行き着くことはないであろう。」

 自己愛や自己保存に満たされぬ故に憂うものであっても、感受性を鈍らせないでいれば、
善なる思いを感受する、見出すものであるとヒルティは考えられたのです。

※5注。
"どのような心で受け取るかについて"
現象テープ№28 「自己犠牲について」より
 80年9月14日 ミカエル大王様現象

「人間が七十年、八十年生きるとして、様々なことが起こるでしょう。
 平和があり、戦争があり、破壊の時があり、又、建設の時がある。
 個々の人生に於ても、幾多の悲しみがあり、数多の喜びがあるでしょう。
 その中で、同じ時代を生きる人間にとっても、苦難が愚痴の種にしかならぬ人間もあれば、
悟りへの進歩となる人間もあるでしょう。

 悟りとは、どのような事を言うのか。
 それは一人一人が考えなければなりません。
 私達があなた方に向かって、これこれのような物であると提示出来るものではないのです。
 何故ならば、各々に於て体験の型が違い、理性の違いがあり、知性の違いがあるからです。
 それは上下を付けられるものではないのですが、やはり程度といったものがあるからです。」

(注。人を生かそうとするのか、利用しようとするのか、
人の善意を信じる心から人に神の心を見んとするか、
猜疑心から否定的に見んとするのかによっても違ってくるでしょう。
 また天上界メッセージに対しても、
神からどのような心で受け取ろうとしているかで理解も異なるでしょう。
 一度読んだだけでメッセージが解ったと思っている正法者に対して、
何時まで経っても悟ることが(真理に、正法に対する姿勢を改めることが)
出来ないのは何故なのかと天上界から質されることになるのです。注終)

「JI」83年6月号 ミカエル大王様メッセージより
人を信じるとは、疑いながらその言葉を聞くのではなく、
真直ぐな心で受け入れることなのです。

 これは正法を知り、学ぶ者として心しておかねばならぬことです。
 人が偽りを言い、欺こうとする時、それに気付くのは遅くても構いません。」

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」13頁
「どうにもしようがない。境遇は屡々変えようにも変えられないのだから、
その受け取り方を変えなくてはならない。
 そうでないと、たえず苦情ばかりこぼして身を擦り減らし、
自他ともにこの生を不快なものにし、何とも手の施しようがなくなる。」

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」137頁
「しょっちゅう不平を鳴らし、自分の境遇に、しかもそれが耐えられないというほどでもないのに、
どうしても満足しないような人々に対しては、
神は、彼等にまだ改善の見込みがある限り、更に大きな苦難を送って、
このような大きな苦難と、どんな生活にも付きものの比較的小さな、
避け難い苦難との差異を知らしめ、将来すべての善に感謝の心を抱くように仕向けられる。
 だから、大したこともない災難について余りにも多くの不平を言う者は、
とかくもっと大きな災難に出会いがちであり、
しかもそうなった時に人の同情を受けられないのである。
 人々は彼の普段の不平に慣れっこになっているためだ。」

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」188頁 エピクテートスの『語録』より
「どのようなものにも、それが掴まえられる二つの側面がある。
 一方の側からすれば、それは我慢の出来る(掴まえられる)ものとなるが、
他の側からでは堪え難い(掴まえられない)ものとなる。
 例えば、君の兄弟が君に不当な仕打ちをした場合、
彼が君を侮辱したという側面から、それを取り上げてはならない ー
 それは、君の掴んではならぬ彼の把手(とって)なのだ ー 
 そうではなくて、彼が君の兄弟で幼友達であるという側面から、取り上げなくてはならない。
 そうすれば君はその問題を、持ち上げられる箇所で掴んだことになる。
(どのような思いから人と関わっているのか。
 人の苦しみを思い助けんとの心からか、人を貶めんとする高ぶった心からか、
自らの心を知らずにいる者への助言となることでしょう)」※5注終)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法