第一部 天の教え
第二章 最後の審判

五節 ハルマゲドンと形容された天界の死闘
 自己保存の執着を悪魔に見抜かれ甘言を以て手玉に取られた善霊が
悪霊という別人格に変わり果てた事。

「天国の証(78年8月初版)」91頁 ラグエル様メッセージより
「私達は天上界に於て、昨年(77年)5月よりベー・エルデのサタン、悪霊とその配下を交え、
何度も戦いを繰り返しました。
 戦いの繰り返しの中では、能力のあるサタンによる恐ろしい程の陰謀と術策の中で、
力は互角とも見え、戦力と数に於て、悪霊側が優勢と見えたことは幾度もありました。
 その中で最後まで天上界の側に立ち、善霊として戦い抜いた者は幾名いたでしょうか。
 初めの人数から見れば、約半数しかありませんでした。
 勿論これはこの末法の世に至って起こった現象で、
 それまではサタンも必死になっておりませんでした。死闘などということは無かったのです。」

正しい側に立ってサタン側と戦い永遠の生命を失い、真の死を迎えた方は多くいられます。
 しかし悲しむべきことは、戦いの苦しさとその長い期間に善悪の判断がぐらつき、
サタン側に寝返り、天上界を裏切った人があるといういうことです。

 数の大小に関らず、これは驚くべきショッキングな事実でした。
 あれ程魂の修行に明け暮れ、魂の転生輪廻の過程で数え切れぬ良きもの、
良き悟りを得てきた人々が、 次元の高低を問わず、我々善なる霊の世界を裏切ったのです。
 天上界に於て、この方々は正義は何かと自己に問うて、そして(正義よりも)自己保存
(自分の利益の為、自己を他からの攻撃より守り通すこと)に走ったのです。
 これは永遠の生命への執着でした。

 サタンはその攻勢の大なること、その兵力の無限なること、
決して天上界を滅ぼさずんば止まぬことを宣言し、そして善霊側は数がどんどん減っていきました。
 そしてサタンはその時自分に加担する者は、味方する者には、
"永遠の生命を与えよう"と申したのです。
 善悪いずれにも関らず永遠の生命
(何か大変素晴しく見えるもの)を約束された時、
三次元の多くの人は強く見える方に付き、弱く見える方を滅そうとするでしょう。

(注。嘗て日本は台湾との国交を断絶し、中国との国交を樹立しました。
 非難しても報復することのない民主主義国家の核兵器だけを左翼は非難しました。
 共産主義国家には恐れて非難出来なかったのではありません。
 左傾メディアとは彼等の広報機関に過ぎなかったからです。
 左傾メディアは自分達の立場(正義)を脅かし得ぬ相手と見れば、
世間が悪と認める者なら犯罪者の如くに扱うのです。
 法に裁かれる前に如何なる犯罪者にも弁明する権利が与えられているのに、
言論の自由を叫びながら、加害者と世間を認めさせさえすれば、
ここぞとばかりに民衆こそ正義であると煽り立て、自分達メディアの持つ力の奔流に酔いしれ、
自分達に勝てる論敵はないと問答無用で裁く彼らこそ、
力を崇拝する、悪魔に心を渡した共産主義者達と何ら変わるものではないのです。注終)

 天上界の善霊も同じことをしたのです。
 人間の魂である四次元の霊は天国にいながら、同じ愚かな心を持ちました。
 それ故私達の戦いは一層苦しいものになり、一層長く続くものになったのです。
 それはサタンとの最終的戦いが
(一九七八年)二月二日から十三日に亘って行われた時のことでした。」

「天国の証(78年8月初版)」60頁 エル・ランティ様メッセージより
「いま天国に住まれている方々の数は減り、新しい方々が来られていますが、
天上界を裏切られなかった方々のみです。
 また裏切る可能性の最も少ない方々のみを新しく選びました。
 最後の審判によってまた数が減ったのですが、その後も高橋氏に次ぐ裏切りが日々行われ、
その度毎に善霊の数が減りました。

 霊体は一つのことについて迷いが生じると、
なかなか他のことに気を転ずることが出来難いのです。
 その欠点がここに於て具体化され、天国がバウンティ号の叛乱の如き様相を呈しました。
 天国だとて、霊の世界は、心の修正が何時も要求されるのです。
 霊はエネルギーそのものと言ってよい程ですから、

一つの思念がそれの持つエネルギーと等量になって、それだけ集中したエネルギーの塊となります。
 
肉体を有していれば、種々の生活上の必要性から気分を転換させ、
悪心、邪心の集中が避けられます
が、霊体はこの点に於て、辛い日々を送らねばならぬのです。
 人間と同じように感情が動きます。地上にいる死霊、浮遊霊だとて決して愚鈍ではありません。
 ただ思考、推理、判断などの面に於て、また記憶の度合いが天上に居る者と比べて劣るのです。
 非論理的、非合理的な者が多いのです。」

「天国の証(78年8月初版)」112頁 サリエル様メッセージより
「この第二巻『天国の証』で発表されていることは、もう一度はっきり述べますと、
人類の一人一人が神の前にその罪の重さと精神の病巣により裁かれなければならない※1
という、 末法の世に生きる者としては避け難い宿命的結末を迎えたということです。
 出来得ることならば、そのような事態を最後まで避けたく天上界は、努力致しました。
 しかしサタンの王国建設の執念の前に幾多の困難があり、その度重なる執拗な攻撃に、
三次元の方々が理解出来ぬ死闘を繰り返しました(※3)。
 多くの人々は高橋信次氏を通して迷える霊を救う為、
慈悲と愛の言葉を掛けるよう天上界が指示した ー
それを唯一絶対の除霊法と信じ込んでいられるところに誤りがありました。

 ベー・エルデのサタンは物理学者としての一生を終えた科学的知識を備え、
九次元の能力と同等の能力を自分で案出した方法で身に付け
その妻も同じ知的レベルの高い者でしたから、霊界に於てありとあらゆる犯罪を犯し、
三次元を悩まし、ベー・エルデを追われた者でした。


 地球に来て同じことを繰り返し、第二代目のサタンとされていたものがこの妻にあたるのです。
 第一代目のサタンは勿論夫の方です。
 それぞれに天上界の慈悲と愛により改心し、
三代目のサタン、ルシファーが地上にいた時には天上に上がっておりました。
 それがルシファーの改心と共に再びサタン化し、今度は二人で地上と天上を荒らしたのです。
 天上界は恐しい混乱を来し、その混乱の末、死闘が展開され、
ありとあらゆる科学的手法を用いて霊の多くは完全消滅にまで至ったのです。
 負傷などというものではありませんでした。
 お互い消滅するか、されるかだったのです。
 それ故死闘と申したのです。


 その科学的手法は公にはされません。その知識でまたサタンが生れるかも知れないからです。
 このようにベー・エルデからは奇しくも神々と悪魔が地球を訪れたのです。
 そして神々は神と等しき人々を作り、
(精神に於て、魂に於て、作ったと言えばその意義は深いものがありましょう)
悪魔は悪の魂と精神を養成しました。

(注。
 天上界がイエス様を"私の愛する子"と呼ばれたのは、神が導き育てられたからです。
 イエス様が神の与えられた、神の愛する真理に生きる心を、神々と同じ心を養われたからです。
 人が自ら愛を注ぎ育てた子を、その愛を養分とし、愛に生きる心を育てた子を、
誰よりも愛する人(の親)の心と変りません。
 神が人の霊であることが納得されるのではないでしょうか。
 生まれる前から存在した人格、霊が肉体に入る合体霊とは別に、
肉体の誕生と共に育つ心がその人の人格であり、死後初めて霊(体)として存在するのであり、
イエス様も同様に、生まれる前から神として存在したのではない、
神々の一人(ビルナビル様)が合体霊としてイエス様を神の子へと導いたのであり、
イエス様もまた、人間以外の何ものでもありません。)

 これは神話でも何でもなく、真実の証として申し上げております。
 人間の中に本質的に存在する崇高さと獣性、それは神から来たものと悪魔から来たものなのです。
 純真で美しい心の人が、ある契機を経て突然に堕落し、或いは犯罪に走り、
悲運の坂を転げ落ちる。
 これは四次元の悪霊の干渉に拠るものなのです。」

サタンの誘惑があれば、そこから抜け出る智恵と防御本能、そしてその経験から習得した知識、
そのようなものの集積が善我の歴史であり、魂の修行とも申せましょう。


※1注。
"一人神の前に立て(※2"と言ったキルケゴールがどのような心に立っていたのか、
その心を理解した人がこれまでいたのか知る由もありませんが、
キルケゴールのような精神を持ち得なかった人類がこのような末世を齎してしまいました。
 そうして生きている内に、天の裁きを知ることになった私達は、
誰もが神の前に立つことになることを
理解しないではいられない思いになったのではないでしょうか。
 そしてその裁きが善なる魂を救うことであり、善なる心に生きる者でなければ、
神の救いに与ることは出来ないことも伝えられました。
 天の裁きは、天の善を伝えるものです。
 それまで内なる悪に、罪に生きながら、神を畏れることを知らなかった心にとって、
善なる心を目覚めさせることになるかも知れません。
 神の怒りは、悪に、悪を許す心の罪に向けられたものに他ありません。
 私達が悪に打ち克つ時、神の愛を受けるに相応しい心を得るでしょう。※1注終)

※2注。
 自分自身気付けないでいる心のすべてを知る神に向き合うとは、
神の叡知に臨み、自分の中の隠された悪を知る最後のチャンスを与えられたという事であり、
それを認めないことは、神の救いを拒絶する心を選び取るということです。

 イエス様の前に現れた金持ちが自分は神の教えをすべて行っていると言った時、
イエス様が財産を貧しいものに施し、私に付いてきなさい
(と神の下に招かれたのです)と言われたこの金持ちは、
神(イエス様)の下を去り、財産に生きる世界へと帰って行きました。

 神の前にあって己を誇ること自体が、己を全く知らぬ者の業ですが、
神が与えようとするものがこの世の与えるものに勝ると信じることが出来ない。
 この世では、金銭に出来ぬことはない、
金銭の価値に従わぬ者がこの世にいるだろうか。
〖金銭とは代価である、
何の得ることもないのに何の為に支払うというのかと思ったことでしょう。
 慈悲なる行為を、心の貧しき者の持つ神に愛される心を知って清められるとも、
神に生きる心の目覚めが齎されるとも、
愛が善に生きる心の喜び(善我の糧)であるとも、
この金持ちには理解の及ばぬことであったのでしょう〗
 何の見返りも出来ぬ貧しい者に施すようにと(それこそ真の施しなのですが)
彼には聞こえたことでしょう。

 施すものとは愛であることが解らないのです。
 人の求めるものがこの世の提供するもの故に、
神から与えられてきた愛を悟ることが出来ない。
 真の救いが神の導きに生きての、
神の心を自らに見出した幸せこそ、神と共に生きる幸せこそ、
永遠に生き続ける、神だけが与えられる愛であると悟ることが出来ない。
 施すように言われなければ施すことを考えないのは愛がないからです。
 真の愛を見出して自らを救えと、
神の心に生きる時、真に救われた者であるとイエス様は伝えたかったのでしょう。

 神の愛よりも金銭を欲する心が明らかにされて尚、その心に生きようとする、
神に背を向ける、神を拒んだ心に、己が心を悪から守る如何なる善を持ち得るのでしょうか。
 自ら神を信じ、従うことを拒否したのです、
この世を従わせる力にのみ生きた肉体(こそ己自身とした)を失う時、
善なる心の生きる世界を見出せなかった魂が、盲いてこの世を彷徨うのです。

 只々寂しさから愛を求めても、愛を受け止める、愛を知る心へと成長させることのなかった魂は、
飢え、乾き続ける魂です。※2終)

「天の奇蹟 中巻(82年9月初版)」294頁
 著者(岩間先生)の質問へのミカエル大王様による解答より
「(歴史を通して)ダビデの魔手にかかり、密かに殺された天使や聖人の霊も数知れず、
(更に)一九七七、七八年のサタンとの大決戦に於て失った義人、聖人、
天使達は数知れずあります(※3)。
 その名を公開するのは避けたいのですが、代表的な所ではジャンヌ・ダルク、アブラハム、
エリヤ、モハメット等も現在に至る長い期間に暗殺されて、自らが証言出来ない立場にあります。
 ダビデ王は勿論、古代の預言者達、その他多くの大天使達も天の戦いに於て。
 私達七人が生き永らえたのは、サタン・ダビデや、幸いにもエル・ランティ様の親族ですから、
エル・ランティ様の報復を恐れたのと、モーセ様、イエス様、ブッタ様等は
何時も私達と共に居られたから暗殺の機会を免れておられたのです。

 立派であればある程ダビデの嫉妬心は燃え上がり、
その方を消滅することで自らの権力欲と支配欲を満たしていたのです。

 そのような者でも私達が親族を殺害することは大罪に値し、
ソラッティヤ前ベー・エルデ王という祖父に
孫の一人を失う悲しみを与えることが出来ませんでした。
 戦いによってようやく消滅し得たのです。

 ユダヤ教が共産主義を産み、キリスト教が呪われたのは偏(ひとえ)
このサタン・ダビデの故であり、呪われた宗教を私達は解体し、
三次元の人々との交流を再び正しい形で持ちたいと願っているのです。

 天に顔を反(そむ)けた多くの人々には私達の真意は通らないかも知れませんが ー 。」

※3注。
 善霊と悪霊の、神の意志に生きる霊と悪魔の意志に生きる霊の死闘であって、
神の側にも悪魔の側にも付かない霊は関係がないからと、どちらからも敵ではないからと、
安全でいられたのでしょうか。
 敵か味方か見誤れば、死に至るのです。
 偽りの善を見抜けぬような善霊は善を貫けることが出来るでしょうか。
 悪霊に負ける前に、自らの自己保存から自己欺瞞を許し自ら堕したことでしょう。
 また悪霊(もしくは、神に従わないが、悪魔にも従ってないからと、
自分は悪霊ではないと思っている霊)が善霊に向かって、
確かに自分は善霊ではないが悪霊でもないと、仮にそう言ったからといって、
善霊が悪霊(もしくは、悪霊に利用されるだけの、
善悪を考えぬ故に自己保存に適う為なら如何なる悪も善とする霊)
を見逃す訳がないのです。
 自分には関係ないと一生を過ごしてきた霊に、何を言っても手遅れでしょうが。

 尚、最後の審判についてですが、この世の法律と同じように、
(天に)裁かれる前に、極刑の明らかな極悪人にも裁判の場が与えられ、
弁護人によって刑を軽減されるように主張する機会が与えられると思ったら、
大間違いです。

 死後、魂(霊体)が肉体から出る時
霊体に不必要な要素(不純物)が脱落する際、
酸化(燃焼)する現象で見られるのが火の玉と呼ばれるものです。
 その時霊体の所在があからさまになります。
 勿論、神に抗いながら天上界高次元の神々の目から逃れ続けられる霊はおりません
霊体を自由に動かすことに慣れていない魂は、(霊体を消滅させる能力を持つ)
天使や悪霊の前に全く無力(逃れる術がない)なのです。
 天に愛される魂は天上の守りが無いと悪霊の危険に晒されかねません。
 逆に悪霊となるしかない魂は天使に消滅されます。
 悪霊は自分の生命を賭して悪なる魂を天使から守ったりはしません。

 共産主義や悪魔に魂を売った邪教は、人の心を神(善)から遠ざけ、
人から神の救いを奪うものであることを、
彼等が天の法によって罰される悪であることを正法(真理)によって知った者は、
人々を地獄への誘いから守り、神に愛される、天に守られる者へと導かねばならないのです。
 悪に従う者に寛容であることは、悪霊に力を与えるという悪魔に与することであり、
善人の魂を奪うことになるのです。
 善悪を正しく判別し善を愛する者は、
悪(なる心)に寛容な偽善を許す者であってはならないのです。※3終)

〖備考
 天を裏切るということは、自分を守ろうとする心の前に、
真の神の御心を、それまで神を愛してきた自らの心を、
その愛に生きた幸せを一顧だにせず捨て去る、
自ら神の心に手をかけるということです。
 天を裏切った善霊は、神の愛を知ることの出来ない心しか持たなかった悪霊よりも
罪が重いことは言うまでもないことではないでしょうか。

 神の愛を受けた者が、神の愛を知った者が、神の愛を捨て去り、悪なる魂となった時、
神の愛を知ることのなかった魂とは比較にならないほど邪悪な心であり、
その罪も救い難いものであると理解されると思います。
 盲目の自己愛には認め難いものであろうと、
神の目には隠し切れぬ邪悪を心の底に持つが故に、善我に生きられないでいるのですから、
神の道を、偽我を削り落とすように導かれることで、
その辛さから邪悪に惹かれる己の本当の心を知るのです。
 偽我から逃れられぬ者は、
それを克服することでしか善我を自分のものにすることは出来ないでしょう。
 自分が善人であると慢心する者は、
偽我に立っていることすら解らぬ(己を知る)知恵を持たぬ者です。
 偽りの道を最後まで悟ることなく生きる者です。備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法