第一部 天の教え
第一章 天の歴史
七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)

 (一) 神の証されたサタンの人格
「天国の証(78年8月初版)」63頁 エル・ランティ様メッセージより
これら(天上界の計画の妨害)すべてはベー・エルデのサタンであり、
優秀な物理学者として一生を過ごしたダビデ・カンターレ、
即ち私の双子の弟が仕組んだものなのです。

 ここに至るまで私の心に迷いがあったのですが、やはりこれは最後の審判の時であるので、
他のすべての天上の異変と共に明らかにすべきだと思います。

 弟であるが故にその魂を救うことは私の永遠の夢でした。
 私に協力し、正法流布のユートピア建設の妨害さえしてくれなければ、
普段は気の好い人間でした。
 ただ悪戯気が多く、静けさと平和を好まぬ人間だったのです。生きている時から。
 そしてその妻エル・ヘレナ ー ヘラ・カンターレも悪人ではありませんでした。
 ただ夫と同じ事をして四次元の能力の偉大さを知り、
三次元を意のままに操れることに楽しみをさえ感じるようになったのでしょう。

 後悔して善霊になってもこの二人は直ぐ偽我の心が出てきて、悪霊化するのです。

 同じようなパターンは人間の一生に巡り合う人々の中に幾らでも見出せます。
 悪戯気が多く、人を困らせて喜ぶ性質、
誤った理想主義や自分の主義、主張を他の人に押し付けて、
内容の是非を問わず意のままにならぬ時は制裁を加える ー
甘やかされた人格にこのような人が多くいます。
 それが私の双子の弟という特殊な位置にある為、増上慢と支配欲が嵩じてきたのです。

 私に解るような手段は決して用いませんでした。
 しかし妨害の主なものは弟から出ているのを知っていました。
 そして出来るだけそれを取除く努力をしてきました。
 弟は自己の有するあらゆる知識を、霊となった時、仕事を持たぬ者として時の長さに倦み、
私の建設的計画を破壊することに用いたのです。四次元の能力を駆使して。


 これは神として考える時、理解し得ぬ事柄ですが、人間の霊として考える時、
人間の性格をすべて併せ持つ者の背反、破壊衝動、謀略、破壊行動 ー
これらの図式から、一人の人間が天上界から地獄の波動を持つに至る過程、
そして反省と行いを改めながら再びサタンになることも、あなた方には容易に理解し得ましょう。

 人間ルシファーは私の弟の妻に操られ、合体霊天使ルシエルも共に犠牲者となりました。
 そして私は昨年(七七年)の諸々の不祥事に出会った末、遂に忍耐の限度を越え、
最後の審判を弟夫婦も共に含めて行うべく命令したのです。

 天上界 ー 天国を厳しき法と掟に律せられた、且つ慈悲と愛に溢れる善霊の住み家と見做す時、
そしてそれを三次元に置き替え、善なる心の人々の集まりから、
ユダの如き悪に転ずる、或いは悪の誘惑に負けた人が出る時、
私達天上界、特に私が今迄背負って来た十字架を御理解なさるでしょう。
そしてダビデに言葉巧みに惑わされ、私達を裏切った善霊の気持も御納得なさることでしょう。

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)

 (二) サタンの犯罪
「JI」83年10月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」175頁

彼等に与えられた救い主、イエス・キリストを彼等自身で十字架に付けたユダヤ人は、
その時以来、血に呪われ、天に見捨てられ、悪魔に操られて、
全国家を崩壊、人類の滅亡を彼等自身の手で行うに等しい共産主義理論を編み出したのです。


 私達はアブラハムの約束を守り、サタンの企みの中をユダヤの民、
イスラエルの血を守る為に導きを与え続け、メシヤを与えました。
 しかし盲いた者達がキリストを殺し、その為ユダヤ民族全体が苦難を与えられ、
更にキリストを十字架に付けた同じサタンが、
ナチスによりユダヤ人六百万の虐殺を行わせたのです※1
 今は滅びし同じサタン・ダビデが、曾て神の民に地上に神の国を築かせぬ為、
地獄をこの世に作らせたのです。
 その為には、神の与えた戒めのすべてをまず捨てさせること。
 神の前に明らかでなければならぬ良心を次に。
 そして地獄の中に人類の苦しみと滅亡を備えたのです。


 動物は種族の保存の為に不必要な殺害を行わないのは、あなた方も知っておられるはず。
 神の愛するあらゆる物と人を滅ぼし尽くす企みはサタンにしか出来ぬこと。
 血に染まる共産主義理論とその信奉者は、サタンに魂を奪われた呪われた人類なのです。
 神は彼等に光も救いも与えないが、そこを逃れ出て、神を真に求める者には再び光と愛を、
そして望みを与える
ことを天王である、私ミカエルの誓約としてあらゆる犠牲者に、
ここに約しましょう 。

※1注。
 神の与えた救い主を自ら殺害し、神の救いに背を向け、
サタンに従ったユダヤ民族を何ゆえサタンは迫害したのか。
 キリストの心に、神の愛に出会ったにも関わらず、
真の神の愛によって、(イエス様を通して)神の御心に触れることによって
彼等の魂を救う為に神の遣わされた神の子(キリスト)は、
彼等が神に求めた指導者ではなかった。
 彼等の盲いた心には、真の愛は伝わらなかった。
 神の愛が満たすことの出来る心を、神の心をユダヤ民族は自らの内に見出だすことがなかった。

 神の心を知らぬユダヤ民族が彼等を救う指導者の内に見んとする思いは、
サタンにこそ与え得る、他の民族を支配せんとする思いでした。

(ユダヤ民族こそ神に選ばれた民であり、他を従わせる者と信じる、
この選民意識はキリスト教に継がれている。)
 そのような思いに応えるのはサタンであり、彼等の心はサタンに支配されて行きました。
 サタンが支配したナチスによって、神の国を、神の民を滅ぼそうとするサタンの邪心から
ユダヤ民族の虐殺という地獄が齎されたのです。

 サタン・ダビデは(神の民ユダヤ民族を救う為に神に遣わされた)
メシヤを殺す為に利用したユダヤ民族を救いから地獄に突き落とし、
(悪魔の傀儡)ナチス・ドイツによってユダヤ民族を滅し去ろうとし、
地球を地獄と、悪魔の王国とする悪魔の思想が世界に浸透すべく
共産主義国家を台頭させる為に、
悪魔の国ナチス・ドイツに勝利せんとする天に導かれた(民主主義)連合国と共に
戦勝国となるように連合国に付かせました。
 共産主義国家の為にサタンは噛ませ犬の如くにナチス・ドイツを扱いました。
 その共産主義国家が崩壊した筈であったロシアは
今も共産主義の亡霊に支配された地獄の住民から目覚めることが出来ません。
 ダビデは、自分の野望の為なら、その為に役立ってきた者であろうと、もはや役に立つこともない、
知恵なき者が滅び去ろうと地獄に落ちようと痛む心など持ちません。
 新たに傀儡を作ることなど訳のないことでした。

 ユダヤ民族を神の民として選び、彼等を通して全人類を救いに導こうとされた
神の思いを、計画をすべてサタンは無にして行きました。
 神の法に生きる神の国を奪い、力に支配される地獄を齎さんとする悪魔に従い、
神の愛を捨て、サタンに呪われ、サタンの思想(共産主義)を作り上げたユダヤ民族は、
今も真の神を見出せず、サタンの思いに生きていることを知りません。

 自らを擲(なげう)って、神に尽くそうとする、
神の御心を、愛を、尊いものと知る故に神と崇める、愛する人々をサタンは妬みました。
 そのように愛されることがないことを知る故に、
神の愛に従う人々を自ら得た力を崇める人々へと変えようとしました。

 サタンは神から愛されることに、自分の持ち得ぬ愛を持つ者(至高神)から
与えられることに耐えられなかったのではないでしょうか。
 それ故に自分以上の力を持つ者はいない、それだけの力を持つことを生きる目的とした、
自らが支配することを望み、愛を持てぬ彼は力で支配しました。

 神を愛する人々が、愛から来る力を持たぬならば、サタンは妬まなかったのではないか。
 サタンに従った人々が、自己保身に生きる、
尊い愛を顧みず、卑しい盲目の自己愛に生きる人々を、
(精神)力に於ても、神への愛故に神への忠義を貫く神の子に比べて劣る人々を、
(サタンはキリストを十字架に付けるべくユダヤ人に働きかけ、
彼等自身の神が、人々の目に明らかとするために生ける人間として遣わされた救い主に、
神の心を、愛を認めるどころか、その心を悪魔と罵り殺害した、
神の愛を理解し得ず、自己愛に、自己肯定の高慢に生きるユダヤ人を)
軽蔑するのは当然のことでした。

 彼は、愛に生きるエホバ様の心を知り尽くしていました。
 その光に照らされた己が心を知る故に妬まずにはいられぬ己自身も知っていたことでしょう。
 愛を知らぬサタンを、愛する故に従う者などいないことも。
 神の心を知るサタンが、
己が卑しい魂を守る為に神の愛を捨て去る人々を守るなど考えも及ばぬことでしょう。

 神の子を殺した為にユダヤ教は、
神の真理(キリストの教え)を理解する知恵を奪われたのであり、
キリストの教えを、キリストが真に神の子であることを覚らぬ限り、
神の救いに与る価値を認められることはないでしょう。

 神と共に生きるものでないなら、神のイスラエルではありません。
 イスラエルは神の与えられた名前です。
 神に在らずしてその名を名乗るのは、神を詐称するサタンと変りません。
 それこそ神を冒瀆するものです。
 神の呼びかけを神と認められず、サタンに聞き従うなら、
神の救いに背を向ける、イスラエルとは名ばかりの国であり、
その存続はサタンの手先としての意味しか持ちません。
 彼等は自ら望んで生きる世界が地獄と思わぬ程、その心を悪魔に委ねていることも解りません。
 彼等は自分の国を強くする(犠牲者によって明らかにされる自らの力を誇る)、
自らを地獄に繋ぎ止める鎖を強固のものにして満足しているのです。

 ユダヤ民族による国家でなくとも、世界中でその国の民としてユダヤ人は生きてきました。
 日本人の中にもその血は流れております。
(神の御意志を伝える)メッセージがイスラエルではなく
(ユダヤ民族の末裔である)日本であったのは何ゆえか。
 イスラエル人は神の心を捨てたことも省みることなく、
神の思いの伝わる心を失ってしまった、彼等には悪魔の思いしか伝わりません。

 神の御意志(たとえ正しく受け取っていなくとも)に生きることを
心の支え(アイデンティティ)としているユダヤ民族の誇りを踏み躙り、
神を捨て悪魔に従った民族へと(悪魔の望み通りに)貶めているのがイスラエルです。

 神に生きることを願う、真の神の前に遜(へりくだ)る心さえ失わなければ、
善我を見失い悪魔の心を神と見紛うことなど考えられぬことです。

誇るべき心を知らぬ者を生かされるのが神です。
 神を喜びとする光に満ちた心は、自ら捨てぬ限り悪魔も犯すことは出来ないのです。
 神の心に生きている者とは、己を忘れ他の生かされることを喜びとする心です。
 愛に生きる心は己を高しとし、自分の満たされることを喜びとする心ではありません。
 神に選ばれていると自惚れ、高慢な思いに我を忘れるような心は持ち合わせないのです。)
 共産主義によって世界を手中にしようと悪魔に従ったユダヤ民族は、
神の導きによって手にしたのではない現イスラエルを、
(悪魔に従い)武力によって曾ての強国として蘇らせようとしているのでしょう。

現代に現れた神は全人類に呼び掛けられています。
 唯一の神の下に、唯一である神の法の下に善なる魂のすべてが繋がった世界が天上界であり、
天と地上を神の法の下に人々の精神を、生命を破壊者から守ってこられたことを伝えられております。
 悪魔に従う者達によって全地を地獄にすることも、
破壊衝動に突き進めば地球を滅ぼすことも起こり得る時代を迎えたからです。

 現天上界が、神に抗う悪魔の破壊から人類を守ろうとされていることを理解されたなら、
一民族の為に神の国を作るなどと言う民族的エゴイズムへと駆り立てるような神ではないことも

お解り頂けることでしょう。
 一民族のみならず悪魔の甘言に唆された同調者達(他民族、国家)の力をも結集させ、
更に彼等に敵対する国家(悪魔に魂を渡した共産主義国家、
神の心を見失った為に悪魔の共産主義へと導かれた狂信的宗教国家)をも操り

戦争に、憎しみの支配する地獄に人々を突き落としているのが悪魔であることも。
 神に盲いた魂故に、悪魔の導きとも操られているとも悟らず、
神の国再建を盲信しながら、悪魔の手先となって破壊の限りを尽くしていることも顧みられぬまでに
ユダヤ民族は盲いてしまったのでしょうか。

 調和へと人類を一つにしなければ悪魔に勝つことは出来ぬと言われた、
神の救いの御意志に、神の愛に立ち返る、神の下に生きての神の民であることも忘れて、
悪魔の下に繋ぎ止められているのです。
 約束の地カナンに導き、その心を神の民に相応しくする為に神の法"十戒"を与え、
四十年に亙って荒野で篩
(ふるい)に掛けられ、神の御心に敵うまでユダヤ民族にカナンを
与えようとはされなかったのが真の神であることを忘れたのでしょうか。

 神に背いて奪い取ったものに、土地に生きている者が、
神に従う、神に愛される心に生きているとでも思っているのでしょうか。
 そのような心を神が許されるとでも思っているのでしょうか。


 イスラエル再建が彼等の求める真の神の御意志であるか
ユダヤ民族は自らに問うたのでしょうか。
 ユダヤ民族だけを救おうとされているのが神なのではないことを、
イエス様が神の御意志を知ることだけを、神の御心に応えることのみを心とされたように、
神の思いを知ろうと、神の願われる真の救いの齎されることを、
御心に適う、神の嘉される善なる心に生きることを何よりも願い求めたのでしょうか。

 ユダヤ民族から奪った国土を取り返す為に戦うことが許されるのは、
奪った民族(の子孫であるローマ=イタリア)でしかないでしょう。
(そのイタリアからバチカン市国をかすめ取ったのがローマ・カトリックです。)
 アメリカやオーストラリアのような先住民がいても独立国家が存在していない土地に
入植して国家を作る(勿論先住民も国民です)ことは天上界も認めるところですが、
ジャンヌを立たせてフランスをイギリスの支配から解放させようとしたのが
現天上界の御意志(※2)であり、独立国家(悪魔に従う独裁国家は問題外です。
 虐げられた、神の救いを求める人々を救うのが神の御意志です。
 独裁者の言う内政干渉は許さない云々など天上界は一笑に付されることでしょう)
の主権を奪うことは天上界の容認するものではありません。

世界大戦となってからは、如何なる国家も存亡がかかっていた以上、
主権国家であろうとなかろうと、
神に従う者が勝利すると信じ、キリストに生きた連合国は(主観であろうとも)
正義か悪か、味方か敵かが何よりも問わずにはいられなかったことでしょう。
(無論、神と悪魔がそれぞれの国の指導者の良心に、また邪心に働き掛けました。
 連合国側だからと神の手前、悪魔が遠慮したのでもありません。
 原爆を落とさせたのは言うまでもなく悪魔の働きかけです。)

 連合軍が、悪魔の傀儡であるナチス・ドイツに勝利する為に、
ナチスを憎悪するユダヤ民族の力を必要とし、
曾てのパレスチナの地にイスラエル再建を約束したのであれば、
神に生きる人類の為に、已むを得ない判断であったように思われてならないのです。
 国連によってイスラエル、パレスチナ双方が独立国家と承認されたのですから、
その約束を破る、信義を踏み躙る行為は神の最も忌み嫌うことであり、
パレスチナ侵略はイスラエルがサタンの導きに従ったものであることは明白なのです。

 そのパレスチナを操るイランは、かつて悪魔の如きホメイニを指導者と仰ぎ、
イスラム教を国教とし、国家の法とする国民も
真の神の御意志を理解する知恵を奪われた民であることを天上界は明らかにされました

(「第一部 第九 章三節
  共産主義に洗脳されたイスラム教は、宗教とは名ばかりのテロである」にて詳述)
 パレスチナに留まらず中東の平和は、
ユダヤ教、イスラム教共に真の神、現天上界を見出さずしては、
互いの憎しみから、悪魔の地獄へと齎す鎖から自由を得ることは至難なことかも知れません。

 一遊牧民であったヘブライ人のアブラハムに現れた神の御使いを信じ、
従ったことからイスラエルの歴史が始まりました。

 神の導きに従う心を見失えば、
イスラエルが神から守られる(導きに与る)ことは出来ません。
 霊能力が最も強く現れるパレスチナ(聖書に記された天上界の奇跡は、
磁力の強い土地であるパレスチナであったからこそ可能であったことが
天上界によって明らかにされました)の地に於て、
神の守護される善なる心を自ら捨て去るなら、
悪魔の支配から逃れようがないことは中東の歴史から十分理解し得ることと思います。

 革命思想に洗脳されたテロリズムに生きるパレスチナと、
神の選民を盲信し、サタンの国を築いていることも悟らぬイスラエルは、
共に悪魔に弄ばれ、憎しみ(悪魔の支配)から愛(神の許し)へと
神の救いを見出すことは出来ないでしょう。

 そして中東に多く占められている石油によって、
地球人類の生存のみならず、良心的文化的生活が維持されてきたのですから、
その石油を悪魔(の傀儡)に支配された時、人類は神の御意志を、
神の愛を見出して自己犠牲に生きることが出来るか、
それとも自己保存に、自国の存続のみに生きんとする
(その為には悪魔に魂を渡すことも顧みぬ)か、
人類はどちらに従うことになるでしょうか。
 神の救いを人類から奪い取った悪魔に導かれた時、
人類は破滅に至るまで弱肉強食の地獄に生きる道しか残されていないでしょう
(自国の石油タンカーを自衛隊が護衛することさえ妨害する左翼を論破する
善なる意識すらも育てることが出来なかったのが現代の日本ではありませんか)。

罪を犯すと思えないような人に突然魔が差して罪の坂を転げ落ちる、
そういうこともあるでしょう。
 しかし権力によって大虐殺が為される時、権力者は既に悪魔の支配下にあるのであり、
さもなくばそのような狂気の大量殺戮など起きません。
(常に善霊が阻止しようとして来たのです。
 犯罪者の邪悪を咎める善霊の思いは伝わらず、
邪悪を喜び、思いを強める悪魔に聞き従うからです。)
 そのような犯罪が生まれる所に悪霊が引き寄せられぬ訳はなく、
冷酷に生きた人間の心をそのままに死後悪霊となってからは、
人の心を支配し曾ての自分のように人に悪を為さしめようとするのです。

(自分は自らの信念に生きている、神からも悪魔からも自由である、
如何なる者にも支配されていない(神も悪魔も信じない)、
宗教の世界に自分は毒されていないと思っているのかも知れません。
 実際は神の思いを感じない心に、善の波動も伝わらぬ世界に
安住しているだけなのではないでしょうか。)

 平和を齎す法によって守られてきた人々が、
悪魔に支配された宗教やイデオロギーに繋がれた人々の為す悪を非難することは容易いことです。
 正しい法を守っていても、悪魔の如き心に生きることが出来るのが人間です。
パリサイ人のように神の法を犯すことがなくとも、
神の愛を知らぬが故に神でさえ裁かぬ人々を裁くのです。

 神の心から離れたが故に罪を犯し、神に許されぬを知るが故に苦しみ、
神だけが救い得ると信じるが故に神にすがる者を、神が顧みられぬことがあろうか。
 罪を犯さずとも、心に於て罪を犯すも神の心を知らぬ故に悟らず、
権威を与えられた者の如くに己を高くし罪人を裁く、
神の愛に生きぬ者が神の救いに与る者であろうか。)

 法に生きているつもりかも知れませんが
(判断力を持たぬ故に、邪教をイデオロギーを盲信する者は、
自己満足の偽我に落ち込んでいるのであり)、
偽りの神に支配されているとも気付かず、
神に生きていると信じさえ出来れば満足なのです。

 神の心を見出し、神の心に生きていない、それに気付いてすらいない者が、
悪霊の操り人形と非難していい気になっているだけではないでしょうか。
 宗教の狂信者を中東に押し込めることで、
西側諸国は民主主義の平和の上に胡坐をかいていられたのかも知れません。
 中東を地獄に変えた悪魔の邪念が世界を覆おうとしている、
その世界は、未だに共産主義を通した悪魔の支配に打ち克つことが出来ないでいるのは、
西側の(民主主義に生きる)人々が神の御意志を悟っていないからでしょう。

 自らの国を、魂を滅ぼし、魂の自由を人から奪い取り、自ら望んでサタンの業を為す、
悪霊に支配された人々の語る偽りの正義を見抜けないでいます。
 世の善人は悪に対して何の効力も及ばない、
故に安全な所から悪を批判してそれで悪と戦っていると満足している。
 善に、神の御意志に生きていれば、
善なる心には反撥せずにはいられぬ悪霊から妨害されないでいる筈がないのです。
 善を為そうとする神の思いも感じない、神を憎む悪魔の邪心も理解していない、
神の心に生きていないからに他ないからです。

 善を愛する心のないことに、
神の心を、神の思いに繋がる心を求めて来なかったことに気付かない者は、
自らの内に悪を容認する心があることにも気付くことはありません。
 自己保存に根差した悪を締め出すことが出来るのは、
自己愛に勝る神の愛を信じ求める心しか、神の善を、正義を愛する心しかありません。

 悪魔の偽善に生きる平和など、聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことであると、
それが如何に容易に毀
(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないと
ラファエル様も仰しゃっております。
「何が正しいか解らず、何が間違っているか解らず、何が悪いか解らず迷っている人は、
天変地異に遭っている人と同じではありませんか。」とイエス様の仰しゃったのは
この日本の人々を見ておられたからではないでしょうか。

 神の為されてきた善を、救いの業を、
悪魔の為してきた邪悪を、悪魔の齎してきた(人の心の、この世の)破壊を知り、
破滅の道から人類が救おうとの思いに生きずば、
人類に救いはないと天は仰っているのだと思います。

 真の神の存在を、神の心を見出し、自らの意志でその心に生きる者とならぬ限り、
己が民族だけを愛する心(自己保存の本能の延長に過ぎません)を超えさせる
神の愛の下に生きる、真の平等の下に人類の繋がることは不可能でしょう。
(神の下に同じ正法を志す「集い」に於てすらそれが出来ませんでした。
 同じ志を持つ者と互いに信じ合っていた多くの者が、
ある時仲間を裏切る(悪霊の憑依があったことは無論です)、
それが悪魔の意志であることすら悟ることの出来ぬ心に、
現天上界を善霊を正法を信じる人々を見捨てるほどの冷酷に、
悪魔の心に堕しました。)

 悪魔の心とは、単に神の心を見失っている心を言うのではありません。
 神の心を憎む、神を、神の愛に生きる者を滅し去ろうとする心であり、
正しい心を失ってしまえばそうなり得るのが悪霊の心なのです。
 悪魔に魂を渡すという言葉は聞いていても、
ひとたび悪魔の邪悪を心とした者、善なる心を自ら捨て去った時、
二度と曾ての自分に戻ることがないことを彼ら背反者が知っていたなら、
忍び寄る邪念に恐れを抱き、真理に促され真剣に反省し自らを救えたかも知れないと思うと、
真理の前に謙虚であることを忘れさせる高慢こそ神を愛する心の敵であり、
謙虚であれとの天上界の戒めに天の思いを痛感されるのではないでしょうか。
 背反などあってはなりませんが、あり得ないとは慢心、隙だらけの心です。
 神の心を求めるなら戒めるべきものです。

 人類の歴史を通して働きかけた神の業も悪魔の業も、
人間自らの意志で為したとしか理解しない、故に悪魔が働きかけによる犯罪も、
他の国家の、民族の所為にして自らの優位を盲信する、真実に目覚めることがない。
 何時自分が、自分の民族が悪魔の傀儡になるか、
悪魔の犯罪に手を掛けるか、その恐れを理解することが出来ない。
 悪魔を恐れることすら知らぬ微温湯に生きる魂に、
悪魔から人々を守る為に戦い続けてきた聖霊の思いがどうして理解し得るものか。
 悪なる心に立ち向かうことすらない、善なる心を持たぬ者が、
罪を犯すことなく生きてこられたのは、
善霊が悪霊から私達を守って来られたお蔭であることも悟れぬことでしょう。

 日本が地獄となっていないのは、日本民族が愛を見失わなかったから、
賢かったから、悪霊の如き残酷に生きる国とならなかったと思われるのでしょうか。
 そのような慢心に生きる者は、自らの魂の堕落など知る由もないことでしょう。

 サタンに魂を渡し、キリストを十字架刑に付け、
人類を破滅へと導く共産主義をサタンと共に練り上げ、
そのサタンによって六百万もの同胞を虐殺されても、それでもサタンの邪念と悟れず、
神の心を見失いながらイスラエルの再建を求め、
カナンの地に導いているのがサタンであることが悟れない。
 彼等はパレスチナに地獄を、サタンの王国を築いていることが解からない。
 サタンに支配された者に、それを悟ることは望みようがありません。

 彼等の見ている神は四千年前の神であり、
彼ら選民を中心に世の中が動くものと考えているとしか思えません。
 キリストの心を見出せないということは、神の心を見出せないということです。
 彼等が悪魔に支配されてきたのは明らかです。

 約束の地と共に与えられたユダヤ教(モーセの十戒)のみを心とし、
その後も神の与えられてきた如何なる教えにも頑なに心を閉ざし、
神の思いを見出そうとしなかったのであり、
全地を、全ての民族を救おうとされている神の意志を理解せず、
ユダヤ民族のみを神の民とするユダヤ教のみを神の宗教であると、
イスラエルのみを神の国であると信じていながら、
そのユダヤ教の神の教えすらも踏み躙って、悪魔と共に共産主義を作りだし、
あらゆる民族を悪魔に従わせ、世界中に血で染まる地獄を齎したことを認められないのです。

 サタンに唆され、この世を支配する民族となる為に、
この世を神から奪い地獄に変えようとするサタンに魂を渡したのだから、
彼等が神に許される、神の下に帰るには、
この世を神の国にする為に生きる以外にないのは当たり前すぎるほど当たり前です。

 神の心(を持つ合体霊)を宿したアブラハムが真の神を見出し従った時から
神の栄光に生きるイスラエルが始まったのです。
 真の神の意志を理解し、この世に神の国を作ろうとすることから始まるのです。
 この世の何処であろうと、神の意志に従う者に神は共にあるのであり、
神に聞き従う心を持たぬ民族、国家を神が自らの民とされるとでも思っているのでしょうか。

 モーセ様の時代のユダヤ教徒と現代のユダヤ教徒の理解する神は全く変わらない、
真の神に一歩として近付くことが出来ない
(それまで神が人類を導いてきた思いに何も感じることなく、心を閉ざしてきたからです)。
 キリスト教徒に於ても同様です。
 現代のそれらの信者が現天上界の神を理解することは不可能でしょう。
 共産主義が悪魔の思想であると、イデオロジストが目覚めるとでも思いますか。
 私達は子孫がそのドグマに、イデオロギーに洗脳される前に、
真の神の教えを教えることは、彼等の魂を救う最大の手立てであるのは間違いありません。

※2注。
 地球人類誕生の遥か昔、三億年以上前に地球への移住を試みた
ベー・エルデ星とその同盟星の人々も
やがて地球が氷河期を迎えることで移住は絶えましたが、
地球で亡くなった彼等の霊が作った太陽系霊団は地球に存続し、
地球人類誕生後は、彼ら異星人が地球の支配者として存在したのではなく、
彼等が見出した真理、平和共存の道を共に歩む、彼等の同盟星の仲間へと導かれました。
 その導き、神の御意志を人類誕生の時より伝えるものが宗教
(人類を真の救いに導く絶対的存在を心に見出す、善なる心の支柱とすること)
であったことは理解されるであろうと思います。

 神の正義と愛に貫かれた神の法をこの世に齎す、
この世に神の国を築く、その目的を成し遂げる為に、
神の御意志を自らの意志とする神の民として選ばれた民族の為すべきことは、
他の民族の支配者(※3)となることではないのは言うまでもないでしょう。
 神々は人を生かす愛を神の教えとして伝えられました。
 自らを救うのは己自身の意志である、
自らを救おうとするその心に神の救いの思いが見出せるのだと伝えられました。

 神の御意志を知り自らの意志とせぬ者に、天の王国をこの世に齎すことなど出来ません。
 この世の宗教を見るまでもなくサタンに唆されるだけです。
 万物を生かす自然の法を見失った人類に真の生存の道を見出す知恵へと導かれました。
 人を生かす愛は、人を支配しようとする悪魔の心から、
人の心を、神の心を守ることになるからです。

※3注。
 執着からの自由を、魂の解放を教え導いてこられたのが現天上界です。
 縛られた心に幸福などないことを、
自由を見失うまで欲望に飢え渇いた心に愛は宿らぬことを、
愛を知らぬ心に幸福は存在し得ぬことを伝えてこられたのが現天上界です。
 人々に知られることなく、知られることすら望まず、神の御使いとして、
神の業を為してこられたのが、神の救いを齎してこられたのが、
現天上界の聖霊達です。

 地球を彼等の同盟星へと、地球人類を彼等と同じ善なる心に生きる同志へと導かれた彼等を、
人々の崇拝を求めるが故に人々を幸せへと導いてこられたと思うのでしょうか。

 そのような思いが、彼等を義へと駆り立てたと、
生命を惜しむことのない人への思いを齎したと思うのでしょうか。
"一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
 しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる"、そう語った方が
見出された神の愛とはそのような思いであると思われるのでしょうか。
 神の愛に生きている者が、人の愛するもの、大切に思いを掛けているものを
貪り奪うなど出来るものでしょうか。
 モーセ様を通してそのような行為を戒められた神との約束を捨て去ったのでしょうか。

 自然は善である、善に生きぬものを淘汰するのが自然を貫く法である、
人類もまたそのような法にこそ生かされるものであることを、
盲いた人類の心に灯された天へと繋がる真理の道、
天の平和を守ってきた神の法に生きることを天上界は伝えているのです。

 神の善なる思いを受け入れられぬ心が、神の法に抗う者が、
神に裁かれることを理解出来ぬ民族ではないでしょう。

 そのような神を畏れる心も見失ってしまったのでしょうか。
 神を愛する心を、神の思いに生きる幸せも見失ってしまったのでしょうか。
 神に見捨てられて、悪魔に魂を渡して得た国家に未来があると思うのでしょうか。

「(自らを高しと、選民と自惚れに生きる)
 その目するところ、これ 栄耀栄華を望む心にして、
 栄耀栄華を望むは
 儚(はかな)きことを知らざるなり。
 その向かうところは砂の楼閣のごときにして、
 手にしたるは、ただ崩れ落つる
 砂の城のごときものなり。
 空しきものよ。」(エル・ランティ様
 神を捨て悪魔に従った国の辿る道がそうであると神が言われたのです。

 ユダヤ民族に与えられた救い主を自ら殺害したことすら未だに悔改めることを知らぬ
冷酷な心に生きる民族が、それでも自らを神の選民と、己が独善性を疑うことのない民族が、
彼等に立ち塞がる者を、神に抗う者と容赦しないのは、
サタンの心を自らの心とした彼等にとっては当然のことでしょう。
 真の神に生きる心に、彼等を駆り立ててきた支配欲が生まれる訳がないのです。※3注終)

 一神教の信者は、他の一神教を認めない、
同じ神が齎したとは考えられない。
 一神教の対立が妥協を知らないのは、
唯一神を信じるからだと考えるのは正しくありません。
 神が唯一であることは間違いないのです。
 異なる宗派が同じ神を拝していることを認められない独善性、
又は信じている神が同じ唯一神であると知るが故に、
自分達だけが神に認められた宗教である(殊に最後に齎されたイスラム教は
それまでの宗教に勝るからこそ新たに伝えられたと解したことでしょう)と信じる独善性、
自分達(の宗派)の正当性を信じる余り、異なる他(宗派)を否定せずにはいられぬ、
自己保存から一歩も出られぬからに他ならないのです(※4)。

 一神教の脅威に晒されずに生きてきた民族、国家には愚かしく思われるでしょうが、
真に神の心に生きようとしなかったから、悪魔から相手にされなかったに過ぎない、
自己保存の心に生きる、偽我を育てるだけの人生を生きているだけかも知れないのです。

 マホメットがガブリエル様から伝えられたアラー神(エル・ランティ様)の法を人々に伝える為に、
剣かコーランかと人々に強制したとでも思われるのでしょうか。
(強制されず自ら求めて見出すことでしか自らの意志で真理を生きることは出来ないのであり)
神の与えた真理が人を自由にするものではなく縛るものへと変える為に、
神の教えであると信じた者の思いを操ってサタンは神の教えを強制させるのです。
 従わねば殺されるからと人々は自らその教えに従わしめる、
神の教えは自己保存、我執からの解放ではなく、自己保存ゆえに従う、
自らを縛る鎖へと変えられるのです。

 マルクス主義が如何なるものであれ、信じない者に
革命の名の下に粛清という恐怖によって信じさせたのはサタン(と同じ心)に他ならないのです。
 共産主義というイデオロギーは、真の神のあらゆる教えを捨て去った所に生まれたのです。
 神の教えを知らなかったのではありません。
 ユダヤ教のラビの子であったマルクスは神への不信に留まらず、
神への復讐心からサタンに心を許し、神への憎悪の結晶として生まれたのが
共産主義という思想(呪い)であったのです。

 ユダヤ教徒(ユダヤ民族)が神を裏切ったことを自覚し、自らの罪を償う
(人の魂を愛から憎しみへと変えた共産主義の真の姿を明らかにした神の御意志を伝える、
共産主義をこの世から滅し去る)ことなく神から愛される心を取り戻すことは出来ないし、
神の御意志を遂行する神の民に認められるなどあり得ないことです。

 今、共産主義国家の生んだ独裁者の脅威の前に、
無防備の現実に直面していることを知るものとなりましたが、
曾て共産主義国家が信用できると、取り引きして行けると信じてきた日本人は、
一流の政治家であると、ビジネスマンであると自らの実力に傲り高ぶった心が、
悪魔に魂を売った代償に得たものに他ならないでしょう。
 悪魔の傀儡(共産主義国家)に弄ばれていたとは、
魂の終る時まで悟ることはないでしょう。※2注終)

 ユダヤ教に与えられた神の救いの道はキリストの現れるまでのものにしか過ぎません。
 何故ならそのユダヤ民族を真に救いに導く為に、
ユダヤ人として遣わされたキリストの教えを知って尚、
受け入れぬ知恵なき者に、神の愛するキリストを拒む心に、
神の思いが理解されることはないからです。

 キリストの愛を受け入れぬ心に、キリストの愛に繋がることのない如何なる真理が、
神の愛があると言うのでしょう。
 真の自由を愛する心(自分だけを自由にする心はただ人を支配せんと欲する心に過ぎません)へと、
善なる心へと立ち返る、真の救いを齎したのがキリストであったのではないでしょうか。

 同様にキリスト教も今を生きる神の齎された正法の中にしか、天へと繋がる道はないのです。
 今を生きる人々は今の世に於て、その人生に於て、善への愛を、悪を見抜く知恵を養うのです。
 キリスト教は現代に現れた悪(共産主義)を見抜く知恵を、
拒絶する正義を持つことが出来なかったのです。
 神が救いへと働きかけられるこの世にあって、
(神の為される)善と(悪魔の邪心の表れである)悪を見抜く知恵に
キリスト教は生きて来なかったからです。
 キリスト教は神の正義に生きることを求めなかったのです。
 
キリスト教徒は、今を生きる神の御心を、神の智慧を知ることが出来ません。
 神の証されて来た真理(地動説、進化論)に逆らい、科学者を迫害してきたことからも、
彼等が従ってきたのは神ではないことは明らかでしょう。

 ユダヤ教やキリスト教の教えを与えられながら、サタンの邪念に反撥する神の心を養えなかった、
教義の知識を心に留めるだけで、
真理を愛する、真理に生きることを喜びとする心を自らのものとせず、
真理に渇くことなく、求めようとせぬまま、
偽我に、盲いた信仰に安住する信者はサタンに従っていることを悟ることがなかった。
 彼等が真理を見出していたなら、サタンの悪を求める心を見抜く知恵を、
悪を明らかにする善を、神の法を見出していたでしょう。
 それが出来ぬまま滅びようとしていることを覚らぬ人類を救う唯一の道、
神の法に生きる理性へと、善我へと導く正法が与えられたのです。
 正法を知れば、彼等の宗教が神を見失っていることに、
サタンに神の知恵を奪われた人々であることが理解されるでしょう。※1注終)

※4注。
"神を見失った宗教"
 神の御使いとしてマホメットの前に現れたのはガブリエル大天使であり、
ユダヤ教、キリスト教と同じ神の御意志を、教えを伝えられたのです。
 キリスト教がユダヤ教から生まれたのであり、
ユダヤ教を神の教えとしてすべて引き継いだのですから、
王が新しい城に引っ越したら臣下も新しい城に引っ越すのが当り前なのに、
王に従わず、居心地がいいからと古い城に居残っているのがユダヤ教徒の姿でしょう。
(無論、王に従った臣下が多く愛されたのは言うまでもありません)
 神を求めていたなら、神から遣わされたキリストと共に生きたでしょう。
 ユダヤ教徒は神の御意志を見出し、その為に尽くそうとする思いを持たなかったのです。
 自ら神の子(選民)であると慢心した彼等は、
真の神の子(キリスト)を見てもそうであると認められず、
自らは偽りの神の子に過ぎぬ真実を受け止められません。

 ユダヤ教がキリスト(勿論イエス様はユダヤ教徒でした)の教えに
神の御意志を見出せていたら、神の思いを見失い形骸化したユダヤ教も、
再び神の救いの思いを、愛を見出したことでしょう。
 モーセ様を通して伝えられた神の思いを、時と共に見失っていったユダヤ教徒が
サタンに導かれてゆくのは仕方がなかったのでしょう。
 サタンから救う為に、救世主が与えられたのであり、再び神が語り掛けたのです。
 神の心の目覚めずして、神の思いが伝わることはないからです。
 ユダヤ民族は自らに向けられた真の神の御心に接したのであり、
その時から真の神の思いを拒絶する心に堕したのです。

 ユダヤ教にとって、ユダヤ民族であってもキリスト教を
自分達に替わって神の意志を継ぐ後継者とは認められず、
ユダヤ民族に与えられたのではないイスラム教が、
ユダヤ教と同じ七大天使の伝える神の教えであると知って尚、
同じ神の教えに導かれた者が、神の下に互いに繋がることを拒む故に、
差し伸べられた神の手を掴むことが出来ない。

 
彼等は悪魔に手を取られていることが、邪念に縛られていることが悟れないからです。

 自分達の神だけが本物であると争っているのではなく、同じ神を崇めていることを理解しての、
神の認める神の子(宗教)は自分達だけだと争っているのであり、
骨肉の争いは他人同士の争いよりも根が深く、救いのないことは世の常ではないでしょうか。

 劇作家レッシングの『賢者ナータン』が扱っている問題もそれです。

「賢者ナータン レッシング著(白水社)」より
ナータン 遥か大昔、東方に一人の男が居りまして、
 その男が計り知れない程の値打ちのある指輪を一つ、大事な人から貰って持っておりました。
  石はオパールで、美しい無数の色に輝いておりましたほか、
 そうと堅く信じてその石を所有する人間を、神および人の目に好ましいものとするという、
 不思議な力を帯びておりました。
  従って、当然のことながら、この東方の男は、その指輪を、一時も指から離さぬばかりか、
 永久に自分の家のものとしておく手配を致しました。
  詰り、男はその指輪を、息子達の内の一番かわいがっていた息子に譲り、
 併せて、その息子もまた自分の息子達の内の一番かわいい息子に遺贈するよう、
 そして、代々一番かわいい息子が、長幼の序列には関わりなく、
 もっぱらこの指輪の力によって、一家の長になるよう、定めたのでございます。 ー
  お分かりでしょうか。サルタン様?
サラディン 分かるとも。先を続けてくれ!
ナータン そのようにしてこの指輪は、息子から息子へと伝えられて、
 最後に、三人の息子を持ったある父親の代になりましたが、
 息子達は、三人とも同じようによく父親の言うことを聞き、
 従って、父親の方でも三人をみな同じように愛さない訳にはゆきませんでした。
  ただ時折、三人の息子のそれぞれと差しでいて、他の二人のことを考える余裕がない場合には、
 いま目の前にいる息子こそ指輪を継がせるに相応しいと思われたものですから、
 律儀で気の弱い父親は、結局、三人の息子のそれぞれに指輪をやると
 約束してしまったのでございます。
  そして、それはそれで収まっておりました。
  ところが、いよいよ死ぬという時になって、このお人好しの父親は、はたと当惑しました。
  自分の約束を信じている息子達の内の二人を裏切らなければならぬかと思って
 心を痛めたのでございます。 ー

  さてどうしたものかと思案した父親は、ある細工師の所へそっと使いをやり、
 自分の指輪をかたどった別の指輪を二つ注文し、それを元の指輪と同じ ー
 全く同じように作って貰いたい、その為には費用も労力も惜しむなと命じました。
  細工師は、見事にこの依頼を果しました。
  出来上がって持って来られた指輪を見ますと、父親でさえ元の指輪の区別がつきません。
  喜び勇んだ父親は、三人の息子をそれぞれ別に呼んで、
 それぞれ別に、祝福と共に約束の指輪を与え ー そして息を引き取ったのでございます。 ー
  聞いて頂いておりますでしょうか、サルタン様?
サラディン (はっとなってナータンから顔をそむけ)聞いているとも、聞いているとも! ー
  そのお前のお伽噺、早く終えるがよい。 ー もう直ぐだろうな?
ナータン もう終わります。
  と申しますのは、これから先の経過は、当然予想される通りでございますから。 ー
  父親が死んだ途端、三人の息子達はそれぞれ自分の指輪を持って名乗りを上げ、
 めいめい自分が一家の長だと主張致しました。
  お互いに詮索し、言い争い、裁判に訴えましたが、全ては無駄でした。
  本物の指輪は、区別がつかなかったのでございます。 ー
 (サルタンの返事を予期して、しばらく間を置いたあと)
  それはちょうど、いま私どもが問題にしております本物の信仰が、区別がつかないのと ー
 ほとんど同じでございます。
サラディン 何だと? それがわしの質問に対する返事だというのか? …
ナータン 区別できないようにと父親がわざわざ作らせた指輪を
 あえて区別するだけ自信がないことを、
 御了解いただきたいと思ってお話し申し上げただけでございます。
サラディン 指輪だと! ー わしをからかうではないぞ! ー
  わしが先ほどあげた三つの宗教は、服装から、食べもの飲みものに至るまで、
 ちゃんと区別があるではないか!
ナータン 但し、内容の面だけは、区別できないのでございます。 ー
  なぜと申しますに、三つの宗教の内容は、書き物によるにせよ口伝(くでん)によるにせよ、
 みな、歴史に基づいておりましょう? ー 
  ところが、歴史というものは、
 ひたすらそのまま鵜呑みにされるほかないものでございましょう? ー
  そうではございませんか? ー
  ところで、こうして鵜呑みにされてきた歴史の場合、
 我々として、誰が鵜呑みにしてきた歴史を一番信用するでしょうか?
  自分が所属する民族、自分達の先祖、
 子供の頃から我々がその愛の証の数々を見せつられている人々、
 我々を騙した方が我々の為になる場合以外は決して我々を騙したことのない人々 ー
 こういう人々が鵜呑みにしてきた歴史を一番信用するのが当然ではないでしょうか?
  私が自分の先祖を一番信用致しますのは、
 サルタン様が御自分の御先祖を一番信用なさるのと同じでございます。
  私はあなた様に、私の先祖に同調する為にあなた様の御先祖様を
 噓つき呼ばわりして下さいとお頼み申すことはできませんが、その逆も同じです。
  このことは、キリスト教徒達にも当てはまります。そうではございませんか? ー
サラディン (神よ御照覧あれ! この男の言うとおりだ。わしには反論できん。)
ナータン もう一度、話を先程の指輪に戻させて頂きましょう。
  既に申し上げました通り、三人の息子は、それぞれ他の二人を訴えまして、
 めいめい裁判官に対し、自分は指輪を直接父親の手から貰ったと誓いました。 ー
  そして、事実それに違いございませんでした!
  また、父親はかねてから何時かはお前を指輪の特権の持主にしてやると
 約束していたとも誓いました。 ー
  これまた、それに違いなかったのでございます。 ー
  三人の息子は、それぞれ、「父親が自分に噓をついた筈はない。
  これほど自分を愛してくれた父親にそういう疑いがかかる位なら、
 他の点ではどんなに褒められても当然と思っている兄弟達でありけれども、
 寧ろこの二人の兄弟が詐欺を働いていると考えたい、
 裏切者達の尻尾をきっと掴んで、必ず復讐してやる」と断言致しました。
サラディン で、裁判官はどうした? そちがその裁判官にどう言わせるか、楽しみだ。話せ!
ナータン 裁判官はこう申しました。
 「今すぐにもお前達の父親をここへ連れて来るのでない限り、とっとと帰って貰いたい。
  一体お前達は、わしがここに座っているのは謎解きの為だとでも思っているのか?
  それとも、いっそ本物の指輪が口を割るまで待とうというのか? ー
  だが待てよ! 確かお前たちは、その指輪には、持主を人々に好かれる人間にし、
 神および人の目に好ましいものにする不思議な力があると言ったな。
  これがキイ・ポイントになる筈だ。偽の指輪には、到底そういう力はないだろうからな! ー
  さてと、お前達のうち二人が兄弟中で一番愛しているのは誰だ? ー
  さあ、言え!
  言えぬのだな? 
  お前達が持っている指輪は、内に向かって働くだけで、自分以外の人間には効力がないのか?
  お前達は、めいめい自分だけを一番愛しているのか? ー
  もしそうだとすれば、お前たちは、三人共、詐欺にかかった詐欺師のようなものだ。
  お前達の指輪は、三つとも偽物だ。本物の指輪は、多分なくなってしまったのだろう。
  お前達の父親は、そのことを隠す為に、その代わりとして、
 元の指輪の替え玉に三つの指輪を作らせたのだ。」
サラディン 素晴しい! 実に素晴らしい!
ナータン 「そこでだ」と裁判官は言葉を続けました。
 「そこでだ、お前達がどうしても判決が欲しい、忠告なんぞは欲しくないと言うなら、
 とっとと帰って貰おう! ー
  しかし、忠告でもよいと言うのなら、この事件は、ありのままに受け取るがよい。
  詰り、お前達は、めいめい父親から指輪を貰ったのなら、
 それぞれ自分の指輪は本物だと確り思い込むのだ ー
  お前達の父親は、たった一つしかない指輪の持主が一家の長になるという家風を、
 これ以上続けさせたくなかったのかも知れんぞ! ー
  そして、確かなのは、父親がお前達を愛していたこと、
 そしてお前達の一人をかわいがることが、
ほかの二人の不利益になるようにはしたくないと思っていたことだ。 ー
  これで決まった! お前達はそれぞれ、父親の偏見のない公正な愛を、見倣うようにするのだ!
  お互いに競争して、それぞれの指輪の石が持つ力を発揮するよう努めるがよい。
  そして穏かな心、優しい協調性、善行、熱烈極まりない神への帰依などによって、
 石がその力を発揮できるよう手を貸してやるのだ!
  そしてお前達の遥か未来の子孫の代になって、それぞれの石の力が表れて来たら、
 何千年何万年先のことか知らんが、
 わしはそのお前達の子孫をもう一度この法廷に呼び出してやろう。
  その時には、わしよりも賢い裁判官がこの椅子に座っていて、判決を下すだろう。
 行くがよい!」 ー 
  経験豊かな裁判官は、こう話したのでございます。』※4注終

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)

 (三) サタン・ダビデの人格についての千乃先生の証言
「天国の光りの下に(78年12月初版)」303頁 千乃先生解説より
&「エルフォイド(82年4月初版)」172頁

サタンは善霊の責務を妨害し、ルシファーを脅迫し地獄霊を恣意に行動させることによって、
三次元社会の知的道徳的破壊から戦争による実質的破壊へと一気に持って行こうとしたのです。
 このことはルシファーによって証言されました。

 これはダビデのエル・ランティ様に対する挑戦であったのでしょう。
 表面は知的ゲームの如き印象を与え、
善霊と知力と能力を尽してこれらの混乱と破壊を元の秩序ある社会に戻せるか否か、
と常に問うていたのです。
 ダビデの底知れぬ邪心によって、
霊の社会に於て三次元の混乱は単に知的ゲームの材料とされたのです。

 霊体としてのダビデは病的に歪んだ性格を持つ二重人格であったに違いありません。
 そして他の善霊の心理を操る天才でもあったのでしょう。
 常に虚言で表面を繕い、三次元の悪はルシファーと地獄霊の所為にしていました。
 そしてエル・ランティ様の転生にはダビデは精一杯の好意を示し、
断罪を受けぬように用心していたのです。
 守護霊を唯一の連絡、伝達の手段とする天上界では
ダビデの為すことを善霊達がエル・ランティ様のお耳に入れなければ、
すべての謀略は知る由もありません。
 能力を持つダビデは嫌われると同時に恐れられてもいたのです。

〖備考1
 ダビデは、永遠の生命を与えようと善霊を唆したのですが、
神を裏切るような者を、ダビデは信じることもその生命を守るために、戦う気などなく、
天を滅ぼし己の王国を築くことを望んだのに過ぎませんでした。
78年2月、善霊と悪霊の死闘の末、ダビデが神々の前に「疲れたから殺せ」と身を投げ出し、
消滅されたかのように見せて姿を消し(己の生き伸びることだけを考え)た際、
ダビデの参謀達は、首領が消滅されたと思い、戦意喪失し、天上界によって壊滅されました。
 天を裏切った善霊達は、それが判りませんでした。
 それ程天上の死闘が凄まじく、天上界が劣勢であると考えたのでしょう。
 天の仲間が次々に死んで行く中で、彼等の心は、悪への怒りではなく、
魂の永遠の生命を失うことの恐怖に支配されました。
 その心を見抜いていたダビデは、彼等の前に現れ、
(ダビデに殺されることを悟ったに違いない)善霊達に向って、
仲間になる気があるなら永遠の生命を約束しようと信じさせ、
愛の神を裏切った霊達の心から神の座を奪いました。備考1終〗

〖備考2
 左翼は、共産主義国家の覇権主義には目を瞑り、
イスラエルの侵略のみ声を大にして非難します
(パレスチナは左翼(テロリスト)の居城だからです)。
 世界を共産主義化することが人類に幸せを齎すと、侵略を解放という名で自他共に騙す、
自らの偽善の為には人の善を破壊する独善に、偽我(悪魔の心)に生きる者です。
 共産主義思想が人々の母国を、民族を愛する心を、独立の精神を破壊し、
全世界を共産主義思想の下に隷属させる、世界を支配せんとする、
神をも恐れぬ力のみを信じる左翼が解放したものは自らの獣性であり、
人間性を捨てた獣に堕したのです。

 イデオロジストにとってロシアや中国の覇権は、
世界に共産主義思想を洗脳させる(悪魔の福音を伝搬させる)悪魔の使徒の表れに外ならず、
共産主義思想という宗教(呪い)の信者における悪魔の道を導くものです。
 共産主義思想の前に跪かない如何なる民族も、国家も存在を許さないのです。
 ロシア、イラン、パレスチナはソ連の時代から共産主義で繋がり、
暴力革命(テロ)という力の解放を、神の心の破壊を目指してきたのです。
 ロシアやパレスチナ(ハマス)やイランを非難しない人々は、
嘗て米国の核武装を非難し、ソ連を全く非難しなかった(平和運動と名乗る)活動家と同じです。

 右翼や左翼といった言葉に惑わされてはいけません。
 右翼というのは左翼への対立概念にのみ存在意義があるのであり、
左翼が存在したから右翼といわれたに過ぎず、本質は国家への、民族への愛なのです。
(極右は愛を齎す心を顧みるゆとりを、中庸の精神を失った人々です。)
 右翼と左翼の違いは、
神(の心)を、救いを求める人々か、悪魔(の心)を、人の破滅を不幸を喜び、求める
(その心は自らの心をも破壊することを知らない)人々かに過ぎません。
生きるべき道は唯一です。左翼の詭弁に騙されてはならないのです。

 極右マルクスはユダヤ民族を虐げてきた他の民族への復讐の為に、
ユダヤ民族が世界の支配者となる為に、
他の民族を被支配者へと、獣へと貶めるべく共産主義を信じ込ませたのであり、
自らは民族主義者、極右に過ぎなかったのかも知れません。
 他の民族を地獄に落としてでもユダヤ民族さえ救われればよい、
愛を捨てた民族主義者から悪魔の思想(共産主義)が生まれたのです。
 マルクスが自ら生きるべき信念として見出したのが共産主義ではない。
 他民族を破滅に導く為の指針が共産主義であったのです。
 マルクスも現イスラエル首相も、キリストに王位を奪われまいと
自己保存から嬰児を悉く惨殺したヘロデ大王と変らぬ、
サタンと心を同じくする冷酷な心に生きる者達であったのでしょう政権の現イスラエルも極左も、
その先の破滅を悟れない極端へと突き進む、理性を持たぬ人々であり聞く耳を持ちません。

 共産主義を生み、今も共産主義の邪悪を悟れぬユダヤ民族は、
ソ連によって革命思想を植え込まれてきた中東のイスラム教指導者は、
理性を拒み自己保存に、欲望に従う偽我に生きる者は
理性(神)によって破壊(淘汰)されることを思い知らさない限り、
自らの愚を悟ることが出来ないでしょう。

 犯罪者も、被害者であっても、
神の心を自ら捨て悪魔に従う者も、自らの神の心を破壊された者であっても、
理性(の働く神経細胞(前頭葉)の委縮、不活性化は悪霊の憑依によっても起きる)
を失った者を天が救うことは出来ない、
愛するに値しない(しなくなった)者とは、
神が愛される心を最早取り戻すことの出来なくなった者であり、
神の愛を受け取ることの出来なくなった者であり、
悪魔の支配から、滅びの道から自らを救おうとしない者を救うことは出来ない。
 悪魔を、悪魔の業を非難するだけで悪魔に勝てるとは思われないでしょう。
 自ら真の神を見出していない(神の御意志に生きようとしない)者が
悪魔の支配を受けないでいられる訳でもありません。

 悪(の力)を前にして、自己保存の本能に支配され、
悪の力を拒む心(善)を捨てる、悪に従う心となる、悪の観念を受け入れるか、
自己保身に負けぬ、悪に屈しない善を、神の善への御意志を自らのものにする
(それが天の示した道です)、神の導きに心を尽くして従うか。

 人類を悪魔の心へと導いてきたサタン(ダビデ)は、
神エホバに替って自ら神になろうとした者です。
 今生に於ては彼等は王族であり、血を分けた親族であり、
ダビデにとって兄(天に於て神)を、また甥(天に於て大天使達)を滅し去ろうとしました。

 神を愛してきた善霊の心を堕落させ、天に背反させるほど
人の心を操る術を知り尽くした者でした。
 悪を憎む心に、苦しむ者を救わんとする心に、
己が正義を愛を誇る、己を高しとする増上慢(偽我)を注いだのです。

 生命を失う恐怖心に打ち克つ真の善を愛し信じてきた心を、
神の心を持とうと神への思いに生きてきた心を、
この世に求める、執着する(人々の賞賛、偽りの愛を喜びとする)心へと誘いました。
 生命を失う恐怖に陥った者を、自らをエホバに替り天を支配する者、
永遠の命を与える者と信じさせました。

 永遠の生命を約束することで生命に執着させる、
執着心に理性を奪われた魂は悪魔の思うがままに操られ、
魂を失う不安に憑りつかれた心は、
嘗ては己が生命も顧みぬ神への愛に満ちた心から神への信仰心を奪われ、
神は自分の命を守ってはくれぬと神を信じる心を失った魂は、
悪霊の邪念に反撥する善なる思いも失ったのです。

 真の神を見出せぬような盲いた者に、悪魔の甘言を見抜く知恵は持てません。
 そのような者が、真に人類の救いである神の道を歩むことはが出来ません。
 そのような者に人類を導かせてはなりません。
 悪魔とは真の神を、その心を知っての、
憎しみに、天を滅ぼす為なら自らを憎しみに焼き尽くすことも辞さぬ心です。
 真に(神に抗う)悪と戦うことが出来るのは、
神に繋がった者であり、真の神を知る知恵に目覚めた者でなければ出来ないのです。

 悪魔は、人が信じるまで正しいことを言って、信じたら騙して間違った方に導くとか、
九割正しいことを言うが最後に人を騙すのが悪魔のやり方であると言われますが、
例えば日本共産党が「イスラエルによるパレスチナ人虐殺を許しません。憲法九条を守ります。」
と偽善者に相応しいラッパを鳴らしているのが、正しくそれです。

 正しいと思われることを言って人を信じさせておいて、
人の判断を誤らせる、間違った指針を信じ込ませるのです。
 詭弁とか論理のすり替えと言われるものです。
(目的が正しければ(そう信じているだけであろうと)如何なる手段も正当化されるとは、
精神の歪んだ共産主義者の信条のようですから真に受ける方もどうかしているのでしょう。)
 こういうやり方は左翼だけでなく、一般人もそうとは気付かずに言います。

 例えばイスラエルのパレスチナ侵略という犯罪を、
いきなり何千発のミサイルを撃ち込まれた挙句に、人質を取られたなら、
人質を奪還するのは当然()で、
一緒くたに論ずる知性なき者に解決など出来る訳がなく、
自らの言動に何ら責任を抱く誠実さも持ち合わせていない者です。

 八正道を行う知恵に生きる者でなければ、正しい道を歩めないであろうし、
憎しみ合う、自分が有利になることしか考えぬ敵対者双方に、
何が正しいか、即ち神の正義に適っているか理解させることは不可能でしょう。

 自分達の判断基準、自分達の宗教がどちらも真の神を見失っていることが理解されない内は、
自分達の誤りを受け入れる知恵を得ていないのであり、
神の正義に従う心を、人を許す優しい神の心を見出さぬ限り、
憎しみに歪められた心から抜け出す、互いに和解を望むなど夢のまた夢です。

 正法を真の神の教えであると直観し、今天上界メッセージを学んでいらっしゃる方は、
神々の語る真理を知って、それまでの自分の判断基準や真理と信じてきたものが
彼等の教えに適っていたと思われる方がいらっしゃるでしょうか?

 天上界が理性に生きる人々ならきっと正法が理解されるであろう、
天上界がその思いを掛けられた人々ですら限られた者にしか正法が理解されなかったのです。
 神に盲いた、形骸化した宗教のドグマに支配された、
硬直した精神に真理が理解されると思われないでしょう?

 正法を学ばれた方は、真理だけが人を救うことを
(人類の不幸が偽りの神、悪魔を見抜けないできた、真理に盲いてきた為であると)、
人類を救おうと神が為されたことは、神々の生きる天国の法をこの世に齎そうとされたこと、
真理に生きる心を持たずして、自らを救うものはないということを理解されることと思います。

 神々が正法流布を私達に託された思いも皆様の心に伝わることでしょう。

注。
 その為に取った手段は言語道断ですが、
現在の日本のように北朝鮮に拉致された同胞を取り戻すために、
敵が音を上げて人質を返すまで締め上げる所か、ミサイルを撃ち込まれているのに、
未だに悪に立ち向かおうとしない
(報復する意志を示さない、報復を可能とする憲法へと改正すら出来ない)、
邪悪に生きる彼等に喜びを提供している、邪悪な実を結ぶ心を育てている訳です。
 悪に立ち向かって平和を、生命を、国を失うより、
反抗(反論)は一切許されぬ奴隷となっても生きていたい、
そのような支配者に跪いても生きていたいと考えるのでしょうか。

 モーセ様に導かれて脱出したエジプトでの奴隷生活に、
再び連れ戻されぬよう四十年に亘って荒野の中を耐え忍び、
神への信義を通したユダヤ民族の末裔とは思えないのは日本民族ばかりではありません。
 現イスラエル国民は、神への信義に生きた曾てのユダヤ民族の、
神の預言者の魂に泥を塗った真の裏切者であり、
呪われた共産主義者の末裔です。

 ナチスの残虐を世界中で共産主義者(革命の信奉者)が行ったのです。
 共産主義者の冷酷がイデオロギーに内包されているとは、
イデオロギーによって齎されたとは理解されなかった共産主義を、
邪悪な資本主義から人類を救うものと信じた心情左翼のメディアは、
革命家達の行った残虐さえも口を拭い、共産主義の偽善を見抜く者は皆無でした。

自分の、民族の、宗教の、イデオロギーの悪を見ず、
人の、民族の、宗教の、イデオロギーの悪を非難するを偽善と言い
偽善に生きるとは真理に盲いた者であり、常に悪魔の甘言に神を神とも思わぬ高慢を満たし、
神、真理に己を低くする謙虚な心にのみ見出される真理を理解することが出来ず、
偽りの真理に従い、神の抵抗者、サタンの道を行くのです。

 戦争に、虐殺に抗議している人達の掲げる人類愛がすべて真のものであるか、
真の平和へと導いているでしょうか。
 人間を食うか食われるかに生きる獣に貶めている、
平和を捨て殺戮へと人間を駆り立てている、
神をも恐れぬ冷酷に生きている悪魔のその憎しみの、怒りの塊に対峙する時
(己が魂を失う)恐怖に怯むことなき善への、人類への愛を本当に自分は持っているのか、
自らの安全を知る精神のゆとりの内に、己が人類愛に善意に溺れ、
己が精神の弱さに向き合い魂の研磨(それしか精神を鍛えることは出来ません)
に努めることを忘れるようでは、
自ら正法者と自惚れの内に、天上界に背反し仲間を悪魔に売った者達と
同じ道を行くことになるかも知れないとの危惧も持たないのでしょう。

 神を裏切る程の自己保存の思いの強さを、(信念に生きんとする)心の弱さを知ったなら、
如何な善行を為したからと、己が信念を誇るような慢心を、
偽我を見逃すことはなくなるでしょう。
 人間の悪に従う心を知ったのなら、偽善を見抜けない良心など良心ではないと、
善と悪を峻別する知恵を求めず、平和を約束するなら悪魔も神と見紛う盲目の内に
滅びの道を導く者に従ってはなりません。

 イスラエルによる殺戮という非難されるのが当然のことを、
非難しているからと共産主義者の偽善を悟らない者は、
曾て悪魔の超大国ソ連が日本を侵略するなら、白旗を振って歓迎しようと言った
彼等の邪念に生きるを平和とする心を見抜かなければならないのです。
 真にこの国を侵している悪魔の思想にも気付かぬ者が、
自らの犠牲の前に怖気づき真理への真の平和への思いを悟らぬなら、
永遠に卑屈に生きることの絶望も悟ることの出来ぬ精神しか残されないのです。
 それを望まぬなら強い意志を持つしかないでしょう。

 偽善者の自己保存に生きることしか考えぬ
卑屈な精神に生きようとも不屈の自己愛に生きる方が、
永遠に神の愛を理解することのない盲目のナルシストとしてでも存続する方が、
盲いた心であろうとも自分を責めることのない自己愛に生きる方が、
神の愛に生きる苦難を犠牲を免れられるならその方がよいと、
この世が地獄となって、人類は悪魔の末裔となり、
天上界は悪魔の支配するものとなってもどうでもよいと、
そのような魂となってもよいと、
それが真の望みであると神に向かって言うのでしょうか。

 神に愛さることのない、自分の心すら恐怖に過ぎぬ闇が残される、
そのような心に生きるとは絶望以外にないではありませんか。

 世界平和を真に望んでいるつもりでも、
神の意志を知り神に従う心も養うことなく、
悪魔に屈してきた人間の心の弱さをも忘れ去る者に、
悪魔の誘惑の内にその魂胆を見抜く知恵など持ち得ないでしょう。
 自らの内に神の御意志に生きる神の心を見出せぬならば、
己一人すらも悪魔の支配から救うことは出来ないということです。
 そのような者達が如何に容易に集団憑依されるものか、
幾らでもこの世に見出せるのではないでしょうか。

 悪魔がどのように人の心を侵して行ったか、
世界を地獄にせんと虐殺の限りを悦びとする悪魔の邪念は、
神への、愛への憎悪なくしては生まれません。
 神の愛も悪魔の憎しみも知らぬ人間が自らの意志で、
自らを焼き尽くすような殺意を持てるものでしょうか。
 能力のある霊の念の強さ、また世界中を瞬時に移動する能力から、
彼等の働きを受けずして彼等の業を為し得た者はおりません。注終)備考2終〗

"イスラエル問題の一考察"
 現イスラエルは神の与えたものではありません。
 ユダヤ民族の齎した共産主義思想は、現天上界の人類救済への、ユートピア計画への破壊行為
(人類の精神向上以外に人類の救済はないのであり、
革命によって人命を奪うのみならず、人の神の心を破壊し、悪魔の心を植え込むもの)であり、
真に神の民イスラエルによる、神の信頼への裏切りであり、天に大罪
(個人に於ては消滅に相当する罪、民族に於ては神の民イスラエルの(責任)放棄)
を犯したのです。
 今もユダヤ民族はその罪を悔い改めることをせず、更に罪を犯しています。

 二千年前にユダヤ民族はイスラエルをローマ帝国に略奪され、
そのローマ帝国も存在していない以上、イスラエルは最早存在しないのです。
 ローマ帝国のように歴史から消え去ったものなのではないでしょうか。
 それを国連、地球上の国々による民主主義
(多数決でもされたのでしょうか?)によって
(無論反対意見の国もあったでしょう)
イスラエルをかつてのカナンの地、現パレスチナに建国出来たのです。
 ホロコーストの苦しみへの、全世界がユダヤ民族に差し伸べた救いの手であり、
優しさを与えずにはいられなかったのです。
 優しさ以外に与えるべきものなどないことは、人の心を持つなら誰もが解っていたのです。
 真にユダヤ民族がその思いを受け止める心を見出していたなら、
優しい思いに立ち返ることが出来ていたなら、パレスチナ侵略は起こらなかったでしょう。

カナンの地は、聖霊が人々の目にその姿を現すことの出来る土地として選ばれたものです。
 またカナンは天上界の方々が地球に初めて降り立ったエルデン
(エジプトのナイル川下流)に近く、彼等の馴染の地でした。
 天上界がイスラエルの民を善導する為に関与し続けたことは、聖書に記載されており、
また天上界自ら「天の奇跡(岩間先生著)」に証言されております。

 聖霊が姿を現すことの出来る土地であろうとなかろうと、奇跡は悪魔も可能であり、
人々が天のものと判別しかねる為、天は奇跡を行わないと宣言されています。
 ですから嘗ては磁気の強い土地故にカナンが神の国に選ばれましたが、
もはやその土地が神の国として選ばれる条件ではなくなったのです。
 ユダヤ民族が、かつての国土に国家の再建を求めたのは、
天上界の意志とは何の関係もないことが明らかになったのです
(天上界が彼等の前に姿を現すことはありません)。
 そして人類を善導するに有利となる、嘗てのイスラエルのような、
他より傑出した一民族が選民として存在し得る時代ではありません。

 実際に天上界は善霊による合体を通して全ての民族を善導されたきたのです。
 勿論現イスラエルの知る所ではありません。
 彼等は今もイスラエルは神の国であると信じていることでしょう。

 神は全地を神の国にする、その為に信頼出来る民族を選びました。
 その民族の前に神の存在を、その意志を明らかにされました。
 イスラエルを滅ぼしたのは、神の名にかけてキリストを悪魔と見做し殺害した者達、
ローマ(サタン)に通じた一部の宗教権力者でした。
 イスラエル存続の為、ローマと戦った人達も多くいましたが、内部から滅びていったのです。
 預言者を通しての神の警告に耳を貸さなかった為に滅びました。
 二度と神の国が与えられることはないと、神への呪いと共に、サタンの邪念と共に、
悪魔の思想を生み出したのです。
 悪魔と共に神に抗ったユダヤ民族が、その罪(共産主義によって何億という人々が、
その人生を、人としての心を破壊され、自らの、また家族の生命を奪われた)を償う
(共産主義を滅ぼすまで戦う)こともしないで神に許されることはない、
悪霊の介入から守られることはないということです。

 現イスラエルが悪魔の傀儡として破滅するのを防ぎたいのなら、
彼等の悪事に一切手を貸してはならないのです。
 悪魔の心を満たす為に過ぎないのに、それでも手を貸そうと思われるのでしょうか?
 神に背反すればその者が破滅されることはお判りでしょう。

 テロ支援(イスラム原理主義、共産主義、侵略主義)国家をどうするかは、
神(現天上界)に従う、悪魔に屈しない意思を持つ真に善なる国々が
心を一つにして考えるべきことであり、
自らが蒔いた共産主義思想という悪魔の種を摘み取ろうとせず、
自らの罪を償おうとしないユダヤ民族に、
己が正義を、人の悪を言う資格があるでしょうか。

 テロによる犠牲を強いられてはならない、
テロを許してはならないのはその通りでしょう。
 しかし己自身の悪と戦うことが出来るのは、
己自身の善なる心以外にはないのであり、
真の善を、神であることを知った上で憎む悪魔に心を渡した者どもと戦い得るのは、
真の神を見出した者達でなければ、その戦いの苦しさに負けぬ自らの神の心を貫くことは
困難であろうと思います。

 ユダヤ民族だけではなく、あらゆる民族が真の神を見失った上に、
神の民であるが故にサタンの標的とされたとは言え、
ユダヤ民族は選民意識から神に最も近い民と信頼されていると慢心したのであり、
自分達は神の民であり、自分達のすることは神の御心に適っている、
そのような選民意識が悪魔の甘言(自らに語り掛ける言い訳、自己弁護となって現れるのであり、
悪霊の邪念と見破り自らの罪に反省を齎す善我を奪うのです)
に操られて生きてきたのです。

 神を見失った者とは、神の言葉を知っていても、教えに従っていても、その心を知らない、
その心を見出し、自らの心に生きようとしてこなかった、
神の心を自らの心に見出せないでいるのは、
悪魔の邪念に繋ぎ留められていることを悟ることがなかった者です。

〖参考
「JI」82年9月号初出 P31 "読者への連絡"より(千乃先生記)
「大体私に納得が行かないのは、九つ以上のグループの内、
三つだけが真のパレスチナ解放の民族運動で、後はマルキシストグループ、
日本赤軍の本家が隠れ家にしているPLOに、何故世界のマスコミが何となく諂(へつら)い、
周囲の国が分散グループを正式に受け入れ(エジプト迄も!)
将来の彼等のテロ組織の再建に手を貸し、
国際テロの蔓延を図るテロリストをレバノンから追い出したイスラエルを非難する向きがあるのか、
ということです。

 アラファトさんが前非を悔いて、二度と民衆の一人としてテロを巻き添えにしない
(テル・アビブ空港はほんの一例。テロ件数一万件で死者約一千人、負傷者約五千人。
犠牲者は国籍を問わず)と誓った訳でもないのに。
 凶悪犯罪を手段として国土を確保するような集団を
心情的に(??)何故世界が判官びいきをチラツカセルノカ!

 パンナム機に爆発物を仕掛けたのは自称(?)モロッコ人(アラブゲリラの疑い)とか
(中国人の左翼の線は非常に薄い。彼等の倫理観からすれば国際テロはやりたがらない)、
殺人には発展しなくても、相も変わらぬ銀行や農協や小学校に迄手を伸ばす千万、億単位の現金強奪、
窃盗事件 ー 一般人は刺激されてフラフラとやるだけで、主流は厳として左翼による犯罪。
 奪われた現金が二度と発見されないのはどんどん過激派が生活費に費う、
PLO赤軍メンバーに送金する ー こういった対象が無差別の犯罪は倫理観の無い、
世界のあらゆる階層のムシャクシャ、イライラ族に解放感を与えるんでしょうね、恐らく。
 個人の恨みや嫉みを何らかの形で満足させてくれるのでしょう。」参考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法