第一部 天の教え
第一章 天の歴史
六節 サタンによる天の計画の妨害

 (一) 神についての正しい理解を阻む
「天国の証(78年8月初版)」62頁 エル・ランティ様メッセージより
「私自身も直接あなた方に話し掛けることにより
地上との心の交流を増やそうと心掛けてきましたが、
その度にサタンの巧みな妨害により、
旧約の時代には私についての歪んだ伝説が作り上げられ苦労を致しました。
 神の怒りとされたものの中にはサタンの破壊も混っていたのです。

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
六節 サタンによる天の計画の妨害

 (二) イエス様の贖罪の死を計画したサタン
「慈悲と愛」82年3月号8頁 千乃先生解説より
「最も残虐な方法で(イエス様を)死に至らしめ、
天を悲しませるのが目的でエル・ランティ様にあのドラマをその昔提案したのです。
"最も人を感動させる、人類を救う近道"として。
 あのような形の死 ー
十字架刑の最も凄惨な形を、天は決して望まなかったのです。
 少しずつダビデが人を介して予告させた刑死の方法が、あのような物であるとは、
エル・ランティ様は想像されたくなかったのでしょう。
 天の王のお仕事の忙しさに取り紛れて ー
七大天使のみがそれを悟り、何とかエル・ランティ様に進言を試みておられましたが、
巧妙にも何時もダビデが側に居り、それを歪めてごまかしてしまったのです。
 そして何よりも巧妙に(祖父である)エル・ソラッティヤ王に取り入り、
ソラッティヤ王がダビデへの正しい理解を阻みました。」

「JI」85年12月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」35頁

「凡そ犠牲による、血を流す供物(くもつ)や燔祭(はんさい)の儀式は、血の臭いに満ちた、
常軌を逸した礼拝であり、人の理性を狂わせてしまうものであることに目を向けてみて下さい。
 イスラエルの宗教の供物に伴う必然的な事柄が、動物を殺して血を流すことであり、
祭壇にその血を注ぎ、塗り付けることであり、供物無しに礼拝は許されなかったという所に、
神の美名の下に悪魔的なものが厳存した※1)点に注目して頂きたいのです。

※1注。
 天上界高次元の聖霊(神々)は、イエス様の十字架を避けたかった、
「救い主」による人類救済は十字架によって実現されることを
天上界最高権威である神 = エホバ様に信じさせたのは、弟であるダビデでした。
 イエス様の十字架を企んだのはサタンであることを神々によって証言されました。
 仮令人類救済という愛からであろうとも、神の子に十字架を科すことは、
神々には耐え難いことであったと告げられました。

 クリスチャンはそのように語られた神々を神と信じることは出来ない、
真実の神(の心)と相容れぬ神を信じ込まされてきたのがキリスト教という宗教です。
 人類から真の神の御心を見失わせ、サタンの心を崇めるべく
サタンによって作られた虚像を神と崇めてきたのがキリスト教です。

 天の救いとは、神の法に従うことで、罪の力から自由を得させるものであり、
神の子の贖いの死によって齎されるものではない。
 その後の人類の堕落がその証拠です。
 信仰とは神の法を信じる、法に生きることが自らを救う、そのように天が導かれている、
そのように信じ、生きる者に天の救いは齎されるのです。
 イエス様の十字架の贖罪死が天の望まれたものではないことが理解出来ない心は、
サタンの冷酷な心を宿しているのです。
 真の神の言葉を理解出来ない、そのような精神構造になったクリスチャンは、
真の神の救いを阻んでいるのが人間の拵えた宗教であることが覚れないのです。
※1注終)

"汝殺すなかれ"と戒められた天の父が、犠牲を供物として殺し、
血を流すのを聖なる儀式とされるのは、正常な解釈では矛盾しているのです。
 慈愛に満ちた神が何故イエス様の殺人を黙認なさったか。
 血生臭い礼拝を喜ばれるとされたのは何故か?
 そこに私達が証した天の悲劇
天王エホバの最も近き所にサタン・ダビデが居り、
しかも天王を自らの意に従わしめていたことが証明されるのです。
 私達が如何に天王に逆らえましょう。


「その為に神の光を求め、愛に従う人々が、サタンの教えを身に着け、
流血を何とも思わない、異端者を火刑にするキリスト教会や共産主義思想のキリスト者や、
聖戦を口にして好戦的なイスラム教徒を生み出すことになったのです。」

イエス様の十字架の贖罪がある限り、それを信じる者を狂気の道から呼び戻し、
私達真の天が説く、良識的で正しい人生を歩ませるのは、不可能に近くなったのです。

 これはクリスマスが近付く度に、私達が思い出さずには居られない暗い過去の物語であり、
彼等に救いがないという点に於て、希望のない未来でもあるのです。」

〖備考
 詩人バイロンの劇詩に「カイン」があります。
 物語のクライマックスは、神に捧げものをするため、カインは穀物を祭壇に供えます。
 弟のアベルは生き物を殺して生贄を捧げました。
 神は、カインの供えた穀物を風で吹き飛ばし、アベルに殺された生贄を喜ばれた。
(生贄の血の匂いを煙らせて、天に立ち昇っていくとの表現に、
生贄を喜んでいるのが誰なのかよく表れています。)
 神が血を喜ばれるなら、神を愛する者の血は一層捧げる値打ちがあるに違いなかろうと、
アベルにお前自身を神に捧げよとカインは殺してしまいます。

 生き物を愛し、生かされることを何よりも喜ばれるのが神
(空の鳥、野の百合の譬え(※2)の通り)であることを知るなら、
悪魔はその心と全く逆の心を神の心と思わせるため、
悪魔の(生き物を殺す)喜びを人間に吹き込んだのです。
 その喜びを聖なるものと信じさせたのです。
 生贄を神は嘉するものと聖書の中に書き記させました。
(一字一句聖書の言葉は神によると信じる者の頑なさは、神を知る智恵を奪われた人々です。)

 サタン・ダビデが兄の天王エホバ様に、自らには罪から逃れられる力の無いユダヤ人に代わって、
罪の力の及ばぬ神の子の血で清めることでしかユダヤ人を神の下に救い出すことは出来ないと、
エホバ様を無理やり信じさせイエス様の贖罪の計画を受け入れさせました。

 既に義人アベルの殺害やアブラハムの子イサクの生贄という善人の犠牲が、
神の心に憐みを起こさせることを、救いはこのように犠牲によって齎されるものであることを、
サタンはユダヤ教徒に信じ込ませたのです。
 このような歴史を聖書に残すことで、イエス様の刑罰による死の贖罪を神のものとし、
実現させるように計画しました。
 その先にあるものが(天上界高次元の聖霊を滅し去り、この地球を、人類を
兄エホバ様から奪い取り)悪魔の王国の実現を目論んでのこととは、
ダビデの邪心を知る天上界の神々にも考えも及ばなかったのです。
 イエス様を贖罪のために殺すという考えは、悪魔の心から生まれたものであることを、
バイロンは見抜いています。

 そして悪魔の心から生まれた証拠は、
イエス様ご誕生の際、お生まれになったユダヤの王(イエス様のこと)を拝する為に、
東方から三博士が来たことから、
メシヤが遣わされることが預言されていることを祭司から聞いたヘロデ大王は、
自分もメシヤを拝したいからと、博士達に戻って居所を教えるように計りました。
(天上界は阻止する為、夢で告げ知らせて博士達をヘロデの下に戻らせなかったことに、
預言が本物に違いないと不安を募らせたヘロデは、
冷酷に徹する悪魔の心を自らの内に抱き、
ヘロデの心は真にサタンの支配するものとなったのです。)
 メシヤ一人を殺す為に、ベツレヘム中の幼児(おさなご)を悉く惨殺しました(※3)。

 そのような幼児の惨殺まで聖書は預言していたのです。
 サタンは自ら預言者に語らせた預言を実現させるべく、ヘロデを操りました。
 これを悪魔の仕組んだものと考えず、天による業と信じる者は悪魔の同類に違いありません。


 神(を装った悪魔)とは預言する(預言した通りに成さしめる)能力を持つものである
ことを誇示し、その力を崇める信仰を植え付けようとしました。
(真の神は、人が自らの意志で法に、愛に従うことを教えられました。)


 やがて悪魔は自分が神となるため、
人類に悪魔の本性こそ神聖なるものと受け入れさせるために、
神の名の下に血の生贄を神に繋がるための聖なる儀式、 
それ無くしては神(悪魔)と出会う心とはならない、
人の心を悪魔に繋ぎ留め、神を神と決して認められない心とすることをサタンは目論み、
その通りの結果を齎しました。
 サタンという悪魔が、悪なる心からしか生れない業を神のものとし、
神を求める人々を、悪魔を崇め仕える者に変えたことに激しい憤りを持っていた
大天使ガブリエル様の思いが合体者(本体)のバイロンに書かしめた物語が「カイン」でした。

※2注。
 大空を自由に生きる鳥は、彼らの心も大空のように自由なのでしょう。
 彼らは大空を太陽を自分のものと思っていることでしょう。
 彼ら以上に満たされた心を持つ人間がいるでしょうか。
 私達もやがては自由に大空を天翔る魂を持つことが出来るのです。
 しかしそのような自由を愛する心を育てられなければ、
魂をこの世に執着させる心しか育てられなければ、
自由という魂の翼を得られないのです。
 自然の美しさに満たされる心を持たれる方なら、
偽りの美しさを装おうとする虚栄心から自由でいられる人なのでしょう。※2注終)

※3注。
 何時の時代にも、自己保存に執着した心から離れ客観的に自己を見る(正見)ことのない、
人の善なる心を優しい心を解せず、常に疑心暗鬼に生きる心は、
迫害することで、善を愛を信じる心を奪われ、
自分と同じ不信心となった者の絶望する様を嘲笑う
(踏み躙る高揚心に、恐怖に怖気づく己が器の小ささから目を背けられるのでしょう)
病んだ精神は、己が不安に陥れば被害妄想から人を仮想敵国としか見ず、
敵を滅ぼすことにのみ己の安心を得ると考えるサタンに心を渡した独裁者は、
殺戮の限りを尽くしました。

 宗教の教えが、自分(の民族)よりも他(の民族)の幸福を、
自分よりも人が神に救われることを願う、そのような心に導くことなく、
人を顧みず自分の幸せを何よりも願い求める信者の信仰を繋ぎ止める為に、
自己愛に生きる信者の求めに応えようとするなら、
人の自己保存への意識を強める、生命への執着を齎すに過ぎぬものなら、
そのような宗教を信じる心をサタンは支配し、
自分達こそ神に救われる宗教であると信じる者に選民意識を植え込む、
すべての宗教の信者が救われることよりも、
自分達が優先され、他よりも高い次元へと救われると信じさせる、
他の宗教を否定するように、対立するようになったのは、
悪霊が仕向けたからであるのは間違いありません。
 取分け、霊が最も強くその力を人に及ぼすことの出来る
(磁力の強い)パレスチナの地に於ては。

 神は人類の理性を開発し愛する心を育てるように導かれました。
 サタンは人類が動物的自己保存に生きるように、
生命に執着するように常に恐怖を与え、
生命を脅かしさえすればサタンに従う人類に留めようとしました。
 自分が殺されようとしたら逃れようとするのは如何なる者も変わりません。
 その為にどちらの側に付くか、どちらの側の心を愛してきたか、
真に生きんとした時、愛が自分に向く者なのか、
人に向く真の愛が心に溢れる者かで別れるでしょう。

 真に成長した精神を他の内に見出す者が、己とは未熟な精神に生きる者と認め、
彼等のような心を愛することが自らを成長させると信じ、己に向き合う(己を知る)者であり、
神の教えに救いを見出す心が、真理に対して素直な心を持つ者であり、
自らを救うことが出来るのでしょう。
 自らを救おうとせず、守られたい、力に依存する者は、
その力に与ることが出来ると悪魔に唆された時、その力の前に己が魂を差し出すのです。

 自らの内に見出した神の心に立つ者か。
 それとも己の救われることのみ願うが故に、
悪魔の破壊せんとする力が何に向けられたものかも悟らず、
その強さに守られるものと、
盲いて悪魔に導かれるに終るか明らかになるでしょう。

 自己保存の思いに生き、その心に立っての判断が、
悪を悪と判断されて非難したからと言って、
その心が善なるが故の悪への怒りとは限らないのです。
(国家による悪は、為政者の証する大義名分を、偽善者を盲信する、
国民全体をも悪霊に憑依させる悪魔の傀儡である独裁者に盲従する
智慧なき国民が齎したのです。)
 人類の歴史から残酷の限りを尽くす、悪なる心を学びながら、悪魔の存在を悟れない。
 人類が悪魔に従ってきたのは、
善を捨て悪に心を満たしてきたのは、
すべて自己保存に執着した心を克服することが出来なかった、
自らへの愛を超えた、他への愛に心を満たすことが出来なかったからです。

 六百万もの同胞が虐殺され、自己保存に執着せざるを得なかったユダヤ民族が、
何故人を苦しみの地獄に突き落とす悪魔の業を、他の民族に自ら行う者と成り果てたのか。
 自己保存に生きる限り、人を救わんとする神の心は自らの心を執着から救うことを、
真の愛の業を知ることが出来ない、
サタンの偽善に、自己欺瞞に生きる限り、善我(神の心)を見出せないでしょう。

 神の心を見出すことの出来ぬ者達が、
悪を非難するからと心を一つにすることが出来る訳ではありません。
 そのような者の集まった国連が世界に平和を齎せなかったのです。
 天の善なる波動を感受し得る神の心に立つことの出来ない者は、
自分が悪魔の邪念を受けながらそれを悟ることも出来ないのです。

 悪魔の働きを、悪知恵を見抜き、悪魔の邪念を撥ね除け、
揺るぎない善我に立脚し、真の神の前に立つこと。
 唯一の神の下に生きることを欲し、互いに神の子として尊敬する思いを抱くことなく、
平和を取り戻すことは出来ないでしょう。
 神の法だけが、人の心を悪魔の心(偽我)から神の心(善我)へと自ら救うことが出来る、
その為に神自らが神の法(正法)を伝えられたのです。
 神を信じる者、善なる思いに留まろうとする者は、必ず神の思いは伝わるでしょう。
 真に平和を願う者なら必ず神に導かれて真の神の前に互いに繋がる信義に生きる者となるでしょう。
 悪魔に打ち克つことが出来るのは、神の心だけなのですから。※3注終)備考終〗

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
六節 サタンによる天の計画の妨害

 (三) サタンの蒔いた種
「JI」87年5月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」71頁

「聖書の新約部分は、
"罪人"と言われた人々の救いと"病人の癒し"が主となり、"信仰"と"寛し"によって、
"目には目を"の教えによる復讐に傾く矛盾の解決を齎すものでした。

 その"罪人"と"病人"に関するもの、
"健康な人には医者は要らない。要るのは病人である。
 私が来たのは、義人を招く為ではなく、罪人を招いて悔い改めさせる為である"
の中の特に罪人の条(くだ)りは、実はサタン・ダビデによるもので、
中世の悪魔教に由来する社会主義及び共産主義へと発展させたもの、
ダビデの悪魔の王国を培い、神の国を滅す遠大な計画の基礎となる布石でした。


「一九七八年二月辺り迄、高橋信次氏の後を継ぎ、
ミカエル佳子と改名した高橋佳子がGLAを主に指導するに及んで、
サタン・ダビデとその輩下が、ミカエル佳子及びGLAに関係する者全員を支配し、
"サタンの宣言"などという霊言を発表したりしておりました。

 私達はそれを耳にし、内容を目にしても、GLAのみの王国と高を括り、軽視しておりました。
 そしてこの度岩間文彌様の聖書研究と、
知る限りの私達が経て来たキリスト教の歴史及び世界の共産主義攻勢の有様、
自由諸国の荒廃と危機に触れ、諸問題の関連が明らかになるにつれて、
サタン・ダビデが"王国"と誇らし気に宣言したもののおぞましい全容が姿を現したのです。

イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石!!
義人は要らない。罪人を救う為に来た"という言葉を補い、イエス様の教えを徳高く、
慈悲溢れる"寛し"の教えとされたのは、エル・ランティ様(エホバ = ヤーウェ様)で、
それがダビデの奸計を巧妙に隠蔽、助長するものとなり、悪魔の思想の温床となりました。

(注。罪人を救うという天の慈悲(徳)の教えをサタンは、
神は義人を必要としないという悪魔の思想の温床に変えていったのです。)

(ブッタ様が親鸞上人に言わせられた(とされていた)お言葉 ー 、
"善人なをもて往生す。まして悪人においておや"も、実はダビデの言葉でした。)〗

 それは手が付けられない程に蔓延した病状の如きもので、
私達が果たして喰い止めるに効果的な手を打てるのかどうか、
今も確信はない程悪化した病状なのです。
 サタン・ダビデの築き上げた王国を突き崩し、瓦解させるには偏(ひとえ)に、
三次元の世界諸民族の自覚と協力が必要です。

 然るに今どれだけの人々が末世を末世と気付き、諸国、否、人類全体が
地球の終末という滅びに向かって歩みを早めつつあるか、自覚しているでしょうか。
 事は自然破壊や核戦争の脅威といった副次的なものではなく、
人類が悪魔的な世界を選び、無自覚に善を滅し、預言者を殺し、
再びイエス・キリストを十字架に付けて悪の指導者に従い、自らも滅びようとしているのです。


〖考察〗
ダビデがサタンとなるまで
 三億六千五百万年前にベー・エルデ星から飛来された方々が死後、
地球に太陽系霊団を作られました。
 地球に人類が誕生してからは地球を、
ベー・エルデ星などの平和的同盟を結んでいる進化した星々の仲間に加わるべき星とする為、
天上界によって地球人類の善導が始まりました。
 天上界高次元の作ろうとされた神の国に反抗して自分の王国を築こうとしてから
ダビデがサタンに豹変したのか、
三次元、四次元構わず悪の限りを尽くしベー・エルデ星を追放され
地球に逃げてエル・ランティ様の下に来た時には既にサタンと化し、
エル・ランティ様から地球を奪おうと考えていたのか、誰にも解らないことですが、
生前からではなかったことは
生前はダビデは王であり、その子供達はすべて天上界高次元に上がり、
やがて合体霊としてモーセ様、ブッタ様、イエス様など真の神の子へと導かれた程の人格者でした。
(イエス様に合体されたビルナビル様は、神童と呼ばれる程の御性格の素晴らしさから、
是非にと王家に養子に迎えられたのでした。)
 そのような方々を育てられたことからも判ります。

 ダビデは追放されるまでベー・エルデ星の人々をモルモットにして、
どう働きかければ(誘惑すれば)人間は堕落するか、
悪魔に魂を売る者となるか、あらゆる試みを行ってきたに違いありません。

三億六千五百万年もの昔に既にベー・エルデは、現在の地球よりも進歩しており
(地球の文明は、そのベー・エルデの人々が伝えたものでした)、
核エネルギーについての知識もありました。
 それでも核戦争もなく(核エネルギーを抑止する理性を持ち得たのでしょう)、
生存に適った惑星を、今も保っているのですから、高度に文明の発達した社会なのでしょう。
 ダビデは、そのような人々を対象にして如何にすれば操ることが出来るか、堕落させられるか、
人間の心理を研究したのです。
 またどのように魂を消滅させるか、自らの魂を守るか、
科学的知識を駆使して、多くの霊を消滅させるという実験!を通して、能力を高めたのでしょう。
 ベー・エルデ星の知的な人々も手玉に取るダビデの悪智恵の前に、
たかだか数十年の人生経験しか持たない、
しかも堕落の恐ろしさも自分には関わりのない事と高を括り、慢心した隙だらけの心で、
己が心の弱さすら悟らぬ未熟な精神の地球人類に、
ダビデの邪悪な好奇心から、その魔手から、逃れ得ることが誰に出来たでしょう(※4)。

※4注。
 ユダヤ民族の犯した犯罪は、悪魔の誘惑に屈したが故の、
真に悪魔の齎した犯罪と言えるものです。
 しかし、悪霊の邪念の前に善なる心を破壊され、
悪霊に弄ばれる為に生きる人類を救おうとされた天上界が、
人類が神の導きを信じることが出来る、神の意志をその生き方で明らかとすることの出来る
民族とする為に指導されたのがユダヤ民族であり、
神の計画を破壊することに自らの存在を賭けたサタンが
その為にユダヤ民族を滅ぼそうとして来たのです。

 もしユダヤ民族でない、自分達の民族が神に選ばれていたなら、
サタンの誘惑に屈することなく神の意志に応えることが出来たと思う者がいたなら、
その人はユダヤ民族を選んだ神よりも自分の方が知恵があると言っているに等しい馬鹿者です。

 サタンの攻撃の標的にされたのは、ユダヤ民族同様、
神の法を伝える、神と共に神の国を作る為に、
天の信頼し得る仲間へと導かれた正法者にも言えるのであり、現天上界を一度は信じた者が、
甘言を喜ぶ偽我を知り尽くした悪霊の介入を許し、天をも裏切る悪霊へと堕したのでした。

 神に盲いたユダヤ教を救おうとされた、
ユダヤ教即ちモーセ様を通して神の与えた法に神の意志を見出すように導かれた
イエス様を殺害したのはモーセ様を信じるユダヤ教会であり、
キリスト教徒のジャンヌダルクを殺害したのはカトリック教会であったように、
神の計画を破壊したのは、悪魔に生きながら、それを認めることの出来ない、
自分は神に従っていると盲信し、神を冒瀆する者は許さじと、
イエス様を悪魔と、ジャンヌを魔女と狂信する理性なき者が、
サタンに導かれて真の神に対して犯罪を行ってきたのです。

 個人であれ、民族であれ、神の法を見出し、その法に自らの、民族の存続を懸ける、
神の意志を全地に明らかとする、その為に生きぬ限り、地球を、人類を救えないのです。
 邪悪に生きる心に打ち克たぬ限り、
偽りの神を見抜く知恵も、真の神を愛する心も養うことは出来ず、
他民族を批判していい気になっているようでは、
永遠に神の心に生きる世を、天国をこの世に齎すことは出来ないでしょう。※4注終)


神と悪魔にとっての十字架の意義
 ダビデがイエス様に行った三つの試みも、救世主として相応しいかを試すということで、
ダビデがエル・ランティ様の許可の下に為された、あくまでも精神的な試みに過ぎませんでした。
 このような試み(サタンにとって知的ゲームでした)
にも天上界は譲歩しなければなりませんでした。

 ローマ帝国のような、力を求める者達の心をダビデは完全に支配し得たのです。
 何時イスラエルがローマに滅ばされるか解らぬような中で、
天上界は彼等に救い主を与える約束を果そうと、
如何なる運命が待っていようとも天は共にあることを、
神を信じる者の魂を救う福音を伝えようとされました。

 救いを齎す為には、天上界はダビデのやり方(ゲーム)に応じなければならなかった、
そのゲームでサタンの思惑を覆すしか、天上界の計画を進めることが出来なかったのです。

【「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」
  著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より

「天とサタンの戦いは、米ソの情報戦の如くであったのです。」165頁

「すべてに冷静な心と目で天上界とサタンや悪霊との関り方を判断して頂きたいと思います。
それは多分に三次元の勢力圏や関り合いと似ていることを理解して頂きたいのです。」337頁

 サタン(に支配された圧制者)に覚られずに天の意志を信者に伝える為、
暗号化された黙示文書を用いたことを譬えたものですが、
天の計画をサタンに悟られずに行う為には、
サタンを安心(納得)させる表向きの行動を取らねばなりませんでした。
 真に法を託す者をサタンから守る為に、
囮(GLA)を要せねばならなかったのもその為でした。
 しかしサタンは囮と知らずGLAを破壊すれば天の計画も破壊したと満足したのではなく、
GLAを乗っ取り、己が居城として、現正法を広めようとする天上界を妨害し、
高橋信次氏に働きかけ、神の伝えた正法を歪めたのでした。
 GLAの信者はすべて悪霊が憑依し、GLAを悪魔の王国に変えたのです。
 神(天上界)と悪魔(地獄界)は互いの存続を懸けてしのぎを削ったのでした。

 天の誰もがその叡智から神と崇めるエホバ様への嫉妬からダビデは、
エホバ様を貶めようとしました。
 自分が智慧に於て、神エホバに勝ることを
(それを示さんが為にサタンが神に仕掛けたのが、
人類を地獄に突き落とすことで、救いの神を引き摺り込んでの
ゲームという名で残酷な本性を隠しての己が力を明らかにせずばいられなかったのでしょう)、
戦えば勝利するのは自分であると、天上界の善霊に神の力への疑念の種を蒔いたのです。

 彼は自分がエホバ様に、天上界の聖霊達に取って代わるその時に備えて、
善霊達が神エホバ様を裏切り自分に付かせる、善霊をも堕落させる自信があったのです。

 このサタンの試みというゲームは、神に従うにしろ、悪魔に従うにしろ、
人間に判断が委ねられるものです。
 サタンにとって人間を操れさえすれば満足したのではありませんでした。
 人間の心の中にある悪魔の心を神の心と戦わせる、
悪魔の心が神の心を滅ぼしてゆく、
悪徳に生きるまでに堕落してゆくその過程を楽しむ為に働きかけたのです。

三億年という、更に永遠に続くであろう時間を無為に生きるには耐えかねたであろうその知性
(故に、そして最も近い所に神が存在したが為に、
その神を在らしめた愛を持たぬ故に、悪魔にならざるを得なかったのかも知れません)
に於て神に並ぶ者と考えたサタンが、その叡智と人格に真の神と喜びから従う人々への、
人々の心に応える愛を持つ兄エホバ様への妬みから、
全知全能と讃えられた神の業を破壊に、神を地に落しめることに於て
自らの存在の永遠を信じることが出来たのでしょう。
(社会主義に毒された人々(野党)の心(否定すること、破壊することに喜びを見出す)
に通じる処があるのではないでしょうか。)

「天国の証(78年8月初版)」63頁 エル・ランティ様メッセージより
「弟は自己の有するあらゆる知識を、霊となった時、仕事を持たぬ者として時の長さに倦み、
私の建設的計画を破壊することに用いたのです。四次元の能力を駆使して。」

(人の心は、悪(悪魔)に生きる心と善(神)に生きる心の戦場にされ、
サタンの甘言とも覚らず、神をも忘れ去り己が心に偽りの神を迎え入れる、
神に導かれ愛された己が人生をも忘れ去る冷酷な、
悪魔の傀儡に生きるを喜びとする魂にまで人を堕落せしめることで、
神の愛の無力を、神の愛を理解出来ぬ人類の低劣を、
真に人を支配する力とは何かを、その力を持つ存在を
明らかにすることで支配欲を満足させたのでしょう。


 人自らの心の内に、地獄が、天国が現れるのです。
 地獄に生きる心は、この世を地獄に引き摺り込もうとする、
天国に生きる心は、この世の人々の心を天国に導こうと、
この世に天国を在らしめんとするのです。

 人間の心に働き掛けても、その選択はあくまで人間であり、
人間を善導するか、堕落させるか(※5)、智慧に於てどちらが勝るか競う、
サタンにとって人間はただの道具に過ぎないのです。

(憑依により、意識を支配し人に悪を為さしめても、
ダビデはすべてサタン・ルシファーの所為にして、
天上の自分の与り知らぬものとしらばくれていました。)
 神の計画を破壊し、天上界の努力を、成果を奪うことに失敗したとしても、
ダビデには失うものは何もないのです、彼にとってゲームであったのです。
 ダビデはただ天上界への憎しみに駆られて、天上界を滅ぼそうとしていたのではなく、
彼の完全主義的性格から、計画通りに天上界を破滅へ追い詰めていくことで、
やがて天を支配する時の近付きつつあることを感じ取っていたのかも知れません。

※5注。
 人の心の自由な意志からしか生まれない、他の為に己を捨てる愛へと人の精神を高める為に、
誰からの強制も神は認めはしないことを、
神は人が自らの神の心に従うべく、自由の観念を愛と共に伝えたのです。
 神は人類の精神的な成長を願われました。
( 人から愛に生きんとする精神の成長を奪ってきたものとは、
神の愛に生きる心の目覚めを奪ってきたものとは、
人を未熟な精神、自己保存の本能に生きることを肯定する
宗教(教団)やイデオロギーなのであり、
人を依存心の内に安住させ、成長しなければ滅ぶという意識を奪ってきたのです。)
 悪魔は人を動物的心に留めるべく、本能の力に隷属させました。
 生命を脅かしさえすれば恐怖心から従う人類に留めようとしました。
※5注終)

「天国の証(78年8月初版)」91頁 ラグエル様メッセージより
勿論これ(ハルマゲドンと呼ばれる天界を二分にした決戦)
この末法の世に至って起こった現象で、それまではサタンも必死にはなっておりませんでした。
 死闘などということはなかったのです。


「天国の光りの下に(78年12月初版)」303頁 千乃先生解説より
&「エルフォイド(82年4月初版)」172頁
「(ダビデは)常に虚言で表面を繕い、三次元の悪はルシファーと地獄霊の所為にしていました。
 そしてエル・ランティ様の転生にはダビデは精一杯の好意を示し、
断罪を受けぬように用心していたのです。

「天の奇蹟・中巻(82年9月初版)」295頁
 著者(岩間先生)の質問へのミカエル大王様による解答より
「立派であればあるほどダビデの嫉妬心は燃え上がり、
その方を消滅することで自らの権力欲と支配欲を満たしていたのです。
 そのような者でも私達が親族を殺害する事は大罪に値し※6
(故にダビデは大天使への警戒に神経を削がれることなく、
サタンの王国建設に集中出来たのでしょう)、
ソラッティア前ベー・エルデ王という祖父の孫の一人を失う悲しみ(※7
を与えることが出来ませんでした。
戦いによってようやく消滅し得たのです。」

※6注。
 正義を愛し、悪を憎む大天使達にとって、サタン消滅の足枷になりました。
 天上界を壊滅せんとする力をサタンに与えたのは言うまでもありません。
 丁度日本の軍事力を(日本人の国防意識をも)削ぐための足枷として米国に押し付けられた
憲法九条が今日まで日本を存続の危機に追いやってきたことと何ら変りはありません。

 昔から、何故悪魔が存在するのか、神を信じる人々を悩ませてきました。
 サタンとなったダビデが、天地を統率する唯一の神であったエル・ランティ様の弟であり、
天上界にその本性を偽って存在していた。
 天上界の思いを踏み躙り自ら欲して堕落して行く人類を、
ダビデは心底軽蔑していたにも関わらず、善に生きる者を堕落させることで、
天の人類への信頼を嘲笑い、天の救いを打ち砕く己の力に酔いしれたサタンの本性を
天上界は知っていました。
 それでも、弟がかつては善なる心を持っていたのであり、
人類を操ることに喜びを見出し、人に悪を為さしめてきたダビデを、
エル・ランティ様の慈悲に、ダビデは改心する心をまだ失っていなかったのだそうです。

 悪魔が存在したのは、実の兄が神であり、その神に勝る力を持つと信じるが故に、
その嫉妬から悪魔に堕したのであり、
 悪魔が存在してこれたのは、エル・ランティ様が、
サタンとなった弟が真に改心する希望を捨てなかったからでした。

(昔、ある統一教会の人が、神の創造されたものに悪はない、
神の創造物ではないから悪魔が存在したといった趣旨のことを文鮮明氏から聞かされたらしく、
ノーベル賞ものだと(講師的立場の者でしたが)讃えておりましたが、
進化論が一世紀以上も前に明らかにされていたにも関わらず、
前時代的創造神を信じる彼らの硬直した精神故に信じられた新興宗教だったのでしょう。
 この程度の者を、統一教会員は再臨のキリストと信じて崇めていたのでした。)
 ※6注終)

※7注。
 ダビデはソラッティア王にとって愛すべき孫であったのでしょう。
 エル・ランティ様にとって掛け替えのない双子の弟であったように。
 系図からエル・ランティ様とダビデの妻に当たる方は、王家の姉妹であったそうです。
 彼等の愛憎の強さは常人の理解を超えたものであったのかも知れません。※7注終)

 サタンによるイエス様への試みに、もし天上界が負けていたら、
預言者(霊能者)を通して神の意志を伝える神の計画は挫折し、
サタンの悪の誘惑に勝つことの出来る、善への愛を地球人類が持つことは望み得ないことと、
天上界の人類への救いは暗礁に乗り上げたかも知れません(※8)。

 ダビデはイエス様との精神の戦いに敗れたものの、
ダビデの真の目的はそこにあったのではなく、
人類の罪の贖いという名の下に、
最も残酷な処刑である十字架によって神の子を生贄にすることであったのです。
 ユダヤ教徒に真の神を見失わせ、ユダヤ人を神から奪い、
サタンを王と崇める王国を築くことだったのです。
 そしてその隠された計画を実現する為に、天上界を利用しました。
 神の望む福音が地上に齎される為に、最も強く神の思いが人の心に伝わる為に、
神の子が生贄として人類の犠牲になることを、エホバ様に受け入れさせ、
サタンは計画を実現させていくのです。
(二千年後に ブッタ様の本体(高橋信次氏)をも欺き、
GLAを足場として再びサタンの王国を築こうと試みました。)

※8注。
 イエス様がサタンの試みに勝利する為、
僅か数十年の人生経験しかない生身の人間であるイエス様を、
真の(数億年に亘り魂を研鑽してこられた)神々に並ぶ精神に至らしめんとした
天上界の厳しい指導に、イエス様が応えられたことは、聖書に書かれてある通りです。

 イエス様が、御自分が初めから神として生まれたのなら、
何の価値があるのかと仰しゃいました(現象テープ№17)。
 神に、或いは悪魔に導かれるかで人はどの様にもなる、
人間の力では、神の、或いは悪魔の力の前にあってはどうすることも出来ない、
彼等の前にあっては無力な存在である人間として生まれたのであり、
サタンの(人間の甘え、弱さを、その心を手玉に取る術を知り尽くしての)誘惑が
常に心の隙を窺っているような状況下で、
常に神を思う、その心のみを心として培った精神、神への愛故に、
真の神の子、神の預言者と天上界の認める者となられました。

 そのように生きたことを語る方が、イエス様なのです。
 初めから神としての人格を持って、この世に生まれてこられたと言う
キリスト教会の教えを信じる人々は、イエス様の仰しゃる
神を愛するならば、己の十字架を背負って(人の持って生まれた未熟な心、偽我に打ち克って)、
私に従ってきなさい
〗という思いを全く理解していないのであり、
イエス様と同じ心を持たせまいとするサタンの導きの内にあることを悟れないでいるのです。

 言われたことさえすればつき従えるような道ではないのです。
 立ち塞がる問題、道を見失わせるような誘惑もあるでしょう。
 自ら神の道を歩む意志がなくてどうやって克服できるのでしょう。
 ただ従ってきなさいとイエス様は仰しゃったのではないのです。
 自分自身で克服しなければ進めない道、自ら克服していった人達の歩んだ道、
彼等の心を愛するなら、そのような心に生きたいのなら、その為に彼等の為したこと、
自らの十字架を背負い、神の導きを信じて生きることであると理解されるのではないでしょうか。

ユダヤ民族を救う為に(ダビデ王のような)救世主を神は与えると悪魔に唆され、
真の神の子イエス様を知っての不信、憎しみ、裏切りの心へと育てる悪魔の種を蒔かれ、
神の子の十字架の死をも神の業と信じる冷酷へと魂を自ら貶め
(イエス様の十字架に屈することのなかった神への愛こそ、
真の神への信仰へとイエス様を導いた(エル・ランティ(エホバ)様の心を知る)
七大天使の神への愛、信義に生きる魂こそ神の業であり、
そのような愛は、信義は苦難によって磨かれると、苦難に屈しない真の愛が人類を救うと、
神に、神の子を十字架に付けさせた偽りの愛こそ悪魔の業です)、
神と共に生きる心を捨てた人類の真の姿を、
自ら内なる神の心を殺すのが人類の心であることを、
神の救いを求める、神を信じる人類の見出した心とはサタンの心であったことを、
神エホバ様に天上界に明らかにせんと、サタンは挑戦したのだと思います。

 憎しみに、呪いの血にまみれた悪魔の思いを、悪魔に操られた人々から受けながらも、
苦しみに神への愛を失わなかった、神を疑う、神への不信の念に屈しなかった、
悪魔の心に打ち克ったイエス様の神の心こそ、
人類の永遠の救い、希望を齎したのです。
 イエス様は生まれた時から神の子であったが故に、
悪魔に打ち克つことが出来たと考えるクリスチャンには、
一人苦難にあって、神の御意志を証(あかし)せんとする己が意志に生きる者が、
神の望みに生きるを喜びとする内なる神の心に生きる者こそが、
真に神の導きに在るということが理解し得ないのでしょう。

 真の愛に生きる喜びを知った心は、この世の如何なる価値にも惑わされないことを、
そのような心に生きることが人間に出来ることを、
目に見えるものしか信じない人間にも悟り得る為に、
神の子が十字架で血を流さねばならなかった。
 そのような犠牲も忘れ去り、忘恩の内に己が魂を失いたくないならば、
愛を見出さなければならない、イエス様が与えた愛を自らの心としなければならない、
それが自らの十字架を背負って生きるということでしょう。※8注終)

 平等というイデオロギーに心奪われた人々は、同じ人間であるからと、平等であるからと、
人の内なる心に優劣(神の心に近いか遠いかの差です!)のあることを認めさせない、
また神を人ではない絶対的存在として、その心を知ろうとすることを不敬として許さなかった。

(真に崇めるべきは、神の心故であるのに、
そしてその心とは人間として生まれたが故に持てたものであり、
人間以外に高等感情を持った心を宿すことの出来る存在はなく、
その高等感情を踏み躙る悪徳を持つものも人間以外に存在しない、
故に神と悪魔のどちらも存在し得たのです。
 人間であるが故に、神の心も悪魔の心も理解し得る。
 理解し得る故に、神の心を望むことが出来るし、その心を持つことが出来る。
 同様に悪魔の心も。
 神の(真理を愛する)心・知恵を持つ者は、
悪魔の(真理に背く)心を見抜くことが出来るのです。
 神の心を理解しようとさせないのは悪魔の意志によるものです。)


イエス様の心を通して語られた真理の言葉の中に隠し入れた悪魔の思い
 病に、罪に、苦しんでいる者の心に、
神の愛を、救いを伝えたい一心のイエス様の伝えた福音の内に、ダビデは悪魔の種を忍ばせました。
 罪人を救う為に来た、義人は要らない
(神の愛する義人はサタンには不要であるという思いそのもの)、
とサタンは天の者の如くにイエス様の意識に働きかけました。
 イエス様の下に救いを求めて来た人々の苦しみに心を痛めたイエス様の、
救いの思いに加担しました。
"苦しんでいる罪人を救おうとしない義人は要らない。

(イエス様の教えで、誠実故に富む者となった者は、信頼され更に与えられ、
不実故に持たない者は、その不実故に怒りを買い、持つものも取り上げられる譬えにあるように、
正しい者は正しく人から評価されますが、
正しくない者は、評価されない故に正しい者を、持つ者を妬むのです。
 嫉妬心と言われるもので、自分よりも優れた他を受け入れられない者で、
その価値を持たない者であるかのように周りを信じさせる為に、
誹謗中傷であろうと躊躇せず、人を陥れ、引き摺り下ろすことも辞さないのです。
 ダビデのエル・ランティ様への思いがそうであり、
嫉妬心は人の心を悪魔にも変える恐ろしいものであることを忘れてはならないのです。
 このような嫉妬心に邪念に心を奪われた者は、良心を失って行くのです。
 そのような者が天を裏切る時、救いに導く為に神が人の良心となるべく
与えられた合体霊(善霊)を取り上げられ、神の救いも失うのです。

 平等という(社会)主義で、人は愛する心を持つのではありません。
 己を忘れ他に思いを尽す愛を持たない、また愛されるに値しない者は、
妬みから、愛されるに値する者、優れた者を、自分達と同じ境遇に落しめようとするのです。
(悪平等と言われるもので、平等でありさえすれば良いと考える主義(イデオロギー)の信奉者は、
価値ある者と無い者の差も認めようとしない、認める理性を持たないのです。)

 サタンの狡猾さは、その冷酷を基盤にしています。
 愛を生み出す人間の心(理性)を育てないこと、
その為にその心の真理の種である神の愛の観念を歪めて人間に伝え、
人間の心を不毛のものにしようとするのです。
 神は罪に苦しんでいる人を憐れむだけではない、救おうとする愛の方です。
 罪に負ける心を救うのは、善に生きようとする心だけなのです。
 真の救いとは、善に生きようとする心を持つこと、
善を、善に生きる者を守ろうとするのが真の神であると信じること、
それが人に揺るぎない善なる神への信仰と希望を持たせることが出来るのです。
 それが神の教えです。



イエス様の譬えの真意
 それを、従順な九十九匹の羊よりも、彷徨い出た一匹の羊を思うのが神の愛であるといった、
神の真の思いを歪めた、誤ったメッセージを、
サタンは純粋なイエス様の思いに伝え、悪魔の思想の種として人類に播いたのです。
 
 イエス様の本意は、神を見出した者、神の救いに与る者と、
神を見失った者、滅びようとしている者について語っているのです。
 神を見失うとは、良心が盲いて罪を犯す。
 罪を犯そうとする心に、罪であると悟らせ、思い留まらせる良心の光を
持たぬ者のことを言うのです。
 罪を犯した者が、良心の咎めすら感じぬ、神の目に映る罪にまみれた己が心を知らず、
神の救いに与れるものと神の善を、悪への裁きを軽んずる。
 罪を悔改めることを神は望まれるが、悔改めぬ者を神は招くことはないのです。

 イエス様が罪人を招く為に来たと言われたのは、彼等が罪人として虐げられていたからです。
 その虐げている者達とは、神の心を棄て、悪魔に仕える偽善者、
パリサイ人と言われたユダヤ教指導者達であり、
神に導かれたユダヤ教を悪魔の宗教に変えた者達だったからです。
 パリサイ人に罪人と虐げられ、自ら許されることのない罪人として苦しんできた人々が、
誰よりもイエス様の心に神を見て、神に許されたい、
罪の苦しみから救い出されたい一心で縋ったのです。
 それだから、パリサイ人よりも罪人が天国に近いと言われたのです。
 救われるのは、パリサイ人のような偽善者ではなく、罪人であると仰しゃったのです。


 放蕩息子の譬えは、父の下を離れて、身を崩した息子が、
使用人の扱いででも父の下に戻ることを、許されることを願った時、
死んだ息子が生き返ったかのように喜んだ父を見た兄は、
そのような愛に溢れた父の下に居られて幸せであったことを喜ぶことなく、
父に仕えてこなかった弟が、自分よりも父に喜びを齎した者のように父に愛されるのか、
と弟に嫉妬する。
 兄は、行方知れずとなった弟を心に掛けていたであろうか。

 一匹の彷徨い出た羊を探し求める羊飼いに置き去りにされた、善良と表現された九十九匹の羊は、
彷徨い出るに至った、それまで苦しんでいたであろう仲間の羊のことを、
その時まで気に掛けたことが、心配したことがあったであろうか。
 羊飼いが救いに行くことを願ったであろうか。
 イエス様は、人が自らを義人であると、善人であると公言する者の偽善こそ、
善を愛する神の御心を人から遠ざけるもの、
神の心を地に落しめる者の心であることを知り尽くされていました。
 偽善こそ、善を、神の心を偽り、自らが神の心を持つ者の如くに振舞う心です。

 罪人こそ救われねばならないとイエス様がこれらの譬えで伝えられる時、
罪に苦しむ者
(罪を罪と思わぬような真の罪人ではなく!)を救おうとせず、
裁こうとする義人と自惚れる者の偽善を非難されていた
のだと思います。


イエス様の言葉の真意を曲げて伝えたサタン
それを(本当の)義人が神にとって、取るに足りないもののように
(そのように聞こうとする者が、そう解釈するだけなのですが)、
聞くことも出来る表現でイエス様に語らせた。
 その悪魔の思いを見抜けぬ心の中で、サタンの蒔いた種は芽吹いていったのです。
 悪しき者がそのようにして罪の中に甘んじていられるように、
良心の呵責を感じないでいられるようにサタン・ダビデは誘導していきました。
 やがて偽善を人の心の内に体系化した社会主義の、
その根幹である平等というイデオロギーの上に、
如何なる徳も、神もその価値も認めず、神の愛は歪められ、
真の愛を、善を持たぬ者が、
愛に、善に、そしてその心に生きる者に何の価値も認めぬ者達が、
イデオロギーを狂信する者達が、
人々の心に、信じるに値するものは力だけである、力を崇拝する念を呼び起こしたのです。

 イデオロギーの教え導く力の前に、愛も善も跪くべきものとされ、
偽りの真理が真理としてまかり通ったのです。
 社会主義が人々の心を力で支配した時、人々が力に崇め仕えた時、
悪魔のイデオロギーである共産主義理論が悪魔の信者にとっての教典となったのです。

 言葉では正義や平等や愛を謳いながら、愛を育てることを知らない、
神を見出すべき善我(神の心)を、柔軟な思考を齎す理性を育てられぬ、
イデオロギーを盲信(狂信)する共産主義を生んで、
人間の精神の成長を、魂の浄化を奪ったのです。
 そうなることを、そうすることが出来ることを、サタンは確信していたに違いありません。
 人の心から愛がなくなれば(神の思いの伝わる心を失えば)、天は無きに等しく、
世を支配するのは、サタンの王国、地獄なのだと。

 それを実現させるのは、愛を棄てた冷酷な心であることを。

 サタンの蒔いた種が、悪しき者の心に根を張り、悪を実らせたことが明らかとなったのですから、
神の真理を実らすことを願う者は、この世から悪の芽を摘み取らねばならないのです。

「"義人は要らない。罪人を救う為に来た"という言葉を補い、イエス様の教えを徳高く、
慈悲溢れる"寛し"の教えとされたのは、エル・ランティ様(エホバ = ヤーウェ様)で、
それがダビデの奸計を巧妙に隠蔽、助長するものとなり、悪魔の思想の温床となりました。」
 私達は真実を知らされたのです。


平等について
 すべての生き物に等しく注がれる自然の恵みのように、
分け隔てなく与えようとする心(慈悲)を、私達は自然を通して知るものとなりました。
 自然は、平等に与えますが、誰もが等しく受け取るのではありません。
 イエス様の、真理の種蒔きの譬えにあるように、善き心で受け止めた者は、
真理に、徳に生きる心を育てますが、真理を聞いても、伝えられた神の思いよりも、
己のことに、この世の生活のことに思いの行ってしまう、己に執着する者は、魂を養えないのです。
 真理の種が実ることのない者です。
 神の救いに導かれる者とは、真理に聞き従う者、真理を、神の愛を受け止めた者です。
 ですから神は愛されるに値する(神の愛を受け止めた、神の愛に目覚めた)魂を愛する
(天へと導く)と言われるのです。
 神は救いの手を差し伸べられます。その手を自ら掴む者だけが救われるのです。
 そのような者だけが、天への道を歩むからです。

 自らを救おうとしない者は救われない、それは聖書に書かれた時から変らぬ
神の教え、真理なのです。
 善に生きる意志を持たぬ者は、悪霊の支配から逃れられない、
また己が偽我によって自らを悪霊とするからです。

 神の愛が理解出来ないのは己が心の冷酷さの為であることを悟れぬ者が、
神の愛が偏っていると、神が不公平だと思わずにはいられないのでしょう。
 誰の心にも蒔かれた真理の種を育てるのは、その人だけです。
 真理に生きる、神に救われる心を等しく与えられたのではありません。
(人は生まれながらに持っていると形容された神の心とは)
人が神から与えられたものと大切に思い育てる心があって初めて
自らの心とすることの出来るものなのです。

どのように生きようとしているか、今の心がすべてなのです
(種子の中には成長の道標がすべて刻まれているのです。
 人の心の中にも何時如何なる状況にあっても光を、
正しい指針を求める神の智恵(心)を宿しているのです。
 イエス様が仰しゃった明日のことを思い煩うな、
今日のことから心を逸らしてはならないと言われたのは、
常に善我を、今を生きる人々に働き掛ける生ける神を、
神の智恵を求めよと言われているのだと思います。)
 今成長しようと努力しない者に、未来を望み得るものはないのです。

 如何に与えられても、受け止めないのなら何の意味もない、
愛が信じられないでいる者に愛が注がれても、
心に留めぬ者をザルに水を注ぐが如しとガブリエル様は仰しゃいました。
 真の愛を受け止めぬ者は、与えた方が神であることを知ることは、決してないのです。
 神の救いの思いの伝わることのない者です。

 イエス様の譬え話で、同じ雇い主(神)から雇われた労働者が、朝から一日働いた者も、
夕方に雇われ、僅かの時間働いただけの者にも同じ報酬が支払われ、
長く働いた者が不公平だと雇い主を批判します。

 長く働いた者も、短い時間働いた者も、仕事がなく失意にあるところへ、
神が歩み寄られて仕事を与えられたのです。
 その人々の心に分け隔てなく、心を満たす愛を与えられました。
 仕事の報酬としてではなく、心を救う為に愛を与えたのです。
(夕方になっても仕事に付けなかった者はその間苦しみ続けた者であり、
朝から仕事を得て幸せに与ることの出来た者よりも、
一層神が憐れまれたことは申すまでもないことです。)

 僅かな時間しか働けなくとも、神は雇ってくれた(助けてくれた、許してくれた)
と感謝する者は、神を多く愛するのです。
 長く働いて、報酬が同じであると不平を言うのは、多く神の役に立てたことを喜ぶ、
感謝することのない心です。
 感謝の大きい心には、多くの愛が満ち、感謝の小さい心には、少ししか愛を持ちません。
 多く許された者は多く感謝(愛)する、
多く愛する者こそ許されるに値する者とイエス様は神の愛を語られました。

 神(の齎した真理)を前にして、真理を認めず、
真理でないものの優劣を他と競い、他に優越する、他を侮る心に真理は理解されないでしょう。
(真に自由な心(偽我から自由であり真理に生きんとする善我)のみ知り得る最高の心を
知ることの出来ぬ人々が、ランキングに現(うつつ)を抜かすような世界を、
真に価値ある世界であると本当にそう思っているのでしょうか。
 優劣を競っている世界の価値に、人の心の価値が従うものとでも思われているのでしょうか。)

 真理に生きぬ者が、真理に、神に対して誇るべきものなど何もありません。
 神は真理を伝えられてきました。それを感受する心も与えられて来たのです。
 探す者は見出して来たのです、真理を直観する神の心(理性)によって。

 神の愛を受けるに値すると考える、そのような心に神の光は当りません。
 無条件に光の当たる所にいるのではない、光を愛する心だけがその場に立てるのです。

 無条件に与えようとする愛を、慈悲魔と呼ぶのは、
人を愚かにする、愛することのない者にするからです。
 自立することを奪う、人の精神の成長を奪うからです。
 努力する者としない者は平等に扱われてはならないのです。
 光の当たる所に向かう者に、光を受けるに値する心に光が注ぐのです。

約束の地カナンを目前にして、
神ヤハウェはモーセ様に与えた神の戒め(十戒)をイスラエルの民が守ることを条件に、
神としてイスラエル民族を守護することを約束されたのです。
 神の国に入る為には、神の国の法を守る条件に従うのは当然です。

 無条件に与えられないのは、与える者の意図に反する者も受けようとするからです。
 与えられながら、受け取りながら与えた方の思いに背く、与えられたものを悪用する、
悪いものに変える、そのような者を除く為に条件が付くのは当然です。

 条件を受け入れずに平等という所で受けようとする、
受けるに値しないものが受けることを平等なのだと彼等は言っています。
 しかし真にその価値を知る者、価値を大切にする心だけが、
生かそうとするのであり、また生かすことが出来るのです。
 そのような心を持たぬ者が、自分に価値がないと認めたくないが故に、
自分に与えられないのは自分の所為と認められないが故に、その不満を他の所為にする。
 自分の持たぬ価値を持つ者を憎み引き摺り下ろし、価値なき者の如くに思わせ、
彼等が受けて自分が受けぬのは不平等だと、自分は犠牲者であると、
自分をこのように扱う者を、社会を悪であると貶めないではいられないのです。

 無条件の平等とは地獄の世界に通用するに過ぎない、偽善を愛する者の基準なのです。
 与えた者の心を顧みることを知らない、自分の得ることにしか関心のない者が、
己を正当化する為に拵
(こしら)えた基準です。
 如何なる者も平等であると、その違いを認めない心とは、
自らと異なる判断を許さない、(善悪の)判断の基準となる真理を、
真理を明らかにする神の法を認めないものであり、
己が邪悪を赦さぬ神の法に背く、無法に邪念に生きるものです。
 平和を共存を愛をも破壊する悪魔の邪念を拒む如何なる理性も意志も持たぬ
悪魔の操り人形の戯言です。

 私達は真理に導かれ、真理を理解する神の心に目覚めるが故に、
愛されるに値する者になろうとするのです。

 神に愛される人間になりたいと思うだけではなれません。
 願望を思い描くだけではなく、その為には今何をすれば良いのか、
すべきことを知っていながらしようとしない今の自分(の心)に向き合わねばならないのです。
 何故自分を知らねばならないのかそれが分からないでは、真我が目覚めていないのです。
 光を求める芽が、水を求める根が種子の中から出て、
自然の中に、光りの中に、立とうとするのです。
 それが真にあるべき、真理に生かされたものの姿なのです。
 それが真に生きることであるから、そのように生きたから存続してこれたのです。

 進化途上で、新しい種である人類として、まだ適応出来ないでいます。
 本能に代わって人類の生存の道を示す理性に従わねば、
 人類という種は適者生存の摂理の前に滅びるしかないのです。
 そのような惑星もあったかも知れません。

 真理に生きぬ者を神は愛されない、愛は真理に他ならないのです。
 真理に生きぬ魂が、人の心に、この世に地獄を作ってきたのです。
 神の人類の救いへの思いは、真理を伝えることに表れているのです。
 真理こそ救いなのです。
 あなた一人救えなくて、正法に何の価値があるかと天上界は仰しゃいました。
 神の法、正法を信じて生きれば必ず救いを見出す時が訪れるでしょう。

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
六節 サタンによる天の計画の妨害

 (四) サタンの王国作りの為に打った布石
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」168頁
 著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より
「サタン・ダビデは、ユダヤ民族をエル・ランティ(エホバ)様のみならず、
モーセ様や私達から離反させる為に、まず、イエス様を十字架に掛けること。
 そして"律法"を絶対視させる方向に向け、
ユダヤ民族をして地上世界の支配者たらしめることで、
エル・ランティ様に対立した自分の王国を作る。


 その計画を着々と実行に移す為に、(1)処女懐妊(※9
(2)十字架上の死  (3)復活 により、イエス様の神性を印象付ければ、
より劇的にユダヤ民族を百%神に帰依せしめ得るのみならず、
他国民も同様に天に従うだろうとエル・ランティ様を説得したのです。

 その経過を見るにつれて、ユダヤ民族がイエス様を全面的に拒否するなど、
ダビデの目論見が判ってきて、エル・ランティ様はすべてを自分の全責任だとお感じになり、
私達やモーセ様、イエス様、エリヤ、イザヤなどの助力を得て、
小アジアのユダヤ民族への黙示文書や、離散し他国に定住の民に、
日本古謡や古文のような形に託して天意を伝えられたのです。
 黙示文は捕囚期の頃に確立されており、それを変化させて伝えられました。
 しかし事は単純ではなく、サタン・ダビデも片方で同じ人々に天意を歪める
霊示と黙示を与えました。
 他方では更に支配者をしてクリスチャンの迫害に拍車をかけさせたのです。」

※9注。
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」190頁 岩間先生解説より
「天上界によると、 ー 実は処女懐胎は事実であった。
 当時の天上界の王エル・ランティ(ヤーウェ)様の双児の実弟であったダビデ(サタン)が、
精子のみの物品移動により睡眠中のエリサベツ(洗礼者ヨハネの母)やマリヤの卵子に、
本人達や夫であるザカリヤやヨセフの知らない内に、
受精させるという外科的手法によって懐妊させたということです!!
(体外受精が可能となる前に既に現代医学でも試みられていた方法 ー 人工授精と似た方法です。)
  無論、このような手の込んだことは、エル・ランティ様(そして七大天使方)
の好まれる所ではなく、サタン・ダビデが勝手に計画したことで、勝手にして下さいと、
しぶしぶ許可されて行われたとのことでした。」※9注終)

〖備考
 天から齎される救い主が、神の子であると信じせさせる為に、
聖霊によって身籠られることを預言し
(精子の物品移動という体外受精が霊の働きかけではあっても、
自然の摂理以外の何物でもありません)、
その通りに実行したダビデが完全主義者であることがよく解る証言です。
 そうまでしても処女懐胎に拘ったのは、
彼等が既に知っていた生物医学の知識(受精)をやがて人類の理解する時が訪れ、
ダビデの仕組んだことであることが現天上界から伝えられようとも、
そのような神を認めようとしない、
処女懐胎を、そのような神の奇跡を信じ、サタンの描いた精神世界に生きる喜びを得た信者は、
その呪縛から、頑迷から目覚めることは決してないと、
地球人類の知性が目覚め、精神を成長させ、真の神を理解することは決してないと、
あってはならないと、ダビデは考えていたからでしょうか … 。

 天の光を、真実を伝えられても目覚めることのない、
サタンの世界から真の天に帰ることのないキリスト教会に、
天は救いの望みを失くされたのです。備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法