第一部 天の教え
第一章 天の歴史
三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは

 (一) 正法の本質
「天国の扉(77年12月初版)」96頁 
 高校生達との討論形式によるミカエル大天使長様による正法講話より
&「天上界メッセージ集・続」64頁

「例えば、あなたが良いことをした時には、自分の心が気持ちが良いでしょう。
 そして、良いことばかりを続けて行けば、ずーっと、満足が得られますね。
 満足な状態が続くということは、自然な状態、詰り理想的な状態である訳です。


「ですから、この"善の行為"というものは、自分が理想的な心でいられることでしょう。
 理想ということは、自然、草や木の自然がありましたね。
 あれが例えば、日照りなどで害を受けないで青々と茂っていれば、
果物なども順調に収穫があれば、それは理想の状態でしょう。
 これが普通の自然の姿なのですよ。
 普通の理想の状態というのは、自然の姿と善とに結び付く訳です。
 それから自然の一部を成す動物、或いは植物にも、それぞれ天敵があって、
数と量のバランスが取れております。

 増え過ぎもせず、減り過ぎもせず、"自然淘汰"と言って、それが自然の調和を保つのです。
 ちょうど良い量でバランスを取るのです。
 人間の心の""も、人と人との調和を、中庸の形で計るのです。
 自然の心は調和である。調和である。
 だから、善は自然と同じことであるということです。」

(注。
 バランスが取られる(平衡する)所まで自然は変動するのであり、
調和した状態にあって初めて生命が、種が生まれる、
人類の生存は自然の調和の中にしかないのであり、
自然に背いて生きる選択のない人類の社会にあって、
自らの意志に生きる個々人に調和を齎し得るのは、
自らの欲望を優先する偽我を捨てた、人の思いを気遣う善我を見出すこと、
その為の道が、人の心が苦しみから救われる為にはどうあるべきか求め続けられた
ブッタ様の心に明らかにされた、中庸であり八正道という天へと繫がる、
神々の導いてこられた道でした。)

現象テープ№12 「正法を学ぶ人のためにⅢ」より
 79年2月1日 ミカエル大天使長様現象
&「慈悲と愛」79年7月号初出
&「天上界メッセージ集」60頁

「大自然の法則・成り立ちというのもこれ(善我のあり方)に似ていて、
環境を形造る上に理想的なもののみが良しとされ、
理想の条件に合わないものはどんどん形を変え姿を消してしまう。
 調和という円やかな流動する様相、そこにはバランスという大切な要素があります。
 自らの内なる生命のバランス・他とのバランス。
 己を生かし他を生かすその規律の内になければ忽ち一つの環境を形造っていたものすべてが
破壊され、その中にあった生物は植物をも含めて、生存不能となってしまう。

 詰り大自然そのものが歪みや不自然なバランスを好まずに自己調整をするが如くに見えるのです。
 調和の取れた永続性を持つ自然環境は決してその中に余分な片寄り過ぎた要素を含みません。
 過度に過ぎず過少に過ぎず自然の中に含まれる動植物の数のバランスさえ一定の数を保ち、
多く増え過ぎたものには天敵という自然の与えた自己調整法があります。
 つまり過度に過ぎるものは調和のバランスを崩すものであり、
地ならしをされねば常に流動する地球という惑星上に棲息出来ず存在出来ないのです。

 恒星と惑星間の引力のバランスが崩れれば惑星の様相は一変します。
 その時、惑星上のあらゆる有機物・無機物はそのつり合いの数が変化します。
 従ってそれは生態に変化を及ぼし、現在地球という惑星上に保たれている
自然の法則と数のつり合いは一度に変化し、環境は破壊され平衡を失うでしょう。

 このようにすべてに於て(他種間の)調和と(同一種が)過度に過ぎぬこと、
詰り中庸が自然と宇宙の法則であり、
延いてはその宇宙に含まれる有機物・無機物、そして生態の法則でなければならず、
又そうすることを余儀無くされてきたのです。
 これを広義におけると言い、
人間に当てはめると同じような自然の法則に心身を従わせることになります。
 己の節制を図り心のあり方を律すること。

 それが大自然の中の一環である人間のなすべき務めであり又責任でもあるのです。
 その自然と同じ心のあり方を狭義に於ける善我の解釈にも用いて、善我は自然の成り行き、
即ち自然の法則と同じ
ようなものであると、そう『天国の扉』で述べたのです。」

〖備考
 善も愛も調和も自然の中に存在し、自然を永続せしめる為にすべての生き物に働いている故に、
人間は見出し理解し得たのです。
 又、神々が真理(愛)に準ずる方々であったが故に、
自然が与えた自己愛を超える愛の存在を知り得たのです。
 何故、人間だけがそれを学ばなければならないか。
 人間だけがその自然の働きに背くことを知り、
背いた先にある快楽(の為に生き物を殺すこと)を知ったからです。
 人間だけが自然を破壊する力を得て、現実に行使している。
 そして人間は動物のように本能ではなく、価値を見出さなければ従うことが出来ないからです。

 天上界の為されてきた(人の心を目覚めさせる真の奇蹟ではなく、
肉の目に見えるものしか信じない者への)奇蹟は、
総て自然の法則を応用した自然現象であることを証されました。

(神の伝えようとされる思いを悟らず)奇蹟を神の力の証としか受け取らない者は、
自然の法の本質(個の中庸に生きる心が全体に調和を齎す)を悟ることなく、
神の法も人の心を目覚めさせることはありません。

 存在する総てが一つの秩序に調和する、法の現れに依らず現出するものはない、
存在を在らしめているものが、人の心の中に於いてその姿を明らかにするのです。
 調和、中庸、愛、生命、永遠を本質とし、一体となって見出されるべきものが法なのです。

 正法がなかなか理解されないのは、理論が難しいといったことではなく
(理解し難いのは共産主義や統一教会のようなこじつけ理論でしょう)、
自分本位に、自分の為に生きようとする偽我を克服することが難しいからです。
(真理の種が芽を出しても(この世への思い煩いという)茨が
真理の種を覆ってしまうとの譬えにもあるように)
正法を知っても、正法を実践出来ない理由を見つけようとするのです。
 正法が難しいといった言い訳も、
本当は正法に生きることを拒んでいる偽我を認めたくないからです。

 真理に、正法に生きるということは、それまで心を縛ってきたもの(思いや価値観も)以上に
正法が素晴らしいことを理解するだけでは、執着から自由になれません。
 執着してきた世界から解放されるとは、
その世界から与えられてきたもの、あなたの偽我を満たしてきた全て失おうとも、
あなたが見出した真理の世界に生きんとする意志を、信念を持つということです。
 偽我を削り落とすとはそういうことです。
(善我とは徳を糧とする、徳に生きる心、徳を喜びとする心であることを天から教えられましたが、
善我が満たされれば、偽我の思いは自然に弱まって行くでしょう。)
 天の神々ですら、魂の研磨を怠ることがない、
それを軽んじることから堕落が始まるのだと私達に戒められたのです。備考終〗

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第一章 天の歴史
三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは

 (二) 正法の原点
現象テープ№37 「メッセージ」より
 82年1月10日 イエス様現象
「今日はもう一度あなた方に"冷たさ"を説明致しましょう。
 あなた方が冷たいと言ったのは、あなた方に熱意が無いからです。
 熱意が無いとはどういうことを言うのかお判りですか。
 又、あなた方は"厳しさと優しさ"そして"強さときつさ""温かさと優しさ"が判らない。
 すべてを併せ持とうとするが故に、すべてを失ってしまった。
 強くなろうとして、あなた方はどうなりましたか。
 厳しくなろうとして、あなた方はどうなりましたか。
 答えはこうです。
 強くなろうとした余り、優しさを忘れました。
 厳しさの中には、温かさが無ければならないのであり、
強さの中には、優しさが無ければならない。
 それでなければ、何の厳しさですか。
 あなた方に申し上げておきますが、天上界の言う強さ、厳しさというのは、
相手のことを思ってからでこそでなければなりません。
 もしあなた方の心の中に互いを思う気持ちがあるならば、

強さや厳しさの中にも、温かさや優しさがあったはずです。
 強さ、厳しさを求める余り、あなた方はきつくなってしまっただけなのです。
 互いに対する思い遣りが無い、温かさが無い故にこうなってしまったのです。
 あなた方の心の中に、今、熱意がありますか。冷めてしまっている人が多いのです。

 正法に初めて巡り合った時、心の中はどうでしたか。
 泳ぐ魚のように、飛ぶ小鳥のように軽やかであったはずです。

 今、何故そうなってしまったのか。
 あなた方の心は重く、そして冷たい。何をやるにしても苦痛が伴っています。
 何故苦しくなったのか。
 悟ることに於て、苦しさは必要ですが、今あなた方が感じている苦痛は、悟りへとは繋がらない。
 脱落へと繋がるのです。お判りでしょうか。

 正法とはどのようなものであったか。
 あなた方の心を解放するものの筈ではありませんでしたか。

 なのに何故あなた方の心を縛って離さないそのようなものになってしまったのでしょう。
 それはもう法ではありません。単なる鎖と縛りです(※1)。」

「ですがあなた方の心の中に、温かさを戻すのは簡単です。優しさも戻って来るでしょう。
 どうすれば良いでしょう。
 今、あなた方の心は空白です。まず、一から考え直してみなさい。
 どういう風に考えるか。

 もし今、天変地異が起こって、あなた方の家族がバラバラになり、家は崩れ、
あなた方の生活が駄目になりそうになったとします。
 その時あなたは何を考えますか。何をしようと思いますか。
 あなた方はそう考えて、心の中に熱い思いが入って来ませんか。
 是非助けてやりたい。残った人を助けてやりたい。
 死にかかっている人を助けてやりたい。
 苦しんでいる人を助けてやりたいとそうは思いませんか。
 それが正法の原点なのです。


 たとえそれが友人や知人でなくとも、見知らぬ者であっても、苦しんでいれば手を差し伸べて、
少しでもこの酷い状況の中から救ってやりたいと、そう思うのが原点なのです。
 そう思った時、あなたは、隣の人に対してどう思いますか。
 出来るだけ優しくしてあげよう。出来るだけいい方向へ向かわせてあげよう。
 そうは思いませんか。
 ならば天変地異の起こらぬ現代でも同じではありませんか。

 何が正しいか判らず、何が間違っているか判らず、何が悪いか判らず、迷っている人は、
天変地異に遭っている人と同じではありませんか。

 ならばその人達に少しでも救いを、正しいことを教えてあげよう。

 そうは思いませんか※2

※1注。
"真理に生きる心だけが自由であるということ"
〖参考〗
 カリール・ジブラン著「預言者」 至光社刊
 「自由について」より(抜粋)

「私は見たことがあります。
 あなたがたが町の門の傍(そば)や家の炉端で、
あなたがたの言っている自由とかの前に平伏(ひれふ)してそれを拝むのを。
 まるで奴隷が、その身を裂かれても、なお暴君を称(たた)えてやまないように。
 ああ私は見たのです。
 神殿の森、城塞の陰で、一番自由なはずの者がそのいわゆる自由を、
ちょうど軛(くびき)か足枷(あしかせ)のように、身にまとっているのを。

 私の心は痛み、血を流します。
 なぜなら、あなたがたが自由になれるのは、自由を求めるその心さえ鎧だと感じ、
自由を究極の目標として語るのを止めるときだけ。
 本当に自由になれるのは、日々の労苦、夜夜(よよ)の窮乏、悲歌が消えるときではなく、
むしろ、生きているあなたがたをそれらが取り巻いていても自由で縛られず、
またそれらを超えて起
(た)っているとき。

 しかしどのようにその日々夜夜を超えて起っていられましょう。
 もしあなたがたの分別の夜明けに、
自分の日盛(ひざか)りのまわりに巻きつけてしまったその鎖を打ち砕かないならば。
 まことに、あなたがたが自由と呼んでいるものは、
この鎖のなかでも最も手強いもののひとつ。
 たとえその輪が陽光にきらめき、あなたがたの目をくらまそうとも。
 自由であろうとして自分の身から払い落そうとしているもの、
それは或いは、あなたがた自身の一片(ひとひら)ではありませんか。

 あなたがたが抹殺しようとしているものは不正な法律(おきて)かも知れません。
 でもそれは、もともとあなたがたが自分たちの額に、自分の手で書き込んだもの。
 法律(おきて)の書を焼き捨て、裁判官(さばきて)たちの額を洗おうとして、
たとえ大海の水を注ぎかけても、それを消し去ることは出来ません。

 暴君を廃絶したいというなら、先ず見てください。
 あなたがた自身のなかに据えられてきた暴君の玉座が砕かれたか否かを。
 なぜなら、いかなる専制君主といえども、
自由な者、誇り高い者たちを、どのようにして支配できましょう。
 その専制がかれら自身の自由に、その汚辱がかれら自身の誇りに及んでいないならば。

 あなたがたが捨て去ろうとしているもの、それが煩わしさというものなら、
それは自分で選んだもの。無理に背負い込まされたものではない。
 あなたがたが振り払おうとしているもの、それが不安だというなら、
その不安の座はあなたがた自身のなかにこそあり、
不安を与える者の掌(て)のなかにではない。

 まことにこれらのすべてのことは、あなたがたの存在のなかで、絶えず包み合って、
揺れ動いています。
 望んだもの、恐れたもの、忌み嫌ったもの、愛しんだもの、
追い求めたもの、そして逃げたいもの。
 これらのものが、あなたがたのなかで動いているのです。
 光と影のように、からみ合い、対(つい)になって。

 やがて影が消えてしまっても、次には、漂っている光が他の光の影となります。
 こうして、あなたがたの自由がその足枷となるものを失うとき、
こんどはその自由自身が、より大きな自由にとっての足枷となるのです。

 悪しき権力者の牛耳る選挙区で生活しているある者が、
彼が選挙で選ばれなかった時は自分達は生活を失うのだと言っておりました。
 そのようにしか考えられなくなって、まだ彼等は自由を失ったとは思わないのです。
 彼等は政治家に飼い慣らされて来たことを認めたくなくて、
生活が楽になるから彼を選んでいるに過ぎないのだ、
自由でありたいからと自分に言い聞かせているのでしょうか。
 楽な生活を失いたくないだけで悪しき政治家を選んでいると思われたくなくて、
生活を失うと自分自身をごまかしているのかも知れません。

 仮に悪しき政治家から解放された時、
自分の意志なくば生きられぬ、誰も助けてくれない世界を生きることよりも、
自分を守ってくれる、言われた通りにすれば自分の生命を守ってくれる者に従おうとする
依存心だけがその者に残された心であり、
その心を受け入れる、それが自分であると自覚した時、
人は己が自由に生きる(生命を守るものが自由ではなく、生命を全うする心が自由です)
ことよりも、自由に耐えられぬ依存心から従うは、強制からとはもうごまかしようのない、
自らの意志がそれを望んだのであり、
支配者に顧みられるためなら競って魂を捧げようとする者の一人なのかも知れません。
 如何に生きるかではなく、ただ肉体の生命を守ることしか考えない、
死後その者に残される魂にとって、肉体に、この世に執着するとは、
魂を殺すに等しいことを自ら行っているのです。※1注終)

※2注。
 神を見失ったが故の苦しみであることを悟れないばかりに、
偽りの救いを、幸せを約束する悪魔(この世)を神と信じた人々の心に、
真の神の救いから零れて行く絶望を天は見られました。

 救った者の愛が信じられた時、救われたことを知るのです。
 本当の救いが何であるか知るのです。
 自らが救う者となる、愛に生きることを知るものとなることが真の救いなのであり、
真の救いを齎してこられた天の思いに繋がるのです。

 真の救いを、神の導きを示すことなく、
偽りの救いを示す者は、
人を破滅に導くなら、人にそして神に対して罪を犯すものです。
 人に不幸を齎して己の悪に苦しまぬ善意など只のナルシシズムです。

 又、あなたが苦しみから求める救いが、
偽りの幸福に浸る人々の内に見るなら、
神が自分の為に与えられたのだと、人を自己満足に満たすようなものは虚栄
(堕落させんが為に悪霊が与えた)に過ぎぬもの、
神を、神の愛を求める善我を人の心から奪わんが為に、
人を偽りの心に生きる為に、人の心をこの世に縛る為に
悪霊の与えた喜び、虚栄心の糧(この世の持てはやすもの)であることを伝えられた
天の忠告を思い返すべきなのです。

 神と何ら係ることのない世界しか理解できぬ心に留まるか、
それとも苦しくとも、苦しいからこそ悪の世に善を求める心に生きていると、
神に導かれていると、真理を知る心に、光の中に在ろうとするかは、自分の意志次第なのです。
 神がその道を明らかに示されたのですから、
あなたは真理を見たのだから、
真理を見出せぬ心から救われた者なのだから、
天の道を脱落していった ー
真の己を知ろうとせずに、自己欺瞞を許し、
自己愛に自己保存に生きる偽我を心の内に隠し育ててきた者が、
真理に神に出会った時、真理よりも神よりも己を高しとする、
悪魔の高慢から悪霊と化し滅んでいった ー 者について証された
イエス様の思いが理解されるのではないでしょうか。

 真の愛に生きる心を得た者は、人を救わんとする愛に生きる心は、
既に自らを救っているのだと、
愛に生きる心が神の救いに与る、神と共に生きる心であることが解るのです。

 神は愛すべき者を愛する、愛を受けるに値する者だけが神に愛される
(神と共に在ることを喜びとする心だけが、天の光(慈愛)の下に来るからである)

とはそのことです。
 愛は愛に生きる心に於てのみ在るのだから、愛に生きない者が、

愛されないのは不当である、それは神の愛ではないと非難する時、
彼等はその憎しみを満たすことに、神を否定することに喜びを得ているのです。
※2注終)

「あなた方が、その気になりさえすれば、冷たさや空白感は消えるでしょう。
 だが、それも待っていては、何も出来ません。
 自分で始めなければならないのです。
 まず、そういう状態が苦しいと思ったならば、努力しなさい。
 何時迄も何時迄も、私達があなた方一人一人に、手を差し伸べていることが出来るでしょうか。
 あなた方は自分で、救われなければならない。
 そして、まだ救われぬ人に、手を差し伸べなければならないのです。

 その為にも、賢くならなければならない。
 そうではありませんか。

 今日は、これから、沢山の人が現象をするでしょう。心して聞いておいて下さい。
 同じことを繰り返して、いろんな方が、お話をなさいます。
 ですが、同じことを繰り返して天上界が言うということは、どういうことなのか。
 本当に、本当の意味が、天上界の悟ってほしいと思っている意味が、
あなた方に伝わっていない
と見ているからです。
 少しの機会も、無駄にしてはいけません。努力して下さい。
 あなた方一人一人に、お客さんになってほしくないからです。仲間ではありませんか。
 私が生きていた頃に、法を広めようとしたように、
あなた方も又、私達の仲間ではありませんか。
 分らぬことがあれば、聞いてきて下さい。分らずともよいのです。
 一回で分らぬ者を、馬鹿者と怒鳴りつける程、天上界は狭義ではありません(※3)。
 ですが、その前にまず、あなた方は考えなければなりません。
 考えて、考え抜いて、それから私達に聞いて下さい※4)。
 そうすれば、自分のどのような所が間違っていたか、分るでしょう。
 それではこれで、私の現象を終ります。

※3注。
 天上界は解らないものを愚か者と言われているのではありません。
 解らないでいながら、解ろうと努力しない者を愚か者と言われるのです。
 誤って改めないのを過ちと言われるのも、
誤った為に人に迷惑をかけたからと反省して改める、
偽我から逃げずに直そうとする、向上しようと努力する時、
天への道を歩んでいるのだと言われます。※3注終)

※4注。
「現代訳 論語(述而第七の八)」下村湖人訳
「私は、教えを乞う者が、まず自分で道理を考え、
その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。
また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引きを与えてやらない。
むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。
しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、
二度と繰り返して教えようとは思わない」

 我執から逃れられずに苦しんでいる者なら、現天上界を信じている者なら、
彼等のメッセージの中に答えが与えられていることを知らない筈がないのです。
 それでもメッセージの中から、求めていた真理を見つけられない者は、
真理についての理解力を養ってこなかったのだから、何度でも解るまで読み返すことです。

 このようなメッセージを学べる機会を得て尚、それを為そうと欲しないのなら、
真理に、自らの意志で生きんとする自我に目覚めないのなら、
真理に生きようとする意志を持たない、
自ら生きぬ故に責任を担う苦しみがない代りに、克服しようとの精神の目覚めもない。
 如何なる結果となろうとも自らの人生を自分の意志で生きることよりも、
自ら考えることを捨て去り、責任の自覚なく、人に言われるままに生きる
(左翼に持て囃されているだけのコメンテイターの言うがままを信じる)
精神の隷属も苦しいと思わない。
(同じ宗教を信じさえすれば救われると、
その心(が真理に生きるものか)を問うだけの真理への愛を持たぬことも悟れない。
 同じ思いの信者の集まりに、神に愛される者と神に救われる者と互いに思いを強め合う、
その為に群れる。
 真理に生きぬことを、神の心を失ったことを悟らぬ故に慢心する、
天の救いから零れた者、堕落した魂とはそれであると悟れない。)
 真理に生きる精神の齎す真の幸せも、
その精神に於て見出される神に齎されたあらゆる真理の観念も、
ただ言葉(知識)だけに終わる者、真理に生きる知恵を見出だすことのない者です。※4注終)

〖備考
 悩みを克服出来ずにいる、疑問を解決出来ずにいる者が、
克服して、解決して来られた人を知り、学ぶことが出来るのはすばらしいことです。
 しかし肝心なことは、精神を成長させねば解決には繋がらない、
自らを救うことは出来ないということです。
 正しい知識に、指標に、真理に生きることを通して、
安楽へと、精神の堕落(退行)へと導く甘言を見抜く知恵を、
苦労の先にある精神の成長を信じる心を自分のものにすることが出来るでしょう。
 悩まなくなりさえすればいいのではありません。
 感受性を鈍くすれば、人の神の心に繋がることがない。
 人の思いも感受出来なければ、
自分の喜びしか感じない心は自分の為だけに生きるしかなくなります。

 神を求めているのなら、何よりも神ご自身が直接人類に語りかけたメッセージに
耳を傾けないでいられるでしょうか。
 その思いが本当に伝わって、それまでの自分の心の本当の姿を知って、
そのままでいられると思われるでしょうか。

 神の思いに応える内なる神の心に目覚めない、
真理を求める心を顧みることなく、心の飢え渇きが神の心から来ることを悟らず、
目に見える上辺で、人の賞賛で得られるものと、
偽りの真理を信じさせたこの世の、悪魔の価値を追い求め、
真の心を見出せないでいるのです。
 一生を通して私達の心と共にあって、
思いを掛けてこられた合体霊や守護霊の思いにすら耳を傾けずに生きてきたのです。
 このメッセージに出会えたのは、
彼等の導きであったことさえも悟れないでいるのではないでしょうか。〗

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは

 (三) 真理である正法
「JI」82年3月初出 ラファエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」146頁

「正法が科学であることを説明出来ますか?
 単に真理であるから何にでも一致する、と納得してはいませんか。
 それでは宗教団体の説明と同じです。
 正法が真理だというのは何ゆえにそう言うのでしょう。
 科学的とはどういう意味なのでしょう。

 真理であるというのは、あらゆる場合に於ても適用出来るということ、
すべてのことに繋がってゆくことを言います。
 科学的というのは、その根源に何があるかを突き止める方法を指します。
 正法を科学だというのは、心の動きを解明し、何故そうなるかを探り、
解決を目指すからです。


"救い"とは迷わなくなることだと以前メッセージを送りました。
 宗教では一切の迷いと病根を、神に縋ることによって放棄することを救いと言っています。
 それでは "救い"にならないことは諸宗教団体を見ればお解りでしょう。
 正法は何処にでも繋がる、何に対しても解決が見つけられる、答えがある、というのは、
科学的方法に依ります。
 何故そうなのか、そうなるのかと考えてゆくからです。

 そしてその後どうするかを決め、努力してゆくのはあなた方自身の問題です。
 又、正法だけで人生が成り立つものではありません。
 正法は科学であるということは人生の方法論という意味でもあります。
 正法に色々なものを通し、より良いあり方、観方を見つけてゆくのです。
 正法を宗教染みたものにしてしまうか、真理として活用出来るかは、
あなた方の認識に依っています。正法とは、そういったものです。」

「JI」88年3月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」95頁

正法が新旧宗教と異なる点は、法の解釈が、奇蹟に関わるものでさえ疑問の余地なく解明され、
良識と科学的な分析、真理に裏打ちされたものを良しとする方向付けが為されてきたことです。


「JI」82年4月初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」147頁
「正法は宇宙の法である、それを悟れ、と言うのではありません。
 それを自己の中にどう生かすかが大切なのです。」

「宇宙の法則を体得し悟るのが偉大なのではありません。
 宇宙の法則を踏まえて、どう役立てるかが問題なのです。」

〖備考
「正法は何処にでも繋がる、何に対しても解決が見つけられる、答えがある、というのは、
科学的方法に依ります。
 何故そうなのか、そうなるのかと考えてゆくからです。」
「正法に色々なものを通し、より良いあり方、観方を見つけてゆくのです。」
とラファエル様が仰しゃいましたが、
正法とは何々である、それが答えであると納得するだけなら、共産主義や宗教と同じです。
 正法とは科学であるとは、真理の発見に至る道理を理解するだけの知能を
どのように獲得して行くか、知能を開発する方法なのです。
 真理を見出す、真理に生きるべくブッタ様が悟られた八正道もそうです。
 
 共産主義者や宗教のドグマに縛られた者にその誤りを教えても、
彼等には理解する知能がないのは、共産主義や宗教が知能を開発させないからです。
 その理論が真理であると、その理論を理解さえすれば真理を知ったと納得するのであり、
共産主義を宗教を理解しない者は、真理を理解する知能がない者と見下す、
その優越感に浸るナルシシズム(本能に根差す心)から
真理に生きる善我へと踏み出すことはないのです。

 しかし正法は人の知能を開発するものです。
 何故なら真理とは道であり、知能を高めることで真理の頂である神の叡智へと導くものだからです。
 盲いた者に心の目を開かせるのは、知能の開発しか方法は残されていないのです。
 知能が開発されることなく、知識の理解だけで真理に生きていると盲信する心は、闇です。
 闇を明らかにする真理の光とは、闇に蠢(うごめ)く邪念を明らかにするのです。
 闇に在って、知能を開発する術を与えられることなく、
邪念に精神を支配され自由に考えることも知らず、
真理に生きていると信じる彼等の心に、真理の光の差し込むことはないでしょう。備考終〗


宗教と科学の一致について
 宗教も科学もその目的は、人々が認識出来ないでいるものが真実であること
(存在していること、その存在の原因)を証明することです。
 科学は目に見えぬ法則も科学的に証明されれば
(人間共通の理性によって如何なる者にも同様の理解を齎す時)、
理性を持たぬ者が否定しても科学的立証は揺るぎません。
 宗教は直観された者に取ってのみ真実であると認めるに過ぎないものです。
 直観されぬ者に取っては、何の意味も持ちません。
 神は証明し得ないものと、証明を必要としていないのであり、
神は神の愛する者に、神への理解を与えるのだと、
自らを神の恩寵に与る者であると信じさせる選民意識の愚を悟れぬ為、
信仰を持たぬ者が否定しても宗教的立証は揺るぎません。

 科学を理解する知性を人類が持たぬ時代に、宗教が齎されました。
 宇宙を在らしめる法則を理解する知性のない人類は、
人間の理解し得る人格を持つ神に生かされていると理解することで安心を得ました。
 そしてその安心を奪う、理性の開発されていない者に取って理解し難い科学は
"神"への信仰を脅かすものとして、科学を悪魔の教え(邪教)と人々の理解を阻んできました。

宗教と科学が一致するとはどういう意味なのでしょう。

「天の奇蹟・上巻(80年10月初版)」192頁
 著者(岩間先生)の質問へのラファエル様による解答より
「旧約の創世記の天地創造の由来が、
アメリカの一天文学者によって、現在は天文学者間の多数派見解となっている宇宙生成因の、
宇宙大爆発説と似通っていると主張されているそうですが、
実は私達がベー・エルデ星における科学界の通説を、
ここ地球に於て前二千五百年の聖書編纂者の意識に働き掛け、
書かせたということを改めて公表致しましょう。
 神学的叙述が実は科学者の知識に支えられたものであったことをあなた方がお知りになれば、
宗教と科学はさほど遠い所にはないことに益々確信を深め、再認識をされるでしょう。


「天国の証(78年8月初版)」104頁 パヌエル様メッセージより
宗教と科学を切り離して考えないで下さい。切り離す所に大きな人間的欠陥が出てくるのです。
 科学者こそ神とは何か、人間とは何か、その在り方、なすべきことを常に認識し、
人に問われれば説けるものでなければなりません。
 人間に対して無責任で、学問をのみ追求するが故に、

道徳心が歪められ薄められてくるのでしょう。
 発明、発見結果に対して責任を負わない人格が出来上がるのです。

 ことの正確さをのみ問うていては、果してそれが善悪の基準に当てはめる時、
どのような性質のものであるか ー
その事に関して第二義的にならざるを得ないでしょう。

 善悪を知り、それを選択し、行為に表す。
 それを可能ならしめるのは人間のみに与えられている知能の高さです。
 原因、結果を究明出来るのは人間のみです。その対応策を考え得るのも又しかりです。

 最高の知識を得ていても、道徳心が欠如していては、
知能犯と同じであると結論を下されても反論出来ないのです。
 そして如何に学識者に徳の心を欠く人が多く見られるか(注。学術会議はその典型) ー
それは嘆かわしい限りなのです。

 それ故に天上界に於ては、善悪を追及する僧職、宗教家がずっと高次元を占めてきました。
 人類に寄与するのは僧侶の徳の心、神の教え、の方が大きいものがあったからです。
 徳が養われなければ、知識だけでは世の中は改善されません。

 そして今まではそれで一つの秩序が保たれていました。
 しかし天上界のごく高次元を占める方々が実は科学者であり、
科学者の転生であるという説をなるほどと納得されたならば、
これからは科学者は考えを改めて頂かねばなりません。
 事実、私達七大天使(ミカエル大天使長を含む)及び最高権威であるエル・ランティ様は、
ベー・エルデでは科学者(物理学者、医者)が多く、又その転生の過程でも、
科学の知識を出来得る限り身に付けてました。
それは『天国の扉』では発表致しませんでしたが。
 そしてもし、私達が地上に平和が齎された時を境にこの地球を離れ、他の星に行くとすれば、
(或いは地球上の平和を諦めて只去るとすれば)
後は再び地球人類の手に天上界と地上は委ねられるのです。


 四次元と三次元の平和は心のみではなく、多く科学的処置を必要とするのは事実です。
 森羅万象物質の世界に私達は住んでいることを忘れてはなりません。
 それを観念的に解釈しているだけなのです。宗教家といわれる方々は。
 しかし宗教家だけでは科学知識の豊富な悪霊と戦い、滅すことは出来ません。
 私達は物理学者がサタンと化した者の為にそれを如実に知り得ました。
 地上の平和を維持する為に科学者の知識が絶対に不可欠のものです。


そして繰り返して科学者として世にある方々に申しますが、
宗教と科学は共に人間の知識と知能から出たものであり、

天国と地獄が人間の作ったものであると同様、 それは一元的に解釈すべきものです。
 決して別個に存在するものではありません。

 これは宗教家にも言えることですが、科学と宗教が対立し、
宗教が科学文明の進展を阻害する、躓きとなる、
そのような暗黒の十六世紀がこの現代に再び繰り返されてはなりません。
 そして同じ人間の二面である以上、科学者も又その良心に於て、
最後の審判の対象とされていることを忘れてはなりません。

現象テープ№27 「正法流布について」 80年8月11日 ガブリエル様現象
(「天上界メッセージ集・続(86年1月初版)」92頁掲載)

「霊の存在は信じ難く、神に代って登場した科学のみが強要される現代です。
 その科学さえも、行き詰りを見せようとしている今、
宗教と科学の一致をモットーとする、私達が立ったのです。
 曾て科学というものは、宗教に対する信頼が失われた時に、
神に代って、神の概念を変えるものとして神の代りを努めてきました。
 科学に対する信頼は、曾ての人類の神に対する信頼と同じなのです。


 ベー・エルデから来られた現天上界の方々は、
宗教(真理に生きる心の内に、自然、宇宙の法・真理は直観されることを教える)
を信じる心と、真理・法を明らかにし、真理を愛し生きんとする心
(理性・真理に則った科学的思考)と行為の調和した人格を持っておられました。

 異性への愛は、種の存続に生きようとする本能の働きであり、
本能に根差した恋愛の感情は、神の愛
(本能の示す自らの生存の道から他を救おうとの道に生きるを求める)
に相応しくないと悩む若者にラファエル様が応えられたように、
神の愛は、本能の(自己)愛が昇華した思いであり、
自分本位の愛を、人への思いへと、
自らの意志によって昇華させた者が自らの心とし得るものです。

 それを成し遂げた健全な精神とは、理性と本能が調和された心であり、
本能を正しく生かす心(理性)なくば、自他共に生かす心(神の愛)へと
昇華することはないからです。
 生命を永続させてきた(本能の求める)自然の法と
調和を齎す自然の法に他を生かす愛を見出した(理性の求める)神の法に生きるとは、
邪心を知らず本能にのみ生きる生き物の自然の中に生きる姿であり、
自然の法に生きる本能を失った人類の調和への道標が、神の法です。

 極端へと進む心とは人格の破壊生命の危険を察する本能が機能しなくなっているのであり、
破滅までブレーキが掛からないというのは心が病んでいるとしか言いようのないことです。
 そのような心に陥っては、欲望が満たされようとも、
心の病が癒される、善なる思いの生きる心に立ち返ることは出来ないのです。
 正法とは心の病を治す場ではなく、
健全な精神へと成長する為の場であるとラファエル様の仰しゃったのは、
悪へと進む心を抑止する為には、悪を知らしめる善なる心を育てるしかない
ということだと思いますであり、
極端とは、欲望への衝動に駆られていることも悟れなくなった心、
ただ自らの主張を通そうと支配欲に生きんとする心、
自己の信ずるドグマ、イデオロギーに執着し客観的な真偽の判断を失った心、
自らの心の有り様を顧みることの出来ない状態であり、
善我(理性)を見失ったからこそ、偽我なる心の暴走を許すということです。
 自らの神の心(善我)を滅ぼした偽我の行き着く先は、
人の神の心をも滅し去ろうという邪念に支配された悪霊の心です。

 中道とは単に中の道を言うのではありません。
 他者を生かす道において最適な方法を言うのです(現象テープ№32)、
とラファエル様は仰しゃっていますが、
理性と本能、宗教と科学、一方を否定して一方を選ぶ極端を盲信する偽我に支配されぬように、
どちらの心も調和に必要な、生かすべき心なのです。
 そのような両端(と、あたかも対立する概念のように捉える心の働き)を冷静に見つめる心を、
理性にあって正しく認識しようとする善我を育てることが出来るのです。

 善を知るには悪を知らねばならないと言うのも、
悪への心(条件反射)、偽我とは、偽我に生きる人々の中にいるからには、
常にその人達から誘惑を、刺激を受ける故に湧き上がってくるものであり、
摘み取らねばならないものとブッタ様が仰しゃったように、
偽我を覚る善我は、自ら育てなければならないのであり、それを為さしめるのは、
神の心が自らの心に生きているとの自覚、神への信仰しかないのであり、
人が善我(神の心)に立つとき、天上の心と確信される思いが表れるのです。
(それが天の伝えてきた教えの確信を齎すなら、真に天上界が伝えようとした思いなのです。
 悪霊の心とは正反対の波動なのですから、
そのような悪霊と相容れぬ思いを齎したのは天上界に間違いないと素直に信じられるなら、
それ以上に望ましい心があるでしょうか。)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法