第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
イエス様の時代に為された奇蹟は、イエス様が救世主である証明の為であり、
イエス様以降、人々に見せることを目的とする奇蹟が行われなくなったのは、
そのような奇跡では人が改心して神の道を歩まないこと、
メシヤにより福音(神の救いの証)は伝えられたのだから、
教えに従って生きることで、自らを救わねばならない、
メシヤに依存していては、サタンに騙されない知恵を、
善我に徹する精神を培えないからです。
そして天の聖霊による合体という奇蹟で、
その精神と智慧に導かれた人々により、この世に神の救いを実現させました
(同様に悪魔に導かれた者により、この世に破壊が齎されました)。
真の奇蹟は、神を求めぬ者には隠され、俗なるものを求める(神を貶めて恥じぬ)
者から聖別された、神を愛する者にのみ与えることにより、
彼等に神の使いであることを覚らせ、神の存在と意志を伝えさせたのです。
天は(悪魔の働きによる)宗教の堕落から真理を見失った人類を救うべく、
より一層真理を明らかに理解させるために、進歩を促された科学によって証明された真理と共に、
真理を直観へと導く理性を育てる(盲信への短絡的思考の精神に留まることなく、
能力開発によって齎される、信じるのではなく理解によって真理を見出すべく)
科学的な思考の習得に向けても力を注がれました。
奇蹟が見出せないからと、神は沈黙されていたのではありません。
奇蹟を求める者は、神の心を求める者ではないのです。
奇蹟の与えられることを求める(奇蹟を与えられれば信じられると言う)者は、
悉く悪魔に心を読まれ、悪魔の罠を見抜けずに破滅に導かれていったのです。
霊が意志する時、その霊体が電磁場となり、エネルギー(思念)になる。
地上の磁力を利用することでエネルギーを増大させることが出来る。
神の奇蹟と言われてきたものですら、
地上の磁力の強弱に左右されるものでしかない事を伝えられるこの霊は、
人々が奇蹟に従うのではなく、自らの意志で真理に生きんとする
神の心に呼び掛ける為に、目覚めさせる為に現れたのです。
天が、本当に伝えたい事、知って貰いたい、
真理を理解して自らを救ってほしいという願いも心に伝わらず、
奇蹟が無ければ信じないなどと言っている者が如何に救いから遠くに自らを安住させていることか。
奇蹟があればこそ、神が全知全能であることを信じることが出来ると言う信者は、
力を信仰しているのです。
力ゆえに神と判断出来るとする者は、力に圧倒された時、
最早悪魔であるか否か見抜く理性は無く、悪魔を崇拝する者となることを知らないのです。
(天の聖霊が転生し、人間の魂と一体となり、同じ精神の働きを習得した)人々が、
神の精神の叡智を見出して行きました。
人が神の理性を培った時、理性の内に神は現れるのです。
神は力により人々を支配されることも、人々が神の力を求めて従うことも望まれません。
同じ人間の心を持たれる神が、人々に神と同じ心に、神の愛に生きることを願われる。
その心無くしては、神の思いは理解し得ない、
力への信仰から神の心を見出す者はいないからです。
奇蹟が見出せないばかりに、神の救いを疑う。
神の人類への思いに不信を抱く。
それ程に人類は神の心から離れてしまった。
それでも神々は、信仰は強制することでは心に自由を齎すことは出来ない。
自由なる意志によってしか、自らを救う真の信仰を持てないのだと言われました。
(一) 神による奇蹟
① 真の奇蹟
「JI」81年10月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」142頁
「神の奇蹟とは救いを含みます。
救いとは迷わなくなること、諸問題の解答を自己で見つけ得ることを意味します。
愛と正義と信義の確立です。
そして汚濁と混迷の中にあり迫害と敵視の中で義を通す者、
愛を貫く者のことを神の奇蹟というのです。」
「神の義を通した者は、イエス・キリストのように人々に指針を与え続けるのです。
あの方は地上に於て、病を癒した聖霊の力で人々に救いを与えたことにではなく、
生命を賭けた流布活動に真価があったのです。
その勇気を起こさしめたものが、奇蹟と呼ばれる神の光りです。」
「天の奇蹟 上巻(80年10月初版)」8頁 ミカエル大王様「奇蹟」全文
&「メッセージ集・続」31頁
「遥かな太古に於て神はその奇蹟の業を怒りと慈悲を以てなされた。
それは人々が未だ無知であったからである。
現在に於て神は忍耐と憐憫を以てその奇蹟の力を現される。
人々は悪を知りながらその理性が働かぬからである。
審判は夢物語にあらず神と正義の憤怒が怒涛の如く押し寄せる。
その数々の災害が襲う中、天を見つめ愛と信義を貫く者が自らの身に奇蹟を起こしているのだ。
奇蹟とは多くの目と耳と口の前でなされるのではなく、
必要な者にのみ神より与えられる神の使いを証す為のものである。
奇蹟はモーセの行った如きの規模のものであろうとそれ自体手段に過ぎず、
多くの意味は持たない。
寧ろ神を信じそれが故に迫害される者の心に勇気を与えたという点で、
大いなる業というものなのである。」
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
(一) 神による奇蹟
② 奇跡の目的
「天の奇蹟 上巻(80年10月初版)」104頁
著者(岩間先生)の質問へのラファエル様による解答より
「奇蹟というものは神と呼ばれる人間の霊による作意であり、
人為的に拵え上げられた舞台及び演出効果であるということ、それ以外にはないのです。
私達が霊であるが故に、
人間の身体という衣を着ている間は可能でなかったかなりの能力を会得し、
それを駆使してあなた方人類に畏敬の念を起こさせ、
それによって天の権威と言葉と法に従わせ、あなた方を正しい方向へと導く。
その為の演出であり、舞台設定であるのですから、
悪霊やサタンの力が威を振い、只人を傷付け不幸に陥れ、天から引き離す為の
誘惑的、且つ破壊的奇蹟とは自ずから質を異にするのです。
勿論、奇蹟の現出はあくまで私達天の声を人々に素直に聴かせ、
受け入れてもらわんが為のもの以外にはありません。」
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
㈠ 神による奇蹟
③ 神による奇蹟の謎の解明
イスラエルで為された奇蹟が、日本では為し得ない訳。
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」342頁
著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より
(聖書に書かれているイエス様の変容についての質問に言及されて)
「強い思念で身体が電磁場となるのは、ガリラヤ地方の電磁場の度合いから見て有り得ることです。
それが為に天の多くの霊がエネルギーを当てると光に満ちて、衣服も真白に輝いたのでしょう。
日本で同様な事を行っても、同じ現象は出ませんでした。
写真には写し得ても(※1)、肉眼では見えないのです。
同じ理由でフィリピンに於ける心霊手術なるものも、強度の磁場に助けられて可能となるのです。
霊がエネルギーを少し加えただけで、
メスを使わずに心霊者の手が電気メスの役割りを果たすのですね。
フィリピンで可能な事が日本では可能でありません。
だからユリ・ゲラーを演出させた悪霊はテレビ局の電力を利用しました。
テレビの前のスプーンを曲げるのは、各家庭に潜り込んだ悪霊が、
別の霊達が局から流した強い電流を感じた人の前で曲げて見せただけなのです。
霊の数が多ければ大規模な現象が可能です。
超能力などは存在しません。」
(※1注。
「二節 天の奇蹟について (三) この世の人々に直接語りかける為に神のなされたこと」
の文末に写真を掲載しました。
「天上界メッセージ・続」から転載したものです。)
「天の奇蹟 中巻(82年9月初版)」95頁
著者(岩間先生)の質問へのミカエル大王様による解答より
「死海がある上に地中海も深層水が比較的高温で、塩分濃度も大西洋より大部分の水域が高く、
且つ地中海火山帯という地中海の2/3を占める火山帯もあります。
火山・地震国である日本と比較すると、地磁気の強度は大阪以降に似ておりますが、
地質、水質、生物界に含まれる塩分濃度は、あの辺り一帯の気象条件から局地的に異常に高く、
日本の比ではありません。
地質や水質に関しては地中海沿岸諸国もかなり類似しております。
塩分濃度が高いということは、電気伝導率が高いということに注目して下さい。
又、イスラエル周辺はアフリカ中部以南、赤道環電流
(注。奇蹟の現出に利用された。電力など無い時代であり、奇蹟現出の場となった要因)
が西向きに流れている地域に近く、それが気流の方向によって北上する可能性も多いのです。
赤道に近く、太平洋側にミンダナオ海溝が横たわるフィリピン群島のルソン島などでは、
今も心霊手術がいとも容易に行われており、日本では可能でないことです。
このようにこの両地域に比べれば、日本は奇蹟現出の難しい所で、ユリ・ゲラーや、
最近マイトレーヤー如来の覚者と称する悪霊仲介の英国人霊能者が行っているように、
テレビ局の電波を使う位しか中々良い方法はないでしょう。」
〖備考
イスラエル(死海近辺)は磁気の強い土地であった為、
霊体のイエス様に天上界が強いエネルギーを与えると、
人の目には肉体の如くに見せることが出来ました。
イエス様が魚を食べて見せた(※2)ことで、弟子達は復活したイエス様が霊ではなく、
生前のままの肉体であると信じました。
(※2注。
イエス様が食べたと見せた魚は、善霊により隠して捨てたとの天の証言です。※2注終)
すべての戸の絞められた(錠の掛けられた?)部屋にイエス様が現れたことが、
何度も聖書(※3)に記されているのは、
復活したイエス様を肉体と考えた為に、理解し難い奇蹟と思えたのでしょう。
(※3注。
ヨハネによる福音書 第二〇章 一九節
「自分たちのおる所の戸をみなしめていると、
イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。」
ヨハネによる福音書 第二〇章 二六節
「(後日、別の場でも)戸はみな閉ざされていたが、
イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。」
戸の閉された部屋の中に現れたという意味であって、
イエス様が戸を開けて入ってこられたのなら、戸が云々などと書くまでもないことでしょう。
※3注終)
〖人々がイエス様を霊であると知ったら復活とは考えなかったでしょう。
それまでも歴史を通して天の霊がイスラエルの人々の前に現れたことを、
また見えなくとも悪霊に憑依された時と取り除かれた時の人々の心の変りようからも、
霊の存在は、神の存在と同じくイスラエルの人々の信じるものでした。
亡くなられたイエス様が人々の前に霊として現れたと思われたなら、
肉体として蘇ったと人々が信じなかったならば、神の奇蹟とは思わなかったでしょう。
霊が存在することも、嘗ては人間であったと信じることが出来ても、
霊は二度と人間のようにこの世に生きられないと考えられていたのだから、
神は霊に生前と同じ肉体を与える、人を蘇らせることが出来ると信じる
(神は石ころからアブラハムの子孫を作ることが出来ると言った洗礼者ヨハネを、
人々は神の予言者と信じたのだから)時、
それが神の御意志であると信じる時、人は死の不安から救われたのでしょう。〗
イスラエル以外の土地では、天上界がエネルギーを与えても、
人の肉眼に霊体を確認させるのは困難であると言われました。
神々は限られた(磁気の強い)場に於てしか霊は姿を見せることは出来ず、
霊能力を与えられた者を通してしか語りかけることが出来ません。
霊体は、人の目に見えず、霊能者を通して語らないと聞くことが出来ない、
その霊が、本物の神々か、悪霊が成り済ましているかは、その言葉で判断するしかない。
その霊を仲介する霊能者の人格(悪霊を見抜くことが出来る知恵者であること)が、
神々に認められねば、霊能は与えられません。
(サタンによるサタンの為に霊道を開かれた霊能者とは正反対の性格です。)
イスラエルだから可能であった、どこでも誰にでも解るようにイエス様が現れるということは、
イスラエル以外の地では起きないのですから、天上界がその存在と共に真理を伝える為に、
私達が正しく真理を捉えることが出来るように、
天上界の善霊を(合体霊として)遣わして下さいました。
"天上界がカナン(パレスチナ)の地を神の国(イスラエル)とされた訳"
カナンの地は、霊が人の目に姿を見せることを可能にする磁気の強い土地でした。
天上界が人類の前にその存在を明らかにし、人類に真の神の存在を確信させ得る、
神と人類の交流を実現させる為に、
アブラハム様(とその民)をカナンへと導かれたに違いありません。
神が神の民とすべき民族を選び、神の国に相応しい地を選び、導かれました。
選ばれたヘブル人に天の導きを与える為、真の族長を天より遣わしました。
神々の霊を宿したアブラハムの中に人々は神の心を見出し、彼に従うことが出来ました。
カナンは人々の需(もとめ)を満たさんが為に、
肥沃な(乳と蜜の流れる)地を与える為に選ばれたのではなく、
人々の前に神が臨む、この世(地)からあの世(天)へと永遠の神の導き(天への道)に生きる
神の国を築く為に選ばれたのです。
天上界の人類を導かれる目的が崇高であるのは言うまでも無いことですが、人々が従ったのは
その為に天上界の為された智慧と熱意(努力、精神力)に心打たれたからでした。〗
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第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
(一) 神による奇蹟
④ 霊の出現の奇蹟
現象テープ№34 「天の現象と霊体の構成」より
81年10月18日 ミカエル大王様現象
&「エルバーラム」66頁
「霊体が互いに見えないということでありますが、
霊能者の前に 色、形を伴って霊体が自分を見せる場合には、
生前の自分の顔形、或いは記憶している自分の衣装、
そういったものはそのまま自分のあるがままで変化して見せることが出来ますが、
自分以外の、例えば動物に化ける、化身する、そういった場合にはそれは無理なので、
そのままそっくり変わるという事は不可能でありますから、
例えば私ミカエルに悪霊が化けようと思っても、
直ぐにその化けたままの形が悪霊の素顔に戻ってしまう。
そういった場合が多いのです。
それを防ぐ為に悪霊がやっている事は、長い間ミカエルとしての形を現しておく為に、
恐らく幻燈か映写のようにエネルギーを投影する。
そういった形で人間の意識下に、網膜にその映像を映して見せる。
或いは空間にそういった幻燈をスライドのように映像を映して見せる。
そういった事をやっているのではないかと思います。
実際私達もそういった事は可能であるという事は既に知っております。」
〖備考
神や天使が目の前の空間に現れたかのように見せることが悪霊に可能だということです。
奇跡を求める者は心しておくべきでしょう。
又、天の警告にも関らず、悪霊による奇蹟(現象)に惑わさて、
真の天上界を否定する背反者が止まぬ為、天により証明された霊能者を通さないでは、
一切奇蹟は行わないことを告げられました。
よって奇跡は悪霊による惑わしと定まりました。〗
「JI」84年1月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」179頁
「感覚は悪霊が支配自由であり、波動は悪霊があなた方の感覚を狂わせる為にコントロールし、
罠に陥れる手段として用いる場合が多いのです。
未だに暖かい波動を感じたから善霊と報告する方が多いですが、
現象は(波動も現象の一つ)悪霊と紛らわしい場合が益々増えてきたので、
却って善霊は現象を行わない。
行ってはならないとミカエル様が禁じられました。
逆説的に現象を行うのは悪霊となったのです。
但し、千乃様を介して日時、場所、現象を行う者の指定がある場合のみ、
私達が行う現象であると理解して頂けば良いのです。そう以前に発表致しました。」
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
㈠ 神による奇蹟
⑤ 神の犠牲
神への依存から自立し、何者にも強制されない自由な心から善なる心を求めるか否かを決断する、
人類が目覚め、自らの意志で歩み出す自由への代償が神の贖いの死である程に、
悪への無自覚から人類が犯して来た罪の重さを知らしめられた。
その後の罪を贖うものは、己自身の生命であると告げられた。
「天国の証(78年8月初版)」89頁 ラグエル様メッセージより
「神、至高神、天上界の最高権威である、エホバであり、ヤーウェである、
エル・ランティ様は人類にイエス様の十字架上の死を通し、人類の罪の贖いを通して、
一つの取捨選択の自由をお与えになったのです。
善と悪との取捨選択の自由と魂の成長の機会をお与えになったのです。
子が親から離れて巣立つように、
人類はそれまでのまたそれからも犯すかも知れない罪を問われず、
罪があるならばそれを反省し、己を罰する心を神への詫びとして、
自由なる人間として良き生を選び、悔改めの生涯に何か意義を与え、
人々に、己を十字架に付けて、その隣人愛の証とする ー
それをエル・ランティ様は人々に範としてお示しになった。
イエス・キリストの犠牲を通して(※1)。
しかしその後人類は何を為したか。考えて見なければなりません。
歴史を通して人類の罪は再び贖うべくもなく深きものとなったのです。
そして一度(ひとたび)イエス・キリストが人類のため己の生命を捧げて、
神の前に犠牲(いけにえ)の仔羊となった。
が故に、その後人類が償わねばならぬものは各々の生命で以てしか無いのです。
人は人生に於けるその為してきたことの数々、善きにつけ、悪しきにつけ、
それらをすべて秤に掛け、残った重みのある方に於て裁きを待たねばならぬのです。
最早あなた方の為に生命を捨てて、罪を贖って下さる方は与えられてはおりません。
神の烈しい怒りも、厳しき裁きもすべてあなた方自身で受けねばならぬのです。
緩衝地帯は何もない。」
(※1注。
真の幸福とは、誰からも強制されず自由な心で見出した真理を
自らの意志で生きる時に知るものであることを神は証されました。
【神は能力のある者を必要とし、その者に強制させてでも神の業を齎そうなどと思われません。
真に人の幸福を願われるからです。
自らの意志で真理を為す(※2)者を神は愛されるのです、その心を愛されるのです。
(山を移すほどの大いなる信仰を現わそうと、愛なくば無であるというのが天の基準です)
神は幼児の如き素直な心で真理に生きる者を誰よりも愛するとイエス様は仰しゃいました。】
神は人類に神の道を強制せず、
人類がそれが幸せに至ることを理解し、希望の内に真理の道を歩む為に、
人類が神の心を理解し得ぬ罪に生きていることを悟らすために、
人々の生きている心を明らかにさせられました。
悪なる心が、神の子を十字架に掛けることを忍ばれました。※1注終)
(※2注。
現象テープ№40 イエス様現象
日々、あなた方は他力的な、依存的な生活態度を少しも改めていないではありませんか。
自ら進んで何かをしようとするのではなく、
誰かの指示を待ってから行動を起こしている人が多いではありませんか。
そのようなことで私達と歩を共にして歩いていると思うのは大間違いです。※2注終)
「ヨハネによる福音書15章22~24節」
「もし私が来て彼等に語らなかったならば、彼等は罪を犯さないで済んだであろう。
しかし今となっては、彼等には、その罪について言い逃れる道がない。
私を憎む者は、私の父をも憎む。
もし、他の誰もがしなかったような業を、私が彼等の間でしなかったならば、
彼等は罪を犯さないで済んだであろう。
しかし事実、彼等は私と私の父を見て、憎んだのである。」
イエス様がその生命で、人類の罪を贖うことで、彼等に隠されていた罪
(真の神を、神の心を憎む)が明らかとなったのです。
隠されていた罪を彼等が目にしなかったならば、イエス様を憎まなかったでしょう。
彼等が心の中で敬う神は虚像に過ぎず、彼等の邪心を咎めることはありません。
真の神が(イエス様を通して)彼等の前に現れ、その偽善を天の光の下に晒した時、
彼等は光を憎みました。
神の御意志を代行する信頼を受けた者が現れれば、
必ず邪心を持つ者に悪魔は働きかけて妨害しようとします。
イエス様は、ご自分を十字架に付けようとしているパリサイ人達の邪心の中に
悪魔の意志を見抜いております。(悪い小作人の譬え「マタイによる福音書21章33節」)
神を愛する者への嫉妬
(自分こそ天地の支配者に相応しいとサタン・ダビデは信じていたのでしょう)から、
(苦難が無ければ人は磨かれないからと)苦難という迫害を加え、
苦難に負けた者の神への信義を嘲笑い、
耐え抜いた魂の神への愛に嫉妬の焔は燃え上がり、
その霊を暗殺して行ったのです。
"誰一人理解する者のいない中で、神の子は人類の罪の贖いの為に、十字架を受け入れたこと"
現象テープ№17 イエス様クリスマス・メッセージ「愛について」より
79年12月23日 イエス様現象
&「エルバーラム」20頁
「徴(しるし)を見ないで信じる者は幸いである。それは神の意志を見たからである(※3)。
私達はあなた方に告げます。
今私がこうして話していても、私をイエスと信じない人がいるかも知れない。
それは二千年前に私が神の子であると自覚して世に現れた時と同じです。
人々は絵や彫刻に書かれている私は信じはしても、この今現れている私を信じないのと同じです。
信じない者は如何なるものを以てしても信じません。」
「目に見えないものを信じるのは如何に難しいことか。それを私は一番よく知っております。
何故なら今あなた方の中で崇められている、私の十二使徒を見なさい。母、マリヤを見なさい。
私が地上に現れている時、彼等に真のメシヤだと、神の子だと信じられたでしょうか。
母、マリヤは違いました。
あなた方の中では聖母として崇められていますが、
母、マリヤは私が三十歳になって法を説き始めた時に、
兄弟を連れてきて私を取り押さえに来ました。
気が狂ったと思ったのです(※4)。
母、マリヤは私を身籠った時に、天のいと高き御使い達によって、
その誕生を知らされていながらも、三十年という年月の流れにそれを忘れてしまいました(※5)。
如何に心弱いものであったか。
母が私を信じたのは何時の時だったでしょうか。それは死後、私が復活してからです。
即ち私が霊体となって弟子達の前に、マクダラのマリヤの前に現れてからです。
弟子達もまたそうでした。
私が生きている間心弱く、何時も私は『これで本当に私の説いた法は広がってゆくのだろうか』、
と絶えずその念に悩まされていました。」
(※3注。
徴を求める者とは、神の御意志を求めようとしない者です。
神の存在を、呼び掛けを感じ取る心は、理解しようとする心であり、
神の御意志に従おうとしない、否定しようとする自らの心の悪を悪と知る心です。
神が人の内に臨まれる、語り掛ける心です。
神の御心を理解された者なら、伝わらない人間の心にこそ
(伝わらなくしている)原因があることを知っています。
徴を求める心とは、自分が神に求められている、愛されている徴(証拠)を求める心
と繋がっているのです。
そのような心、偽我が神の心を見失って行く、
魂を堕落に導く甘言に喜び、盲いた心が破滅の道を行く、
神の思いは偽我には伝わらないからです。
自らの内なる神の心に真の神の御意志の伝わった者、
善に徹する神の御意志に繋がることの出来た者、善我に目覚めた者だけが、
悪霊の邪念に繋ぎ止められた偽我に打ち克つことの出来るのです。
自己肯定、自己満足を与える悪魔の甘言に喜ぶ自己愛に生きながら、
偽我を拒絶する善我に目覚めることはありません。
神の御意志を知ることはありません。※3注終)
(※4注。
マリヤ様を崇拝するクリスチャンからは絶対に出てこない言葉で、マリヤ様を愛する善霊で、
このように語り得る方はイエス様以外には考えられません。
誰よりも神を愛されていた方であるからこそ、
神に愛されたマリヤ様が神から与えられた使命と恩寵を心に留められなかったことに、
神への思いからそのように言われたのでしょう。
イエス様は、四人の弟様と一人の妹様がいらしたことを語られましたが、
聖母(永遠の処女)信仰のキリスト教会には認め難いことでしょう。
信じない者は如何なるものを以てしても信じません。
「マタイによる福音書」第十二章四七節
「ある人がイエスに言った、
『ご覧なさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます』。
イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、
『私の母とは、誰のことか。私の兄弟とは、誰のことか』。
そして、弟子達の方に手を差し伸べて言われた、
『ご覧なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。
天に居ます私の父の御心を行うものは誰でも私の兄弟、また姉妹、また母なのである』。
「ルカによる福音書」第十二章五一節
「『私は、火を地上に投じる為に来たのだ。
火が既に燃えていたならと、私はどんなに願っていることか。』
『あなた方は、私が平和をこの地上に齎す為に来たと思っているのか。
あなた方に言っておく。そうではない。寧ろ分裂である
(神に従う者と悪魔に従う者が明らかにされるからです)。』
『父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に対立するであろう』。」
二千年前にこのように人々に語られたイエス様の言葉から、
霊自らが語る言葉を仲介する者と証する霊能力者を通して、私達の眼前で語られた方こそ、
まぎれもなくイエス様ご本人であることがお判り頂けるであろうと思います。※4注終)
(※5注。
イエス様が伝道を始める迄の日常生活からは、
神に選ばれた救世主である素振りは何ら伺えなかったということです。
聖書の中に書かれている、十二歳の時の学者との問答に於て、
学者を驚嘆させた知恵が明らかになっても、高慢のために知恵を失うことなく、
神に愛され、十字架に、悪魔に屈しない神への信義を育てられた。
伝道に発つ時まで、謙虚に、ご家族に仕えられた。それがイエス様の愛でした。
その愛の内に神が宿るとは思いも寄らぬほど謙虚な方でいられたのでした。※5注終)
「JI」85年12月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」34頁
「この悲劇(自らを神の前に贖罪の生贄として捧げられたイエス様の生涯と死)
は天の父エホバ様の弟であり、
サタン・ダビデと化した者が巧みにエホバ様を説得し、計画した壮大なドラマに過ぎず、
つぶらな瞳の小さな羊や山羊や小鳩を、無意味な供物(くもつ)や燔祭(はんさい)として殺し、
その血を流して肉体を持たぬ神に奉げると同じ結果しか齎しませんでした。
しかも小羊などの肉は人々の糧になり得たかもしれませんが、
イエス様は何の糧になられたのでしょう?
狂気の如く神への復帰を訴えるきっかけを与えるかもしれません。
しかし象徴的にユダヤの主として神から民に与えられても、
民はこぞってそれを受け入れた訳でもなく、
神の側からは民の最も大切なメシヤを取り上げたことにより、
贖罪が行われたと解するのも良いでしょう。
しかし民の側からは彼等の供物としての現実感は無かったのです。」
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」166頁
著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より
「あなた方は、真に天の神々が諸々の残酷な処刑と、預言者や聖人の虐殺、
そしてイエス様の十字架の死のような流血の悲劇を備えたとでも思われるのですか。
サタンの冷酷非道な頭脳からしか次々とあのような筋書きは生まれて来ません。」
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」339頁
著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より
「(イエス様は)サタン・ダビデの血の伝道をすべて天のものと信じ、歩かれ嘆かれ、
苦しみつつ三年の使命を全うされたことは、
私達にとり、永遠に悔み切れぬ悲しみと痛恨です。」
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」342頁
著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より
「(イエス様の変容の奇蹟に於て、
モーセ様、エリヤ様がイエス様を訪れたとの聖書の内容に関する質問に答えて)
モーセ様とエリヤがイエス様に心の備えをされておられたのです。
只それがサタン・ダビデの案であるとは、
永遠の生命に代えても誰もイエス様に伝える事は不可能であり、
また伝えるべきではありませんでした。
それ迄に天に昇られた覚き人々は天の混乱のすべてを知るようになって居りました。」
「天国の証(78年8月初版)」30頁 ミカエル大王様メッセージより
「天上の者はすべてエル・ランティ様の御計画と御希望の通りに無条件に従いました。
(イエス様の十字架の贖いの如く痛ましき計画ではあっても ー
それは天上のすべての者の血と涙を表すものではありました(※6)が ー
イエス様は従順に従われ、そしてエル・ランティ様の再度のご依頼により、
私達七大天使はエル・ランティ様と共に出来得る限りイエス様のお苦しみを和らげ、
お生命を天にお上げしたのです。)」
(※6注。
「JI」82年3月号初出 千乃先生解説より
&「エルバーラム(82年12月初版)」140頁
「イエス様を心の底から敬愛しておられて、その死をサタン・ダビデの残虐非道な仕打ちで迎えた
ミカエル様の胸中は誰に説明しても理解して貰えない、
張り裂ける思いに満たされていたと言われます。」※6注終)
サタンの血の伝道(を締め括る十字架)をすべて天による救いの意志であると
イエス様は信じて耐えられていたのですから、
真実(十字架がダビデの案)は伝えてはならなかった、その為のイエス様への沈黙でありました。
ダビデは十字架が人類を神の愛に目覚めさせるとエル・ランティ様に説得したとのことです。
ダビデは人類の救われることを願ってのことと信じさせました。
十字架によって、神が血を流す時、頑なな人類の心も動かされるに違いないと、
人類は救われるとダビデが語る時、ダビデの心を信じようと、
人類の心に懸けようとエホバ様はイエス様を通して神の愛を現わされました。
「慈悲と愛」78年11月創刊号初出 (質問への)千乃先生による解答より
&「続エルバーラム」168頁
「エル・ランティ様ですから、御自分の生きていられた時の知識と経験から、
また旧約時代の文化が低く知性の低い人間には悪霊の跳梁が激しく、
野蛮で無知の故に罪の限りを犯すこと、
そしてそのような人間に対するに、最初は厳しい罰を以て対し、
その結果罰と怒りの神と呼ばれたのです。
そして又人間としての心情からも、罪を罰することによってからは人は従わぬことを、
又善人にならぬことを、悟られていながら怒らずにいられなかった時も多くあられました。
それにも関らずその民を救う為に、
偉大な方が生まれることを預言者や預言の書を通じて霊示されました。
これはエホバ様即ちエル・ランティ様並びに天上界の方々の御計画の通りでした。
新約の時代に至り、イエス様がエル・ビルナビル様の転生として生まれられ、
人々が罪の赦しにより、又その偉大な奇蹟と教えにより、その声に従った時、
エホバ様は本来の慈悲と愛の心を溢れんばかりにお示しになったとのことです。」
イエス様の贖いの死で人類は救われたと信じるのなら、
贖われた心は、二度と罪を犯さない、罪に生きぬ心を持てたでしょうか。
神の心なくして、罪から自由になった者はなく、
未だ罪の心にあって神の心を知らずにいることすら気付いていないのです。
人類を救うことが出来るのは、神の御意志だけであることは、
イエス様にとって考えるまでもないことでした。
神が人々を救いたいと願われて、イエス様が遣わされたのだから、
神が十字架を望まれているのなら、それによって必ず人々は救われるであろう。
神を憎むサタンの心に生きるパリサイ人の手に渡されることで、
神の救いの業を共に為されようとしているこの時に、何故神は沈黙の中に置き去りにされるのか、
神に呼びかける祈りに、誰一人応えることが許されず、すべての聖霊が血を流し、
耐えたということを初めて天は語られた。
"(苦しみにあって神の思いが伝わらない時、神が語り掛けられない時、神を見出せない時、
本当に苦しい時に)神を見ずに神の御意志を、御心を信じることを、神を愛すると言うのです。"
そのようにイエス様は語られました。
死を前にして神の沈黙の中で、イエス様は神の思い、神の苦しみを、
神への愛から捉えられました。
イエス様は人類を救われただけではなく、天のすべての善霊をも救われました。
二千年を経ても、神々の心は癒されなかった。それ程に神々の心を傷付けた犠牲にも関らず、
人類は悔い改めることが出来ず、その上に更なる罪を加えてきたのでした。
罪を憎む善なる心を、神を愛する心を育てることが出来なかったのです。
人類は、神々が苦しんできたことを誰一人知ることが出来ませんでした。
(パスカルでさえ、イエス様への沈黙を神の御怒り故と思いました。
全能の神が苦しみながらも、サタン(弟であるダビデ)の善意を信じて人類救済の計画(十字架)
を受け入れるなど想像し得ることではありません。)
そして、そのことを聞かされて尚、人々は彼等を真の神であることを認めようとしていません。
(何故なら真の自己を見出せぬ者が、
唯一のものと意識される自我(偽我)を否定することは自己の崩壊であり、
自己保存の本能に従う偽我を克服しての善我に立たぬ限り、決して自己否定、
しかも神の救いに与ることのないのが己自身の真の姿であるとは認められないからです。)
悪魔となった弟のダビデを救うという愛が、天地を統率する、天の正義を守る天王にとって、
十字架の苦しみそのものであられました。
天上界に於て神の愛を受けながらも、神の心を己が心に出来ぬ弟を救いたいとの思いは、
そのサタンに愚弄されて滅びようとする人類を、
サタンの残酷な試みから守りたいと尚更に思われたことでしょう。
サタンが聖人に語らせた"罪人こそ救われねばならない
(サタンの本心は、救われたいのなら罪人のままで良い、罪に苦しむ者が神の憐れみを受けるのだ。
人は自ら悔改めるには及ばない、罪人のまま神は救って下さる。
神が心に掛けられるのは罪人であって義人ではない。
キリストが来たのは罪人を天国に招く為である。
善我(神の心)を悟ることのない、堕落した精神に人類を留まらせる、
神の御心を知る善我の代りに、悪魔を神と信じる偽我を植え込む為であったのです。)"
という悪の温床となる言葉に人類が惑わされぬよう、
エル・ランティ様は真の慈悲の言葉へと変えてゆかれました。
十字架という苦しみは、神が愛する者に与え得るようなものではありません。
弟を救いたいと願った兄エホバ様の心をダビデは十字架に付けたのです。
人類を救いたい思いが真ならば、神が背負う十字架を、神を愛するあなたの子も背負うであろう。
あなたが人類を救う為に自らを犠牲にするならば、あなたの愛する子もそうするであろう。
ダビデはイエス様を試みたように兄を試みたのかも知れません。
イエス様にとってサタンは神の妨害者であり、神の敵、憎むべき悪そのものでした。
しかしサタンになる前の、生前の弟を知っておられたエホバ(エル・ランティ)様は、
曾てのダビデの心を取り戻させたいとの願いを捨てることが出来なかったのでしょう。
天上界の聖霊が、天使ばかりか神も人間の霊であった、そしてサタンも。
神エホバ様の双子の弟がサタンであったこと(神が人間であったことが理解出来なければ、
神の霊と悪魔の霊が兄弟であったなど到底理解し得ないことでしょう)、
そして神が悪魔となった弟を救いたいと願っていたとは、
その為にサタンの提案した十字架を神が受け入れたとは、
生前のイエス様の知る由もなかったのです。
十字架がサタンの齎したものであるとイエス様が知ったら、
十字架が真の救いを齎すものと信じることが出来たでしょうか。
イエス様は神の望みに従うことだけを心に掛けられました。
サタンがイエス様(と天上界)を試みたとされる(悪魔にとっての)誘惑を、
悉く拒絶なさいました(※7)。
悪魔の心から齎されるものは、如何なるものも人を堕落させる為のもの、
人を陥れる為のものであることを見抜かれていたからです。
悪の木は悪の実しか結ばないものである(※8)ことをイエス様は語られました。
(邪悪な思いが実ってからでは、人に悪を為さしめてからでは遅いのです。
真の知恵は、悪なる思いを見抜き、摘み取ろうとします。)
十字架がサタンの提案をエホバ様が受け入れたものであると、
たとえイエス様の知ることとなったとしても
イエス様はエホバ様の思いを拒むことはなかったでしょう。
しかしそれは十字架以上の苦しみをイエス様に与えることであり、
天上界にとって真に耐え難いことでした。
神の御怒りの前にイエス様は置き去りにされたのではなく、
イエス様の信仰(神への愛)に応えたい天上界の思いから、
イエス様への愛からの沈黙でありました。
人類自らが悔い改める道は、救いを求める人間の神への愛からしか生まれない。
ユダヤ人が神に犯した罪【モーセ様を通して行われた神との約束
(神の守護の引き換えに、神の掟、十戒に従うこと)を捨て去ったこと】を贖う為に、
人自らが神の心、善を愛する心を以て(契約から従うのではない)、
自らの意志によって神の道を選び取る為に、天は人類の心の中の神の心に懸けられました。
人類が己が良心を自ら十字架に付けた残酷を贖い、神の赦しと愛を信じる心へと救われたのです。
現代にあって、天は最新の法を伝えようとされた。
(悪霊の跳梁する共産主義国により、地上を地獄とする第三次世界大戦が目前であった。)
サタンの企みを阻止する天上界の戦いは天国を窮地に陥れました。
何故なら、サタンとの戦いで、最後まで悪に屈しない魂を持ち続けることの出来なかった善霊が
いたからでした。
イエス様の十字架を自ら背負われた神々の心を見出せないできた人々が、
己が永遠の生命への執着から、天への恩義をも忘れ去った者達が、天を裏切っていったのです。
(※7注。
サタンとはイエス様の信仰がキリストに相応しいものかを
天上界の立場から試みたように言われてきましたが、
イエス様に神の奇蹟を求めさせた本当の訳は、
イエス様をキリストとして真に認められているのか神への疑念を抱かせる、
神への信仰から不信へ、天に背反する者へと誘惑する、
天上界の計画を妨害し、天の権威を貶めるのが目的だったのではないか。
神への挑戦こそ、すべての悪霊を従わしめる地獄の支配者として
自らを在らしめる存在証明だったのでしょう。
天上界は後にイエス様を持ち上げ、湖上を歩く奇蹟を現わされますが、
ダビデの誘惑を見抜き、毅然と撥ね除けました。
ダビデの案である十字架を含めて、
七大天使はダビデの語る善はすべて悪を為す上での口実に過ぎぬことを、
ダビデの邪心を知り尽くされていたのです。
サタンの誘惑(本心を知る為の試みとされているが、
真実は堕落(神への不信、背反)への誘惑)はすべて(天を欺く為の)偽善であり、
イエス様が神の、天上界の意志に生きられていることを明らかにする為の拒絶でした。
イエス様の心は常に七大天使と同じであられました。
生涯イエス様を導かれて来られたのが彼等だったからです。
(イエス様が真に神の子である証として)ダビデが強要した
(イエス様は神を試みるなと拒絶された)奇蹟を、
その後、天上界はすべてイエス様に顕わされております。
天上界の為された奇蹟とは、
パンを増やす奇蹟(ダビデがイエス様を試みた石をパンに換える奇蹟に対応(同じ技です))、
湖上を歩く奇蹟(宮の頂上から飛び降りる信仰に神が応じる奇蹟に対応)、
バプテスマを受けられたイエス様を「私の愛する子」と神が天上から宣言され、
聖霊がイエス様に降る奇蹟を、人々の目と耳の前に明らかにされた奇蹟
【これはダビデがイエス様を試みる前に天上界が為されたのですから、
ダビデが自分に仕えれば全世界の王にするとの誘惑
(神の与えるものと悪魔の与えるものとのどちらを選ぶか)は、
明らかに天上界への挑戦でした。】
によって、ダビデに試みられるまでもなく、
既に天上界はイエス様が神の子であることを奇蹟を以て証明されていました。
「天の奇蹟・下巻(87年7月初版)」 第八章 "人の子"イエスの訪れ
章末・天上界への質問
質問者:著者 岩間文彌先生 解答者:ガブリエル様
問十 五千人及び四千人への、パンと魚の饗宴として知られる奇蹟は、
これまた天上界高次の霊によるテレポーテイション現象なのでしょうか。
人数については誇張があると思いますが。
問十解答 半分幻影で半分がテレポーテイションです。
各人が食べる魚やパンは大きいもののように見せかけ、
エネルギー充足によって満腹と感じさせる。
パンくずなどは後者で別の場所から集めて来たものです。
これも五百人位の霊が居て出来た現象です。
勿論人数は誇張されており、群衆は二~三百人の筈です。
当時私達の習慣として数えてはおりませんが ー 。
問十三 イエスの水上歩行の奇蹟は、三つの説を紹介し、
第三の、イエスは思念という電磁力を使用して身体を浮揚させ、
天上界がこれを援けたのではないかと推論しましたが、これでどうでしょうか。
問十三解答 恐らく書物に録されたものを研究されたのだと思いますが、
インドのヨガの行者が自力で空中浮揚する箇所の記述を読み、思わず笑ってしまいました。
貴方をでなくその本の著者をです。
かの有名なケーシー・リーディングでも、喘息の治療に実に奇天烈な方法を教え、
米国人のグループが医師まで参加させて真面目に行っておりますが、
滑稽としか表現出来ない奇異な事柄を、霊能者の威厳ある態度によって、
完全に信じ込んでいるようです。
ヨガ行者は幸い大変にやせておりますから、霊が集まって持ち上げるのは楽なのです。
祈りによる電磁エネルギーの吸収増大といったことはあり得るかも知れないですが、
単に多人数の霊が運んだに過ぎないのです。イエス様も弟子のペテロも ー 。
「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」
ダビデはイエス様を宮の頂上に連れて行った(ダビデはイエス様を宙に浮かせたのです)。
"あなた(イエス様)が命を懸けて神を愛していることを証せば
神は喜ばれるのだから、ここから飛び降りてご覧なさい。
私(ダビデ)があなたを持ち上げたのだから、
あなたの信仰に応えて神があなたを支えようとされない筈がないではありませんか。
神への信仰から神の思し召しに生きんと、我が子を生け贄に奉げん
(注。ダビデが神を偽ってアブラハム様を試みようとしたところを、エル・ランティ様が
お救いになったことをミカエル大王様(天の奇跡・中巻)が証されました)
としたアブラハムの信仰に、神は応えられイサクを救ったではなかったですか?
あなたは神を信じているのでしょう?
神を信じるとは、神があなたを愛していると信じることでしょう?
自らの信仰を神に証する、神を求めていることを、
自分の本当の心を明らかにすることが神を信じる心ではないですか?
自分が命を懸けて神を求めるなら、
どうして全能の神が自分を見捨てるなどと不信を抱けるのか、
不信に打ち克つことが神への信仰ではないのですか?
あなたの神への愛に、愛の神が応えないなどどうして考えられるでしょう"
サタンはそれまで、多くの神を愛する者、神を求める者、
神の心を自らの心とした、神のご意志を伝えるに相応しいと神に信頼され、
選ばれた預言者を、神の御心に適った人々を貶める為に、
どのように誘惑すれば自ら墓穴を掘るか、試みてきたことであろうし、
その実績があった、その自信があったが故に、
このようにイエス様を破滅へと導く試みを仕掛けたのだと思います。
神が訪れるこの時を待ち焦がれる心には抗い難い言葉を以て、
生命を賭けることに恐れを感じるどころか、神に誇る高慢な心へと導く、
神は必ず応えてくれるものと、神はあなたの信頼を嘉されていると、
サタンの甘言を喜ぶ、自らを神の愛されるに値するとの慢心から破滅へと導いたのです。
神への信仰とは、神の御心の伝わる、神の心に生きることを自ら望むものです。
神を試みるなとイエス様の言われた、神を試みる心とは、
神を畏れぬ心、神に敵する心であることすら悟ることなき心です。
サタンによる試みとは、神への信仰心が本物であるかを明らかにする為とされていますが、
サタンの目的は人の心から真の信仰心 ー
神に遜る心、真に神の御心の伝わる、神の心を失わせ、
神に愛されていることを知ることが神を知ること、
その為に神の愛の証を求める、神をも試みる、人をナルシシズムへと導きました。
サタンとは神への信仰を試みる者と聖書に書き記す、
全能の神の許可なくば出来ないこと、
神がそのような試みを認める人格であると人を信じさせることが、
サタンの思惑だったのではないか。
人類はサタンの性格を神のものと、サタンによって歪められた神の人格を神と信じる、
そのような宗教によって人類の性格をサタンの心に繫ぎ止めるように導いてきたのです。
当時七大天使は至高神エホバ様のご命令を遂行されることを全てとされており、
神の書と信じられている聖書ですが、彼等が聖書の編纂に立ち会ったことは一度もなかった、
関与されたのは他の善霊の方であることをラファエル様は証されました。
またエル・ランティ様、そしてガブリエル様は、
神の言動として聖書に記載されているものでダビデによるものがあったことを証されています。
神によって書かれたとされてきた聖書に、
サタンが介入していることが天上界によって証されました。
神を求める人類の心を、サタンに生きる心へと変える為に、
神の書である聖書からサタンの邪念が伝わるように聖書記者に働き掛けました。※7注終)
(※8注。
悪しき人格から悪い考えが生まれ、好んでその考えに従う、
悪なる行為を為すという意味に理解されていますが、
悪い性格が両親から子に遺伝することをそのように言い表すこともあります。
そしてそのような心を持つ人間の下に、両親によって悪の心へと育てる環境の下に、
善なる霊は合体霊として降りて来ることはありません。
善なる魂へと導くことを、善き実を結ぶことを願うからであり、
悪への誘惑に満ちた環境にあっては、善導することが困難だけでなく、
自らの善我をも危険に晒しかねないからです。
人を善なる心に導こうとする意識の低い幽界の霊は、
曾てこの世に生きて、偽我を克服出来なかった彼等が合体霊として再びこの世に来た時、
善へと導くべきこの世の合体者の肉体を通して味わうこの世の与える楽しみに
再び溺れてゆくのです。
そして悪しき人間の心(の波動)は悪霊に伝わり、悪霊を呼び込むのです。
己が魂を悪へと変える時、この譬え通りになるのです。※8注終)
現象テープ№27 「正法流布について」より
80年8月11日 ガブリエル様現象
&「メッセージ集・続」93頁
「あの方はたった一人で死んでいかれました。
それ(教え)を広めたのは弟子達です。弟子達はどうだったでしょう。
弟子達は生前のイエス・キリストを心から信じることはありませんでした。
心の片隅にどこか疑いがあったのです。
イエス様は、敢えてそれをあまり仰しゃいませんでした。そのような方であったのです。」
「天国の証(78年8月初版)」128頁イエス様メッセージより
「私が十字架に磔にされた時、救いの手が伸べられなかったのを見て
弟子達は私に疑いを生じたのです。
まことに神より遣わされた者として、あれほど多くの奇跡と証を目の当りに見聞きして、
尚唯一つのことに於て、今迄の信仰を失いかけました(※参考 ⑤神の犠牲 文末)。
このことは人の心の動き易さ、
正しきものを否定する心の強さ(※9)の証明となるものではありませんか。
直ぐ信じ直ぐ疑い、誤った結論には何時もその信念を保つのです。
私を十字架に付けたユダヤ人、ローマの兵士達がそうです。
恐ろしい程の顕現を私の死の直後に目の当りに見て、
人々は神の怒りではないかと、やっと思いました。
それ程人々は神からの大いなる証を待つのです。
そしてその反面、サタンや悪霊に強く災いされるのです。」
(※9注。
真に自由な心に生きる、真の愛を知った人々の伝えられてきたことは、
自らに向けた愛は、自意識という鎖で自由を奪うものであり、
真の愛は、人を生かそうとする、人に向ける心にだけ働き掛けるということです。
自意識に縛られた心にありながら、その心を苦しく思わぬ者とは、
自分以上に愛すべきもの、美しい心を認める、
真理に対する素直な心を育てることの出来なかった者ですから、
偽我を認め、改めることは望みようがないでしょう。
太陽の光を求める(本能を疑う心を持たず、本能に素直に従う)心の如くに、
真理に盲いた心を救い得る唯一の光であり、愛を注いできた神の存在すらも
顧みることが出来ぬまでに、偽りの愛だけに生きてきた者には、
神の思いに、その心の美しさに共鳴することのない偽我を脅かす故に、
一層自己保身の思い(我執)に縛られるのです。※9注終)
「パスカル パンセ (B553)」より抜粋
(死の前日 ー ゲッセマネのイエス)
「イエスは、少なくともその三人の最愛の友に多少の慰めを求められる。
しかし、彼等は眠っている。
彼等が彼と共に暫く耐え忍ぶことを求められる。
しかし、彼等はさして同情がないので、一瞬間も眠りに打ち勝つことが出来ず、
彼を全くなおざりにして省みない。
イエスは唯一人地上におられる。
地上には彼の苦痛を感じ、それを分け合う者が無いだけでなく、それを知る者もない。
それを知っているのは、天と彼とのみである。
イエスは園におられる。
それは、初めの人アダムが自分と全人類とを堕落させた快楽の園ではない。
彼が自分と全人類とを救われた苦悶の園である。
彼はこの苦痛と置き去りとを、夜の恐怖の中で忍んでおられる。
イエスが嘆かれたのは、この時一度しかなかったと思う。
だが、この時は、極度の苦しみに最早耐えられないかのように嘆かれた。
『私は悲しみのあまり死ぬほどである。』」
「イエスは、父の御旨が確かめられないままに、祈り且つ死を恐れられる。
だが、それが解ると、進み出て死に身を差し出される。
<立て。さあ行こう。進み出て>」
「イエスは、その弟子達が眠っている間に、彼等の救いを行われた。
彼は義人が生前の虚無と生後の罪とのうちに眠っている間に、その各々の救いを行われた。
彼は一度だけ祈られる。
「この杯を過ぎ去らせて下さい」と。
そして、尚も従順に、再び祈られる。「已むを得なければ、来らせて下さい」と。
哀愁の中のイエス。
イエスは、その友達が皆眠り、その敵どもが皆覚めているのを見て(神の御意志を悟られ)、
その身を父に全くお委ねになる。」
「心を安んじるがよい。
おまえが私を見出さなかったならば、おまえは私を尋ねなかったであろう。」
(イエス様の心情をここまで捉え得たのは、
イエス様がパスカル氏に転生(合体)されていたからでした。
パスカル氏がイエス様を現存として捉えられたのは、
イエス様御自身が自らを顕されたからでした。)
「慈悲と愛」79年12月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」79頁
(ラファエル様から、ブレーズ・パスカル氏の至言(※10)が紹介されました。)
「『奇跡を合理的に否認することは可能でない。』
『どういう訳でかくも多くの偽りの奇跡や偽りの黙示、呪術などがあるのかを私は考えた。』
『従って偽りの奇跡が多いことから真の奇跡はないと結論してはならない。
却ってかくも多くの奇跡がある以上真の奇跡は確かにある。
真なるものがある故にこそ偽なるものがあるのだと結論しなければならない。』
『不信者。 ー
悪鬼の側に徴が起こるとしたら、必ずそれより更に強力な徴が神の側に起こっている。』」
(※10注。
天上界がこのように天の真理であると証された言葉は言うに及ばず、
歴史を通じて彼等が導いた賢者に伝えさせた天の真理を、魂の救いの指針である徳を、
共産主義者は自由を、自主性を奪うとの詭弁を押し通し、
神の齎された救いを地に擲(なげう)って来ました。
悪魔の思想に、その心に生きる人々の為してきた悪に怒りを感じない者は、
共産主義に侵されたままに、善我に目覚めることはないでしょう。
天の指導である徳育も、天の思いも理解する心がないのなら、
彼等に理解させ得る人間などいないのです。
天に見捨てられた彼等が救いに与れると考えること自体が慈悲魔、
天を侮る悪魔の心から来るものです。※10注終)
「天上界メッセージ集」9頁 ガブリエル様「神の犠牲」全文
「イエス・キリストの十字架の死は、
永遠に悔いぬ、悪の魂に満ちた地上に、
高貴に過ぎる神の犠牲であったかも知れない。
その昔、私達天が与えた希望と光をあまりにも多くの人が地に擲(なげう)ち、
サタンのしつらえた舞台に踊り、偽の救世主と偽の神と偽の牧者に従って迷わぬ人類は、
真の光や真の神々の来臨に、
目開かず、その語る真理にも耳を傾けず、心は閉じたままに生き続け、
深い思考と智恵と気高い望みを抱かず、
私達天の者と、それに従う人々を偽者と嘲笑う。
神もサタンも認めぬイデオロジストが世界に蔓延(はびこ)り、彼等に取り入り、
扇動し迷路に更に迷い込む人類の滅亡を計る。
イデオロジストは、殺人を罪と思わず、
盗みや姦淫を生きる一つの手段であると思い、人を不幸に陥れる。
たとえ友人の生命を自らの手で奪おうとも、涙ひとしずく流すことはない。
彼等の語る平和や人類愛は虚しく、よそよそしく、訴える響きがない。
人一人救うを為に己の血を流さず、自らが救われる為に、人の生命を奪いて悔いず。
悪魔のイデオロジストに、人間愛の情熱はない。
神は無実の気高き人を、サタンの企みにより人類に与え、
サタンに導かれて、愚かな人類は神を見棄てた。
神の犠牲を心に深く刻み付けた人々は、
イエス・キリストと同じ生き方を、己の範とした。
しかしサタンやその部下と戦う勇気を持ち得た人は少数のみ。
神の犠牲と人の犠牲にも関らず、
悪は蔓延り、神を見て従う人々の不幸を願い、死を願う。
何時の日に悪は滅び、あらゆる人は神を見て己の意志により、真理を選ぶか ー 。」
(※参考
"イエス様と共にありながら、真の愛に目覚めることのなかかった者が、
真の神の子の愛さえも信じる心を見失ったこと"
"最後の晩餐"
「マタイによる福音書」第二六章三一節
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。
『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、
書いてあるからである。しかし、わたしは、よみがえってから、
あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
するとペテロはイエスに答えて言った、
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、
わたしは決してつまずきません」。イエスは言われた、
「よくあなたに言っておく、今夜、鶏が鳴く前に、
あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、
あなたを知らないなどとは、決して申しません」。
弟子たちもみな同じように言った。
弟子の誰一人サタンの誘惑(我執から、自己保存の思いからイエス様への愛も忘れ去る)
に克てる者はいない、弟子の誰一人サタンの悪の強さを、己が善の弱さを知らない、
イエス様への愛を持っていても、悪魔の思いに屈しぬ神への愛を持つ者は、
イエス様に続こうとする者はいないことを知るイエス様の苦しみを理解出来る者は
誰一人いなかったのです。
"ゲッセマネ"
「マタイによる福音書」第二六章三六節
それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。
そして弟子たちに言われた、
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、
悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。
ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、
「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。
心は熱しているが、肉体は弱いのである」。
(中略)
見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
イエス様の苦しみが全く伝わらなかったのは、彼等に人を思う心がなかったからではなく、
神の子の死を求める、パリサイ人に、ユダに働き掛けた悪魔の邪悪を、
彼等の心から、そして自らの死を予告したイエス様の心から知り得ても、
彼等は自らを懸けての善に徹する心に目覚められなかったのです。
"愛の弱さ、憎しみの強さ"
「マタイによる福音書」第二六章六九節
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、
「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、
「あなたが何を言っているのか、わからない」。
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、
「この人は、ナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、
「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。
するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」
と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
「マタイによる福音書」第二七章三五節
彼ら(ローマ兵)はイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、
そこにすわってイエスの番をしていた。
そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。
同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、
ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、
「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。
もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。
いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。
自分は神の子だと言っていたのだから」。
"受難の予言"
「マタイによる福音書」第一六章二一節
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、
長老、祭司長、律法学者(パリサイ人)たちから多くの苦しみを受け、殺され、
そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
すると、ペテロはイエスをわきに引き寄せて、いさめはじめ、
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
十字架が神の御意志であると予言されたイエス様の苦しみを、
その時まで神の御意志もイエス様の苦しみも全く解らなかったことに心を痛めず、
予言通りになったのに、十字架から救われなかったからと、
弟子達はイエス様が本当に神の子なのか信じられなくなったことを、
現代になって初めて現象という奇跡によってイエス様自らが証されたのは、
二千年前に神の子へと導かれたイエス様を通して現された奇跡から真の神の業、
イエス様を神の子と信じても、サタンの妨害一つで神の救いの思いを、
その死を以て伝えられた神の愛も見失った、その心を救ったのも復活という奇跡であった、
奇跡を起こさしめた真の神の愛に打たれたからではなく、
奇跡によって信じたに過ぎなかったのです。
今日までこのような証を為した宗教団体があったでしょうか?
宗教組織のしてきたことは、教団の維持、繁栄であり、
この世の悪を打ち負かす、神の善を為してきたでしょうか
(信者が為した善はあっても、
教団は自己保存に生きているに過ぎなかったのではないでしょうか。
神の御意志に抗ってきた団体に、神の善が理解出来る訳がありません)。
イエス様のこの言葉を聞いて、
愚昧から目覚めぬ人類に如何に神の救いを、真理を伝えようとしてこられたか、
その思いに気付かない人々は、二千年前にイエス様に躓いた、
天に導かれながら悟ることのなかった弟子達と何も変わらないのです。
このまま盲したまま目覚めることのない、そのような一生であってはならないと、
目覚めねばならないと思われることでしょう。 ※参考終)
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
㈠ 神による奇蹟
⑥ トリノの聖骸布の奇蹟
"トリノの聖骸布は真のシュラウド"
「天国の光の下に(78年12月初版)」(たま出版)286頁 千乃先生解説より
「今世界の関心を呼んでいるトリノのイエス様の聖骸布は真のシュラウドです。
イエス様が神話ではなく実際に人間として生きていられた証であり、
光の大指導霊の合体としての使命を立派に果たされ、恐ろしい死を経て天に昇られ、
今現実に霊の世界 ー 天国(この天上の書を出されている世界)にいられることを
三次元の方々に証明するものとしてお伝え致します。」
「イタリアにはシュラウドが他に四枚あり、
中世には四十三枚もあったというのが人々の疑念を誘っているようですが、
『天国の証』で明らかにされましたサタン・ダビデの常套手段で、
何が真実か判らぬように偽物を次から次へと作り(※1)、
三次元の人々を惑わし、天上界(天国)の光より遠ざけ、
真の義人や聖人や善人は取るに足らぬものであるかの如く印象を与えました。」
(※1注。
天上界はメッセージを伝えるに相応しい者に霊能力を与えましたが、
サタンも又、贋の神のメッセージを伝えるに相応しい霊能者を立て、霊言を語らせました。
正邪を識別出来ない者は、悪魔の奇蹟(霊言)を怖れた者(触らぬ神に祟りなしと
神の奇跡であろうとなかろうと避ける心理へと仕向けるのがサタンの目的なのですが)は、
その思惑を見抜き、サタンを憎み、神(悪を許さぬ善)に生きる自覚に目覚めぬ者は、
真理を避けるのは仕方のないことかも知れません。※1注終)
"十字架上のイエス様の痛覚を麻痺させた天の奇蹟"
「JI」80年5月号初出 千乃先生解説より
&「エルバーラム(82年12月初版)」126頁
「トリノの聖骸布は十字架から降ろされたイエス様の御身体をお包みした正にその布であることが
『天の光の下に』で私が他に先駆けて発表した通り、科学者によって証明され、認められたことを
御存知であると思います。
その布、リンネルにネガフィルムのように写し出されたイエス様のお顔は、
あれ程の残酷な扱いにも耐えて、実に安らかで苦痛なきお顔です。
この"苦痛の跡を留めぬお顔"について、
宗教関係者も科学者も、何一つ疑念を抱こうとしないで、
これこそ神である証としか考えないという所に、
私は宗教に関する非科学性を今更に痛感するのです。
布フィルムからも判る通り、イエス様は正真正銘人間でいられます。
人間ではなく神が人形(がた)を取られているのだ、
などという宗教馬鹿には何を説明しても無駄でしょうけれども。
そして人間であるからには、拷問に等しいやり方であのように無残に傷付けられれば、
苦痛に歪んだお顔をして死なれるには、医学生であっても知っている筈です。
エジプト第十七王朝のセケネンレー王のミイラは、頭と顔を手斧で五、六箇所割られ、
苦しみの形相を残しているとのことです。
手斧だったからだろう、などと馬鹿気た反論は伺いたくないものです。
では何故イエス様は苦しまずに死なれたか。
天上界元七大天使方は、イエス様が苦痛を感じないよう、お守り申し上げた、
と『天国の証』でミカエル様が述べられております。
その通りなのです。私はその方法を、ミカエル様に詳しくお伺いしました。
ミカエル様によれば、頭部から電気的刺戟(微弱電流)を与え続けることによって、
イエス様は苦痛を殆ど感じられなかった、との事でした。
何故感じられないかは、その刺激によって痛覚が麻痺する効果があることを
ベー・エルデで学んだから、とのお答えでした。」
"トリノの聖骸布に写し出された像の姿"
「希望と愛と光」81年11月号初出(改訂) 千乃先生解説より
&「エルバーラム(82年12月初版)」135頁
「(トリノの聖骸布に見られる)ヘモグロビンの反応を示す血液の痕、その流れの方向、
ムチ打ちの跡、ユダヤ人の容貌と三十歳代の身体、各所の聖書記述通りの、数まで一致する傷跡、
槍と釘の跡、瞼の上に置かれたコインの大きさと形の跡、
当時のパレスチナで生えたとされる不毛地帯植物の花粉と
(死海やネゲブ周辺の典型的な植物や)布があちこちに運ばれ、
隠されていたとされる歴史通りの場所や国の植物の花粉。
あらゆる可能な、そして厳密な物理化学的測定と調査(炭素14法による年代測定を除く)
研究に基づき行われたNASA科学者チームによる発表ですが」
「『UFO』誌のNASAチームは、
顔の輪郭などの立体像がどのようにして克明に布に写し出されたかは謎としております。
密着していただけでは証明出来ない立体的なものとのこと。
しかし、布に描かれた画像でも十四世紀に偽造した物でもあり得ない、
あまりに多くの証拠が分析によって発見されたことは当然すぎる程当然です。
中世の科学技術にも知識にも、キリストが十字架の上で苦痛を和らげる為にしばしば伸び上がり、
それによって生じた血液の流れの角度、脇腹を槍で刺された時に迸り出た血の流れの痕 ー
そういった物を偽造する術は皆無。
現代でもこれだけ多くの事実を裏付ける為に聖骸布をそのまま偽造することは、
実物がなければ不可能なのです。
それを結論付けられない学者は石頭でしかありません。」
"何故、聖骸布に像が写し出されたのか"
「JI」82年3月号初出 千乃先生解説より
&「エルバーラム(82年12月初版)」137頁
「実はこれについては、『天の奇蹟』下巻発刊まで発表しない方針でしたが、
NASA(前述の科学チーム)では来年辺りにトリノの教会が炭素14法テストに合意するであろうと
言っておりますし、下巻が出るのは一寸時期が判りませんので方針を変更することにしました。
真偽論争が現在の実験方法で果たして正しい解答を得、
終止符が打たれるかどうかに疑問を生じてきたこともあり、
一方こちらに先んじて万一正しい解明が得られた場合、私達の出る幕がなくなります。
詰り、真実を知る天上界高次元の方々が自らを証明する場を一つ失い、
私にとってはこれは耐え難い事です。
偽メシヤ、宗教宗派及び非良心的なマスコミが
勝ち誇る機会を虎視眈々と待ち構えているからです。
さて前掲のUFO誌82年新年号に依りますと、四十名の科学者がテストを行い、
どうしても謎として解明を待つ事柄に、
一、 一体どのようにしてその像はリンネルに付着して、完全に立体的な像を形成したのか
(現象の条件 ー 如何なる材料、環境が齎したか)
二、 このリンネルに、どのようにして奇蹟的な立体像が現れたのか
(現象の原因 ー どのような理論が現実に展開されたのか)
の二点があります。
彼等はもし布が人間の顔に直接に押し付けられたら、出来る像は歪んだものになる。
そして一つの実験をやってみて、一人の男の顔に油を塗り、その上に布をかぶせ、
その布を焦がして像を得たが、随分歪んでいた。
その理由は立体的な物体を二次元のものに投影したからで、
結局一、二の論点は謎のままであると書いております。」
「ミカエル様の言われる実際に起こった事 ー 安息日に埋葬が禁じられているので、
イエス様が金曜の午後3時頃息を引き取られてから3時間位して十字架から降ろされ、
その後1時間程掛けてようやくその近くの新しい墓に仮安置され、型通りに亜麻布で全身を覆い、
布ひもで数箇所を緩く括り、腹部と布の間に没薬と沈香のはいった壺を置いて、
塗油もせず(※2)、埋葬の儀式もそこそこに弟子達や母マリヤ、弟妹達が帰宅し、
安息日の始まりにようやく間に合ったということが、新約聖書に詳しく書かれております。」
(※2注。
アロエ、没薬、乳香他香料が、塗られたと聖書にあるが、塗る暇はなかった。
だから血痕がそのまま残されている。流された血の痕もそのまま。
それがイエス様ご自身を証明した。ー 千乃 ※2注終)
しかしイエス様が墓に安置されて安息日の次の日、日曜の明け方に
(マグダラのマリヤがイエス様の復活を知る迄に大きな石で戸のように蓋をされた)岩の墓の中で
何が行われたかを語れるのはイエス様の復活を可能ならしめた当の天使方以外にはないことを
読者の皆様も納得なさるでしょう。
ミカエル様は言われます。
十字架上の死を苦痛少なくする為、頭頂部から間断なく電気的刺戟を与え続けた後、
息を引き取られて一時間、死後硬直が始まる寸前迄、
余りの凄惨な死を実現させたショックと悲しみに只、ぼんやりと見ておられた。
イエス様の魂は身体を離れず、そこには人々のすすり泣きと号泣の声と
真二つに裂けた神殿の幕屋を見て恐れた兵士や見物人を支配した不思議な静寂が、
ミカエル様達にも次に為すべき事を忘れさせた。
そして我に返り、イエス様の魂が身体を離れないように、
永久の死が肉体に訪れるのを防ぐ為にあらゆる意志の力を働かせて、四方八方から天使達、
大天使達、総勢二十人位で光でもあり熱でもあるエネルギーを与え始め、37時間余り
(聖骸布に包まれてから33時間余り)、そして復活されてから2時間余り続けたと言われます。
イエス様を心の底から敬愛しておられて、
その死をサタン・ダビデの残虐非道な仕打ちで迎えたミカエル様の胸中は
誰に説明しても理解して貰えない、張り裂ける思いに満たされていたと言われます。」
「この与え続けられた電磁エネルギーが、筋肉賦活に役立ち、
細胞を枯死させずに済ませるのにその役割りを果たしました。
墓に横たえられて2時間程して、イエス様の魂は抜け出て仕舞われ、
死体は筋肉細胞だけが生かされている状態になったとのことです。
そして(体から抜け出られてから)32時間後、
日曜日の明け方5時にイエス様の魂に身体に戻るように言われ、
イエス様は聖骸布を出られ(※3)、墓の隅に隠れて立っておられた。
(※3注。
一説に"布を畳む"とあるが、復活の状態では立ち上がり、歩く以外の動作は不可能、
と天上界の証言あり ー 千乃。
「ヨハネによる福音書」第十九章三一節~三六節
「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、
安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと(特にその安息日は大事な日であったから)、
ピラトに願って、脚を折った上で、死体を取り降ろすことにした。
そこで兵卒らが来て、イエスと一緒に十字架に付けられた初めの者と、
もう一人の者との脚を折った。しかし、彼らがイエスの所にきた時、
イエスはもう死んでおられたのを見て、その脚を折ることはしなかった。
しかし、一人の兵卒が槍でその脇を突き刺すと、直ぐ血と水とが流れ出た。
それを見た者が証をした。そして、その証は真実である。
その人は、自分が真実を語っていることを知っている。
それは、あなたがたも信ずるようになる為である。これらのことが起こったのは、
「その骨は砕かれないであろう」との聖書の言葉が、成就する為である。」
何故そのように予言されたか。
サタン・ダビデが天上界に無理やり承諾させた復活とは、死者が動く、歩く
(復活の状態では立ち上がり、歩く以外の動作は不可能)ことで、
蘇ったかのように見せる、人々を信じさせる
【(骨は砕かれないという)予言が実現したことを明らかにすることが
聖書記者(ヨハネ)の使命との理解から証言された】為であり、
イエス様の脚を折らないことが、蘇りの奇跡の為に必要であったからですが、
何故、脚の骨が折られなかった(復活後の歩行に支障となるからです)かは、
死者の歩行だけが人々に神による蘇りの奇跡を信じさせる唯一の
(天上界の可能な)手段であったことは、現天上界によって奇跡の解明
(奇跡の原因、その軌跡に必要な条件(磁場)と奇跡の限界)が為されるまで
誰にも理解し得なかったのではないでしょうか。
この天上界の証もまた、イエス様を遣わされた神が、
現代に現れ自らを証された現天上界であることを裏付けるものでしょう。
それでも疑問に思うことがありました。
磁気の強いイスラエルで霊体に天上界の強いエネルギーを当てると、
肉眼で捉えられる波長を霊体に持たせることが出来る。
また、人の網膜に霊体の姿を映すことで、
霊体が目の前に存在するように錯覚させることが出来ることを知らされておりましたが、
実体は霊体であるのに、霊体とは見えず肉体のように人に見せることが出来た。
若しくは復活を知らされていた、
生前のイエス様の姿を知る弟子達の目の前に現れたイエス様の姿が
それまでと変わらないと信じられるような(喜びの)念を天上界が与えたのかも知れません。
実際に復活後に弟子達の前に現れたのは、
弟子達が見たのは生前のままの生きた人間に映じるように、
天上界がエネルギーを与え続けた霊体のイエス様でした。
霊体のイエス様を人間の如くに思わせることが出来たのなら、
何故亡くなったイエス様の肉体を歩かせる奇跡を行う必要があったのか。
しかもその蘇った肉体を以て人々に神の奇跡を見せたのではない、
霊体を復活した肉体の如くに人々の目に映す、肉体が復活したと信じさせる、
その為には死体が別に存在するものであってはならない、
人目を忍んで、死体を(歩かせて)近くの川に沈めたのに過ぎないのであり、
ならばイエス様を聖霊が持ち上げてガリラヤ湖の上を歩かせたように、
死後硬直した死体を持ち上げて川まで運ぶだけでよいのではないか。
霊体を復活した肉体と信じさせることが出来たのに、
人々が蘇りを信じる為には死体を歩かせるしかないと、
死後硬直することのないように大勢の善霊が二日間に亘りエネルギーを与え続け、
肉体を葬るだけの為に死体を歩かせたのか。
この復活はサタンが計画したことでした。
その復活によって神の子であることが証明されるようにサタンは予言したのです。
天上界はその計画の筋書きに従いながら、真の天上界の救いの計画を余儀なくされました。
勿論、天上界が十字架の拷問の痕を刻み付けられたイエス様の肉体を世間に晒して、
神の栄光を伝えることなど天上界にとって耐えられる筈がなかったのです。
サタンの計画通り肉体を復活させるが、
真の神の救い、魂の救いは、天上界が齎すのであり、
その救いの証明は、使命を成就され真に神の子として天国に迎えられた
イエス様の霊によって為されたのです。
サタン・ダビデが企て、天上界に演じさせた人類救済のドラマとは、
救世主を生け贄として神に捧げる、その救世主は聖霊によって身籠られる(※)、
事実か否か誰にも確かめようのない、誰も知ることのないものにも関わらず
(イエス様が生まれるまでヨセフはマリヤを知ることはなかったとの聖書の記述は
どのようにして知るものとなったか不明ですが誇張でなく真実のものでした)、
ダビデによって夫ヨセフの精子を妻マリヤへ人工授精によって実現させる。
【※注。
受胎告知と同時に、エル・ビルナビル様がイエス様の合体霊として
マリヤ様の胎内に入られたので、
聖霊によって身籠られたと天上界が言われたことを千乃先生が書かれていましたが、
そんなことなど知る由もないヨセフ様が、
まだ知ることのなかった許嫁のマリヤ様が身籠っているのを知って離縁しようとしたことが
聖書に書かれていますが、
天上界はマリヤ様に、聖霊によって身籠った(故にマリヤ様は潔白である)
ことを受胎告知で既に知らせていたのであり、また親戚にあたる、
(長い間子供の授かることがなかった為に石女と思われていたエリサベツ
(洗礼者ヨハネの母)が(同様の人工授精だったそうです)身籠ったことを
聖霊によってマリヤ様の知るところでした。
イエス様の神話作りの為とダビデの勝手な行為に対して、
天上界による救世主の備えであることが人々に理解させるように配慮されました。
ダビデがこのような神話作りを必要としたのは、天上界を滅ぼした後、
自分がエホバ神に、また時にはイエス様や他の偉大な預言者に
なり替わるつもりだったからではないか。
その為にエル・ランティ様のご性格の正反対であるダビデを人々が同じ神と信じるように、
神と判断されるイメージを植え付けるための神話作りであったのではないでしょうか。
神とは如何なるものか、その権威を、力を明らかにする、
その権威の、力の現れを以て神とする、
そのような基準を明らかにする為に、偽りの神を権威付けるものとして神話(神の業の証)を作る
(又、預言し、その通りに為さしめることも同様の意図からであろうと思います)、
何時の時代の人々にもそのような神への渇望を引き起こすものが神話であると
考えていたのではないでしょうか。
【神の御心は同じ波動の心にのみ伝わる、たとえ人から崇められる者であっても
神と同じ心を持たぬ者、神の心に生きぬ者には神の御心の伝わらないことを、
神は人の心の中に在るとイエス様が伝えられたことなのですが、
それが理解出来ぬ者が神の奇跡を求める、奇跡がなければ信じない者であり、
奇跡とは神が為されたと人が信じ得るもの、
たとえ神が為しても神の業であると理解し得ぬ人々の為に、
それが為されるのは神以外にないと悟らせる為に、
人々が心から待ち望む救い、幸せが如何なるものであるかを人の心に呼び覚まし、
それを為そうとされるのは神以外にない、それを約束する、予言をするのは神自らである、
そしてその通りのことが起きた時、やっと鈍き人々にも真の神が存在することを、
そのような神によって救われたことを悟ることが出来たのです。
神の存在を、救いを信じる為の奇跡であり、それが人々に信じられた時、
人々は子孫に、神は共にあることを、救いを、希望を伝えようとする、それが聖書であり、
そこに書き留められた言葉は、真の神の為された業ばかりでなく、
サタンが神を偽って為したこと、また言葉を聖書記者の意識に働きかけて為したのです。
サタンの為した神話作りが、自らが神となる為の、
人々がサタンを神と信じさせる為の布石であったことがご理解されることと思います。】
(聖霊による受胎も、肉体の復活も、神の心を語るイエス様の人格とは何ら関係がない、
むしろその心から神であると知ることの出来る(神と同じ)心を人類が持つことのないように、
力故に神と信じる、神の愛の伝わる繊細な心(内なる神の心)を知ることなく、力を信じる、
絶対の力は神のみが持つ、神に従うとは、力を求める故に神を求める、それを信仰と信じる。
その力に守られることを目的とする(自己保存の)偽我に生きる(執着する)のであり、
自らの神の心に目覚め、他を守ろうとするのが真の神の愛であると知ることなく、
自らの心に愛が生まれないならば神の心ではないことも、
神の心にしか真の神の思いは伝わらないことも知ることなく、
神であるか否かも判っていないのに盲信する。
奇跡であれば神と信じる、そのような奇跡を求める心に神の愛は伝わらず、
そのような心に働き掛けるのは悪魔以外にないことを知らない。
復活の奇跡を実現させる、それで人類は神を信じると、
神の犠牲に人々は目覚めると、エホバ神に信じさせることの出来る者がいることを、
天上界にあって真に力のある者が誰であるかを誇示せずにはいられなかったのでしょう。
悪霊は言うまでもなく、やがて善霊をも自分に従わせる、
その為の布石だったのでしょう。)
そして、悪魔によって計画され、天上界に為さしめたこれらの事実
【神の子を生け贄とする、
処女懐胎(神の子とは受精によらず聖霊が肉体を纏ったものとキリスト教会は信じたようです)、
医者に見放された患者を(天上界の聖霊によって)癒すという、
奇跡を行う真の救世主であることを示せるか、
難病の者を探してイエス様の前に連れてくる】を聞かされて、
このようなことを証すことの出来るのは、真に神々であると納得されたのは、
今まで神によって為されたと聖書は伝えてきたものが、
イエス様の語るエホバ(エル・ランティ)様とは明らかに矛盾している
(「JI」85年12月号 ガブリエル様メッセージに詳述)ことが指摘されて、
初めて私達は気付いたのであり、
真の天上界でなければ伝え得ないことが私達に理解されたからです。
復活劇に伴うこれらの業が、実はサタンの考案したものであったこと、
それを神の業と信じるような信者の心を作る、そのための宗教としていったのでしょう。
天上界を破壊して後、エホバ神にイエス様になり替わる為だったのです。
キリスト教会が信じているのは神ではない、サタンの作り上げた神話です。
今も天動説を信じているキリスト教徒はいないとは思いますが、
天上界(エル・ランティ様の合体(転生)されたコペルニクスや
パヌエル様の合体されたガリレオガリレイ)によって伝えられた地動説を
キリスト教会は彼等の権力によって葬ろうとしました。
正に悪魔の齎す権力によって彼等の権威が支えられていることを証明したのです。
これに懲りずに、ミカエル様の合体されたダーウィンによって明らかにされた進化論にも、
唯一絶対の創造神の狂信から目を覚ますことはありません。
神の齎された真理を受け入れられないのは、神の心が受け入れられないからです。
神の善の波動を拒絶する心に生きていたのです。
彼等の心を縛り付けた教義は、彼等の精神に自由を齎すものではなかった、
神の心を見出すように導くものではなかったのです。
サタンの齎した教義、またイデオロギー(社会、共産主義)はサタンの心に導くものです。
人の心に自由を齎そうとするのが神の愛です。
自由の中でしか精神は成長出来ないことを知るからです。
神の愛だからこそ人は神に縛られることがなかったが故に、
神に与えられた、神に守られての自由であったことを悟れなかったのです。
サタンが齎した教義(神話)、イデオロギーは人をサタンに繋ぎ止める、
人を支配しようとするのです。
そのような支配を受ける心が偽我であり、自己保存の思いに縛られる心です。
自己保存から、教義をイデオロギーを守ろうとするのです。
守らないものを裁こうとする、
自己を優位な立場に置こうとする自己愛しか知らない心(偽我)だからです。
そのような自己愛を刺激するのが悪魔の甘言と言われ、
自己保存に意識を繋ぎ止めるのが恐怖心を齎す力であり、
サタンが人々の心に力への崇拝を齎す為、弱肉強食に生きる獣性を解放する、
その為に理性を捨て去らせる、神の愛する徳を、愛を、優しさを顧みぬ心とする。
人の幸せを願う、人の心を気遣う優しさから、神の心から生まれるものが愛であり、
神の御心と繫がるのは愛だけであると教えるのが神であり、
サタンが人を力によって支配する為に、人を力あるものを崇拝する者とする為に、
教義を、イデオロギーを信じる者に、信じない者を踏み躙る力を与えた、
そのような力によって維持される(宗教の教義に、イデオロギーに生きる)
世界を作ったのです。※注終】
死体の歩くところを見せる訳でもなく、
人々の目には霊体を肉体の如く見せて復活を信じさせることが出来たにも関わらず、
何が何でも死体を歩かせなければ復活とダビデは認めよとしなかった。
(もし復活した肉体で弟子達の前に現れたとしたら、
歩くことしか出来ないイエス様の肉体を見て、
嘗てのイエス様だ、イエス様が蘇ったと、信じ続けることが出来たでしょうか、
瞬きもしない、呼吸もしない、座ったり立ったりも出来ない、
霊体の声を伝えられても、生きている時のように口を動かせない、
直ぐにこれはおかしいと気付かれるに決まっています。)
イエス様を神の子と人々に信じさせる為には、
そうしなければならないとダビデは考えたのです。
真に人類を救うことを望み、イエス様を救世主として導いた天上界の誰一人そのような
【ゾンビのように死体を歩かせることを復活と予言し、
人の精子を霊が運んで受精させるを聖霊により身籠るとの予言も、
二千年前の人々は、石ころからでもアブラハムの子孫を造れるのが神であると信じられたが故に
(それらの予言も)信じられたのであり、
母胎において受精した細胞の分裂の終点が人間としての始まり、出生であり、
人の霊の転生や、聖霊が宿ったところで人間とはならないことを理解している現代人が、
聖霊によって身籠るとはどういうことか、不思議に思わないで信じていられる宗教は、
理性の働かない心に於て信じられるもの、
宗教から理性は育たないものと思わずにはいられないでしょう。】イカサマに手を貸すばかりか、
救い主を十字架という最も残酷な方法で死に至らしめての復活劇を、
何とかエル・ランティ様に思い留まるように七大天使は説得しようとされましたが、
必ず人類は神の心に目覚め、神の齎した救世主を信じ、従うことになるとの
ダビデの思いが偽りとは、天上界の計画を破壊する為の企てであるとは
エル・ランティ様には考えられなかったのです。
【1977年に天上界が最終決戦を迎えるまで、天上界にダビデのいた間、
天上界はこれらの事実を人類に伝えることは不可能だったのです。
サリエル様は「天国の証」で証言なさいましたが、
天上界は最後の審判、及び善霊の生命を賭けた最終決戦を避けようと
努力されたのでした。
(注。
「天国の証」サリエル様メッセージより
「この第二巻で発表されていることは、もう一度はっきり述べますと、
人類の一人一人が神の前にその罪の重さとその精神の病巣により裁かれなければならないという、
末法の世に生きるものとしては避け難い宿命的結末を迎えたということです。
出来得ることならば、そのような事態を最後まで避けたく天上界は、努力致しました。
しかしサタンの王国建設の執念の前に幾多の困難があり、その度重なる執拗な攻撃に、
三次元の方々が理解出来ぬ死闘を繰り返しました。」
「JI」84年12月号 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」46頁
「聖書に録されている天の啓示即ち私達からのメッセージとされる預言は数多くありますが、
総てが天から出たものではなく、
私達があなた方に明らかにするに忍びない性質のものもあります。
今のこの私の言葉を前提に、"世の終わり"という預言も、真実の所は、単に警告であり、
そうであったことを理解して頂けるであろうと思います。
従って"最後の審判"も、一九七八年二月より行われておりますが、
私達の誰も末法を望んでいなかったことを明言致します。
寧ろサタン・ダビデがそれを望み、それと共に更に多くの善霊を消滅し、
内部崩壊を企んでいたことが、善霊を二分した七七年と七八年の運命的な
ハルマゲドンとでも名付くべき大決戦の最中に判明しました。
"ハルマゲドンと名付くべき"と表現したのは"世に終わり"と同じく
天上界がその招来を、やはり望んでいなかったからです。
正に運命的な戦いとなったのですが ー 。」
注終)
ダビデがそれまで天上界に於て犯してきた犯罪が神の前で問われた時、
ダビデが神に裁かれることを察した時、ダビデが如何なる行動に出るか、
天上界には解りきっていたのです。
天上界でダビデが犯してきた罪が神に知られることをダビデは阻止してきた、
ダビデの為してきた犯罪をエル・ランティ様に、また七大天使に伝えようとした善霊を、
見逃すことなくダビデが陰で消滅していたことを知らぬ天上界の善霊はいませんでした。
そのダビデが人類救済の名目で日本に救世主を齎すことを提案したのは、
救世主を天上界から奪い、天上界を滅する計画が出来上がっていたからでしょう。
(ダビデへの不服従は死であることを知る魔王ルシファーが、
彼の合体霊であった天使ルシエルと共に天上界に帰還し、
それまで悪霊によって為されてきた天上界の計画の妨害が、
ダビデに脅迫されたものであったことをエル・ランティ様に明らかにされた時、
全悪霊を従えたダビデによって天上界の最終決戦が起きたのですが、
ダビデは既にその決意だったのだと思います。)
善霊と悪霊を二分した最終決戦に於てダビデを消滅し得たからこそ、
天上界の真実を初めて人類は知ることが出来たのです。】
イエス様に十字架の道を歩ませ、神々にイエス様の亡骸と共に葬りの道を歩ませる、
神が人類を救わんと血を流す時、人々は神の愛に目覚めるとエル・ランティ様に信じさせ、
天上界に為さしめた(ダビデの練り上げた)イエス様の復活劇とは、
生命が絶えるまで苦しみを与え続けさせた後、
復活させる(生命が蘇ったように見せる)というものだったのです。
そして天上界自らが背負った十字架とは、
エル・ランティ様の証された通り、ダビデを救うことが永遠の夢であった、
その為にエル・ランティ様が背負われたものであったのです。
エル・ランティ様の証によって、
常に悪魔と戦いながら人類を救いに導いてきたと言われた天上界とは、
エル・ランティ様を唯一神とした現天上界以外にあり得ぬことが
この事実を知る者すべてに理解されたことと思います。
「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」166頁
著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より
「あなた方は、真に天の神々が諸々の残酷な処刑と、預言者や聖人の虐殺、
そしてイエス様の十字架の死のような流血の悲劇を備えたとでも思われるのですか。
サタンの冷酷非道な頭脳からしか次々とあのような筋書きは生まれて来ません。」
それが理解し得ぬ心へとサタンは導いたのでした。
人類を救う為に、我が子を十字架に掛ける、
そのような愛を神の愛であると信じたのです。
このガブリエル様のメッセージを知って、
如何に人類が神の心を知らずに生きてきたか、
神の思いの届かぬ、悪魔に支配された宗教に馴らされてきたか、
初めて思い知ることになったのではないでしょうか。
真の天上界の愛が、その自己犠牲を厭わぬ愛が、
自己愛に克己することなく齎されるものではないと考えることがない。
サタンの心の冷酷さえ知ることがない、
まさか人を破滅させる為に、甘言を以て人を喜ばせている、
人の思い上がるのを見て腹立たしく思うどころか、
よしよしその調子でふんぞり返れば間違いなく破滅だと喜んでいようとは
想像できないのかも知れません。
真理に、神に対してすら謙虚な思いを奪うものとは、
己を高しとする高慢だけが真実の己(の小ささを知る理性)を見失わせる、
理性の光の届かぬ心が動物的、盲目的、自己愛だけの心です。
昇華された精神に初めて宿るのが神の愛であり、
自己愛とは神の愛(理性)を知らぬ心に蔓延り、
人の精神の自由を奪い、ただ自分の為にだけしか生きることを知らない、
思考が教義の型にはめられ精神の開発されることがない。
自由な思考によって齎される精神の広がりに解放感を自由を感じるからこそ、
未だ悟ることなき真理を信じ、天の光の中に神の叡智を見出そうとする
真の神を求める心が現れるのだと思うのです。
※3注終)
そこにマクダラのマリヤが友人と現れ、その時大天使方は封印を切り、石の戸を転がされた。
マリヤに話し掛けられたイエス様は霊体でした。再び出られて ー 。
そしてマリヤが喜び勇んで弟子達の所に報告に行った後、
復活の証として、イエス様の御身体を、魂が入られ、動かす奇蹟が行なわれたのです。
体温を保ち、筋肉の硬直しないよう与え続けられたエネルギーが細胞を死なせず、
容易に動かし得たのです。
それは生理学の実験でも可能であることを、
小動物の実験から専門家でなくとも納得し得ると思います。
何度も立ち止まりつつ人目を避けた道を2時間後にイエス様の身体がベルス河岸(※4)
に沈められました。
その日の夕方以後弟子達に会われたイエス様はすべて霊のお身体 ー 魂であったのです。
奇蹟その物は経過だけでは大した事には見えなくても、
ここに聖骸布に写し出された立体像の秘密の謎解きのヒントがあり、解答があるのです。
聖骸布が全面に密着していなかったから余計に鮮明に映像が写し出され、
それが写真のような平板なものではなく、レントゲン写真のように立体的にイエス様を前面、
背面の細部に亘って写し出し、しかも強い放射線でなく、
普通の辺りに存在する電磁エネルギーで行われたが故に、
布と肉体との距離に忠実にネガフィルムを布上に作り出し、
レントゲンフィルムのように骨のみを写し出すことはなかったのです。」
「自然現象では起こり得ず、熱或いは光の照射によって生まれたからなのです。
たとえ全面的に密着していても、押し花のように上下から重石がなければ、似た像は出ません。
そして聖骸布にイエス様の立体像を写し出す為に何らかの工夫が為された訳ではなく、
人によって"偉大"という表現をしようと、"何だ、簡単な"と表現しようと、
それは"イエス・キリストの復活を実現する過程での副産物"であったのです。
しかも死海周辺地域の強い電磁波の偏在するパレスチナでこそ可能であったのでしょう。」
(※4注。
『JI』82年5月号12頁 千乃先生解説より
「実は『JI』三月号の
(注。天上界による力でイエス様の死体を歩かせ、沈められたと公表された場所は、
当初は"ベルス河"ではなく)
"ガリラヤ湖"まで復活の状態で歩かされるのは不可能ではないか、
と東京の集いから過日お問い合わせがありました。
方向オンチ、地理には弱い私なので思わず赤面、開き直ってミカエル様に反問しました所、
その方が奇蹟らしいでしょう? 皆さんを喜ばせる為にね、と言われました。
しかし幾ら何でも墓地から100kmを二時間でというのは、
空中を飛ぶように移動させないと大変無理な距離、
私の調査不十分のお詫びと共に訂正させて頂きます。
さて、問題の場所はと申しますと、実はミカエル様他元大天使方は記憶していられない、
近くの川ということで、これは以前に二度程伺っており、
"聖骸布"の原稿を書く時に確認を求めました所、同じご返事でした。
近くの川では疑われてしまう、信じて貰えないと私が不満を表明した所
(とかく三次元の人間の心理は、
漠然とした答えやスケールの小さい情報は天の物と認めたがらない、
という幼い傾向を持っておりますので)
四度目は"ガリラヤ湖"でした。
私も同じ三次元の幼稚な、ない物ねだりの罠にはまったようで、
恥を搔いたのは自業自得でした。」
(中略)
「(元大天使方が)記憶しておられないのは、復活がダビデの提案で、
悪の企みに完全に振り廻されたということで ー
地獄の死をイエス様に与えたということで ー
すべてを忘れたい、その場所を確認もしたくないという
ミカエル様達の心理が働いたからです(※5)。
そのような事を克明に記憶し、カトリック教徒のように
あの無残な十字架上のイエス様のお身体を日毎夜毎拝むような人格は
サディストかマゾヒスト、詰り性格的に歪んだ人格でなければ無理なのです。
そうお考えにはなりませんか、正法者の方々は?
小鳥の死にも胸を傷めるデリケートな元大天使方が、
イエス様の拷問死について興味深く記憶されたと思われますか?」
(中略)
「この項が何時迄も終わらないのは"近い川"の名を明記していないからでした。
位置や距離、地中海へ流れ込む利点から"ベルス河"と判明しました。
レパイムの谷からソレクの谷へ流れ、ヨッパの14km地点で地中海へ、
ナハル・ルビンとなって注ぐ河だそうです(岩間先生調べ)。」
〖このような話を聞いて、尚信じることの出来ない人というのは、
理解する能力がない人で、そのような人もいることは理解出来ますが、
現天上界の証言を、また彼等の御人格を否定する者とは、
明らかに悪霊の支配を受けていると思われます。
(たとえ憑依した悪霊を消滅し得ても)彼等を説得することは、
理解し得る知恵を彼等が得ることは望みようがないでしょう。〗※4注終)
(※5注。
イエス様の十字架と復活はサタン・ダビデによって計画されたものでした。
ダビデの目論見は、人類の救済という大義名分の下に神の子を処刑することで、
天上界を苦しめることで(サディスティックな)喜びを満たすこと、
そして(やがて天上界を支配する為に)人々から神の救い
(真理に目覚め、執着から、心の苦しみから解放され、真の幸せを見出すこと)を見失わせ、
永遠の生命への執着を齎す、その為に復活を信じさせたのだと思います。
人の心を神と繋げるものは愛だけであり、愛を見失えば、己の生命に執着する、
その心はサタンに繋ぎ留めることになるからです。
そのような(サタンの備えた十字架の道を歩む)中で、
天上界は、イエス様は、人類の真の救いである真理(神の教え)、魂の救いの道を、
人類の罪を贖い神の救いが齎されたことを、神の福音を伝えようとされました。
天上界を、イエス様を苦しめる為に、ダビデは人々を操り、天の救いを妨害させました。
神を侮るサタンの心を自らの心とした、自分達こそ神に選ばれた者と信じるパリサイ人達は、
彼等を非難するイエス様が神の子であるなど信じ難いものでした。
そして彼等がサタンに支配されていることを見抜いた者はイエス様以外にいなかったのです。
誰も自分を理解する者がいなくとも神を信じることの出来るのが真の神の愛なら、
そのような神の愛に生きた者はかつて一人として存在し得なかったでしょう。
そのような愛が明らかとなる時、それほどの神の愛を拒む時、
人は悪魔に心を明け渡しているのです。
何時までも自分に悪を為した者を(許すことは困難でも)忘れることが出来ない、
心が縛り続けられて、善なる心が持てない(善を信じられない)人がいますが、
善を、正しい人を見出そうと、信じようとされてきたでしょうか。
自分に為された悪にのみ心を縛られるとは、邪念に支配されているということです。
善を愛するとは、そのような悪に執着した心を解放する、
悪に縛りつけようとする心、執着心を断ち切る心、
善を愛する心を自分で作らなければならないのです。
苦しんでいる人の為に、虐げられている人々の為に自分を投げ出すことは、
真に善なる魂ならば出来るかも知れません。
しかし、自分を殺そうとまで憎悪する者の前に、
自分の愛する者(神)に応えたいが為に、自分を投げ出せる者は、
憎しみの心に打ち克つ神の愛に、真の神を見失うことのない神への全き信頼の心に
生きる者以外に不可能なのです。
そのような神を見出したいと思われることでしょう。
神の心に目覚めれば、その心に相応しいものが見出されるでしょう。
悪(自己保存の心)に執着する心を断ち切るには、善なる心を作る、
善を求め善を行うことを求めることから始まります。※5注終)
〖備考
肉体が蘇るなど信じられないでいる弟子のトマスに、
十字架に釘で刺されて出来た手首の穴に指を入れて確かめよと
淡々と語るイエス様の挿話が聖書に書かれていますが、
イエス様が肉体であることを認めたのなら、
手首の穴に指を突っ込むなど、正気の沙汰と思えませんが、
生きた肉体なら神経があるであろう、
生々しい傷跡に指を突き刺して痛みを感じないことに、
疑い深いトマスが疑問に思わないのも矛盾してます。
(トマスの目には肉体に見えてもその時のイエス様は霊体でしたから痛みはないのですが)
どうもこの話は聖書記者の作り話だったのではないかと思われるのですが。備考終〗
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
(二) 真の神の言葉を聞く時、何故内なる神の心が目覚める奇蹟が起きるのか
「天国の証(78年8月初版)」23頁 ミカエル大王様メッセージより
「通り一編の道徳論や、哲学論の上辺のものだけで人々に神の真理を伝える者とはなりません。
そのためには光を伴わねばならないのです。
光の言葉でなくてはなりません。
その光の言葉は天上の霊に守られて、人々の心を満し、心を強く打つものがあり、
聞く人は何か神の与え給うた使命を遂行しなければならぬという意識に目覚めるのです。
その使命感が天上界の善霊の共感と加護を得て、何時迄も持続するのが必要なのです。
勿論そこには何ら虚偽とごまかしがあろうはずはなく、追求を度重ねても、
やはり天上のものであるという証明が私達の手で為される筈なのです。
その証明が為されなくなった時そこには神は最早無く、天上よりの光も無く、善霊の加護も無く、
私達に見放された群衆に媚び、或いは瞞着する宗教家、聖職者及び教祖などが詐欺師の様に横行し、
悪霊の助けを得てこの世を地獄と化す為に繁栄するのです。
そして再びこの世は闇となり、天上界よりの光は遠ざかり、人々は地獄の日々と運命に操られ、
只苦しみを耐えるのみに終るのです。
ー 戦争、宗教者の受難の時代、文明の暗黒時代などがそれに当り、
人々が精神的余裕と潤いの心を忘れた時、自然破壊、人類の滅亡、
そして地球は崩壊へと向うのです。結果は明らかです。」
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
二節 天の奇蹟について
(三) この世の人々に直接語りかける為に神のなされたこと
「エルバーラム(82年4月初版)」14頁 千乃先生解説より
「天上界高次元(神々)からのメッセージは
すべて神の手によって霊の言葉が聞こえるように能力を開発して頂いた
(霊道を開かれた)霊能者が行ったものです。
天上界高次元の神の手による開発は、
神の言葉を人類に伝える資格と能力を与えられたということで、
反対にサタンや悪魔の手に依って霊能力を与えられた者は、彼等の意思のままに動き、
彼等の(幾ら神の如く装っても)惑わしの言葉を人類に伝える操り人形となります。」
「神も悪魔も自らの意志を人間に伝える為の仲介者を選び、選ぶ相手はそれぞれ良しとする者、
神は私心無く、邪心も欲心も無く、神の智恵を智恵とする賢明なる者。
悪魔は名声、地位、財産、教育の如何を問わず、私心と邪心と欲心を捨て切れない愚か者
(精薄ではなく、浅はかな知恵や悪企みで自ら墓穴を掘る者)を選びます。
そして霊現象、特に霊と霊能者が同時に音声の形で行う場合は、
霊は霊能者の聴覚に刺戟を与えます。
これは霊の声
(振動数が多く、波動が細かく、波長が短いので、普通の聴覚では声として捕らえられない)
が伝わってくるので、その波動を大きく、波長を長くし、
人間の発声のメカニズムと同じ量の電気刺激、エネルギーを霊が与えると、
人間は自分の意志でなく、霊の声の発声の媒体となって、霊と同時発声を行い始めるのです。」
「天国の扉(77年12月初版)」254頁 千乃先生解説より
「脳に刺戟を故意に与えるのではなく、天上界は普通に話されるとのことです。
あちらが言葉という電気信号を(一つの刺戟ではありますが)私達の脳に伝えられるのです。
音波という程の波動は作れないので、電話のようなものでしょうか。
これが意識に聞こえる声(想念)であり、
現象の場合は声を出さず、天上界の方が意識(心)で考えて、
その念にエネルギーを増大させ霊媒の脳に働きかけるそうです。全く電気信号です。」
「JI」82年7月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」152頁
「高次元の天の与える霊能力というのは、以前にもお話し致しましたように、
常に私達と心の波動が、合っていなければならないのです。
それ故、他の正法を学ばれている方々よりも、ずっと己に厳しい魂の研磨を
自らの精神力と努力によって、 行っていなければならないのです。」
「あなたは、私達高次元の者とたった一人でも、終日行動を共にし、
共に暮らしてゆけるだけの覚悟はありますか?
四六時中、私達の目を逃れることは、出来ない状態です。
私達の慈愛も豊かにありますが、あなたのその醜き偽我に塗りつぶされた魂を、
容赦なく白日の下に、天の光の下に晒け出され、
しかも直せなければ直すまで、気付かなければ、否が応でも気付かせるのです。
後継者とは、自らがその行いを実践し他に範となるよう与えられた魂の研磨で以て、
あなた方の想像を絶する環境に置かれるのです。
それなくして、天の真の霊能者として認めは致しません。」
〖備考
天の善霊は何時の時代も多忙の上
(刈り入れは多いが働き手が少ないとイエス様は仰しゃいました)、
この世の人々を(何時悪霊が襲ってくるか解りませんから)
常時守護せねばならず、すべての人々を守護するには合体霊と守護霊がやっとでした。
ですから天に聞き従うこの世の人々を(悪魔に命じられ)悪霊が多数で襲う、
悪の波動が強く人の心に働き掛けると、
善霊に防ぎきれず、邪念に悩まされることになるのです。
霊能力を持たぬ一般の人は、
自分の善なる(波動の)心を確り持つ人なら、
悪の波動に簡単に同調して善我を失ったりはしません。
霊の語る言葉を聞き取る聴力を持たない為、
自らの邪念(が刺戟されて)から悪しき言葉が現れることがあっても、
悪霊の悪しき言葉を己が本心と聞き誤る、言葉に呪縛される、当然の如くに自己肯定する、
悪しき思いを自己保存から受け入れることは避けられるかも知れません。
しかし霊能力を開発された人の場合は、
自分の心(波動)と違う(悪)霊の声も聞き取れるのです。
ですから天の守護を受けていない時は、霊能者は悪霊の干渉を受け易く、
非常に危険な状態に置かれることになります。〗
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様