「JI」93年1月号 「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」
         ガブリエル様

 "汝の若き日に主を覚えよ"と聖書(旧約伝道の書第十二章)にある通り、
世の悪や汚れに染まず、誤った教えに惑わされぬ時に、幼くして天を知り、
その言葉に触れた若者や乙女は、成長しつつ偽らざる心で神を求め続けるならば、
たとえ苦しみや悩みの為に一時の迷いから天を拒否しても、帰るべき所は只一つ。
 天なる神と、同じく天を信じる彼等の仲間の居る所でしょう。

 その如く、神を求める心が常にあるならば、
人は遠からず、正しき真理と真実が唯一絶対の天に在り、
模倣とまやかしに被われた、悪魔の世界(霊界)にはないことに気付くでしょう。

 若者もまた然り。
 
それに気付かぬ盲いた魂となるならば、最早その人の心は、
己の偽我や偽善に溺れて堕落した魂となり、

天なる神から最も遠く離れた所に居ることになります。

 その人物が学者であれ、法律家であれ、軍人であれ、また一般の人であれ、
正しい神を信じ、従い、その名を受けて己の義務と責任を果たす者は、
たとえそれがこの世の、人の悪心に満ちた地獄に送られた天の使者のようであっても、
決して天への信と忠誠を揺るがすことなく、
仲間(思いを同じくする同志であり隣人)との繋がりを保ち、
終生天に尽くすならば、その魂は天に属する者として迎えられるのは当然です。

 "天を信じる"が故を以て"救われる"とはそのような言外の意味があるのです。
 
 人が言葉のみならずその行為(おこない)によって判断されるのは、
正法者であるなしに関らず、この世に於ても人格の向上、魂の研磨を旨とする人にとって、
当たり前すぎるほど当たり前です。
 言い換えれば、天に於ても同様に、
言葉を飾り、人前でのみ高潔な人格者の如く振舞い、
天の求める召命や使命を果たそうとする勇気も意志もないのでは、
それはパリサイ人と言われる類でしかなく、私達天の最も忌む人物でしかありません。

 真理と真実を見抜く智慧と、天と、
そして思いと行いを共にする仲間への信義、忠義、そして慈愛は、
あなた方の魂が天へと繋がる唯一の架け橋

(現世の茨の道であろうとも、それは天への虹となる橋)、
そして、イエス様によって象徴される十字架
の愛でもあるのです。

 それからイエスは弟子達に言われた、
「誰でも私に付いてきたいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。
 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
私の為に自分の命を失う者は、それを見出すであろう。
 たとえ人が全世界を儲けても、自分の命を損じたら、何の得になろうか。
 又、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことが出来ようか。
 人の子は父の栄光の内に、御使い達を従えて来るが、
その時には、実際の行いに応じて、それぞれに報いるであろう。
              (「マタイによる福音書」第一六章から)」
              (九十三年一月七日 口述筆記 千乃裕子)

〖備考
 自分の十字架を負うとは、己が偽我を克服するということです。
 己が偽我に向き合うことを、己を知ることを放棄した者は、
天への、イエス様の歩かれた(十字架の)道を歩むことはない、
悪魔の道を歩かされているのです。〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法