「JI」92年1月号 「再び偽我について」 ラファエル様
ー 天の法の前に共産主義者は切り捨てる裁きと消滅の対象でしかない ー
 偽我ということについて再びお話ししたいと思います。
 人間の性格には、それぞれに足らぬ所を補う補償作用があるのは、
精神医学者や心理学者の専門的な意見を見なくても、
或る程度の教養があれば知る所だと思います。
 そして、それが劣等感を補う為の向学心や探求心に結び付けば良いのですが、
他への迷惑となり、延いては人を陥れるような虚言に走ってしまっては、
これは明らかな偽我であり、許されざるものとなります。

 正見、正思、正語とは、学問や生活の場での、
正しい判断力に基づかねば可能とはならない天の法であり、行為です
(特に生活の場では相手への思い遣りを抜きにしてはなりません)、
世人を惑わし、社会を混乱させ、
自由世界の崩壊を目的とする共産主義者などの、悪魔の弟子の集団は、
天を求め神と共に歩もうとするあなた方、善なる心の人々には何の範ともならず、
却って正しい道を歩む妨げとなります。

 彼等の言葉には一片の真実もなく、ただ人の不幸と死を願う狂気と悪意しかありません。
 何を語ろうとも、現在の左翼及びシンパ
(マルクスやレーニンを信奉し、それが最高の正義と信じ、
その為には殺人も人への迫害も辞さない、悪の権化とも言える人々の群)には、
人生の師たる価値は少しもなく、
良心を捨て、暴走する無法都市の市民にしか過ぎないのです。

 人としての良心を捨て、何をしてもイデオロギーの為には許されるとしたレーニン自身、
明らかに自己の暴挙、非法を正当化した偽我の塊であるし、
それに準ずる総てのマルクス・レーニン信奉者も、
知能が未発達あるいは歪められて異常性格者であると言えます。

 天の法や正義、ましてや平和をユートピアとする者とは何の関りもないのです。

 そういった者(神を恐れず、人も恐れない心情の持主であり、
犯罪者よりも自己の犯すあらゆる罪を正当化してしまう人格欠損者
社会の一員としての権利を与えることすら、人間の社会としては大いなる誤謬であり、
愚かしさの限り
であることをまず、人は認識しなければなりません。
 神はこれら共産主義者は、切り捨てる裁きと消滅の対象としか見てはおりません。

 この者達の為すことをよく見るべきです。
 彼等の行為こそ偽我そのもの。
 偽我とも言えないほど低劣な心情であり、悪の心なのですから。

 しかし、偽我とは己の為す悪の行為、悪の思いを正当化する
(所謂天への背反者が何時も行う行為)のみならず、
虚栄心や劣等感を隠す為の虚言、ごまかしもあります。
他に軽んじられない為と、競争心や虚栄心で己を拡大してみせる行為で、
他には被害は与えられない
(左翼や背反者の嫉妬心並びに報復的な衝動は考慮しないとしても)
けれども不愉快なもの。
 それは自他に何の益も齎さず、正法者である限り、止めるべきものです。

 次に、段階的に正法者の中で、
より危険な人格の表れとして、自己を厳しく研磨する試みを怠った者に顕著な、
言わばレベルの低い自己防衛の行為ですが
(左翼の性格破綻に次ぐもの、背反に繋がる心情として非常に危険な傾向です)、
人を説得し、自己の主張に従わせようとするに虚言と詭弁を用いる
これほど拙劣で未熟なものはありません。
 更に、それが天から他を離反させる為の手段となるならば、

それのみで充分断罪の対象となります。

 背反という言葉は用いなくとも、その行為そのもの、
若しくは、愚かにもその虚言や詭弁が見抜けず、
共に離反するならばその行為そのものが背反なのです。
 そうでなければ行動を共にはしないでしょう。

 ソクラテスは"己を知れ"と教えました。
 それは正義と天の法に関るものとして当然の試みであり、
又、自ら人格の破綻を来たらせない為にも、良識的な成人として社会人として、
自らの過ちを隠す為の虚言は習慣としてしまってはならないし、
自他共にそれが自らの精神の安定を計る為の習性であるなどと考えてはならないのです。
 それがたとえ現代社会に一般化され、通念となっていても。


 悪霊に惑わされて正しいと信じ、
判断力と天への信義に欠け、仲間の言葉を信じて離反する者は、
それなりに愚行として許容し得るものですが、
他を欺き、自らの主張を擁護、支持させる為の虚言は
最も天の忌む欺瞞であり、審判を受け、消滅となるべき運命にあるものです。

            (九十一年十二月二十五日 口述筆記 千乃裕子)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法