「JI」88年11月号 「息長く天と法に仕える為には ラファエル様
 本来はミカエル様が書かれるべき事柄ですが、何時も同じ人が同じ内容の繰り返しでは、
あなた方の注意も充分に払われずに終わってしまうかも知れません。
 今日は私が書くことにしました。

 以前からある特定の方、H姓の主宰ですが、主宰になる前もなって後も、
何時も集いの人々や他の集いの人から誤解され、不当な扱いを受けてきました。
 誠実で弛(たゆ)みなき心で天を信じ、天の意に沿って事を運ぼうとしては、言葉が足らず、
説明も正しく受け取られず、何の職にあっても不信任案を突き付けられる破目になる。
 一言で言えば"神に愛されることは人から疎遠にされるか嫉まれる"
とでも表現するしか仕方がないような事ばかり身近に起こってきました。
 何故何時もそうなのか ー
今考えてみると、一般的に観て、案外そうである場合が多いのかも知れないのですね。

 世に言う人相学に、
額の横に刻まれた三本のしわを指して"天地人に愛される"人と言いますが、
神に愛されるのは、外はどうであれ、心の中が廉直、公正、魂の研磨に励む人。
 人に愛されるのは、人との和を重視し、言葉や表現に於てそつなく(多弁ということでなく)、
人が求めるものを与え得る人なのです。
 そして偽善者は人の機嫌を取り、人の目に映る自分が
善人であり、徳高き者と映るように意を用い、
心の中は実は冷酷、他の苦しみに無関心で、徳に欠ける者であっても、
人から愛と尊敬を勝ち取ることに成功します。

(エゴイストでヒステリー性格の人間も、
相乗的にそういう性格とならざるを得ない所がありますが ー
このような偽善的な形で人に取り入ろうとします。左翼人を除き、男も女も
偽善者がヒステリー・タイプの人物であるのかどうかははっきりしませんが、
少なくとも本性的に二重人格者となる者が多いようですね。)

 このように心の中が神に愛される、正しき人であっても、
自分について人の誤解を招かないように人に対することが苦手な(神の前にあって廉直な)人は、
血気に逸
(はや)り、偽善と善、偽我と真我の区別を厳しくしない人によく曲解を受けます。
 そこに左翼が生き残って来た理由もあるのでしょう。

 そして又、そこに悪霊が付け込む隙ががあって、
正法者の集いが崩壊してしまうような結果を生みます。

 これは横の繋がり(集いのメンバー)が強いけれども、
縦の繋がり(天と主宰とメンバー各自)が弱い集いに見受けられる歎かわしい現象です。

 どちらも強いものでなければならないのに、
何時も特定の集いでトラブルが起こるのはそういったことが原因でしょう。
 私達の言葉を信じていない。根本にはそれがあるのでしょう。
 どんなことでも主宰糾弾の理由になり得るのは悲しいことです。
 主宰者側も非人間的で不寛容と評されないよう説明、
説得の上手い者がトラブルの調停役として世話役に必要です。

 このようなことがしばしば正法を信じる熱意ある人々に起るのは、
一つには天と主宰への信頼に欠ける(充分ではない)所もありますが、
もう一つ、身体的に過労で、心身の柔軟性を失っている場合があります。

 色々な事柄に対し、短気になり、堪(こら)え性がなくなる。
 他の人が信じられなくなり、被害妄想的になる。
 そういう場合はやはり、自分の感情の表れと相手、周囲の状況を

冷静に、客観的に分析出来なくなっています。
 正法は息長く走り続けるマラソンであって、直ぐ息切れするのは、
そのマラソンにも向いていないということにもなりかねません。
 天との協力は短気に事を計ってはならず、信に於て容易に動かず、
水の流れ、大気の流れにも似て、自然で、素直で、邪悪を避け、押し流し、
そして賢明でなければ、悠久の自然(宇宙)の一部となることは出来ません。
 天上界とは、正法とは、そのようなものなのです。

凡そ短兵急に事を計ると、必ず失敗を招き、成功に繋がりません。
 あらゆる戦いに勝つには、冷静に事態を判断し、柔軟に対応する ー
総ての技と法に通ずる極意であり、悟りでもある境地を会得し、体得することが、
真の天のメンバーともなる心構えでもあるのです。

 その為にも心身の健康は他への奉仕と考え、
怠って人の重荷となり迷惑とならないようにして下さい。
 只がむしゃらに自分を犠牲にして、健康を害することが、
自分の誠意の表れであるなどと思い違いをしないで下さい。

 息長く天と法に仕える為には(協力する為には)、
自らを律すること ー 健康であること、賢明であること ー 
思い遣りとは、他に迷惑とならず、他を助けることなのです。

 若くしてこれを知る人は賢明な両親の賜物。
 この悟りは一朝一夕に得られるものではなく、人生の紆余曲折を得て得られるものです。
 今それに気付いていなかった人は今から、そう心掛けて下さい。
 過ちを改むるに憚ることなかれです。

 終りに、それに関連していることでもありますが、
正法者本人も御家族も、心臓疾患のある人で過去に発作があった人、
又は入退院を繰り返す人は、常に救急処置を習得しておくこと。
 春や秋などの季節の変り目、冷房を使う時期や場所、冬の戸外と屋内の気温の差など、
常に体温調節をこまめに行い、心臓への負担を掛けないよう注意して下さい。
 発作が起きて、意識を失ったりした場合は、
救急処置を施すと同時に、直ぐ救急車を呼び、入院させること。
 その両方を怠ると大切な人の生命を失ってしまうことになります。

 私達の側に居るからと安心してはいけません。
 救急処置は直ぐに行わなければ、ただ私達を呼び、待っている間に、間に合わなくなります。
 救急車を呼んでも待っていることが手遅れの原因になります。
 常に私達が側に居ることは、千乃裕子様以外は現在無理なのですから ー 。
 又、千乃様が心臓が弱くても発作があっても仕事が出来るのは、
私達がエネルギーを与え、小康状態を保てるように常に努力をしているからであって、
他の方はやはり医師の助けを借りて自他共にまさかの事態に備え、留意して頂かねばなりません。
 それを忘れては取り返しの付かぬ結果を招きますよ。
 一般の常識が正法者の非常識となっては何もなりません。

 往々にして宗教の信者などはその傾向が強く、
知恵を以て生活することを忘れて信仰生活に浸り、馬鹿げた行いをする人が多いですが、
正法を信じる人々が常識を逸脱するのはあり得ないこと。
 常識、良識も生活と人生の知恵なのです。
 それは私達が現正法を説くに当って最初にお教えしたことです。

 忘れてはなりません!
                    (八十八年十月八日 口述筆記 千乃裕子)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法