「JI」86年7月号 「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
 ー 知能の開発が精神の広がり(高等感情の獲得)と
   弾力性(人格の是正、向上)を生むということ ー

 今月号の中学生向けの講座で、歩紀柚衣(注。「神の怒りと悲しみ」の著者)さんが、
何の為に色々な学業の課目があり、何がそれぞれを学ぶ効用なのかについて書いておられますが、
実際に知能の開発というものは精神の広がりと弾力性に深く結びついております。

 例えば数学についても算数や幾何のみで、代数を学ばなかった(学ぶ機会のなかった)人の
知識の応用力や理解力、生活の知恵は、学んだ人とは明らかに差異があり、
向上の度合や、私達のメッセージに従って研磨する意識や意志の在り方も自ずと違ってきます。
 学んだ人は自信の在り方も違うのでしょうか。
 自分に関してのみ思い煩わずに、利他的な行為が自然に身に付き、
他への思い遣り、自己犠牲のような高等感情の発露が容易になります。
 詰り人格の是正が可能となり、且つ老齢と共に磨かれた美徳が増してくるものなのです。

 その反面、勉学を途中で放棄した人物は、無意識裡のエゴ(自我)がどうしても表面化し、
大脳の辺縁系までの成長のみ。
 新皮質の発達が殆ど見受けられず、
大抵の場合宗教盲信に走るか、左翼に安住するタイプで、
正法者となるには不適格な人物も多いようです。
 その理由はどのような環境に居り、どのような人生経験を経ても、
自分と周囲との関りについて考えず、周囲を理解することもなく過ごし、
更にそういった習癖を改めるのは面倒であり、
知能の未発育の故に不可能となっているということです。

 勿論例外的に学問をしなくても理性的で論理的なタイプは、
教育を受けてそうであるタイプの人物と同様に人格の向上が顕著です。
 それは感情的で非論理的タイプが教育の有無に関らず、ある程度の是正のみで、
基本的にはエゴイスティックな面とナルシシズムに終始、
その一生を無駄に過ごしてしまう
人が多いのと対照的です。
 そういった人物は老年になればなるほど俗っぽく、人格は後退し、
周囲に嫌われるか、嫌われなくても負担となり、正法的には人に迷惑を掛け通す一生となります。

 正法は常識を基盤とし、理性的で合理的な生活を求めるものだからですね。

 しかし幾ら高等教育を受け、学問を究めても、
良き師の導きを得て、正しく判断し、結論を下す訓練を経なければ、
数式や公式と違い、理論と推論のみで多様な結論が得られる場合は、
只一つの結論に固執し、安住してしまうような単純な学者、研究者にしかなり得ません。
 学問の仕方もやはり総合的な目を持ち、
一つの事象や学説に囚われてしまうことは避けなければ、
学問や教養の如何に関らず、そこでその人物の成長や向上は止まってしまう。
 即ち老化の一途を辿ることとなるのです。

                  (八十六年六月二十九日 口述筆記 千乃裕子)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法