「JI」85年2月号 「私達は真理をのみ語り、明かす為にあなた方の前に現れたのです」
         ミカエル大王様
(「天上界メッセージ集・続(86年1月初版)」48頁掲載)

 今月は或る集いで質疑に出た正法の解釈について、以前にもお教えしたことがありますが、
再び解答致しましょう。
 初心者の方でしょうか。
 正法で人の為に愛を以て行動する自己犠牲を最大の愛としているが、自分には偽善的に思える。
 自分の幸せを考えるとともに他者の幸せを考えなければいけないと思うが、と述べていました。
 又、或る人はマザー・テレサのインドの貧民に奉仕の生涯を正法から見ると偽善的に思える。
 しかしこの人が居ないと、多くの人々が困ることになる。
 そこが自分にははっきりしない所だとあります。

 それでは第一の質問者に反問しましょう。
 本当にあなたは自分の幸せを先に思い、幸せでなければ他者の幸せは考えなくて良い、
と思っているのですか?
 まず自分が成功し、金持ちになったら、アフリカの難民を救おう。
 自分の病気が治ったら、他の人の病気を治す為に尽力しようと ー 。
 遭難救助隊の人々は危険を避け、自分の命の安全を保障されて初めて、
遭難者を救う努力をしようと考えていると思いますか?

 無闇に自分の生活の基盤や健康や生命を軽んじることは、却って周囲やご家族を悲しませ、
且つあなたの責任や分担を他の人に肩代わりさせてしまうことになります(※1)。
 勿論あなた自身を嫌悪しつつ、他を愛することは、人間の心理として不可能です(※2)。
 第一の人は感情としての愛と自己犠牲の行為を
混同(※3)して考えているのではありませんか?
 人の高貴な美しい行為は、自らと他を何時も秤に掛け、利害関係で動くのでは、
誰もそれを高貴なものとは思わないでしょう。
 普通の人でも、自らの幸せ、安全よりも他者のそれを優先させる人を賞賛します。
 常に人の為に、社会の為に尽くす。他の心を思い遣る。
 それは自らの生活や思いばかりを先にしていては、やはり可能でなくなります。
 ー 並行させるということは、自分のことが先になるのは、心理的に避けられません。
 何かを例に取り、考えてごらんなさい ー 。
 例えばお年寄りに席を譲るのも、あなたが立たなければ譲れないでしょう?

 あなたは突き詰めて考える習慣がなく、人の言葉を受け売りして、
或いは"偽善"の意味を知らずに使っているのです。
 高等感情とは何かも、もっと学ぶべきです。

 心理の研究をして下さい。

 第二の質問者の場合、マザー・テレサは確かに自らの人生を擲(なげう)って、
他の幸せの為に生きている、立派な女性です。
 彼女を必要とする人々の為に母の愛を貫くべき人です。
 只、私達はマザー・テレサや法王のみを尊しとして、人が皆そのような人を選ぶならば、
社会は崩壊すると警告したいのです。
 現に宗教は道を誤って、共産主義を選択し、社会の破壊に手を貸している。
 カトリック宗派はそうではないにしても、現代に於ける宗教宗派そのものの存在は、
世界を危機から救い出す力と智恵と真理を見抜く心を失っております。

 法王が他宗派に健全な道を選択させ得るならば、それも良しとしましょう。
 と言ってもカトリック宗派は宗教としての位置と力しかなく、
それで以て世界を救うことは不可能です。
 又、僧職者に階級があり、権威主義的である、
それ自体がカトリック宗派の存在の価値を失わしめているのです。

 所が世人は、形骸として残っている宗教宗派の再建によって、
世界の崩壊を食い止めようとしており、
それが益々事態を混乱に陥れているのに気付いていないのです。
 宗教は結果的に共産主義を産み、普及に貢献し、教義自体に誤り易い箇所を多く抱え、
それを改めようとして居りません。
 改めるのは不可能でしょう。
 何故ならそれは人の知性がまだ低いころに与えられた指針であり、

進んだ文明社会には基準が低く、科学否定の教義は、真理を探求し、
進化する人類の意識を停滞させる要素を持つからです。

 私達は"善"を語る時に、それを"真理"と同一視しております。
 真理を離れた善は誤った道を選び、人を誤らせ、世界の滅びを招きます。
 そうなれば、それは善ではなくなります。
 大きな目で見れば、"偽善"となるでしょう。

 宗教が共産主義擁護の立場にある限り、社会の破壊に手を貸し、世界の終わりを早める。
 カトリック宗派は教会制度に誤りがあり、反共産主義的な方針は正しい態度である故、
善であり、私達も容認し、支持しておりますが、教会全体の在り方としては、
人を誤らせ易く、原始キリスト教に帰る以外にその誤りを正し得ない。
 しかし原始キリスト教の教義は未熟で、現代文明と逆行するものがある。

 私達は真理をのみ語り、明かす為にあなた方の前に現れたのです。
 従って真理以外のものを正しいとする訳には行かず、
真理に照らして善とはならぬものを善と呼ぶ訳には行かないのです。
 誤った結果を齎すものは寧ろ偽善と呼ぶべきでしょう。
 しかも今、宗教が産んだ共産主義の弊害が、人々の意識を低下させ、
現代社会の正常化に何が必要なのかを悟らせる知性と感性を鈍らせています。
 宗教も共産主義も人類に必要ではないとするのはその点なのです。
 神を求めることは必要だが、それを阻んでいるのが宗教宗派と共産主義だからです。

 "偽善であるかないか"一つ取り上げても、それは総てに関連していて、
また総てに照らして正しいものでなければ、正しい善でも法でもなく、
正法として認めることは出来ない、
小さな善は連鎖的に増幅し、世界を救うものとならなくてはならないのです。
 それがお判りになりましたか?

 しかし真理に関して、あなたの知性と感性が鈍っているならば、
私の言葉は理解出来ないでしょう。世人の愚もそこにあります。
 嘆かわしいことです。
              (八十五年一月十五日 口述筆記 千乃裕子)

※1注。
 人の迷惑とならない為に、健康維持に心掛けるのですが、
それも自分への思いから(魂を損ねるのが解らなくなる迄、健康に拘る方もいますが)
でなく、迷惑を及ぼすことになる他を気遣っての
(自分に与えられた愛に応えられる健全な精神を維持する為に)
自己管理をすべきということです。〗

※2注。
 他へと思いを向ける愛とは、自分を愛してくれた他を信じる、
他からの信頼に裏付けられた(自己保存から、自意識から自由な)心から生まれるものです。
 人の愛を信じられない心というのは、自分が愛される筈がない、
自分を信じることが出来ないからです。

 何故自分を信じられないのか。愛が信じられないからです。
 自分に価値がなければ愛される筈がないと考えているのです。
 自分に価値があるから(と誇る心が)愛されたりはしません。
 それは自己愛から来る自惚れに過ぎません。
 他よりも己を価値ある者とする、
自分の方が価値があると人が思うから愛するのではないのです。
 人の幸福を自らの喜びとする、己を忘れる、
他をのみ思う純粋な愛に満ちた心故に愛されるのであり、
愛されることを喜びとするからではなく、人が愛に満たされたことを喜ぶ、
そのような愛は他を信じるのみの疑う心を持たぬ故に、人に優しい思いを齎すのです。

  人が愛を信じるのは、愛だけが人の心に優しさを齎すことが出来るからです。
 愛を信じることが幸せなのです。
 真の愛を拒む自己愛に生きる者は、
愛されぬ自分には愛がないからであるとは自己愛(自尊心)は認め難く、
他を愛がないからと憎むのです。
 憎しみや自己嫌悪という偽我に愛が生まれることはありません。〗

※3注。
 自分が愛するに値するか否かは、
自分の心に真の愛があるか否かで判断されるべきものです。
 自己保存は自己愛(本能)であって愛ではありません。
 自意識に縛り付ける自己愛こそ自由意志に生きる真我を犠牲にしているのですが、
他に意識の向かう自由な心から生まれる愛を知らない為に、
(真我を自由にする)他への愛とは、
(偽我である)自己を顧みぬ(犠牲にする)ものと認識するのは当然のことでしょう。

 自己愛を愛と認識する限り、
自己を犠牲にする思いが何故愛であるのか理解し得ないのです。
 自己犠牲をも乗り越える真の愛が現れるのは、
神の愛を求める者と与える者のどちらも存在すること、
且つそれを阻害する者、若しくは出来事が存在する時です。

 自己犠牲を厭う者とは、神の愛を持たないだけでなく、
自己愛に生きんが為には、たとえ他の自己愛を踏み躙っても、
呵責を、神に背きはしないかという不安も感じさえしなければ自らを省みるまでもない、
良心が麻痺しているなどと良心の立場から考えたりはしない、
自覚すらなく神を裏切って行った、多くの善霊を、善なる人々を奪った
(善我を自ら捨てる)偽我を選ぶまでに人間は堕落し得たという真実から、
自らに於ても起こり得ることと、
真の己に向き合おうとする理性がない、
そのような善悪への峻別を常に自らに問うことよりも
自己愛のぬるま湯に浸かるままに、
常に己を正しとする高慢の内に、
自己を客観的な判断(神の裁き)に晒すことを抛棄する生き方に
疑いを持つことがない。

 自分を大切にするとは、真の価値である愛に生きることであって、何時かは失う生命を、
自分を生かしてきたものと同じように、自らも役立てようとすること、
それ故の価値であり、大切にすべきであるのであって、
只守ろうとする自己保存の心を言うのではありません。
 自己犠牲とは自己保存という偽我、
自分を縛る鎖(執着)から自由な者だけが出来る行為です。〗

〖備考
 いろんな慈善活動は、個々に於て善なる行為であるのですが、
それのみに関わる、そのことしか関心を持たない精神であってはならないのです。
 自分が関っていることしか、善悪を感じないようでは健全な精神、
天上界の教え導かれる善我ではないのです。

「慈悲と愛」七九年三月号でラファエル様から教わったことですが、
「日頃から心身の健康を保つ為一つの事のみを偏って行わず、
一つの考えのみに囚われず、心身の両面を理解して賢明に身を処してゆくことが、
安定した円満な人格を形作るのに役立つことは言うまでもない」からです。〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法