「JI」83年8月号 「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」
         ミカエル大王様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」171頁掲載)

 各集いの議事録が毎月千乃様に届けられ、
その中で適当と思われるものが月刊誌に掲載されるのは皆様もご存知と思いますが、
二、三私の興味を惹いたものや、更に詳しく説明を要するものを今日述べてみたいと思います。

 或る集いで新会員でしょうか、
愛する価値のある者のみを愛せよ、というメッセージは、学校教育の偏りを思わせる。
 良く出来る生徒のみ偏愛する教師のようだ。
 狭い考えではないかと、しきりに主宰の説明に反論しておりました。

 知能レベルを問題にして、成績の良い生徒を喜ぶことと、
善意と智恵と天への信頼の度合いを問題とする、即ち道義の問題とは
右と左の脳ぐらいの違いがあり、ポイントを外れた反論であると説明しましょう。

 親にとって子供はそれぞれ皆可愛い。
 しかし手に負えぬ子供を厳しく叱り、躾(しつ)けることは親の義務であり、
子供にとっては親の盲愛よりも、叱られて良き社会人となるべき養分を与えられる方が良いことは、
賢明な人ならば良くお判りでしょう。

 社会の基準を外れて、人の災いとなるような甘やかされた人格は、
社会に出て結局は世間から嫌われ、疎外されてしまうからです。

 親の社会人としての道義心が子供を叱り、躾ける理由であり、動機なのです。
 教師も同じ。企業の雇用主も又同じ。
 そして又私達天上の者も同じ心を持ってあなた方を導いているのです。
 それをしない、したがらない親も教師も雇用主も社会人としては欠陥を持ち、
その資格のない人格であるのは明らか。
 自らも社会への責任と義務を放棄しているのです。天の善霊も同じ。

 愛する価値のある者とは長上の智恵と助言を信頼して受け入れる、
向上心があり、善き心を持つ者を指します。
 頑なで親や教師、その他あらゆる社会の秩序への復讐と破壊を企み、
且つ反省なき者を許し、放置しておく盲愛は、
左翼の教師が教える悪平等であり、悪の温床となる行為でしかありません。

 迷える一匹の小羊を探せと私達は言いましたが、それは善良で力弱き者。
 迷えるピラニアではないのです。

 また他の集いで、自己主張について、自己の能力を人に語ることは誤った行為ではない。
 嫉妬心(※1)は、その人が何か実力を付ければなくなるからさして問題とはならない。
 特に米国に於てはそのような生き方が肯定されている、と発言する人が居りました。
 なるほど米国はそういう社会であるかも知れません。
 しかし、往々にしてその習慣が、出来ないことも出来ると雇用主を騙すような主張をし、
実際に使ってみると、主張通りの仕事が出来ない。
 役に立たない米国人に迷惑を掛けられることも起こります。

 嫉妬心が、自分にない能力を持つ他人への羨望として起こり、その他人への破壊衝動が伴うなら、
それは天の許す所ではない、醜い偽我であり、自ら許してはならぬものです。

                         (八十三年七月十日 口述筆記 千乃裕子)

※1注。
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」(秋山英夫訳編)59頁
「人間のあらゆる性質の中で、嫉妬は最も忌まわしい性質であり、虚栄は最も危険な性質である。
 この二匹の蛇から解放されることは、素晴らしい快感である。
 但し、それに代わって他の二匹の蛇、即ち人間軽侮と傲慢が心に巣くって、
前の二匹を追い出したのでなければ。
 ところが、嫉妬と虚栄から解放された人達には、これが普通のことなのだ。
 自己欺瞞に陥らぬよう、この点に用心するがよい。」〗

〖備考
 神々の大切にされる徳の観念を自らの心の指針として生きようと、
天への道を歩もうとする者を神々(聖霊)は愛されるのですから、
神が愛される彼等の徳を認め、彼等に倣おうとする謙虚さすら持ち合わさぬ者は、神に愛されません。
 誰をも平等に愛するのが神だと言う者の愛とは、愛を受ける者の価値を問わない愛とは、
受ける者の心の中に何の価値も見出すことが出来ない、働きかけることの出来ない、
愛すべきものが何かも解らぬ盲目で、無知な心の求めるもの、
真の愛が伝えられて尚、偽りの愛の内に生きていることの悟れぬ愚か者の抱く自らの為の思いです。

 幾ら美々しく言葉で飾り立てても心の糧にならない、生命を持たない愛です。
 神に愛されるに値する者とは、神の愛を、神の思いを受け入れる者です。
 神の愛を受け入れるとは、神の教えを受け入れることです。

 神の教えとは、友の為に己が命をも顧みぬ愛を心とせよということ、それが神の愛であり、
神が人類を救い得る唯一のものと心に掛けてこられた思いです。
 神は平等に人を愛すると言う者は、この神の御心を理解した上で、
神の愛を望んでいるのでしょうか。
 神の愛を求めながら、愛に生きようとしない、そのような心に神の愛は何の役にも立ちません。
 
 神を知っても(存在を認めても)神を敬うことを知らないのなら、
神の戒めが私達の救いへの導き(天への道標)であるとどうして悟れるでしょう。
 神の善が解らず、如何なる善が人を救えると考えているのでしょう。

神の愛を、法を真に理解する者なら、神がそれを伝えようとした思いも受け取っているのです。
 その思いを受け取って自らの思いとならないようでは、
そのような人が神の愛を、法を人に語って何が伝わるというのでしょう。
 神から愛が与えられようと、神が眼前に現れようと、神の心に繋がることが出来ない心に、
何が理解されるというのでしょう。
 自らを救えない真理がどうして真理であると証せるのでしょう。

 愛は、人の心を思い遣る気持ちから、理解しようとするものです。神への愛も同じです。
 神の御心を思い遣ろうとしない者に、神への愛などありません。
 愛されることでその愛に応えようとする愛を生むのは、真の愛だけです。
 人が愛されることで、愛されるに値する者へと変えることの出来るものが愛ならば、
その愛を受けながら、愛に心を動かされることのない、
未来永劫そのような愛に応えることの知らぬ冷酷な心に生きるしかない絶望を知ったら、
神に救いを求めたであろうし、神も憐れまれたでしょう。
 それすらもない高慢な者が愛されるに値しない者と言われて、神の言われる愛に疑いを持つ。
 彼等の心は、神の愛を求めていないのに、
神に認められないことに傷付く自我(偽我)を守ろうとするのです。
 自分を認めぬ神は、神ではないという思いを隠し持つからこそ、
神が言われることに納得がいかないと平然と言えるのです。

 神が語り掛け、救おうとされる善我(神の心)を見出すことの決してない者達です。

 神の望まれるような人間になろうと努力する者、
神のご意志に応えようとする者が多く愛されるのは当然でしょう。
 イエス様も(神様のように)多く愛する者は
(清められているのであり、罪の力から救われているのだから)、神に許されている
(愛されている)と言われました(※2)。

 人の幸せを願う愛に満ちた心だけが変らぬ幸福であり続ける、
そのような愛は自らの苦難や苦しみを乗り越えてゆくからです。
 その先にある神の国を、その聖なる霊に魂の招きを見るからです。
 そのような者は、愛に従おうとしない者から虐げられようとも、裏切られようとも、
悪に屈しない善を、憎しみに心を明け渡さぬ愛を信じる心を失うことはないと言う
天上界の信念が伝わるのです。
 彼等がそのように生きてきたことを私達が信じたのは、
彼等の心と共にあったからだと判るのです。

 真の愛は愛するに値する者のみ愛するものであると天上界は言われるのは、
神の愛に生きぬ者であってはならない、私達に神の心を見出すことを願われてのことです。
 ひとたび愛を志したのなら、真に愛の必要な者に目を閉ざし、
真の愛よりも自己愛に動かれるような心を許してはいけないのです。

 天上界の愛を受けるに値する者だけが与えられるというのは、
天の愛を生かすことの出来る者だけしか受け止めることが出来ないからです。
 悪に生きる者に善なるものが与えられればどうなるでしょう。
(「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。
 恐らく彼等はそれを足で踏み付け、向き直ってあなた方に噛み付いてくるであろう。」
とイエス様も仰しゃっています。)
 悪なる者に善なるものが働きかければ、悪なる心を刺激して悪なる行為が生まれるのだから、
悪しき者に善なるものを与えないのは、寧ろ天上界の御慈悲と言うべきものでしょう。
 その天上界の慈悲にも値しない者に罰が与えられるのです。
 それは悪しき者の犠牲になった者への天の愛を明らかにする為のものに他ありません。

※2注。
「ルカによる福音書」7章40~50節より
『そこでイエスは彼に向って言われた、「シモン(ペテロ)、あなたに言うことがある」。
 彼は「先生、仰しゃって下さい」と言った。
 イエスが言われた、
「ある金貸しに金を借りた人が二人いたが、一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ借りていた。
 ところが、返すことが出来なかったので、彼は二人とも許してやった。
 この二人の内で、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
 シモンが答えて言った、「多く許して貰った方だと思います」。
 イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、
「この女を見ないか。
 私があなたの家に入って来た時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。
 ところが、この女は涙で私の足を濡らし、髪の毛で拭いてくれた。
 あなたは私に接吻をしてくれなかったが、
彼女は私が家に入った時から、私の足に接吻をして止まなかった。
 あなたは私の頭に油を塗ってくれなかったが、彼女は私の足に香油を塗ってくれた。
 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪は許されているのである。
 少しだけ許された者は、少しだけしか愛さない」。
 そして女に、「あなたの罪は許された」と言われた。
 すると同席の者達が心の中で言い始めた、
「罪を許すことさえするこの人は、一体、何者だろう」。
 しかし、イエスは女に向って言われた、
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。』〗
(天上界メッセージ・エッセンス 
 第一部・第四章・一節・(二)その教えから真の神(天上界)であると知る者)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法