「 JI 」82年12月号 「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」160頁掲載)

 あなた方の中に過日、あるチャンネルでふと、
千乃裕子様のテレビインタビューとミカエル大王の現象を耳にし、
目にされた方も居られると思いますが、
私が一番失望を覚えたのは、局の方でミカエル様の10分の現象を3分に縮めてしまった結果、
アナウンサーが、"神がかり的で何を言いたいのかよく判らない"と評したその一言です。
 恐らくそのアナウンサーは、中傷に終始した左傾大新聞のみの知識と偏見をしか持たず、
現正法をいかがわしい新興教団と同種の物とした上での発言でしょう。
 勿論、正法について研究をした事もない人であるのは明らかです。
 それとも、"よく判らない"というのが中立の立場であると、
この偏見に満ちたアナウンサー()は考えたのでしょうか。

 このような人物が如何に多くまだこの国に存在し、正義感の現れさえあれば、
その判断力は他を凌駕
(りょうが)し、自分達が国の主導権を握っているとの幻想を抱く、
無責任な言動の個人や、マス・メディアが如何に多いことか。
 これは滅びに至るこの民族の象徴であるとしか思えません。

 そして又、歎かわしい名古屋の一女性が、只集いに出席し、
発言権を持ったという事のみで"正法者"と自他共に印象付け、
最も天の民として相応しからぬ行動によって、美しい心の正法者を傷付け、
且つ神の法を伝えるこの正法グループ全体に恥を来らしめた事です。
 私は天上の者として、曾て正法を学ぶ人々の中で最も軽率な俗人であり、
反省無きエゴイストであるこの女性について、一体誰がこのような女性を丁重に遇し、
身を犠牲にして全体に迷惑を及ばしめたのか、正法者の甘さについて歎いております。
 最近は若い女性の軽率な言動とそれに従う若い男性が目立ち、あまつさえ付和雷同して、
共に背反する者も出ておりますが、若さとはまず思慮を欠き、時に先の見えぬこと。

 正法とは天の美しさを伝える以上に
徳の厳しさによって導かれねばならぬ神の法であること。
 神の法であるが故に、そこには微塵も軽々しく、且つ俗的で、

視野の狭い考えが存在してはならぬこと。
 天が未来を語る時、それは常に永遠に連なる善と正義の予見が存在していること

それらをまず心に深く留めて、周囲の人々はせめて自らの洞察を養い、
若さの過ちを防ぐ努力をして頂きたいと思います。

 しかも年長者が同様の過ちを犯すならば、そこに救いはありません。
 このままでは神の民も滅びに至ると言わねばならないでしょう。

                  (八十二年十一月十五日 口述筆記 千乃裕子)

注。
"左傾マスコミの立てたアナウンサーは、
サタンの声を伝える為に立てた霊能者と同様にサタンの操り人形に過ぎません。"

 神の言葉を伝えながら、人の神の心を失わせる、
誤った解釈を生む歪んだ思考(偽我)へと導く宗教家と同様に、
ニュースを知ろうと開放された心に邪念を送り込む、人を偽我で繋ぎ留めようとする
(悪魔の傀儡である)マスコミの悪なる意志を見抜けないなら、邪念に侵されているのです。

"美しいものを嫌悪し、汚そうとする心"
「清らかな厭世(2007年10月出版)」172頁 阿久悠著
"節度というのは
 それに触れないことではなく
 触れながら品性を保つこと"
「(安倍元)首相が「美しい国日本」を掲げると、
美しいとは如何なることを指すのか具体性に欠けると、早速に言う。
 何が美しいか示せ、示せと攻め立てる。
 抽象とか観念とかは標的にしやすく、騒ぎ勝ちのところがある。
 攻め手としては楽な舞台である。
 ただし、どんなに勢いよく叫んでも、感心されることはまずない。

 なぜなら、仮に「美しい国日本」の姿勢と行動を具体的に示したとすると、
生き方や心の持ちようまで支持し、一本道を視野を狭く遮蔽して行列させようというのか、
何とオソロシイことをと、反対するに決まっているからだ。
美しいって何でしょうね。どうもハッキリしません」と
女子アナウンサーがニュースの結びで、シラッとした顔で言っていたが、
これは彼女の感想か、原稿書きの捨て台詞か、さあどっちだろう。

 ハッキリしませんなどと他人事を決め込むのではなく、
「美しい」というキーワードを投げつけられたのだから、
私にとって「美しい国」「美しい人」「美しい時代」はと、まともにラリーに応じてほしかった。
「美しい」とは何かと首相のつもりを探るより、
一億二千万人がそれぞれの「美しい」を嚙みしめるチャンスにすべきであったのである。

 一国の首相が、「美しい国」という言葉を最重大事として持ち出すのはよほどのことである。
 荒れに荒れたか、または、饐(す)えに饐えたか、どちらかの時でないと持ち出さない。
 それを承知していながら、それでも多くの人は身構える。
 ぼくらははるか昔、政治家が語る精神性に騙された苦い経験があるので、
何でもかんでも、心を語られることを嫌がる。
 その時のトラウマを口実に嫌がりつづけて、
その結果ヅジャグジャの社会にしてしまったことを知っているのに、
それでもなお、美しく生きようと言われると、危険な道に誘い込む呪文だと抵抗するのである。
 それもわからないではないが、だが、日本の社会の状況、日本人のありようの実態を考えて、
グジャグジャの無節操が自由の姿だと、誇らしく言っていられるだろうか。
 政治家はいざとなったら選挙で落とせる。しかし、社会の人々は罷免出来ない。
 日常の美しさで節度を構築するしかないのである。

 政治家に「美しい」を持ち出されたのは、ぼくら庶民のハジである。
 しかし、そのハジを忍ばなければならないほど、「迷惑」が闊歩している。
 現代の迷惑は恐縮しない。それどころか居直る。
 迷惑がハジでない社会は美しくない。
 迷惑を制するのは法ではなく、実は節度なのだが、これに力がなくなった。
 節度とは消耗的品性ではなく、積極的品性のことで、これが美しさを支えるのだ。

「清らかな厭世(2007年10月出版)」172頁 阿久悠著
"『美しい』という言葉を
 おぞましいものの如く言う
 奇ッ怪なメンタリティ"
不思議なことがある。それは日本人が「美しい国」とか「美しい人」という言葉を使う時、
必ず唇をゆがめ、目尻に軽侮の色をただよわせ、
しかも、言葉の終わりに顎を上げて高圧的態度を誇示することである。
 特に政治家とか識者 ー 一昔前はインテリと言った ー を自認している人たちが、
「美しい国」と「美しい人」に過剰な反応を示すように思えてならない。
 彼らは、あるいは彼女たちは、なぜ「美しい」に対してそのような敵意を抱くのであろうか。

「美しい」には、政治的ジョーカーとして利用出来る何かがあるのであろうか。
 それも日本の運命をひっくり返すほどの呪縛的要素を含んだ魔力が、
「美しい国」と「美しい人」に秘められているのであろうか。
 仮にそのようなもの、歴史を百年逆行させる種類の魔力があるとして、
「美しい」を抹殺してしまったら何が残るのか。

「美しい」に誑(たぶら)かされてはいけませんよと警告するのであれば、
唇をゆがめ、軽侮の目の色をし、尊大に顎を上げるだけのポーズ芝居ではなく、
「美しい」に勝る言葉を発明し、それをもって説得してほしいと思うのだ。

 突然、思い出話を書く。突然に思い出した。
 六十年以前のこと十歳の頃で、ぼくには不思議な老人の友人がいた。
 何者だったのか、町では奇人変人扱いされていて、
子どもたちは決して近寄るなと親からきつく言われていた存在で、
中には石をぶつける子すらいたが、ぼくは仲がよかった。
 理由はよくわからないが、ぼくには洋々たる将来があり、驚くべき才能があり、
人相学的にも金満の相があると言うので、すっかりいい気持になっていたのかもしれない。
 結構一緒にいた。その老人は日本の話をよくした。
 とても奇人変人と馬鹿にされている人の言葉と思えないもので、
「日本人っていうのはね、世界一行儀の悪い、しかも、公徳心のない民族だからね」
とある日言った。
 これは衝撃だった。なぜなら十歳のぼくの意識では、
日本人ほど礼儀や行儀を重んじ、私を犠牲にしてでも公に尽くす民族はないと、
信じ込んでいたからである。ぼくはムッとした。
 すると老いた友人は、「日本人はね、他人の目だけ恐くて神が恐くない不思議な民族でね。
 他人が見ていなければ、どんなハレンチでも平気でやる。
 だから、頭の下げ方から、戸の開け閉めの方法、下駄の揃え方、風呂敷の包み方まで、
何から何まで決まりごとにしなければならなかったのだ。そうだろう。
 その証拠に自由を覚えたとたんに、ハレンチ仕放題じゃないか。そうだろう」。
 ぼくは老人との友人関係を断った。そして、六十年後に急に思い出した。」

 良心とは人が他人を監視するためにあるものであって、自分を見る為にあるのではない、
誰も見てないと判ればやりたい放題、
誰かが見ているかも、ばれたら大変なことになると自己保存から、
悪事(悪だくみ)を躊躇った小心者が言い訳して、
神様はちゃんと見ているからなどと言うようなもので、
イソップに出て来るキツネが手の届かない葡萄を見ながら、
あれは酸っぱい葡萄だと自分に言い聞かせるレベルなのが日本人なんでしょうか。
 ユダヤ人の末裔であろうとなかろうと、信仰を持たねば、只の俗物になってしまうのですね。
 注終)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法