「 JI 」81年3月号 「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」131頁掲載)

 最近特に感銘を受けたことをお話ししましょう。
 先日テレビチャンネルの一つで、世界で数少ない、残された自然の動物王国の中で、
南米のジャガーの王国というのが取材され、南米特有の動物の生態が実録、放映されていました。

 その一コマに、年若く見える一匹のジャガーが餌を探して歩く場面がありました。
 野生の猪やバクや亀で失敗した挙句に、親の側を離れてふと迷い出た子鹿を見付け、
忽ち攻勢に出た途端、横合いから父親の鹿が踊り出、気を逸らせる為にゆっくり別の方向に走り、
簡単に子鹿の代わりにジャガーの餌食となりました。
 ジャガーに食べる物を与えて、子鹿を生かそうという気持ちであったのでしょう。
 それは静かな悲鳴一つ聞こえぬドラマでした。

 しかしここに人間が範とせねばならない自然の大きな智恵 ー
種の保存の為に身を以て子を守り、犠牲となる親が動物には実に多く見出されるということです。
 そして彼等はそれを当然の事として少しも自分の犠牲について過大評価しない。
 後に残された母親或いは父親或いは子供は、悲しみを黙って耐え、
自然の掟に従って己が生命を生きていられる間生かし、種の存続に役立てる。

 これと同じ事が人間の世界に起こればどうでしょう。
 社会は人の"鑑"として賛辞を惜しまず、当然視はしないでしょう。
 それ以上に子を敵から守ってくれぬ親、動物でも下等な部類に属する親が増えているのです。
 子もそれを学び、己の生命のみを大切に思う大人に成長します。
 そういった親は、子供が赤化教育を受けようが、非行化しようが、精神病院に入れられようが、
世間体のみを気にして、子の将来を憂うことがない。
 何が人間に取って敵とすべきものであるかすら判別することも出来ない、
未熟で無責任な性格でしかないのです。

 では動物は友人の為に世の為、人の為に生命を犠牲にして、
それらを救うことが出来るかと問いますか。
 そこが人間の万物の霊長たる所以であると。

 大抵の弱い動物(猛獣以外の)は集団で行動し、群に取って強敵が現れると、
まずリーダーが敵の目を逸らして群を逃がします。
 象のように大きな動物でも、傷ついた仲間が居ると、
その周りに身体で垣を作って、敵の目から隠してしまいます。
 自分達が傷付けられる危険を覚悟なのです。

 親に従順である子。極端な行為に走らぬ賢明な親。躾の行き届いた甘えのない生活。
 何れを取っても現代の人類に欠けてきつつある徳です。
 動物に出来ることさえ人間が出来ないのに、何を以て誇りとし得るのでしょうか。

 動物界にとって性の乱れはなく、近親相姦、乱婚と見えるものもすべては
何時襲われるとも知れない生命の危険の中での"種の存続"の智恵なのです。
 それを動物と蔑むことは出来ません。

 然るに保護された社会で、人間は互いに何を馴れ合って堕落を容認しているのか。
 古代に於て人類は、家畜の如くそれを不要な快楽であるとは知りませんでした。
 だから神は許し、教え導いたのです。

 これだけ知性の開発された現代に於て、
まさか人々は種の存続の為に快楽を貪りたがっている筈はないでしょう。
 それを許容させようとする社会の傾向並びに声を大にして誘惑的言辞を弄する左翼団体は、
マスコミも含めて逃れようのない罪です。

 極端になりつつある快楽的嗜好、傾向が愚行であり、
自然に反し、不要のものであることを知らぬ現代人に天は再び教えねばならないでしょうか。
 ユーモアとそういった不健全な嗜好、傾向とは別物です。

 動物に比べ、劣性であることの証明、即ち悪徳のもう一つは、殺戮嗜好、残虐嗜好です。
 動物は身を守る為に戦い、生きていく為だけに殺し、それを食う。
 人間はそれを快楽視している自分に気付かない。快楽の為に動物を殺し、人を殺す。
 古代人と同じく、現代の無知な人々(何を為すべきか、為さざるべきかも心得ていない)
に天は再び判り易い言葉で教えましょう。

種の存続の為に  戦うを嘉しとし、快楽の為に殺すなかれ"。
"天は少しも人類を動物以上の優れた種とは見做していず、
動物界でも下等なレベルの生き様をしか生きぬ恥ずべき人間が増え過ぎている"。
"人よ、謙虚に自然を見習え"と。

 キリスト教徒が頑なに"神は万物を創造し給うた"と主張し続けるならば、
神、即ち私達は劣性の種である人類を不要のものとして滅ぼし、或いは滅びに任すでしょう。
"神はすべてを与え、又、奪い給う"の言葉通りに。

                                (八十一年二月七日)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法