「希望と愛と光」81年9月号 「慈悲について」 ガブリエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」206頁掲載)

 慈悲についてお話ししましょう。
 愛が献身の姿を取って現れる時、憐れみは慈悲の衣を纏(まと)います。
 愛はその現れに於て両極端な形を示します。
 執着なきものがアガペーの愛、執着の権化がエロスの愛です。
 アガペーの愛が何故与える愛で、エロスの愛が奪うのみなのか、考えたことがありますか。

 与えるとは如何なる意味か、奪うのみとは如何なるものか。
 与えるというのは文字通り具体的に何かを与えるということではなく、
その中には待つ事、見る事、守る事、足らぬ所を補う事、を含みます。

 それらを為した上で相手の中から良所を引出し、長所を伸ばす事が出来るのです。
 そのような愛は留まる事を知らず、必然性と適切さを以て働き影響し続けます。
自らもまた同時に成長を続けるのです。
 ちょうど宇宙の法則が破れることなく一定の方向に向かって運行しているように。

 奪うのみの愛は、自己に対する不安から来ます。
 自己に安定した支柱無き故に、他に対して安心出来るものを求める結果なのです。
 アガペーの愛は与える者にも受ける者にも何らかの支柱があった場合に

調和と均衡を齎します。

 
その支柱とは何でしょうか。
 神
、すべての執着や欺瞞を捨て去った形の真理を求め信じる心、
少なくとも、醜さの無い美しい交流や行為を信じる事が出来る心です。
 そして行おうとする意志がある事です。

 安定した支柱無き者は、ザルに水を注ぐが如きです。

 慈悲は憐みの心から来るものですが、それは重さや暗い涙を伴うものであってはなりません。
 慈悲魔と呼ばれる執着は人を最も愚かにします。
 奪うのみの愛が不安定な心から来るなら、
無差別の慈悲は優しい心からというよりも弱い心から来るものです。
 心弱さも又、自らに支柱無き故にそうなるのでしょう。

 慈悲を掛け過ぎるのは、貪欲に人の愛情を貪る姿の裏の形に過ぎません。
 出所は同じなのです。
 あなたは、支柱がありますか。
 人を信じる事が出来ていますか。
               (八十一年七月二十三日 口述筆記 土田展子)


(上記の天上界メッセージの内容に伴う読者からの質問に、
現象講演でガブリエル様自ら解説されました。)
現象テープ№33 「天上界による質疑応答(慈悲について)」
 81年9月13日 ガブリエル様現象(霊媒 土田展子)
質問者:講演会場の参加者
解答者:ガブリエル様


質問者
 "自己に安定した支柱"ということですが、それは自らを信じ切れるということですか?
 自らの良心を信じ切れる心ということですか?
解答者
 そのような意味もありますし、その前にもあるように、少なくとも、
醜さのない美しい交流や行為を信じることが出来ること。
 そして行おうとする意志があることです。
 そして考えなければならないのは、何故そのような心を自分は持つことが出来ないのか、
突き詰めて考えなければならないのです。

 まず、アガペーの愛について考えましょう。
 アガペーの愛が何故与える愛で、エロスの愛が奪うのみなのか、とありますが、
まず、与えるとは如何なる意味か、奪うとは如何なるものかと考える場合に、
もう一つ考えることがあります。
 何故自分は与えたいと思うようになったのか。
 或いは、何故自分は奪う気持ちとしかならないのか、それを考えなけれがなりません。

 何故自分は奪うのみになってしまったのか。
 奪うということはどういうことか解りますか。
 自己なきが故に、奪わざるを得ないのです。
 人間の本質は、愛に根差しています。
 愛によって生かされており、愛がなければ生きていけません。
 愛がなければ、人は決して安らぎを覚えないでしょう。
 であるが故に、愛を求める時、人は奪うような形になってしまうのです。
 何故愛を奪うようにして得なければならないのか、お解りですか。
 答えがあるように、自己に対する不安から来るのです。
 何故不安なのか、何故不安になってしまったのか、そこを考えなければなりません。
 或いは寂しいと思った時、どうしようもなく寂しい時があるでしょう。
 そのような時、何故自分は寂しいと思ったのか、
何故そのような気持ちに自分はなったのかを考えなければなりません。
 
 与えるとは如何なる意味か。
 或いはこれはこう言い換えることも出来るのです、
何故与えたいと思うようになったのか。
 そして気持ちの表出に於ても、二つは違った意味合いを持つでしょう。
 与える時には、穏かで静かな形で与えようとします。
 奪う時には激しさを伴うでしょう。何故か解りますか。
 
 それは、この中にもあるように、
待つこと、見ること、守ること、足らぬ所を補うことが、含まれているからです。
 何故待ったり、見たり、守ったり、足らぬ所を補ったりするのでしょう。
 何故かお解りですか。
 それは、相手の成長を望むからです。
 相手の幸せを望み、相手が幸せになるように、そう望むからです。
 人には時期があります。

 先程申しましたように、人は時期を見て、言わねばなりません。
 性格を見てやらねばなりません。
 そうであるが故に、愛は待つことをしなければならないのです。
 又その人の性格を見なければならないでしょう。
 或いはその人が不安に戦(おのの)いている時に、守ってやらねばなりません。
 その人が無知である時、守らねばならないのです。
 或いはその人が一生懸命であるのに、何か行動が一つ足らない所、
そういう所も補ってやらねばなりません。
 
 愛は、与えなければならない時は、その人が愛を受くるに相応しい時、
その人が奪うように愛を貪るのではなく、愛を自分に生かそうとする時です。
 又、愛を受ける者は、必死に自分を成長させようとしますし、
相手にも返そうとするでしょう。
 そんなことを言うのです。

 こういう例は如何でしょう。
 よく子供の中でも、あれが欲しい、これが欲しいと駄々をこねる子が沢山います。
 何故、その子供は駄々をこねるのか。何故、執拗に欲しがるのか。
 もし母親と父親の愛情が、ふんだんに注がれている子供ならば、
適切に注がれている子供ならば、決してそうは言わないでしょう。
 余り物を欲しがる子供にはなりません。
 何故そのように物を欲しがる子供になるのか。
 駄々をこねるようになるのか。我が儘を言うようになるのか。

 気持ちの中に、満たされないものがあるからです。
 何故その子供には満たされるものがないのか。
 これは、大人の場合でも、子供の場合でも同じです。
 何故自分は満たされないのか。何故彼は満たされないのか。何故彼女は不安でいるのか。
 どういう気持ちから来るか、解りますか。


 それは自分が、人から認められていないのではないかという心、
愛されていないのではないかという心から来るのです。
 たとえその人が誰かから愛されているとしても、

その人は愛されていないと思えば、そう思うでしょう。
 何故そのように思うのでしょうか。

 
 それはここにもあるように、醜さのない美しい交流や行為を、
信じることが出来ないでいるからです。
 それ故に、"安定した支柱なき者は、ザルに水を注ぐが如き"と言うのです。
 
幾ら愛を与えても、幾ら気持ちを掛けてやっても、
その人は決してそれに報いることはないでしょう。
 そして、掛ければ掛ける程、もっともっとと、欲しがるでしょう。

 そういうものを言うのです。


 それは先程の理性の話にも繋がり、自分で自分を直していこうとする者に対しては、
メッセージは速やかに通っていくでしょう。
 ですが、自分を守ろうとする者、醜い部分を隠そうとする者にとっては、
中々そうは行きません。メッセージは跳ね返るものとしかならないでしょう。
 それが積み重なった時に、天は怒りを覚え、その者に怒りを落とす時に、
その者は背反していくのです。お解りでしょうか。

 "自己に安定した支柱なき者"は、愛を信じられないでいる人です。
 そして自分を守ろうとする心、
自分を安楽に生かしてくれようとするものだけを求める者を言うのです。
 しかし人間はそうであってはいけません。
 愛を受けたならば、愛を返さなければならないのです。

 
物事は絶えず循環しております。
 自然界がそうであるように、私達の気持ちも又、そうでなければならないのです。


 その次に、
"奪うのみの愛が不安定な心から来るのならば、
無差別の慈悲は、優しい心からというよりは、弱い心から来るのです。"
 ここはどうお考えになりますか。
 "心弱さも又、自ら支柱なき故に、そうなるのでしょう。"と、あります。

 私達は何千年もの歴史の中で、こういった善人を数多く見てきました。
 何故彼等は慈悲魔と呼ばれ、他人から踏み付けにされても、
人に慈悲を掛けることを、厭わなかったのか。
 何故そうせずには、いられなかったか。
 慈悲を掛けるに値しない者にまで、慈悲を掛けてしまうことが、
どうしても止められなかったか。
 お解りになるでしょうか。
 どうしても慈悲を掛けずにはいられなかった。
 その人の弱い心を見て、助けざるを得なかった。
 或いはその人が自分で怠けているから、そういった状況になった時に於てさえ、
助けざるを得なかった。
 それはどういう気持ちを言うのでしょうか。
 
 苦しみに対して免疫がないのです。
 苦しみに対して、耐えることを知らないからです。
 耐えることを厭うが故に、慈悲魔になってしまったのでした。

 確かに、かわいそうな者を見た時、どういう原因で、その人がそうなったのであれ、
簡単に慈悲を掛ける方が、本当に簡単です。
 しかし、そうしてならないのは、どういう意味か。

 
 相手の成長を願うならば、安易に慈悲を掛けるものではないのです。
 あくまでもその人が自分で考え、自分で立ち直り、

自分で生きるようにしなければならないからです。

 慈悲魔が最も愚かと言われるのは、そういう意味からなのです。
 人を最も愚かにするのは、こういう所から来るのです。

 自分で考えることが出来る故に、自分で思って怠けることは幾らでも出来ます。
 そうしてはいけないが故に、思うばかりではいけないが故に、考えなければならないのです。
 考えるとは如何なることを言うのか。
 理性を持つことです。
 理性を持つとは如何なることを言うのか。
 執着から離れることです。
 執着から離れるとは如何なることを言うのか。
 自分に安易な方法を許さないということです。
 正しく生きなければならないということです。
 正しく生きるということはこれ程、辛く難しいことはありません。
 しかし人の幸せを願うならば、そして自分にも安定を望むならば、
そうしなければならないのです。

 苦しみを背負ったまま歩いていくならば、何時迄もごまかすことは出来るでしょう。
 苦しみをごまかすことは出来るのです。
 しかしごまかしていては、何の解決になるでしょうか。
 ごまかしは何の解決にもなりません。成長を促すこともないのです。
 あなた方は愚か者のままで一生を送らなければならない。それでいいのでしょうか。
 同じ苦しみを何十年も背負い、同じ悩みを何年間も続ける、そんな一生が楽しいでしょうか。
 たとえ一時期は苦しいにせよ、厳しいにせよ、辛いと思うにせよ、
その後のことを考えれば、これ程楽しいことはありません。
 賢人とはそのような人を言うのです。

 まずあなた方が、賢くなろうと思うならば、人間を美しいものだと思うこと。
 美しい行為をすることが出来るのだ、美しい交流のみで、気持ちの上で、行為の上で、
すべて統一された美しい気持ちでいることが出来るのだということを信じること。
 それを信じるにはどうしたらよいのか。

 人の行動を見るよりも、まず自分の気持ちの中にそういうことを育てなさい。
 そうでなければ、容易く信じることは出来ないでしょう。
 自分の心の中に、そういう気持ちを養いなさい。

 少なくとも養おうと努力するのです。
 そしてそういう気持ちが養えた時に、そこから出る慈悲は本物であり、
人を救い、人を暖かい気持ちにするでしょう。

 愛とは如何なるものか。
 中々それを掴む人は少ないのですが、
あなた方はせめて死ぬまでに一度はそういう気持ちを掴んで下さい。
 これが愛だと掴んだ時に、すべてのものは姿を明かにしてくるでしょう。
 今迄分からなかったものが、姿を現わしてくるのです。
 昨日、今日、正法を知ったから、明日悟れるというものでないことは、
あなた方もよく知っている筈です。
 十年、二十年、或いは四十年、五十年掛かるかも知れません。
それでもやっていかねばならないのです。
 まず、悪いことは許さないという気持ちを養いなさい。
 簡単なようですが、今の人類には、それが欠けているのです。
 悪いことは悪い。そうはっきり考えられる力を養いなさい。
 悪いことは悪いと、はっきり片付けられないならば、天も又、姿を現わしてこないでしょう。
 理性も又、養われはしないのです。

 このメッセージから、そういった意味合いを受け取って下されば、
少しは早道になるのでは、と思います。
 メッセージはただ徒に読むものではなく、考えながら読んで下さい。

質問者
 "人を信じる"ということなんですが、"すべての人を信じなさい"ということですか?
解答者
 すべての人を信じるという意味ではなく、
 "人の気持ちの中に持つことが出来る、醜さのない美しい交流や行為を信じなさい"
ということです。
 人間そのものを信じるのではなく、
人間の本質となっている愛を信じなさいということなのです。
 まず、人の愛を信じようと思うならば、自分にもそれを植え付けること。

 そして、もしそういう気持ちを分かろうとするならば、頭の中で考えてはいけません。
 行わなければならないのです。正法の悟りは、考えているだけではいけません。
 正法の悟りは、正法の実践、或いは正法流布によって、強く養われていくからです。
 自分だけに囚われず、他に目を向けなさい。

質問者
 悪いことは悪い。しかし、果してみんなに言えるかどうか。
解答者
 そこは考えなければなりません。
 まず、問題は二つに分かれます。
 今、言わなければならない時であるかということ。
 或いは自分が今、それを発言して、説得力があるかということ、
この二つを考えねばならないのです。
 お解りですか。
 そして自分が今その説得力があるかということも、逃げる心から来ているのであれば、
 逃げる心から来た結論であるならば、勿論それは止めた方が良いでしょう。
 そういう気持ちで行うならば、物事は決していい方には向きません。
 寧ろ、自分は今、まだ表現力が足りないからと言うならば、私達はまだ容認するでしょう。
 時と場合を考えなければなりません。

質問者
 正法に於て、転生輪廻という言葉を使います。
 私達人間が、生まれ変わったり、死んだりということをお知らせ頂いたんですが、
何の為に我々人間は、転生輪廻を繰り返すのか。
 そして又、我々は何の為に、何の目的を持って、転生輪廻を行っているのかということが、
疑問に残っているのですが。
解答者
 あなたは、まだこの集いに参加して間もないですね。
質問者
 今日、初めてです。
解答者
 まだ本も読んでらっしゃらない。
 まず一度、本を読まれてから、それからもう一度お考えになって下さい。
 転生輪廻は、どういうことを言うか、あなたなりの考えは、どうですか?
質問者
 それは、まだよく分からないのです。
 高橋先生の本で知ったのですが、転生輪廻をする目的が分からなくて、質問したのです。
解答者
 それでは話題を替えて、転生輪廻について、お話ししましょう。
 はっきり結論だけを申し上げますが、人間は転生輪廻は致しません。
 天上界の霊が合体霊の形で、指導霊の形で、地上の人間を守護することはありますが、
例えば私ガブリエルが、誰か人間として再び生まれ変わり、
ガブリエルの意識で生き続けることはありません。

 例えば、あなたを例に取りましょう。
 あなたに過去世があるとします。そしたら、あなたはその者の意識を持っていますか。
 あなたはこの生きてきた何十年かの歴史しか、歴史で得た知識と体験しかない筈です。
 そして、あなたが何か物事を判断する場合には、それが基礎になっている筈です。
 もし転生輪廻をするならば、そしてそのような、天上界の霊がそのまま合体し、
そのまま人間として生まれ変わるならば、それが必要であるならば、
あなた方は生まれてきた時に、そのような意識を持っている筈です。
 何故ならば、物事には必然性というものがあり、
必然性に従って、自然界は動いているからです。
 もし私がそのままガブリエルとして、地上にもう一度生まれ、
そしてガブリエルの意識で生き続けるのならば、それは、それなりの必然性があるのでしょう。
 必然性があるから、私はそうなるのですから。
 しかし、今あなた方はそうではありません。
 あなた方は、この地上に生きてて、それぞれ個人の意識でしか生きていない筈です。
 何故個人の意識で生きているのか。それは必然性があるからです。
 自然界のものは皆、必然性に従って生きています。それはお解りですね。
 
 自然界にも輪廻というものがあります。
 自然界の輪廻とはどのようなものを言うのか。
 自然界の輪廻でさえ、同じものが生えることはないのです。
 同じ種類の種子ということはありますが、同じもの(生命体)ということはありません。
 何故同じ種のものが生き続けるのか、環境の下で生き続けるのか、考えたことがありますか。
 輪廻を考える場合は、そこから考えて下さい。
 何故、生き続けているのかということに関わって来るでしょう。
 何故自然界は動いているのか。
 例えば分かり易い例を取れば、海に魚がいます。海草が生えています。海水があります。
 それが一つでも欠けたら、自然界はどうなりますか。バラバラに狂ってしまうでしょう。
 お互いに存在していくということは、お互いが必要となっていることです。
 必要であるが故に、存続していっているのです。それが輪廻の原点です。
 あらゆるものは、永遠に進化し続けねばなりません。永遠に続いていくのです。

 それを輪廻と言います。

 それでは問題を人間に戻しましょう。
 何故人間は輪廻するのか。
 この場合、私達が言う正法の輪廻とは、天上界の者がそのまま生まれ変わり、
その者の意識を持ち、生き続けることではありません。
 もし人間が輪廻する必要がないならば、人間は一世代で途絶えてしまうでしょう。
 何故私達は生き続けているのか、それは人間が必要だからです。
 自然界にとり、人間が必要だということ、或いは人間同士にとり、
お互いが必要だということから来ているのです。

 あらゆるものの根本は、必然性から来ています。
 そうならなければならないから、そうなっているのです。
 原因を突き詰めなければならないということは、そこから来ているのです。

 物事の本質を掴まなければならないとは、どういう事を言うのか、
ここにも繋がってくるのです。
 物事の本質を究めるということは、
どうして物事がそうなったかという必然性を突き止めることにあるのです。

 諸宗教では、人間は輪廻すると言われておりますが、もし仮に、本当に輪廻が大切ならば、
あなた方の意識は、前世の意識をそのまま受け継いでいるでしょう。そうではありませんか。
 自然界のものすべては、必然性に従い、必然が現れるものに従って表出しているのです。
 ここからも転生輪廻は、従来の説は、全く間違っているということが、お解り頂けるでしょう。

 転生輪廻は誤りであるという観点が、もう一つあります。
 人類は、永遠に転生輪廻するならば、
もともと初めとなった霊が、一体いくつあればよいのでしょう。
 GLAで言われていたように、合体霊が六、本体が一であるならば、
現在の何十億人かの人間をどのように表現しますか。
 どのように説明出来るでしょうか。説明出来ない筈です。

 あなた方の一生は、あなた方のものなのです。
 あなた方の地上に於ける一生は、これっきりであり、これにすべてが懸っているのです。
 寧ろ転生輪廻を言うならば、それは私達がお互いを必要としていることを言います。
 だから人類は、生まれ続けていくのです。増え続けていくのです。
そして進化し続けなければいけません。

 人類の進化とは、如何なることを言うのでしょうか。
 それは最もより良い方法で、そして、最も摩擦が少ない方法で、

最も皆が幸せになれる方法で、社会を営んでいくということです。
 それを人類の進化と言います。
 武器によらず、平和を生み出していく方法、
武器を取らずに、お互いの意見を尊重していく方法、それを意味します。
 しかし、ここで言う武器を取らないということは、
非武装中立のことを言うのではありません。
 戦うべき相手には戦わなければならないのです。そうしなければ生存は危いでしょう。
 自然界のものは、皆自分の身を守るのに武器を持つように、

人類も又、人間間に於て、論理が通らぬ相手とは、戦わなければならないのです。
 何故ならば、正しい意見を持っていようとも、

滅ぼされてしまったならば、何の役に立つでしょうか。
 武器を持って来る相手に、言葉が通じるでしょうか。よくご存じの筈です。

 そうではありませんか。

 人間は進化していかなければなりません。ということはどういうことを言うのか。
 より良い社会を営むということは、どういうことを言うのか。
 お互いに相手の気持ちを汲み取るということです。
 相手の気持ちを汲み取るには、まず自分を見詰めなければなりません。
 欲望を少なくしていくのも、その一つの方法です。
 正法が他人の幸せを望むということは、人類の進化を意味しているのです。
 お分かりでしょうか。
 先程の方、転生輪廻の意味がお解りでしょうか。

質問者
 そうすると、私達は今の自分のみであって、その次というものはない、ということですか。
解答者
 その次は、合体霊、守護霊の形で、地上に再び戻ってくることがあるでしょう。
 その時に、自分の何十年かの間に得た知識や体験が人を守護する時に、役立つのです。
 確かに、自分に過去世があったと思う方が、あなた方はロマンを感ずるかも知れません。
 夢を感ずるかも知れません。ですが、実際はそうではないのです。
 それは、先程も申しましたように、
 もし、転生輪廻が必然であるならば、天上界の霊がその者の意識を持ち、
人体に宿るならば、あなた方はその意識を持って、生き続けるでしょう。
 そうでないことからも、転生輪廻はそのようなことではないのです。
 お解り頂けたでしょうか。
 そのような過去世を持たずとも、たとえ華々しい過去世があったにせよ、
自分が今そうでないならばどうなりますか。何の関係がありますか。
 自分が今生きているのは、この環境なのです。自分の今の社会状況なのです。
 自分の家庭環境なのです。
 ならば過去世に囚われるよりも、自分の今の生活を改善しようとする方が、
賢いではありませんか。
 過去世に逃げていてはいけません。合体霊に囚われていては、いけないのです。
 さて、次に質問はありませんか。

質問者
 必然性ということなんですけども、自らの必然性、要するに他人との関り合いとか、
社会の中の必然性に目覚めることが、自我の目覚めということなのですか?
解答者
 そういう意味でもあります。
 自我に目覚めるということは、どういう事をいうのか。もう一度考えて下さい。
 この場で聞いたことは、この場で忘れてしまわずに、家に帰ってからよく考えて下さい。
 集いの場だけで考えるのではなく、折に触れ考えるようにして下さい。
 賢くなるとはそういう道筋をいいます。
 決して愚か者のままでは、生きていけないのです。
 あなた方もその方が、より良く社会に適応出来、より良く生きていくことが出来るでしょう。
 自分をごまかさずとも、生きていける方法があるのです。
質問者
 "慈悲を掛けざるを得なかった"という言葉がありましたが、
慈悲もやはり出所は、愛と考えて宜しいのでしょうか。
解答者
 勿論です。寧ろ、愛というふうに、大きく捉えなくとも、
慈悲は理性から出るものでなければなりません。
 感情から出るものであってはならないのです。理性とは如何なるものを言うのか。
 繰り返しますが、何故そうなったのか、何故自分はこう思うのか、
そういう気持ちを突き詰めていき、原因が分かった所を、理性と言うのです。
 そういう理性から出た気持ち、そこから出るものを慈悲と言うのです。
 慈悲は理性から出るものです。

 人にものを与える時は、考えなければならないと、よく言われますが、
それはこういう所から来ているのです。
 その人の為に、益となるならばやってあげなければなりませんが、
今、自分がやってあげたいと思う気持ちだけならば、いけません。

 それは自己満足に過ぎないのです。
 自己満足を重ねていくならば、やがて大きな偽我が育つでしょう。
 詰り、自分の気に入ったことはやるが、

 気に入らないことはやらないという人間になってしまうからです。

質問者
 心の中に満たされないものがある、そういう満たされない心が、
すべての自己主張、或いは偽我の根本になるのですが、私達はそういった人に勘づいて、
少なくともその人自身で満たしていくようにやらなければならないのですね。
解答者
 はい。
質問者
 こういう所が足りないという所を、補ってあげようと思うのは、
優しさであり、慈悲に結び付いていくものなんですか。
解答者
 そうです。何故その人が足りなかったのか。足りない所を、行動で補うのではありません。
 忠告で補ってあげなければならないのです。
質問者
 本人に気付かせるということですか。
解答者
 そうです。何故その人は失敗したのか。そこを気付かせてあげるのが優しさです。
 決して失敗したことを、直接補ってやることが優しさではありません。
 それではその人は、成長しないでしょう。
質問者
 "適切さを以て、影響し続けます"という所ですが、適切さというのが解り難いのですが、
もう少し具体的に教えて下さい。
 中庸というのは解るのですが、その場に応じての適切さというのは?
解答者
 適切さというのは、如何なることをいうのかと申しますと、
その前にも書かれておりますように、何故その物事が、そうなったかを考え、
原因が解った時に、原因が解ったならば、解決策が分かる筈です。
 それを適切(な方法)といいます。
 その(解決への)やり方を中庸(による)というのであって、
決してその方法(解決策)をいうのではないのです。
 適切さが分かったというのは、方法が分かったというのです。
 何でも物事が分からない場合、何故分からないのかは、考える方法が分からないからです。
 解決する方法が分からないからです。原因が分らないからです。
 何故その物事が起こったか、その原因が分らないからです。お判りでしょうか。

 何も難しい問題に限ったことではありません。
 あなた方の日常生活に於て、些細な問題は幾らでもあるでしょう。
 そういった事で、練習していって下さい。
 常に考えること。
 何故自分は納得できないか、それを繰り返し考えるのです。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法