「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」34頁掲載)

 時折千乃様に来るお手紙に、正法者の男女間の愛に対する考え方について、
正しい態度を教示してほしいという内容のものがあります。

 「天国の扉」第三章に於て、ミカエル様により愛の定義がなされ、
エロスの愛とアガペーの愛について説かれていますが、
正法者がまず学ぶのは神の愛、即ちイエス様の人類の罪を贖う愛、
他者の為に己を犠牲にする愛、
の尊さについてなのです。

 その素晴らしさは次の一言に尽きます。

 "人その友の為に己の命を棄つ。これより大いなる愛はなし

 昔から聖人と言われる人はすべて、
その愛を神々の導きにより三次元の人々に示してきました。
 それはまことに精神美の極致ともいうべき昇華された愛の形であって、
人は誰でもこのような愛を受ける時、自らの心も清められ、
同じアガペーの愛の心を会得し、それを行おうと念ずるのです。

 この愛は友情にも、親子の繋がりにも、兄弟姉妹の絆にも、
又見知らぬ他人同士の間にも見出し得るものであり、実現し得るものでもあります。
 従来のキリスト教に於ては他者への愛の絶対的な形、
それには志を同じくせぬ者や愚者や悪人への愛をも含めた、
利己愛を完全に抜け出たものとして解釈されてきました。
 これは仏教の慈悲の心と相通ずるものがあり、
"衆生済度"の教えと源を同じくするものでしょう。

 このような神の愛が利他的な、自己犠牲的な愛であることを学び、
正法者はそれを絶対的基盤とし、男女の愛即ちエロスの愛については如何、
と心迷うものとなります。
 アガペーの愛に通ずるプラトニックな愛でなければならぬ。
 それ以下のものは罪と見做されるのではないかと戸惑うことになるのです。

 それは正しくはありません。
 イエス様でさえ"自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ"と言われているのです。
 自分を愛する愛は利己的な愛であり、本能的な愛です。
 アガペーではない。フィリアといった友愛でもありません。
 そしてこの自己への愛が精神的な成長と昇華によって他者への愛、即ちアガペーとなるのです。
 詰り、本能の愛を知らねばプラトニックな愛もアガペーの愛も生まれてきません。

 ましてや男女の正常な人間としての愛は、本能と理性のバランスを保ち、
互いの人格を尊重し、思い遣りと奉仕の気持ち、即ちアガペーの精神を持ち、
しかもエロスの愛をも認めるものでなくては

人間の心身の健全さを保つ上に於て障害となるのです。
 人間は精神のみでなく身体をも持つものであることを忘れてはなりません。

 ピューリタンのような(清教徒的)厳格な愛は、
自然に湧き出るエロスの愛を不自然に押さえ付け、
その結果反動として二倍の強さの本能の衝動を耐えねばならなくなります。
 そしてそれを律するのに同じ強さの厳格な掟を以て身を縛らねばならない。

 厳格な人というのは往々にして、エロスの愛を認めず、
道徳は禁欲主義であるといった歪んだ解釈をしています。
 それ故に自らを掟で縛り、他を律し、精神の自由な広がりと健康な人生観を超えて
苦行僧の苦しみを意識下に於て味わっているのです。

 私は、快楽主義を奨めるものではありません。
 しかしすべてに於て正法者は中道を行く心構えを身に付けるべきだと言いたいのです。
 詰り、精神主義に偏り過ぎず、肉体の快楽のみを求めるものでもなく、
"中庸"が精神と身体の健康のバロメーターであることを常に念頭に於て、
男女の愛というものも見て頂きたい。

 又、これと同じことが仕事とレクリエーションの関係にもあるということを
お教えしたいと思います。
 勉学についても同じです。
 知的な職に就いていればいる程、気分転換の為の工夫が必要となります。
 又、絶えざる労働からの解放である休息も必要となります。
 それをしなければ、精神と肉体は緊張の毎日のみを強いられることになり、
疲労度が増してきて、遂にはストレス蓄積から心の病、身体の病に罹ることになり、
健康回復に時間が掛かり、勉学を断念、職業や仕事を放棄しなければならなくなるのです。

 反面、遊びや怠けるだけの生活であっても、正業に就くことが厭になり、
社会に適応出来なくなります。
 そうならない為に、日頃から心身の健康を保つ為一つの事のみを偏って行わず、
一つの考えのみに囚われず、心身の両面を理解して賢明に身を処してゆくことが、
安定した円満な人格を形作る
のに役立つことは言うまでもないでしょう。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法