現象テープ№33 「天上界による質疑応答(慈悲について)」
81年9月13日 ガブリエル様現象(霊媒 土田展子)
質問者:講演会場の参加者
解答者:ガブリエル様
(機関紙「希望と愛と光」81年9月号掲載の天上界メッセージの内容に伴う読者からの質問に、
現象講演でガブリエル様自ら解説されました。)
質問の対象となった天上界メッセージの内容
「希望と愛と光」81年9月号 ガブリエル様のメッセージ(慈悲について)全文
「慈悲についてお話ししましょう。
愛が献身の姿を取って現れる時、哀れみは慈悲の衣を纏います。
愛はその現れに於て両極端な形を示します。
執着なきものがアガペーの愛、執着の権化がエロスの愛です。
アガペーの愛が何故与える愛で、エロスの愛が奪うのみなのか、考えたことがありますか。
与えるとは如何なる意味か、奪うのみとは如何なるものか。
与えるというのは文字通り具体的に何かを与えるということではなく、
その中には待つこと、見ること、守ること、足らぬ所を補うこと、を含みます。
それらを為した上で相手の中から良所を引出し、長所を伸ばすことが出来るのです。
そのような愛は留まることを知らず、必然性と適切さを以て働き、影響し続けます。
自らも又同時に成長を続けるのです。
ちょうど宇宙の法則が破れることなく一定の方向に向って運航しているように。
奪うのみの愛は、自己に対する不安から来ます。
自己に安定した支柱なき故に、他に対して安心出来るものを求める結果なのです。
アガペーの愛は与える者にも、受ける者にも何らかの支柱があった場合に、
調和と均衡を齎します。
その支柱とはなんでしょうか。
神 ー すべての執着や欺瞞を捨て去った形の真理 ー を求め信じる心、
少なくとも、醜さのない美しい交流や行為を信じることが出来る心です。
そして行おうとする意志があることです。
安定した支柱なき者は、ザルに水を注ぐが如きです。
慈悲は哀れみの心から来るものですが、
それは重さや暗い涙を伴うものであってはなりません。
慈悲魔と呼ばれる執着は、人を最も愚かにします。
奪うのみの愛が不安定な心から来るなら、無差別の慈悲は優しい心からというよりも、
弱い心から来るものです。
心弱さも又、自らに支柱なき故にそうなるのでしょう。
慈悲を掛け過ぎるのは、貪欲に人の愛情を貪る姿の裏の形に過ぎません。
出所は同じなのです。
あなたは、心に支柱がありますか。
人を信じることが出来ますか。
(八十一年七月二十三日 口述筆記 土田展子)」
現象テープ№33 「慈悲について」
質問者
"自己に安定した支柱"ということですが、それは自らを信じ切れるということですか?
自らの良心を信じ切れる心ということですか?
解答者
そのような意味もありますし、その前にもあるように、少なくとも、
醜さのない美しい交流や行為を信じることが出来ること。
そして行おうとする意志があることです。
そして考えなければならないのは、何故そのような心を自分は持つことが出来ないのか、
突き詰めて考えなければならないのです。
まず、アガペーの愛について考えましょう。
アガペーの愛が何故与える愛で、エロスの愛が奪うのみなのか、とありますが、
まず、与えるとは如何なる意味か、奪うとは如何なるものかと考える場合に、
もう一つ考えることがあります。
何故自分は与えたいと思うようになったのか。
或いは、何故自分は奪う気持ちとしかならないのか、それを考えなけれがなりません。
何故自分は奪うのみになってしまったのか。
奪うということはどういうことか解りますか。
自己なきが故に、奪わざるを得ないのです。
人間の本質は、愛に根差しています。
愛によって生かされており、愛がなければ生きていけません。
愛がなければ、人は決して安らぎを覚えないでしょう。
であるが故に、愛を求める時、人は奪うような形になってしまうのです。
何故愛を奪うようにして得なければならないのか、お解りですか。
答えがあるように、自己に対する不安から来るのです。
何故不安なのか、何故不安になってしまったのか、そこを考えなければなりません。
或いは寂しいと思った時、どうしようもなく寂しい時があるでしょう。
そのような時、何故自分は寂しいと思ったのか、
何故そのような気持ちに自分はなったのかを考えなければなりません。
与えるとは如何なる意味か。
或いはこれはこう言い換えることも出来るのです、
何故与えたいと思うようになったのか。
そして気持ちの表出に於ても、二つは違った意味合いを持つでしょう。
与える時には、穏かで静かな形で与えようとします。
奪う時には激しさを伴うでしょう。何故か解りますか。
それは、この中にもあるように、
待つこと、見ること、守ること、足らぬ所を補うことが、含まれているからです。
何故待ったり、見たり、守ったり、足らぬ所を補ったりするのでしょう。
何故かお解りですか。
それは、相手の成長を望むからです。
相手の幸せを望み、相手が幸せになるように、そう望むからです。
人には時期があります。
先程申しましたように、人は時期を見て、言わねばなりません。
性格を見てやらねばなりません。
そうであるが故に、愛は待つことをしなければならないのです。
又その人の性格を見なければならないでしょう。
或いはその人が不安に戦(おのの)いている時に、守ってやらねばなりません。
その人が無知である時、守らねばならないのです。
或いはその人が一生懸命であるのに、何か行動が一つ足らない所、
そういう所も補ってやらねばなりません。
愛は、与えなければならない時は、その人が愛を受くるに相応しい時、
その人が奪うように愛を貪るのではなく、愛を自分に生かそうとする時です。
又、愛を受ける者は、必死に自分を成長させようとしますし、
相手にも返そうとするでしょう。
そんなことを言うのです。
こういう例は如何でしょう。
よく子供の中でも、あれが欲しい、これが欲しいと駄々をこねる子が沢山います。
何故、その子供は駄々をこねるのか。何故、執拗に欲しがるのか。
もし母親と父親の愛情が、ふんだんに注がれている子供ならば、
適切に注がれている子供ならば、決してそうは言わないでしょう。
余り物を欲しがる子供にはなりません。
何故そのように物を欲しがる子供になるのか。
駄々をこねるようになるのか。我が儘を言うようになるのか。
気持ちの中に、満たされないものがあるからです。
何故その子供には満たされるものがないのか。
これは、大人の場合でも、子供の場合でも同じです。
何故自分は満たされないのか。何故彼は満たされないのか。何故彼女は不安でいるのか。
どういう気持ちから来るか、解りますか。
それは自分が、人から認められていないのではないかという心、
愛されていないのではないかという心から来るのです。
たとえその人が誰かから愛されているとしても、
その人は愛されていないと思えば、そう思うでしょう。
何故そのように思うのでしょうか。
それはここにもあるように、醜さのない美しい交流や行為を、
信じることが出来ないでいるからです。
それ故に、"安定した支柱なき者は、ザルに水を注ぐが如き"と言うのです。
幾ら愛を与えても、幾ら気持ちを掛けてやっても、
その人は決してそれに報いることはないでしょう。
そして、掛ければ掛ける程、もっともっとと、欲しがるでしょう。
そういうものを言うのです。
それは先程の理性の話にも繋がり、自分で自分を直していこうとする者に対しては、
メッセージは速やかに通っていくでしょう。
ですが、自分を守ろうとする者、醜い部分を隠そうとする者にとっては、
中々そうは行きません。メッセージは跳ね返るものとしかならないでしょう。
それが積み重なった時に、天は怒りを覚え、その者に怒りを落とす時に、
その者は背反していくのです。お解りでしょうか。
"自己に安定した支柱なき者"は、愛を信じられないでいる人です。
そして自分を守ろうとする心、
自分を安楽に生かしてくれようとするものだけを求める者を言うのです。
しかし人間はそうであってはいけません。
愛を受けたならば、愛を返さなければならないのです。
物事は絶えず循環しております。
自然界がそうであるように、私達の気持ちも又、そうでなければならないのです。
その次に、
"奪うのみの愛が不安定な心から来るのならば、
無差別の慈悲は、優しい心からというよりは、弱い心から来るのです。"
ここはどうお考えになりますか。
"心弱さも又、自ら支柱なき故に、そうなるのでしょう。"と、あります。
私達は何千年もの歴史の中で、こういった善人を数多く見てきました。
何故彼等は慈悲魔と呼ばれ、他人から踏み付けにされても、
人に慈悲を掛けることを、厭わなかったのか。
何故そうせずには、いられなかったか。
慈悲を掛けるに値しない者にまで、慈悲を掛けてしまうことが、
どうしても止められなかったか。
お解りになるでしょうか。
どうしても慈悲を掛けずにはいられなかった。
その人の弱い心を見て、助けざるを得なかった。
或いはその人が自分で怠けているから、そういった状況になった時に於てさえ、
助けざるを得なかった。
それはどういう気持ちを言うのでしょうか。
苦しみに対して免疫がないのです。
苦しみに対して、耐えることを知らないからです。
耐えることを厭うが故に、慈悲魔になってしまったのでした。
確かに、かわいそうな者を見た時、どういう原因で、その人がそうなったのであれ、
簡単に慈悲を掛ける方が、本当に簡単です。
しかし、そうしてならないのは、どういう意味か。
相手の成長を願うならば、安易に慈悲を掛けるものではないのです。
あくまでもその人が自分で考え、自分で立ち直り、
自分で生きるようにしなければならないからです。
慈悲魔が最も愚かと言われるのは、そういう意味からなのです。
人を最も愚かにするのは、こういう所から来るのです。
自分で考えることが出来る故に、自分で思って怠けることは幾らでも出来ます。
そうしてはいけないが故に、思うばかりではいけないが故に、考えなければならないのです。
考えるとは如何なることを言うのか。
理性を持つことです。
理性を持つとは如何なることを言うのか。
執着から離れることです。
執着から離れるとは如何なることを言うのか。
自分に安易な方法を許さないということです。
正しく生きなければならないということです。
正しく生きるということはこれ程、辛く難しいことはありません。
しかし人の幸せを願うならば、そして自分にも安定を望むならば、
そうしなければならないのです。
苦しみを背負ったまま歩いていくならば、何時迄もごまかすことは出来るでしょう。
苦しみをごまかすことは出来るのです。
しかしごまかしていては、何の解決になるでしょうか。
ごまかしは何の解決にもなりません。成長を促すこともないのです。
あなた方は愚か者のままで一生を送らなければならない。それでいいのでしょうか。
同じ苦しみを何十年も背負い、同じ悩みを何年間も続ける、そんな一生が楽しいでしょうか。
たとえ一時期は苦しいにせよ、厳しいにせよ、辛いと思うにせよ、
その後のことを考えれば、これ程楽しいことはありません。
賢人とはそのような人を言うのです。
まずあなた方が、賢くなろうと思うならば、人間を美しいものだと思うこと。
美しい行為をすることが出来るのだ、美しい交流のみで、気持ちの上で、行為の上で、
すべて統一された美しい気持ちでいることが出来るのだということを信じること。
それを信じるにはどうしたらよいのか。
人の行動を見るよりも、まず自分の気持ちの中にそういうことを育てなさい。
そうでなければ、容易く信じることは出来ないでしょう。
自分の心の中に、そういう気持ちを養いなさい。
少なくとも養おうと努力するのです。
そしてそういう気持ちが養えた時に、そこから出る慈悲は本物であり、
人を救い、人を暖かい気持ちにするでしょう。
愛とは如何なるものか。
中々それを掴む人は少ないのですが、
あなた方はせめて死ぬまでに一度はそういう気持ちを掴んで下さい。
これが愛だと掴んだ時に、すべてのものは姿を明かにしてくるでしょう。
今迄分からなかったものが、姿を現わしてくるのです。
昨日、今日、正法を知ったから、明日悟れるというものでないことは、
あなた方もよく知っている筈です。
十年、二十年、或いは四十年、五十年掛かるかも知れません。
それでもやっていかねばならないのです。
まず、悪いことは許さないという気持ちを養いなさい。
簡単なようですが、今の人類には、それが欠けているのです。
悪いことは悪い。そうはっきり考えられる力を養いなさい。
悪いことは悪いと、はっきり片付けられないならば、天も又、姿を現わしてこないでしょう。
理性も又、養われはしないのです。
このメッセージから、そういった意味合いを受け取って下されば、
少しは早道になるのでは、と思います。
メッセージはただ徒に読むものではなく、考えながら読んで下さい。
質問者
"人を信じる"ということなんですが、"すべての人を信じなさい"ということですか?
解答者
すべての人を信じるという意味ではなく、
"人の気持ちの中に持つことが出来る、醜さのない美しい交流や行為を信じなさい"
ということです。
人間そのものを信じるのではなく、
人間の本質となっている愛を信じなさいということなのです。
まず、人の愛を信じようと思うならば、自分にもそれを植え付けること。
そして、もしそういう気持ちを分かろうとするならば、頭の中で考えてはいけません。
行わなければならないのです。正法の悟りは、考えているだけではいけません。
正法の悟りは、正法の実践、或いは正法流布によって、強く養われていくからです。
自分だけに囚われず、他に目を向けなさい。
質問者
悪いことは悪い。しかし、果してみんなに言えるかどうか。
解答者
そこは考えなければなりません。
まず、問題は二つに分かれます。
今、言わなければならない時であるかということ。
或いは自分が今、それを発言して、説得力があるかということ、
この二つを考えねばならないのです。
お解りですか。
そして自分が今その説得力があるかということも、逃げる心から来ているのであれば、
逃げる心から来た結論であるならば、勿論それは止めた方が良いでしょう。
そういう気持ちで行うならば、物事は決していい方には向きません。
寧ろ、自分は今、まだ表現力が足りないからと言うならば、私達はまだ容認するでしょう。
時と場合を考えなければなりません。
質問者
正法に於て、転生輪廻という言葉を使います。
私達人間が、生まれ変わったり、死んだりということをお知らせ頂いたんですが、
何の為に我々人間は、転生輪廻を繰り返すのか。
そして又、我々は何の為に、何の目的を持って、転生輪廻を行っているのかということが、
疑問に残っているのですが。
解答者
あなたは、まだこの集いに参加して間もないですね。
質問者
今日、初めてです。
解答者
まだ本も読んでらっしゃらない。
まず一度、本を読まれてから、それからもう一度お考えになって下さい。
転生輪廻は、どういうことを言うか、あなたなりの考えは、どうですか?
質問者
それは、まだよく分からないのです。
高橋先生の本で知ったのですが、転生輪廻をする目的が分からなくて、質問したのです。
解答者
それでは話題を替えて、転生輪廻について、お話ししましょう。
はっきり結論だけを申し上げますが、人間は転生輪廻は致しません。
天上界の霊が合体霊の形で、指導霊の形で、地上の人間を守護することはありますが、
例えば私ガブリエルが、誰か人間として再び生まれ変わり、
ガブリエルの意識で生き続けることはありません。
例えば、あなたを例に取りましょう。
あなたに過去世があるとします。そしたら、あなたはその者の意識を持っていますか。
あなたはこの生きてきた何十年かの歴史しか、歴史で得た知識と体験しかない筈です。
そして、あなたが何か物事を判断する場合には、それが基礎になっている筈です。
もし転生輪廻をするならば、そしてそのような、天上界の霊がそのまま合体し、
そのまま人間として生まれ変わるならば、それが必要であるならば、
あなた方は生まれてきた時に、そのような意識を持っている筈です。
何故ならば、物事には必然性というものがあり、
必然性に従って、自然界は動いているからです。
もし私がそのままガブリエルとして、地上にもう一度生まれ、
そしてガブリエルの意識で生き続けるのならば、それは、それなりの必然性があるのでしょう。
必然性があるから、私はそうなるのですから。
しかし、今あなた方はそうではありません。
あなた方は、この地上に生きてて、それぞれ個人の意識でしか生きていない筈です。
何故個人の意識で生きているのか。それは必然性があるからです。
自然界のものは皆、必然性に従って生きています。それはお解りですね。
自然界にも輪廻というものがあります。
自然界の輪廻とはどのようなものを言うのか。
自然界の輪廻でさえ、同じものが生えることはないのです。
同じ種類の種子ということはありますが、同じもの(生命体)ということはありません。
何故同じ種のものが生き続けるのか、環境の下で生き続けるのか、考えたことがありますか。
輪廻を考える場合は、そこから考えて下さい。
何故、生き続けているのかということに関わって来るでしょう。
何故自然界は動いているのか。
例えば分かり易い例を取れば、海に魚がいます。海草が生えています。海水があります。
それが一つでも欠けたら、自然界はどうなりますか。バラバラに狂ってしまうでしょう。
お互いに存在していくということは、お互いが必要となっていることです。
必要であるが故に、存続していっているのです。それが輪廻の原点です。
あらゆるものは、永遠に進化し続けねばなりません。永遠に続いていくのです。
それを輪廻と言います。
それでは問題を人間に戻しましょう。
何故人間は輪廻するのか。
この場合、私達が言う正法の輪廻とは、天上界の者がそのまま生まれ変わり、
その者の意識を持ち、生き続けることではありません。
もし人間が輪廻する必要がないならば、人間は一世代で途絶えてしまうでしょう。
何故私達は生き続けているのか、それは人間が必要だからです。
自然界にとり、人間が必要だということ、或いは人間同士にとり、
お互いが必要だということから来ているのです。
あらゆるものの根本は、必然性から来ています。
そうならなければならないから、そうなっているのです。
原因を突き詰めなければならないということは、そこから来ているのです。
物事の本質を掴まなければならないとは、どういう事を言うのか、
ここにも繋がってくるのです。
物事の本質を究めるということは、
どうして物事がそうなったかという必然性を突き止めることにあるのです。
諸宗教では、人間は輪廻すると言われておりますが、もし仮に、本当に輪廻が大切ならば、
あなた方の意識は、前世の意識をそのまま受け継いでいるでしょう。そうではありませんか。
自然界のものすべては、必然性に従い、必然が現れるものに従って表出しているのです。
ここからも転生輪廻は、従来の説は、全く間違っているということが、お解り頂けるでしょう。
転生輪廻は誤りであるという観点が、もう一つあります。
人類は、永遠に転生輪廻するならば、
もともと初めとなった霊が、一体いくつあればよいのでしょう。
GLAで言われていたように、合体霊が六、本体が一であるならば、
現在の何十億人かの人間をどのように表現しますか。
どのように説明出来るでしょうか。説明出来ない筈です。
あなた方の一生は、あなた方のものなのです。
あなた方の地上に於ける一生は、これっきりであり、これにすべてが懸っているのです。
寧ろ転生輪廻を言うならば、それは私達がお互いを必要としていることを言います。
だから人類は、生まれ続けていくのです。増え続けていくのです。
そして進化し続けなければいけません。
人類の進化とは、如何なることを言うのでしょうか。
それは最もより良い方法で、そして、最も摩擦が少ない方法で、
最も皆が幸せになれる方法で、社会を営んでいくということです。
それを人類の進化と言います。
武器によらず、平和を生み出していく方法、
武器を取らずに、お互いの意見を尊重していく方法、それを意味します。
しかし、ここで言う武器を取らないということは、
非武装中立のことを言うのではありません。
戦うべき相手には戦わなければならないのです。そうしなければ生存は危いでしょう。
自然界のものは、皆自分の身を守るのに武器を持つように、
人類も又、人間間に於て、論理が通らぬ相手とは、戦わなければならないのです。
何故ならば、正しい意見を持っていようとも、
滅ぼされてしまったならば、何の役に立つでしょうか。
武器を持って来る相手に、言葉が通じるでしょうか。よくご存じの筈です。
そうではありませんか。
人間は進化していかなければなりません。ということはどういうことを言うのか。
より良い社会を営むということは、どういうことを言うのか。
お互いに相手の気持ちを汲み取るということです。
相手の気持ちを汲み取るには、まず自分を見詰めなければなりません。
欲望を少なくしていくのも、その一つの方法です。
正法が他人の幸せを望むということは、人類の進化を意味しているのです。
お分かりでしょうか。
先程の方、転生輪廻の意味がお解りでしょうか。
質問者
そうすると、私達は今の自分のみであって、その次というものはない、ということですか。
解答者
その次は、合体霊、守護霊の形で、地上に再び戻ってくることがあるでしょう。
その時に、自分の何十年かの間に得た知識や体験が人を守護する時に、役立つのです。
確かに、自分に過去世があったと思う方が、あなた方はロマンを感ずるかも知れません。
夢を感ずるかも知れません。ですが、実際はそうではないのです。
それは、先程も申しましたように、
もし、転生輪廻が必然であるならば、天上界の霊がその者の意識を持ち、
人体に宿るならば、あなた方はその意識を持って、生き続けるでしょう。
そうでないことからも、転生輪廻はそのようなことではないのです。
お解り頂けたでしょうか。
そのような過去世を持たずとも、たとえ華々しい過去世があったにせよ、
自分が今そうでないならばどうなりますか。何の関係がありますか。
自分が今生きているのは、この環境なのです。自分の今の社会状況なのです。
自分の家庭環境なのです。
ならば過去世に囚われるよりも、自分の今の生活を改善しようとする方が、
賢いではありませんか。
過去世に逃げていてはいけません。合体霊に囚われていては、いけないのです。
さて、次に質問はありませんか。
質問者
必然性ということなんですけども、自らの必然性、要するに他人との関り合いとか、
社会の中の必然性に目覚めることが、自我の目覚めということなのですか?
解答者
そういう意味でもあります。
自我に目覚めるということは、どういう事をいうのか。もう一度考えて下さい。
この場で聞いたことは、この場で忘れてしまわずに、家に帰ってからよく考えて下さい。
集いの場だけで考えるのではなく、折に触れ考えるようにして下さい。
賢くなるとはそういう道筋をいいます。
決して愚か者のままでは、生きていけないのです。
あなた方もその方が、より良く社会に適応出来、より良く生きていくことが出来るでしょう。
自分をごまかさずとも、生きていける方法があるのです。
質問者
"慈悲を掛けざるを得なかった"という言葉がありましたが、
慈悲もやはり出所は、愛と考えて宜しいのでしょうか。
解答者
勿論です。寧ろ、愛というふうに、大きく捉えなくとも、
慈悲は理性から出るものでなければなりません。
感情から出るものであってはならないのです。理性とは如何なるものを言うのか。
繰り返しますが、何故そうなったのか、何故自分はこう思うのか、
そういう気持ちを突き詰めていき、原因が分かった所を、理性と言うのです。
そういう理性から出た気持ち、そこから出るものを慈悲と言うのです。
慈悲は理性から出るものです。
人にものを与える時は、考えなければならないと、よく言われますが、
それはこういう所から来ているのです。
その人の為に、益となるならばやってあげなければなりませんが、
今、自分がやってあげたいと思う気持ちだけならば、いけません。
それは自己満足に過ぎないのです。
自己満足を重ねていくならば、やがて大きな偽我が育つでしょう。
詰り、自分の気に入ったことはやるが、
気に入らないことはやらないという人間になってしまうからです。
質問者
心の中に満たされないものがある、そういう満たされない心が、
すべての自己主張、或いは偽我の根本になるのですが、私達はそういった人に勘づいて、
少なくともその人自身で満たしていくようにやらなければならないのですね。
解答者
はい。
質問者
こういう所が足りないという所を、補ってあげようと思うのは、
優しさであり、慈悲に結び付いていくものなんですか。
解答者
そうです。何故その人が足りなかったのか。足りない所を、行動で補うのではありません。
忠告で補ってあげなければならないのです。
質問者
本人に気付かせるということですか。
解答者
そうです。何故その人は失敗したのか。そこを気付かせてあげるのが優しさです。
決して失敗したことを、直接補ってやることが優しさではありません。
それではその人は、成長しないでしょう。
質問者
"適切さを以て、影響し続けます"という所ですが、適切さというのが解り難いのですが、
もう少し具体的に教えて下さい。
中庸というのは解るのですが、その場に応じての適切さというのは?
解答者
適切さというのは、如何なることをいうのかと申しますと、
その前にも書かれておりますように、何故その物事が、そうなったかを考え、
原因が解った時に、原因が解ったならば、解決策が分かる筈です。
それを適切(な方法)といいます。
その(解決への)やり方を中庸(による)というのであって、
決してその方法(解決策)をいうのではないのです。
適切さが分かったというのは、方法が分かったというのです。
何でも物事が分からない場合、何故分からないのかは、考える方法が分からないからです。
解決する方法が分からないからです。原因が分らないからです。
何故その物事が起こったか、その原因が分らないからです。お判りでしょうか。
何も難しい問題に限ったことではありません。
あなた方の日常生活に於て、些細な問題は幾らでもあるでしょう。
そういった事で、練習していって下さい。
常に考えること。
何故自分は納得できないか、それを繰り返し考えるのです。
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様